詩編①

 

 

「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人。」 詩編1編2節

 

 「いかに幸いなことか」(1節)。ここに、詩人の驚きがあります。素晴しい「幸福」を見つけたのでしょう。ここに、詩人のあこがれがあります。自分もその幸福を得たいという思いです。そして、詩人の喜びがあります。幸いを嬉しく味わっているのです。

 

 「いかに幸いなことか」(アシュレイ)という言葉は、山上の説教で主イエスの告げられた「幸いなるかな」(マカリオイ)という祝福の言葉を思い出させます(マタイ5章3節以下)。元々は、「まっすぐ歩く、前進する」(アーシャル)という言葉で、そこから、正しく歩む者の幸いという表現となっていったものと思われます。

 

 「アシュレイ」という言葉は、旧約聖書中に44回用いられていますが、そのうち27回は、詩編で用いています。これは、捕囚後に書かれたと考えられる詩編に好んで用いられており、そのテーマは、主に信頼し、主に服従する敬虔な生き方を賞賛し、祝福することです。

 

 その幸いは、風に吹き飛ばされるもみ殻のようなものではありません(4節)。川のほとりの植えられた木が、葉を青々と茂らせ、ときが来れば実を結ぶという、命の光に輝いているようなものです(3節)。周囲に木陰を求め、また雨を避けて来る人がいるでしょう。木の実の恵みに与ろうと、小さな動物や鳥がその木に巣を設けるでしょう。命の喜びが広がります。

 

 この詩で「幸い」と言われているのは、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らない人です(1節)。「神に逆らう」、「罪ある」、「傲慢な」者は、幸いになれません。

 

 「従って歩む」、「道に留まる」、「共に座る」と、3段階で関係の深まりを示す表現が用いられていますが、私たちは幸いを得られる人の教えに従って歩み、その道に留まり、共に座るようにしなければなりません。

 

 そのために、冒頭の言葉(2節)が語られます。「教え」は、トーラーという言葉です。トーラーは、律法、掟と訳されますが、それは、主の教えを命じ、指図するものだからです。「愛する」は、「喜び、楽しみ、欲求」(ヘーフェツ)という言葉です。また、「口ずさむ」は、「瞑想する、嘆く、話す、心に描く」(ハーガー)という言葉です。

 

 エレミヤ書17章7,8節に「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」という言葉があります。

 

 これは、2,3節の言葉によく似ています。エレミヤが「主に信頼する人は」というのを、詩人は「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(2節)と言います。主に信頼するからこそ、その教えを愛し、その教えを絶えず口ずさむという行動になるといえばよいでしょうか。

 

 聖書に書かれているのは、幸いを得る呪文などではありません。私たちに祝福を与える神の言葉です。私たちを愛しておられる方からの個人的な私信として、その文章を繰り返し読み返しているという情景を思い浮かべてみればよいでしょう。

 

 それが、教師からの手紙であれば、学業などについて厳しいことが言われていても、自分を叱咤激励する言葉として、頑張ってみようと勇気が湧くでしょう。友人からの手紙であれば、互いに切磋琢磨し、あるいは痛みを共有し合う喜びや慰めがあるでしょう。親からの手紙であれば、何気ない文字の端々から、慈しみの心を感じて心が温かくなるでしょう。

 

 だから、主の教えを昼も夜も口ずさむというのは、主の御心を受け止めようと、祈りつつ真剣に耳を傾けることであり、御言葉を通して恵みをお与えくださる主に感謝し、賛美することです。「主の教えを口ずさむ」という言い方にも現れている通り、詩人は、詩編を「主の教え」(トーラー)として読むこと、歌うことを考えているのではないでしょうか。

 

 トーラーといえば、旧約聖書の区分で、創世記から申命記までのモーセ五書と呼ばれる部分を指しますが、詩編は、第1巻が1~41編、第2巻が42~72編、第3巻が73~89編、第4巻が90~106編、第5巻が107~150編と、五巻に分けられています。これも、詩編をトーラーとして読むための細工なのかも知れません。

 

 この詩で謳われている「幸いな人」とは、だれよりも先ず、主イエスご自身です。主イエスは常に父なる神の御心に従って歩み、昼でも夜でも父なる神と交わるために、独り退いて祈られました。主イエスこそ、まさに幸いなお方です。そして、私たちに幸いを指し示し、その幸いへと私たちを招いてくださいます。

 

 「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ福音書14章6節)と言われ、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同7章38節)と約束してくださった主イエスを信頼し、主の愛の御心に包まれて、主の教えを胸に刻み、主に従う命の道を共に歩ませていただきましょう。

 

 主よ、御言葉を通して、私たちを絶えず幸いな道へ招き、導いてくださることを感謝します。主イエスと共に、真理の道、命の道を歩みます。御心を行わせてください。主の教えを愛し、その導きに従って、実を結ぶ人生を歩ませてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「主の定められたところに従ってわたしは述べよう。主はわたしに告げられた。『お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ。』」 詩編2編7節

 

 詩編2編は、王の即位の祭のために作られ、祭の中で朗唱された「王の詩編」(72編、110編参照)と言われます。だれがいつ作ったものか定かではありませんが、ソロモンの即位のときのことではないかという解釈があります。

 

 2節に「主の油注がれた方」(マーシーアッハ=メシアのこと)という言葉があります。イスラエルでは、王や祭司が即位するとき、頭に油を注ぎかけました(出エジプト記28章41節、サムエル記上10章1節、16章13節など)。

 

 それは、イスラエルにおいて王や祭司となる者は、主なる神によって選び出され、神より特別な恵みが与えられることを示しています。「油注がれた方」をギリシア語で「クリストス(=キリストのこと)」と言います。

 

 詩人は主なる神について4節で「天を王座とする方」と言っています。地上の「国々は騒ぎ立ち」(1節)、「地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい」(2節)と言われていましたが、詩人は天の御座から彼らを嘲笑われる主を仰ぎ見て、心に平安や勇気を与えられているのです。

 

 冒頭の言葉(7節)で、詩人は1人称で「主の定められたところに従ってわたしは述べよう」と語り始めます。そして、主の告げられたことを語り伝えます。それはまず、「お前はわたしの子、今日、わたしはお前を生んだ」という言葉でした。

 

 続く8節で「求めよ。わたしは国々をお前の嗣業とし、地の果てまで、お前の領土とする」と言われるので、冒頭の言葉で「わたしの子」と呼ばれている詩人は、2節の「主の油注がれた方」、6節で「わたしは自ら、王を即位させた」といわれている神の民の王であることが分かります。

 

 詩編の中で、主が王とされた者を「わたしの子」(ベニー)と呼ぶのはここだけですが、サムエル記下7章14節に「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」という言葉があります。これは、主なる神が預言者ナタンに、ダビデに告げよと命じた言葉で、彼とはソロモンのことです。

 

