雅歌

 

 

「教えてください、わたしの恋い慕う人。あなたはどこで群れを飼い、真昼には、どこで群れを憩わせるのでしょう。」 雅歌1章7節

 

 今日から雅歌を読み始めます。「雅歌」(1節)の原題は「歌の歌」(シール・ハッシーリーム:song of songs)という言葉です。これは、「王の王、主の主:king of kings,lord of lords」という言葉遣いと同様、最高のものを表わすヘブライ語の表現なので、「最高の歌」といった意味に解することが出来ます。

 

 雅歌には、神や神の言葉、そして、神への祈りや信仰の言葉などが一切出て来ません。読み通してみてまず感じるのは、これは男女の愛を取り扱ったもので、神の言葉も、信仰の言葉も出て来ないのに、それがどうして聖書に入っているのかということです。

 

 実際、雅歌を聖書に入れるかどうかというのは、最初から議論があり、なかなか決着の着かない問題だったようですが、高名なラビ・アキバが「全世界は、雅歌がイスラエルに与えられた日に値しない。聖書全体は聖なるものであり、雅歌こそは、聖なるものの中で最も聖なるものなのだから」と主張して、その議論に終止符が打たれたということです。

 

 そのように言われたのは、雅歌の中でお互いに呼びかけあっている若者とおとめを、神とイスラエルとの関係と見なし、そこで交わされる愛の言葉は、神とイスラエルとの契約関係を表していると考えたからです。キリスト教会はこれを、キリストと教会の関係、そしてまた、キリストとクリスチャンの関係と解釈してきました。

 

 5節で「わたしは黒いけれども愛らしい」と言い、6節に「日焼けして黒くなったわたし」、「兄弟たちに叱られてぶどう畑の見張りをさせられたのです。自分の畑は見張りもできないで」と告げています。日焼けしたのは、ぶどう畑の見張りをしたためで、それは何らかの罰でした。「自分の畑」は、女性が守るべきものということで、それを守らなかった罰ということになるでしょうか。

 

 畑で日焼けしたというのは、社会的な地位、身分が低い者と見做されることですし、それが罰のゆえというのであれば、ますます状況は悪くなるところでしょう。それがどこで、「わたしは黒いけれども愛らしい」という評価になるのでしょうか。

 

 若い女性の肌の黒さが、「ケダル」と呼ばれる遊牧民族の天幕の黒さを思わせ、そして、「ソロモンの幕屋」は神殿の聖所と至聖所を分けた幕のことを思わせるというのです。神との関わりが生じるということでしょうか。

 

 それが、どこで「愛らしい」ということになるのでしょう。それは、その女性の恋い慕っている若者が、彼女を「愛らしい」と言っているということでしょう。 

 

 冒頭の言葉(7節)で「わたしの恋い慕う人」とは、直訳的には「わが魂(ネフェシュ)の愛する者」(口語訳)という言葉で、喉から手が出るほどに慕い求めているという表現です。そのように呼びかけられているのは、羊の群れを飼っている羊飼いです。ここで、おとめは羊飼いのいる所に行きたいと願っています。

 

 その言葉は、「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる」という詩編23編1~3節の言葉を思い出させます。そしてまた、主イエスが「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11節)と言われています。

 

 私たちはどこで主イエスと会い、交わることが出来るのでしょうか。教会でしょうか。そうであれば、教会に集まりましょう。祈りの中でしょうか。そうであるなら、共に祈りましょう。聖書の御言葉の中でしょうか。それなら、日々、御言葉を読みましょう。

 

 日本の福音派の源流の松江バンドを作った英国からの宣教師バックストン先生が、雅歌1章5~7節の箇所から、次のような説教を語られています。

 

 「鉄の棒を炉の中に入れておくと、だんだん赤く熱してくる。けれども、鉄の棒はあくまでも黒い。火から出せば、またもとのように黒くなる。鉄の棒が火の中で熱せられて鉄の棒に火が宿るから、光り輝くのである。その輝きは、鉄の輝きではなく、火の輝きである。

 

 ちょうどそのように、私どもは生来黒く罪深い者であるが、主イエスを知り、主イエスのものとなったから、そのために主イエスの清さ、麗しさをいただいて、麗しい者となる」。

 

 主イエスの十字架によって贖われ、主イエスのものとされた私たちが、絶えず主を慕い求めて、その御言葉に耳を傾け、どんなことでも感謝をもって祈りと願いを献げ、私たちの求めるところを神に申し上げるなら、私たちの心と思いを主イエスにある平安が満たし(フィリピ書4章6,7節)、聖霊の導きによって、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられていくことでしょう(第二コリント書3章18節)。

 

 主イエスの麗しさ、その栄光は、十字架に典型的に表されています。そして、主は私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と言われます。主の深い愛と憐れみにより、救いの恵みに与ったのですから、主に従い、主と共に十字架の道を歩みましょう。

 

 主よ、ぶどう酒にも増してあなたの愛は快く、あなたの香油、流れるその香油のように、あなたの御名はかぐわしい。あなたの御顔を慕い求め、絶えず御前に進ませてください。御言葉を聞かせてください。御言葉と聖霊の導きに従って、忠実に歩ませてください。そこに、真の憩いがあるからです。 アーメン

 

 

「恋しい人は言います。『恋人よ、美しい人よ、さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。』」 雅歌2章10,11節

 

 おとめが愛しい若者のことを「恋しい人の声が聞こえます。山を越え、丘を跳んでやって来ます。恋しい人はかもしかのよう、若い雄鹿のようです」(8,9節)と紹介し、続いて愛しい若者が自分を、冒頭の言葉(10~11節)のとおり「恋人よ、美しい人よ、さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終った」といって呼び出すのだと言います。

