ヨエル書

 

 

「酔いしれる者よ、目を覚ませ、泣け。酒におぼれる者よ、皆泣き叫べ。泡立つ酒はお前たちの口から断たれた。」 ヨエル書1章5節

 

 本日から、ヨエル書を読み始めます。ヨエルとは「主(ヤハウェ)は神である」という意味の名前です。旧約聖書中にヨエルと呼ばれる人物は、十数名います。勇士、祭司、レビ人など様々ですが(サムエル記上8章2節、歴代誌上4章35節、5章4節、6章36節など)、預言者ヨエルについては、ヨエル書に記されている彼の父親の名がベトエルということ以外、ほとんど何も分かりません。

 

 最近の研究では、紀元前515年ごろ、つまりバビロン捕囚後の比較的早い時期、エルサレム第二神殿が完成した頃に、その周辺で活動した預言者ではないかと考えられているようです。しかし、これについて確実なことは何も言えません。

 

 ただ言えることは、1節の言葉から、ヨエルは預言者であり、ヨエル書は預言者ヨエルに臨んだ主の言葉であるということです。ですから、この書から学ぼうとする者は、現在、自分のいる場所に向けて語られた主なる神の言葉として、それを聴くことになります。

 

 ヨエル書の中心主題は「主の日」です。この短い預言書の中に何度も登場してきます。「主の日」は、主なる神に背いて悪を行う人々、民族に主の裁きが下り、それを通して神の義による支配が確立する日という意味で用いられます。ヨエルが何をもって「主の日」のしるしと考えているのかを読み解くことが、その預言を解釈する上で重要な鍵となります。 

 

 ヨエルは、長老や全住民に呼びかけて、「あなたたちの時代に、また、先祖の時代にも、このようなことがあっただろうか」(2節)と問い、そしてそのことを子々孫々に語り伝えよと告げます(3節)。 

 

 それは、かみ食らうイナゴ(ガーザーム)、移住するイナゴ(アルベー)、若いイナゴ(イェレク)、食い荒らすイナゴ(ハーシール)という4種類のイナゴによって、農作物が被害を受けたということです(4節)。

 

 この4種類のイナゴについて、種類の違いなのか、卵から成虫になるまでの成長段階を示しているのか、議論されているようですが、決め手はありません。ただ、農作物がイナゴによって繰り返し壊滅的打撃を受けたのは、確実です。

 

 冒頭の言葉(5節)は、酒に酔い痴れている者、酒に溺れる者に呼びかけた言葉です。ヨエル書が「酔える者たち」に呼びかけているのは、面白い洒落だといってすませられることではありません。主なる神は彼らに、「目を覚ませ、泣け」と命じられます。

 

 それは、強大で数知れない大軍が雄獅子、雌獅子のようにイスラエルに攻め上って来るからであり(6節)、イスラエルを象徴するぶどうの木、いちじくの木を食い荒らしてしまうからです(7節)。

 

 もしかすると、ヨエルの時代、多量に酒を飲み、酔いしれる人々が少なからずいたということが、その背後にあるのかも知れません。13節で祭司に呼びかけて、「献げ物の穀物とぶどう酒は、もはやあなたたちの神の宮にもたらされることはない」と語られていることから、5節で酒に酔い痴れ、酒に溺れているのは、あるいは、この祭司たちのことではないかとも思われます。

 

 8節で「泣き悲しめ、いいなずけに死なれて、粗布をまとうおとめのように」と言われます。祭司らが酔い痴れている結果、主の祝福を失い、感謝のしるしとして地の産物を献げたくても、献げるものが何もないのです。

 

 地の産物は、農夫たちの勤勉な労働なしには得られないものですが、彼らの労苦は空しいものとなりました(11,12節)。それゆえ、彼らは泣き叫ぶのです。イナゴが畑の作物だけでなく、果樹園の実りも、そして果樹そのものも食い荒らしてしまいました。神の恵みとしての地の産物がイナゴに奪われるということは、そこに主の御手が働いていると考えざるを得ません。