 油注がれて王となるように、王となる即位の儀式を通して、神の子となるというのです。主なる神は、「わたしの子」と呼ぶ王に上述のとおり「求めよ。わたしは国々をお前の始業とし、地の果てまで、お前の領土とする」(8節)と、全世界の支配権を授けます。そして、その権威と力によって、国々とその支配者たちを打ち砕くことができると告げます(9節)。 

 

 残念ながら、最も栄華を誇ったというソロモンの治世でも、全世界を支配することなど、及びもつかない状況でした。それは、王となる者たちが主の御旨に従わず、むしろ主に背いて主を怒らせる行動に出るからで、それを預言者たちに糾弾されています。その結果、ダビデ王家が倒され、油注がれた者が失われるときを迎えなければならなくなりました。

 

 バビロン捕囚以降、長くイスラエルは独立を勝ち取ることが出来ず、強国の支配の下に置かれ続けました。そこで民の間に、イスラエルを周辺の列強国から独立解放を勝ち取る真の王=メシアの登場を待ち望む期待が高まっていきました。その思いが「メシア」に、苦しみから解放する「救い主」という意味を与えることになったわけです。

 

 ペトロが主イエスのことを、「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ福音書16章16節)と告白していますがありますが、それは、主イエスこそ、神によって選び立てられた真の「油注がれた方」、「救い主」であるという信仰を表明しているのです。

 

 主イエスが神の子であるということについて、洗礼者ヨハネからバプテスマを受けられたとき(マルコ1章9節)、天が裂けて霊が鳩のように降って来(同10節)、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(同11節)という声が天から聞こえました。父なる神が主イエスを「わたしの愛する子」と呼ばれ、主イエスは神によって、メシア=キリストとして立てられたのです。

 

 しかし、その働きは、民が期待していた、王として民の上に君臨し、列強の支配を排除してイスラエルの独立を獲得するという政治的、軍事的なものではなく、「目の見えない人は見え、脚の不自由な人は歩き、重い皮膚病をわずらっている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(ルカ7章22節)というものでした。

 

 あらためて2節に「なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか」とありました。主イエスは誕生のとき、ヘロデ王によって命を狙われました(マタイ2章13節以下)。公生涯の最後に、祭司長ら宗教指導者に捕らえられ(同26章47節以下など)、ローマ人たちの手で十字架につけられ、殺されました(同27章26,32節以下など)。

 

 そのとき主イエスは十字架の上で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と祈られました。御自分を殺そうとしているもののために執り成し祈られたのです。ここに愛があります。神は愛だからです(第一ヨハネ書4章8,10節)。

 

 死から甦られた主イエスは、「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28章18~20節)と仰いました。

 

 「(キリストは)へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神を讃えるのです」とフィリピ書2章8~11節に言われています。

 

 イエスの死と復活を通して、すべてのものを統べ治める王、主となられたということで、ここに詩編2編7,8節の言葉が実現したということになりますね。つまり、主イエスは、この詩人が謳っている言葉を実現するためにおいでくださったわけです。

 

 私たちはクリスマスに主のご降誕を、イースターにキリストのご復活を喜び祝います。主イエスを私たちのうちに、心の王座にお迎えしたのです。日々主に向かい、「あなたこそメシア、生ける神の子です」と告白しつつ、主の御言葉と御霊による導きと恵みに豊かに与らせていただきましょう。

 

 主よ、今も様々な苦しみの下にいる人々がいます。憐れみ、助けてください。愛する心が冷え、信頼し合うことが困難なこの時代状況を憐れみ、変えてください。キリストによる愛と平和、喜びが、私たちの周りに、全世界に与えられますように。インマヌエルと唱えられる神の御子イエス様、いつも共にいてください。 アーメン

 

 

「救いは主のもとにあります。あなたの祝福が、あなたの民の上にありますように。」 詩編3編9節

 

 この詩には、「賛歌。ダビデの詩。ダビデがその子アブサロムを逃れたとき」(1節)という表題がついています。ダビデ王の物語と関連付けられた「ダビデの詩」が、詩編の中に13あります(詩編3,7,18,34,51,52,54,56,59,60,63,142編)。その最初の詩です。

 

 ダビデは、息子アブサロムに背かれて、命からがら王宮を抜け出し、逃避行をしたことがあります(サムエル記下15~18章参照)。愛情を傾けて育てたわが子に背かれ、命を狙われる苦痛というのは、想像を超えたものがあります。

 

 3節に「多くの者がわたしに言います。『彼に神の救いなどあるものか』と」とありますが、これは、ダビデ家のスキャンダルを知った人々が、ダビデのような罪人は息子に背かれて当然と、ダビデを非難している言葉でしょう。

 

 ゲラの子シムイが逃避行を始めたダビデに石を投げ、ダビデを呪ったという記事がサムエル記下16章5節以下に記されています。シムイの呪いが、「彼に神の救いなどあるものか」という言葉の原型だったと考えることもできます。 

 

 ダビデの罪というのは、先ず、ウリヤの妻バト・シェバと姦淫し、その罪を誤魔化すためにウリヤを戦場で殺し、その後、バト・シェバを自分の妻として王宮に迎えたことです(サムエル記下11章参照)。その罪を預言者ナタンに指摘され、ダビデはそれを認めて悔い改めたのですが(同12章)、それ以後、彼の家族関係は乱れていきました。

 

 長男アムノンが異母妹タマルに恋心を抱き、力ずくで関係を持ちましたが、一夜で熱が冷め、身勝手にもタマルを追い出しました。それを聞いた父ダビデは激怒しますが(同13章1節以下)、実際にはアムノンに対して、何の咎め立てもしませんでした。姦淫と殺人の罪を犯していたダビデには、息子の罪を裁く資格はなかったわけです。

 

 それで、タマルの兄アブサロム(ダビデの3男)がその2年後、兄アムノンを討ち、妹の復讐を果たしました(同13章23節以下)。ダビデがアムノンの罪を寛大に見逃したために、アブサロムが兄弟殺しの罪を犯すことになったのです。

 

 ダビデが長い間、長男アムノンの死を悼んでいたということは(同13章37節)、アムノンを王位後継者として期待していたということでしょう。それゆえ、アムノンを殺したアブサロムを憎み続けていたということでしょう。

 

 アムノンを殺害して外国に逃亡したアブサロムは、それから3年後、家に連れ戻されましたが(同14章21節)、ダビデの前に出ることは許されませんでした(同24,28節)。アムノンの罪は不問だったのに、アムノンを殺害したアブサロムの罪を、ダビデは赦せなかったのです。

 

 かくて、三男アブサロムは、父ダビデから次第に遠く離れて行ったわけです。そして、これらの醜聞を知った人々の心のダビデから離れ、アブサロムの謀反に加担するようになったのでしょう。その中に、ダビデの顧問であったギロ人アヒトフェルもいます(同15章12節)。サムエル記下11章3節と同23章34節との関連で、アヒトフェルをバト・シェバの祖父とする説があります。

 