 

 二人の熱い思いにあてられて、はいはい、ご馳走様という感じですね。恋愛をしているとき、相手の女性から「今すぐ来て」と呼び出されれば、あるいはその男性は、仕事もそっちのけで、山を越え、丘を跳んでやって来てくれるかも知れません。

 

 けれども、結婚して一緒に生活するようになれば、「今すぐ来て」と言われても、その理由を尋ねて、そのような求めには今すぐ応じることは出来ないということがあります。それは、相手が好きでなくなった、優しくなくなった、愛情が薄くなったりしたということではなく、社会生活上、自分の責任をきちんと果たすため、何を優先すべきかという判断によって、なすべきことが定まって来るからです。

 

 その意味では、恋愛中というのは、常に相手のことが気になり、相手の求めに最優先で応じたい、それが当然であるかのように考えるといったような、特殊な期間なのかも知れません。

 

 話がそれてしまいましたが、若者が恋人の女性を呼び出すということは、女性が寒い冬の季節、雨(雪)を嫌って家に閉じこもっていたということでしょう。でも、春が来たのだから、外に出ておいで、一緒に春を楽しもうというわけです。

 

 春の訪れに気づかないほど、厳重に戸や窓を閉め、厚いカーテンをかけて、外を見ないようにでもしていたのでしょうか。重大な問題で心ふさがれるとき、周りの世界は刺激が強すぎて、部屋に閉じこもり、誰にも会わないようにすることがあります。外がどんなに明るくても、自分の心は闇に閉ざされ、空が晴れていても、心はどんよりというときがあります。

 

 けれども、どんなに空がどんよりとぶ厚い雨雲に覆われていても、その上には太陽が輝いています。光がなくなってしまったのではなく、少しの間、それが雲で遮られていただけです。冬に閉ざされたようになることがあっても、季節は巡り、春がやって来ます。

 

 ときに、後になって思わされるのは、心ふさがれる重大な問題は、私たちが何を信じ、何を頼りにして生きているのか、何が真実で確かなものなのかということを教えるために、神様がお与えになる試練だったということです。

 

 このおとめは、あるいは若者が「出ておいで」と呼び出してくれるのを、待ち焦がれていたと言っているのかもしれません。雪で道が閉ざされたり凍結したりしていて、若者が山を越え、丘を跳んでやって来ることが出来なかったけれども、ようやくその季節が終り、久しく待ち望んでいた春の季節がやって来たという喜びの表現かもしれません。

 

 若者が来れない間、おとめの心は、まさに冬の雨に閉ざされているような思いだったのではないでしょうか。だから今、「恋人よ、美しい人よ」と呼びかける若者の声を聞いて、すべての思いは喜びに変えられたわけです。おとめの心に春が訪れ、花が咲き、鳥が歌い、木々は実を実らせました(12,13節)。

 

 愛しい若者が一緒にいて、花が地に咲き出で、鳥がさえずり歌う光景、それはさながら、エデンの園のようです。そこは命の恵みに溢れ、そこに憩う喜びが満ちています。エデンの園、それは、主なる神との交わりが豊かに開かれていた世界でした。  

 

 そのエデンの園で、神が自分に合う助ける者として造ってくださった女性を見たとき、人は「ついに、これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2章23節)と言いました。それがここで「恋しいあの人はわたしのもの、わたしはあの人のもの」(16節)と若いおとめが語っている思いでしょう。

 

 主は、独りでいた人(男性)を「助ける者」として女性を造られましたが(創世記1章18節)、「助ける者」とは「助け」(エゼル)という言葉で、詩編121編2節に「わたしの助け(エゼル)は来る、天地を造られた主のもとから」と言われています。助けをお与えになる主がおられたからこそ、助ける者として女性が与えられたのだと読めます。

 

 さらに、詩編124編8節に「わたしたちの助けは、天地を造られた主の御名にある」と言います。まるで、私たちの主としておいでくださった主イエスのことを言っているかのようです。というのは、イエスとは「主は救う」という意味の名前だからです。

 

 おとめが若者の訪問を待ち焦がれるように、旧約の詩人は主を慕い求め、「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。神に、命の神に、わたしの魂は渇く。いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるのか」(詩編42編2,3節)と詠いました。

 

 私たちも、主を待ち望み、その御言葉を慕い求めましょう。主を待ち望む者には、上より新しい力が与えられます(イザヤ書40章31節)。そこで、主こそ私たちの神であり、私たちは神の民であるという契約の本当の意味を味わうことでしょう。

 

 「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。その人は流れのほとりに植えられた木。ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(詩編1編2,3節)という約束が、私たちの人生に成就されるよう、祈り願いましょう。

 

 主よ、あなたは罪の中に滅びるしかなかった私たちを訪い、愛と赦しの福音に与らせ、御国の栄光に入るように、呼び出してくださいました。主イエス私たちと共におられ、御言葉を慕い求める私たちに、絶えず平安と希望を与えてくださっています。感謝です。この恵みを、多くの人々と分かち合うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「彼らに別れるとすぐに、恋い慕う人が見つかりました。つかまえました。もう離しません。母の家に、わたしを産んだ母の部屋にお連れします。」 雅歌3章4節

 

 1節に「夜ごと、ふしどに恋い慕う人を求めても、求めても、見つかりません」と記されています。「ふしど」(ミシュカーブ)とは、夜眠る寝所、寝床のことです(口語訳、新改訳は「床」と訳す)。そこに恋い慕う人を求めるということは、おとめが若者との親しく深い交わりを望んでいるということです。

 