 

 そうすると、酒が飲めないから泣けと言われているのではなくて、主に仕えている者が酒に酔い痴れていることに対する警告、酒に溺れて神の宮でよい務めが出来ないために、大変な国難が襲おうとしているという警告ではないでしょうか。

 

 だから、「断食を布告し、聖会を召集し、長老をはじめこの国の民をすべて、あなたたちの神、主の神殿に集め、主に向かって嘆きの叫びをあげよ」(14節)と命じ、「ああ、恐るべき日よ、主の日が近づく。全能者による破滅の日が来る」(15節)と告げます。およそ、酒に酔い痴れているときではない。目を覚まして神に祈るとき、訴えるときだ。泣いて悔い改めるときだと語っているのです。

 

 何をもって主の裁きが行われるのか、未だ詳らかではありませんが、ヨエルはイナゴの襲来による農作物の被害に主なる神の裁きのしるしを見て取ったわけです。ヨエルの預言を、当時の人々はどのように聞いたのでしょうか。真剣に聞こうとしないからこそ、恐るべき主の日、破滅の日がやって来ると言われるのではないでしょうか。

 

 考えてみるまでもなく、これは確かに、二千数百年前のイスラエルのことではなく、今日の私たちに語りかけられた主の言葉ではないでしょうか。私たちが目を覚まして周りを見回してみるならば、嘆かずにはおれない、祈らずにはおれない状況が広がっています。

 

 政治家や役人らが法を犯す行為をしていても、記録がないことを理由に誰も処罰されず、失政、失策などについて誰も責任をとらないまま、事態が放置されます。福島原発事故後の対応などにおいて、それを如実に見ることが出来ます。事故から8年余りが経過していますが、放射能汚染を止める手立ては、未だに何もとられていないという有様です。

 

 年金が株価を上げるためにつぎ込まれ、何兆円もの損失を出しています。消費税は福祉目的で上げられたはずなのにその予算は削られ、防衛費のみが増大しています。大企業、富裕層に手厚い政策の結果、貧富の差が拡大の一途で、子どもの7人に1人は貧困の状態と言われ、心身の成長に大きく影響を及ぼしています。そしてそれは、社会的損失につながります。

 

 問題が山積みで、どう祈ったらよいのかも分からないほどです。しかし、預言者ヨエルはそのような状況を前に、手をこまねいているわけではありません。穀物は枯れ、牧草もなく、家畜が呻く中、「主よ、わたしはあなたを呼びます」(19節)と、祈りの手を挙げます。 

 

 パウロが、「被造物は、神の子たちの現れるのを節に待ち望んでいます」(ローマ書8章19節)といい、「被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(同23節)と続けました。

 

 さらに、「同様に、霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」(同26節)と語り、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(同28節)と記します。

 

 被造物のうめきを受けて、祈りの手を挙げたヨエルのその祈りは、聖霊の切なるうめきによって執り成され、どんな苦難の出来事も、主にあって益と変えられたことでしょう。

 

 主の御前に心を開き、思いのままに祈りましょう。御霊に満たしていただきましょう。時を生かして用い、主の御心が何であるかを悟らせていただくためです(エフェソ書5章16~18節)。

 

 主よ、今繰り返されている自然災害は、何かの前兆なのでしょうか。あなたの御心が示されているのでしょうか。そうでなるならば、御旨をわきまえることができますように。あなたの御声をさやかに聞く開かれた耳を授けてください。私たちを御霊に満たし、光の子として歩ませてください。この国を清め、愛と平和の国としてください。 アーメン

 

 

「『衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け』。あなたたちの神、主に立ち帰れ。主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ。」 ヨエル書2章13節

 

 1節に「シオンで角笛を吹き、わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく」とあります。「角笛」は、敵の侵入の警報として(エレミヤ書4章5節)、また、戦いに備えるために吹き鳴らされます(士師記3章27節)。ここでは、「主の日」の到来を告げ知らせ、備えのために吹き鳴らされるのです。