 自業自得といえば、それまでかも知れませんし、ダビデには、反論できないところでしょう。しかしながら、「彼に神の救いなどあるものか」とダビデを非難する人々は、神の救いをどのようにして自分のものにしたというのでしょうか。

 

 いかに、自分に敵対する者だからといって、「彼に神の救いなどあるものか」と考え、またそれを相手に言うということは、神に敵することにもなります。というのは、神の御業、神の御心を矮小化する不遜な思い、発言だからです。詩人がこの敵について、「神に逆らう者」(8節:ラーシャー=邪悪な、不敬虔な、有罪の)というのは、このためといってよいでしょう。

 

 そうして、詩人は「神の救いなどあるものか」という言葉を、冒頭の言葉(9節)のとおり、「救いは主のもとにあります」といって退けます。この言葉は、困難に打ちひしがれている人に、主の救いが届かない場所などない、主の救いを受けられない人などいないということを力強く宣言し、主を「わたしの神」(8節)と呼んで救いを祈るように導くのです。

 

 預言者ヨナは神から、アッシリアの首都ニネベで「あと40日すれば、ニネベの都は滅びる」(ヨナ書3章4節)というメッセージを語るよう命じられたとき、その命に背いてタルシシュ行きの舟で逃れようとしました(同1章1~3節)。

 

 嵐(同1章4節以下)と巨大な魚(同2章1節以下)がヨナのために用意され、ヨナは悔い改めて主に従います(同3章2,3節)。ヨナが魚の腹の中でささげた祈りの最後の言葉は、「わたしは感謝の声を上げ、いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。救いは主にこそある」(同2章10節)というものでした。

 

 その後、ヨナに主の言葉が再び臨み(同3章1,2節)、命令通りにニネベに行き(同3節)、神のメッセージを告げます(同4節)。それを聞いたニネベの人々は、神を信じて悔い改めました(同5節以下)。それをご覧になった神は、災いをくだすのをやめられました(同10節)。確かに、救いが届かない場所はなく、救いを受けられない人もいないのです。

 

 ところが、それを見たヨナは腹を立てました(同4章1節)。ヨナは、ニネベが滅んでも当然、いや、是非滅ぼして欲しいと考えていたのです。けれども、神の御心は、ニネベの人々の悔い改めを促し、救いに導くことでした。そして、その心をヨナにも分って欲しいと考えておられたのです(同11節)。

 

 ダビデは、アブサロムの謀反のためエルサレムを抜け出し、キドロンの谷を渡り(サムエル記下15章23節)、オリーブ山に登り(同30節)、前述のとおりシムイに呪われる屈辱を味わいました(同16章7節以下)。

 

 そのことは、裏切りと嘲りの中、十字架への道を歩まれた主イエスの受難を思わせます。神の御子キリストがその苦しみを味わわれたのは、主の救いがあらゆる世代のすべての人々に届けられるためでした。

 

 私たちも、主イエスの贖いによって罪の呪いから解放され、信仰によって立ち上がることが出来ます。主の守りによって眠り、主に支えられて目覚めるのです(6節)。朝毎に主の御言葉に耳を傾け、その恵みを味わいましょう。心から感謝をもって祈りと願いをささげましょう。

 

 主よ、あなたの深い恵みと憐れみとのゆえに、心から感謝致します。様々な苦難の中にいる人々のために、主よ、立ち上がってください。わたしたちの神よ、どうかお救いください。あなたの祝福が全世界に、その民の上に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「主の慈しみに生きる人を主は見分けて、呼び求める声を聞いてくださると知れ。」 詩編4編4節

 

 4編は、救いを求める個人の祈りです。9節の『平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります』という言葉に因み、「夕べの歌」と呼ばれます。

 

 詩人は、偽証によって名誉を傷つけられた苦しみの中から(3節)、「わたしの正しさを認めてくださる神よ」と神を呼び、「苦難から解き放ってください、憐れんで、祈りを聞いてください」と願います(2節)。

 

 名誉が傷つけられること、辱めを受けることは、誰にも耐えられることではありません。それは、肉体を傷つけられるよりも、ずっと深い傷を負わせられることです。時には、それが致命傷になることもあるでしょう。

 

 栄光の絶頂にいたヨブが(ヨブ記29章)それを失い、人々の嘲笑を受けるようになったとき(同30章1節以下)、「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵芥に等しくなってしまった」(同19節)と嘆いている言葉にそれを見ることができます。

 

 しかしながら、この詩人の祈りは、いわゆる嘆願というものではありません。むしろ、主なる神への信頼に溢れています。その信頼の中から、「憐れんで、祈りを聞いてください」(2節)と求めているのです。

 

 「わたしの正しさを認めてくださる神」は、「わたしの義である神」(エロヘイ・ツィドキー)という言葉遣いです。詩人は、「わたしの義」と呼ぶ「正しさ」(ツェデク)の根拠を、自分ではなく神に置いています。つまり、その「義」は詩人を救う神の救い、恵みとして詩人に臨むということです。

 

 主が自分の祈りを聞かれ、自分を救ってくださるという確信から、自分を苦しめる者たちに対して、「いつまでわたしの名誉を辱めるのか、むなしさを愛し、偽りを求めるのか」(3節)と厳しく叱責し、「おののいて罪を離れよ。横たわるときも自らの心と語り、そして沈黙に入れ」(5節)と忠告するのです。

 

 詩人は、これまで何度も、苦難の中から神を呼び求める祈りをささげ、その祈りが聞き届けられるという経験を繰り返して来ました。それを物語るのが冒頭の言葉(4節)です。

 

 ここで、「慈しみに生きる人」と訳されているのは、「敬虔な、忠実な」(ハーシード)という意味の言葉で、口語訳は「神を敬う人」、岩波訳は「彼に忠実な者」と訳していました。新改訳はそれを「聖徒」としています。

 

 新共同訳の「慈しみに生きる者」という訳は、ハーシードが「慈しみ」(ヘセド)に由来していることから、その言葉の意味を前面に出したのです。即ち、敬虔な者とは、神の慈しみによって生きる者であるという表現にしたわけです。

 

 「見分ける」は「区別する、取り分ける」(パーラー)という言葉です。ここでは、「聖別した」、つまり「神が御自分のために取り分けた」と訳してもよいのではないでしょうか(岩波訳参照)。

 

 詩人はここで、神が詩人を、その慈しみに生きる忠実な者として、御自分のために聖別された者なのだと語っているわけです。その証拠に、「呼び求める声を聞いてくださると知れ」と言います。原文を直訳すると「主は聞かれる、わたしが彼を呼ぶとき」となります。

 

 「聞く」(シャーマー)という言葉は、未完了形(イシュマー)が用いられています。聞くという動作が完了していない、つまり聞き続けてくださっているということで、主を呼び求める度に、その祈りが聞き届けられているということを、詩人はそのつど経験して来たわけです。

 