 しかしながら、「求めても、見つかりません」。いるはずと思っていた場所にいないので、その交わりが出来ないのです。そこでおとめは「起き出して町をめぐり、通りや広場をめぐって」(2節)若者を探します。

 

 けれども、夜の町で若者を見出すのは至難の業でしょう。町を巡る夜警に出会い、「わたしの恋い慕う人を見かけましたか」(3節)と尋ねたところで、望む答えが返ってくるとは考えられません。そもそも、パレスティナの習慣で、夜、女性が街を一人歩きして、若者を探すというのは、到底考えられないことです。

 

 ですから、実際にそうしたというより、そのようにしてでも、恋い慕う人を見つけ、交わりのときを持ちたいというおとめの心の内を、詩的に表現したものと考えるべきなのかも知れません。

 

 ここで、「求める」(バーカシュ)という言葉について、エレミヤ書29章13,14節に「わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」とありますが、ここに「尋ね求める」と訳されているのが、その言葉です。

 

 預言者たちはこの言葉を、神とイスラエルとの関係を表す表現として用いています(イザヤ書51章1節、65章1節、ホセア書3章5節、6章6,15節など)。つまり、私たちが主を探し、主を尋ね求めるならば、主にお会いすることが出来る、主との交わりを回復することが出来るということで、私たちが悔い改めて神に立ち帰るように、求めているわけです。

 

 若いおとめは、恋しい人との関わりを失い、それを求めますが見いだせませんでした。外に出て夜警に尋ねますが、別れてしまいます。これは、イスラエルの民が主なる神との関係を壊したこと、夜警ならぬ預言者と出会うけれども、その言葉に耳を傾けようとはしなかったという、イスラエルの旧約時代の歴史と重ねることが出来るようです。

 

 ところが、図らずも恋い慕う若者が見つかりました(4節)。それは、おとめが探し求めたからというより、若者がおとめの前に姿を現したからということでしょう。

 

 イスラエルが神に背き、預言者の言葉にも耳を傾けなかった結果、夜の闇をさまようような、捕囚生活を余儀なくされました。しかし、その生活に終止符が打たれるときが来ます。それは、イスラエルが悔い改め、まっすぐに神を求めたというより、神が苦しむイスラエルの民の声を聞き、憐れまれたからでしょう。

 

 詩編106編43~46節で「主は幾度も彼らを助け出そうとされたが、彼らは反抗し、思うままに振る舞い、自分たちの罪によって堕落した。主はなお、災いにある彼らを顧み、その叫びを聞き、彼らに対する契約を思い起こし、豊かな慈しみに従って思いなおし、彼らをとりこにしたすべての者が、彼らを憐れむように計らわれた」というのは、そのことです。

 

 そして冒頭の言葉(4節)で「つかまえました、もう離しません」と言います。まるで、逃げられないように、縄でもかけて連行するといった感じです。そうしておとめは、若者を自分の「母の家」、おとめを産んだ母の部屋に案内します。これは、母に若者を紹介すること、そして、自分が母の胎に身籠ったまさにその場所で、自分たちの愛を確認する行為を期待しているのです。

 

 パレスティナでは、結婚の日に花婿が花嫁を迎えに行き、自分の家に連れて来るというのが習わしでした。即ち、花婿は晴れ着を着て冠をかぶり、友人たちと歌を歌いながら花嫁の家に行き、豪華な着物を着、宝石で身を飾り、ベールで顔を覆っている花嫁を迎え、花嫁の友人たちを伴って自分の家に帰ります(イザヤ書61章10節、詩編45編14,15節など)。

 

 その意味で、今日の箇所は習慣を打ち破っています。愛はどんな困難でも乗り越えるものという解釈も許されるでしょうか。この世の習慣や法律によって、心の底から湧き上がって来る熱い思いを縛ることは出来ないということでしょう。

 

 ここで、「つかまえる」(アーハズ)という言葉には、「支える」という意味もあり、詩編139編10節の「右の御手をもってわたしをとらえてくださる」を、口語訳は「あなたの右のみ手はわたしをささえられます」と訳していました。

 

 花嫁とは教会のこと、あるいは主イエスを信じる信徒のこと、若者は主イエスのことと考えると、冒頭の言葉は、私たちがキリストをしっかりと捕まえたということになります。それは、キリストを信じることが出来た、確信が持てたといった表現でしょうけれども、それは私たちの考えであって、実際はむしろキリストに「手を取られ、支えられて」のことだといってよいのではないでしょうか。

 

 主イエスが、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15章16節)と仰っていることが、それを示しています。主の深い愛と憐れみがあるからこそ、悔い改めてその赦しに与ることが出来るのであり、恵みによって神の子として生きることが出来るのです。

 

 主の愛に捉えられて、その真実なご愛に応えて歩む者とならせていただきましょう。

 

 主よ、私たちも主イエスを信じて罪赦され、神の子とされ、永遠の命が授けられました。聖霊を通して注がれる神の愛に満たされ、その愛に応えて生きる者とならせてください。日々御言葉に耳を傾け、御心を行う者とならせてください。 アーメン

 

 

「ほとりには、見事な実を結ぶざくろの森、ナルドやコフェルの花房。」 雅歌4章13節

 

 1~7節で、若者がおとめの美しさを歌い上げます。1節に「(見よ)あなたは美しい」と言い、7節でも「あなたは何もかも美しい」と歌って、「美しい」(ヤーファー)という言葉で、この箇所を囲んでいる形です。

 

 美しいと讃えているのは、目、髪(1節)、歯(2節)、唇、こめかみ(3節)、首(4節)、乳房(5節)と、合計7つのものです。7は完全数ですから、7つだけが美しいということではなく、7節で言うとおり「何もかも美しい」という表現でしょう。

