詩編②

 

 

「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。御前からわたしを退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。」 詩編51編12,13節

 

 この詩は、受難週に読まれる「七つの悔い改めの詩」(6,32,38,51,102,130,143編)の一つです。

 

 この詩は、「神よ、わたしを憐れんでください」(3節)の願いで始まり、5節以下、その願いの理由を述べ、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください」(9節)から願いが再開されます。

 

 そして15節で神の道を証しする誓いを立て、続く16,17節は、主を賛美するために救い出してくれるようにと願っています。18,19節はその動機で、シオンの再建といけにえが再び受け入れられるという希望をもって(20,21節)閉じられます。

 

 表題に、「ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき」(2節)と記されています。これは、サムエル記下11~12章に記されている出来事です。6節とサムエル記下11章27節、12章13節の言葉上のつながりから、そのような解釈が生まれたのでしょう。

 

 イスラエルの王ダビデが、自軍の兵士ヘト人ウリヤの妻バト・シェバと密かに関係を持ち(同11章4節)、それで懐妊したことを知ると(同5節)、それを誤魔化すために策を弄し(同6節以下)、それが上手くいかないとみると、最後には戦死に見せかけて、ウリヤを殺してしまいます(同14節以下)。それから、バト・シェバを自分の妻として迎えたのです(同27節)。

 

 完全犯罪が成立するかのように見えましたが、それは勿論、神の御心に適うことではありませんし(同27節)、その目を誤魔化すことは出来ません。主なる神は、ダビデのもとに預言者ナタンを遣わしました(同12章1節)。

 

 ナタンは二人の男の話をします。一人は裕福、一人は貧しい男です(同1節)。貧しい男は、唯一の財産である一匹の雌の小羊を娘のように可愛がっていました(同3節)。裕福な男の家に来客があり、自分の羊や牛を屠るのを惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて客に振る舞ったという話です(同4節)。

 

 それを聞いたダビデは激怒し、そんな無慈悲なことをした男は死罪だと、ナタンに言います(5節)。ナタンが、「その男はあなただ」(同7節)と告げると、それを聞いたダビデはすぐにそれを認め、「わたしは主に罪を犯した」(同13節)と答えました。

 

 そのようなダビデの振る舞いから、あらためて私たちの罪の問題を考えさせられます。それは、神の御前に出るまで、自分の罪の本質が分らないということです。ダビデは、ナタンが語った話で、裕福な男の無慈悲な振る舞いに激怒しました。しかし、ナタンに指摘されるまでは、それが自分のことだとは気づかなかったのです。

 

 部下の妻を奪い、そのために部下を殺したのは、自分の姦淫の罪が露呈することを恐れたためです。初めからそうしようと考えていたわけではありませんでしたが、ウリヤがバト・シェバと関係を持つように計らったのに、ウリヤがそれに乗らなかったので、やむなくそうせざるを得なくなったわけです。ゆえに、それが無慈悲な行為だとは思っていなかったのでしょうか。

 

 あるいは、一国の王として、自分がしたいように振る舞うのは当然だとさえ、考えていたのかも知れません。それほど極端ではなくても、私たちは自分の行為を自分の理屈で正当化して、罪を罪としないところがあると告白せざるを得ません。

 

 この詩の中で、ダビデは神の憐れみを求め、罪から清められることを願いました(3,4,9,11節)。そして、冒頭の言葉(12節)のとおり、「清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」と求めます。

 

 悔い改めといえば、「ごめんなさい。このような悪事は、もう二度としません。これからは、このようにします」ということが語られていそうですが、そういう言葉は、どこにもありません。ダビデは今、自分の罪深さに圧倒されているのです。

 

 6節で「あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し」というのは、他所では犯していないということではありません。自分の罪はすべて、神に対して犯したものだという告白なのです。

 

 7節の「わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです」というのは、「原罪」ともいうべき罪の性質を自分のうちに見出したという表現でしょうか。

 

 パウロが、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」(ローマ書7章19,24節)と語っているのも、同じ消息です。

 

 このような罪の認識に自分の無力を思い知らされた詩人は、もし自分が生きる道があるとすれば、それは、虫が良すぎるけれども、勝手が過ぎるけれども、神の憐れみにすがり、「清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて」いただくほかはないと悟ったのです。

 

 清い心、新しく確かな霊を授けて欲しいというのは、エレミヤ書24章7節、31章33節、32章39,40節、エゼキエル書36章25節以下などにある神の約束を成就するようにという願いでしょう。

 

 「清い心」とは、神に背き、敵対する心が清められることにより、神に向かって開かれ、その導きに従う心、思いを示します。そして、「新しく確かな霊」は、神に向かって整えられ、確かなものとされた思い、意志を示しているようです。 

 

 授けられた清い心、新しく確かな霊は、詩人に救いの喜びを味わわせ(14節)、恵みの御業を喜び歌わせます(16,17節)。それは、神の前に打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心です(19節)。

 

 主イエスは、私たちの罪のために刺し貫かれ、打ち砕かれました(イザヤ書53章5節)。だから、清い心、打ち砕かれた霊とは、主イエスを信じ、受け入れた人の心をいうのです。この詩編が受難週に読まれるのは、そのことを確認し続けるためなのです。

 

 主の福音の光に照らされて自分の罪を認め、主イエスを信じ、それを公に言い表して、心の内に主イエスの霊を授けていただきましょう。 

 

 主よ、この世には様々な悪が満ちています。そして、私たちもそれと無縁ではありません。罪が私たちを圧倒しています。私たちを洗ってください。私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。主イエスが私たちの内にあって生きておられると、告白し続けさせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心を行う者となりますように。 アーメン

 

 

「わたしは生い茂るオリーブの木。神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます。」 詩編52編10節

 

 52編は、まず悪事を働く者の破滅を語り(3~6節)、神が悪人を滅ぼされるのを見て神を畏れることを学び(7~9節)、神への信頼を告白し(10節)、感謝と賛美で閉じられます(11節)。

 

 表題に「エドム人ドエグがサウルのもとに来て、『ダビデがアヒメレクの家に来た』と告げたとき」(2節)とあります。これは、サウル王に命を狙われて逃げ出したダビデが、その途中、ノブの祭司アヒメレクを訪ね、パンと剣を求めたという、サムエル記上21、22章の出来事を示しています。

 

 アヒメレクのもとに、サウルの家臣でエドム人のドエグがいました(同21章8節)。ドエグはサウル王に、「エッサイの子が、ノブにいるアヒトブの子アヒメレクのところに来たのを見ました。アヒメレクは彼のために主に託宣を求め、食糧を渡し、ペリシテ人ゴリアトの剣を与えました」(同22章9,10節)と報告しました。

 

 サウル王は、アヒメレクの釈明(同14,15節)に耳を貸さず、彼とその家の者を死罪とし(同16節)、主の祭詞を剣にかけるのを恐れる家臣たちにかわり(17節)、ドエグに討たせました(同18節)。アヒメレクの息子アビアタル一人だけがただ一人、その難を逃れることが出来(同20節)、ダビデにそのことを知らせたのです(同21節)。

 

 3節の「力ある者」(ハ・ギッボール)とは、定冠詞付きの「権力者」という言葉ですから、この詩の編集者は、サウル王のことを念頭に置いているようです。ただ、6節の「人を破滅に落とす言葉、欺く舌を好む」という言葉から、ドエグのことを皮肉を込めて、「力ある者」と呼んでいると考えたのかも知れません。

 

 彼は悪を好み(5,6節)、神を頼まず、莫大な富に信頼する者です(9節)。つまり、人間の能力や資産を自分が生きる基盤としているのです。そして、その権力で社会秩序を破壊し、善を愛して正しく歩もうとする者、神を畏れ、依り頼む者を苦しめていたのでしょう。 

 

 7節で「神はお前を打ち倒し、永久に滅ぼされる。お前を天幕から引き抜き、命ある者の地から根こそぎにされる」と詩人は語っており、それは、最後に正義が勝つという宣言のようですが、現実はそのようには見えません。むしろ、悪の権力に圧倒されそうになっている者の、やせ我慢のようにさえ聞こえます。

 

 王の絶対的な力を背景として、破滅をもたらす「力ある者」の前に、根こそぎにされそうになっているのは、むしろ詩人の方なのです。9節に、「見よ、この男は神を力と頼まず、自分の莫大な富に依り頼み、自分を滅ぼす者を力と頼んでいた」とあり、神に従う者は神を畏れて、このような者を笑うというのですが、本当に笑えるでしょうか。

 

 確かに、富が命を保証しないことは知っています。けれども、私たちは本気で笑えるでしょうか。私は「莫大な富」など持ち合わせてはいませんが、しかし、銀行の預金残高を全く気にしないではいられません。残高がゼロになっても、主に依り頼んでいるから、何の心配もないとは言えません。

 

 主イエスが、「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだやさしい」と言われたとき(マタイ福音書19章24節)、弟子たちは、「それでは、だれが救われるのだろうか」(同25節)と反応しています。これは、自分の持ち物をすべて捨てて、永遠の命を求めるという人など、一人もいないということを表しています。

 

 誰も、自分の持ち物や行いをすべて主の御前に持ち出して、自分には永遠の命を得る資格、その権利があるとは言えないということです。永遠の命は、神の深い憐れみによって与えられるのです。パウロが「あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェソ書2章8節)と記しているとおりです。

 

 詩人は、冒頭の言葉(10節)のとおり、「わたしは生い茂るオリーブの木、神の家にとどまります。世々限りなく、神の慈しみに依り頼みます」と言います。オリーブの木が生長し、実を結ぶことが出来るのは、枝振りの立派さなどではなく、日光や水、土と養分があるからです。そこから離れて生きることは出来ません。

 

 詩人にとってそれは、神の家に留まり、神の慈しみに依り頼むことなのです。ダビデが王として立てられ、どのような苦難からも守られたのは、神の慈しみがあったからです。

 

 ただ、ダビデの時代に「神の家(=神殿)」はまだ存在していませんでした。息子ソロモンが神殿を建築したのです(列王記上6章)。ダビデにとっての「神の家」とは、神を礼拝するところを指していると考えたらよいでしょう。そこに主はおいでになるからです。ダビデの心には、罪赦され、贖われた者としての感謝と喜びがありました(32編1,2節)。

 

 詩人が神の家に留まることが出来るのは、神の慈しみのゆえであることを悟り、神の愛に信頼し、主の御名に希望を置いているからです(11節)。主こそ、希望の源であり、平和の源、救い主であられます(ローマ書15章13,33節)。

 

 私たちも恵みに主に依り頼み、その御名を呼び、希望と平安に満たされ、主に従う道をまっすぐに歩ませていただきましょう。

 

 主よ、私たちは御子キリストの贖いにより、罪赦され、神の子とされ、永遠の命に与りました。それは一方的な恵みです。自分の行いを御前に誇ることの出来る者はいません。ただ感謝と賛美をおささげするのみです。私たちの唇の実、賛美のいけにえをお受けください。いよいよ御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン

 

 

「それゆえにこそ、大いに恐れるがよい。かつて、恐れたこともなかった者よ。あなたに対して陣を敷いた者の骨を、神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた。」 詩編53編6節

 

 この詩は、詩編14編と非常によく似ています。細かく比較してみるのも、味わい深いものです。主な違いは二つです。

 

 一つは、14編で「主」(ヤハウェ)と記されている神の名が、すべて一般名詞の「神」(エロヒーム)とされています。これは、14編がヤハウェ(主)を讃える詩であるのに対し、53編は、42編から始まった詩編の第2巻に含まれるエロヒーム(神)を称える部類に属しているからと説明されます。

 

 ただ、世界に神がただお一人であられるのなら、固有名詞であろうが、一般名詞であろうが、何の問題もないということになるのかも知れません。けれども、神と呼ばれるものが八百万もある状況から、一般名詞よりも固有名詞の方がより明確であろうと思われます。

 

 十戒の「主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という規定が問題になるなら、「わたしを呼べ」(53編15節、イザヤ55章6節、エレミヤ33章3節など)と言われる主に、どのように呼べばよいのかを尋ねるべきなのかも知れません。韓国人のように、「ハナニム(お一人様)」、「ハナニメ・アボジ(一人様のお父様)」と呼ぶのも、一つの手でしょう。

 

 今一つは、冒頭の言葉(6節)です。14編5,6節には「そのゆえにこそ、大いに恐れるがよい。神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをお前たちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる」と記されていました。不法を行う者たちが、自分の利益のために貧しい人々を食い物にし、搾取しようとする抜け目ない企みは、神に挫折させられるということです。

 

 それが53編で冒頭の言葉のように変えられたということになると、少々困惑させられます。「大いに恐れるがよい」と告げた後、「かつて、恐れたこともなかった者よ」というのであれば、それに続く言葉は14編と同様、神が貧しい者をお前たちの手から救い、そして、お前たちに裁きを下すといった内容のことが語られると想像されます。

 

 ところが、「あなたに対して陣を敷いた者の骨を神はまき散らされた。神は彼らを退けられ、あなたは彼らを辱めた」というのです。これでは、悪を為す者に向かって陣を敷き、攻撃しようとした者たちを神が殲滅して、彼らの名を挙げさせられたということになってしまいます。これはいったい、どのように考えたらよいのでしょうか。

 

 新共同訳聖書が、「恐れたこともなかった者よ」と「あなたに対して陣を敷いた者の骨を」の間に空白を置き、段落を変えているのは、内容的に、ここに断絶があると考えているわけです。つまり、「大いに恐れるがよい」といわれている「悪を行う者」と、「あなた」と呼びかけられている者とは、別の存在だという解釈です。

 

 それは、悪を行う者が恐れなければならないのは、神が彼らを退け、滅ぼされ、その骨をまき散らされるからで、たとえば、3節の「目覚めた人、神を求める人」に対して「あなた」と呼びかけて、彼らのためには、神の守りが期待できるということを示していると読むわけです。

 

 そのことについて、この空白が、バビロン捕囚を示していると考えるのも、興味深い解釈でしょう。イスラエルの民は、神に背いた罪のゆえに国を失い、捕囚の憂き目を見ました。まさしく、神がイスラエルの上に、恐るべき事を為されたのです。だから、かつて恐れたこともなかった者よ、大いに恐れよと言われたわけです。

 

 けれどもそれは、イスラエルを滅ぼし尽くしてしまうためではありませんでした。彼らが悔い改めて神の御前に謙り、再び主の御名を呼び求めるように(エレミヤ書29章11節以下)、そうして、新しい契約をイスラエルの家、ユダの家と結ぶためです(同31章31節以下)。

 

 ただし、イスラエルの民が悔い改めたから、捕囚から解放されるというのではありません。神の憐れみによって、解放の恵みに与ったので、悔い改めて神に従う者となるのです。そのために、イスラエルを支配していたバビロンを退けてくださるということです。それゆえ、「目覚めた人、神を求める人」となりなさいと勧められているのです。

 

 主イエスが十字架で贖いの供え物として死んでくださったのも、私たちが悔い改めたからではありません。私たちは、「神などない」と言わんばかりに愚かなことを語り、悪を行っていた者です。

 

 そのような罪人の私たちのために、主イエスが十字架に死んでくださることで、私たちに対する愛を示してくださいました。敵対している私たちのために、その贖いの死によって、神と和解する道を開いてくださったのです(ローマ書5章8,10節)。

 

 放蕩に身を持ち崩し、財産を使い果たして帰って来た息子のために肥えた子牛を屠って祝宴を始めたという「放蕩息子のたとえ」(ルカ福音書15章11節以下、23,24節)のように、主イエスは私たちを父なる神のもとへ連れ帰ってくださり、親しく食卓を囲む交わりに迎えてくださいました。

 

 「神が御自分の民、囚われ人を連れ帰るとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」(7節)と言われるとおり、私たちはただ、主の御名を「ハレルヤ!」とほめ讃えるのみです。

 

 主よ、深い御愛を心から感謝致します。私たちが神の子とされるためにどれほどの御愛を頂いたことでしょうか。御独り子が十字架で血を流し、罪の呪いを一身に負い、贖いの業を成し遂げてくだったことを常に心に刻み、御名をほめ讃えさせてください。聖霊に満たされ、主の愛と恵みの証し人として用いてください。 アーメン

 

 

「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる。」 詩編54編6節

 

 54編は、「神よ」(3節)と呼びかける言葉をもって始まる、個人的な救いを求める祈りの詩です。表題に「マスキール」(1節)とあり、これは教訓という意味です。救いを求める祈りはこのようにすればよいと教える詩だと、編集者が考えたのでしょう。

 

 3,4節に、救いを求める願いの言葉があります。続く5節に、願いの理由、救ってほしいわけを述べます。そして6節以下には、神が祈りを聞き、助けてくださるという信頼の言、感謝の言葉があります。

 

 詩人の願いは、「御名によって、わたしを救い、力強い御業によって、わたしを裁いてください」(3節)ということです。「御名」と「力強い御業」、「救い」と「裁き」を同じ意味合いで用いています。「御名」とは神ご自身のことです。「力強い御業」は「力、強さ」(ゲブーラー)という言葉で、神の御力が働くことを示しています。

 

 ここで、「わたしを裁いてください」(テディーネーニー)とは、「正当に判断してください(judge)、嫌疑を晴らしてください(vindicate)」ということですし、新改訳のように「弁護してください(plead)」という意味にもとれます。不当な裁判で苦しめられているということでしょうか。あるいは、裁判という手続きもなく、乱暴に扱われているということでしょうか。

 

 詩人を苦しめる敵について、5節に「異邦の者」、「暴虐な者」と記されています。「異邦の者」(ザーリーム)という言葉について、新改訳は「見知らぬ者」、フランシスコ会訳は「よそ者」と訳しています。神の律法を守らない者たちが詩人の命を狙っているということでしょう。また、彼らは、罠をもうけて詩人を陥れようとしてもいるようです(7節)。

 

 表題に、「ジフ人が来て、サウルに『ダビデがわたしたちのもとに隠れている』と話したとき」(2節)と記されています。それに従えば、ダビデの命を狙うサウル王、あるいはサウルにダビデのことを密告したジフ人のことを、「異邦の者」と呼んでいることになります。

 

 しかし、「ジフ人」とは、ヘブロンの南東5キロほどのところにある町に住んでいる、ダビデと同じユダ部族に属する人々のことです。また、ダビデの命を狙っているサウル王は、勿論ユダヤ人であって、「異邦の者」ではありません。そのためでもあると思いますが、口語訳や岩波訳では、ザーリームを異読のゼイディームと読み替えて、「高ぶる者、傲慢な者」と訳しています。

 

 ジフ人がサウルに「ダビデが私たちのもとに隠れている」と話したときというのは、サムエル記上23章15節以下の出来事を指しています。ダビデは、サウル王から逃げる途中、ペリシテに襲われたケイラの町を救いましたが(同23章1節以下、5節)、町の人々はダビデをサウルに引き渡すという恩知らずな仕打ちをするというので(同9,12節)、ダビデはジフの荒れ野に逃れます。

 

 そのとき、ジフの町の人々がサウル王のもとに行き、「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます」(同19節)と告げ、「王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です」(同20節)と申し出ています。

 

 ジフの人々は上記の通りユダ部族ですし、ケイラの町もユダの地にあります。いうならば、ダビデは親類縁者から、彼の命を狙う者に売り渡されてしまっているわけです。

 

 その背景には、ノブの祭司アヒメレクが、ダビデに協力したという理由でお家断絶という仕打ちをサウル王から受けたという事件を上げることが出来ます(同21~22章)。つまり、ジフのホレシャの要害に隠れているダビデを、ジフの人々がかくまっていたという理由で滅ぼされてはかなわないので、サウルに塩を贈ることにしたのだろうと考えられます。

 

 あるいは、エッサイの末息子がサウルに取りたてられて王の太刀持ちから(同16章21節)、戦士の長(同18章5節)、千人隊の長となり(同12節)、サウル王の婿にもなったことを(同17節以下27節)妬ましく思っていたのかも知れません。サウル王だけでなく、親戚までが敵となる四面楚歌の状況でその心境を詠ったのが、この詩ということになるわけです。

 

 そうであるならば、この詩を詠んだダビデ、さすがは信仰の人ということになります。誰も味方してくれないという中で、冒頭の言葉(6節)のとおり、「見よ、神はわたしを助けてくださる。主はわたしの魂を支えてくださる」と、その信仰を言い表しています。この詩がマスキール(教訓詩)とされる所以です。

 

 5節で「彼らは自分の前に神を置こうとしていない」と記していますから、それによって詩人は、自分の前に神を置いていると語っていることになります。16編8節に「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」と詠われていました。口語訳は直訳的に「わたしは常に主をわたしの前に置く」としています。

 

 それは、ダビデ自身が神を目の前に置くというよりも、神がいつも自分の前におられることに気づくということでしょう。いつも神が見えていたわけではありません。時には、神の姿が見えなくなります。失敗してしまうことがあります。苦しい状況に陥ると、神は本当におられるのかと思うこともあります。

 

 ダビデは、義父サウルから命をつけ狙われます。サウルはダビデの評判を妬み、王位を奪われることを恐れたのです(同18章9節、20章31節など)。だから、ケイラを襲ったペリシテ軍の討伐ではなく、ペリシテの襲撃からケイラを救ったダビデを狙ってサウルは軍を動かしました(同23章6節以下)。

 

 ケイラをペリシテの手から守ったダビデと、そのダビデの命を狙うサウル、どちらがイスラエルの王にふさわしいでしょうか。しかし、そのところで、ダビデはその恩を仇で返されるような目に遭いました。親戚から売られるという悲哀を味わったのです。

 

 ダビデは、そのような出来事を通じて、忍耐や従順を学びました。本心に立ち帰って、人間に頼るのではなく、生きておられる真の神に頼ることを学んだのです。ケイラの人々の裏切りと、ジフの人々の密告の出来事の間に、サウルの子ヨナタンがダビデのもとに来て、神に頼るようダビデを励ましたという記事があります(同16~18節)。まさに、苦難の中にも、神の導きが与えられていたわけです。

 

 神は、御自分を愛する者を「計画に従って召した者」と呼ばれ、彼らのために、万事を益となるようにして共に働くと言われます(ローマ書8章28節)。私たちの助け主、私たちを絶えず支えてくださる主を信じ、「御名によって私たちを救い、力強い御業によって、私たちを裁いてください」と求めつつ、絶えず感謝と賛美を献げて歩みましょう。

 

 主よ、ダビデの信仰から、苦難によって祈ること、忍耐すること、主に希望を置くことを学びました。耐えられないような試練には遭わせ給わず、乗り越える道も備えてくださることを感謝します。絶えず祈りへ、賛美へと、御名のゆえに正しい道に導いてください。御言葉がこの身になりますように。 アーメン

 

 

「あなたの重荷を主に委ねよ、主はあなたを支えてくださる。主は従う者を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださる。」 詩編55編23節

 

 55編は、都にはびこる不法と争い、災いと労苦、搾取と詐欺(10~12節)に悩む詩人が、神に救いを求める祈りです。表題に「マスキール」(1節:「教訓」の意)とあり、そのような苦難の時に、どのように振る舞うべきか、この詩を通して、読者に教えているわけです。

 

 詩人は、「鳩の翼がわたしにあれば、飛び去って、宿を求め、はるかに遠く逃れて、荒れ野で夜を過ごすことができるのに。烈しい風と嵐を避け、急いで身を隠すことができるのに」(7~9節)と語って、静かに枕出来る宿を切望します。しかし、翼はありません。そして、逃げ出すことも出来ません。

 

 特に詩人を悩ませているのは、「嘲る者」の存在です。しかもそれは、「敵、憎む者」ではなく、「それはお前なのだ。わたしと同じ人間、わたしの友、知り合った仲」という親しい間柄であり、「神殿の群衆の中を共に行き来した」という、信仰を同じくする友なのです(14,15節)。その友が、「自分の仲間に手を下し」(21節)、「抜き身の剣に等しい」言葉で突き刺すのです(22節)。

 

 詳細は不明ですが、親しい友の裏切り行為によって詩人は深く傷つき、立ち上がる力も失ってしまったのではないでしょうか。エレミヤ書9章1節に、「荒れ野に旅人の宿を見いだせるものなら、わたしはこの民を捨て、彼らを離れ去るであろう。すべて、姦淫する者であり、裏切る者の集まりだ」とあります。「兄弟ですら信用してはならない」(同3節)というほどに国に暴虐が満ち、逃げ出したいといっているわけです。

 

 ミカ書7章1~6節にも、国が乱れ、民の腐敗を嘆く預言者の哀歌が記されています。詩人の心も、そのようなものだったのでしょう。

 

 ユダヤ人をかくまったためにドイツ秘密警察ゲシュタポに捕らえられ、厳しい拷問を受けたというドイツ人の話を読みました。彼はそれに耐えて、何とか終戦を迎えることが出来ました。それなのに、解放されて間もなく、自ら命を絶ってしまったそうです。

 

 それは、彼をゲシュタポに密告したのが、自分の家族だったと分ったからでした。ナチスに抵抗し、獄中の苦難に打ち勝ったその人も、家族の裏切りというのは、耐えられないことだったのです。

 

 そのようなときに、「あなたの重荷を主に委ねよ、主はあなたを支えてくださる」という冒頭の言葉(23節)が響きます。力を失ってうずくまり、呻いていた詩人の心に響いて来た神の御声でしょう。

 

 ここで、「重荷」(エハーブ)という言葉は、「くじ」という意味があり、その人に与えられた分、運命という意味にもなります。その意味から考えると、重荷を主に委ねよというのは、荷物を降ろしなさいということにはなりません。「主は従う者を支え」ると言われているように、このような状況の中で主なる神を信頼し、主に従うことが、重荷を委ねるということなのです。

 

 「従う者」と訳されているのは、ツァッディーク(正しい)という言葉です。口語訳、新改訳は「正しい人(者)」と訳しています。これは、神と正しい関係にある者のことです。つまり、正しい人とは、主なる神に従う者ということです。その人を支え、とこしえに動揺しないように計らってくださるから、重荷を、運命を主に委ねて、その導きに従えというのです。 

 

 主イエスが、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11章28~30節)と言われました。

 

 主イエスは労苦を知らない方ではありません。友に裏切られる苦しみも味わわれました。その友は、接吻という親愛の情を表す挨拶をもって、主イエスを裏切りました(同26章48節以下)。「口は脂肪よりも滑らかに語るが、心に闘いの思いを抱き」(22節)とは、そのときのユダの振舞い、その心境とも考えられます。

 

 裏切られる痛み、心身の疲労をよく知っておられる主イエスが、私たちを休みへと招かれます。それは、主イエスと軛を共にするため、それによって荷を軽くするためです。主イエスに支えられて立ち上がり、共に前進するためです。

 

 であれば、パウロが「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります」(ローマ書12章19節)といった言葉も心に留める必要があります。

 

 つまり、報復する権限は私たちに与えられてはいないということで、だから、報復したいという感情も、報復すべき相手(敵)の取扱も、主に委ねよと言われているのです。私たちのなすべきことについて、「あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ」(同20節)、「悪に負けることなく、善をもって悪にかちなさい」(同21節)と告げられます。

 

 使徒ペトロも「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(第一ペトロ書3章9節)と言い、その根拠として詩編34編13~17節を引用しています(同10~12節)。

 

 そして、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(同5章7節)と語ります。彼は、主イエスのことを三度、知らないと否んだ経験を持っています(マタイ26章69節以下)。しかし、主イエスはペトロを立ち上がらせ、再び使徒として召されました(ヨハネ21章15節以下)。

 

 すべてを理解し、受けとめてくださる主イエスの深い愛を味わったペトロは、どんなときにも「わたしの重荷を委ねます」と祈って、信じて従う力を頂いたのです。確かに主は、信じて従って来る者を支え、動揺しないように、思い煩うことがないように、計らってくださるのです。

 

 主に重荷を委ね、主を信頼して歩みましょう。

 

 主よ、日本各地を襲った大規模自然災害で被災された方々、犠牲となられた方、その家族を憐れんでください。避難生活をしておられる方々を顧みてください。福島第一原発とその周辺で作業に当たっておられる方々を安全にお守りください。この国の行く末を支えてください。すべての荷を主に委ね、従って参ります。聖霊と御言葉によって導いてください。 アーメン

 

 

「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録に、それが載っているではありませんか。あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください。」 詩編56編9節

 

 56編は、主を信頼する者の「救いを求める祈り」です。その信頼について4,5節で「恐れを抱くとき、わたしはあなたに依り頼みます。神の御言葉を賛美します。神により頼めば恐れはありません。肉に過ぎない者が、わたしに何をなしえましょう」と言います。

 

 さらに10~12節で「神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう。神の御言葉を賛美します。主の御言葉を賛美します。神に依り頼めば恐れはありません。人間がわたしに何をなしえましょう」と語ります。

 

 「恐れを抱くとき」(4節)は「私が恐れる日」、「神を呼べば」(10節)は「私が呼ぶ日」という言葉遣いで、5節と11,12節は非常によく似ているので、4,5節と10~12節がこの詩のリフレインというかたちになっています。5節の「肉に過ぎない者」が12節で「人間」と言い換えられています。

 

 ここに、「恐れを抱く」と「依り頼む」、「肉に過ぎない者」と「神(主)」の対比があります。つまり、「肉に過ぎない者=人間」が詩人を踏みにじり、虐げ、恐れを抱かせるのです。だから、詩人は人間にではなく、主なる神を逃れ場として、「わたしはあなたに依り頼みます」というのです。

 

 その信頼は、神の救いの約束への応答です。「神の御言葉を賛美します」(5,11節)というのは、そのためです。

 

 「神を呼べば、敵は必ず退き、神はわたしの味方だとわたしは悟るでしょう」(10節)というのも、たとえば、「恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いに右の手であなたを支える」(イザヤ書41章10節)のような神の御言葉への応答と考えられます。

 

 表題に従えば、ダビデがサウル王から逃れて、ペリシテ人の町ガトの王アキシュのもとに来て、捕えられたときに、この詩を作ったということになります(サムエル記上21章11節以下)。これは、34編の表題と共通の出来事です。

 

 サウル王がダビデの命をつけ狙ったのは、ダビデが戦のたびに手柄を立てて、イスラエルの民の間に人気が高まるのを妬んだからです(同18章8節)。サウルは、自分の王位が危うくなる前にダビデを亡き者にしようと考えたわけです。

 

 しかし、ダビデはイスラエルの兵士であり、サウルの命により、イスラエルのために命懸けで戦っていました。しかも、サウルの娘婿でもあります(同12節以下、27節)。サウルの息子ヨナタンとダビデは、親密な関係にありました(同1節以下、19章1節など)。ダビデに謀反を起こす野心はありません。つまり、ダビデは謂れのない苦しみを受けていたわけです。

 

 その苦しみの果て、なんと彼は、これまで敵対していた隣国ペリシテのアキシュ王の下に身を寄せようとしています。サウル王の力の及ぶところでは、安らぐことが出来なかったのです。

 

 けれども、当然のことながら、ダビデの名は敵に知れ渡っており(同21章12節)、彼は捕らえられてアキシュ王の下に引き出されました。絶体絶命の時、ダビデはそこで気が狂ってしまったように見せかけて、何とか難を逃れます(同14節以下)。

 

 しかし、自国には戻れず、安易に他国に身を寄せることも適わず、これからどうすればよいのでしょうか。実に、途方に暮れる事態です。そのようなダビデの心境が、よくこの詩に現れているように思います。特に、神に依り頼む信仰を表明してはいるのですが(4,5節)、なお苦しい状態が続いています。「わたしの言葉はいつも苦痛となります」(6節)というとおりです。

 

 そこで、冒頭の言葉(9節)のとおり、「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです」と訴え、さらに「あなたの革袋にわたしの涙を蓄えてください」と祈っています。革袋は、その中に水などを蓄えておくための水筒であり、荒れ野を旅するときの必需品です。それに詩人の涙を蓄えてくださいと求めているのですから、神にこの苦しみ、悲しみを味わってみてくださいと求めているようです。

 

 涙を一粒残らず蓄えるということで、神に、すべての苦しみを知っていて欲しい、覚えていてほしいという願いが表されていると考えることが出来ます。それで、「あなたはわたしの嘆きを数えられたはずです。あなたの記録にそれが載っているではありませんか」と訴えているわけでしょう。

 

 ここで、「嘆き」は「ノド(さすらい)」という言葉で、創世記4章16節に「カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」と記されています。口語訳は「あなたはわたしのさすらいを数えられました」としています(新改訳、岩波訳も同様)。「さすらい」には「嘆き」がつきものですし、後半の「涙」との関連でその訳語になったのでしょう。

 

 そして、荒れ野の旅の必需品の「革袋」も、つづりは違いますが「ノド」と発音します。「さすらい」と「革袋」の語呂合わせで、神に自分の苦境を訴え、助けを求めているわけです。

 

 このダビデの祈りは、時代を超えて聞き届けられました。神の独り子キリストが、ダビデの子孫としてお生まれになったのです。彼は悲しみの人で、多くの痛みを負い、病いを知っています(イザヤ書53章3節)。