 7節で「主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください」と言い、8節で「それ(麦とぶどうの豊かな収穫)にもまさる喜びを、わたしの心にお与えください」と祈っています。それは、詩人にとって、神が自分に御顔の光を向けてくださることにまさる喜びはないということです。

 

 「平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。主よ、あなただけが、確かにわたしをここに住まわせてくださるのです」(9節)という言葉は、たとえ、不当な評価、偽り、嘲りによって誇りが傷つけられようとも、それによって深い苦悩を味わわせられようとも、一日の終わりには、「平和」(シャローム:神との全き関係)の中に憩い、眠ることができるということです。

 

 主イエスは、ご自分の名によって父なる神に願い求める者は、喜びで満たされると約束しておられます(ヨハネ福音書16章24節)。神が祈りを聞いてくださること、その願いが聞き届けられること、そして神がお与えくださる賜物は、この地上のいかなる幸福にも替え難いものなのです。

 

 主イエスは、私たちに神の義を与えるため、自らを十字架で贖いの供え物とされました。主イエスの名で願い求めるとは、主イエスの贖いによって神の子として頂いた者として祈るということです。だからこそ、祈りが聞き届けられるのです。

 

 私たちの罪を贖い、死んで甦られた主イエスを信じることによって、信じる者すべてに神の義が与えられます。パウロは、「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ書14章17節)といいました。

 

 そして、「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ書4章6節)と勧めます。それは、「そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(同7節)ということを、パウロが何度も味わって来たからです。

 

 私たちも、この詩を夜に繰り返し読み、口ずさんで、詩人のように、パウロのように、その恵み、平和、喜びを、私たちも味わわせていただきましょう。 

 

 主よ、私たちが祈り願うことを、主がその時々に最もふさわしいかたちで聞き届けてくださることを、心から感謝致します。確かに主は生きておられます。絶えず主の御顔を拝させてください。御言葉に聴き従い、主の慈しみに生きることが出来ますように。 アーメン

 

 

「主よ、朝ごとに、わたしの声を聞いてください。朝ごとに、わたしは御前に訴え出て、あなたを仰ぎ望みます。」 詩編5編4節

 

 この詩は、形式および内容の点で個人の「嘆きの歌」に属するものとされており、冒頭の言葉(4節)から、「朝の祈りの歌」と言われます。第4編が「夕べの祈り」とされるので、本編がここに置かれたといっても良いでしょう。

 

 冒頭の「朝ごとに、わたしは御前に訴え出て」という言葉、また8節の「あなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し」という言葉から、この詩は朝、神の宮において唱えられたものと考えられます。とすると、この詩が実際にダビデの作ということはあり得ません。

 

 この詩には、「主よ」、「神よ」という呼びかけの言葉が7回記されています(2,3,4,7,9,11,13節)。エレミヤ書33章3節に「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」という言葉があります。神が「わたしを呼べ」と命じられ、呼べば答えると約束されているのです。

 

 朝ごとに詩人は主よ、神よと御名を呼び求め、その都度、答えられる恵みを味わって来たのでしょう。この詩を通して、朝まず神に祈り、心の用意を整えてから一日の活動に取りかかることが必要だと教えられます。

 

 嘆願の言葉の後に、その根拠、理由を語る言葉が続き、両者をつなぐ接続詞として、5節、10節、12節(口語訳、新改訳は4,9,11節)の冒頭に「なぜならば」(キー)という言葉が記されています。ただ、「キー」には「確かに、本当に」という意味があり、また「しかし」と訳されることもあります(岩波訳参照)。

 

 2~4節に第一の願いを記し、それに対して5~8節にその根拠が述べられています。続く9節に第二の願いがあって、10節がその根拠が記されます。そして、11節に第三の願いを告げ、12,13節にその理由を述べているという構成です。

 

 願い事をする根拠として述べられているのは、神に逆らい、悪をなす者の存在です。5節の「悪人」という言葉に続き、6節の「誇り高い者」(口語訳:高ぶる者、新改訳:誇り高ぶる者)、「悪を行う者」、7節の「偽って語る者」、「流血の罪を犯す者」、「欺く者」と列挙しています。

 

 そして、悪人の振る舞いについて、10節で「彼らの口は正しいことを語らず、舌は滑らかで、喉は開いた墓、腹は滅びの淵」と述べます。それは、殺意をその腹のうちに隠し持って、事実無根の偽りを語るものだということです。

 

 そこで、「わたしの言葉に耳を傾け」(2節)、「助けを求めて叫ぶ声を聞いてください」(3節)、「朝ごとに、わたしの声を聞いてください」(4節)と訴え、「恵みの御業のうちにわたしを導き、まっすぐにあなたの道を歩ませてください」(9節)と求め、「彼らを罪に定め、そのたくらみのゆえに打ち倒してください。彼らを追い落としてください」(11節)と願うのです。

 

 詩人の願いについて、2節に「主よ、わたしの言葉に耳を傾け、つぶやきを聞き分けてください」とあります。ここで「つぶやき」(ハーギーグ)と訳されているのは、「呻き、ささやき、黙想」という言葉です。この言葉の動詞形(ハーガー)が、1編2節の「口ずさむ」で、これも「黙想する」(meditate)という意味を持ちます。

 

 口に出して語る言葉だけでなく、心で思い巡らしていること、言葉にならないような思い、あれこれと思い巡らしていることを、聞き分けてくださいというのです。言い換えれば、わたしの心を探ってくださいということになるでしょうか。

 

 心のひだに隠しているようなことにも目を向け、知っていてくださいということでしょう。すべてをありのまま、隠すことなく明け渡し、神との間に真実な信頼関係が生まれることを願っているのです。

 

 冒頭の言葉(4節)に「わたしは御前に訴え出て」とあります。ここで、「訴え出る」(アーラフ)は「備える、整える」という意味の言葉で、原文に目的語はありませんが、口語訳は「いけにえを備える」という訳文になっています。新改訳は「あなたのために備えをする」、岩波訳は「あなたのために整える」としています。

 

 口語訳に従えば、牛や羊などのいけにえを神の前に整えるということでしょうけれども、8節との関連で、主の深い慈しみをいただいて御前にひれ伏し、主を畏れ敬う詩人の心という、霊的ないけにえといってもよいでしょう。

 

 51編19節に「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ、悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」とあります。神は、私たちの謙った心、神を求める心をいけにえとしてささげられることを待っておられるのです。自分自身をいけにえとして神の御前にすべてを明け渡すこと、心を開いてありのままを神に申し上げ、祈りをささげるのです。

 

 5節で「あなたは、決して逆らう者を喜ぶ神ではありません。悪人は御許に宿ることを許されない」と言っていますが、私は正しい者だから神に喜ばれ、御許に宿ることを許されるが、悪人は駄目だ!ということではないと思います。そういう意味合いが全くないとは申しませんが、むしろ、自分自身に向けて語られている言葉として読むべきでしょう。

 