 

 7節後半に「傷はひとつもない」とあります。この「傷」(ムーム)は、身体的な欠点や傷(blemish、defect)という意味ですが、道徳的な欠点を指すこともあり、その人柄にも問題がないという表現と考えることも出来ます。外見に加えて、心も清く美しいとなれば、これは、「恋人」なるおとめのことを、まるで完全無欠の女性と讃えているということになります。

 

 現実には、完全無欠の人間がいるとは考えられません。けれども、若者の目には、自分が恋しているおとめのことが、容姿の美しさのみならず、心も清く、全く非の打ちどころがないように映っているのです。

 

 8~11節には「花嫁よ」、「妹よ」という呼びかけが各節ごとになされています。その花嫁を「レバノンからおいで、おいで、レバノンから出ておいで」と呼び出す言葉が、8節にあります。

 

 そして、「アマナの頂から」と言いますが、アマナという山は知られていません。列王記下5章12節に「ダマスコの川アバナ」とあり、この川の源流の山のことを指しているのではないかと思われます。「セニル、ヘルモン」は、どちらもヘルモン山の名前です(申命記3章9節)。

 

 ということで、おとめは何故か、イスラエル北方のレバノンの高山にいることになります。レバノンの高山は女神アシェラ(イシュタル、アシタロテ)の玉座であり、獅子と豹はその使者でした。その意味で、そこから花嫁を呼び出すということは、偽りの礼拝を捨てて悔い改めて主なる神のもとに来るようにという招きの言葉が語られていることになります。

 

 しかしながら、雅歌においてレバノンへの言及がなされるとき、そこに否定的な意味合いのある表現を見出すことが出来ません。むしろ、「レバノン杉」(1章17節、3章9節、5章15節、8章9節)、「レバノンの香り」(4章11節)、「レバノンの山」(4章15節、5章15節)、「レバノンの塔」(7章5節)などと、いずれも肯定的に語られています。

 

 そうすると、「偽りの礼拝を捨てて悔い改めて」という内容をここに見る必要はなくなり、むしろ、肯定的に語られるレバノンから、美しい花嫁を呼び出しているということになります。 

 

 12節に「わたしの妹、花嫁は、閉ざされた園。閉ざされた園、封じられた泉」という言葉があります。1章6節の「自分の畑は見張りもできないで」というのが、自分の貞操を守れなかったという意味だと考えられることから、「閉ざされた園、封じられた泉」とは、その貞操をしっかりと守っているということでしょう。

 

 箴言5章15節以下で、妻を「井戸」、「泉」(同15節)、「水の源」(同18節)と表現して、「その水をあなただけのものにせよ、あなたのもとにいるよその者に渡すな」(同17節)と語っていることも、この解釈を支持するものと思われます。

 

 ヘルモン山のふもとには、ヨルダン川の源流があります。ヘルモンの頂きに降り積もった雪が解けて流れて地下をくぐり、フィリポ・カイサリア近くから泉となって湧き出し、ヨルダン川に注いでいるのです。冒頭の言葉(13節)の「ほとり」とは、ヨルダン川水源地の泉のほとりということでしょう。

 

 そのほとりには、「みごとな実を結ぶざくろの森」があると記されています。「森」と訳されている「パルデース」という言葉は、「果樹園(orchard)」という意味ですが、これは、ペルシアからの外来語だそうで、ここからギリシア語の「パラデイソス」(ルカ福音書23章43節=「パラダイス(楽園)」)という言葉が出て来たのです。

 

 主イエスがフィリポ・カイサリア地方に行かれたとき、弟子たちに「あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(マタイ福音書16章15節など)と尋ねられると、シモン・ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」(同16節)と答えました。

 

 フィリポ・カイサリアは、領主ヘロデがローマ皇帝(カエサル)のために建てた町で、皇帝礼拝が熱心に行われていました。そこで、パレスティナを支配しているローマ皇帝ではなく、主イエスこそ自分たちの主、メシアであり、生ける神の子であるという信仰を言い表すのは、とても意義深いことです。

 

 というのは、ここから流れ下ったヨルダンの流れが全イスラエルを潤しているように、その信仰がイスラエル全土に広く及ぶことを願っているからです。主イエスは「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを表したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(同17節)と、そのペトロの答えを喜ばれました。

 

 そして、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(同18節)と言われました。イエスを主、メシアと告白する信仰を土台として、その岩の上にキリストの体と言われる主イエスの教会が建てられるのです。そしてその教会は、陰府の力をも凌駕すると言われています。

 

 このことから、キリストを信じ、キリストと結ばれるところにキリストの教会が建てられ、そこが霊の実の豊かに実る楽園(パラダイス)となることを示しているようです。パラダイスは、主イエスが共におられ(ルカ福音書23章43節参照)、私たちに与えられた聖霊が私たちに実を結ばせる所だからからです(ガラテヤ書5章22,23節)。

 

 主イエスを信じる信仰に堅く立ち、聖霊の力を受けていつでもその恵みを周囲の人々に証ししていきましょう。 

 

 天のお父様、私たちは御言葉と聖霊の導きによって主イエスを信じ、神の子どもとなりました。私たちを楽園に共におらせ、霊の実を結ばせてくださいます。私たちの歩みを通して、キリストのよき香りを放つことが出来ますように。聖霊の風を吹かせてください。上よりの力を受けて主の証人として用いられますように。 アーメン

 

 

「戸を開いたときには、恋しい人は去った後でした。恋しい人の言葉を追って、わたしの魂は出て行きます。求めても、あの人は見つかりません。呼び求めても、答えてくれません。」 雅歌5章6節