 

 罪を犯されませんでしたが、あらゆる点において、私たちと同様に試練に遭われました(ヘブライ書4章15節)。すべての人の罪を背負い、十字架で身代わりに死んでくださいました。その打たれた傷によって、私たちは癒されたのです(同53章5節、第一ペトロ書2章24節)。

 

 神は、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(ヘブライ書13章5節)と言われます。どんな時にも共にいて、私たちの苦しみ、悲しみを受け止め、慰め励まし、立ち上がる力をお与えくださいます。主イエスを信じ、その御言葉を信じて、命の光の中、神の御前を歩ませていただきましょう。

 

 主よ、私たちを憐れんでください。私たちはあなたに依り頼みます。あなたの御言葉を賛美します。あなたが私たちの味方となってくださるなら、私たちには恐れはありません。あなたが常に私たちと共にいて、命の光の中、御前を歩ませてくださるからです。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「目覚めよ、わたしの誉れよ。目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう。」 詩編57編9節

 

 57編は、6節と12節がリフレイン(折り返し)の役割を果たしているので、2節以下と7節以下の2部構成といえます。その内容は、第一部(6節まで)が、神の憐れみを願い、災いから救ってくださいという祈り、そして第二部(7節以下)は、願いを聞き届けてくださった神への感謝と賛美です。

 

 表題に「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」と記されています。サムエル記上22章1節以下の状況でしょうか。第二部の感謝と賛美から、同24章1節以下のエン・ゲディの洞窟におけるダビデとサウルをめぐる出来事が、その背景になっているようにも思われます。

 

 詩人の魂は敵に囲まれてうなだれ、屈み込まされていました(5,7節)。けれども、詩人は、神が祈りに答えてくださることを知っています。だからこそ、うなだれ、屈み込みながらも、さらに神の憐れみと救いを祈り願っているのです。

 

 詩人は、「いと高き神を呼び」(3節)、「天から遣わしてください、神よ、遣わしてください、慈しみとまことを」(4節)と求めます。詩人が神に遣わしてくださるよう願った「慈しみとまこと」とは、神のご本性といってよいでしょう。

 

 「慈しみ」(ヘセド)は神の変わらないご愛、「まこと」(エメト)は神の真実、真理を示すものです。詩人は、天に座しておられる神が、全権大使として「慈しみとまこと」を派遣してくださるようにと告げて、神ご自身による守り、救いを求めているのです。

 

 そして、屈み込んでいる詩人の目に、詩人を陥れる罠を仕掛け、落とし穴を掘った敵が、自らそこに落ち込んでいるのが見えました(7節)。つまり、詩人の願いに神が応えてくださったということでしょう。

 

 ダビデの経験から言えば、それは、ダビデが隠れていた洞窟にサウルが用足しに入ってきて、逆にサウルに手をかける絶好の機会となったというところでしょう(サムエル記上24章4節以下)。

 

 しかるにダビデは、油注がれた方に手をかけることを、主は決して許されないといって(同7節)、サウルに対する謀反の思いはないことを明らかにし(同12,13節)、それを受けてサウルは、「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエル王国はお前の手によって確立される」(同21節)と応じました。

 

 詩人は、これまでそのような経験を積み重ねてきたのです。そこで、「わたしは心を確かにします」(ナーコーン・リッビー、8節)と2度重ねて語ります。どんな境遇におかれても、また、そこに何があっても、神を信じて立ち上がろうというわけです。

 

 冒頭の言葉(9節)のとおり、「目覚めよ、わたしの誉れよ。目覚めよ、竪琴よ、琴よ。わたしは曙を呼び覚まそう」と語ります。ここで、「誉れ」(カーボード)という言葉を、口語訳は「魂」、新改訳も「たましい」と訳しています。「誉れ」は、6,12節の「栄光」と同じ言葉です。

 

 8節で「心を確かにして、あなたに賛美の歌をうたいます」と言ったあとに、「わたしの栄光よ」と語るはずはなかろうと考えて、口語訳などは「誉れ」を「肝臓、心=魂」(カーベード)と読み替えたのでしょう。あるいは、「誉れ」を自尊心と考えて、さらに「魂」と意訳したのでしょうか。因みに、2,5,7節の「魂」は「ネフェシュ」、8節の「心」は「レーブ」という言葉です。

 

 原文の異読には、「カーボード」と文字の形がよく似ている「キノール」をあてるものがあるようです。これは、このあとに出て来る「琴」という言葉です。つまり、「目覚めよ、わたしの琴よ、目覚めよ、竪琴よ、琴よ」という文章になるわけです。

 

 これらの訳語の中で「誉れ」と読むのが一番理解し難いものです。「魂」、「琴」などと記されていたものが「誉れ」と書き換えられる可能性と、「誉れ」と記されていたものが「琴」、「魂」と読み替えられる可能性を比較すれば、後者の確率が確実に高いと言わざるを得ません。難解な言葉を理解し易い言葉に書き換えると考えられるからです。だから、新共同訳は「誉れ」を選択したのでしょう。

 

 そしてこれは、敵に苦しめられ、屈み込んでいた詩人が、神によってもう一度奮い立とう、神に与えられた栄光を取り戻そうという意味に取ることが出来るのではないでしょうか。そのために、竪琴をかき鳴らして、「曙を呼び覚まそう」とうたいます。

 

 まだ夜明け前で、全く光を見ることが出来ません。けれども、必ず夜は明け、朝の光が輝くようになります。夜明けをじっと待つというのではなく、賛美によって心に夜明けの光をもたらしたい、神を仰ぎ、新しい朝の恵みに与りたいと願っているのでしょう。

 

 詩人は、竪琴、琴に代表される楽器をもって、そして信仰に目覚めた自分のすべて、声のかぎり歌い、手を打ち鳴らし、踊り、そのようにして体中で主を迎えようとしているのです。ちょうど、ダビデが神の箱をエルサレムに迎えたときのように(サムエル記下6章12節以下)。

 

 主なる神は、イスラエルの賛美を住まいとされ(22編4節)、賛美の中に栄光をもって臨まれます(歴代誌下5章13,14節)。「あなたの慈しみは大きく、天に満ち、あなたのまことは大きく、雲を覆います」(11節)という賛美は、祈りと願いに答えてくださる神に対する信仰の賛美であり、また、感謝の賛美です。

 

 私たちもこの詩人の信仰に学び、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝し、賛美する信仰で歩みましょう。それこそ、神が主キリスト・イエスにあって、私たちに望んでおられることだからです(第一テサロニケ書5章16~18節)。

 

 主なる神よ、天の上に高く今し、栄光を全地に輝かせてください。自然災害で不安と恐れに包まれている東北・関東の人々を、あなたの慈しみとまことで覆ってください。平和と安全が脅かされ、将来に希望を持つことが出来ないでいる人々に、あなたの慈しみとまことを遣わし、真の平安と希望を授けてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」 詩編58編12節

 

 58編は、神に公正な政治を求める祈りです。それは、正しい政治を行い、公平な裁判を行うべき権力者が、不正な政治を行い、不法を量り売りしているからです(2,3節)。

 

 彼らは、神に逆らい、偽りを語ります(4節)。詩人は、蛇使いでさえコントロールすることが出来ない毒蛇になぞらえ、誰の言葉にも耳を閉ざし、自分の思いのままに振る舞っていると断じます(5,6節)。まるで、昨今の我が国の政府与党の政権・議会運営のようです。

 

 2節冒頭で「しかし」と訳されているのは「エーレム」という言葉で、「沈黙、物言わぬ者」と訳されます。56編1節の表題にある「エーレム」は、「沈黙」と訳されています。2節を直訳すれば、「確かに沈黙よ、お前たちは正しく語り」といった言葉になり、意味不明です。そこで新共同訳は、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)を参考にして「しかし」と訳しています。

 

 また、口語訳、新改訳、そして岩波訳は、それとは違って「エレム」を「エリーム」(神々:エル(神)の複数形)と読み替える異読を採用し、岩波訳はそのまま「神々」とし、今年刊行された聖書協会共同訳もそう訳しています。口語訳、新改訳は「力ある者」と意訳しています。世の権力者、支配者たちが、神々の名を用いて不正を行っているという解釈です。

 

 不法がはびこり、それを公正に裁く者がいない、そんなことがあってもよいのかと、詩人はここで、不正を働く者も、それを公正に裁く責任を放棄してしまっている権力者も、共に断罪しているわけです。

 

 7節以下に①「彼らの口から歯を抜き去ってくださるように」、②「主が獅子の牙を折ってくださるように」、③「水のように捨てられ、流れ去るがよい」、④「神の矢に射られて衰え果て」、⑤「なめくじのように溶け」、⑥「太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい」、⑦「生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい」と記されています。

 

 詩人はここに、七つの言葉をもって、完全な裁きと呪いを語っているのです。

 

 詩人は、こんなに不法がはびこるようでは、神も仏もあるものか、とは言いません。詩人は、冒頭の言葉(12節)のとおり、「神はいます。神はこの地を裁かれる」と語ります。そうです、神はおられます。神がこの地上を裁かれます。

 

 不法がはびこるから神がおられないということであれば、この世に救いはありません。不法があり、それによって苦しめられている人があるからこそ、神が必要です。そして、神がおられればこそ、救いの道、命の道、義の道が開かれるのです。

 

 神はこの地を裁かれます。不義をそのまま見過ごしにされることはありません。けれども、その裁きは、詩人が期待した通りではないかもしれません。「神に従う人はこの報復を見て喜び、神に逆らう者の血で足を洗うであろう」とは、敵を完全に殲滅し、その屍を踏み越えて進む兵士のイメージでしょう。

 

 けれども、もし神が罪を犯す者を徹底的に殺し、滅ぼされるならば、誰が地上に生き残れるでしょうか。「だれもかれも背き去った。皆ともに汚れている。善を行う者はいない。ひとりもいない」(14編3節、ローマ書3章10節以下)と言われている通りです。

 

 後に詩編の編者が、「『滅ぼさないでください』に合わせて」という表題をつけました。上述のように、不法をなし、それを公正に裁こうとしない悪しき権力者を完全に滅ぼして欲しいと願っているような内容から考えれば、矛盾した曲名です。偶然、「滅ぼして欲しい」という歌を、「滅ぼさないでください」という曲で歌うことにしただけということではないと思います。

 

 確かに、悪は滅ぼされる必要があります。そうして、義と平和が支配する世界にならなければなりません。しかし、神はその裁きを、不法をなす者の頭に下したのではありませんでした。

 

 十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ福音書23章34節)と祈られた主イエスの執り成しを受け、神は罪人の私たちを御子キリストの贖いによって赦し、その血によって私たちの足を洗ってくださいました。十字架の贖いを通して、すべての者を赦し、清める救いの道を開かれたのです。

 

 主イエスを信じる者はだれでも、神の子どもとなる資格が与えられます(ヨハネ福音書1章12節)。誰もが、主イエスの道を通って父なる神のもとに行くことが出来るようにしてくださったのです(同14章6節)。神は私たちすべての者を、この救いに招いてくださったのです。

 

 このイエスの救いの前には、ユダヤ人もギリシア人もありません。奴隷も自由人もありません。皆、キリスト・イエスにおいてひとりなのです。それは、信仰によるアブラハムの子孫、約束による神の相続人となることです(エフェソ書3章28,29節)。

 

 神の憐れみにより、主イエスを信じて救いの恵みに与った者として、命の道、真理の道を主イエスと共に歩み、家族に、周りの人々にこの恵みを告げ知らせて参りましょう。

 

 主よ、はかり知ることの出来ない愛と恵みに感謝致します。神に愛されている者として、家族同士、隣人同士、互いに赦し合い、愛し合い、支え合い、祈り合って生活することが出来ますように。主の御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように。」 詩編59編13節

 

 59編は、神の救いを願う個人の祈りの詩です。

 

 「わたしの神よ、わたしを敵から助け出し、立ち向かう者からはるかに高く置いてください」(2節)と、祈り求めています。詩人は、「流血の罪を犯す者(たち)」(アヌシェーイ・ダーミーム、殺人者ということ、3節)、「力ある者(たち)」(アジーム、4節)という強力な敵にその命を狙われています。

 

 8節に「彼らの口は剣を吐きます」といい、「剣」は人を殺す道具なので、裁判の際の偽証や呪いの言葉など(13節も参照)、5編10節の「舌は滑らかで、喉は開いた墓」と同様、敵は人を滅ぼすために言葉を用いるのです。

 

 しかし、詩人には、敵から狙われる理由が分かっていません。「罪もなく過ちもなく、悪事をはたらいたこともない」(4,5節)からです。

 

 そこで、彼らを罰してくださるように、容赦されないようにと願い(6節)、さらに、冒頭の言葉(13節)のとおり、彼らの設けた言葉の罠、呪いや偽りに、自ら捕らえられ、神の怒りによって根絶やしにされるようにと求めます(14節)。

 

 詩人は、神への信頼の言葉を「わたしの力よ、あなたを見張って待ちます。まことに神はわたしの砦の塔。神はわたしに慈しみ深く、先立って進まれます。わたしを陥れようとする者を、神はわたしに支配させてくださいます」(10,11節)と言い表します。

 

 そして「わたいは御力をたたえて歌をささげ、朝には、あなたの慈しみを喜び歌います。あなたはわたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場。わたしの力と頼む神よ、あなたにほめ歌をうたいます。神はわたしの砦の塔。慈しみ深いわたしの神よ」(17,18節)という賛美でこの詩を締めくくります。

 

 表題に「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」(1節)とあります。これは、サムエル記上19章11,12節の記事を指すもののようです。

 

 ただ、「力ある者がわたしの命を狙った待ち伏せし」(4節)というのは、確かにその状況といってもよいでしょうけれども、ダビデが義父サウルを、生涯「敵」と呼び、「悪を行う者」と呼んだことがあるとは思えません。

 

 また、6節の「あなたは主、万軍の神、イスラエルの神。目を覚まし、国々を罰してください」という言葉や、12節の「御力が彼らを動揺させ屈服させることを、わたしの民が忘れることのないように」という言葉から、イスラエルの王が民を代表して救いを祈っているように見えます。

 

 むしろこれは、アッシリア帝国が南ユダ王国に攻め込んできたときの様子を思わせます(列王記下18章13節以下)。ユダの町がことごとく占領されて、ヒゼキヤ王はアッシリアに金銀の貢物を贈り、和睦を計りましたが、アッシリアは大軍を差し向けてエルサレムを包囲し、無条件降伏を要求します。

 

 その際、「ヒゼキヤはお前たちに、主が必ず我々を救い出してくださる。決してこの都がアッシリアの王の手に渡されることはない、と言って、主に依り頼ませようとするが、そうさせてはならない」、「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すと言うのか」と言って、ヒゼキヤに背き、主に背かせようとしました。

 

 8節で「彼らの口は剣を吐きます。その唇の言葉を誰が聞くに堪えるでしょう」と言い、13節でも「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠」、「自分の唱える呪いや欺く言葉の罠」と語っているのは、まさにアッシリアの将軍ラブ・シャケの語った言葉のことではないでしょうか。

 

 圧倒的な敵の前に、抵抗する術のないユダの王ヒゼキヤは、主に頼り祈るほかありません。そして主は、その祈りに答えられました。

 

 預言者イザヤを通して、「アッシリアの王がこの都に入場することはない。わたしはこの都を守り抜いて救う」と約束されました(列王記下19章20節以下、32,34節)。そして、主の御使いがアッシリアの陣営を撃ったので、18万5千の大軍が滅ぼされて、王は自国に逃げ帰り(同35,36節)、エルサレムは守られたのです。

 

 あらためて、詩人は「口をもって犯す過ち、唇の言葉、傲慢の罠に、自分の唱える呪いや欺く言葉の罠に、彼らが捕らえられますように」(13節)と願いました。「人を呪わば穴二つ」という言葉がありますが、人を呪って殺そうとする者は、自分も呪われるので、葬るべき穴が二つ必要になるという言葉です。人を罠にかけようとする人が、自らその罠に陥るわけです。

 

 確かに、アッシリアの王は、自国の神殿で礼拝をしていたときに、謀反が起きて殺されてしまいました(列王記下19章37節)。アッシリアの神は、謀反から王を守ってはくれなかったのです。

 

 主イエスは山上の説教において「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁くその裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ福音書7章1,2節)と教えられました。私たちが他者を赦し、愛の言葉を語れば、私たちも赦され、優しい言葉を聞くことが出来るでしょう。

 

 ヤコブ書3章2節に「言葉で過ちを犯さないなら、それは自分の全身を制御できる完全な人です」とあります。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」(同10節)と言います。しかし、主を賛美しながら、同時に人を呪うことは出来ないでしょう。人を呪う心を持ちながら、心から主への賛美を歌うことは不可能です。

 

 主を賛美する心で、隣人に対して信仰の言葉、祝福の言葉を語りましょう。詩人が、「わたしの砦の塔、苦難の日の逃れ場、わたしの力と頼む神」(17,18節)は、まことに恵み深く慈しみに富むお方なのです(111編4節)。

 

 主よ、御名を崇めます。主に信頼し、信仰による祈りを通して、日々主の恵みに与ることが出来ますように。主の御言葉に土台し、隣人に対して祝福を祈り、信仰による恵みの言葉を語ることが出来ますように。今、困難な状況にある人々の上に、主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「あなたを畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にして、その警告を受け入れるようにされた。」 詩編60編6節

 

 60編は、「救いを求める共同体の祈り」です。3節で「神よ、あなたは我らを突き放し、怒って我らを散らされた」と言い、12節にも「神よ、あなたは我らを突き放されたのか。神よ、あなたはわれらと共に出陣してくださらないのか」と訴える言葉があることから、外国との戦争に敗れたイスラエルが、神の助力を求めているようです。

 

 それはちょうど、ペリシテとの戦いに敗れたおり、長老たちが「なぜ主は今日、我々がペリシテ軍によって打ち負かされるままにされたのか。主の契約の箱をシロから我々のところに運んで来よう。そうすれば、主が我々のただ中に来て、敵の手から救ってくださろう」(サムエル記上4章3節)といったという状況のようです。

 

 ところが、表題には「ダビデがアラム・ナハライムおよびツォバのアラムと戦い、ヨアブが帰ってきて塩の谷で一万二千人のエドム人を討ち取ったとき」(2節)とあります。これは、サムエル記下8章1節以下の出来事を指しています。ところが、それはダビデがイスラエルの王となり、エルサレムを都として神の箱を都に迎え、近隣諸国と戦えば連戦連勝という、最高潮の時期にあたります。

 

 8節以下の主の宣言には9つの地名が出て来ますが、10節のモアブ、エドム、ペリシテは、まさに表題に語られている時期に、ダビデによって屈服させられ、イスラエルに隷属するようになったところです。神がその宣言どおりにしてくださったということで、2節の表題がつけられたのでしょう。

 

 しかしながら、そうだとすれば、そのようなときに、ダビデがここに詠われているような心境であったとは、およそ考えられません。もしかして、サムエル記に記されていない、エドムとの戦いに敗れるということがあったのでしょうか。それとも、やることなすこと皆うまくいったので、それがダビデの自惚れや傲慢となって、神を怒らせたとでもいうのでしょうか。

 

 サムエル記下24章の「ダビデの人口調査」はそれを思わせるものですが、しかしながら、それは、表題の時期ではありませんし、そのときの神の憤りは、「三日間の疫病」(同13,14節)をもたらすという形で示されたのであって、敵との戦いなどではありませんでした。

 

 5,6節で詩人は、神がご自分の民に辛苦の酒を飲ませ、神を畏れる人に対してそれを警告とし、真理を前にしてその警告を受け入れるようにされたと記しています。それは、苦難のときこそ、神を畏れ、謙って御言葉に従いなさいということでしょう。

 

 冒頭の言葉(6節)で「警告」(ネース)というのは、「旗、印、基準」という意味の言葉です。原文を直訳すると「あなたは、あなたを畏れる者に、旗を与えられた」となります(口語訳、新改訳、岩波訳など)。戦いに敗れて散り散りにされた者たちを、もう一度その旗印の下に集め、皆でこの戦場を離脱しようとしているといった状況を思い浮かべればよいのではないでしょうか。

 

 また「真理」(コーシェト)という言葉は、「弓」(ケシェト)と母音の着け方が違うだけです。だから「弓」という読みを採用して、「弓の前に掲げるための」と訳すことも出来ます。そうすれば、弓の前から逃れるために旗を掲げた、旗の下に神を畏れる者を集めるといった意味になります。

 

 5節との関連で、弓に示される敵の攻撃による裁きが行われる前に、警告を受け入れよといった意味になるでしょうか。岩波訳は「旗」に「その下に集まるための目印で、ここでは救いの象徴的表現か」という脚注を付し、「弓矢から身を守るために」旗を下さったという解釈を示しています。

 

 いずれにせよ、神の導きのもとに謙り、その旗印に従って歩むところに、イスラエルの生きる道があるということです。神はその旗印を、神を畏れる者たちにお与えになりました。神を畏れる者たちは、辛苦を通しても、神の真理を悟るのです。神がお与えくださる旗印は「錦の御旗」などではなく、神の前に奢り高ぶっている者への「警告」と解釈されるわけです。

 

 その意味で考えるならば、この詩は、何かの史実に基づいて詠われているのではなく、敵との戦いに臨むにあたり、王として、神の助けなしにその闘いに勝利することは出来ないこと、全地を「わたしのもの」(9節)と言われる主の御手に依り頼み、その導きに従って歩むべきことを教えるという目的を持って作られたものということが出来るでしょう。

 

 詩人は「あなたを畏れる人」(ヤーレイ、6節)に続いて「あなたの愛する人々」(ヤーディード、7節)と記して、神を畏れる人と神が愛しておられる人々を対にしています。つまり、神を畏れる者たちに警告を与え、旗を示し、正しい道に導かれるのは、神が彼らを愛しておられるからだということです。

 

 これはパウロの「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たち」(ローマ書8章28節)という言葉を思い起こさせます。 神がご自分を愛する者たちのために、万事を益とされるのは、彼らが神の計画に従って召された者たちだからでした。つまり、すべてが恵みであって、働きに対する報酬などではないということです。

 

 キリストの救いに与っている私たちは、「真理」とは主イエスのことを指していると教えられています(ヨハネ福音書14章6節など)。私たちの旗印は、主イエスの十字架です。主イエスは私たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と命じられました。

 

 これは、主イエスから愛され、罪赦されて神の子とされた私たちが、十字架を旗印として互いに赦し合い、愛し合い、助け合う道を、主と共に歩むようにと、主イエスに招かれているのです。主を愛し、日々十字架の主を仰ぎながら、御言葉に従って歩みましょう。

 

 主よ、絶えずあなたの慈しみをもって、深い御憐れみをもって、私たちを導いてください。主の御言葉に従って歩むことが出来るように、私たちの内に清い心、新しく確かな霊を授けてください。救いの喜びを褒め詠うように、自由の霊によって支えてください。御名が崇められますように。御心がこの地になりますように。御業のために私たちを整え、用いてください。 アーメン

 

 

「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます。高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください。」 詩編61編3節

 

 61編は、一人称で神の救いを求める個人の祈りです。2,3節にその願い、4~6節には神に対する信頼の表明、7,8節は王のための祈りが記され、そして、9節の賛美と感謝の献げ物の誓いをもって結んでいます。

 

 詩人は冒頭の言葉(3節)で「心が挫けるとき、地の果てからあなたを呼びます」と言っています。「地の果て」とは、そこから先、進むことの出来ないところです。神との隔たりを感じているのでしょう。それはまた、心挫け、希望を失い、寄る辺のない心の有様を示しているようです。場合によっては「陰府」、死者の世界を意味しているかも知れません。

 

 けれども詩人は、そんなところから、神が自分の叫びを聞いてくれるように、その祈りに耳を傾けてくれるように、呼び求めています(2節)。詩人の置かれている「地の果て」、地のどん底から、神を呼んでいるのです。

 

  その願いは、「高くそびえる岩山の上にわたしを導いてください」というものです。「高くそびえる岩山」(ツール・ヤールーム・ミンメニー)を、口語訳、新改訳は「わたしの及びがたいほどの高い岩」と訳しています。

 

 岩波訳も「高くて登れぬ岩」とし、脚注に「直訳は、『私には高すぎる岩に』。七十人訳等『岩に私を引き上げ』=27章5節」と記していました。それは、敵の手が及ばない安全な場所ということで、そこにわたしを引き上げて守ってくださいと願うのです。

 

 表題に、「ダビデの詩」(1節)とあります。ダビデが陰府に降るような思いを持ちながら、神の助けを呼び求める祈りをしたという状況を考えれば、それは、サウル王に命を狙われて逃避行を続けていたときのことでしょうか(サムエル記上19章1節以下)。それとも、息子アブサロムに背かれてエルサレムの王宮を逃げ出す事態になったときのことでしょうか(サム下15章1節以下)。

 

 後者の方が、より蓋然性が高いでしょう。親子の関係がおかしくなり、息子から命を狙われる事態になれば、それはまさしく「心挫けるとき」であり、たとい王宮にいたとしても、その心は「地の果て」をさすらっているようなものだったことでしょう。

 

 ダビデの顧問であるギロ人アヒトフェルもアブサロムにつきました。アヒトフェルは、ダビデの妻となったバト・シェバの祖父でもあったようです(サムエル記下11章3節、23章34節参照)。アヒトフェルの提案は、アブサロムにとってもダビデにとっても、神託のように受け取られていたそうです(同16章23節)。そんな時、依り頼めるのは、主なる神だけでした。

 

 「高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください」という言葉で、エジプトを脱出してシナイ山に到着したモーセとイスラエルの民に対して語りかけられた、主なる神の言葉を思い出しました。

 

 「あなたたちは見た、わたしがエジプト人にしたこと、また、あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを。今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章4節以下)。

 

 ここで、神がイスラエルの民を、地の果てなるエジプトから神の山ホレブに連れて来たと言われています。それを「鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきた」と言います。鷲が雛を運ぶという表現で、申命記32章11節にも、同様の表現があります。主なる神がイスラエルの民に特別な保護を与えているということです。

 

 詩人はこの出来事、特に「鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来た」という言葉を思い浮かべながら、「高くそびえる岩山の上に、わたしを導いてください」という祈りを記しているのではないでしょうか。

 

 そうすると、ダビデにとっての「高くそびえる岩山」とは、後にわが子ソロモンが神殿を建てることになるシオンの山のことを指しているといってもよいでしょう。そこに、王宮と神の幕屋を建て(歴代誌上15章1節)、神の箱が安置しています(同16章1節、サムエル記下6章17節)。

 

 5節の「あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます」という言葉も、それを示しています。つまり、神の翼に載ってエルサレムへの帰還を果たし、幕屋で神を礼拝することを願っているわけです。そうであるなら、この詩はバビロン捕囚の民に祈りを、そして希望や勇気を与えるものになったのではないでしょうか。

 

 そして、私たちにとっての「高くそびえる岩山」とは、キリストの十字架が立てられたエルサレム城外のゴルゴタの丘です。陰府に下るべき罪人の私たちの身代わりに、キリストが十字架で死なれました。ここに、罪の赦しがあります。救いがあります。

 

 パウロが第一コリント書10章4節で「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちにはなれずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです」と記しています。これは、出エジプトの出来事で、モーセが岩から水を出して民に飲ませたことを指しています(出エジプト記17章6節、民数記20章11節)。

 

 出エジプトにおいて葦の海を通ったことを、パウロは、モーセに属するものとなるバプテスマと言います(第一コリント書10章2節)。同様に、天からのマナをたべ、岩から水を飲んだことを、霊的な食べ物、飲み物と呼んで(同3,4節)、これは、主の晩餐を指しています。

 

 いずれも、新しい命に生きるものとなること、主の命に与ることを表す礼典です。キリストは、私たちに永遠の命を与える岩だとパウロは言うのです。

 

 キリストは、罪と死の力を打ち破って、甦られました。それゆえに私たちは、キリストと共に天の王座に着かせていただくことが出来ます(エフェソ書2章6節)。キリストこそ、私たちの王の王、主の主です。

 

 永遠に主の御名を褒め歌い、主に賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えずささげましょう。

 

 主よ、あなたは必ず私たちの祈りを聞き、御名の栄光を表してくださいます。主がとこしえの御座から、慈しみとまことをもって私たちを守り導いてくださいますように。「地の果て」にいるすべての人々の叫びや呻きに耳を傾け、平安と希望を授けてくださいますように。 アーメン

 

 

「わたしの救いと栄えとは神にかかっている。力と頼み、避けどころとする岩は神のもとにある。民よ、どのようなときにも神に感謝し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ。」 詩編62編8,9節

 

 62編は、主なる神に対する信仰告白です。

 

 特徴的な表現として、ヘブライ語の「アク」という言葉が繰り返し用いられています。2節の冒頭に置かれたこの言葉は「ただ」と訳され(6節も)、3節では「(神)こそ」と訳されています。日本語になってはいませんが、5節、7節、10節の文頭にもあります。

 

 これらの節ではすべて、文頭で用いられています。また、日本語では味わえませんが、4節の文頭は「アド(まで)」、8節は「アル(~の上に)」、11節は「アル(否定詞)」と、頭韻を踏むようなかたちになっています。

 

 岩波訳は「アク」をすべて「のみ」と訳しています。口語訳は5節(4節)を「のみ」、7節を「こそ」(新改訳も)としています。これは、「確かに、疑いもなく」という意味で、このあとに続く言葉を強調するために用いられるものです。

 

 これだけ「ただ、のみ」(only、truly)という言葉が多用されているということは、特に神にのみ信頼するという詩人の信仰の表明ではありますが、周囲の人に裏切られ、神以外に頼るものがないという、孤立した状況に陥っている証拠でしょう。

 

 2節に「わたしの魂は沈黙して、ただ神に向かう。神にわたしの救いはある」という、神への信頼を言い表す言葉があります。口語訳は「わが魂はもだしてただ神をまつ」とし、英国欽定訳(KJV)も「Truly my soul waiteth upon God.」としていますが、原文は「ただ、神に向かって、沈黙、わたしの魂」という言葉遣いで、「待つ」というニュアンスの言葉はありません。

 

 「もだして待つ」と言えば、神が何かなさるまで黙ってじっと我慢という印象がありますが、冒頭の言葉(9節)は「民よ、どのようなときにも神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」と、神に信頼しつつ、心を注ぎ出して祈ることを勧めています。

 

 「神こそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔。わたしは決して動揺しない」(3節)という宣言から、既に詩人の心は定まっているようです。改めて、神のおいでになるのを忍耐強く待つというような感じではありません。

 

 2,6節にある詩人の沈黙は、イザヤ書30章14節の「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」という預言に示される、神に信頼することを通して、あらゆる不安や恐れ、心配を神に委ねた者の心の内にある平静さ、魂の安らぎを示しています。泣き言を言ったり、慌てて「藁をもつかむ」という行動に出ることもないのです。

 

 これは、イスラエルの民がその歴史の中で何度も何度も味わった救いの恵みから語り出された、信仰の告白です。主なる神を礼拝するたびごとに、賛美や祈りを通して、この信仰を表明したことでしょう(出エジプト記15章2節、申命記32章4節、サムエル記下22章2,3,47節など参照)。

 

 冒頭の言葉(8,9節)に「避けどころ」(マフセ)という言葉が出てきます。これは、「避難所、隠れ家」という意味の言葉ですが、神を礼拝する神の幕屋、神殿を、そのように呼んでいると考えることが出来ます。61編5節にも「あなたの幕屋にわたしはとこしえに宿り、あなたの翼を避けどころとして隠れます」とありました。

 

 列王記上1章50,51節、2章28節に「祭壇の角をつかむ」という言葉が出て来ますが、これは、最も神聖な場所に触れることで、神が守ってくださるという信仰の表れです(出エジプト記21章13,14節参照)。

 

 勿論、神殿に逃げ込みさえすればもう絶対大丈夫、神風が吹いてどんな敵も跳ね返してくださるなどというわけではありません。神殿が避難所、隠れ家であるというのは、そこで神を礼拝することを通して、永遠の住まいである天の御国の恵みに与るということなのです。神を礼拝する者の心に主が宿られ、そこに主の平和、安らぎが満たされるといってもよいでしょう。

 

 これは、前述の61編5節や、23編6節の「主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」という言葉、そして27編4節の「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを」という言葉も、同じことを言おうとしていると思います。

 

 新約聖書でパウロが、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスにあって守るでしょう」(フィリピ書4章6,7節)と語っているのも、そのことです。

 

 神に信頼して、心を注ぎ出して祈る者の心には、神の平和が注ぎ込まれるのです。パウロは、フィリピの町の牢獄につながれたとき、シラスとともに主に賛美と祈りをささげました。平安だったから、喜びが溢れていたから、賛美し、祈ったというわけではありませんでした。

 

 しかしパウロは、この詩人と同じように、主に信頼していたので、賛美を歌い、祈りをささげたのです(使徒言行録16章25節以下)。そのとき、彼らの心に主の平安と喜びが注がれたのです。そして主は、牢獄の戸を開き、そして、平安の内に牢獄を出ることが出来るようにされました。