 つまり、誰もが神の前に隠しごとなど無く真実でなければ、神の前に出ることは出来ないと言っているのではないでしょうか。かくて詩人は、単に自分の祈りが聞き届けられることを願うだけではなく、心を開いて神に近づき、神の御顔を仰ぎ見たい、自分の心の中においで頂きたいという、神との深い交わりを望んでいるのです。

 

 この詩の最後は、「あなたを避けどころとする者は皆、喜び祝い、とこしえに喜び歌います。御名を愛する者はあなたに守られ、あなたによって喜び誇ります。主よ、あなたは従う人を祝福し、御旨のままに、盾となってお守りくださいます」(12,13節)という賛美の言葉になっています。

 

 既に祈りが聞かれ、恵みを手にしたから賛美の歌を歌っていると読むことも出来ますが、朝ごとに祈りをささげている詩人は、信仰によって、神はわたしたちの祈りを聞いてくださるお方であるとわきまえているので、恵みを受ける前から、それを先取りして感謝と賛美の歌を歌っていると解釈することも出来ると思います。

 

 ヘブライ書11章6節に「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者に報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」とあります。

 

 自分にとって、そのことが必ずしも善いと思われないようなことであっても、必ずそこに神の最善の出来事、恵みの御業が開かれることを信じます。主なる神に対してそのように信頼しているからこそ、実際にその事実を見てはいないけれども、まだ恵みを味わってはいないけれども、神の計画の実現を喜び祝い、賛美出来るというわけです。神はそのような信仰を喜ばれるのです。

 

 「見ゆるところによらずして、信仰によりて歩むべし。何をも見ず、また聞かずとも、神の御約束に立ち。歩めよ、信仰により、歩め、歩め、疑わで。歩めよ、信仰により、見ゆるところにはよらで」(聖歌539番)という賛美があります。絶えず主イエスを信じ、神の道をまっすぐに、恵みの御業のうちを歩ませていただきましょう。

 

 主よ、私たちは一人であなたの前に立っているのではありません。主イエスが共にいてくださいます。そして、朝毎に御言葉を開き、祈りを共にする信仰の友がいます。そして、万事を益とされる神がおられることを私たちは知っています。心を開いて、ありのまま申し上げます。私たちを主の平和で満たしてください。主の深い憐れみのゆえに、感謝します。 アーメン

 

 

「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください。」 詩編6編5節

 

 この詩は古来、七つの悔い改めの詩編(6,32,38,51,102,130,143編)と呼ばれる最初のものとされています。ただ、詩人の罪を思わせる発言はありますが、しかし、具体的な罪の告白や謝罪などはありませんから、これを悔い改めの詩と呼んでよいかどうかは、議論のあるところでしょう。

 

 この詩は、4つの連で構成されています。1~3連(1~8節)は、嘆きの祈りが記されていますが、最後の連(9節以下)では様子が一変します。

 

 第1連(2~4節)を見ると、詩人を苦しめているのは主御自身であり、その苦しみは、それとはっきり明言されてはいませんが、「怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください」(2節)という言葉から、詩人の罪が裁かれてのことと考えてよいのでしょう。

 

 3節で「主よ、癒してください」と言い、4節で「主よ、いつまでなのでしょう」と告げる言葉から、詩人は病でずいぶん長い間、臥せっているものと思われます。第2連(5~6節)の「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません」(6節)という言葉から、その病はずいぶん重いものと見えます。

 

 前述のとおり、特に罪を告白したり、罪を悔いて赦しを求める言葉はありませんが、冒頭の「主よ、立ち帰り、わたしの魂を助け出してください。あなたの慈しみにふさわしく、わたしを救ってください」(5節)という言葉に、詩人の信仰が現れています。おのが罪の故の苦しみではありますが、その病苦が重い上に長く続いていて耐え難く、神の憐れみを請うのです。

 

 「立ち帰り」は、神に正しい道に戻るようにというのではなく、神が慈しみをもって共に歩んでくださるのでなければ、生きられないことを悟って、自分の罪ゆえに遠く離れているように思われる神に、そば近くに帰って来てくださいと懇願しているのです。

 

 詩人は、そのように神に願う資格などがあると考えているわけではありません。ただ、詩人は自分の背きよりも、それによって受けている苦しみよりも、神の「慈しみ」(ヘセド:不変の愛)のほうがはるかに勝って大きいと信じているようです。

 

 6節で、神に救ってほしい理由について、「死の国へ行けば、だれもあなたの名を唱えず、陰府に入れば、だれもあなたに感謝をささげません」と語っています。即ち、もし死んで陰府に下れば、神の御心を思い起こして、感謝したり賛美をささげたりすることができなくなるというのです。それは、陰府の世界に神はおられないからです。

 

 このことは、神が賛美してもらえなくなるということではなくて、詩人が神を失うということを意味しています。詩人にとっては、病によって命を失うことよりも、それによって神との関わりが永遠に断たれてしまうことの方が、比較できないほどに重大な問題だったのです。

 

 その問題になかなか解決が与えられないので、第3連(7~8節)で「わたしは嘆き疲れました。夜ごと涙は床に溢れ、寝床は漂うほどです」(7節)とつぶやき、「苦悩にわたしの目は衰えて行き、わたしを苦しめる者のゆえに、老いてしまいました」(8節)と嘆きます。誇張した表現の中にも、苦悩の激しさ、辛さが伺えます。

 

 「わたしを苦しめる者」(ツォーレラーイ)は、「苦しめる」(ツァーラル)という動詞の分詞形に、「わたしを」を意味する接尾辞「イ」がつけられているものですが、「ツォーレラーイ」は複数形です。

 

 そして、原文には、この言葉の前に「すべての」(コール)という言葉があります。つまり、「わたしを苦しめるすべての者たち」という言葉なのです。詩人が苦しんでいたのは重い病で、それを与えたのは主なる神ということでしたが、しかし、詩人の苦しみはそれだけではなかったようです。

 

 第4連(9~11節)にも、「悪を行う者」(9節:コール[すべての]・ポーアレイ[行う者たち]・アーヴェン[不義])、「敵」(11節:オーイェバーイ[わたしの敵ども])と呼ぶ存在が登場します。詩人が重い病で苦しんでいるのに乗じて、不義をなす敵が彼を苦しませていたということです。

 

 ところが、上述のとおり、第4連に来て詩人の様子が一変します。「悪を行う者よ、皆わたしを離れよ。主はわたしの泣く声を聞き、主はわたしの嘆きを聞き、主はわたしの祈りを受け入れてくださる」(9,10節)と確信をもって語り出します。

 

 3連(7~8節)と4連(9~11節)の間で何があったのか、何も分りません。ただ、けれども、主が「わたしの泣く声を聞き」、「わたしの嘆きを聞き、わたしの祈りを受け入れてくださる」というとおり、主の慈しみ、神の愛の御業が詩人の上になされたわけです。

 

 2つの「聞く」という言葉は完了形で、主が聞いてくださったと詩人が喜んで告げる様子を思い浮かべます。そして、「受け入れてくださる」は未完了形です。これは、繰り返し受け止め、受け入れてくださっているという表現です(岩波訳脚注参照)。