 

 5章10節以下に、おとめが恋人の若者を讃える言葉があります。これは4章で、若者がおとめを讃えた言葉に呼応したかたちで歌われているものです。そこには「手はタルシシュの珠玉をはめた金の円筒、胸はサファイアをちりばめた象牙の板、足は純金の台に据えられた大理石の柱」(14,15節)などと、かなりオーバーな表現が見られます。

 

 11節以下、頭、髪、目、頬、唇、手、胸、脚、姿、口と、10のほめ言葉があります。「7」と同様、「10」も完全数なので、若者の美しさは完全という表現ということが出来ます。そして、「なにもかもわたしを魅惑する」(16節)と語っています。若者が立派だというより、恋しい若者に惹かれて、すべてのものが美しく見えるということでもあると思います。

 

 これはしかし、何も恋をしている若者の特権ということでもないでしょう。私たちは自分が完璧でないことを知っています。けれども、相手の良いところを数え上げることは出来ます。20年、30年、40年と連れ添った夫婦が、互いに愛し合い、尊敬し合っている姿を拝見すると、私たちも幸せな気持ちになります。

 

 私たち日本人は、謙遜を美徳とする民族で、家族、身内をほめる言葉をほとんど持ちません。けれども、互いに愛し、尊敬しているという思いを伝え合うのは、大変素晴らしいことではないかと思います。

 

 聖書にいう愛とは、好きという感情ではなく、相手を大切にし、相手をよりよく理解しようとする思いや態度であり、また、相手の思いを受容しようとする意志です。思いを伝え合い、確認し合うことで、相手に対する愛はさらに深まり、より豊かになることでしょう。

 

 2節以下の「おとめの歌」の段落で、最初に「眠っていても、わたしの心は目覚めていました」(2節)とあります。これは、分かったような分からないような言葉です。夢うつつだったということでしょうか。あるいは、夢の中のことだけれども、はっきりと覚えているということでしょうか。

 

 そのとき、若者がおとめのところにやって来ました。「開けておくれ」(2節)と戸を叩きます。このときの若者のおとめに対する思いは、「わたしの妹、花嫁よ、わたしの園にわたしは来た。香り草やミルラを摘み、蜜の滴るわたしの蜂の巣を吸い、わたしのぶどう酒と乳を飲もう」(1節)という言葉に見ることが出来ます。

 

 和訳でも1人称代名詞の「わたし」が繰り返されていますが、原文では「花嫁」を除くすべての名詞と動詞に1人称単数(わたし)を示す接尾辞がつけられています(計12回)。つまり、おとめを自分のものにしたいということです。

 

 しかし、若者がやって来たとき、おとめは寝床に入っています。「衣を脱いでしまったのに、どうしてまた着られましょう。足を洗ってしまったのに、どうしてまた汚せましょう」(3節)というのは、若い女性らしいためらいの表現でしょう。

 

 それでも、若者の声、戸を開けようと隙間から手を差し込む様子に、おとめの胸は高鳴り(4節)、戸を開けるために起き上がります(5節)。「わたしの両手はミルラを滴らせ」(5節)は、「ミルラ」(口語訳は「没薬」)とは香油のことで、身だしなみに香油をつけたということでしょう。

 

 それなのに、化粧をして戸を開けたところが、冒頭の言葉(6節)のとおり「恋しい人は去った後でした」。「恋しい人の言葉を追って」(ベ・ダベロー)を直訳すると、「彼が話した時」となります。「わたしの魂は出て行きます」(ナフシー・ヤーツェアー)は「気を失う」といった意味でしょう。

 

 これは、若者はおとめが戸を開けてくれるのを待ちきれず、捨て台詞をはいて立ち去ったということでしょうか。お互いに思いが通わないもどかしさ、苛立ち、失望、悲しみといった心の状況を思い浮かべます。

 

 ところで、若者がキリスト、おとめがキリストの花嫁なる教会を構成する信徒一人一人だと考えると、キリストが訪ねて来られたときに、戸を開けかねて、ようやく、戸を開けたときにはキリストが立ち去られた後だったというようなことになったら、どうしましょう。

 

 かつて、イスラエルは主なる神に背いて異教の神々と姦淫を行いました。おとめが後で戸を開けて探しに出ても、見つけることが出来なかったというのは(6節)、自分が思っていたような神の恵みや救いを、異教の偶像に見いだせなかったということでしょう。そればかりか、夜警に見つかり、打たれて傷を負い、衣がはぎ取られます(7節)。それは、自らに滅びを招いたということではないでしょうか。

 

 3章1~6節では、夜警と別れてすぐに恋い慕う人が見つかったとされていましたが(同4節)、やはりそれは、おとめが探したから恋人を見つけることが出来たというのではなく、恋人がおとめのところにやって来たからということだったのでしょう。

 

 「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(ヘブライ書3章7,8節、詩編95編7,8節)と言われているとおり、神の声に反抗して、永遠の安息に入り損なうことがないように、神の御言葉を信仰によってしっかりと受け止めましょう(ヘブライ書3章12~14節、4章2節参照)。

 

 心を開いて主イエスを心の中心にお迎えし、御言葉に従って歩みましょう。

 

 主よ、私はふつつかな僕です。知らなければならないほどのことも知らず、なすべきことのどれほども実行することが出来ません。どうぞ、憐れみ助けてください。御言葉に立ち、信仰によって歩むことが出来ますように。信仰がなければ、あなたに喜ばれることが出来ないからです。 アーメン

 

 