 

 力は神のものであり、慈しみは、わたしの主のものです(12,13節)。神は、その力によって、私たち一人一人に、その業に従って報いをお与えくださいます。そして、主の慈しみは、私たちの業をはるかに超えて、すべてが私たちへの恵みであることを示されます。

 

 私たちの力と頼み、避けどころとする救いの岩なる神、私たちに恵みをお与えくださる主に、心から喜びと感謝をもって、祈りと賛美を献げましょう。

 

 主よ、私たちも御前に進みます。あなたこそ、わたしの岩、わたしの救い、砦の塔です。あなたはわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなられました。心から御名を褒め称えます。平和をもって私たちの心と考えを満たし、守られる主に栄光が世々限りなくありますように。ハレルヤ! アーメン

 

 

「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます。命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります。」 詩編63編4,5節

 

 63編は、敵に対する裁きを求め、救いを祈る詩です。「ダビデがユダの荒れ野にいたとき」(1節)という表題は、2節の「乾ききった大地」、「水のない地」といった言葉から、ダビデがサウルに追われてユダの荒れ野に避難していたときの情景(サムエル記上23章14節、24章2節以下など)を思い浮かべて、詩編の編集者が付加したものでしょう。

 

 7節に「床に就くときにも御名を唱え、あなたへの祈りを口ずさんで夜を過ごします」という言葉があります。「祈りを口ずさんで夜を過ごす」ということは、夜眠れなかったということでしょう。その祈りがなかなか聞かれず、毎夜、眠れないまま祈りを口ずさんでいるという状況です。

 

 2節の「神よ、あなたはわたしの神。わたしはあなたを捜し求め、わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしの体は乾ききった大地のように衰え、水のない地のように渇き果てています」という言葉は、10節の「命を奪おうとする者」という言葉との関連で、敵が執拗に詩人の命を狙っている様子を思わせます。

 

 そのような危険な状況から、7節のとおり夜ごと神の名を呼び、助けを祈り求めていますが、しかし、その答えをこれまでなかなか見出すことが出来なかったのでしょう。それで、疲れ果て、精も根も尽き果てているといった表現のようです。

 

 3節で「今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望み、あなたの力と栄えとを見ています」というのは、詩人が神の宮にやって来て、そこで神の救いを求めようとしているのでしょう。原文では、「あなたの力と栄えとを見るために、今、わたしは聖所であなたを仰ぎ望んでいます」という言葉遣いです。

 

 現代英語訳聖書(TEV)は「let me see you in the sanctuary, let me see how mighty and glorious you are.(わたしに聖所であなたを見させてください。あなたがいかに力強く、栄光あるお方であるかということを、わたしに見させてください)」と訳しています。

 

 「仰ぎ望む」というのは、「見る、予見する、見て取る、預言する」(ハーザー)という言葉です。聖所でなされる礼拝祭儀に、神の臨在を見て取ったということでしょう。礼拝祭儀に参加することで神の臨在に触れ、渇ききった心と魂が満たされるという経験をしたのではないでしょうか。

 

 6節に「わたしの魂は満ち足りました。乳と髄のもてなしを受けたように。わたしの唇は喜びの歌をうたい、わたしの口は賛美の声をあげます」と謳います。「乳と髄」を口語訳は「髄とあぶら」、新改訳は「脂肪と髄」と訳しています。岩波訳も「脂肪と脂(あぶら)」とし、「脂肪と脂は最上の食物の象徴。類義語の連結により、意味を強調している」という注を付けています。

 

 最上のもので神のもてなしを受けた詩人は、生涯、昼も夜も主に向かって賛美の声を上げると約束します(4~8節)。先には、敵に追い迫られて、眠れぬ夜を過ごしながら、10節以下の祈りを神にささげていた詩人ですが、神の臨在に触れて、「祈りを口ずさむ」というほどに、毎夜同じことを唱えながら、その祈りが必ず聞かれるという信仰を確かなものとしていったということではないでしょうか。

 

 だから、冒頭の言葉(4節)で「あなたの慈しみは命にもまさる恵み。わたしの唇はあなたをほめたたえます」と詠い、さらに「命のある限り、あなたをたたえ、手を高く上げ、御名によって祈ります」(5節)と語っています。

 

  「♪手を上げて、御名をほめよ、手を上げて、御名をほめよ、

   わが唇はたたえる、手を上げ、御名をほめよ

   神よ、あなたの慈しみは、命にもまさるゆえ、

   わが唇はたたえる、手を上げ、御名をほめよ♪」

    (『ミクタムプレイズ&ワーシップ』より)

 

 30年以上も前に憶えたゴスペルソングです。この歌詞が、4,5節の御言葉から採られたものであることをあらためて確認しました。そして、今回もう一度この御言葉に湛えられている詩人の信仰を味わいました。

 

 というのは、私たちが通常、神の慈しみを感じるとすれば、それは神の恵みを受け、命が守られたときのことでしょう。癒され、救われたからこその神の恵み、慈しみということになるでしょう。

 

 ところが詩人は、「神の慈しみは命にもまさる恵み」と言います。つまり、神の恵みは自分の命よりもはるかに価値があるということでしょう。そのような神の慈しみを知った、そんな神の恵みを味わっているのだから、もういつ召されてもよいということでしょうか。そうなのかも知れません。

 

 いえ、「命にもまさる恵み」とは、私たちの命が尽きても尽きることのない恵みと考えることも出来ます。神の慈しみに与るのは、私たちがこの地上に生きている間だけのことではありません。神の恵みは、死によっても妨げることは出来ないということではないでしょうか。だから、主をたたえる、喜びの歌を歌い、賛美の声をあげるというのでしょう。

 

 さらに、「命にもまさる恵み」とは、主なる神をたたえることは、自分の命のために救いを祈ることに勝ることを学び、主に向かって、敵からの救いや解放、導き、魂の平安を祈ることから、主ご自身を求め、主を賛美することへと導かれたのでしょう。それこそ、純粋で真実な礼拝へと導かれたわけです。 

 

 この詩人は、どこでこんな信仰を獲得したのでしょうか。それが、夜の祈りの恵みだったのです。

 

 祈ればよく眠れた、病いが癒された、敵の手から解放された、苦しみがなくなったということではなかったけれども、眠れないまま心を主に向け、思いのたけを神に申し上げ続けることで、神の宮に詣で、み前に立つ勇気、力を得たのでしょう。そして、神を仰ぎ、礼拝する中で神と深く交わり、神の慈しみは命にもまさるという深い恵みを味わうことが出来たのです。

 

 この詩人の信仰にあやかりたい、どんな境遇にあっても、「あなたの慈しみは命にもまさるゆえ、わが唇はたたえる、手を上げ、御名をほめよ」と心の底から歌える信仰を頂きたいと切に祈ります。

 

 主よ、今日の御言葉を通して、永遠の命の恵みについて新しい思いを啓き示してくださり、有難うございます。弱く貧しい者を憐れみ祝してください。詩人のように、「あなたの慈しみはわたしの命にもまさる恵み」と歌うことの出来る信頼の心、真の信仰に導いてください。まことの礼拝者とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「人は皆、恐れて神の働きを認め、御業に目覚めるでしょう。」 詩編64編10節

 

 64編は、神に救いを求める「祈りの詩」です。

 

 2節で「敵の脅威からわたしの命をお守りください」と言い、4節で「彼らは舌を鋭い剣とし、毒を含む言葉を矢としてつがえ」と語っていることから、詩人は、敵の誹謗中傷の言葉によって苦しめられていると考えられます 

 

 また、6節で「彼らは悪事にたけ、共謀して罠を仕掛け、『見抜かれることはない』と言います」と訴えていることから、詩人は敵の罠に苦しめられる経験をしているのです。法廷で、無実の罪に定めるよう画策されているのかも知れません。

 

 表題に「ダビデの詩」(1節)とあるのは、息子アブサロムに背かれたときの経験が詠われていると考えてのことでしょう。アブサロムはダビデを誹謗中傷して民の心がダビデから離れるよう画策し(サムエル記下15章1節以下3,4節)、謀反を起こしました(同10節)。ダビデの顧問・ギロ人アヒトフェルまでアブサロムに着き(同12節)、人心はアブサロムに移っていきました(同13節)。

 

 その事実を知ったダビデは、命からがら王宮を逃げ出しました(同14節以下)。そのとき、神の助けがなければ、ダビデが命長らえることは出来なかったでしょう(同17章14節以下)。

 

 詩人は8節以下で、神は必ずどのような苦境からも救い出してくださるという信仰を言い表しています。8節の「神は彼らに矢を射かけ、突然、彼らは討たれるでしょう」という言葉は、敵が詩人を苦しめたものを用いて、神が報復される(4,5節参照)ということを示しています。

 

 それを9節でさらに、「自分の舌がつまずきのもとになり、見る人は皆、頭を振って侮るでしょう」と語ります。「人を呪わば穴二つ」という言葉を思い出させる内容です。

 

 父ダビデの命を狙い、王になろうとしたアブサロムは、軍師アヒトフェルを失い(サムエル記下17章23節)、樫の大木に首を取られて(同18章9節)、命を落とすことになりました(同14節)。謀は巧妙で完全と思われましたが(7節、サムエル記下16章23節参照)、神が彼らに矢を射かけ、突然、彼らは討たれることになったのです(8節)。 

 

 冒頭の言葉(10節)で、「認める」と訳されているのは、「告げる、知らせる、教える」(ナーガド)という言葉です。また、「目覚める」は、「悟る、賢くする」(シャーカル)という言葉です。つまり、敵が討たれた有様を見て、人々はそれが神の御業であることを悟り、神を畏れて、それを互いに語り合い、告げ広めさせられたということでしょう。

 

 イスラエルの民がエジプトから脱出するとき、神はエジプトに様々な災いを下されました(出エジプト記7章14節以下)。エジプト中に神を畏れる思いが広がりましたが、エジプト王はイスラエルの民をすぐに解放しようとしませんでした。奴隷として使い続けたかったわけです。それは、神がファラオの心を頑なにされたからだと聖書は語っています(同9章12節、10章20,27節など)。

 

 見方を変えれば、イスラエルを完全に解放するために、神がファラオを頑迷にされてエジプトに災いが繰り替えされたのであり、イスラエルの民は何度も神がエジプトの上に災いが下されるのを見て、神を畏れることを学ばせられたわけです。

 

 荒れ野で苦しい生活を余儀なくされたとき、イスラエルの民はモーセに向かって何度も文句を言っていますが、もし、エジプトでエジプトに下された災いを見ていなければ、もっと容易く神に背き、自分勝手に振舞い始めて、約束の地を受け継ぐことが出来なくなっていたのかも知れません。

 

 私たちも、繰り返し御言葉を聴きながら、主を畏れることをしっかり学ばなければならないと思います。主の語られる御言葉に注意深く耳を傾け、その御言葉に従う者とならなければなりません。それによって、主を避けどころとする喜びを味わい、主を誇り、賛美を献げる者となることが出来るでしょう(11節)。

 

 主イエスは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15章12節)と命じられました。そう語られる主イエスに、どのように応答しようとしているでしょうか。私たちは、言葉と生活で主イエスを否定し続け、背き続けています。もし私たちが主イエスに対してなした通りに神が報復されるとすれば、誰が天の御国に行けるでしょうか。

 

 主イエスは、ご自分を殺そうとしている者たちのために「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ福音書23章34節)と執り成し祈られました。

 

 主イエスのこの執り成しのゆえに、私たちは罪赦され、神の子とされ、永遠の命を受ける恵みに与っています。正に主イエスこそ、悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いることなく、かえって祝福をお与えくださるお方なのです。

 

 主の慈愛と峻厳とを思い(ローマ書11章22節)、主の導きに従い、主イエスと共に、絶えず神の恵みの内を歩ませていただきましょう。

 

 主よ、あなたの恵みと憐れみがなければ、罪赦されること、神の子として生きることはあり得ないことでした。私たちの罪を赦し、神の子とするために、あなたが払われた犠牲の大きさを絶えず思わせてください。そして、主を畏れ、喜んでその御言葉に従うことが出来ますように。その導きに与り、絶えず恵みの内を歩ませてください。 アーメン

 

 

「あなたは豊作の年を冠として地に授けられます。あなたの過ぎ行かれる跡には油が滴っています。」 詩編65編12節

 

 65編は、シオンにおいて神への賛美をささげる「感謝の詩」です。詩人はここで、喜び溢れる賛美を主の御前にささげています。

 

 主なる神は詩人の祈りを聞かれました(2,3節)。詩人は数々の罪に圧倒されていましたが、神が贖いの御業をなされました(4節)。どんなときにも、神に背き、罪を犯したときでさえ、神のもとに来て、罪を覆い、清めてくださる主の恵みに依り頼み、賛美を献げるのです(5節)。

 

 神は、遠い海、地の果てに至るまで統べ治める全世界の神であられ(6節以下)、諸国の民は神を畏れます(9節)。イスラエルの救いのために神が立ち上がられ、御力を表されるからです。また、全地の主として、雨をもって地に豊かな実りをもたらされます(10節以下)。

 

 この詩が詠まれたのは、ヒゼキヤの時代にアッシリアの脅威から奇跡的に救われたという経験を思い出してのことかもしれません。

 

 紀元前721年に北イスラエル王国がアッシリアによって滅ぼされたとき、南ユダ王国の王ヒゼキヤは、エジプトに援軍を頼み、アッシリアに反抗する政策を取りました(列王記下18章21節)。それに対してアッシリアは南ユダに大軍を送り込み、各地の砦を撃破してエルサレムを包囲しました(同13節)。

 

 絶体絶命のピンチでしたが、信仰をもって主の御前に祈ったヒゼキヤに対して(同19章15節以下)、主がエルサレムを守り抜いて救われるという預言が、イザヤを通して語られます(同20節以下、34節)。その預言が成就し、18万5千の大軍が一夜のうちに神に打たれて息絶え(同35節)、アッシリアの王センナケリブは撤退を余儀なくされてしまったのです(同36節)。

 

 さらに、「あなたにそのことを示すしるしはこうである。今年は落穂から生じた穀物を食べ、二年目には自然に生じたものを食べ、三年目には種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作り、その実りを食べる」(同29節、イザヤ書37章30節)というイザヤの預言があります。

 

 これは、アッシリアが撤退して3年後に、畑で収穫を得ることが出来るということですが、戦争で荒らされた耕地を主が回復してくださるというわけです。そしてそれは、主に信頼して祈りと賛美をささげる者の明日を、神が保証してくださっているということです。

 

 冒頭の言葉(12節)で「豊作の年を冠として地に授けられます」とありますが、口語訳の「その恵みをもって年の冠とされる」の方が原文に近い訳です。岩波訳は「あなたは年にあなたの善意をかむらせ」とし、「豊作の年とするの意」という注を付けています。

 

 神がこの地に恵みを示して、豊かな収穫をお与えくださるということであり、そのことのために神ご自身が働いてくださるということです。その御業は、「水」をお与えくださるというところに現れます(10節参照)。

 

 主イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ福音書4章14節)と言われ、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同7章37,38節)とも語られました。

 

 また、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしがその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(同15章5節)と告げられました。主イエスを信じることが、永遠の命にいたる水の流れとつながることであり、それによって実を豊かに結ぶことが出来ると学ぶことが出来ます。

 

 さらに、主イエスにつながるとは、主イエスの御言葉が私たちの内にいつもあるということ、つまり、御言葉に聞き従っているということです。御言葉に聴き従う者が主の弟子であり、聞き従えば豊かに実を結び、それによって父なる神が栄光をお受けになります(同15章7,8節参照)。

 

 豊作という冠をいただけるかどうか、豊かに実を結ぶことが出来るかどうかは、主に信頼してその御言葉に耳を傾け、、主の約束が実現するように信仰をもって主の御前に祈ること、そして、結果を先取りして感謝と賛美の歌を歌うことにかかっているわけです。

 

 「いかに幸いなことでしょう。あなたに選ばれ、近づけられ、あなたの庭に宿る人は。恵みの溢れるあなたの家、聖なる神殿によって、わたしたちが満ち溢れますように」(5節)と詩人は歌いますが、私たちこそ、主イエスによって選ばれた幸いな者なのです(ヨハネ福音書15章15節)。

 

 主よ、圧倒的な力を持った敵の前で、主にのみ依り頼むというのは、決して易しくはなかったでしょう。けれども、ヒゼキヤ王は御前に信仰をもって祈り、主はその祈りを聞いてくださいました。私たちにもその信仰を学ばせてください。日々、主のみ言葉に耳を傾け、聖霊の導きに与って豊かに実を結ぶことが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしは献げ物を携えて神殿に入り、満願の献げ物をささげます。わたしがこの口をもって誓ったように、肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を、雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげます。」 詩編66編13~15節

 

 66編は、前半(1~12節)が、「我ら」イスラエルの民を救われた神を賛美する歌、後半(13節以下)は、個人的な願いが聞かれた感謝の歌です。巡礼者が祭に集まって、民族の救いを感謝すると共に、個人的な感謝を神に捧げているというものでしょう。

 

 先ず「全地よ、神に向かって喜びの叫びをあげよ」(1節)という言葉で、すべての者に主を賛美するよう促します。全地が神に向かって喜びの叫びを上げるというのは、主なる神が全地の王の王、主の主として君臨されたことを喜ぶということでしょう。詩人は、イスラエルを統べ治めておられる神が、全地の支配者であるということを知って喜んでいるのです。

 

 このような信仰を獲得したのは、捕囚後のことであろうと考えられます。神に背いてその怒りを買い、バビロンによってエルサレムの都が陥落し、イスラエルの民は捕囚となりました。けれども、50年後にペルシア王キュロスがバビロンを倒して、捕囚となっていた民を解放したので、エルサレムに帰って神殿を再建し、礼拝を行うことが出来るようになりました。

 

 イスラエルを裁くためにバビロンを、そしてイスラエルを捕囚の苦しみから解放するためにペルシアをお用いになったお方は、確かに全地の支配者でしょう。だから、神に向かって、「御業はいかに恐るべきものでしょう」(3節)と歌えと命じます。 

 

 5節以下において、その神の恐るべき御業について歌います。まず、「来て、神の御業を仰げ」(5節)と人々を招き、そして、「神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った」(6節)と、出エジプトにおける葦の海の奇跡(出エジプト記14章)を取り上げます。

 

 それは、確かに神のなされた驚くべき御業でした。ご自身の選びの民イスラエルのために、海を用いてエジプトを打ち破られたのです。詩人はその故事を借りて、人間の命を飲み込み滅ぼす海や、命を押し流す大河を歩いて渡る、つまり、全地の主なる神の助けにより、死の力にも打ち負かされない、何ものにも勝利することが出来ると言おうとしているようです。

 

 10節で「神よ、あなたは我らを試みられた。銀を火で練るように我らを試された」と言います。「銀を火で練る」のは、銀の鉱石の中から不純物を取り除き、純粋な銀を取り出すためです。また、銀を溶かして、新しい形に造り替えるためです。

 

 試練を表す用語は、預言者が捕囚の苦しみを描くのに用いているものです。「試す」、「練る」(10節)は、イザヤ書48章10節、エレミヤ書9章6節、ゼカリヤ書13章9節、マラキ書3章3節に、「網」(11節)はエゼキエル書12章13節、17章20節に、「火の中、水の中を通る」(12節)はイザヤ書43章2節にあります。

 

 そのような表現を用いて、神を礼拝するために集うすべての人々が、どのような苦しみの中にあっても、それも神の支配の内にあり、大きな試練、その苦しみを通して、各自の信仰を豊かなもの、純粋なものにしようとしておられると考えているのです。また、神の望まれるものに造り替えられようとしているということでしょう。

 

 それはパウロが、「苦難をも誇りとします。私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ書5章3,4節)と語るところにも通じます。そこには神の導きがあり、神が与えてくださった聖霊を通して、「神の愛が心に注がれている」(同5節)と言います。つまり、苦難や試練は、神の愛の御業だということです。

 

 さらに、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と告げ、「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(同3章10,11節)と述べています。

 

 キリストのための苦難が恵みの賜物というのは、その苦難がキリストの苦しみに参与することだからです。パウロは、自身の苦しみを通して、キリストの受難の意味と、「復活の力」を知ったのです。その力が、パウロをその苦難の中で福音宣教へと背中を押しているのです。

 

 苦しみを神の試練と受け止めた詩人は、冒頭の言葉(13~15節)のとおり、そこで唇を開き、神が祈りを聞いてくださるなら、肥えた獣をささげ、香りと共に雄羊を、雄山羊と共に雄牛を焼き尽くしてささげると神に誓いました。「満願の献げ物をささげます」(13節)とは、願が満ちた、つまり祈りが聞かれたので、誓いどおりに献げ物をささげるということです。

 

 神に祈りが聞き届けられた詩人の心は、感謝と喜びに満ち溢れていることでしょう。神が喜ばれるのは、雄牛の肉や雄山羊の血ではなく、まさに、感謝と喜びの心だからです(50編8節以下、14節、51編18,19節など)。

 

 肥えた雄羊や雄山羊、雄牛というのは、飼う者が丹精して育てたものでしょう。その最もよいものをささげて感謝の意を表すということは、生活のすべてを神の恵みに支えられているという信仰の表明であり、ゆえに、神に最もよいものをささげるために丹精したということでしょう。それが主を礼拝する心なのです。

 

 私たちの生活が、神に喜ばれる聖なる生ける供え物となるように、心備えしましょう。その最もよいものを主にささげて主を喜び、主に感謝しましょう。

 

 主よ、様々な出来事を通して私たちを教え、信仰を鍛錬してくださることを感謝します。耐えられないような試練に遭わせることはないばかりか、それを乗り越える道も備えていてくださいます。苦難においても主を信じ、喜びの叫びを上げる詩人の信仰に倣わせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように。」 詩編67編2節

 

 67編は、神の祝福を祈る歌で、7節の「大地は作物を実らせました」という言葉から、秋の収穫祭のために詠まれたものではないかと考えられています。

 

 冒頭の言葉(2節)で「神がわたしたちを憐れみ、祝福し、御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように」というのは、民数記6章24~26節の「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように」という、アロンの祝福の祈りに似ています。

 

 あるいは、この祈りを援用して作詞されたのかもしれません。そして、アロンの祝福はイスラエルの民のためでしたが、この詩では「すべての民」(コール・ゴーイーム、3節)がその恵みに与って感謝をささげることを願っています。岩波訳はこれを「すべての国々」と訳しています(聖書協会共同訳2018年版も)。

 

 ここに「御顔の輝きをわたしたちに向けてくださいますように」という言葉があります。岩波訳は「われらのもとでかれの顔を輝かせますように」、聖書協会共同訳は「その顔を私たちに輝かせてくださいますように」と訳しています。

 

 神が御顔の輝きを私たちに向けられる、私たちのもとで神の御顔が輝かせられるということは、神が私たちに味方していてくださるということ、それによって、私たちも共に神の栄光に輝くことを願っているということになります。

 

 新共同訳が「に向けて(unto)」と訳しているのは、民数記6章25節の「主が御顔を向けて」という言葉を参考にしたからでしょう。神の御顔が自分たちに対して向けられるというのは、神の愛の表れであり、それが自分たちを祝福する神の光に照らされることと考えての訳でしょう。

 

 しかし、3節で「あなたの道をこの地が知り、御救いをすべての民が知るために」と語っていることから、詩人は、神の御顔の光が自分たちを通してすべての民に向かうことを願っていると考えられるため、岩波訳のように訳す方が原意にかなっているのではないかと思われます。

 

 国々に主を知らせるという祝福のテーマにおいて、この詩を、アブラハムに与えられた祝福の約束と関連づけることが出来ます。祝福の源とされたアブラハムを通して、地上の氏族はすべて祝福されます(創世記12章1~4節)。この詩において、神の祝福がイスラエルの地に実りとして表れ、それにより、地の果てに至るまで主を畏れ敬うようになると歌われます(7,8節)。 

 

 このことについて、新約聖書においてパウロが、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(第二コリント書4章6節)と語っています。

 

 パウロは、復活されたキリストと出会うまで、主イエスが神の御子であることを認め、その福音を信じることが出来ませんでした。しかし、神の光がパウロの心を照らして(使徒言行録9章3節)、御子の栄光を悟らせられたのです(同17,18節)。

 

 その光は、しかし、彼を祝福する光であっただけでなく、「闇から光が輝き出よ」という言葉に示されるとおり、パウロという闇から福音の光が輝き出よと神が命じられて、今や、パウロの内から福音の光が周りを照らすようになったわけです。パウロの福音メッセージが手紙に記されたことによって、どれほどの人がその光の恵みに与ったことでしょうか。

 

 けれども、それはパウロに限ったことではありません。私たちも、「自分の体で神の栄光を現しなさい」(第一コリント書6章20節)と命じられているのです。桜は桜の花を咲かせ、タンポポはタンポポの花を咲かせるように、私たちには私たちめいめいに、神から委ねられた使命があり、その使命を果たすことで現される神の栄光があるのです。

 

 イスラエルが主の聖なる民として選ばれ、宝の民とされたのは、ほかのどの民よりも貧弱だったから、それゆえ、神を信頼し、その御言葉を守るよりほか、生きる術なき民だったからです(申命記7章6節以下)。

 

 絶えず主を仰ぎ、その手足として主に用いていただくことが出来るように、祝福と導きを祈りましょう。

 

 主よ、私たちを憐れみ祝し、私たちに向けて、また私たちと共に、私たちの内にあって、御顔の光を輝かせてください。御言葉を聴き、主の御心に従って歩み、主の霊に満たされて、恵みと愛を家族、隣人に証しすることが出来ますように。そして、多くの人々に神の恵みが届きますように。 アーメン

 

 

「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を。この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神。」 詩編68編20,21節

 

 68編は、勝利の主、救い主なる神をたたえる賛歌です。2~4節は序文、5節以下が賛歌本体です。賛歌は「雲を駆って進む方」(5節)なる神をたたえる言葉で始まり、「いにしえよりの高い天を駆って進む方」(34節)で「御自分の民に力と権威を賜る」、「神をたたえよ」(36節)という言葉で閉じられます。

 

 この詩が、どのような時代状況の中で作られたものか、はっきりしたことは分かりませんが、現代のユダヤ人たちは、この詩を七週祭(ペンテコステ)に朗読するそうです。七週祭は、もともと小麦の収穫を神に感謝する祭でしたが(出エジプト記34章22節など)、後にシナイ山で十戒を含む神の律法(同20章以下)が授けられたのを記念する祭とされました。

 

 この詩が七週祭に朗読されるのは、8,9節で「神よ、あなたが民を導き出し、荒れ果てた地を行進されたとき、地は震え、天は雨を滴らせた。シナイにいます神の御前に、神、イスラエルの神の御前に」という言葉で、出エジプトの出来事、特にシナイ山に神が降られ、律法が授与されたときの出来事(出エジプト記19章18節など)を思い起こさせられるからでしょう。

 

 「シナイにいます神」は、イスラエルの民をエジプトの苦難から解放し(同12章37節以下)、シナイ山で契約を結び(同24章)、そのしるしとして、律法を刻んだ石の板を授けられました(同31章18節)。

 

 そして、イスラエルの民を約束の地カナンに導き入れ、そこにイスラエルを建国させられました。「主は約束をお与えになり」(12節)、「家にいる美しい女も戦利品を分けている」(13節)などは、約束の地を勝ち取り、嗣業の地をくじで分けたことを思い起こさせます(ヨシュア記14章)。

 

 16,17節に「神々しい山、バシャンの山、峰を連ねた山、バシャンの山。峰を連ねた山よ、なぜ、うかがうのか。神が愛して御自分の座と定められた山を、主が永遠にお住みになる所を」とあります。

 

 「バシャンの山」とは、ガリラヤ湖東部のゴラン高原を指し、北はヘルモン山へと峰が連なるところです。一方、「神が愛して御自分の座と定められた山」とは、シオンの山、即ちエルサレムのことです。

 

 バシャンの山がシオンの山を「うかがう」とは、敵視すること、あるいは羨望の眼差しを向けるということです。口語訳、新改訳は「(なぜ)ねたみ見るのか」、岩波訳は「なにゆえ羨むのか」と訳しています。「全能者」(15節)なる神が愛され、その住まいを設けられたのが、バシャンの山々ではなく、シオンの山エルサレムだったからです。

 

 けれども、イスラエルの民は神の恵みの選びに胡坐をかき、あろうことか神に背いて、北イスラエルはアッシリアに、南ユダはバビロンによって滅ぼされ、その民は捕囚とされました。あるいは、シリアはヘルモン山のはるか東北方向、メソポタミアのこれらの国々を「バシャンの山」と言い表しているのかもしれまん。

 

 23節に「主は言われる。『バシャンの山からわたしは連れ帰ろう。海の深い底から連れ帰ろう』」と記されていますが、バビロンからの復帰を言い表していると読むことも出来そうです。

 

 イスラエルの民がエジプトの苦難から解放されて、イスラエルを建国出来たのも、そして、バビロンの捕囚から解放されて帰国することが出来たのも、神の憐れみ以外の何ものでもありません。だからこそ、冒頭の言葉(20節)で「主をたたえよ、日々、わたしたちを担い、救われる神を」とほめ歌うのです。

 

 かつて、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民は、契約の箱を担って移動する日々をシナイの荒れ野で過ごしました(出エジプト記25章8節以下、民数記10章11節以下、33節以下など)。契約の箱の蓋を贖いの座といい、そこには一対のケルビムが付けられました。

 

 ケルビムは有翼の天的生物で、神がそれに乗られることが、サムエル記下22章11節、詩編18編11節から想像されます。つまり、贖いの座にケルビムが付けられたのは、契約の箱を守る役割もありますが、何よりそこに神が顕現されるしるしだったのです。

 

 神輿よろしく、契約の箱のケルビムに鎮座まします神を、祭司たちが担って旅していたのですが、詩人は「わたしたちを担い、救われる神」(20節)と呼んでいます。神がイスラエルの民のあらゆる重荷を担い、救ってくださったからです。「この神はわたしたちの神、救いの御業の神、主、死から解き放つ神」(21節)です。

 

 22節の「神は必ず敵の頭を打ち」は、創世記3章15節の「お前と女、お前の子孫と女の子孫との間に、わたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕く」を思わせます。この言葉から、ローマ書16章20節でパウロは「平和の源である神は間もなく、サタンをあなたがたの足の下で打ち砕かれるでしょう」と語っています。

 

 主イエスは、私たちの罪の重荷を私たちに代わって担われ、十字架に死なれました。女の子孫としての主イエスは、かかとを蛇の子孫なるサタンに砕かれましたが、罪と死の呪いを打ち破って復活されました。サタンの頭を足の下で打ち砕いてくださるのです。主を信じる者は、死で終わらない、「死んでも生きる」(ヨハネ福音書11章25節)者とされます(21節)。

 

 そして主は今も、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」(マタイ福音書11章28,29節)と招いておられます。

 

 私たちも、主とその御言葉を信じ、日々、私たちを担い、救われる神をほめたたえ、その導きに従いましょう。

 

 主よ、御名を賛美致します。あなたは聖所にいまし、恐るべき方。その民に力と権威をお与えになります。神に選ばれ、愛されている神の子として、互いに愛し合い、赦し合い、支え合い、仕え合いながら、日々主と共に歩ませてください。そうして、いよいよ御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください。憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください。」 詩編69編17節

 

 詩編69編は、一人称単数でなされる「救いを求める祈り」です。

 

 「神よ、わたしを救ってください」(2節)と神に救いを求める祈り(2~30節)と、「神の御名を賛美してわたしは歌い、御名を告白して、神をあがめます」(31節)と神を賛美する歌(31~37節)との2部構成になっています。

 

 これは、第一部の祈りが神に聞き届けられて、それで、神に賛美をささげているというのではなく、神が祈りを聞いてくださることを信じて、賛美しているものと解釈すべきだろうと思います。

 

 2節の「神よ、わたしを救ってください」と30節の「神よ、わたしを高く上げ、救ってください」で、第一部を囲い込む形になっています。これが、この詩のテーマというか、通奏低音になっているわけです。

 

 2,3節、15,16節で、詩人が死の泥沼に飲み込まれようとしている様子を描き、 それは5節で、詩人を憎み、敵意を抱く者の詩人を滅ぼそうとする力によるものであること、また8~13節、14~22節で、詩人が嘲りと侮辱に悩まされていることが示されます。

 

 そこで詩人は、嘲る者らに神の御怒りが臨むこと(25節)、恵みの御業に与ることがないよう(28節)、命の書から彼らを抹消することを願い(29節)、「高く上げ、救ってください」(30節)と求めるのです。 

 

 36節の「神は必ずシオンを救い、ユダの町々を再建してくださる」という言葉から、ヒゼキヤの代にアッシリアに攻め込まれ、絶体絶命に陥ったとき、イザヤに執り成しを願ったときの状況を思い浮かべます(列王記下19章)。