 

 「主の日」とは、「恐るべき日」、「全能者による破滅の日」(1章15節)です。11節にも、「主の日は大いなる日で、甚だ恐ろしい。誰がその日に耐ええよう」とあります。本来、主なる神の訪れは、イスラエルにとって救いの完成を意味したはずですが、神に背いて罪を重ねた結果、その日は、恐るべき裁きの日、刑罰の下る日となったわけです。

 

 主の日の到来が告げ知らされ、裁きに備えるようにと角笛が吹き鳴らされたとき、イスラエルの民は何をすればよいのでしょうか。それが、12節以下に記されていることです。

 

 まず、「今こそ、心からわたしに立ち帰れ」(12節)という主なる神の招きの言葉があります。「立ち帰る」とは、方向を変えること、神に向かって歩き始めることです。まっすぐに神の言葉を聴くことです。

 

 続いて「断食し、泣き悲しんで」(12節)と語られます。「断食し、泣き悲しむ」のは、罪の悔い改めを表明することです。神に背いた罪を悔いて、神に向かって歩み出せ、神の御言葉に聴き従えと言われているのです。

 

 1章14節に「断食し、聖会を招集し、長老をはじめこの国の民をすべて、あなたたちの神、主の神殿に集め、主に向かって嘆きの叫びを上げよ」と言われていました。断食し、泣き悲しんで悔い改めを表明することが「主に立ち帰る」道ということです。それが、15節以下にも記されています。

 

 さらに、冒頭の言葉(13節)のとおり、「衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け」と言われます。衣を裂くのは、悲しみ、嘆きの表現ですが、神が望んでおられるのは、外側に見える形で表現されることではありません。むしろ、「心を引き裂く」こと、つまり、根本的に心を造り替えることです。

 

 ダビデも、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と詠います(詩編51編18,19節)。

 

 ヨエルはここに、心から主に立ち帰ることこそ、私たちの救われる唯一の道だと語っているのです。さらに言えば、イスラエルの民が心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主なる神を愛することです(申命記6章5節)。

 

 神が私たちを「主に立ち帰れ」と招かれるのは、私たちの側に救われる根拠や資格などがあるからではありません。「主は恵みに満ち、憐れみ深く、忍耐強く、慈しみに富み、くだした災いを悔いられるからだ」(13節)、と言われるとおりです。

 

 「恵みに満ちる」(ハーヌーン)とは、一方的に与えられる神からの賜物です。「憐れみ深い」(ラフーム)という言葉の名詞形(レヘム)は「子宮」を表しますので、母親のような慈愛を示しています。

 

 「忍耐強い」は「怒るに遅い」(エレフ・アパイム)という言葉で、神の愛の広さ、長さ(エフェソ書3章18節参照)を表現しています。「慈しみ」(ヘセド)は、神が人間を愛する、堅固で誠実な愛を表すのに用いられる言葉です。

 

 私たちは、このような神のご愛に幾重にも包まれ、守られているのです。そのことを忘れ、あるいは無感覚になっているのが、私たちの罪です。聖書で言う罪は、必ずしも犯罪を意味しません。罪とは「的外れ」という意味だと学びますが、神に呼ばれているのに答えない、神の言葉を無視する、神に背く、神に近づこうとしない、そうしたことを「罪」というのです。

 

 主なる神は今日も私たちを招かれます。父が放蕩息子の帰りを待ちわびているように(ルカ福音書15章11節以下)。そうして、帰ってきた息子に最上の衣を着せ、指輪をはめ、靴を履かせ、肥えた子牛を屠って宴会を開かれました。それは、父に背いて家を出た息子の復権、息子であることの証明です。神は、私たちの背きの罪を赦し、神の子としてくださるのです。

 

 日々、主なる神の御前に進みましょう。主の御言葉に耳を傾けましょう。そして、主のご愛に感謝と賛美をささげましょう。

 