「あなたの恋人はどこに行ってしまったの。だれにもまして美しいおとめよ。あなたの恋人はどこに行ってしまったの。一緒に探してあげましょう。」 雅歌6章1節

 

 折角恋しい若者が訪ねて来てくれたのに、着替えたり化粧をしたりしていて、すぐに部屋に招き入れなかったために、若者はどこかへ去ってしまいました(5章6節)。それで、「エルサレムのおとめたちよ、誓ってください。もしわたしの恋しい人を見かけたら、わたしが恋の病にかかっていることをその人に伝えると」(同8節)と、伝言を頼んでいました。

 

 冒頭の言葉(1節)では、それを受けるかたちでエルサレムのおとめたちが、「あなたの恋人はどこに行ってしまったの」と問います。「一緒に探してあげましょう」とはありますが、真心から親切にそう語っているのでしょうか。それとも、「恋しい人の居場所も分からないの」という、からかい半分、意地悪半分といった調子なのでしょうか。

 

 その質問に対しておとめは2節で、「わたしの恋しい人は園に、香り草の花床に下りて行きました」と言い、3節に「恋しいあの人はわたしのもの」と語っているところを見ると、わたしは若者の行き先を知っている、探してもらわなくてもいい、彼はわたしのものなんだと、少々ムキになって語っているようにも思われます。

 

 そうであれば、おとめはエルサレムのおとめたちの問いかけを、親切心からのものではないと判断したということになるでしょう。おとめは2章16節の「恋しいあの人はわたしのもの、わたしは恋しいあの人のもの」という発言を、3節で繰り返します。だから、わたしから若者を奪わないでというかのようです。 

 

 一方、若者はおとめのことを思ってたたえます。「ティルツァ」(4節)は、「美しい、快適」といった意味ですが、イスラエルが南北に分裂した後(列王記上12章1節以下)、北イスラエルの首都ともなった町の名です(同14章17節、15章21,33節など)。美しさを代名詞とした町のように、おとめが美しいというのでしょう。

 

 一方、「エルサレム」はダビデ以来、南ユダ王国でも首都です。日本でいう、京都の美しさ、東京の麗しさということになるでしょうか。「旗を掲げた軍勢のように恐ろしい」というのは、恐ろしいほどの美しさ、気高さといった最高の賛辞でしょう。

 

 8節に「王妃が六十人、側女が八十人、若い娘の数は知れない」とあります。ソロモンの「妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室」(列王記上11章3節)には遠く及びませんが、いずれにしても、その数は尋常ではありません。およそ相手を理解し、一人一人を心から愛することなど出来はしないでしょう。

 

 これは、江戸時代の将軍の大奥のような、王国の世継ぎを生み出すシステム、あるいはまた、后を迎えた国との間の平和維持装置でしかあり得ません。そのような、女性をシステムや装置にするというあり方が、良いものであるはずがありません。

 

 それに対して、「わたしの鳩、清らかなおとめはひとり。その母のただひとりの娘、産みの親のかけがえのない娘」(9節)と語っているのは、真の愛と信頼、尊敬の関係で結ばれるのは、一対一の関係であることを示しているのではないでしょうか。

 

 創世記2章24節の「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」という言葉も、一夫一婦制を支持していると思われます。私たちは、神によって合わせていただいた伴侶を、心から愛し敬い、慰め助け、生涯、その関係を大切にしていかなければなりません。

 

 ところで、若者とおとめは、神とイスラエル、キリストと教会、もしくはクリスチャンという関係を表していると、学び続けています。1節の「あなたの恋人はどこに行ってしまったの」という言葉から、「あなたの主イエス・キリストは今どこにおられますか、何をしておられますか」という私たちへの問いかけを聞きます。あなたはこの問いをどう聞かれますか。この問いにどう答えられますか。

 

 それは、時には詩編42編4,11節の詩人のように、「お前の神はどこにいる、いるなら見せてみろ」といった嘲りの言葉として聞かれるかも知れません。その時の詩人は、しかし、神がどこにおられるのか、答えを持ち合わせていませんでした。「いつ御前に出て、神の御顔を仰ぐことができるか」(同3節)と訴え、「昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり」(同4節)と呟いています。

 

 そうした中から、「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ、なぜ呻くのか」(同6,12節)と自らを叱咤し、 「神を待ち望め。わたしはなお告白しよう、『御顔こそ、わたしの救い』と」(同6,12節)と信仰を言い表します。

 

 私たちは、「主イエスは今、私の内に、私と共におられる。御言葉をもって私を支え導いておられる」と答えましょう。そう感じるからというのではなく、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ福音書28章20節)、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ書2章20節)という御言葉を信じるからです。

 

 神が喜ばれるのは、私たちの感覚などではなく、信仰です(ヘブライ書11章4節)。いつも共にいてくださる主に心を向け、絶えず御言葉に信頼して歩みましょう。主は私たちを愛して、平安と喜びを授けてくださいます。

 

 若者がおとめの美しさをたたえているように、主なる神はイスラエルを「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ書43章3節)ていると語っておられます。主イエスは、私たちのために命を捨てると言われるほどに、愛を示してくださいました。その愛に応えるべく、私たちも主を慕い求めて参りましょう。

 

 主よ、私たちが聞くのに早く、離すのに遅く、また怒るに遅くあるようにしてください。御言葉を聞くだけで終わる者ではなく、聴いて行う人にならせてください。舌を制して悪を言わず、唇を閉じて偽りを語らず、悪から遠ざかり善を行い、平和を願って、これを追い求めさせてください。 アーメン

 

 

「もう一度出ておいで、シュラムのおとめ、もう一度出ておいで、姿を見せておくれ。マハナイムの踊りをおどるシュラムのおとめに、なぜ、それほど見とれるのか。」 雅歌7章1節