 

 あるいは、バビロンからの解放を詠っているとも考えられます。それは、捕囚の苦しみからの解放を信じての言葉でしょうか。それとも、解放されて帰国した者たちが、なお困難の中で神殿や都を再建しようとしての言葉でしょうか。

 

 いずれにせよ、「大水が喉元に達しました。わたしは深い沼にはまり込み、足がかりもありません」(2,3節)といった表現から、詩人は前述の通り、困難のゆえに絶望的な状況になっていることが窺えます。「喉元」とは「魂、命」(ネフェシュ)という言葉で、まさに絶体絶命という表現です。詩人はそこで「手がかり、足がかり」を求めて神に訴え、祈ります。

 

 「あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしている」(10節)というのは、神を信じて熱心に祈り求めて、却って苦しみを受け、疲れ果てている有様でしょう。そして、「あなたを嘲る者の嘲りがわたしの上にふりかかっています」(10節)とは、そんな詩人の有様を見て、神を畏れない異邦の者たちが、主なる神を、そして主なる神を信じている詩人を嘲り笑うというわけです。

 

 神のほか頼るもののない状況の中で、神殿において主のために働こうとしているのに、それが叶えられず却って苦しみを受けるという、詩人の苦悩を見ることが出来ます。それは、エレミヤ書15章15節以下、20章7節以下などに見る、エレミヤの苦悩と重なります。この詩の作者をエレミヤとする解釈もあるようです。

 

 この言葉が、ヨハネ福音書2章16節で、神殿を清めた主イエスが十字架につけて殺されるという預言の言葉として、引用されています。主イエスは、御自分が命をかけて愛し、救おうとした人々に、嘲られ捨てられ、そして殺されるのです。

 

 詩人は、主イエスのような、罪も汚れもないという存在ではありません。その苦しみは全く謂れのないものだと言い切れません。6節で「神よ、わたしの愚かさは、よくご存知です。罪過もあなたには隠れもないことです」というのは、そのためです。

 

 詩人が祈っているのは、神の憐れみに訴えて、その苦しみから解放されることです。だから、14節で「あなたに向かってわたしは祈ります。主よ、御旨にかなうときに、神よ、豊かな慈しみのゆえに、わたしに答えて確かな救いをお与えください」と祈るのです。

 

 さらに、冒頭の言葉(17節)のとおり、「恵みと慈しみの主よ、わたしに答えてください。憐れみ深い主よ、御顔をわたしに向けてください」と主に願い求めています。17節を直訳すると、「わたしに答えてください、主よ。あなたの慈しみはよいからです。あなたの憐れみの豊かさにおいて、わたしを顧みてください」(岩波訳参照)となります。

 

 つまり、神が詩人の祈りに答えられるとすれば、それは、神の豊かな慈しみのゆえであり、憐れみの豊かさのゆえなのであって、詩人の信仰深さや倫理的道徳的な善行、地縁血縁などによる祈りを聞いてもらえる資格などのゆえではないということです。

 

 ここで、「憐れみ」(ラハミーム)というのは、「子宮」(レヘム)という言葉の複数形です。「子宮」が「憐れみ」という言葉になるのは、古代ユダヤにおいては、子宮が憐れみの座、母親が自分のお腹を痛めて産んだ子どものことを思う思いが「憐れみ」というもので、それはわが子が宿った子宮から出て来ると考えられていたのでしょう。

 

 この言葉遣いで、神の憐れみを救いを願い求める根拠としているということは、神に形作られ、その息(霊)を吹き込まれて生きる者としていただいた者として、母が子を思うように神が自分を見てくださる、思ってくださると考えているわけで、子どもを産んだ母親ならではの母性愛は、神の憐れみに根源を持つということをも表しているようです。

 

 その意味で、この詩が詩編22編と同様、主イエスのご生涯を預言的に語っているものとして、新約聖書に繰り返し引用されているのは(5節:ヨハネ15章25節、10節:ヨハネ2章17節、ローマ15章3節、22節:マルコ15章23,36節と平衡箇所、23,24節:ローマ11章9,10節、26節:使徒1章20節)、意義深いものということが出来ます。

 

 確かに主イエスは、神の憐れみのゆえに私たちに代わって嘲られ、そしられ、苦しまれました。主の苦しみゆえに、私たちは癒され(1ペトロ2章24節、2コリント8章9節)、救いの恵みに与ることが出来たのです(エフェソ2章8節)。

 

 主の憐れみに依り頼み、すべてを献げて主に従いましょう。 主の御名を賛美し、御名を告白して主なる神を崇めましょう。

 

 主よ、あなたの深い憐れみによって私たちは癒され、救われました。御名を賛美します。イエスこそ主であると、言葉と生活で証しします。神を求める人々に恵みと慈しみが豊かに注がれ、永遠の命の恵みに与ることが出来ますように。 アーメン

 

 

「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。主よ、遅れないでください。」 詩編70編6節

 

 70編は、「救いを求める個人の祈り」です。まず救いを求める願いが語られ(2節)、敵を恥辱をもって去らせるようにとの願いが続き(3,4節)、そして、主を求める者の祝福と成長を祈ります(5節)。

 

 これは、40編14~18節の文言と非常によく似ています。これは、文体の整い具合などから、40編が70編を参考にして書いたのではないかと考えられています。

 

 表題に、「記念」と記されています(1節)。正確に訳すと、「記念するために」(レ・ハズキール)という言葉です。同じ言葉が列王記上17章18節で用いられており、「(罪を)思い起こさせ(るため)」と訳されています。

 

 注解者の中には、「記念」と同根の「しるし」(アズカーラー)という言葉との関連を見る人がいます。この言葉が、穀物を神に捧げるときに、その一つかみを「しるしとして」祭壇で燃やして煙にするというときに用いられるところから(レビ記2章2,9,16節、5章12節など)、神が祈る者を思い起こしてくださるよう神に働きかける祭儀に関係する表現であろうと考えるわけです。

 

 詩人は2節で、「神よ、速やかにわたしを救い出し、主よ、わたしを助けてください」と願っています。それは、詩人の命を狙い、災いに遭わせようと望む(3節)敵の存在があるからです。冒頭の言葉(6節)でも、「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています。速やかにわたしを訪れてください」と述べて、「速やか」な救いを求めています。

 

 詩の最初と最後に「速やかに」と語るということは、それだけ状況が逼迫しているということです。この詩に示されている願いは、緊急に叶えて欲しいということです。最後に、「遅れないでください」と求めている言葉からも、一分一秒を争うような緊迫感が伝わってきます。

 

 「神よ、わたしは貧しく、身を屈めています」とありますが、ヘブライ語で「わたし」は「アニー」、「貧しい」は「アーニー」と言い、「アニー・アーニー」と語呂合わせのような語り口になっています。

 

 「アーニー」には、「弱い、苦しめられると」いった意味もあります。「命をねらう者」や「災いに遭わせようと望む者」(3節)、嘲りの言葉で「はやし立てる者」(4節)という、謂わば王の失脚を狙っているような敵の存在によって、辛く苦しい生活を強いられているという様子も窺えます。

 

 それで、力を失って、困難に立ち向かうどころか、立ち上がることも出来ず、「身を屈めている」というのでしょう。「身を屈めている」は「エブヨーン」(貧しい、助けを必要としている)という言葉です。

 

 自力では敵に立ち向かうことが出来ないので、自分を苦しめる敵が「恥を受け、嘲られ」(3節)、「侮られて退き」(3節)、「恥を受けて逃げ去りますように」(4節)と、神が自分の苦しみを敵の上に臨ませ、自分を苦しみから解放し、恥をすすいでくださるよう求めているのです。

 

 一方で、「わたしは貧しく、身を屈めています」というのは、神の御前に捧げるものが何もないと言っていることでもあります。当然のことながら、詩人が神に救いを求めているのは、自分には資格や権利があるというようなことではありません。神の憐れみに頼る以外に、苦難から逃れる術がないのです。

 

 この詩は、共通聖書日課では、受難週の水曜日に読むように定められているそうです。というのは、4節の「はやし立てる者」という言葉に関係があります。これは、「『あはぁ、あはぁ』と言う者」(口語訳、岩波訳も参照)、新改訳は「『あはは』とあざ笑う者」と少し意訳しています。

 

 この言葉が、十字架につけられた主イエスを嘲る者たちの言葉(マルコ福音書15章29~32節参照)を指していると考えられたからです。であれば、これは、息を引き取られる前に、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(同34節、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」の意)と叫ばれた主イエスの心中にあった願い、祈りということになります。

 

 そこで、私たちのために貧しくなられたキリストを記念しながら(第二コリント8章9節)、弱い者、貧しい者として主イエスと共に立つキリストの教会が、自らの祈りとしてこの詩を受難週に読み継いできたわけです。

 

 私たちの助け、私たちの逃れ場なる主を慕い求め、主によって喜び祝い、楽しみ、み救いに与って、主をあがめよ、ハレルヤといつも賛美のいけにえ、主をたたえる唇の実を主にささげさせて頂きましょう。

 

 主よ、いつも私たちの祈りに耳を傾けてくださり、感謝いたします。私たちは無に等しいものですが、計り知れない主の憐れみのゆえに、心豊かに過ごすことが出来ます。絶えず主を尋ね求め、主に信頼して歩むことが出来ますように。そうして、御名を崇めさせてください。 アーメン

 

 

「主よ、あなたはわたしの希望。主よ、わたしは若いときからあなたに依り頼み、母の胎にあるときからあなたに依りすがって来ました。あなたは母の腹から、わたしを取り上げてくださいました。わたしは常にあなたを賛美します。」 詩編71編5,6節

 

 71編は、「救いを求める祈り」です。苦難を強いられる人生において、神を信じる信仰により、賛美へと導かれる詩人の思いが綴られています。

 

 1~3節は、31編2~4節によく似ています。「主よ、御もとに身を寄せます」(1節)というのは、主なる神への信頼の表現ですが、詩人は、敵の苦しみから逃れること(2,4節)、そして自分を苦しめる敵を滅ぼしてくれること(13節)を求めて、主の御もとに来たのです。

 

 救いを求めて主のもとに来た詩人が携えていたものは、雄牛や雄羊といったいけにえなどではありません。それは、「賛美」でした。

 

 冒頭の言葉(6節)に「わたしは常にあなたを賛美します」とあり、8節では「わたしの口は賛美に満ち、絶えることなくあなたの輝きをたたえます」と言い、また14節にも「わたしは常に待ち望み、繰り返し、あなたを賛美します」と語っています。それが、主なる神に信頼して、御もとに身を寄せる詩人の信仰の表現ということです。

 

 9節に「老いの日にも見放さず、わたしに力が尽きても捨て去らないでください」と願い、18節にも「わたしが老いて白髪になっても、神よ、どうか捨て去らないでください」と求めていることから、詩人は高齢になり、弱さを覚えているのでしょう。

 

 彼を苦しめている敵とは、高齢による衰えに加えて、死の恐れをもたらす病いを患っていることかもしれません。ここで詩人が恐れているのは、死によって神から離されてしまうこと、賛美をささげることが出来なくなることです。

 

 詩人は、冒頭の言葉(5節)で「主よ、あなたはわたしの希望」(5節)と、賛美をもって主への信仰を言い表しています。「希望」と訳されている「ティクヴァー」という言葉には、「紐(ひも)」という意味があります。「縒(よ)る、引っ張る」(カーヴァー)という言葉が「忍耐、待つ」という意味になり、そこから「希望」という意味で用いられるようになったわけです。

 

 「あなたはわたしの紐」では意味をなさないかも知れませんが、しかし、主なる神と詩人とが縒り糸のように強い力で縒り合わせられて一本の紐になってしまっている、決して切れない、離れられないという思いを受け止めることが出来るでしょう。この主との強い絆こそ詩人の「希望」なのです。

 

 この紐を縒り合わせる強い力の一つは、詩人が若いときから主に信頼の心を寄せていたことです(5,6節)。「母の胎にあるときから」とは少々オーバーな表現ですが、しかしそれは、主の助けなくして、自分はこの世に生まれ出ることが出来なかった、自分は主によって創られた者であるという信仰の表現です(創世記1章26,27節、エフェソ書2章10節)。

 

 しかしながら、それで主から離れずに来ることが出来たということでもないようです。というのは、23節で「わたしの唇は喜びの声を上げ、あなたが贖ってくださったこの魂は、あなたにほめ歌を歌います」という賛美の言葉を記しているからです。

 

 「贖ってくださった」というのは、「買い戻す」(パーダー)という言葉です。出エジプト記21章8節では、文字通り「買い戻す」と訳されています。買い戻すということは、主以外のものの所有になっていたということであり、それで、主が彼を買い戻されたということです。

 

 そのことについて20節に「あなたは多くの災いと苦しみをわたしに思い知らせられましたが、再び命を得させてくださるでしょう」とありますから、詩人は、神から離れて多くの災いと苦しみを味わったのです。しかし、主の憐れみを得てそこから引き上げられ、癒されたのでしょう。

 

 この贖いの恵み、神の深い憐れみこそ、主なる神と詩人とを一本の紐に縒り合わせる強い力なのです。詩人が絶えず賛美を携えて主の御もとに身を寄せるのは、この力に支えられているからであり、賛美の内に栄光をもって臨まれる神の慈しみを、さらに強く味わいたいからなのです。

 

 日毎に主を待ち望み、み言葉に耳を傾けましょう。その恵みに与り、心を込めて賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を、絶えず主にささげましょう。 

 

 主よ、私たちもまた、ギターを用いてあなたのまことに感謝をささげます。イスラエルの聖なる方よ、私たちはピアノに合わせてほめ歌を歌います。私たちの唇は喜びの声を上げ、私たちの舌は絶えることなく、恵みの御業を歌います。あなたは私たちの希望なのです。 アーメン

 

 

「王が助けを求めて叫ぶ乏しい人を、助けるものもない貧しい人を救いますように。」 詩編72編12節

 

 72編には「ソロモンの詩」という表題がつけられていますが、むしろ、ソロモン王のための、王の正しい裁きと、王の祝福を祈る「祈りの詩」というかたちです。これは、王の即位式のために編まれたものではないかと想像されます。

 

 18,19節にある頌栄は、第2巻(42~72編)の結びのしるしです。ここで詩人は、驚くべき御業をなさる方に対し、とこしえにその御名をたたえるべきこと、そのお方の栄光が全地に満ちていることを覚えさせます。

 

 そして、20節に詩編の編者が『ダビデの祈りは終わった』という後書きをつけています。42編の王の即位の詩で始まった「ダビデの祈りの詩」が、王を祝福する詩で終わったということを示しています。

 

 1節に「神よ、あなたによる裁きを、王に、あなたによる恵みの御業を、王の子にお授けください」と語られています。この「お授けください」(テイン=動詞「ナータン(「与える」という意)」の命令形)という言葉だけが、この詩で用いられている動詞の中で唯一、命令形になっています。他は未完了形で、「~しますように」と訳されているとおり、願いを表すかたちになっています。

 

 「あなたによる裁き」は、「あなたの公正(ミシュパート)」、「あなたによる恵みの御業」は、「あなたの義(ツェダカー)」という言葉です。「公正(ミシュパート)」は、裁判や政治における公平な取り扱いを意味し、「義(ツェダカー)」は、特に神との契約に沿った正しい関係を表していて、「正義、義、救い」などと訳されます。

 

 王に公正と正義を授けてくださいと祈り願うということは、公正と正義が神の持ち物であるということ、そして、ここだけが命令形であるということで、国を治めるために、王は公正と正義を必ず神から授からなければならないということ、そしてそれは、王が神の代理者として国を治めるものであるということを示しています。

 

 2節を直訳すると「彼があなたの民を義をもって、あなたの貧しい者たちを公正をもって裁きますように」となり、1節にあった公正と正義がコンビで登場します。新共同訳は、「義をもって」を「正しく」、「公正をもって」を「裁きますように」と訳しています。直訳の「裁きますように」という言葉は2節文頭にあって、新共同訳は「訴えを取り上げ」としています。

 

 同様に3節は「山があなたの民のために平和(シャローム)を、丘が義をもたらすように」となり、ここでは平和と正義というコンビになっています。因みに、新共同訳は「義」を「恵み」と訳しています。王が公正と正義をもって政を行うとき、国の全土に神の平和と義がもたらされるということでしょう。

 

 8節には「王が海から海まで、大河から地の果てまで、支配しますように」という願いが記されています。「海から海まで」はペルシャ湾から地中海まで、「大河」はユーフラテス河でしょう。そこから地のはてまでということで、これらは、当時のイスラエルの人々が見渡していた全世界といってよいでしょう。

 

 そのすべてを統治したイスラエルの王はいません。むしろ、この地域にあって力のあるアッシリアやバビロン、ペルシア、後にギリシア、それからローマといった列強諸国によってイスラエルは支配されて来ました。だから、神から公正と正義を授けられたイスラエルの王が立って全土を治め、それによって神の平和と義が打ち立てられることを願っているわけです。

 

 この王は、冒頭の言葉(12節)のとおり、「助けを求めて叫ぶ乏しい人」や「助けるものもない貧しい人を救い」、そして、「弱い人、乏しい人を憐れみ、乏しい人の命を救い」(13節)、「不法に虐げる者から彼らの命を贖う」(14節)ことが期待されています。それが、詩人の描く、公正と正義によって政を行う王によってもたらされた平和と義の世界です。

 

 ソロモンについては、神の知恵によって遊女の訴えを正しく裁いたという記事を思い出します(列王記上3章)。けれども、ソロモンはこの詩に詠われているような理想的な王ではありませんでした。確かにすばらしい知恵を授かり、すばらしい政治を行ったでしょう。世界中の富が集まっても来ました。しかし、彼の犯した過ちのゆえに、彼の死後、国は分裂してしまいます(同11,12章)。

 

 けれども神は、ソロモンの子孫に、これを実現する王を立てられました。ダビデの子として、この世においでになった神の御子、主イエス・キリストです。イエス・キリストを信じる者すべてに、神の義、神との正しい関係が与えられます(ローマ書3章22節)。キリストによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです(同24節)。

 

 キリストが王として支配される神の国には、聖霊によって与えられる義と平和と喜びがあります(同14章17節)。たてに神との正しい関係(=義)、横に人々との平和があるところは、喜び溢れるところとなるでしょう。それが、神の国だというのです。

 

 12節の「王」を主イエス・キリストと読み替えて、地球全土にキリストによる義と平和を打ち立ててくださるようにと、詩人と共にこの祈りをささげたいと思います。キリストこそ、私たちの平和だからです(エフェソ書2章14節)。

 

 主よ、全世界にキリストによる義と平和と喜びがありますように。自然災害、事故、爆弾テロ、報復の空爆などにより、寄る辺なく不安の日々を過ごしている方々を憐れみ、救ってください。あなたの憐れみこそ、全世界の希望です。あなたの栄光は全地に満ちています。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように。 アーメン

 

 

「ついに、わたしは神の聖所を訪れ、彼らの行く末を見分けた。」 詩編73編17節

 

 73編から、第三巻(73~89編)に入ります。神名に一般名詞の「神」(エロヒーム)が多く用いられ、また、礼拝と神殿が中心的なテーマとなっています。73~83編の表題に、「アサフの詩」とあります(50編も)。

 

 アサフは、レビ人ゲルショム族に属するベレクヤの子で(歴代誌上6章39節)、ダビデ時代、神の箱をオベド・エドムの家からダビデの町に運び込む時、詠唱者として抜擢されました(同15章19節)。先見者とも呼ばれています(歴代誌下29章30節)。

 

 彼の子孫はアサフの一族と呼ばれ、神殿礼拝における賛美の職務を継承しました(歴代誌下35章15節、ネヘミヤ11章22節)。バビロン捕囚からの帰還者リストには、詠唱者としてアサフの一族128人が登録されています(エズラ2章41節)。彼らは神殿再建の際、民の先頭に立って賛美の務めを果しました(同3章10,11節)。

 

 この詩には、「実に、確かに、本当に」という意味の強調接頭辞「アク」が3回(1,13,18節)用いられています。口語訳や新改訳はこれを「まことに」、聖書協会共同訳は「なんと」、岩波訳は「たしかに」と、それぞれきちんと訳出しているのに、新共同訳がそうしないというのは、ちょっと不思議です。

 

 1節を直訳すると、「まことに、よい方、イスラエルにとって、神は、心の清い人に対して」です。「神はよい方」に、「まことに」をつけて、強調しているわけです。そして、神はまことによい方、確かに恵み深い方というのが、この詩の主題なのです。

 

 神がどのようによい方なのか、詩人の語りを期待するところですが、2節以下に記されているのは、詩人が神の恵みを見失っている様子です。「それなのにわたしは、あやうく足を滑らせ、一歩一歩を踏み誤りそうになっていた」(2節)と記した後、「神に逆らう者の安泰を見て、わたしは奢る者をうらやんだ」(3節)と言います。

 

 ここで、「安泰」はシャロームという言葉で、神の恵みに満ちた平安な様子を表現する言葉です。なぜ、神に逆らう者にシャロームが与えられるのか、詩人は理解に苦しんでいます。彼らは肥え太り、そして健康です(4,5節)。

 

 一方、神を信じている詩人は、「日ごと、わたしは病に打たれ、朝ごとに懲らしめを受ける」(14節)と言うように、病気で苦しんでいます。そのため、13節で「わたしは心を清く保ち、手を洗って潔白を示したが、(確かに!)むなしかった」と語っているのです。

 

 15節で「『彼らのように語ろう』と望んだなら、見よ、あなたの子らの代を裏切ることになっていたであろう」というのは、すんでのところで、自分も神に逆らう者と同じようになるというところであったこと、それによってイスラエルを裏切ることになっていたということです。

 

 「あなたの子らの代」とは、申命記14章1節、イザヤ書1章2,3節などから、神の民イスラエルを指す言葉と考えられます。教師として信仰を教える立場にある者が、「神に逆らう者と同じようになろう」と望むなら、それは確かに裏切りでしょう。詩人は、なぜ裏切りをせずにすんだのでしょうか。

 

 それは、神が詩人の目を開いて、神に逆らう者の行く末を見させ(17~20節)、足を滑らせて一歩一歩を踏み誤りそうになっていた詩人の右の手を取って、御許に留まらせられたからです(23節)。神に逆らう者の安泰が、一瞬にして荒廃に落ち、よろめいていた自分の足が神に支えられていたというわけです。

 

 その分岐点が冒頭の言葉(17節)の「ついに、わたしは神の聖所を訪れ」というところです。ここで、「神の聖所」(ミクダシェイ・エール)というのは「聖所」(ミクダシュ)の複数形の言葉が用いられています。それは、複数の聖所を訪れたというのではなく、何度も繰り返し訪れたということを示していると思います。

 

 そして、「ついに」(アド:「~まで、とうとう=until」の意)神の恵みを見出すことが出来ました。それは、神がその祈りに答えてくださったということでしょう。

 

 詩人は、神に逆らう者らの行く末(17節)、すなわち、滑りやすい道に迷い(18節)、荒廃に落とし、災難によって滅ぼし尽くされることとを知りました(19節)。詩人が神の聖所で得た確信は、悪が滅ぼされるということに留まりません。一番の確信は、聖所におられるのが神であられ、詩人の祈りを聞いてくださるということです。 

 

 23節の「あなた(神)がわたし(詩人)の右の手を取ってくださる」という言葉で、「湖の上を歩く」ペトロが強い風を恐れて沈みかけ、「主よ、助けてください」と叫ぶと、主がすぐに手を伸ばして捕まえてくださったという、マタイ福音書14章22節以下の記事を思い出します。

 

 主イエスが「なぜ疑ったのか」と言われましたが、疑うとは、主イエスから目を離して周囲を見ること、その結果、主イエスが見えなくなることです。しかし、主イエスはインマヌエルと唱えられるお方、即ちいつも共にいてくださる神なのです。ですから、ペトロの叫びにすぐに手を伸ばして、ペトロを捕まえてくださいました。

 

 詩人も、神殿で繰り返し叫び声を上げ、その都度神の恵みに預かるという経験をしたのでしょう。だから、常に神の御もとに留まり(23節)、「(確かに!)神は恵み深い」(1節)と語り続けているのです。

 

 私たちも、主なる神に大胆に近づき、常に神のもとに留まって、種の恵み深さを味わい知り、その恵みを証しする者とならせていただきましょう。

 

 主よ、私たちもあなたに手を取られ、私たちの足が滑らないように御使いたちに命じて、道のどこでも守っていてくださることを、心から感謝します。常にあなたの御許に留まり、主は確かに恵み深いお方と、私たちにも証しさせてください。御名が崇められますように。 アーメン 

 

 

「あなたは、太陽と光を放つ物を備えられました。昼はあなたのもの、そして夜もあなたのものです。あなたは、地の境をことごとく定められました。夏と冬を造られたのもあなたです。」 詩編74編16,17節

 

 74編は、神がイスラエルを顧み、神殿を廃墟にし、神の民イスラエルを嘲る敵の手から救い出してくださるように願い求める「祈りの詩」です。

 

 「どうか、御心に留めてください。すでにいにしえから御自分のものとし、御自分の嗣業の部族として贖われた会衆を、あなたのいます所であったこのシオンの山を。永遠の廃墟となったところに足を向けてください。敵は聖所のすべてに災いをもたらしました」(2,3節)などという言葉から、バビロンによって都が破壊され、神殿が焼かれた情景を思い浮かべます(列王記下25章1節以下、9,10節)。

 

 「どうか、御心にとめてください」、「あなたのいます所であったこのシオンの山を」ということは、詩人は、廃墟となった神殿の丘で神の救いを祈り求めているわけです。「永遠」(ネーツァー)という言葉が、1,10,19節にも用いられていて、一つのキーワードになっています。神殿が廃墟となってから、ずいぶん長い時間が経過しているわけです。

 

 詩人を取り巻いている現実は、厳しいものがあります。神が永遠に守られると信じた都が破壊され、神殿が廃墟とされたのです。また、王をはじめ、主だった者はすべて、捕囚として連れ去られました。彼らを指導する預言者も、執り成し祈る祭司もいません(9節)。エルサレム周辺に残されている人々は、敵の嘲りにさらされて生活しています(10節)。

 

 詩人は、見えるものすべてが破壊され、焼き払われてしまったエルサレム神殿の廃墟で、目に見えない神に「神よ、なぜあなたは、養っておられた羊の群れに怒りの煙をはき、永遠に突き放してしまわれたのですか」(1節)と、嘆きの祈りをささげます。詩人は、この最悪の状況の中で、まさにすべての拠り所が失われた状況の中で、必死にその拠り所を求めているのです。

 

 詩人にとって神は「いにしえよりのわたしの王」(12節)です。古来、王であり続けておられる主を「わたしの王」と呼ぶことができるのは、主との間に人格的な親しい交わりがあることを示します(5編3節、44編5節、68編25節、84編4節など参照)。

 

 そして、「わたしの王」なる主は、「この地に救いの御業を果たされる方」(12節)です。「救いの御業」は「救い」(イェシューアー)の複数形が用いられています。13節以下17節まで、神による「救いの御業」が列挙されているからです。

 

「御力をもって海を分け」(13節)というのは出エジプト記14章の出来事を指しているようです。その後に出てくる「竜」は海の象徴、「レビヤタン」(14節)というのは、イザヤ書27章1節などの記述から、川を象徴しているものと考えられます。川も海も、人を死に追いやり、飲み込んでしまう悪しき獣が住む場所と考えられていたわけです。

 

 ですから、竜の頭を砕き、レビヤタンの頭を打ち砕いて、砂漠の民の食糧とされたというのは、海や川、砂漠という、人の命を脅かすところが、神の養いを受け、その恵みを味わうところに変えられたということです。

 

 具体的には、イスラエルの民の前に葦の海が分けられ、また、ヨルダン川がせき止められたことや、岩から水が出たこと(出エジプト記17章、民数記20章)、あるいはまた、天からマナが降ったこと(出エジプト記16章)などを指しているのでしょう。

 

 冒頭の言葉(16,17節)のとおり、神は昼には太陽、夜には光を放つものを備えられました(創世記1章14節以下)。「光を放つもの」(マーオール)は単数ですから、月を指すと考えられます。これらは、昼も夜も神が支配しておられるというしるしです。

 

 詩人は、古の出来事にその拠り所を見出しました。というのは、地の境を定められたのも、季節を設けられたのも神であられるということで、順風も逆風も神の御手の業であること、かつてエジプトから解放されたことも、バビロンによって都が破壊され、捕囚となった今も、自分たちは神のみ手の内にあると考えるに至ったのです。

 

 だからこそ、この最悪と思われる状況を、イスラエルの神を見限るときというのではなく、むしろこの逆境を神の民がひとつになって神を求めるべき時とし、神の助けを頂いてその恵みを味わうべき時としようと、声をあげているのです。

 

 闇が神の光を閉ざすどころか、むしろ、捕囚に伴う様々な苦難の中にいる詩人たちにとって、その輝きを取り戻したかのようです。ここに、イスラエルの人々が持つ信仰を見ることが出来ます。

 

 私たちも、昼も夜も支配され、夏も冬も造られた主を信じ、逆境のときこそ主を求める時として、絶えず賛美と祈りに導かれる、この信仰にあやかりたいと思います。

 

 主よ、あなたは確かにイスラエルの主です。その罪によって永遠に捨てられたように見えたイスラエルの民の祈りを聞き、再び光を備えられました。その民の中に、すべてのものを救うメシアをお遣わしになりました。主よ、苦難の中にいるすべての人々を顧み、その心に、生活に、光を備えてください。そして、共に賛美と祈りに導いてください。 アーメン

 

 

「わたしは逆らう者の角をことごとく折り、従う者の角を高く上げる。」 詩編75編11節

 

 75編は、奢り高ぶる者を裁かれる神に対する「賛美の歌」です。

 

 まず、2節に神への感謝の言葉があります。それは、神が時を選び、公平な裁きを行うという3節以下の言葉に基づいています。そこでは、奢り高ぶり、神に逆らう者たちに対する警告が語られます(5,6節)。

 

 それを受けて詩人は、高ぶる者に神が裁きを行われること(8節)、神に逆らう者に裁きの杯を飲ませられることを語ります(9節)。そして、神は逆らう者を退けられ、従う者を高められると、ほめ歌を歌うことを約束する言葉(10,11節)で詩を閉じています。

 

 ここで、「奢る者」(5節)、「逆らう者」(9,11節)とは、ヒゼキヤ王の代に北イスラエルを滅ぼし、南ユダに攻め寄せてきたアッシリアの王センナケリブのことでしょうか。あるいは、南ユダ王国を滅ぼしたバビロン帝国の王ネブカドネツァルのことでしょうか。

 

 アッシリア王センナケリブはラブ・シャケをエルサレムに遣わし(列王記下18章17節)、「ヒゼキヤにだまされるな、彼はお前たちをわたしの手から救い出すことはできない」(同29節)、「国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国をわたしの手から救い出したか。それでも主はエルサレムをわたしの手から救い出すというのか」(同35節)と告げさせました。

 

 ヒゼキヤは衣を裂き、粗布をまとって主に祈りをささげました(同19章1節以下)。主はその祈りを聞かれ、預言者イザヤを通してアッシリアの王に、「お前がわたしに向かって怒りに震え、その奢りがわたしの耳にまで上ってきたために、わたしはお前の鼻を鉤にかけ、口にくつわをはめ、お前が来た道を通って帰って行くようにする」(同28節)と語られ、そのとおりになりました(同35節以下)。

 

 それを見て、「あなたに感謝をささげます」(2節)と賛美しているのでしょう。「御名はわたしたちの近くにいまし」(2節)は、「御名」が神ご自身のことを示しているので、神が近くにおられて、自分たちを守ってくださったということです。

 

 34編19節に「主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる」とあるように、謙って神を求める者に神は近くおられ、救いを賜るのです(73編23節、85編10節、119編151節なども参照)。

 

 また、バビロニア王ネブカドネツァルは、神に夢を見せられ、ダニエルに夢解きを願いました(ダニエル書4章1節以下)。それは、ネブカドネツァルに対する警告でした。ダニエルは、「王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう」(同24節)と告げました。

 

 けれども、ネブカドネツァルはその忠告を忘れ、警告どおりのことが彼の身に起こり(同25節)、人間社会から追放されて野の獣と共に住み、牛のように草を食らい。七つの時、則ち、神がよしとされるまでそこで過ごさせられます(同22,29,30節)。

 

 後に、本心に立ち返ったネブカドネツァルは、「わたしネブカドネツァルは天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、奢る者を倒される」(同34節)と語りました。まさに、驕り高ぶる者に裁きが臨んだわけで、それを通して、ネブカドネツァルは悔い改めへと導かれたのです。

 

 その子、ベルシャツァル王が千人の貴族を招いて大宴会を開いていたとき、エルサレム神殿から奪って来た金銀の祭具に酒をついで飲み、木や石の神々をほめたたえました(同5章1節以下、4節)。つまり、イスラエルを滅ぼしたバビロン帝国の神々を賛美したわけです。そのとき、人の手の指が現れ、壁に「メネ、メネ、テケル、そしてパルシン」(同5節以下、25節)という文字を記します。