 主よ、導きを感謝します。恵みを感謝します。憐れみを感謝します。私たちを神の子として再び生み出すために、独り語を犠牲にするという、考えられない産みの苦しみをしてくださいました。そのご愛に応えることが出来ますように。主の導きにいつも素直に従うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「その後、わたしはすべての人にわが霊を注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。」 ヨエル書3章1節(口語訳、新改訳は2章28節)

 

 新共同訳はヘブライ語原典どおりに3章1~5節を訳出していますが、口語訳、新改訳はこれが2章28~32節となっています。

 

 冒頭の言葉(1節)で「その後」とは、2章18節以下で神の憐れみによって祝福がもたらされた後ということでしょう。主なる神は、悔い改めて立ち帰ったイスラエルの民に祝福を与えた後、更なる祝福を与えようと言われるのです。ここに「わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と約束されています。「霊」は「息、風」とも訳されます。ここで「わが霊」というのは、主なる神の息と解することが出来ます。

 

 創世記2章7節によれば、人は神の息によって生きる者となりました。神の霊は、命を与える神の力なのです。ですから、「すべての人にわが霊を注ぐ」とは、罪に死んでいたイスラエルの民を再び生き返らせるということになります。

 

 そうすると、これは、エゼキエル書37章1節以下の「枯れた骨の復活」と同様の預言ということです。これは勿論、死者が蘇生するということではありません。主の霊によって、主を信じ、御言葉に聴き従う神の民が再創造されるということです。

 

 そして、霊が注がれることと、預言することや夢・幻を見ることが関連付けられています。民数記12章6節に「あなたたちの間に預言者がいれば、主なるわたしは幻によって自らを示し、夢によって彼に語る」とあります。ここで、主なる神が夢や幻を、預言者と語る手段として用いられるということが分かります。

 

 ということは、霊を受けて預言することと、夢、幻を見ることとは、本質的に同じことと言ってもよいでしょう。サムエル記上10章には、サウルが王となる油注ぎを神の人サムエルから受けた後、神の霊が彼の上に激しく降って、彼が預言する状態になったということが記されています(同10節)。つまり、霊は、人に神の言葉を告げ知らせる力を与えるのです。

 

 かつて、そのようなことは預言者や王など、神によって特別に選ばれた者に限られていました。けれども、ここには「すべての人にわが霊を注ぐ」とあります。息子にも娘にも、老人にも若者にも、神の力が与えられます。2節では、男女の奴隷にも注ぐと言われます。

 

 男も女も、老いも若きも、自由人も奴隷も、すべての人の上に分け隔てなく、主の霊が注がれます。そして、彼らは預言をし、夢、幻が与えられます。主なる神はすべての人々に主の御声を聞かせ、その御言葉を告げ知らせる力を与えたいと願っておられるわけです。

 

 主イエスが召天された後の五旬祭(ペンテコステ)の日に、聖霊が降り、その力を受けた主イエスの弟子たちが、祭りを祝うためにエルサレムの都に集まっていた多くの人々に、それぞれの母国の言葉で福音を告げ知らせました(使徒言行録2章1節以下)。

 

 そのことについて主イエスが、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(同1章8節)と語っておられました。即ち、主イエスが約束しておられた通りのことがペンテコステの日に起こったわけです。

 

 そしてペトロが、このペンテコステの日の出来事こそ、ヨエルの預言が実現したことなのだと、ヨエル書3章を引用しつつ語っています(同2章14節以下)。

 

 ペトロは続けて、ユダヤ人に十字架につけて殺されたイエスこそ主であり、メシアであること、神は主イエスを死の苦しみから解放して復活させられたことを、詩編16編8~11節を引用しながら、語り教えました(使徒2章22節以下)。

 

 このペトロのメッセージを聞いたその日、教会の仲間に加わった者、即ちクリスチャンになった人が、3000人もありました(同41節)。それも、ペトロの説教が分かり易かったから、感動的な話だったからということではなく、聖霊の導きによって説教を聞いていた人々に信仰が与えられたということでしょう。