 

 詩人にとってそれは、既に苦悩が去った、もはや二度と苦しむことはなくなったということではないのかも知れません。しかし、彼の泣き声、嘆きを聞いてくださった神、繰り返し祈りを受入れてくださる主がおられるのです。

 

 だからこそ、神の御前に安んじて嘆き、呻くことが出来ますし、そして神の守りを信じて感謝することも出来ます。それは、主なる神が彼に味方してくださるということです。それゆえ、詩人に対して悪を行う者たちは神を敵に回すことになり、「敵は皆、恥に落とされて恐れおののき、たちまち退いて、恥に落とされる」(11節)と警告しているわけです。

 

 私が牧師になって間もないころ、教会員のお父様が、癌治療のために松山においでになりました。お父様もキリスト信者でした。治療は成功し、御自分の住む町へ戻って行かれましたが、数年後に再発して手術に臨まれたときには、既に手の施しようがないという状態でした。

 

 ある日、お見舞いに伺った私に、「私が平安だと言うと家族は安心していますが、平安というものは、問題のない人にはよく分からないのですよ。でも、大変な苦しみの中で、神様が天からどさっと平安を送ってくださいました。痛み止めの注射で痛みが完全になくなるわけではありません。祈りでも、注射と同じ程度の効果があるんですよ」と仰言いました。

 

 その祈りで癌が癒されたというわけではありません。入院中、痛みは間断なく襲っていたのだと思います。絶えず死を目前にしておられたでしょう。生半可な慰めは通用しません。ところが、「何をどう語ればよいのかと思うと、訪ねる足が重くなる」と正直に告げると、「ただ、訪ねて来てお祈りくださるだけで、大きな励ましをいただいている」と仰ってくださいました。

 

 そのように、お見舞いした私の方が励まされ、いつも平安を頂き、元気になって家路につくのでした。深いところでひとり御前に訴えるお父様の嘆きを聞き、祈りを受け入れてくださっている主が、目には見えませんが、味方となってその傍らにおられたのでしょう。

 

 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(フィリピ書4章6,7節)という御言葉が真実であることを、実際に教えて頂いた出来事です。

 

 私たちの魂を助け出し、慈しみに相応しく私たちを救ってくださる主に信頼し、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰に歩ませていただきましょう。

 

 主よ、私たちの嘆きを聞き、私たちの祈りを受け入れてくださることを、心から感謝致します。いつも主に依り頼み、嘆き、祈ります。主の恵みと平安が苦しみ、悲しみ、痛みの中にある人々の上に、常に豊かにありますように。全世界に、武力などによらず、キリストによる平和が与えられますように。 アーメン

 

 

「あなたに逆らう者を災いに遭わせて滅ぼし、あなたに従う者を固く立たせてください。心とはらわたを調べる方、神は正しくいます。」 詩編7編10節

 

 7編には、「シガヨン。ダビデの詩。ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの」という表題がつけられています。「シガヨン」について、聖書中ここだけ(ハバクク書3章1節に複数形のシグヨノト)に現れた意味不明の言葉です。岩波訳の脚注によれば、「激情的な哀歌」、「陶酔の詩」、「無知のため」などとする試訳があるそうです。

 

 作詩の状況について、「ベニヤミン人クシュのことについてダビデが主に向かって歌ったもの」と説明されています。「ベニヤミン人クシュ」なる人物は、聖書のどこにも登場して来ません。

 

 8節以下に、「諸国を」、「諸国の民を」という言葉が出て来ることもあり、クシュとは、エチオピア出身ということかも知れません。異邦人が、ベニヤミン族に受け入れられて、クシュの名で呼ばれていたのでしょうか。

 

 また、「ベニヤミン人」でダビデを苦しませた敵といえば、サウル王が思い出されます。たとえば、サウル王が部下のクシュなる人物を使ってダビデを苦しませていたという状況設定のもと、ダビデが主に向かって歌う嘆きの歌を作詩したという想定になっているのでしょうか。綴りが違いますが、サウルはキシュの子でした。

 

 この詩は、敵からの解放を願う祈りです。2節に「わたしの神、主よ、あなたを避けどころとします。わたしを助け、追い迫る者から救ってください」と言います。「あなたを」(ベ・ハー)は「あなたの中に」、「避けどころとする」(ハーサー)は、悪天候を避けるとか敵から逃れるという意味です。ここでは主に対する信頼の言葉として用いられます。

 

 不安や恐れの中で主への信仰を言い表すこの表現は、詩編の中に繰り返し用いられています(11編1節、16編1節、25編20節、31編2節、46編2節、61編4節、62編7,8節、71編1節、94編22節、141編8節、142編6節など)。

 

 詩人は、獲物を狙う獅子のように執拗に追い迫る敵から、救ってくださいと求めています(2,3節)。そのとき、主なる神以外に、その獅子の爪と牙から救い出してくれるものはいないというのです。

 

 そして、「わたしの神、主よ、もしわたしがこのようなことをしたのなら、わたしの手に不正があり、仲間に災いをこうむらせ、敵をいたずらに見逃したなら、敵がわたしの魂に追い迫り、追いつき、わたしの命を地に踏みにじり、わたしの誉れを塵に伏させても当然です」(4~6節)と言っています。

 

 ここで詩人は、不正をなして「仲間」(ショーレミー:わたしと平和の関係にある者=友)に災いを被らせ、敵を徒に見逃したと非難されているようです。つまり、詩人にとって仲間であった者が「敵」(ツァーラル:苦しめる者の意)となり、彼に苦悩を与えているのです。

 

 けれども、詩人は自分の友らにそのようなことをした覚えはありませんでした。そこで、神が裁きの座につき(7,8節)、執拗に追い迫り、不当に苦しめる敵を裁いてほしい、そして、「お前は正しい、とがめるところはない」(9節)と宣言してくれるように、神に訴えます。

 

 この詩人は、冒頭の言葉(10節)で「神は正しくいます」(エロヒーム・ツァッディーク)と言い、神こそ正しい方であることを知っています。ですから、詩人が拠って立つ正しさは、ヨブのように神と正しさを競うようなものではありません。神は私たちの行いや態度など、外側に表れているものではなく、「心とはらわたを調べ」られます。

 

 「はらわた」(キルヤー)とは腎臓のことですが、聖書では、人間の感情の源がそこにあると考えられて、「心」(レーブ)と共に用いられます。口語訳、新改訳は、この「はらわた」を「思い」と訳していました。つまり、神は、心の奥底に秘められているような思いまで探り知るお方であるということです。心の底まで調べられる神の御前で、正しいとされる人がいるでしょうか。

 

 ここで詩人が問題としているのは、人の行いの正しさ、善良さなどではありません。義なる神との関係を問うているのです。正しい神が詩人から「わたしの神」(2,4節:エローハイ)と呼ばれています。詩人と個人的な交わりがあるのです。だから、詩人は神の正しさの中に自分の避けどころを得て、苦しみから解放されることを求めているのです。