 

 この言葉を解釈したダニエルは、「父王様は傲慢になり、頑なに尊大に振舞ったので、王位を追われ、栄光は奪われました。・・ベルシャツァル王よ、あなたはその王子で、これらのことをよくご存知でありながら、なお、へりくだろうとはなさらなかった」(同20,22節)と言っています。

 

 その結果、その夜、王は殺され、やがてバビロン帝国は分裂して、メディアとペルシアに与えられることになるのです(同28,30節)。そして、イスラエルの民はペルシャ帝国の王キュロスによって捕囚から解放されます(紀元前538年)。

 

 イスラエルの民は、王国が滅亡し、異国の地で奴隷としての苦しみを味いながら、それまでの生活を悔い改めて神の御前に謙り、御言葉に従って神を礼拝することを学んだのです。ですから、帰国した民が先ず行ったのは、エルサレムの神殿を再建し、そこに祭司、レビ人など宗教指導者を配置して神を礼拝することでした(エズラ記2章以下、6章14,15節など)。

 

 冒頭の言葉(11節)で「逆らう者の角をことごとく折り、従う者の角を高く上げる」と言われます。「角」は力や権威の象徴です。奢る者は、その力を誇示して神に背きます。5節の「角をそびやかす」は、神への反抗を指すのです。神は、「必ず時を選び、公平な裁きを行う」(3節)と言われていたとおり、逆らう者、奢る者を退かせ、神の御前に謙り、従う者を高く上げてくださるのです。

 

 使徒ペトロも、箴言3章34節の言葉を引用しつつ、「同じように、若い人たち、長老に従いなさい。皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです。だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます」(第一ペトロ書5章5,6節)と語っています。

 

 旧新約を貫いて、公平な裁きを行ってその義をお示しになる神の御前に謙り、御言葉に聴き従う者となりましょう。互いに謙遜を身につけ、愛し合いましょう。  

 

 あらゆる恵みの源であられる神よ、あなたは、地上にある間、様々な悩み苦しみの下で、私たちを強め、力づけ、揺らぐことがない完全な者となるように整えてくださいます。今日、自然災害に見舞われたり、戦乱に見舞われ、避難生活を余儀なくされている方々に近くいまし、彼らの角を高く上げてくださり、栄光を表してください。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン

 

 

「神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる。」 詩編76編10節

 

 76編は、エルサレムを御自分の住まいと定められたお方について詠っているものです。

 

 2節に「神はユダに御自らを示され、イスラエルに御名の大いなることを示される」と記されています。神はイスラエルを御自分の民としてお選びになり、彼らに御自身を現されたのです。「御名の大いなることを示す」とは、後の文脈から、敵を打ち破られて町を守ってくださったことを示しています。 

 

 3節に「神の幕屋はサレムにあり、神の宮はシオンにある」という言葉があります。「サレム」とは、エルサレムの古い呼び名です。イスラエルの父祖アブラムを祝福した祭司メルキゼデクが王として治めている町が、この「サレム」でした(創世記14章18節)。「シオン」はエルサレムの都が築かれている丘の名前です(サムエル記下5章6節以下)。

 

 「サレム」は平和という意味、そして「シオン」には要塞、砦という意味があります。神がエルサレムにおいて砦となられ、平和を実現してくださる、平和の裡に守ってくださるということでしょう。それが4節で「そこにおいて、神は弓と火の矢を砕き、盾と剣を、そして戦いを砕かれる」と言われているわけです。

 

 4節の「餌食の山々から光を放って力強く立たれる」とは、山の上から日の出の光が射してくる様子を示しており、神がエルサレムにおいてその栄光を現されるということを表現しているようです。

 

 また、「餌食の山々」は、3節の「神の幕屋」と関係があるようです。「幕屋」というのは、「ソーク(仮庵、ライオンのねぐらとしての茂みの意)」という言葉で、10編9節ではこの言葉が「茂み」と訳されています。そうすると、「餌食の山々」も、ライオンの住家といった表現ではないかと思われます。

 

 エゼキエル書39章4節に「お前とそのすべての軍隊も、共にいる民も、イスラエルの山の上で倒れる。わたしはお前をあらゆる種類の猛禽と野の獣の餌食として与える」という言葉があるように、強い者がイスラエルを守っていて、敵として近づくものは、その餌食になるということを示しているのでしょう。

 

 「勇敢な者も狂気のうちに眠り、戦士も手の力を振るいえなくなる。ヤコブの神よ、あなたが叱咤されると、戦車も馬も深い眠りに陥る」(6,7節)というのは、ユダにご自身を示された神のみ力によって、敵が無力化されてしまったようです。

 

 これは、エルサレムの町まで攻め込んできたアッシリアの大軍が主の使いに撃たれ、一夜にして全滅してしまったといった出来事を物語っているようです(列王記下18章13節以下、19章35節)。だから、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)には、「アッシリアに対する詩」という表題が付けられています。

 

 ここで詩人は、エルサレムの町は安全だと言おうとしているわけではありません。神を畏れ、御前に謙ることを教えているのです。それが、「あなたこそ、あなたこそ恐るべき方」(8節)という言葉になっています。北イスラエルは、神を畏れることを忘れ、神に背いた結果、アッシリアに滅ぼされてしまったのです(列王記下17章)。

 

 そして、冒頭の言葉(10節)で「神は裁きを行うために立ち上がり、地の貧しい人をすべて救われる」と語っています。ここで「貧しい人」には、圧迫され、抑圧されている人という意味があります。口語訳は、「しえたげられた者」と訳しています。

 

 呉アライアンス教会の小宮山林弥牧師がこの箇所について、「人間は自分よりも弱い者を当然のように蔑み、肉体的精神的な暴力で苦しめるが、それは弱い者を苦しめる者を厳しく裁かれる御父を敵に回すことである。詩人は、敵の大軍の攻撃の前に怯えるだけであった自分たちが、自分よりも弱い者には傲慢に振舞う姿を見逃さなかったのである」と説かれました。

 

 そして、「この世界は、御父を無視する者がいうような弱肉強食の世界ではない。弱肉強食者を厳しく裁く御父の愛のご支配の世界である。自分を強めようとすることの愚かさを悟り、弱い自分を顧みていてくださる御父に感謝して信頼し、平安になり、弱い者に心から仕える者とされよう」と奨めておられます。

 

 あらためて、「貧しい者」とは、自分の力、強さに頼るのではなく、神に信頼し、その御手にすべてを委ねて従う者のことと肝に銘じましょう。神はその信頼に答えてくださる希望の源であられます。主の御前に謙り、その恵みに日々感謝して、喜びと賛美の唇の実を、主にお献げしましょう。

 

 主よ、災害に見舞われたり、病を患ったりすると、自分の貧しさ、無力さを痛感させられます。だからこそ、主に依り頼みます。その苦しみ、悲しみ、痛みを主に訴え祈ります。主の愛のうちにあって互いに交わりを持ち、聖霊に満たされて、互いに愛し合い、赦し合い、仕え合う家庭、教会、社会を築くことが出来ますように。私たちを選び、立ててくださる主の恵みに信頼し、すべてをお委ねします。 アーメン

 

 

「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある。あなたの踏み行かれる跡を知る者はない。」 詩編77編20節

 

 77編は、イスラエルがかつて主の大いなる力によって救われたことを回顧しつつ、苦難の中から神に救いを求める「祈りの詩」とされます。主なる神を「あなた」(5,12~15,17~21節と2人称で語る言葉はありますが、何かをしてほしいと願う言葉は、この詩にはありません。

 

 2節で「神に向かってわたしは声をあげ、助けを求めて叫びます」といい、続く3節で、「苦難の襲うとき、わたしは主を求めます」と告げ、4節でも「神を思い続けて呻き、わたしの霊は悩んでなえ果てます」と語ります。前半11節までに「わたし」という言葉が14回も出て来て、祈りというよりも詩人の独白といった印象の強い詩です。

 

 このとき詩人の心を支配していたのは、「主はとこしえに突き放し、再び喜び迎えてはくださらないのか」(8節)という思いでした。この言葉は44編24節、74編1節などにもありましたが、このように語るのは、苦難が襲って来て主を求めたのに(3節)、それに対する確かな主の答えを手にすることが出来なかったということでしょう。

 

 5節の「あなたはわたしのまぶたをつかんでおられます」という言葉は、まぶたを閉じることが出来ないように、つまり眠らせないようにしておられるということでしょう。であれば、詩人は今、祈りが聞かれないというよりも、自分を苦しめているのは神ご自身だと考えていて、それゆえ神に救いを祈ることも出来ず、悶々と思い悩んでいると訴えているわけです(4,7節)。

 

 けれども、そのような状況で内省を重ねても、堂々巡りになるだけで、そのトンネルから永遠に抜け出せないのではないかという思いに支配されてしまいます。神が答えてくださらないことを、「主の慈しみは永遠に失われたのであろうか」(9節)と自問したところで、納得のいく答えに到達できるはずもないからです。

 

 そのことを「いと高き神の右の御手は変わり、わたしは弱くされてしまった」(11節)と語り、かつてのように、神がその強い御手で守ってくださらない、神は変わられたのだと結論して、しかしながら、そう考えることは詩人にとって、拠り所を失い、すっかり弱り果ててしまうことたったのです。

 

 現状に希望を見いだせない詩人は、助けを願う代わりに、いにしえの神の御業を思い起こします(12,13節)。そして、「神よ、あなたの聖なる道を思えば、あなたのようにすぐれた神はあるでしょうか」(14節、出エジプト記15章11節)と言い、「あなたは奇跡を行われる神、諸国の民の中に御力を示されました」(15節、出エジプト記15章13節以下)と語ります。

 

 17節以下の歌は、天地創造の時のようであり(創世記1章1節以下)、また、葦の海を分けたときのことを詠っているようであり(出エジプト記14章1節以下、15章5,8節)、また、シナイ山に降ってモーセに十戒を授けられたときの様子(同19章16節以下)を描いているようでもあります。

 

 冒頭の言葉(20節)の「あなたの道は海の中にあり、あなたの通られる道は大水の中にある」という言葉は、葦の海を分けて乾いた地をイスラエルの民に通らせてくださったことを思わせます。

 

 しかしながら、続く「あなたの踏み行かれる跡を知る者はない」という言葉は、思いがけない言葉です。大水は神を見たけれども(17節)、人はだれも、その驚くべき御業を見なかったということでしょう。

 

 これは、ヨブ記37章5節で「神は驚くべき御声をとどろかせ、わたしたちの知り得ない大きな業を成し遂げられる」と語ったエリフの言葉を思い起こさせます。それは、神の御業は私たちの理解を超えているということでした。そのように、神は海の中、大水の中でも自由に歩まれ、力強く働いて驚くべき御業を行われるけれども、誰もその道を知ることが出来ないというのです。

 

 そう語ることによって、詩人は、今自分の目の前に苦難の海が広がっていて、前進を阻んでいるように見えるけれども、その中に神の通られる道があり、神の御手の業を見ることは出来なくても、その救いに与ることが出来るという信仰を言い表そうとしているのでしょう。

 

 24編2節に「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」という言葉があり、神の不思議な御力を示していました。詩人は、自分の思いに閉じこもって眠れぬ夜を過ごしていましたが、もう一度神の御業に思いを向けたとき、あらためて信仰に目覚めることが出来たようです。それは、「あなた」と呼びかけた神が、詩人に与えてくださった信仰でしょう。

 

 「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら,わたしに出会うであろう、と主は言われる」(エレミヤ書29章12~14節)と言われるとおりです。

 

 「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」(同33章3節)と言われる主に信頼して御名を呼び、求めるところを神に申し上げましょう。

 

 「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ書4章7節)。

 

 主よ、あなたに向かって私は声をあげ、助けを求めて叫びます。どうか、空爆にさらされて眠れぬ夜を過ごしているシリアの方々を顧みてください。長く避難生活を送っている被災地の方々を覚えてください。救いの光を見出して、希望を与えてください。どうか、世界と我が国を、あなたのよきもので満たしてください。喜びと平安がいつも豊かにありますように。アーメン

 

 

「彼は無垢な心をもって彼らを養い、英知に満ちた手をもって導いた。」 詩編78編72節

 

 表題の「マスキール」(1節)は、「理解する、賢くなる(サーカル)」という言葉のヒフィル(使役)形分詞で、岩波訳では、「教訓詩」という表題になっています。内容の上からも、78編は、教師が生徒のために記した教訓と考えてよいでしょう。

 

 詩人が教訓を与えようとしているのは、①「子らが神に信頼をおき、神の御業を決して忘れず、その戒めを守るため」(7節)であり、また②「先祖のように、頑なな反抗の世代とならないように、心が確かに定まらない世代、神に不忠実な霊の世代とならないように」(8節)ということです。つまり、過去の歴史に学び、それを明日に生かそうということです。

 

 9節で「エフライムの子らは武装し、弓を射る者であったが、戦いの日に、裏切った」と言われています。これは、60,61節との関連で、ペリシテとの戦いに敗れて、神の箱が奪われた出来事を示しているようです。

 

 「シロの聖所」(60節)とは、エフライム族の古い町シロに神の幕屋が置かれていたときのことを言うのでしょう(サムエル記上1章3,9節)。そこにはエリと二人の息子らが祭司として主に仕えていました。しかし、息子らはならず者で(同2章12節)、人々が捧げるいけにえを私し(同13節以下)、主への供え物を軽んじました(同17節)。

 

 また、幕屋の入り口で仕える女たちともたびたび関係を持ち(同22節)、祭司にあるまじき振る舞いであることを「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」(同25節)といって父エリが諭しても(同23節以下)、彼らは全く聞く耳を持ちませんでした。

 

 神の人によってエリの家の裁きが告げられ(同27節以下)、エリのもとで主に仕えていたサムエルにも念を押す形で裁きが告げられました(同3章11節以下)。エリはサムエルからそれを聞いて「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」(同18節)と答えました。

 

 やがて、主が告げられていたとおりに裁きがエリの家に臨み、ペリシテとの戦いに敗れて多くの兵士が戦死した折(同4章1節以下)、戦場にいたエリの子ホフニとピネハスも死に、陣営に運び込まれていた神の箱は奪われました(同11節)。そして、その報告を聞いたエリも、席から落ちて首を折って死んでしまいました(同18節)。

 

 まさしく、彼らが主を侮り、供え物を軽んじたゆえに、主がシロの聖所を捨て、神の箱がペリシテの虜となるに任せ、エリの家の栄光の輝きを敵の手に渡されたのです(60,61節)。そのうえ、彼らのゆえにイスラエルは大きな犠牲を払わせられました。

 

 それで、イスラエルはすっかり悔い改めて、神に聞き従うものになったというわけではありません。後に主なる神がエフライムの家からネバとの子ヤロブアムを立ててきたイスラエルの初代王として選ばれましたが、彼は主の期待を裏切り、御言葉に背く道を歩みました。

 

 ヤロブアムは、ソロモン王に仕えていましたが、預言者アヒヤの預言を受けて反旗を翻し(列王記上11章26節以下)、ソロモンの死後、イスラエルを南北に分裂させます(同12章)。それは、ソロモンが主に背いたために、主が10部族をヤロブアムに与えて、北イスラエル王国の王とされたのです(同11章31節以下)。

 

 ところが、主の目に適う正しいことを行うようにと命じられていたにも拘わらず(同38節)、ヤロブアムはその命に背いて金の子牛を二体造り、それを領土の南と北、ベテルとダンに置いて神として礼拝するようにさせたのです(同12章25節以下、28,29節)。

 

 そして、ヤロブアムのあとの王たちも、ヤロブアムに倣って神に背き続けました。10節に「彼らは神との契約を守らず、その教えに従って歩むことを拒み」と言われているとおりです。

 

 続く12節から39節までは、神がいかに民を憐れみ、エジプトを脱出して荒れ野を導き、民の必要に答えられたかを記し(12~16節、23~29節)、一方、民がいかに恩知らずに神に対して振舞い、反攻したかが記されます(17~22節、30~37節)。

 

 しかるに、「神は憐れみ深く、罪を贖われる。彼らを滅ぼすことなく、繰り返し怒りを静め、憤りを尽くされることはなかった。神は御心に留められた、人間は肉にすぎず、過ぎて再び帰らない風であることを」(38,39節)と記して、前半をまとめています。

 

 40節からの後半では、まずモーセを通してエジプトに下された災いの数々が記されます(43~51節)。イスラエルの民は、約束の地に住むようになりますが(52~55節)、背いて神を怒らせ、様々な災いを蒙りました(56~66節、サムエル記上4章参照)。ここに、過去に学ぼうとしない民の愚かさが示されているのです。

 

 そのように背き続けたイスラエルの民のために、神は「ユダ族と、愛するシオンの山を選び、御自分の聖所を高い天のように建て、とこしえの基を据えた地のように建てられた」(68,69節)と記します。

 

 67節に「主はヨセフの天幕を拒み、エフライム族を選ばず」と記されていることから、詩人は、北イスラエルが滅びた後、ヒゼキヤ王(列王記下18章以下)かヨシヤ王(同22章以下)の代に、ダビデの信仰を理想として、主の恵み深い御業に信頼し、御言葉に従って歩むように、そして、先祖の背きの罪に倣わないようにと語っているようです。

 

 ただしかし、王国が分裂したのは、ダビデの子ソロモンの背信の罪のゆえでした(列王記上11章1節以下)。ダビデも罪と無縁ではありません(サムエル記下11章など)。冒頭の言葉(72節)で「無垢な心をもって彼らを養い、英知に満ちた手をもって導いた」と記されているのは、ダビデのことでもソロモンのことでも、そしてヒゼキヤやヨシヤのことでもありません。

 

 ダビデの子としてお生まれになり、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことが出来ない」(ヨハネ福音書14章6節)と語られた主イエス・キリストこそ、その方なのです。

 

 主を信じ、その御心に従って歩むことが出来るように、絶えず御言葉に耳を傾け、「御言葉がこの身になりますように」と祈りましょう。主を信じ、御言葉に従う恵みを証しする者とならせていただきましょう。

 

 主よ、私たちは、パンによって生きているのではなく、神の御口から出る一つ一つの言葉によって養われ、御手よって守り導かれているのです。その恵みを心から感謝します。私たちの生活にその御言葉を実現してください。聖霊に満たされ、力強く主の愛と恵みを隣人に証しすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください。」 詩編79編9節

 

 79編は、74編と同様に、異国によるエルサレムの破壊と近隣の民による嘲りから、イスラエルの救いを求める「祈りの詩」です。「彼ら」と言われる異国の民と、「あなた」と呼びかける主なる神、そして「わたしたち」なる神の民の三者が登場してきます。

 

 この詩は、「異国の民があなたの嗣業を襲い、あなたの聖なる神殿を汚し、エルサレムを瓦礫の山としました」(1節)という言葉などから、紀元前587年の第二次バビロン捕囚という出来事の後、エルサレムに残っていた者が記したものと考えられます。

 

 この詩は今日、バビロンによる破壊と紀元70年のローマによる破壊を思い起こす嘆きの祈りとして、後世のユダヤ人たちにより毎金曜日、エルサレム神殿の嘆きの壁で唱えられているそうです。

 

 バビロン兵が破壊されたエルサレムにおいて殺戮と暴虐を行ったので、捕囚とならずエルサレムに残った多くの者が殺され、遺体を葬る者もないまま(3節)、猛禽の餌食になるという悲惨な状況が描かれています(2節)。それゆえ、残りの者たちは近隣の民に嘲られ、辱められています(4節)。

 

 詩人はその状況を神に訴えて、「主よ、いつまで続くのでしょう」(5節)と言います。異国の民に苦しめられているのに、なぜ助けてくださらないのか、いつ手を伸ばしてくださるのかと問いかけるのです。そして、「あなたは永久に憤っておられるのでしょうか」(5節)と記すことで、この苦しみは、神から来ていると詩人が考えていることが分かります。

 

 「永久に憤っておられるのか」という言葉には、捕囚の苦しみを味わって後、一定の時間が経過したのかとも思わせ、そうすれば、二度と神の恵みに与ることは出来ないのか、神は私たちの祈りを聞いてくださらないのかと神に訴えている言葉といえるでしょう。

 

 神が憤っておられるというのは、詩人たちが罪を犯したということです。そのことを8節で「どうか、わたしたちの昔の悪に御心を留めず、御憐れみを速やかに差し向けてください」とも語っています。悪をなした自分たちが拠って立つのは、自分たちの正しい振る舞いなどではなく、立場を回復するために支払う犠牲などでもなく、神の差し向けてくださる「御憐れみ」だということです。

 

 そこで詩人は、冒頭の言葉(9節)のとおり、「わたしたちの救いの神よ、わたしたちを助けて、あなたの御名の栄光を輝かせてください。御名のために、わたしたちを救い出し、わたしたちの罪をお赦しください」と求めます。

 

 イスラエルの民は、優秀で数の多い民だから、神に選ばれたというわけではありませんでした。エジプトで奴隷の苦しみを味わっていたイスラエルの民を神が憐れみ、モーセを遣わして救い出されて、御自分の聖なる民、宝の民とされたのです(申命記7章6節以下)。

 

 イスラエルが約束の地に安住しているということは、神がイスラエルを深く憐れみ、愛しておられるしるしです。そしてそれは、イスラエルを祝福の源として、神の深い愛と憐れみが地の表のすべての民に注がれるという神のメッセージです(創世記12章2,3節)。

 

 ですから、イスラエルの民が近隣の民に嘲られることは、それは勿論イスラエルの民の罪のゆえですが、しかしそれは、イスラエルの神の名折れになることなのです。そこで、御名の栄光を曇らせないよう、イスラエルの罪を赦し、この苦しみから救ってくださいと求めているのです。

 

 続く10節に「どうして異国の民に言わせてよいでしょうか、『彼らの神はどこにいる』と」ということで、自分たちの罪よりも異国の民の嘲りに焦点を合わせ、御名の栄光を輝かせるために、血の報復をしてくださるようにと求めています。

 

 よく考えるまでもなく、この祈りは、なんとムシのいい理屈でしょう。自分たちが汚したイスラエルの神の御名が、汚れたまま放置されているのは神の名折れになるので、ご自身で御名を清め、神の栄光で自分たちを輝かせてくださるように、と求めているわけです。

 

 しかし、主なる神は、この祈りを引き取られました。主イエスがご自身の祈りとして弟子たちに教えられた「主の祈り」の中で、「御名をあがめさせたまえ」(新共同訳聖書では「御名が崇められますように」マタイ福音書6章9節)と祈ります。

 

 この箇所を直訳すると、「あなたの名が聖くされますように」(ハギアスセートー・ト・オノマ・スー)という言葉になります。神の名が聖くされるようにということは、神の名が汚れているということ、しかも、御名を汚したのは自分だということでしょう。

 

 そして、この祈りをささげよと教えられた主イエスが、ご自身の命をもって私たちの罪を赦し、贖い、律法の呪いから解放してくださいました。かくて、御名の栄光を表してくださったのです。ここに、神の愛があります(第一ヨハネ4章9,10節)。

 

 この愛によって、私たちは神の子とされ、「アバ,父よ」と呼ぶことが出来る者とされました(ローマ8章15節、ガラテヤ4章5,6節)。今日も神の御名を呼び、その導きに従順に従っていきましょう。 

 

 主よ、あなたは「血に対する報復」を、主イエスの贖いにより、全世界を救うという手段で人々の目に表されるようになさいました。その愛のゆえに、私たちも主イエスを信じ、神の民とされる恵みに与りました。主の御心を心とし、委ねられている使命のために自らを捧げて、御名の栄光を褒め称えさせてください。 アーメン

 

 

「神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください。」 詩編80編4節

 

 80編は、イスラエルの救いを求める「祈りの詩」です。

 

 2節の「イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れのように導かれる方よ」という言葉、3節の「エフライム、ベニヤミン、マナセの前に」という言葉から、特に北イスラエル王国の救いを求めているようです。それは、紀元前721年に起こったアッシリアによるサマリアの都の陥落、北王国の滅亡という災いを味わってのことでしょう。

 

 以後、紀元前597年の第一次バビロン捕囚、587年の第二次バビロン捕囚により、エルサレム神殿が破壊され、ダビデ王朝が滅びるという災いが南ユダ王国に起こりました。このような、メソポタミアの強国によって繰り返される破壊と暴虐から救ってください、解放してくださいと祈り求めているわけです。

 

 5,6節の「いつまで怒りの煙をはき続けられるのですか。あなたは涙のパンをわたしたちに食べさせ、なお、三倍の涙を飲ませられます」という言葉から、詩人は、アッシリアやバビロンによる王国の滅亡が、単に強国の暴力と考えているのではなく、神がそれらの国々を用いてイスラエルに怒りを表された、つまり、イスラエルの罪を裁かれる神の怒りのゆえだと考えているのです。

 

 ですから、「いつまで」と尋ねているのは、神の裁きによる苦しみが長く続いている証拠であり、一日でも早く、その怒りをおさめてくださるよう、神の憐れみを求める言葉ということが出来ます。

 

 神の憐れみを求めるのに、2節で「イスラエルを養う方、ヨセフを羊の群れにように導かれる方よ」と、神を羊飼いとして描写します。岩波訳は脚注に「詩編で『牧者』が出るのはここと23編1節だけ。『イスラエルの牧者』はエゼキエル34章2節にもあるが、そこでは複数形で王たちを指す」と記しています。

 

 かつてイスラエルがエジプトで奴隷として働かされていたとき、神が彼らを憐れんで救い出してくださり、約束の地カナンに導かれたことを神に思い出していただくこと、そして、もう一度自分たちのために良い羊飼いとなって、自分たちをカナンに連れ戻していただきたいと願っているのです。

 

 「御耳を傾けてください。ケルビムの上に座し、顕現してください」(2節)とは、契約の箱の贖いの座に付けられているケルビムに鎮座ましまし(出エジプト記25章22節)、かつて荒れ野を約束の地へと民を導かれたように、もう一度イスラエルに連れ帰ってくださることを祈り願っているのです。

 

 また、契約の箱は、軍勢と共に立ち上がる万軍の主なる神の顕現を、見えるかたちで示すものです(サムエル記上4章4節、サムエル記下6章2節)。かつて、エジプトの苦役から解放し、約束の地を獲得するために神が御力を振るわれたように、自分たちを苦しめている敵の手から解放してくださるように求めているわけです。

 

 さらに、エルサレムの都に神の宮が建てられ、至聖所に契約の箱が安置されたとき、それが神の臨在の象徴となりました(列王記下19章15節、詩編99編1節)。イスラエルの民は、至聖所に安置された箱を見ることは出来ませんでしたが、箱を担ぐ棒が聖所から見えたので(列王記上8章8節)、それで、箱の存在が確認できるようになっていたようです。

 

 ソロモンが契約の箱を自分が建立した神殿に安置してささげた祈りの中で、神殿に目を注ぎ、そこに向かって祈る祈りを聞き届けてくださるようにと求めていました(列王記上8章28節以下参照)。同様に、今ここで救いを求めている詩人たちの祈りに、主が耳を傾けてくださるようにと願っているわけです。

 

 また、9節では「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、多くの民を追い出して、これを植えられました」と述べています。この「ぶどうの木」のたとえは、詩編だけでなくイザヤ書、エレミヤ書などでも、イスラエルを象徴するものとして用いられます。

 

 ここでも、エジプトから約束の地に移植してくださった神の憐れみの業を取り上げて、再びその繁栄を回復させてくださるように求めています。12節で「大枝を海にまで」とは地中海、「若枝を大河まで」とはユーフラテス川を指しており、それほど広大な地を領有したことはありませんが、こういう表現で、ソロモン時代の繁栄を回復してくださいと言っているわけです。

 

 そして、冒頭の言葉(4節)をはじめ、8,20節でも「神よ、わたしたちを連れ帰り、御顔の光を輝かせ、わたしたちをお救いください」と、繰り返し語ります。79編9節と同様、イスラエルの背きの罪のゆえに汚された神の栄光を、神ご自身の力で清め、再び輝かせてくださいと求めているということになります。

 

 このように詩人が神の憐れみを乞う祈りに対して、神は、ダビデの子孫として主イエスをこの世に遣わし、贖いの供え物として人々の罪を赦し、御名を清められました。

 

 主イエスが御自分のことを「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章11節)と仰ったこと、また、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(同15章5節)と仰ったことを思い出します。

 

 私たちを真理に導き、豊かな恵みを与え、実を結ばせてくださる主イエスを信じ、その御言葉に従って日々歩ませていただきましょう。

 

 主よ、常に私たちと共にいてくださる御子イエスの導きによって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰の歩みを続けることが出来ますように。苦難の中におられる方々にも、希望と平安が与えられますように。 アーメン

 

 

「わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。イスラエルよ、わたしに聞き従え。」 詩編81編9節

 

 81編は、神がおのが民を、「わたしに聞き従え」と招く詩です。

 

 この詩は二部構成で、第一部が2節から6節前半まで、第二部は6節後半から17節までです。第一部は、祭りの日に賛美をささげよとの招きが語られ、第二部は、神ご自身が民に語りかける説教という内容になっています。

 

 4節に「角笛を吹き鳴らせ、新月、満月、わたしたちの祭りの日に」とありますが、角笛を吹き鳴らすのは、イスラエルの7月1日の新月祭で、聖なる集会を行います(レビ記23章24節)。続く10日が贖罪日(同27節)、そして満月に当たる15日の安息日から一週間、仮庵祭が行われます(同34節)。この詩は仮庵祭に朗読されるように作られたものと思われます。

 

 仮庵祭は葡萄に代表される秋の実りを神に感謝する祭りです。それが「仮庵」の祭と呼ばれるのは、この祭りの間、戸外の仮の簡素な小屋で過ごすからです。それは、もともと葡萄を収穫し、直ぐに葡萄を搾って葡萄酒を造るという作業を行うため、雇った労働者が寝泊まりする仮小屋を、葡萄園に建てたためです。

 

 それに、モーセに率いられてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野を旅する長い間、テントで生活したことを重ね合わせ、エジプトの地から導き出された主の御業を告げ知らせると共に、現在の安定した生活、大地の恵みを神に感謝するためなのです(レビ記23章34~43節)。

 

 冒頭の言葉(9節)は詩の中心に置かれており、文字通り、中心的なメッセージとなっています。「あなたに定めを授ける」というのは「証言する、戒める」(ウード)という言葉で、「あなた」と呼びかけている者たちに悪い状態に陥った関係を正すように勧める言葉なのです。聞き従う者には、「口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう」(11節)という約束が与えられます。

 

 けれども、「わたしの民はわたしの声を聞かず、イスラエルはわたしを求めなかった」(12節)と言われます。荒れ野を旅する間も、約束の地に入ってからも、イスラエルの歴史は、神に背き、その御言葉に従わない歴史でした。

 

 エレミヤ書7章25,26節に「お前たちの先祖がエジプトの地から出たその日から、今日に至るまで、わたしの僕である預言者らを、常に繰り返しお前たちに遣わした。それでも、わたしに聞き従わず、耳を傾けず、かえって、うなじを固くし、先祖よりも悪い者となった」と言われるとおりです。

 

 神は、「頑なな心の彼らを突き放し、思いのまま歩かせた」(13節)と言われます。その結果、民は神の御翼の陰を離れ、自分勝手に進んで自ら滅びを招いてしまいました。パウロがローマ書1章18節以下、24節で語っているのは、そのことです。

 

 神は14,15節で「わたしの民がわたしに聞き従い、イスラエルがわたしの道に歩む者であったなら、わたしはたちどころに彼らの敵を屈服させ、彼らを苦しめる者の上に手を返すであろうに」と言われています。

 

 このメッセージは、神が「何度も名前を読んだのに、一度も答えようとしなかったから、もう呼ばない。もし答えてくれていたら、ちゃんと守ってあげたのに、一度も答えなかったから、もう二度と守ってあげない」などと言おうとしているわけではありません。

 

 このように語りながら、「今これを聞いているあなたは、わたしの声に聞き従いますか、いつもわたしを求めますか」と問いかけているのです。そして、もし神の御声に聞き従うならば、最良の小麦で養い、「わたしは岩から蜜を滴らせて、あなたを飽かせるであろう」(17節)と、再び約束されているのです。

 

 仮庵祭の最終日には、大祭司が金の水差しでシロアムの池から水をすくい、それを神殿に運んでその水を祭壇に注ぐという儀式を行います。それは、来春の小麦や大麦の収穫のために、雨を降らせてくださるようにという祈りの儀式です。

 

 ヨハネ福音書7章で主イエスが、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7章37,38節)と言われたのは、この日の出来事です。ここで、「生きた水」とは聖霊のことでした(同39節)。

 

 ヨハネは、主イエスが「大祭司」としてお立ちになったこと、「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい」(同37節)と仰って、命の水を与えるのは、主イエス御自身であることを示します。そして、霊的な収穫(ペンテコステの出来事:使徒言行録2章)が豊かにあるように、主イエスを信じる者に聖霊が注がれるように祈られたと記しているのです。