 

 また、聖霊の力を受けたペトロとヨハネは、生まれながら足の不自由な男を主イエスの名で立たせました(同3章1節以下)。それに驚いた人々が彼らのところへ集まってくると、そこで福音を告げ知らせました(同11節以下)。 

 

 使徒たちの目覚ましい働きを見て脅威に感じた宗教指導者たちは、ペトロとヨハネを捕らえて牢に入れ(同4章1節以下)、イエスの名によって話したり教えたりしてはならないと命じました(同16~18節)。それを受けて、信徒たちが主に向かって声をあげ、更に大胆に御言葉を語ることができるように祈り求めると(同24~30節)、彼らは聖霊に満たされました(同31節)。

 

 そして、聖霊に導かれたクリスチャンたちは、福音宣教の働きをエルサレムからユダヤとサマリアの全土に(同8章1,4節、9章31節)、さらに地の果てにまで、拡大して行きました。

 

 その後、異邦人にも聖霊が注がれます。ペトロがカイサリアのコルネリウスの家に招かれて福音を告げ知らせていると(同10章34節以下)、聞いている一同に聖霊が降りました(同44節以下)。それは、異邦人を神の民に加えるために与えられたしるしといってよいでしょう。パウロの第三回伝道旅行中、エフェソでも聖霊が降り、異言を話したり、預言をしたりしました。

 

 この日本でも、私たちの住むこの町に、私たちの教会からヨエルの預言が実現するよう祈り求めましょう。御霊に満たされて、主イエスの福音を宣べ伝えましょう。

 

 主よ、私たちの町に、日本中、さらに地の果て、海の果てにまで、ペンテコステの出来事を起こしてください。すべての人々に新しい命が与えられますように。キリストにある平和を実現してください。すべての人が聖霊によって夢、幻を見、信仰と希望と愛に生きることが出来ますように。 アーメン

 

 

「お前たちの鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ。弱い者も、わたしは勇士だと言え。」 ヨエル書4章10節(口語訳・新改訳では3章10節)

 

 新共同訳聖書の4章は、口語訳、新改訳では3章になっています。

 

 主なる神は4章1節以下に「諸国民の裁き」を語られます。彼らは、ユダとエルサレムの繁栄が回復される日に、「ヨシャファト(主の裁き)の谷」に召集されます(2節)。それはまさに裁きのためです。

 

 主が諸国民を裁かれるのは、「わたし(主なる神)の民、わたしの所有であるイスラエルを、彼らは諸国の民の中に散らし、わたしの土地を自分たちの間に分配したから」(2節)であり、また、「わたしの民の運命をくじで定め、遊女を買うために少年を売り渡し、酒を買うために少女を売った」(3節)からであると言われています。

 

 諸国の民について、4節に「ティルスとシドンよ、ペリシテの全土よ」とあります。「ティルスとシドン」はフェニキヤ人の町で、イスラエルの北に位置しています。一方、「ペリシテの全土」はイスラエルの南西に位置しています。

 

 彼らが金や銀の神殿祭具を運び去り(5節)、ユダとエルサレムの人々をギリシア人に売り渡した(6節)と言われますが、歴史的にどの出来事を指すのか、よく分かりません。ただ、地中海沿岸に位置する彼らの港から、少年少女をはじめとする主の民が奴隷として、ギリシアに向けて運び出されたのでしょう。 

 

 9節に「諸国の民にこう呼ばわり、戦いを布告せよ」と語られています。主が諸国の民に宣戦布告しておられるわけです。そして冒頭の言葉(10節)のとおり、「お前たちの鋤を剣に打ち直し、鎌を槍に打ち直せ、弱い者も、わたしは勇士だと言え」(10節)と言われます。

 