 

 であれば、不正とは、神との関係が正しくないことであり、それは、神に頼らずに歩もうとすることです。そこには、自分の正しさを自負する「自己義認」といわれる生き方をすることも含まれます。そして、それこそ、十字架に敵対して歩くことなのです(フィリピ書3章18節)。

 

 神は、私たちの魂を救い、御名のゆえに正しい道に導いてくださいます(23編3節)。私たちは、神の救いに与り、罪が赦され、関係が回復されました。主イエスを信じて神の子とされ(ヨハネ1章12節)、神を「アッバ、父」と呼ぶ御霊の導きに与らせていただいたのです(ローマ書8章15節など)。

 

 ヘブライ書13章5,6節に「神ご自身は、『わたしは決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。だから、わたしたちは、はばからずに次のように言うことができます。『主はわたしの助けぬし、わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう』」とあります。

 

 この恵みを常に豊かに味わわせていただきながら、正しくいます主に感謝をささげ、いと高き神、主の御名を絶えずほめ歌いましょう(18節)。主は、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実という献げ物をお喜びになるのです(ヘブライ書13章15,16節)。

 

 天のお父様、私たちを神の子とし、主イエスとともに、「アッバ、父よ」と呼ぶことのできる恵みに与らせてくださり、感謝いたします。朝ごとに御言葉に耳を傾け、その教えを繰り返し思い巡らし、御霊の導きに従って歩ませてください。御言葉どおり、この身に成りますように。そうして、御名の栄光を表してください。栄光が世々限りなく主キリストにありますように。 アーメン

 

 

「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。」 詩編8編5節

 

 8編には、「指揮者によって。ギティトに合わせて。賛歌。ダビデの詩」という表題がつけられています。「賛歌」(ミズモール)と題される詩は54編ありますが(3,4,5,6,8,9,12編など)、内容的に、これまで祈りの詩が続いてきた中で、この詩は終始一貫、主を讃える「賛歌」となっています。

 

 「ギティト」について、81,84編にもあり、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)ではガト(ぶどう搾り)と関連させて、「ぶどう搾りの歌」と訳しています。これは、この詩を歌う時のメロディーを表しているのではないかと考えられ、そしてそれは、喜び溢れるものであろうと想像されます。

 

 詩人は創造主なる神をたたえ、「主よ、わたしたちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう。天に輝くあなたの威光をたたえます」(2,10節)と賛美する歌を歌います。

 

 このように詩の最初と最後に同じ感嘆文が記されているのは、天地万物を創造し、御手の内にすべてのものを統べ治めておられる神の威光をたたえる詩人の思いが、詩の初めから終わりまで、その全体を貫き、支えているということです。

 

 天に輝く神の威光を、幼子、乳飲み子の口によってたたえるというのは(2,3節)、全宇宙の支配者なる神を幼子、乳飲み子がたたえるということで、すべての人が神をたたえるべきだといっているのです。

 

 3節後半の意味はよく分からないところですが、角田三郎著『詩篇のこころ』(ヨルダン社、1979年)に、「理屈っぽい大人がする神の存在証明とか、あるいは深くあるいは高い神経験による証しとかによるよりも、もっと単純で驚きに満ちている幼子の、神をほめたたえる言葉こそが、神がその敵対者に対して築いた難攻不落の砦になる」(P.165-166)と記してありました。

 

 角田師にはそのとき、4歳になるご長女があって、ある日大声で師を呼ばれ、深紅に燃えるような夕焼けを見ながら呆然として、「神様が、神様がいるんだね!」と叫ばれたそうです。そしてその4年後、今度はご長男が同じ窓辺で師を呼ばれ、魂を奪われたように夕焼けに見入っておられたご子息が、「神様が、神様がいるんだね!」と言われたというのです。

 

 さらに、ご長女が中学の終わりから5年間病み、ようやく癒え始めたときに、美しい夕焼けを家族4人で眺めながら、師がご家族に上記のエピソードを話されたそうですが、それを聞かれたご長女が、以下の詩を作られたそうです。

 

   幼い日

  美しい夕映えの空をみて

  思わずひざまずき

  そこに神様がいるといった

 

  今わたしは夕暮れの中に

  たたずみながら

  暮れていく夕映えの空をみると

  心に あの幼い日の思い出がよみがえる

 

  いつの間にか忘れかけていた

  あなたの優しさ

  美しい夕映えの空の中によびおこされる

  いつまでも変わらずに この心を

  あなたを素直に信じられるこの心を保たせてください

 

 

 幼子のときに与えられた賛美を思い起こし、生きておられる神にさらなる希望を見出したという、さながら3節を彷彿とさせる物語です。詩人はその心をもって夜空を仰ぎました。それらを神の指の業と呼びながら、「月も、星も、あなたが配置なさったもの」(4節)と、その壮大かつ繊細な美しさに、神を賛美しています。

 

 この広大な大自然、全宇宙に比較すれば、人間はどんなにちっぽけな存在でしょうか。しかし、詩人はここで、自分の小ささを嘆いたり呟いたりしているわけではありません。そうではなく、この広大な天地万物を創造された神が、冒頭の言葉(5節)のとおり、自分のような小さな存在にさえも目を留め、顧みておられることに気がつき、驚いているのです。

 

 私たちは、心ふさがれるとき、空を仰ぐことなど忘れています。輝く月星の光が目に入りません。けれども主なる神は、空を見上げてごらん、星の数を数えてごらんと、私たちを外へ招かれます。

 

 信仰の父アブラハムは、神の御言葉に従って約束の地に着きましたが(創世記12章)、年老いてなお跡継ぎがなく、甥のロトとも分かれて生活するようになってしまいました(同13章)。仕方なく、財産は執事に譲るつもりでした(同15章2節)。

 

 そのとき、主なる神が彼を外に連れ出して、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と言われ、そして「あなたの子孫はこのようになる」(同5節)と告げられたのです。

 

 それは、人間的に考えるならば、絶対不可能なことでした。しかし、アブラハムは、神を信じ、その御言葉を受け入れました(同6節)。アブラハムの目には、その星一つ一つが、自分の子孫の顔に見えたのかもしれません。それによって、どんなに力が、喜びが湧いてきたことでしょう。希望が、勇気が与えられたことでしょうか。

 

 「あなたが御心に留めてくださるとは、人間とは何ものなのでしょう」(5節)と語られているということは、神が自分のことなど、心に留めておられるはずはないと考えていたのでしょう。

 

 ということは、自分の辛い身の上、運命を嘆いていたのかもしれません。山のように大きな問題の前で、無力な自分を悲しんでいたのかもしれません。生きる気力を失って、うずくまっていたのかもしれません。

 