 

 私たちが主イエスを信じて、その御声に聴き従うなら、岩から蜜が滴るという神の御業を通して(17節)、聖霊の豊かな恵みで飽かせられる、即ち、自分自身が満足させられるだけでなく、それが川の流れとなって流れ出るようになると言われています(ヨハネ7章38節)。

 

 朝ごとに主を仰ぎましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。その教え、戒めに素直に聞き従いましょう。 

 

 主よ、御言葉を感謝します。私たちが主の御声に絶えず耳を傾け、喜びをもってその導きに従うことが出来ますように。聖霊の豊かな恵みに与り、主の愛と恵みを力強く証しすることが出来ますように。必要な知恵、力を授けてください。御心がこの地になりますように。 アーメン

 

 

「わたしは言った、『あなたたちは神々なのか、皆、いと高き方の子らなのか』と。」 詩編82編6節

 

 82編は、神に逆らう者に味方して正義を行わない神々を裁き、主なる神が立ち上がられることを願い、その支配を讃える歌です。

 

 1節は、場面設定です。「神聖な会議」(1節)という名の法廷で、神が神々を裁かれます。ここで「神聖な会議」と訳されているのは、「神の集まり」(アダト・エル)という言葉で、この表現は、ここ以外には用いられていません。「エル」は単数ですから、神々の集まりというより、神が集めた会衆といった言葉遣いです。

 

 主なる神は、「いつまであなたたちは不正に裁き、神に逆らう者の味方をするのか」(2節)と言われます。ここに、神々がそれぞれの国を司る王、あるいは裁判官のような存在として描かれています。そして、不公正な裁きを行って神に逆らう者の味方をしていたと糾弾されているわけですから、主なる神は、この地に正義が行われることを期待しているということになります。

 

 神は彼らに「弱者や孤児のために裁きを行い、苦しむ人、乏しい人の正しさを認めよ」(3節)、「弱い人、貧しい人を救い、神に逆らう者の手から助け出せ」(4節)と命じられ、それが、神の願っている正義と公正を行うことだと言われるのです。

 

 しかるに、神々は自分の使命を理解せず、その役割を果たさないので、その地は混乱に見舞われます。「地の基はことごとく揺らぐ」(5節)という言葉で、神々のなしていることによって、神の創造された世界が揺るがせられていること、つまり、神の創造の秩序を破壊するようなことであるというのです。

 

 そこで、神は彼らを罷免し、死を宣告します(6,7節)。冒頭の言葉(6節)を新共同訳は疑問文にしていますが、口語訳、新改訳のように、「あなたがたは神々、あなたがたは皆、いと高き方の子ら」と肯定文として訳すべきではないでしょうか(岩波訳、聖書協会共同訳2018年版も参照)。

 

 主イエスがヨハネ福音書10章34節でこの言葉を引用して、「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか」と語られていることも、ここを肯定文とすべきだという論拠になるでしょう。

 

 主イエスは続けて「神の言葉を受けた人たちが『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」(同35,36節)と言われました。

 

 主イエスは、「神々」を「神の言葉を受けた人たち」(同35節)と解釈されました。ここで、神の会議に招集された「神々」は、弱者や孤児、苦しむ者、乏しい人、弱い人、貧しい人のために正義と公正を行うことが期待されていた人々でした(2節以下)。それが主イエスの言われる「神の言葉を受けた人たち」ということでしょう。

 

 詩人は6節で「神々」を「いと高き方の子ら」と言い換えています。「いと高き方」(エルヨーン)について、民数記24章16節では「いと高き神」と訳され、「神(エル)」、「全能者(シャダイ)」と並置されています。また、サムエル記下22章14節でも同様に訳され、「主(ヤハウェ)」と並べられています。即ち「いと高き方の子ら(ブネー・エルヨーン)」とは神の子らということです。

 

 だから、「神々」が「神の子ら」と言い換えられ、主イエスは「神々」を「神の言葉を受けた人々」と解釈されて、神の言葉、即ち神の使命を受けた者は「神の子」と言われていることになると語られたわけです。

 

 イザヤ書3章13~15節に「主は争うために構え、民を裁くために立たれる。主は裁きに臨まれる、民の長老、支配者らに対して。『お前たちはわたしのぶどう畑を食い尽くし、貧しい者から奪って家を満たした。何故、お前たちはわたしの民を打ち砕き、貧しい者の顔を臼でひきつぶしたのか』と」という言葉があります。

 

 民の長老、支配者たちが貧しい者を虐げ、食い物にしていると告発し、主が彼らを裁かれるという言葉です。ここで神々が告発されているのと同じ状況です。つまり、神が民の長老、支配者たちを立てられたのは、彼らが「神々」として民の上に君臨し、その権威、権力で民を支配するためではなく、弱い者、貧しい者を守り助けるという公正と正義を実行させるためなのです。  

 

 神の命に背き、不正をなして神の御心を蔑ろにするなら、退けられるほかはありません。「人間として死ぬ。君候のように、いっせいに没落する」(7節)とは、「神々」、「いと高き方の子ら」と言われた人々も、ただの人として死を迎えさせられるということです。

 

 最後に詩人は、「神よ、立ち上がり、地を裁いてください」と願い、「あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう」と歌って、詩を閉じます(8節)。

 

 「神よ、立ち上がり」は、神の契約の箱が進むときにイスラエルが祈った祈りの言葉でした(民数記10章35節、詩編132編8節、74編22節)。裁きを願うとは、未だ地に正義が行われていないことが示され、神が「神々」に代わって正義と公正を行ってくださるように求めているのです。

 

 それにより、「すべての民を嗣業とする」とは、すべての民をご自身の所有とするということで、主なる神が全地の支配者となられることを意味しています。

 

 主イエスは私たちに、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6章10節)と祈るように、教えてくださいました。悪しき者が権力を握り、弱い者を抑圧しているような状況であっても、そこにも主の支配があることを信じ、御心が行われるようにと祈るのです。ここに、私たち信仰者の務めがあります。

 

 心を込めて、主の祈りを唱えましょう。主こそ、全地の支配者、正義と公正を行われるいと高き神だからです。

 

 主よ、お立ち上がりください。そして、全世界を治めておられるあなたの正義が、この地に実現されますように。自然災害の被災者をはじめ、困難な生活状況にある方々に、今日もこの日の必要な糧をお与えください。私たちはあなたの口から出る一つ一つの生ける言葉によって生かされているからです。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「彼らが悟りますように。あなたの御名は主、ただひとり、全地を超えて、いと高き神であることを」 詩編83編19節

 

 83編は、イスラエルを取り囲む敵の脅威の中から、神に救いを求める「祈りの詩」です。

 

 2節に「神よ、沈黙しないでください」とあります。これは、神は必ず自分たちを守ってくださるという確信に立っているというよりも、むしろ、祈り求めても神が助けてくださらないのではないかと感じているような表現です。様々な敵の攻撃に際して何度も助けを祈り求めたのに、神は沈黙しておられるかのごとくに、何の助けも得られなかったという経験に基づいた求めではないでしょうか。

 

 7節以下に「敵」が列挙されています。エドム人から8節最後のティルスの住民まで、いずれもそれはイスラエル周辺の国々、民族です。そして最後にアッシリアが登場して、ロトの子らに腕を貸したといわれます(9節)。ロトの子らとは、モアブとアンモンのことです(創世記19章36節以下)。つまり、7節以下に列挙された国々の民が徒党を組んで襲って来たということになります。

 

 アッシリアとイスラエル周辺諸国、諸部族が同盟を組んでイスラエルを攻撃したことがあるのかといえば、歴史的にそれを裏付ける証拠はありません。むしろ、これらの国々とイスラエルが手を組んで、アッシリアやバビロンというメソポタミアの強国に対抗したことはあります。

 

 ただ、これらの国々がそれぞれイスラエルの「敵」となり、その攻撃に苦しめられたことがあるのは事実です。また、文化的、宗教的影響を強く受け、イスラエルの民が主なる神から離反する原因となりました。

 

 

 10節から13節までは、士師記4~8章に記されている出来事です。この時代、イスラエルが主の目に悪とされることを行い、それで主なる神がイスラエルを周辺諸国の手に売り渡されました。そこで、イスラエルの人々が主に助けを求めて叫ぶと、神が士師をたてて助けてくださるということが繰り返されました。

 

 ですから、イスラエルに敵する同盟軍に対して、かつてのようになさってくださいと求めるということは(10節)、この危機の原因が、イスラエルの背きの罪にあるということを示すものでもあります。

 

 今、詩人が恐れ戦いているのは、アッシリアの脅威が迫っているからです。5節に「彼らは言います、『あの民を国々の間から断とう。イスラエルの名が再び思い起こされることのないように』」とありますが、アッシリア軍の残忍さは尋常ではなかったようです。

 

 アッシュル・ナシル・パルという王様(紀元前883~859年)は、自分の碑文に「敵対者たちの血で山々を赤く染め、谷を死体で満たし、人々を火で焼いた。謀反を企てる者の皮をはいで磔にし、あるいは手足を切り落とした」と刻ませているそうです。

 

 預言者ヨナが神に、「ニネベに行きなさい」と命じられてそれを拒んだのは(ヨナ書1章参照)、ニネベがアッシリアの首都だからでした。このような残忍なことをする人々に神の言葉を語り、彼らが悔い改めて救われることを、ヨナは快しとすることが出来なかったのです(同4章2,3節)。

 

 詩人の願いにも拘わらず、神はアッシリアの攻撃の前に沈黙しておられました。アッシリア軍はサマリアを陥落させ、北イスラエル王国は滅ぼされてしまいました(列王記下17章1節以下、6節)。

 

 そのことについて列王記の記者は、「こうなったのは、イスラエルの人々が、彼らをエジプトの地から導き上り、エジプトの王ファラオの支配から解放した彼らの神、主に対して罪を犯し、他の神々を畏れ敬い、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の風習と、イスラエルの王たちが作った風習に従って歩んだからである」(同7,8節)と評しています。

 

 さらに、「ユダもまた自分たちの神、主の戒めを守らず、イスラエルの行っていた風習に従って歩んだ。主はそこでイスラエルのすべての子孫を拒んで苦しめ、侵略者の手に渡し、ついに御前から捨てられた」(同19,20節)と言います。

 

 そして、その言葉の通り、ヒゼキヤの代にアッシリアが南ユダ王国にも攻め込み、ユダの砦の町をすべて占領し、エルサレムの都に迫りました(同18章13節以下)。

 

 アッシリア王がヒゼキヤのもとに遣わしたラブ・シャケが、「主がわたしに、『この地に向かって攻め上り、これを滅ぼせ』とお命じになったのだ」(列王記下18章25節)と告げた言葉は、5節の「あの民を国々の間から断とう。イスラエルの名が再び思い起こされることのないように」という言葉と重なって来ます。

 

 その時、ヒゼキヤにはアッシリア軍を追い返す力はありませんでした。ヒゼキヤは高官たちを預言者イザヤのもとに遣わし、「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」(列王記下19章3節)と言わせ、祈りを要請しました(同4節)。

 

 ヒゼキヤ自身も、「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼(アッシリア王)の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが(レ・バデ・ハー)主(ヤハウェ)なる神であることを知るに至らせてください(イデウー)」(同19節)と祈りました。

 

 詩人が冒頭の言葉(19節)のとおり、「彼らが悟りますように(イデウー)。あなたの御名は主(ヤハウェ)。ただひとり(レ・バデ・ハー)、全地を超えて、いと高き神(エルヨーン)であることを」と、この詩の最後に記しています。ヒゼキヤのささげた祈りによく似ています。

 

 主なる神は、イザヤの執り成しとヒゼキヤの祈りに応え、エルサレムを包囲していたアッシリア軍を一夜のうちに全滅させ(同35節)、ひとりニネベに逃げ帰ったセンナケリブ王も、謀反の剣に倒れました(同37節)。イスラエルに主なる神がおられることを、はっきりと思い知らされる結果となったのです。

 

 しかし、本当にそれを悟らなければならなかったのは、イスラエルの民自身でした。ヒゼキヤの死後、王位に就いたヒゼキヤの子マナセは主の目に悪とされることを行います(同21章2節以下)。その後、主の目に正しいことを行ったと言われるのは、ヒゼキヤの孫ヨシヤ一人で(同22章2節)、残りは皆、マナセの後を歩みました。

 

 その結果、マナセから数えて7代目のマタンヤ改めゼデキヤの代に、バビロンの王ネブカドネツァルに攻められ、エルサレムが陥落しました(同25章1節以下)。町中が焼かれ、城壁も破壊されました(9,10節)。捕囚の苦しみを通して、主が「ただひとり,全地を超えて、いと高き神であることを」悟らされたのです。

 

 絶えず主の御顔を慕い求め、謙って主の御言葉に聴き従いましょう。

 

 主よ、絶えず主の御名を求めさせてください。御前におのが愚かさ、罪を永久に恥じ、恐れ、あなたこそ唯一の主、ただひとり、全地を超えて、いと高き神でいますことを、悟らせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心がなされますように。 アーメン

 

 

「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう。」 詩編84編7節

 

 84編は、万軍の主の神殿での礼拝を慕い求める詩人の「神をたたえる歌」です。

 

 表題に「コラの子の詩」とありますが、コラはレビ族のケハト家に属し、モーセやアロンの従兄弟にあたります(出エジプト記6章18節以下、21節参照)。ダビデに神殿の詠唱者として選ばれたヘマンは、コラの子孫です(歴代誌上6章18節以下、22節)。詩編の中で42~49,84,85,87,88編が「コラの子の詩」とされています。

 

 「万軍の主」(2,4,9,13節)と4度呼ばれる主なる神の神殿は、シオンの山に建てられています(8節)。そこで、主を慕い求める人は、巡礼をいたします。「祭壇に、鳥は住みかを作り」(4節)と、主にまみえる場所がいかに望ましい場所であるかということを語ります。

 

 5,6節に「いかに幸いなことでしょう」(アシュレイ)という言葉を重ねて、神の宮における礼拝に与る者と(5節)、神を慕って巡礼の旅に出る者(6節以下)を讃えています。そして、詩の最後にそれをまとめて、「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は、いかに幸いなことでしょう」と、三度目のアシュレイを語ります。

 

 冒頭の言葉(7節)で「嘆きの谷」(新改訳「涙の谷」)というところを、口語訳では「バカの谷」と訳しています。実は、「嘆き」と訳されているのが「バカ(bk’)」という言葉で、それを口語訳は固有名詞と考えたのです。英語訳のKJV、RSVなども「バカの谷(valley of Baca)」としています。

 

 ところが、「バカ」は「嘆き、涙」という意味の言葉ではありません。これは「バルサムの木」のことです。その幹からミルクのような樹液が出、それは乳香として用いられます。バルサムの木は、乾燥した高地によく生息しているそうです。

 

 サムエル記下5章23節に「バルサムの茂み」(ベカイーム)という言葉があり、レファイムの谷に陣取ったペリシテ軍を迎え撃つため、ダビデの軍勢はその茂みに身を隠して、待ち伏せ攻撃をしました(同24節)。その場所は、エルサレムの南にあるヒンノムの谷の北部の谷のあたりであろうと想定されています。

 

 それが「嘆きの谷」と言われるのは、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)の「涙」(クラウスモーン:weeping)という訳を参考にしたからでしょう。「涙、嘆き」は、ヘブライ語で「ベケー(bkh)」といい、「バカ(bk’)」によく似ているということもあります。

 

 ヒンノムの谷は、今日アラビア語でワーディ・エル・ラバビと言われます。ワーディは、雨が降ったときだけ水が流れ、いつもは川の水が全く流れていない涸れた川です。巡礼の旅人が水を求めて谷底に降りても、水が得られません。まさに、旅人を嘆かせる嘆きの谷なのです。

 

 しかし、一旦雨が降れば、そこに水が流れ、さまざまな命が芽吹きます。嘆きの谷が泉となるのは、恵みの雨が降ったからです。長旅の渇きも、泉の水で癒されます。人生の旅路において、様々な嘆きの谷を通過した人々が、神の宮にやって来て主の恵みに触れたとき、喜びが泉となって内から湧き上がります。

 

 「いよいよ力を増して進み」(8節)とは、神の宮で新しい恵みを受けた旅人が、家を出たときよりも元気になった、益々強くなったというような表現です。ところが原文は、「力から力へと進み」(メーハイル・エルハーイル:口語訳、新改訳、岩波訳参照)という言葉です。自分の力ではなく、神よりの新しい力をうけてという意味でしょう。

 

 7節後半の「雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」という言葉や、8節後半の「ついに、シオンで神に見えるでしょう」という言葉などから、その力とは、単に体力や気力というのではなく、新約の時代において、あのペンテコステに降り注いだ聖霊によって与えられる「力」(使徒言行録1章8節、2章1節以下)を指しているように思われます。

 

 イザヤ書40章31節に「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」という預言があります。鷲は、自分で羽ばたいて空高く上っていくのではありません。翼を大きく張り広げ、上昇気流に乗って舞い上がるのです。

 

 ヘブライ語で風と霊は同じ言葉(ルーアッハ)ですから、鷲を高く舞い上がらせる風の力という表現で、主に望みを置く人が得る新しい力とは、霊の力であるということを示しています。また、出エジプト記19章4節に、「あなたたちを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れてきた」という言葉があり、神の助けを「鷲の翼」と表現しています。

 

 そのことから、イザヤの預言は、バビロンに連れて行かれた捕囚民に与えられた、エルサレムに帰ることが出来るという約束の言葉とみることが出来ます。神の助けなしに、バビロンから自由になれるとは考えられません。だからこそ、主を待ち望むのです。

 

 主イエスが仮庵祭の大切な日に立ち上がって、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章37,38節)と言われましたが、これも同様です。

 

 というのは、湧き上がり、流れ出した生きた水の川(複数形:rivers)について、「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている御霊について言われたのである」と説明されているからです(同39節)。

 

 どんなときにも、私たちの内に、私たちと共にいてくださる聖霊なる神に満たされてその恵みと力に与り、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いましょう。

 

 主よ、弱く貧しい私たちを顧み、絶えず新しい恵みに与らせてくださることを、心から感謝します。涙の谷を通ることがあっても、そこを恵みの雨に与る場所としてくださる主を仰ぎます。キリストの言葉を心に豊かに宿らせ、御霊に満たされて、心から御名をほめ讃えさせてください。主の御名は賞むべきかな。 アーメン

 

 

「わたしは神が宣言されるのを聞きます。主は平和を宣言されます。御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に、彼らが愚かな振る舞いに戻らないように。」 詩編85編9節

 

 85編は、神に救いを求める「祈りの詩」です。

 

 2節に「主よ、あなたは御自分の地をお望みになり、ヤコブの捕らわれ人を連れ帰ってくださいました」と言います。ここで、カナンの地を「御自分の地」(アルツェハー:直訳「あなたの地」)というのは、サムエル記下7章23節とここだけに出る珍しい表現です。

 

 勿論、すべては神の被造物であり、主なる神こそ天地万物の真の所有者です。ここで「御自分の地をお望みになり」というのは、イスラエルに再び嗣業の地を与えることを望まれたという表現でしょう。

 

 イスラエルが捕囚の地から戻ることが出来たのは、ただ主の憐れみのゆえでした。3節の「御自分の民の罪を赦し、彼らの咎をすべて覆ってくださいました」という言葉が、それを示しています。

 

 背きの罪で神の怒りを買い(列王記下17章、同24章20節)、紀元前587年にエルサレムの都がバビロン軍の手に落ち、ゼデキヤ王をはじめ多くの民が捕囚とされたとき(同15章1節以下)、再びエルサレムに戻る日が来るとはとても思えなかったでしょう。しかし、50年後(紀元前538年)、それが現実となったのです。

 

 ただ、エルサレムに戻って来れば、以前のような生活が直ぐに営めるようになったということではありません。ペルシア王キュロスによってバビロンから解放され、エルサレムに戻ることが出来たものの、町は破壊され、城壁も崩れたままでした(ネヘミヤ記1章3節)。

 

 神殿再建、城壁再建を妨害する敵が、国の内外に存在していました(エズラ記4章、ネヘミヤ記3章33節以下、6章)。旱魃による飢饉にも見舞われました(ネヘミヤ記5章3節)。その上、課せられた重税によって打ちのめされました(同4節)。

 

 エズラの帰還は紀元前458年、ネヘミヤは紀元前445年とされていますが、多くの旧約学者がエズラの帰還を、ネヘミヤよりも遅い紀元前398年と考えています。いずれにせよ、バビロンからエルサレムに戻って来て100年経っても、帰還民の生活は上述のような有様だったのです。

 

 4節に「怒りをことごとく取り去り、激しい憤りを静められました」と語られているのに、続く5節で「わたしたちの救いの神よ、わたしたちのもとにお帰りください。わたしたちのための苦悩を静めてください」と祈り、6節には「あなたはとこしえにわたしたちを怒り、その怒りを代々に及ぼされるのですか」と尋ねる言葉が記されています。

 

 上記のような事態の中で、エルサレムにおける生活について、私たちをここで苦しませるために連れて来たのか、神はいつまでお怒りになるのか、こんなことならバビロンにいる方がましだったという嘆きや不満の声が上がるのは、想像に難くないところです(出エジプト記14章11,12節、16章3節、民数記11章、14章1~4節など参照)。

 

 しかし、そこに神を畏れ、その御声を聞く人々がいました。冒頭の言葉(9節)にあるように、彼らは主が「平和(シャローム)」を宣言される声を聞いています。「平和」を「救い、幸福」と訳してもよいでしょう。神の御声を聞いている人々は、自分の置かれている環境は、厳しいものがあっても、しかしそこに神の救い、幸福を見ることが出来たのです。

 

 「主を畏れる人に救いは近く、栄光はわたしたちの地にとどまるでしょう」(10節)と言い、さらに、「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし、まことは地から萌えいで、正義は天から注がれます。主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします」(11~13節)と語ります。

 

 9節以下の段落の動詞は殆ど未完了形なので、未来に成就されるものとして未来形のように訳されます。ただ11節の「出会う」(パーガシュ)、「口づけする」(ナーシャク)、12節の「注がれる」(シャーカフ:「見下ろす」という語)は完了形です。「慈しみとまことは出会い、正義と平和は口づけし」たことにより、この地に平和が実現すると信じるといった表現です。

 

 主を畏れる詩人は、主なる神のうちに、「慈しみ(ヘセド)」と「まこと(エメト)」が一つとなっていること、その恵みが私たちに「正義(ツェデク)」と「平和(シャローム)」として与えられたことを知りました。

 

 つまり、神が慈しみとまことをもって私たちとの関係を正しくし、正しい秩序をもたらしてくださること、そこに神の平和、平安が支配するということを、信仰によって受け止めているのです。それが、詩人を始め、イスラエルの人々が依って立つところ、主に助けを祈り求める根拠でした。

 

 「主の慈しみに生きる人々」(ハーシード)は、口語訳、新改訳で「聖徒(たち)」、岩波訳では「彼に忠実な者たち」、聖書協会共同訳(2018年版)でも「忠実な人たち」と訳されています。主に選ばれた「聖徒」とは、主の召しに忠実な者であり、それゆえ主の慈しみに生きる者とされると考えることが出来ます。

 

 2節にいう、主がお望みになる「御自分の地」とは、そのように主を畏れ、主の御言葉を聴き従う人々が住む地であり、そこで私たちが正義と平和の恵みに与るようにと、私たちを招いてくださっているのです。

 

 招きに応え、主を畏れ、日々主の御言葉に耳を傾けましょう。そこで主の慈しみとまことに触れ、正義と平和に与りましょう。  

 

 主よ、御子キリストの贖いにより、私たちの罪を赦し、すべての咎を覆ってくださいました。御前に謙り、御声に聴き従います。今、苦しみの中にある多くの人々に、必ずよいものをお与えくださり、私たちの嗣業の地は豊かな実りをもたらすことを信じます。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「主よ、あなたの道をお教えください。わたしはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことができるように、一筋の心をわたしにお与えください。」 詩編86編11節

 

 86編は、神に苦難からの救いを求める「祈りの詩」です。

 

 表題に「祈り、ダビデの詩」とありますが、原文には「詩」(ミズモール)という言葉はありません。つまり、「祈り、ダビデの」(テフィラー・レ・ダビード)と記されているのです。

 

 第2巻(42~72編)の最後、72編20節に「エッサイの子ダビデの祈りの終り」と記されていましたが、第3巻(73~89編)で、「アサフの詩」(73~83編)に続く「コラの子の詩」(84~88編)の中に、「ダビデの祈り」の詩が一つぽつんと置かれるかたちになり、異彩を放っています。

 

 詩人の「わたし」(1節以下)が主なる神を「あなた」(2節)と呼んで、一対一の談判を行っています。ここに、詩人が救いを求めているのは、14節に「傲慢な者がわたしに逆らって立ち、暴虐な者の一党がわたしの命を求めています」とあるように、彼を苦しめる敵の存在があるのです。

 

 1節に「わたしは貧しく、身を屈めています」とありますが、これは40編18節、70編6節にも出て来ました。35章10節では「貧しく乏しい人」と訳されています。「身を屈める」というのは「貧窮している」(エブヨーン)という言葉で、類義語を並べて、苦しめる敵を前に、自分で自分を守るすべがないこと、それゆえに一切を主の御手に委ねるという表現です。

 

 だから2節に「わたしの魂をお守りください。わたしはあなたの慈しみに生きる者。あなたの僕をお救いください。あなたはわたしの神、わたしはあなたに依り頼む者」と祈り求めているわけです。ここで、「僕」(エベド)は、主人に仕える奴隷です。

 

 「主よ」という呼びかけの内、3,4,5,8,9,12,15節は、「主人」という意味の「アドーン」に、「わたしの」という意味の接尾辞が付けられていて、「わたしの主よ」と訳すことも出来ます。「あなたの僕」に対応するかたちで、7度「わたしのご主人様」と呼びかけているということです。それ以外は、「ヤハウェ」を「主」と訳しています(1,6,11,17節)。

 

 詩人は、この祈りを主なる神が聞いてくださると信じています(5,7節)。それは、主が恵み深く、豊かな慈しみをお与えになる方だからです(5,15節)。そして、主のほかに神はおられないのです(8,10節)。

 

 詩人が主の豊かな恵みと慈しみとに目を留めたとき、自分の信仰の有様を省みました。そこで、冒頭の言葉(11節)のとおり、「主よ、あなたの道を教えてください。わたしはあなたのまことの中を歩みます」と言います。

 

 ここで「まこと」は「エメト(真理、真実、忠実さ、堅固の意)」という言葉です。「あなたのエメトの中を歩きます」とは、あなたの真実な道を歩きますということで、あなたの真実に応えて誠実に、忠実に歩きますという意味といってよいでしょう。

 

 そのために、「一筋の心をわたしにお与えください」と求めます。直訳は「わたしの心を一つにしてください」となります。あれこれと千々に乱れている心を一つに結合してくださいという意味と取るのが一番スムーズだと思います。

 

 新共同訳の訳を生かして、「あなた一筋の心にしてください」といってもよいでしょう。岩波訳は「わが心を集中させてください。あなたの名を畏れることに」、聖書協会共同訳(2018年版)は「私の思いを一つにし、あなたの名を畏れる者にしてください」と訳しています。

 

 主なる神の真実、その慈しみは計り知れません。というのは、深い陰府から詩人の魂が救い出されたのです(13節)。死の淵から神に引き上げられ、癒され、救われたということでしょう。

 

 そういう経験をしながらも、なお様々な出来事、特に自分を苦しめる事態に遭遇すると、主に信頼し切ることが出来ず、思い煩ってしまうのです。そして自分を支える様々な助けが欲しくなり、あちらこちらを見回している自分を見出すのです。そうすると、「深い陰府」とは、必ずしも死の淵などではなく、不信仰な私たちの心の有様を表しているとも考えられます。

 

 それにも拘らず、主なる神の慈しみに圧倒された、満たされたということでしょう。それは、決して詩人の努力のゆえなどではなく、まさに主の深い憐れみだったのです。だから、「主よ、わたしの神よ、心を尽くしてあなたに感謝をささげ、とこしえに御名を尊びます」(12節)というのです。

 

 そう考えれば、14節の「傲慢な者」、「暴虐な者の一党」は、敵を指すだけでなく、自分の心の深みにあるものとも思えます。私たちの心が傲慢になり、また荒れすさむ時、神を前に置いていない状態になります。自分で自分の前に主を置いたなどと考えると、すぐにそこに傲慢な思いが首をもたげてきます。

 

 私が目の前に主なる神を見ることが出来るのは、主が私を憐れみ、ご自身の御顔を私に向けてくださっているから、そして、主の方から近づいてくださったからです。私が不真実なときでも、主は絶えず真実です(ローマ書3章3,4節)。この主の真実に答える誠実さとは、主を信頼する信仰が心に満ちているということです。

 

 絶えず主を畏れ敬うことが出来るように、主一筋の心にしていただきましょう。

 

 主よ、あなたの道を教えてください。私たちはあなたのまことの中を歩みます。御名を畏れ敬うことが出来ますように、主を一筋に求め、信頼する心を私たちにお与えください。絶えず御名を崇め、心を尽くして感謝をささげることが出来ますように。 アーメン

 

 

「歌う者も踊る者も共に言う、『わたしの源はすべてあなたの中にある』と。」 詩編87編7節

 

 87編は、神の都シオンについての歌です。冒頭の言葉(7節)から、この詩は礼拝で用いられていたようです。というのは、シオンにやって来た巡礼者たちが歓喜の内に歌い踊り、シオンを讃える様子が示されているからです。

 

 「聖なる山に基を置き、主がヤコブのすべての住まいにまさって愛されるシオンの城門よ」(1,2節)とは、エルサレムの都の城門に呼びかける言葉です。「城門」は複数形で、エルサレムの町を指します(9編15節参照)。つまり、次節冒頭の「神の都よ」と同じ意味ということです。

 

 「聖なる山」とは、神がお選びになった山ということです。シオンはエブス人の住む町でしたが、ダビデがここを陥れ、城壁を築き、「ダビデの町」としました(サムエル記下5章6節以下、7,9節)。にもかかわらず、都をシオンに据えられたのは主なる神だと言っているのです。

 

 神の都の栄光について人々は語ると記した後(3節)、4節以下に一人称で語られた言葉が記されていますが、それは、人々が神の都の栄光について語った言葉ではありません。むしろ、神の都の栄光について語る人々に対して、神ご自身が語られた言葉と考える方がよいかも知れません。

 

 そこに、いくつかの地名が挙げられています。まず、「ラハブ」は、89編11節、ヨブ記26章12節、イザヤ書51章9節などでは、海の龍のような悪しき存在を思わせますが、イザヤ書30章7節に「エジプトの助けは空しくはかない。それゆえ、わたしはこれを『つながれたラハブ』と呼ぶ」とあり、エジプトのことをラハブと呼んでいることが分かります。

 

 次いで「バビロン」は南ユダ王国を滅ぼし、その民を捕囚とした敵ですが、アッシリア、ペルシアなど、イスラエルを支配したメソポタミアの強国の代表としてここに呼び出されたのでしょう。

 

 「わたしを知る者」とはイスラエルのことですから、「エジプトとバビロンの名を、イスラエルの名と共に挙げよう」と言っていることになります。ダビデ王朝時代、イスラエルは南はエジプト、北はメソポタミア諸国によって絶えず苦しめられて来たのです。それがここで、イスラエルと共に名を挙げると言われるのです。

 

 それから、「ペリシテ」は地中海沿いのイスラエルの隣国で、イスラエルの民がカナンの地にやって来て以来、度々苦しめられました。続く「ティルス」は、北隣のフェニキヤの町です。また、「クシュ」はエチオピアのことで、当時、南の地の果てのように考えられていたそうです。

 

 隣国のペリシテやティルス、地の果てのクシュが「この都で生まれた、と書こう」と言われています。つまり、それらの国民はエルサレム生まれと記されるというのです。「ペリシテ、ティルス、クシュをも」と言われていますので、「ラハブとバビロンをも」ということが前提になります。

 

 ですから、「いと高き神御自身がこれを固く定められる。主は諸国の民を数え、書き記される、この都で生まれた者、と」(5,6節)と記されているわけです。しかしながら、どうして、諸国の民がエルサレムの都で生まれた、と言われるのでしょうか。

 

 それは、神が諸国の民を御自分の都に招きたい、神を知るイスラエルの民にように、神を知る者にしたいとお考えになっているわけです。そして、彼らがエルサレムにやってきたとき、神によって新しく生まれたエルサレム生まれとして登録してくださるのです。

 

 それについてガラテヤ書3章26~28節に「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」とあります。

 

 パウロは、キリストの贖いのゆえにあらゆる隔ての壁が取り除かれ(エフェソ2章14節以下)、一つとされたのだと語ります。それは、パウロがバルナバと共に宣教旅行に赴いて(使徒言行録13章1節以下)、異邦人にも信仰の門が開かれたのを見る(同14章27節など)などして得た確信でしょう。そして、詩人は知らずして、ここに、このキリストの贖いを預言しているわけです。