 

 冒頭の言葉(1節)の初めに「帰れ」(シュービー)という言葉が二度繰り返されているのを、新共同訳は「もう一度出ておいで」と訳しています(口語訳では6章13節)。そして、「もう一度出ておいで」と二度繰り返されているということは、「帰れ」が四度も出て来るということです。つまり、しきりに「戻って来い」と呼んでいるわけです。

 

 「姿を見せておくれ」は「わたしたちはあなたを見たい」という言葉です。それに対して、「なぜ、それほど見とれているのは」は、「あなたがたはどうして見ているのか」という言葉遣いで、1節前半と後半で呼びかけている相手が替わっています。

 

 まず、合唱の男たちが「帰れ、帰れ、あなたを見たい」と呼びかけ、それに対して「どうして見たいのか」と合唱の男たちに尋ねるというやりとりになっています。 

 

 6章12節に「知らぬ間にわたしは、アミナディブの車に乗せられていました」とあり、それで、おとめが若者から引き離されてしまっていたということなのでしょう。アミナディブとはどういう人物であるのか分かりませんが、あるいは、これを「高貴な民」という普通名詞と解釈して、王や貴族など位の高い者の馬車でどこかに連れられて行ったと想像することも出来そうです。

 

 「シュラムのおとめ」とありますが、「シュラム」という地名は知られていません。ナザレの南、エスドラエロンの谷のシュネム(ヨシュア記19章18節)のことかと考える人もいます。あるいは、ダビデ王のもとに連れて来られたシュネム生まれのアビシャグに因み(列王記上1章3節参照)、美しい娘のことを「シュネム=シュラムのおとめ」ということにしたのかも知れません。

 

 そして、「マハナイムの踊り」(1節)とは、ヤボク川の上流、ギレアドのマハナイムに伝わる踊りでしょうか。あるいは、マハナイムとは「二つの陣営」という意味ですから(創世記32章3節)、二列に並ぶ軍隊の前で、あるいは二組の軍隊の間での踊りということでしょうか。

 

 「マハナイムの踊りをおどるシュラムのおとめに、なぜ、それほど見とれるのか」という言葉をだれが語っているのかということでも、解釈が変わります。エルサレムのおとめたちの言葉とすると、「美しい女性、踊りの上手な女性は、シュラムのおとめだけじゃないよ」といった、やっかみ混じりの言葉ということになります。

 

 また、おとめの恋人たる若者の言葉だとすると、恋人の美しさを見て欲しいと思う反面、「そんなに目を凝らして見るな、彼女はわたしのものだ」といった主張のように聞こえます。

 

 あるいはまた、シュラムのおとめ自身の言葉とすれば、今度は少々恥じらいを含んだ、謙遜な言葉ということになるでしょう。合唱隊との対話の相手ということでいえば、シュラムのおとめ自身の言葉と考えるのが一番スムーズなのではないでしょうか。

 

 話は変わりますが、マハナイムは、イスラエルの父祖ヤコブがハランの地で財産をなし、兄エサウに再会するために戻ってきた場所です(創世記32章3節)。ヤコブはそこで、神の御使いたちを見ました。ここは神の陣営だということから、マハナイムという名がつけられたと説明されています。

 

 その地から、兄エサウに使いを送り、帰国の報告をします。エサウが400人の供を連れて迎えに来ると聞いたヤコブは、持ち物を二組に分けます。マハナイムで持ち物を二組に分けるというのは、意味深長ですね。

 

 ヤコブは兄エサウの長子の権利や父親の祝福を騙し取ったという負い目があり、兄エサウが自分を歓迎するために出てくると思えなかったので、一組がやられている間に逃げ出そうと考えていたのです。

 

 ところが、再会したエサウは、そのことに一言も触れませんでした。既に弟を赦していたのです。そのことに感激したヤコブは、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから」(同33章10節)と言います。

 

 これは、ヤコブのエサウに対するおべんちゃらとも聞こえる言葉ですが、罪の赦し、負い目が赦されるのは、神の愛の御業であるという表現、兄エサウの背後に神を見るという言葉ではないでしょうか。それは、ヤコブがマハナイムで見た神の御使いたちが、ヤコブとエサウの間に働いておられたということなのでしょう。

 

 私たちを守る神の陣営が、私たちの傍にもあり、主を信頼する私たちがマハナイムの踊りをおどって賛美するのを、主は待っておられると解釈するのも、興味深い読み方でしょう。

 

 また、「シュラムのおとめ」(シュラミート)とは、「ソロモン」(シェロモー)と対になる女性形の言葉だという解説があります。ということは、「平和」(シャローム)や「平和の礎」(エルシャライム=エルサレム)という言葉と同根ということになります。

 

 「平和のおとめよ、平和の人ソロモンの待つエルサレムに戻っておいで」と繰り返し招いて、平和の礎たる都エルサレムに、平和と呼ばれる人々の出会いと交わりが起こる。 つまり、エルサレムの町は、平和が訪れることを待ち望んでいる。それは、神との出会いこそ、真の平和であると考えているというメッセージでもあるようです。

 

 絶えず主を仰ぎ、静かにその御言葉に耳を傾け、主との深い交わりを通して、真の平和に導いていただきましょう。聖霊の満たしに与り、心から主を褒め称えましょう。 

 

 主よ、あなたの深い愛と憐れみによって守られ、導かれていることを感謝致します。私たちの目を開いて、私たちを取り囲む主の軍勢が、どんな敵よりも強く、また大きいものであることを知り、真の平和、平安に与らせてください。御霊の満たしと導きを受けて、御前に歌と踊りをもって心から賛美をささげさせてください。 アーメン