 ここで、「鋤を剣に、鎌を槍に打ち直せ」とは、イザヤ書2章4節やミカ書4章3節で「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」と語られている言葉の逆です。戦いを止めて平和を造れというのではなく、イスラエルを踏みつけて繁栄を手にし、平和を謳歌している者たちに、平和の道具を武器に変えよというわけで、彼らの平和と繁栄は終わりを告げたという表現と考えることが出来ます。

 

 実際に「ヨシャファトの谷」(2,12節)で、主と諸国の民との間にどのような戦いが展開されるのか、何も記されていません。そもそも、「ヨシャファトの谷」なるものがどこにあるのか分かりません。イスラエルに、その名で呼ばれる谷はないのです。つまりそれは、固有名詞ではないということです。伝統的にケデロンの谷のことと言われますが、しかし、それを示すものはありません。

 

 「ヨシャファト」とは、新共同訳聖書に括弧書きで記されているように、「主の裁き」という意味です。ヨシャファトの谷とは、主の裁きの谷ということになります。ユダとエルサレムの繁栄が回復される日に、周囲のすべての民を裁く「主の裁き(ヨシャファト)の谷」という法廷が設けられ、そこで諸国の民が裁かれるということです。

 

 諸国の民を待っているのは、勇壮な戦いなどではありません。「鎌を入れよ、刈り入れのときは熟した。来て踏みつぶせ、酒ぶね満ち、搾り場は溢れている。彼らの悪は大きい」(13節)と言い、「裁きの谷には、おびただしい群衆がいる。主の日が裁きの谷に近づく」(14節)と語って、諸国の民の罪過、その悪が頂点に達しているので、今にも裁きがなされようとしてることを示しています。

 

 ところで、「弱い者も、わたしは勇士だと言え」(10節)とはユーモラスな表現で、弱腰の兵士が「わたしは勇士だ」と震え声で言うという図を思い浮かべてしまいます。それでは戦いになりません。イスラエルを踏みつけた諸国の軍隊は、決して弱い者などではありませんでした。

 

 しかし、この言葉から教えられるのは、「わたしは勇士だ」と語る者は、実は弱い者だというメッセージです。自分の弱さを他人に見せることが出来ず、常に虚勢を張り、弱さがあることを隠して「わたしは勇士だ」と語っているということです。武器を取るとはそういうことでしょう。武装しないと不安なのです。

 

 そのように読んだとき、これは、諸国民に向けて語られているようだけれども、実際には、イスラエルの民に向かって語られているのではないか、ユダヤとエルサレムの繁栄が回復されるのは、彼らの武力、王の力などによるのではないと言おうとしているのではないかと気づかされました。

 

 主なる神の前には、どんな武装も役には立ちません。主は、天地万物を創造されたお方です。一瞬のうちに、すべてを過ぎ去らせてしまうこともお出来になるでしょう。一方、主が味方でいてくださるなら、兵力が貧弱なこと、武装が十分でないことなど、問題ではありません。主ご自身が避け所、砦となってくださるからです(16節)。

 

 イザヤ書30章15節に「お前たちは、立ち帰って,静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」とあります。イスラエルはこの言葉に耳を傾けることができず、滅びを招きました。目に見える力、兵馬の数に頼らず、目に見えない神、主に頼るというのは、なかなか困難なことでしょう。それには、常日頃の主なる神との交わりが不可欠です。

 

 朝毎に主の御名を呼び、御言葉に耳を傾けましょう。主の御心をわきまえることができるよう、聖霊の導きを祈り求めましょう。肩の力を抜き、リラックスして、私たちに委ねられている大切な仕事を、精一杯心を込めて行いましょう。周りの人々、お互いのことを認め合い、協力し合いましょう。平和の主が共にいてくださいます。

 

 主よ、朝毎にあなたの御言葉に耳を傾けます。私たちが行うべきことを教えてください。実行する知恵と力を授けてください。平和が私たちの家庭に、静岡、周辺の町々、日本の国、そして世界中に豊かにありますように。あらゆる紛争が平和裏に解決されますように。互いに赦し合い、助け合うことが出来ますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設