 

 あらためて、冒頭の言葉(7節)に、シオンにやって来た巡礼者たちが、喜びをもって歌い踊り、「わたしの源はすべてあなたの中にある」と語るとあります。「源」は「泉、井戸」(アイン)という言葉です。巡礼者たちにとって、シオンが命の泉、喜びや幸いの源だというのです。

 

 主イエスは、主イエスを信じる人に与えられる恵みを、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ4章14節)と言われました。

 

 そして、「この山(ゲリジム)でもエルサレムでもないところで、父を礼拝するときが来る」(同21節)、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝するときが来る。今がその時である」(同23節)と言われているのも、主イエスとの交わりに入り、その水を飲むことだと示されます。

 

 主イエスという同じ井戸から命の水を飲ませて頂いたお互いが、歌をもて、踊りをもて、神に喜び感謝するいうことです。主から命の水を飲ませて頂いた人、主の招きに従った人々は、それを本当に知ることが出来るのです。

 

 渇く思いで主を慕い求め、この喜び、恵みを味わせて頂きましょう(ヨハネ7章37,38節参照)。

 

 主よ、あなたは私がまだ弱かったとき、罪人であったとき、敵であったときに、私たちのために死んで、贖いの業を成し遂げてくださいました。それによって永遠の都に国籍を持つ者として頂きました。絶えず主を仰ぎ、すべての人と相和し、赦し合い、愛し合い、助け合って歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。」 詩編88編14節

 

 88編は、重い病などの苦しみから、神に救いを求める「祈りの詩」です。

 

 ここには、神に対する信頼の言葉や賛美の言葉など、全く記されていません。4節に「わたしの魂は苦難を味わい尽くし、命は陰府にのぞんでいます」とあるように、まさに死に直面して、嘆き苦しんでいたのです。そこで、ただ一つの願い、この祈りが神に聞き届けられることを求めて続けているわけです(2,3節)。

 

 6節には「汚れた者と見なされ、死人のうちに放たれて、墓に横たわる者となりました」とあり、詩人は、死に直面させる病いなどの苦しみがある上に、その病のゆえに神の前に汚れた者、神に捨てられた者と見なされます。そのために、家族や知人との交わりから隔離され、生きながら死者の中に住まいする者とされていることが、詩人を一層苦しめています。

 

 16節に「わたしは若いときから苦しんできました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています」と記されています。若い頃なら、将来に期待して耐えることも出来たでしょう。周りの家族や友人も様々に慰め、励ましてくれたことでしょう。しかし、長い年月が過ぎ去り、もはや若くはありません。希望もなくなり、死を待つばかりとなりました。

 

 19節の「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」という言葉は、愛する者や友が詩人に愛想をつかしたというようなことなのでしょうか。それとも、「汚れた者と見なされ」(6節)たことによって、彼らが詩人に近づくことが出来なくなったということなのでしょうか。

 

 あるいはまた、愛する者や友も年老いたとか、あるいは病を得たとかで、詩人を支えることが出来なくなったということなのでしょうか。色々と想像しますが、いずれにせよ、彼の孤独な状況を思うと、身につまされるものがあります。

 

 詩人のような苦悩の中にいる人々に対して、何をどのように語れば、慰めとなり、励ましとなるでしょうか。うずくまっている人を立ち上がらせるのは、容易なことではありません。私たちには、人を慰める言葉も力もないことを、あらためて思い知らされますし、自分がこの詩人であったらと思うと、やりきれないような思いにされます。

 

 しかしながら、一つ思うことは、この詩人は神の御前に諦めてはいないということです。「昼は、助けを求めて叫び、夜も、御前におります」(2節)と語り、そして冒頭の言葉(14節)のとおり、「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます」と言っているからです。

 

 「今、わたしに親しいのは暗闇だけです」(19節)と語る詩人にも、朝の光が差し込んでいます。昼、助けを求めて叫び、御前に眠れない思いで夜を過ごした詩人が、朝の光の中で身仕舞を整え、姿勢を正して神に祈っています。

 

 彼を取り巻く現実は、少しも変わっていないかも知れません。詩人が神の前に祈る言葉は、昨日も今日も同じかも知れません。けれども、ことある毎に神の御前に座り、訴え叫ぶ詩人の祈りの姿勢の中に、その祈りを聞いておられる神の御顔を見るように思います。

 

 そして、神が詩人にそのように祈らせておられるのではないかと思えます。詩人は、ほかの誰でもない神ご自身によって、その祈りに導かれ、そこに力を得て昼叫び、夜深く神を思い、朝を迎えて再び神に祈るのです。

 

 ベトザタの池の傍らで、38年間という長患いの男に、「良くなりたいか」(ヨハネ福音書5章6節)と主イエスが声をかけられたとき、その男は「はい」とも「いいえ」とも答えませんでした。そのとき彼は「わたしを池に入れてくれる人がいないのです」(同7節)と答えたのです。

 

 長患いの男にとって、病も苦しいものだったとは思いますが、それ以上に、「愛する者も友も、あなたはわたしから遠ざけてしまわれました」(19節)と語る詩人と同様、助ける者のない孤独な状況が、彼を苦しめていたわけです。それは、病気が治ったところで解消しない苦しみだったのです。

 

 しかし、主イエスに対して、このやり取りができたとき、彼の心には明るい光が差し込んでいたのではないでしょうか。彼に関心を寄せて、「良くなりたいか」と声をかけてくださる方が現れたからです。そのお方に、神の愛を見ることが出来たのです。

 

 詩人を祈りに導かれた主なる神は、病む者たちの中にいて長い間孤独に苦しんでいたこの男の口を開かせられました。朝ごとに主の御前に向かい、祈りをささげましょう。その御声に耳を傾け、御旨に従って歩ませていただきましょう。 

 

 主よ、私たちは自分で自分を救うことが出来ません。あなたを信じることが出来ること、あなたに祈りをささげることが出来ることは、本当に幸いです。どんな時にも、主に信頼して祈りをささげるように導いてくださいます。主の愛の光を受けて、朝ごとに新しく、主を仰がせてください。御声を聴かせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「しかしあなたは、御自ら油を注がれた人に対して、激しく怒り、彼を退け、見捨て、あなたの僕への契約を破棄し、彼の王冠を地になげうって汚し、彼の防壁をことごとく破り、砦をすべて廃墟とされた。」 詩編89編39~41節

 

 表題(1節)の「エズラ人エタン」について、列王記上5章11節(口語訳・新改訳は4章31節)にはソロモンの時の知恵者たちの中にその名が挙げられています。また、歴代誌上15章17,19節には、ダビデが神の箱をエルサレムに運び上げる際に、楽器を奏で、声を張り上げて喜び祝うために立てた詠唱者の中に、エタンの名が記されています。

 

 89編には、38節と39節の間に、簡単に渡ることが出来ない深い淵があります。前半(2~38節)には、ダビデとの契約を結ばれた主への賛美、後半(39~52節)には、ダビデの子孫にもたらされた苦難による嘆きが記されています。このことで、詩編の編者が、二つの詩を一つにまとめたものではないかと解釈する学者もいます。

 

 その真偽は不明ですが、50節の「主よ、真実をもってダビデに誓われた、あなたの初めからの慈しみは、どこに行ってしまったのでしょうか」という言葉で、かつて真実をもってダビデとの永遠の契約を結ばれた神が、その契約を破棄して、エルサレムの都を廃墟のままにしておられるのはなぜか、あの慈しみ深き神はどこへ行ってしまわれたのかと問う構成になっているのです。

 

 そうであれば、4,5節でダビデとの契約について語った後で、6節以下に天上の神々の会議について語る必要はないように思われます。そこでは、イスラエルの主が神々の中の神、王の王、主の主であられることが讃えられ(7,8節)、それが、9節以下の主の御業によって確証されています。

 

 主は、混沌の海の支配者ラハブを砕き(10,11節、ヨブ記26章12節、イザヤ書51章9節)、天地に秩序をもたらされました。天地創造の御業は、無から有を生じさせ、混沌に秩序を与えることだったわけです(創世記1章1節以下,ローマ書4章17節)。

 

 このように述べることで、20節以下にも語られるダビデとの永遠の契約、ダビデの子孫をとこしえに立て、王座を代々に備えるという約束は(5,30節)、天上における主なる神の王権(7~9,19節)に基礎づけられたものであることを示しているわけです。

 

 紀元前597年、バビロン帝国の王ネブカドネツァルがエルサレムを包囲し、南ユダの若い(18歳!)王ヨヤキンは捕囚の身となり(列王記下24章8節以下、12,15節)、以来37年、獄につながれていました(同25章27節:第一次バビロン捕囚)。

 

 ヨヤキンに代えて王とされたゼデキヤは(同24章17節)、エジプトに援軍を頼み、バビロンに反旗を翻しましたが、返り討ちに遭って子らは殺され、ゼデキヤは両目をつぶされて足枷をはめられ、連行されました(同24章18節以下、25章6,7節)。都に残っていた民らも捕囚とされました(同11節:第二次バビロン捕囚、紀元前587年)。

 

 そのとき、親衛隊の長ネブザルアダンがエルサレムに来て、主の神殿や王宮、エルサレムのすべての家屋を焼き払いました(同9節)。また、カルデア人によって、エルサレムの周囲の城壁が取り壊されました(同10節)。かくて、神の都と呼ばれたエルサレムが(48編2,9節、ヘブライ書12章22節など)、廃墟とされたのです。

 

 そういう事態に陥ったのは、ダビデの子孫が主の目に悪とされることをことごとく行ったからであり、それゆえ、ユダは主の怒りによって、ついにその御前から捨て去られることになったのです(列王記下24章19,20節)。

 

 しかし、イスラエルの歴史はそれで終わりにはなりませんでした。列王記下25章27,28節に「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって37年目の第12の月の27日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた」と、驚くべきことが記されます。

 

 さらに「ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された」(同29,30節)と記して、列王記は閉じられました。なにゆえ、ヨヤキンは牢から出され、他の王たちに勝る高い位を与えられ、毎日、王と共に食事をすることが出来るようになったのでしょうか。

 

 詩人はこの日を見ることが出来なかったのでしょうが、ここに、神の真実があります。神がイスラエルのために立てられた計画は、平和の計画であって、災いの計画ではなかったのです。その計画に基づき、将来と希望が与えられたのです(エレミヤ書29章11節)。

 

 そしてまた、冒頭の「あなたは、御自ら油を注がれた人に対して激しく怒り、彼を退け、見捨て、あなたの僕への契約をはきし、彼の王冠を地になげうって汚し」(39,40節)という言葉に、ダビデの子イエス・キリストの十字架の苦しみを見ることが出来ます。

 

 「油を注がれた人」は、メシア=キリストという言葉です。そして、主イエスこそ、イザヤ書53章に預言されている「苦難の僕」です。ダビデの子キリスト・イエスの苦しみのゆえに私たちは癒され、十字架の贖いのゆえに罪赦され(第一ペトロ書2章24節)、神の子として天の御国の食卓に共に着くことが出来るようになったのです(マタイ26章29節、黙示録3章20節参照)。

 

 詩人は、神の契約はなぜ捨てられたのか、神の真実はどこにあるのかと訴えましたが、神は旧い契約に変えて、イエス・キリストの血による新しい契約を、すべての民のために備えてくださいました(第一コリント書11章25節、ヘブライ書8,9章)。

 

 53節は、第三巻(73~89編)の終わりに、編集者が付加したものです。苦難の僕たるメシア=キリストを予表しているようなこの詩ですが、理屈抜きに「主をたたえよ、とこしえに。アーメン、アーメン」(53節)と、主(ヤハウェ)をほめ讃えているかたちです。さながら、ヘンデル作曲「メサイア」の「ハレルヤコーラス」、「アーメンコーラス」のようです。

 

 「正しい裁き(ツェデク・ヴ・ミシュパート:正義と公正)」を基とし、「慈しみとまこと(ヘセド・ヴェ・エメト)」の支配が広がるよう(15節)、私たちの歴史に御子キリストと聖霊を通して働きかけておられる主に信頼し、日々み言葉に耳を傾けながら喜びと感謝をもって歩みましょう。

 

 主よ、あなたの慈しみをとこしえに歌います。あなたの真実と慈しみが私たちと共にあり、御名によって私たちは高く上げられます。変えられることのない御言葉を堅く握り、主の真実に信頼して、日々歩ませてください。キリストにある平和がわが日本に、就中苦しみ痛みの中にある方々にありますように。 アーメン

 

 

「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」 詩編90編12節

 

 90編から、第4巻(90~106編)になります。

 

 90編は、人の命のはかなさ、それは人の罪に対する神の憤りのゆえであることを知り、神の救いを求める「わたしたち」会衆の祈りの詩です。詩人はまず、神の永遠性を詠い(1,2節)、人の命のはかなさに触れます(3~6節)。この箇所は、キリスト教の葬儀において、必ずと言ってよいほどよく読まれます。

 

 3節の「あなたは人を塵に返し、『人の子よ、帰れ』と仰せになります」という言葉で、塵にまで返される「人」(エノーシュ)とは、弱い存在としての人間を意味します。アダムの3男セトは、生まれた男の子をエノシュと名づけました(創世記4章26節)。「塵」(ダッカー)には「打ち砕かれた」(詩編34編19節、イザヤ書57章15節)という意味もあります。

 

 「主の御名を呼び始めたのは、この(エノシュが生まれた)時代のことである」(創世記4章26節)とは、アダムの長男カインが弟アベルを殺して(同8節)「主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ」(同16節)のとは対照的に、主なる神のみ前に敬虔な信仰が回復されたことを示しています。

 

 「人の子」(ブネイ・アーダーム=「アダムの子」)は、土(アダマー)から造られました(創世記2章7節)。この表現は、「土(アダマー)」から生まれた「人(アダム)」がやがて土に返る、人間のはかなさを示しています。

 

 人の歴史は、千年を単位として測る長さであったとしても、神の目には一日にも満たない夜の一時で(4節、第二ペトロ書3章8節)、夜の夢のようなものであり(5節)、「朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」(6節、イザヤ40章6節以下)。

 

 しかしながら、詩人が嘆いているのは、一般論としての人生のはかなさなどではありません。彼らが「得るところは労苦と災い」(10節)と語っているその原因が、神の怒り、憤りにあるということです(7~12節)。70年、80年という人生、罪人として「労苦と災い」に示される神の御怒りの内を歩み、「人の子よ帰れ」の声で塵に返される、その儚さを嘆くのです。

 

 詩人は今、創世記3章17節以下に記されている神の言葉を思い起こさせる現実の中に置かれているようです。そしてそれは、個人的なものではなく、全人類が置かれている嘆かわしい状況なのです。

 

 そこで、「主よ、帰ってきてください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」(13節)という祈りの言葉を発しているわけです。「いつまで」と問うということは、神の憤りによる裁きの時間が長く続いているということです。

 

 こうした背景には、やはりバビロン捕囚の苦しみがあるということなのでしょう。だから、第3巻最後の89編に続く、第4巻の初めに、90編の詩が置かれることになったのでしょう。

 

 表題には、「神の人モーセの詩」とあります。「モーセの詩」と呼ばれるのは、90編だけです。明らかに時代状況が違いますが、神の人モーセがイスラエルの民のために、繰り返し執り成しの祈りをささげていたことを思い出します。そして、モーセが同胞を救い出すために、神に召されてエジプトに遣わされたのは、80歳のときでした(出エジプト記7章7節)。

 

 ファラオの娘に拾われ、王宮で育てられたモーセは(同2章1節以下、10節)、成人して同胞が重労働に服し、エジプト人に苦しめられているのを見て血気に逸り、そのエジプト人を打ち殺しました(同2章11節以下)。

 

 その後、モーセはエジプトからミディアンの地に逃れ(同2章15節)、そこでミディアンの祭司レウエルの娘ツィポラと結婚し、羊の群れを飼う者となりました(同2章21節、3章1節)。何十年もの間、エジプトで奴隷をしている同胞のことを思いながら、荒れ野で羊を飼っていたモーセの思いを、この詩に重ね合わせたということでしょうか。

 

 神は、モーセを遣わしてイスラエルの民をエジプトから救い出されたように、ペルシアの王キュロスによって、バビロンからも救い出してくださいました(歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。彼らに、喜びの歌を歌わせられたのです(14,15節)。

 

 詩人は、冒頭の言葉(12節)のとおり、「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」と求めています。「生涯の日を正しく数える」とは、人間の命が有限のものであること、それを定められたのが神であられること、即ち、人間は神の被造物であるということを示しています。

 

 また、「知恵ある心」とは、箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」とあるように、「主を畏れる心」ということが出来ます。つまり、神に造られたものとして、神を畏れ、謙虚に神に聴き従う心を求めているのです。

 

 確かに私たちは有限の存在です。一回限りの人生、私たちを創造し、慈しみの御手で守り導いて下さる主を信じ、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝して歩みましょう。そして、やがて召される日、「ハレルヤ!主よ、あなたは代々にわたしたちの宿るところ」(1節)と賛美しつつ、天に携え上げられたいと思います。

 

 主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が生み出される前から、世々とこしえにあなたは神であられます。私たちに主を畏れ、その御言葉に聴き従う従順な心をお与えください。あなたの僕らが御業を仰ぎ、子らもあなたの威光を仰ぐことが出来ますように。 アーメン

 

 

「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう。生涯、彼を満ち足らせ、わたしの救いを彼に見せよう。」 詩編91編15,16節

 

 91編は、「避けどころ、砦」(2節)なる神に対する「信仰の歌」です。イスラエルの歴史は、様々な苦難から救い出された神の御業の歴史でもあります。3節以下に記されているのは、これまでイスラエルが経験して来た出来事を箇条書きに羅列したようなものでしょう。

 

 3節の「陥れる言葉」は、「疫病の惨事」(デベル・ハッヴォート)という言葉です(口語訳・新改訳「恐ろしい疫病」)。「疫病」(デベル)と「言葉」(ダバル)は同じ綴りであり、七十人訳(ギリシア語訳旧約聖書)も「言葉」(ロゴス)と訳していますが、岩波訳は「悪疫」とし、脚注に「七十人訳『言葉』は誤訳であろう」と記しています。

 

 5節の「昼、飛んで来る矢」は、敵の攻撃を示すものですが、それは、嘲りなどの言葉による攻撃も含みます(64編4節参照)。そこで、新共同訳は敢えて「言葉」と訳したのでしょう。ただ、6節の「デベル」は「疫病」と訳しています。

 

 6,7節の「暗黒の中を行く疫病も、真昼に襲う病魔も、あなたの傍らに一千の人、あなたの右に一万の人が倒れるときすら、あなたを襲うことはない」という言葉は、5節と併せて、ヒゼキヤの代、南ユダに押し寄せたアッシリアの大軍18万5千人が、主の御使いに撃たれて全滅し、エルサレムは陥落を免れたという記事を思い出します(列王記下18章13節以下、19章35節)。

 

 歴史家ヘロドトスによれば、このときアッシリア軍は、ネズミの大群に襲われたのだそうです。ネズミはペスト菌を媒介するので、あるいはペストが蔓延しての全滅ということではないでしょうか。いずれにせよ、それによってエルサレムの町は守られたのです。

 

 「夜、脅かすものをも、昼、飛んでくる矢をも、恐れることはない。暗黒の中をいく疫病も、真昼に襲う病魔も」(5,6節)と、対をなしている夜と昼に襲い来る危険は、古代近東における悪魔的な諸力を示しているようです。その超自然的な危険に対処するために、呪術、魔術が用いられていました。

 

 それに対して、イスラエルにおいては「いと高き神」、「全能の神」(1節)に信頼することが、その危険を避ける唯一の、しかし最も強力な対処法、信仰的態度でした。それにより、神に逆らう者にはその危険が降りかかりましたが(8節)、主を避けどころとし、いと高き神を宿るところとする者は、災難を免れることが出来たのです(9,10節)。

 

 使徒パウロが、「苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした」(第二コリント書11章23節)と記した後、その苦労をリストアップしていますが、それは、苦労自慢などではなく、そのような目に遭いながらも、神に守られて使徒としての務めを果たして来たということです。

 

 さらに、パウロには自分の体を痛めつける一つのとげがあり、それを取り除いてくださるように、三度主に願ったと言います(同12章7,8節)。ところが、神の答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」というものでした(同9節)。

 

 それは、パウロの弱さにも拘らず、否、弱いからこそ神に依り頼み、福音宣教の働きが前進したとき、それは神の御業であることが明らかになるというわけです。パウロのとげとは実際に何だったのか、はっきりと分かりませんが、痛みを伴い、伝道の働きの妨げとなるからこそ、パウロは取り除いてくださるようにと、三度も願ったわけです。

 

 けれども、繰り返し苦難を体験し、そして肉体のとげによって自分自身は弱くされているのに、福音の業が前進していったのは、実に神の御業と言わざるを得ないのです。そして、パウロの働きは、使徒言行録の記述とパウロの書き残した手紙によって、今もなお実を結び続けています。確かに神は、万事を益となるようにしておられるのです(ローマ書8章28節)。

 

 冒頭の言葉(15節)で、「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え、苦難の襲うとき、彼と共にいて助け、彼に名誉を与えよう」とは、まさにパウロの体験のようなことではないかと、改めて教えられました。主を呼べば答えてくださるというのは、エレミヤ書33章3節にも、エレミヤに臨んだ主の言葉として告げられています。

 

 そして、神がご自分を慕い、呼び求める者に与えられた祝福は、「生涯、彼を満ちたらせる」(16節)ことであり、そして、「救いを彼に見せよう」(16節)ということでした。

 

 主イエスが、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(ヨハネ福音書10章10,11節)と言われたのは、そのことです。私たちは、主イエスの贖いの死により、罪と死の呪いから解放され、永遠の神の御国に住まう神の子供としての恵み、特権に与る者としていただいたのです。

 

 私たちを極みまで愛し、命を捨ててくださった主イエスを慕い求め、その御名を心から褒め称えましょう。

 

 主よ、御子イエスの贖いによって、私たちは神の子とされました。主を避けどころ、砦とした私たちのために御使いを遣わし、いつでもどこでも守っていてくださいます。はばからず主の御前に進み、「私の避けどころ、砦.私の神、依り頼む方」と、心から主の御名を褒め称えさせてください。 アーメン

 

 

「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います。主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう。」 詩編92編5,6節

 

 92編は、表題に「賛歌。歌。安息日に」(1節)と記されていることから、安息日の礼拝の中で読まれるべきものと考えられます。「安息日」とは、週の第7の日のことですが(創世記2章2,3節参照)、このように題されている詩は、他にはありません。

 

 詩人は「いかに楽しいことでしょう、主に感謝をささげることは」(2節)と歌い、冒頭の言葉(5節)で「主よ、あなたは御業を喜び祝わせてくださいます。わたしは御手の業を喜び歌います」と称えます。そこには、感謝の歌をうたう楽しさもあるでしょう。しかし、それにもまして、そのように感謝せずにはおれない主の恵みを詩人は味わっているのです。

 

 8節に「神に逆らう者」、「悪を行う者」、10節には「主よ、あなたに敵対する者」、「悪を行う者」という言葉があり、12節にも「わたしを陥れようとする者をこの目で見、悪人がわたしに逆らって立つのをこの耳で聞いているときにも」と記されていることから、この詩人は、神に逆らい、悪を行う者らによって苦しめられていたのでしょう。

 

 そして、詩人の目には「神に逆らう者が野の草のように茂り、悪を行うものが皆、花を咲かせるように見え」(8節)ていました。だからこそ、苦しむのです。

 

 ヨブも「なぜ、神に逆らう者が生き永らえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか。子孫は彼らを囲んで確かに続き、その末を目の前に見ることができる。その家は平和で、何の恐れもなく、神の鞭が彼らに下ることはない」(ヨブ記21章7節以下)などと、因果応報の論理に合わない現実を見ていました。

 

 けれども、詩人は彼らが神によって永遠に滅ぼされ、必ず滅び、散らされると言い、「あなたはわたしの角を野牛のように上げさせ、豊かな油を注ぎかけてくださることでしょう」(11節)と詠います。

 

 これは、23編5節の「わたしを苦しめるものを前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」という言葉を思わせる表現です。詩人にとって、目に見える現実よりも、自分が信じ、仰いでいる主なる神のほうが、より大きな存在に映っているわけです。

 

 「主をあがめる」(magnify the Lord)とは、主なる神を拡大することです。問題に心塞がれているとき、神の姿が小さくなってしまいます。神の存在が信じられなくなることもあります。そんなとき、主に祈ることができず、賛美する気にもなれないでしょう。

 

 けれども、この詩人は、神に逆らう者が栄え、悪をなす者が花を咲かせるように見えていたとき、そしてその悪しき者らに苦しめられていたときに、主への信仰を言い表し、神を賛美しているのです。そうすることで、詩人の心に神が大きく映し出され、主にある平安と喜びが彼の心を満たしたわけです。

 

 また、「主よ、御業はいかに大きく、御計らいはいかに深いことでしょう」(6節)とあります。それは、神の御業、御計らいを、人がすべて把握することは出来ないということでしょう。

 

 主イエスが十字架に架けられたのは、私たち人類の罪を償い、救いの御業を完成させるためでした(ローマ書3章21節以下、24節、6章23節など)。また、イスラエル人が頑なにされたため、神の憐れみが異邦人全体に及びました(同11章25節以下、30節)。すべての人を憐れむために、すべての者が不従順の状態に閉じ込められたのです(同32節)。

 

 そしてパウロも、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(同33節)と感嘆し、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(同36節)と主を崇め、賛美しています。 

 

 神は、御自分を愛する者たち、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるようにしてくださいます(同8章28節)。詩人は、まさにマイナスとしか見えないことが自分の益となるという恵みを知り、味わったのです。だから、その苦しみの中でいよいよ神に近づき、ほめ歌を歌うのです。それこそが、詩人に力を与えるからです。

 

 「わたしの角を野牛のように上げさせ」(11節)とは、「角」が権威、力の象徴ですから、力が与えられ、強くされることを意味します。ネヘミヤ記8章10節に「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」とあるのは、そのことを言っているのです(出エジプト記15章2節など参照)。

 

 この詩人の信仰に学び、絶えず信仰の言葉を語り、主を褒め称えましょう。白髪になってもなお命に溢れ、生き生きとし、豊かな実を結ぶように、「わたしの岩と頼む主は正しい方、御許には不正がない」(15,16節)と宣べ伝えましょう。

 

 主よ、御名を呼び、祈り、賛美をささげることが出来る幸いを心から感謝し、御名を褒め称えます。あなたは、すべてのものを共に働かせて万事を益となるようにしてくださいます。苦しみ悩みの内にある者に御心を行ってください。そうして、御名を崇めさせてください。 アーメン

 

 

「主こそ王。威厳を衣とし、力を衣とし、身に帯びられる。世界は堅く据えられ、決して揺らぐことはない。」 詩編93編1節

 

 93編は、主なる神が王として世界を統治されることを宣言する賛歌であり、主の主権的支配を讃える95~100編のグループの序論となっています。他にも、5編3節、10編16節、24編10節、29編10節、47編3節、84編4節など、神を王と呼び、褒め称える言葉を数々見出すことが出来ます。

 

 表題はありませんが、死海写本には「ハレルヤ」、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)には「地に人が住んだ安息日前日のための。ダビデの歌の賛歌」という表題がつけられています。

 

 イスラエルには、神に選び立てられた王がいました。祭司によって油注がれて即位した王は、頭に王冠を戴き、絢爛豪華な衣服、外套を纏っていました。王冠や笏、王衣によって、王としての威厳や力を示していたのです。その王が、王の王、主の主なる神に向かって、「主こそ王」と歌うのです。

 

 冒頭の言葉(1節)のとおり、神は、威厳と力を、衣として纏っておられます。つまり、王冠や王衣、笏によって威厳や力を示されるというのではなく、神はまさにその存在が威厳そのもの、力そのものということであり、それゆえ、王に威厳を与え、力を与えることがお出来になるのです。

 

 神はその御力をもって、世界を堅く据えられました。だから、世界が揺らぐことはないと言われています。世界を統治される王なる主は、天地を創造された神です(創世記1章参照)。「御座はいにしえより固く据えられ、あなたはとこしえの昔からいます」(2節)と言われ、永遠の昔から今日まで、主が統治されていないときなど考えられないのです。

 

 しかしながら、私たちの目に「(世界は)決して揺らぐことはない」と映っているでしょうか。むしろ、土台から根こそぎ揺らがされているように感じていはいないでしょうか。どこに確かなものがあるのでしょうか。実際、目に映るすべてのものは、やがて過ぎ去り、失われていきます。私たちは、生まれてから死ぬまで、自分自身も含めて、変化の連続の中にいます。

 

 ここで、「世界が揺らぐことはない」というのは、見える現実が全く変化しないということではなく、何がどのように移り変わっても、神がこの世を守り支えておられるのであり、その神の御手から、この世の支配権を奪うことは出来ないということです。

 

 そのことを3,4節で、「潮」や「大水」、「海」よりも「さらに力強く、高くいます主」と言い表します。潮や海は、地の下にあるとされた陰府の淵を暗示し、主に対抗する存在を示しています(ヨブ記26章5,6節参照)。 その諸力に対して勝利されたということを表現しているのです。

 

 ヨハネの黙示録ではキリストを「小羊」として描き(黙示録5章)、そして「小羊は主の主、王の王だから、彼らに打ち勝つ」(同17章14節)と記しています。つまり、黙示録では「主こそ王」(1節)というのは、主イエス・キリストのことを指しているというkoto

です。

 

 以前にも学んだことですが、天を表す線「一」と地を表す線「一」の間に十字架「十」を書くと、「王」という漢字になります。つまり、王様とは、天と地をつなぐ架け橋となるために十字架にかかられたお方、十字架に架けられることによって、天と地の仲介者となられた方というのが、「王」というこの漢字が表現している意味だというわけです。

 

 ですから、王様には、民のために神の前に執り成し祈る祭司としての務め、そして、神の言葉を民に語り伝える預言者としての務めもありました。イスラエルでは油を注がれた者が王となります(サムエル記上10章1節、16章1節以下、13節など)。

 

 「油を注がれた者」をヘブライ語で言えばメシア、それをギリシア語で言えばキリストになります。主イエスは、神によって油注がれた王であり、祭司であり、預言者である、まことのメシア、キリストなのです。

 

 罪と死の力を打ち破って甦られ、今も生きて私たちのために執り成しておられる主イエスを、心の王座に、中心にお迎えし、感謝と賛美を絶えずおささげしましょう。

 

 天地万物を創造し、すべてを御手の内に統べ治めておられる主なる神様、主イエスが私たちと共に、私たちの内に住み、恵みと平安を満たしてくださいますから、私たちは揺るぎません。心から感謝と賛美をおささげ致します。いつも主につながり、御言葉の内に留まらせてください。 アーメン

 

 

「いかに幸いなことでしょう。主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は。その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます。神に逆らう者には、滅びの穴が掘られます」 詩編94編12,13節

 

 94編は、神の救いを求める「祈りの詩」です。詩人は、救いを求める祈りの中心に、愚か者に対する叱責(8~11節)と、神に信頼する心のまっすぐな者への祝福(12~15節)を置いています。その目的は、敵に悩まされている神の民を励まし、報復される神に信頼し、救いを祈り求めるよう教えるというものでしょう。

 

 最初に「主よ、報復の神として、報復の神として顕現し、全地の裁き手として立ち上がり、誇る者を罰してください」(1,2節)と求め、最後に「彼らの悪に報い、苦難をもたらす彼らを滅ぼし尽くしてください。わたしたちの神、主よ、彼らを滅ぼし尽くしてください」(23節)と願っています。

 

 詩人が神に対し、報復の神として罰して欲しい、滅ぼし尽くして欲しいと願い求めている敵は、「逆らう者」(3節)、「悪を行う者」(4節)、主の民イスラエルを苦しめ、やもめや寄留の民、孤児という弱い者たちを虐げ殺す不法者です(5,6節)。

 

 そして20節に「破滅をもたらすのみの王座、掟を悪用して労苦を作り出すような者が、あなたの味方となりえましょうか」と言い、続く21節に「彼らは一団となって神に従う人の命をねらい、神に逆らって潔白な人の血を流そうとします」と告げることから、そのような悪を行っているのは、国内の政治的、宗教的な指導者たちであることが分かります。

 

 詩人は主なる神を「報復の神」(エル・ネカーモート)と呼んでいます。主をそのように呼ぶということは、主の民とされた自分たちに苦しみをもたらしている敵に報復して欲しいということであり、「報復の神」にはそうする責任があるということです(エレミヤ書46章10節、51章56節参照)。

 

 また、「ネカーモート(報復)」は複数形です。それによって報復を完全なものとされる力ある神を表現しています。しかしそれは、憎悪といった感情的なものではなく、立法に基づく正義が行われず、それが破綻しているところに、正義を行い、主による秩序を回復することです。

 