 

 

「わたしを刻みつけてください。あなたの心に、印章として、あなたの腕に、印章として。愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い。火花を散らして燃える炎。」 雅歌8章6節

 

 シュネムのおとめが、冒頭の言葉(6節)で「わたしを刻みつけてください。あなたの心に、印章として、あなたの腕に、印章として」と語っています。古代社会において、身分のある人々は個人の印章を持っていて、書類や手紙などに印をつけていました。

 

 それは、今日の実印のような、あるいはクレジットカードのような役割を果たしていました。創世記38章18節に「ひもの付いた印章」という言葉がありますが、それは、大切なものですから、紐をつけて首からぶら下げ、あるいは体に巻き付けていたわけです。

 

 また、印章を指輪にしてはめるという習慣もあります。エレミヤ書22章24節に「ユダの王、ヨヤキムの子コンヤは、もはやわたしの右手の指輪ではない」というのは、その習慣を背景とした言葉で、ユダの王コンヤが、主にとって大切なものではなくなったと言っているわけです。

 

 その意味で、恋しい若者の心や腕に、印章としておとめを刻みつけるということは、若者の心と腕を見れば、それがおとめのものであることがわかるということでしょう。そしてまた、おとめが、印章と同様、最も大切な存在であるということを、おとめを腕に抱きとめ、心の中心に迎えて、対外的に明らかにして欲しいということでしょう。

 

 「愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い」というのは、凄まじい言葉ですね。死は、誰の人生にも否応なく訪れ、そこから逃れることが出来ません。「陰府」は、死者の送り込まれる暗黒の世界です。

 

 「愛は死のように強く、熱情は陰府のように酷い」とは、恋人を愛する思いが非常に強くて、もしもそれが裏切られるということになれば、どんなに嫉妬に狂うだろうかといった表現だと思われます。つまり、可愛さ余って憎さ百倍といったところでしょう。

 

 「あなたの神、主は焼き尽くす火であり、熱情の神だからである」という言葉が、申命記4章24節にあります。また、出エジプト記20章5節には「あなたはそれら(偶像)に向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問う」と記されています。

 

 神が真実の深く豊かな愛で私たちを愛してくださっていること、それゆえ私たちもその愛に真心を込めて応答することを求めておられることが、ここに示されているわけです。

 

 イザヤ書49章16節に「見よ、わたしはあなたを、わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」という言葉があります。これは、神が捕囚とされたイスラエルを掌に刻みつけ、彼らを決して忘れてはいない、否、深く愛しておられるということを示しています。

 

 神が私たちを愛していてくださることについて、主イエスがルカ福音書15章11節以下の「放蕩息子のたとえ」のなかで、「印章」を用いて語っておられます。

 

 二人兄弟の弟息子が、親不孝にも財産の生前分与を父親に願い出て(同12節)、譲られたものをすべて金に換え、遠く離れた地で放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしてしまいました(同13節)。その上、飢饉で食べるに困り(同14節)、ある人に身を寄せたところ、畑で豚の世話をさせられます(同15節)。

 

 豚は汚れた動物とされるので(レビ記11章参照)、イスラエル国内では飼育されていません。ということは、弟息子が放蕩三昧に過ごしたところは、イスラエルではなかったということです。現在、イスラム教徒も豚肉を口にしません。それは、イスラム教徒が旧約聖書を自分たちの聖典として大事にしているからです。

 

 親元を遠く離れ、信じる神を異にする異邦の地で、ユダヤ教徒らの忌み嫌う豚の食べるもので腹を満たしたいと思うほど惨めな状態になったとき(同16節)、故郷の父親を思い出し(同17節以下)、勇気を振り絞り、重い足を引きずるようにして帰郷します(同20節)。親の顔に泥を塗るような真似をして家を飛び出しているので、息子と呼ばれる資格はないからです(同19節)。

 

 ところが父親は、彼を見つけると走り寄り、首を抱いて接吻し(同20節)、そして、「急いでいちばん良い着物を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」(同22節)と言います。

 

 ここで父親が言っているのは、もはや息子と呼ばれる権利、資格を失ってしまっている者を、もう一度息子として迎えること、処遇することです。ここに「手に指輪をはめてやり」という言葉があります。これは、その家の「印章」つまり実印を持たされたということで、家の財産を管理させるという意味もあるでしょう。

 

 なぜ、そこまでしてやれるのでしょうか。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったから」(同24節)と言っていますから、父親は弟息子が帰って来るのを、ずっと待ち望んでいたのでしょう。あるいは、手を尽くして探させていたのかも知れません。

 

 つまり、父親にとってこの放蕩息子は、まさしく心や腕につけられた印章なのです。そして、この放蕩息子とは私たちのことであり、父親は主なる神なのです。

 

 主は、私たちが主のものであることを証するしるしを、私たちに与えてくださいました。それは、独り子イエスが私たちのために贖いの供え物となられたことです。そのことは、父なる神の心にどれほど深く刻まれていることでしょうか。

 

 さらに、私たちはキリストを信じて、約束された聖霊で証印を押されています(エフェソ1章13節)。「この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです」(同14節)。

 

 主に愛されてその恵みに与っている者として、心から主を愛し、その御名をたたえる唇の実を絶えずささげましょう。

 

 主よ、あなたは私たちを宝物のように大切に愛してくださいます。私たちも、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、主を愛することが出来ますように。私たちの内にお住まいくださっている主の御言葉に日々聴き従い、御言葉を豊かに宿らせて、心から主を賞め歌うことが出来ますように。 アーメン

 

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