 パウロの手紙に「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」と主は言われる』と書いてあります」(ローマ書12章19節)という記述があります。

 

 それはしかし、神が私たちに代わってきっちりお仕置きしてくださるという意味ではありません。続く同21節に「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と語られています。神の倍返しを信じて、今は善いことをしておいてやるといった考え方は、ここに言われる、善をもって悪に勝つことではないでしょう。

 

 「復讐はわたしのすること、わたしが報復する」というのは、申命記32章35節の引用ですが、そこには、「わたしが報復し、報いをする」と記されています。ここで、「報いをする」と訳されているのは「償い、報酬」(シッレイム)という言葉で、必ずしも「報復する、復讐する」という意味ではありません。

 

 指導者たちには、正義を行う責任があります。正義とは、やもめや寄留の民、孤児を守ることです。それがなされないことは、悲しむべき、いえ、憤るべき事態です。

 

 けれども、神はその事実を知らないわけではありません。神は私たちの耳を造られた方であり、目を造られた方です(9節)。人間の計らいのすべてを知っておられます(11節)。詩人が語っているとおりです。

 

 であれば、指導者たちの悪行を神に訴える必要はないということになります。神は既にご存知なのです。神が「報復の神」ならば、言われなくてもそうなさるでしょう。ただ、もし本当に神が「報復の神」ならば、誰が神の怒りから逃れることが出来るでしょうか。詩人は、「私は神に裁かれることなどない」と言うつもりでしょうか。

 

 「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ書6章23節)。神がすべてを見ておられ、知っておられることに気づかなければならないのは(8節)、詩人自身、そして私自身です。だから、主の諭し、主の律法を教えていただく必要があるのも、私です。

 

 そのことに気づくとき、冒頭の言葉にいうとおり、「いかに幸いなことでしょう。主よ、あなたに諭され、あなたの律法を教えていただく人は」(12節)と詠うことが出来、そして、「その人は苦難の襲うときにも静かに待ちます」(13節)と語ります。神がそのことをご存知だからです。そして神は、神を愛する者のためには、万事が益となるように共に働いてくださるのです。

 

 恵みの主に信頼し、その導きに素直に従いましょう。御言葉の恵みを味わい、主を褒め称えましょう。 

 

 主よ、あなたから1万タラントン、到底返すことの出来ない負債を赦して頂いた私が、私に100デナリオンの負債ある者を赦すことが出来ません。本当に主の御業を見ていない、主の御言葉を聴いていないのは、この私です。どうか、私の目を開いて主の贖いの業をはっきりと見、私の耳を開いて愛の御言葉をしっかりと聞かせてください。いつも主を静かに待つことが出来ますように。そうして、主の恵みを褒め称える者とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。」 詩編95編7節

 

 95編は、創造者なる神への「賛美」(1~7節前半)と、シナイの荒れ野での不従順で約束の地を踏み損ねた父祖の過ちを繰り返さないようにとの「訓戒」(7節後半~11節)という二部構成になっています。

 

 「賛歌」はまず、「主に向かって」、「救いの岩に向かって」(1節)、「御前に進み」(2節)と、主の御前に進み出ること、そして、感謝をささげ、喜びの叫びを上げるように勧めます。6節では「主の御前にひざまずこう。共にひれ伏し、伏し拝もう」と、ひざまずき、ひれ伏して主を礼拝するよう勧めています。

 

 主を賛美するのは、主が大いなる神であり、大いなる王であられるからです(3節)。そしてその根拠は、天地万物を創造され、それを御手の内に治めておられること(4,5節)、私たち人間も、神の被造物であり(6節)、主はわたしたちを養う羊飼いだということです(7節前半)。

 

 喜びの声を上げて主の御前に進み出、ひれ伏して礼拝する民に対して、主の御言葉が語られます。それが8節以下の御言葉です。主の民はその身声に聞き従わなければなりません(7節)。

 

 冒頭の言葉(7節)に「主はわたしたちの神、わたしたちは主の民」という言葉があります。これは、私たちが神の被造物というだけでなく、神と私たちとの間に契約があることを示しています。その契約によって主が私たちの神となられ、私たちは主の民としていただいたのです。

 

 かつて主なる神がモーセに「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト記19章5,6節)と言われました。

 

 また、エレミヤは「来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ書31章33節)と預言しました。即ち、新しい契約を結ぶ日が来るという預言です

 

 かくて、モーセによる旧い契約も、やがて主イエスを通して結ばれる新しい契約も、その内容は、主が私たちの神となり、そして私たちが神の民となるという、同じ内容であることが分かります。私たちは「主なる神の民」として、神を礼拝するために神によって召し集められたものなのです。

 

 「今日こそ、主の声に聞き従わなければならない」と言われるとおり、主なる神の契約の民として、私たちのなすべきことは、御声に聞き従うことです。「主に養われる群れ、御手の内にある羊」という言葉が、神と私たちの関係を言い表しています。

 

 私たちは、羊飼いのイメージで語られる主なる神によって守られ、養われています。羊が羊飼いによって養われるのは、羊が羊飼いに従うからです。羊飼いは先頭に立って羊を囲いから出し、牧草地へ、水の湧き出る泉に連れて行きます(ヨハネ10章1節以下)。羊飼いに聞き従わず、自分勝手に進むことは、荒れ野を彷徨うことになり、それは死を意味することでした。

 

 かつて、モーセに率いられたイスラエルの民は、シナイの荒れ野を40年の間彷徨いました。それは、イスラエルの民が神の御言葉に信頼しなかった結果です(民数記13,14章参照)。彼らは、荒れ野のメリバやマサで神を試しました(8節)。それは、荒れ野で飲み水がなく、「我々に水を与えよ」とモーセに求めたことです(出エジプト記17章2節)。

 

 そのとき彼らは、ただ水を求めただけではなく、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」と言ってモーセと争い、主を試したというのです(同7節)。つまり、ここで水を出すことが出来ないような神は、我々には必要がないと言っているのと同じことでしょう。

 

 主イエスが公生涯の最初に、悪魔によって荒れ野で試みを受けられました(マタイ福音書4章1節以下)。そのとき、様々な悪魔の試みに対して主イエスがなさったのは、ただ御言葉にのみ従うということです。それこそが、荒れ野の試みに打ち勝つ唯一の道なのです。ここに、神の民となるまことの礼拝者の信仰の姿勢が、主イエスによってあらためて示されています。

 

 ヘブライ書3章7節以下で、キリストを信じて歩み始めた者が、不信仰によって生ける神から離れてしまうことなく、神の安息に与ることができるように、7~11節のテキストが引用されています。キリスト教会はこの詩を、私たち会衆をまことの礼拝へと招く招詞として用いて来たのです。

 

 創り主なる主をほめたたえ、すべてのものを御手の内におさめておられる主を信じ、その御言葉に日々聴き従いましょう。

 

 主よ、あなたこそ賛美を受けるにふさわしいただ一人のお方です。私たちは御旨によって形作られたにも拘わらず、その御旨に背いて歩んでおりました。けれども、あなたの深い憐れみにより神の民としていただくことが出来ました。今、豊かな主の養いに与り、感謝します。御前に進み、喜び歌います。ひれ伏して主を礼拝します。絶えず御言葉に聴き従うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「国々にふれて言え。主こそ王と。世界は固く据えられ、決して揺らぐことがない。主は諸国の民を公平に裁かれる。」 詩編96編10節

 

 96編は、全世界に向かって主を賛美するよう促し(1節)、主なる神が全地の王となられることを喜び歌う(10節)「賛歌」です。

 

 「全地よ、主に向かって歌え」(1節)ということは、主が全地を支配しておられるということです。古代世界において、諸民族は各々自分たちの拝む神をもっていました。イスラエルの民も、エジプトを脱出して、シナイ山において主なる神との契約を結び(出エジプト記19章、23章)、主なる神を礼拝することにおいて一つの民・共同体となったのです。

 

 主なる神が全地の支配者であるというのは、諸国に力ある業を示し(3節)、イスラエルを救われるというところに(2節)示されます。特に、バビロン捕囚からの解放を契機に、主なる神が背信のイスラエルを裁く器としてバビロンを用いられ、そこから救い出す器としてペルシアを用いられたことを知らされたのです。

 

 さらに、主は天に代表されるすべてのものを創造された方であり(5節)、冒頭の言葉(10節)のとおり、主によって世界は堅く据えられ、地は決して揺るぎません。だから、「天よ、喜び祝え、地よ、喜び躍れ」(11節)といい、海とそこに満ちるもの、野とそこにあるすべてのものに呼びかけ、喜び勇め、喜び歌え(11,12節)といいます。

 

 あらためて、「主」とは神の呼び名です。旧約聖書に記されている神の固有名詞は「ヤハウェ」(YHWH)と言います。十戒に「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)という定めがあるので、ユダヤの人々は「YHWH」と記されていても、それを敢えて「アドナイ」と読みます。

 

 原典のYHWHには母音がついていないので、正確な読み方が分からなくなっていました。文語訳は神名を「エホバ」としています。これは、YHWHに「アドナイ」の母音をつけて表記したもので、14世紀頃からそう読まれてきました。今日の研究で「ヤハウェ」ないし「ヤーウェ」と読むものとされるようになりました。

 

 「アドナイ」は「主」という意味です。70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)は「YHWH」をユダヤ読みの「アドナイ」に従って、「キュリオス」(主、Lord)と訳しました。それに倣い、殆どの聖書が「YHWH」を「主」と訳しています。旧約聖書に「主」と記されていれば、そこには「YHWH」の4文字(テトラグラマトン)が記されているとお考えいただいてもよいと思います。

 

 かつて神がモーセに御自分の名を「わたしはある、というものだ」(I am that I am)とお教えになりました(出エジプト記3章14節)。「わたしはある」はヘブライ語で「エヒイェ」(「ハーヤー」の未完了形)と言いますが、「ヤハウェ」はこの「ハーヤー」から派生したものと考えられています。

 

 「わたしはある」とは、昔いまし、今いまし、やがて来られる方、昨日も今日も永遠までも変わらない絶対的な存在であるという自己宣言です。私たちには、明日のことが分かりません。しかし、明日を支配される主が私たちの味方となり、私たちと共にいてくださるのですから、どんなに心強いことでしょうか。

 

 70人訳の96編には「捕囚の後、家が建てられたときの」(ホテ・ホ・オイコス・オーコドメート・メタ・テーン・アイクマローシアン)という表題がついています。この「家」(ホ・オイコス:the house)とは、「主の家、神殿」のことを指しています。

 

 かつて、ダビデの子ソロモンがエルサレムに壮麗な神殿を建てました(列王記上6章)。しかし、神に背いて罪を重ね、ついに主の怒りを買って国が滅び、神殿は破壊され、民もバビロン捕囚の憂き目を見ることになりました(列王記下25章)。その時代に登場し、預言者として活躍していたのがエレミヤです。

 

 エレミヤ書33章2~3節で「主はこう言われる。創造者、主、すべてを形づくり、確かにされる方。その御名は主。『わたしを呼べ。わたしはあなたに応え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる』」と語っています。

 

 主なる神は天地を創造された方です(5節)。神に出来ないことはありません。その主が、「わたしを呼べ」と命じられました。呼び求めれば、「わたしはあなたに答える」と約束されています。捕囚の民にもう一度主の名を呼ぶように、彼らがもう一度信仰を回復し、主を礼拝するように、語りかけられたわけです。

 

 11~13節と、イザヤ書44章23節、49章13節、55章12節などを見比べてください。イザヤは、イスラエルが捕囚から解放され、エルサレムに帰還したことを、主なる神が全地の王として支配しておられることの証しと見ています。

 

 キリスト教会は伝統的に、聖書日課でクリスマスにこの詩を読んで来ました。この詩によってキリストの降誕を思い起こし、やがて全地の王、主の主として再臨されることを待ち望むのです。 

 

 主イエスが十字架で殺された日を「Good Friday」と言います。主イエスにとっては最悪の日でしょうけれども、その死によってすべての罪が贖われ、救いの道が開かれました。主イエスはBadをGoodに変えることが出来るというメッセージを受け止めることが出来ます。

 

 すべてをグッドに、プラスに変えてくださるお方を主の主、王の王として拝し、今も生きて働いておられる主イエスに向かい、心新たに、「主こそ王である」と喜び歌わせていただきましょう。

 

 主よ、十字架の死によって贖いの業を完成され、救いの道をお開きくださったことを感謝します。主にあって日毎に新しくされ、日々新しい歌をもって主をほめたたえさせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心がなりますように。 アーメン

 

 

「主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え。」 詩編97編1節

 

 97編は、96編に続き、主が王であられることをほめたたえる賛美の詩です。冒頭の言葉(1節)で、最初の「主こそ王」という表現は、93編1節、99編1節にもあり、そしてまた、96編10節以下の段落の冒頭にも置かれています。これは、ヘブライ語原文では「ヤハウェ・マーラーフ」という2語で、「主が王となられた、主が統治される」と宣言するものです。

 

 また、「全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え」(1節)の原文は、「地は大喜びし、多くの島々は喜べ」という言葉遣いです。「全地」は定冠詞(ハ)付きの「地」(アーレツ:the earth)という言葉です。「多くの島々」との対比で、「全地」という訳語が選ばれたのでしょう。

 

 なお、96編11節の「地よ、喜び躍れ」と全く同じ言葉遣いです。そこでは、「天」との対比で「地」と訳されています。ちなみに、創世記1章1節の神が創造された「天地」でも、定冠詞付きの「地」(ハ・アーレツ:the earth)が用いられています。

 

 2節以下、「密雲と濃霧が主の周りに立ちこめ、正しい裁きが王座の基をなす。火は御前を進み、周りの敵を焼き滅ぼす。稲妻は世界を照らし出し、地はそれを見て、身もだえし、山々は蝋のように溶ける、主の御前に、全地の主の御前に」というのは、出エジプト記19章で、主がシナイ山に降られたときの情景とよく似ています。

 

 シナイ山で主なる神はイスラエルの民と契約を結び、「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる」(同19章6節)と言われました。ですから、ここでは、この詩の言葉を聞く者たちが、主を神とし、王とする契約の関係に入ること、そして、それによって喜び躍れ、喜び祝えと言われているようです。

 

 「密雲と濃霧」は視界を遮り、ときに暗闇をもたらします。イザヤ書45章15節に「まことにあなたは御自分を隠される神」とありますが、イスラエルの民にとって、バビロンによって国が滅ぼされ、捕囚とされたのは、神の姿を見失い、絶望の闇に包まれた状況だったことでしょう。

 

 主の御前を進む火は、神の怒りを表し(申命記32章22節)、背き続けてきたイスラエルにとって、それはまさに「敵を焼き滅ぼす」(2節)ものと思われました。けれども、姿を隠された神は、イスラエルと共に、彼らのうちにおられました(イザヤ書45章14節)。

 

 また、彼らを襲った火炎は、彼らを焼き滅ぼし、燃やし尽くしはしませんでした(同43章2節)。むしろそれは、彼らをるつぼの中で精錬するひだったのです。その火によって彼らのうちの悪が取り除かれ、信仰が純化されたのです。それゆえ、「主こそ王」と高らかに宣言しています。

 

 「全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え」という呼びかけに応えて喜び祝い躍るのは、「シオン」と「ユダのおとめら」です(8節)。「シオン」とは、エルサレムのことです。また、「ユダのおとめら」とは、ユダの町々、村々という意味です。ヘブライ語では、町や村、国などは女性形で表わされるため、そのような表現が生まれました。

 

 主が王となられたので、シオンが喜び祝い、ユダのおとめらが喜び躍るということは、バビロンによって破壊され、廃墟にされたエルサレムとその周辺のユダの町々村々に、捕囚とされたイスラエルの民が戻って来るようになるということを示しているのでしょう。

 

 シオンとその周囲の町々村々が破壊されたのは、そして民が捕囚の憂き目を見たのは、彼らが真の神に背き、異教の神々を礼拝するという罪を犯したからです。神の怒りがイスラエルの民の上に下り、「すべて、偶像に仕える者、むなしい神々を誇りとする者は恥を受け」(7節)ました。

 

 しかし、「天は主の正しさを告げ知らせ、すべての民はその栄光を仰ぎ見る」(6節)ときが来ました。「主の正しさ」とは、「(彼の)義」(ツェデク)という言葉です。2節に「正しい裁きが王座の基をなす」とあり、主は全地を「正しい裁き(「正義と公正」という言葉)」をもって支配されることを示しています。

 

 それは、神と民との関係が正しくなることを意味しています。そしてそれは、民の正しい振る舞いや懸命な努力によって神との関係が正常化したのではなく、神の賜物として義が与えられたということであり、それゆえに「救い」と言い換えてもよい表現です。

 

 神は、御声に聴き従う人の魂を守り、神に逆らう者の手から助け出されます(10節)。「神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを種蒔いてくださ」(11節)います。「神に従う人」と訳されているのは「正しい(ツァッディーク)」という形容詞で、名詞的に用いられています(12節の「神に従う人」も同じ言葉の複数形が用いられています)。

 

 主の御言葉は、私たちの道の光、歩みを照らす灯火です(119編105節)。そして、御言葉は私たちの心の喜びであり、楽しみとなります(エレミヤ書15章16節)。主の正しさが光となり、喜びとなるのは、御言葉が開かれ、真の理解に導かれるからです(119編130節)。

 

 いま、主の御言葉を聴いている私たちに向かって、「主こそ王。全地よ、喜び躍れ。多くの島々よ、喜び祝え」と宣言されています。私たちが主を喜び躍り、賛美をささげるとき、私たちはシオンの娘、ユダのおとめらの住民です。

 

 主イエスは、「この山(ゲリジム)でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。・・まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハネ福音書4章21,23節)と言われました。

 

 主の御言葉が語られているところで、私たちが主イエスと聖霊の導きに従って神を礼拝する、その場所が私たちのシオン、神の選ばれた礼拝の場所なのです。

 

 「神に従う人よ、主にあって喜び祝え。聖なる御名に感謝をささげよ」(12節)。

 

 主よ、導きを感謝します。御言葉の光で私たちの行くべき道を照らし、御言葉に従う私たちの心に喜びと平安の種を蒔いてくださいました。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰で、主の道を歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「新しい歌を主に向かって歌え。主は驚くべき御業を成し遂げられた。右の御手、聖なる御腕によって、主は救いの御業を果たされた。」 詩編98編1節

 

 98編は、主なる神の救いの御業を賛美する「賛歌」です。冒頭に「賛歌」(ミズモール)という表題がつけられています。70人訳は「ダビデの詩」(プサルモス・トー・ダウイド)という表題をつけています。

 

 1~3節が主の御業に対する賛美の言葉、4~6節は全地に向かって喜びの叫びを上げよと呼びかける言葉、7~9節は海、世界、潮、山々と列挙して、全地を強調する招きの言葉になっています。

 

 主をたたえるのに詩人は冒頭の言葉(1節)のとおり、「新しい歌を主に向かって歌え」(96編1節と同じ)と言います。「新しい歌」という言葉は、33編3節、40編4節、96編1節、144編9節、149編1節にあり、またイザヤ書42章10節にも記されています。

 

 これは、歌の新しさというよりも、神のなさった新しい御業、かつてなかった「驚くべき御業」をたたえる歌ということであり、特にこれらの文脈では、イスラエルの民をバビロン捕囚から解放し、そして、まことの神を礼拝する新しい神の民、新たなイスラエルを興すという神の御業がほめ讃えられていると言ってよいでしょう。

 

 神はかつて、モーセを立ててエジプトで奴隷として重労働に服していたイスラエルの民を解放し、シナイにおいて彼らを御自分の民とする契約を結ばれました(出エジプト記19章以下、24章8節)。神は彼らを約束の地、カナンに導き入れ、嗣業の地としてお与えになりました(ヨシュア記1章以下、13~21章)。

 

 しかし、民は主なる神を軽んじて異教の神々を拝み、その教えに背いたために、神に捨てられ、北イスラエルはアッシリアに滅ぼされて(列王記下17章)その後の消息は全く不明となり、南ユダはバビロンによって滅ぼされ、民は捕囚とされるという憂き目を見たのです(同24章20節、25章1節以下、歴代誌下36章15節以下)。

 

 しかしながら、主はイスラエルの民をそのままバビロンの地に捨て置かれたのではありません。彼らと新しい契約を結ぶために、バビロンの地から解放され、シオンに帰り、エルサレムの神殿と町を再建することが出来るようにされたのです(エレミヤ書31章、歴代誌下36章22節以下、エズラ記1章1節以下)。

 

 この救いの御業が起こされたのは、イスラエルの民が徹底的に悔い改め、神に従順な民となったからというようなことではありません。苦しみ呻くイスラエルの民を憐れまれた神の一方的な恵みです(エレミヤ書33章)。だから「主は救いを示し、恵みの御業を諸国の民の目に現し、イスラエルの家に対する慈しみとまことを御心に留められた」(2,3節)と歌うのです。

 

 この新しい契約は、主イエスが十字架に死なれたことをもって発効しました(ヘブライ書8,9章参照)。主なる神は新しい契約において、キリストと何の関わりもなく、イスラエルの民に属さなかった異邦人の私たちにも、聖なる民に属する者、神の家族となる恵みの道が開かれたのです(エフェソ書2章11節以下、19節、第一ペトロ書2章9,10節)。

 

 それは、私たちと新しい契約を結ぶためにご自身のからだを裂き、血を流された主イエスが、世界の王となられたからです(同1章20節以下、フィリピ書2章9節以下、ヘブライ書1章4,8,9節など参照)。

 

 ユダヤ人の王としてお生まれになり(マタイ福音書2章2節)、3年余りの公生涯の後、十字架にかかられ、読みに降り、三日目に甦られて救いの御業を完成されたキリスト・イエスの降誕を喜び祝うのが、クリスマスです。

 

 英国の讃美歌王アイザック・ウォッツが、詩編98編に着想を得て、「Joy to the world! the Lord is come」を300年前に作詞しました。ウォッツは、この詩が告げている「驚くべき御業、救いの御業、恵みの御業」(1~3節)とは、世界の王として来られたキリストの出来事を指していると考え、そこからクリスマスの讃美歌を作り出したのです。

 

 二千数百年前に作られた詩編98編が今読まれ、そこから詩想がわいて300年前に作詞された讃美歌が今も歌われるのは、そこに歌われている救いの御業、救い主誕生の出来事が、今も新しく起こされているからです。

 

 使徒パウロが、「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(第二コリント書5章17節)と言っているのはそのことであり、主なる神は絶えず私たちを新しい恵みに招き続けておられるのです。私たちは神の子どもとして、日毎に新しくその恵みに与り続けているわけです。

 

 絶えず心の王座に主イエスをお迎えし、心から主の恵みに感謝して御前に喜びの叫び、御名をほめたたえる賛美をおささげしましょう。

 

 全地よ、主に向かって喜びの叫びを上げよ。歓声をあげ、喜び歌い、ほめ歌え。ハレルヤ、屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。玉座におられる方と小羊とに、賛美、誉、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように アーメン

 

 

「神は雲の柱から語りかけ、彼らに掟と定めを賜り、彼らはそれを守った。」 詩編99編7節

 

 99編は、主を王として褒め称える賛歌です。93編や97編と同様、詩の初めに「主こそ王」(1節)とおき、主が王となられた、主が統治されると宣言する詩編の流れにあることを示します。

 

 この詩は、「主は聖なる方」(3,5,9節)という言葉で、三つの段落に仕切られています。それは、神がイザヤを預言者として召すときにセラフィムが唱えた、「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ書6章1節以下、3節)という言葉を思い起こさせます。

 

 であれば、この詩は、96編などとは異なり、捕囚期前、預言者イザヤが活動した時期(紀元前740~690年頃)にその背景を持っているのではないかと考えられます。

 

 第一の段落では、「主こそ王。諸国の民よ、おののけ。主はケルビムの上に御座を置かれる」(1節)、「主はシオンにいまし、大いなる方」(2節)、「主は聖なる方」(3節)と語ります。

 

 「主はケルビムの上に御座を置かれる」(1節)とは、出エジプト記25章22節で「わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る」と語られているように、契約の箱の上に置かれた贖いの座の、一対のケルビムの間を玉座とされるということです。

 

 サムエル記上4章4節にも「ケルビムの上に座しておられる万軍の主の契約の箱を、そこから担いで来させた」という言葉があり、「万軍の主の契約の箱」が神輿として用いられている様子を、そこに見ることが出来ます。

 

 ダビデは契約の箱をエルサレムに運び、聖所に安置しました(サムエル記下6章1節以下、17節)。詩人はそのことを、万軍の主が「シオン」、即ちエルサレムを御自分の都として選び、そこに玉座を置かれたと宣言しているわけです。

 

 第二の段落では、「裁きを愛し、公平を固く定め、ヤコブに対する裁きと恵みの御業を、御自ら成し遂げられる」、「力強い王」(4節)、「我らの神、主」(5節)を、「聖なる方」(5節)と賛美します。

 

 「裁き」は「公正(justice)」(ミシュパート)という言葉で、特に、抑圧する者から弱い者を守ることを愛し、喜ばれるのです。「恵みの御業」は「義(righteousness)」(ツェダカー)という言葉で、贖いの御業によって神との関係が回復されること、正しい関係になることを表しています。それが神によって与えられる賜物なので、「恵みの御業」と意訳しているわけです。

 

 第三の段落では、「主を呼ぶと、主は彼らに答えられた」(6節)と、御名を呼べば答えてくださる主が、「掟と定めを賜り」(7節)、「彼らを赦す神、彼らの咎には報いる神」(8節)であり、詩人は「我らの神、主は聖なる方」(9節)と賛美しています。

 

 それも、モーセとアロン、サムエルの名を上げていることから(6節)、御名を呼ぶとは、民のために神の憐れみを求めて祈る執り成しの祈りを示していると言ってもよいでしょう。執り成しの祈りに答えてくださったということは、神の憐れみが民の上に注がれたということです。ですから、「あなたは彼らを赦す神」(8節)と言われているわけです。

 

 十字架の死によって贖いの業を成し遂げられたキリスト・イエスを、父なる神は高く上げられ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました(フィリピ書2章9節)。それは「主=ヤハウェ」という名です。ゆえに、すべてのものがイエスの御名にひざまずき、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、神をたたえるのです(同11節)。

 

 冒頭の言葉(7節)は、シナイの荒れ野を旅するイスラエルの民を、神が雲の柱、火の柱によって導かれたときのことを思わせます(出エジプト記13章21,22節)。それは、真昼の日照りから民を守る日傘の役割をし、夜にはそれに火が入って火の柱となり、灯火の役割を果たしたのです。

 

 また、主は雲のうちにそのお姿を隠し、臨在の幕屋の入り口に降りて来て、幕屋に入ったモーセと語り合われました(出エジプト記33章9節)。同様に、モーセを非難するアロンとミリアムに語られるため、主が雲の柱の内にあって下られました(民数記12章1節以下、5節)。その意味で、雲は神の臨在を示すしるしです(列王記上8章10,11節、歴代誌下5章13,14節参照)。

 

 今日、主なる神は聖書の言葉を「雲の柱」、「火の柱」(出エジプト記13章21,22節)として私たちに語りかけ、教え導き、守っていてくださいます(119編105節参照)。聖霊が火となって、キリストの証人となる力を与え(使徒言行録2章3,4節)、御言葉の真理を私たちに証しします(ヨハネ16章13節)。

 

 公正と義、即ち神の愛をもって語りかけ、私たちの祈りに応えて下さる主イエスの御言葉に日々耳を傾け、聖霊に満たされつつ、その導きに従って歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、あなたの御名が聖とされますように。それは、私たちが御名を汚しているからです。私たちを憐れみ、その罪を赦してください。御言葉を慕い求め、御前に進みます。命の言葉をお与えください。主を崇め、御名をほめたたえさせてください。 アーメン

 

 

「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ。」 詩編100編3節

 

 教団讃美歌5番「こよなくかしこし」は、600編以上の賛美歌を作って「英国讃美歌の父」と称えられるアイザック・ウォッツが、1719年に出版した『Psalms of David』の中の一編で、詩編100編に基づいて作詞した詩編歌です。

 

 曲は、1551年、ルイ・ブルジョアが詩編100編のために作ったもので、今も愛されて世界中で用いられています(教団讃美歌4,5番、新生讃美歌7,9番など)。

 

 1853年、アメリカ海軍東インド艦隊司令長官M.C.ペリー提督が浦賀に来たとき、最初の日曜日に軍艦の上で歌ったのは、アイザック・ウォッツ作詞、ルイ・ブルジョア作曲のこの讃美歌(教団讃美歌5番)だったと言われています。その意味でこの讃美歌、日本を開国へと導く讃美歌となったわけです。

 

 100編は、私たちを創造された主なる神をほめたたえる「賛歌」です。

 

 詩人は、全地に向かって賛美を呼びかけます(1節)。全地に賛美を呼びかける言葉で始まるのは、66編がそうです。また、98編4節にも同じ言葉遣いが出ます。

 

 詩人は次に、喜びをもって御前に進み、主に仕えよと告げます(2節)。「御前に」とは、原語は「彼の面前に」という言葉です。

 

 人間は、その罪深さゆえに、聖なる神の御顔を見ることは許されないと考えられていますが(出エジプト記3章6節、士師記6章22節など)、この表現は、神の御顔をはっきりと見ることが出来るほどに近づくようにという意味になるでしょう。

 

 そして、主に「仕え(アーバド=serve)」(2節)ることは、主を「礼拝(アボーダー=service)」することです。その礼拝の基調は、「喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」と言われるように、厳粛さ、荘厳さよりも、喜びであることが示されます。

 

 ヘブライ語で、主人に仕える僕、奴隷を「エベド」といいます。かつて、イスラエルの民はエジプトで、奴隷としてファラオにこき使われていました(出エジプト記1章11節以下)。そこから解放され、主なる神に仕える者となったのです(同3章12節、12章31節)。

 

 ところが、イスラエルの民は、その喜びを忘れて他の神々に仕え、主の怒りを買って国を滅ぼす結果となりました(列王記下17章、24章20節以下)。詩人はここに、人に仕えるのではなく、他の神々に仕えるのでもなく、喜びをもって主なる神に仕えようと歌うのです。

 

 そして、冒頭の言葉(3節)のとおり、「知れ、主こそ神であると」と歌います。かつてイスラエルは、自分たちをエジプトから導き出された主が神であることを学びました(出エジプト記19章3節以下、20章2節)。全地の民が「主こそ神」であると知るのは、主が「わたしたちを造られた」お方だからです(創世記1章26節以下)。

 

 私たちは、神にかたどって創造されました。それは、「男と女に創造」されたということです(創世記1章27節)。これは、外形が神に似ているということよりも、「男と女」という言葉に見られるように、二人で一つの単位となるかたちだということです。

 

 男と女には違いがありますが、愛によって一つになることが出来ます。愛し合う男女の間には、新しい命が託されます。二人が互いの愛を通して一つとなることによって、命を創造する神の働きに参加させて頂くわけです。

 

 夫婦は、もともと他人です。様々な違いがあります。違いが対立になることも少なくありません。だからこそ、愛し合わなければならないのです。愛するとは、好きになるということではありません。相手をより深く理解することです。

 

 勿論、よりよく理解することで、もっと好きになれるでしょう。お互いの理解を深めることで、視点の違い、感覚の違いが、より豊かな交わりを生み出します。より深い感情を共有しあうことが出来るようになります。

 

 キリストは、愛をもって私たちをこの上なく愛し抜かれました(ヨハネ13章1節)。その愛は、御自分の命で私たちの罪を贖うという形で示されました。それが、キリストの十字架です。主イエスが「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(同10章10,11節)と仰ったとおりです。

 

 私たちは神の恵みを受けて、キリストが神の御子であられること、私たちの贖いのため、十字架で死なれたこと、三日目に甦られたこと(第一コリント書15章3,4節)、そして今も生きておられること(第二コリント書13章4節)が信じられるようになりました。それは、聖霊の導きです(第一コリント書12章3節)。

 

 パウロが、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(第二コリント書4章6節)と記しているのは、そのことです。

 

 その信仰によって私たちは罪赦され、神の子とされました。永遠に神と共に住み、神との交わりに入ることが許されたのです(ヨハネ福音書1章12節、17章11,21節以下、第一コリント書15章3節、ガラテヤ書3章26節、コロサイ書1章14節、ガラテヤ書3章26節など)。

 

 「わたしを見た者は、父を見たのだ」(ヨハネ福音書14章9節)と言われています。主イエスの御顔に輝く神の栄光をさらに深く悟ることが出来るように、日々主の御言葉に耳を傾け、羊飼いの声に聴き従う羊のように、先立って歩まれる主の御足跡に、賛美しながら喜んで従って行きたいと思います。

 

 主よ、御子キリストの贖いにより、神の家に共に住まう恵みと特権に与らせていただきました。感謝の歌を歌って主の門に進み、賛美の歌を歌って主の庭に入ります。御口から出る一つ一つの言葉で養われ、喜んで主に仕える者とならせてください。 アーメン

 

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