 そんな時、神が自分に目を留めてくださっていること、顧みていてくださることに気づいたのでしょう。「心に留める」、「顧みる」というのは、神に造られた人が有限の存在であり、数々の失敗、過ちを犯す弱いものであること、神が目を留め、顧みてくださることなしに生きることが出来ないものであることを示す言葉といってよいでしょう。

 

 しかるに、天地万物の創造者なる神は、すべての被造物を治めるよう、人にその権限を授けられました(6節以下)。これは、創世記1章26~30節、2章15~25節に基づく考え方です。「神に僅か劣るもの」とは、人が神のかたちに造られたということからの発想でしょう。被造物に対して、人は神から遣わされた者としての使命を果たすのです。

 

 5~7節の言葉が、ヘブライ書2章6節以下に引用されています。そこでは、「人間、人の子」とは御子イエスのことと解釈されています(同9節)。主イエスは、インマヌエル、メシヤ=キリスト、神の独り子、救い主、主など、様々な称号で呼ばれます。しかし、主イエスご自身はご自分のことを「人の子」と言われました。これは、神の御子が完全に人間となられたということです。

 

 そして主イエスは、私たちのすべての罪を背負われ、身代わりに死んでくださいました。その命をもって罪の贖いを成し遂げてくださったのです(第一コリント15章3節、ガラテヤ1章4節、第一ペトロ2章24節)。

 

 父なる神は、主イエスを三日目に甦らせ(マタイ16章21節、使徒2章24節、26章23節、第一コリント15章4節)、天に迎えて、御座の右に座らせなさいました(マルコ16章19節、ヘブライ1章3節、8章1節など)。それが、「御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(7節)と語られている内容です。

 

 詩人は、天体を見て大自然に感動したのではなく、天地万物を造られた神がキリスト・イエスを通して贖いの御業を完成してくださったのを見ることが出来た、その恵みを確かに味わうことが出来たので、感嘆の声を上げたということではないでしょうか。それゆえ、高らかに主を賛美するのです。

 

 「歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ! 歌いつつ歩まん、この世の旅路を♪」(聖歌498番)。

 

 主よ、私たちは何ものでもありませんが、御子キリストの贖いによって神の子としていただきました。それは驚くべきこと、まさにアメイジング・グレイスです。御名を賛美します。私たちの内に今も生きておられるキリストと共に、賛美と感謝をもって日々を歩ませていただきます。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう。」 詩編9編1節

 

 9編と10編は、もとは一つの詩だったと考えられています。それは、70人訳(ギリシア語訳旧約聖書)でこの二つを一つの詩として記載しているからです。いわれてみると、先ず、10編には表題がありません。

 

 また、新共同訳聖書は、9編と10編を「アルファベットによる詩」であると紹介しています。これは、9編は偶数節、10編は奇数節の冒頭の文字が、いわゆる「いろは歌」の形式(ヘブライ語のアルファベットの順番)に並べられており、両編をあわせると、アルファベットによる詩が完成するという構成になっています。

 

 ヘブライ語のアルファベットは22文字で出来ています。アルファベット22文字が、1節おきの冒頭の文字として順番に並ぶように詩を作るというのは、一つの技巧ですが、これは、詩を覚えやすくするという利点があると共に、言葉を尽くして神に感謝と賛美をささげ、あるいは祈りと願いをささげるという信仰のあらわれではないかと思います。

 

 これらが、二つの詩が一つのものだったとされる根拠ですが、それがなぜ二つに分けられたのか、理由を明確にすることは、容易ではありません。おそらく、その内容が、二つに分けられるからだろうと思われます。

 

 表題に、「ムトラベンに合わせて」とあります。ムトラベンとは「息子のために死ね」という意味ですが、もう一つ意味不明です。詩編の編纂当時、このような歌詞で歌い始められる歌があって、その旋律に乗せてこの詩を朗読したということなのでしょう。

 

 詩の前半(2~13節)には感謝の言葉、賛美の言葉が記されていますが、14節、20節を見ると、詩人は苦しみに直面していることが分かります。その苦しみは、詩人を憎む敵によってもたらされています。

 

 その敵は、「異邦の民」(6,16,18,20,21節)です。10節に「虐げられている人に、主が砦の塔となってくださるように」と記されていますから、詩人は、異邦の民によって虐げられ、苦められているわけです。

 

 「憐れんでください、主よ」(14節)と言い、「御覧ください、わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを」と言っていますので、この苦しみは既に過去のものとなったということではありません。今もなお、苦しみの現実の中にあるのです。

 

 自分でその現実を変えることが出来ません。敵を打ち破ることが出来ないのです。その力がありません。助けを必要としています。主なる神の憐れみがなければ、弱り果てて死の門をくぐってしまうかも知れない(14節)というような現実の中に生きているのです。

 

 であれば、なぜ詩人は1節で「わたしは心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう」と語っているのでしょうか。これは、ただ単に、神が敵を打ち倒し、裁いてくださったから感謝するという言葉ではないのです。むしろ、誓いの言葉、信仰の告白、宣言といった方がよいと思います。

 

 つまり、自分が置かれている現実がいかなるものであっても、心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えよう(2節)、絶えず神を喜び、誇り(3節)、「御顔を向けられて敵は退き、倒れて、滅び去った」(4節)と主の御名をほめ歌おうというのです。

 

 それは、神は御座におられて、私たちのために「正しく裁き、わたしの訴えを取り上げて裁いていてくださる」(5節)と信じているからです。神は私たちの賛美を、感謝を喜び受けとめてくださいますが、この賛美は、詩人の信仰の賛美なのです。

 

 12節で「シオンにいます主をほめ歌い、諸国の民に御業を告げ知らせよ」と賛美の声を上げるのも、「主は流された血に心を留めて、それに報いてくださる。貧しい人の叫びをお忘れになることはない」(13節)という過去の経験に基づく信仰があるからです。

 

 14節に「憐れんでください、主よ」、「ご覧ください、わたしを憎む者がわたしを苦しめているのを」と、救いを求める祈りが記されていますが、続く15節には、「おとめシオンの城門であなたの賛美をひとつひとつ物語り、御救いに喜び躍ることができますように」と、賛美の誓いを立てています。

 

 ヘブライ書11章6節に「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」とあるとおり、敵を滅ぼされる前から、いまだその虐げの苦しみの中にあっても、神は必ずそうしてくださると信じて、神を賛美するのです。

 

 しかも、心を尽くして主に感謝をささげ、驚くべき御業をすべて語り伝えようと言います(2節)。中途半端ではないのです。要領よく、口先だけで、というのではありません。彼の人生、心も思いもすべて神にささげ、感謝と証しの生活をするということです。主が私たちに求めておられるのは、まさに「感謝と証しの生活をせよ」ということではありませんか。

 

 使徒パウロも、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」 (第一テサロニケ5章16~18節)と語っています。それは、私たちの努力や決断などで実現できることではありません。キリスト・イエスの助け、聖霊の導きがあってはじめて可能になることです。

 

 日ごとに主を仰ぎましょう。御言葉に耳を傾けましょう。御霊の導きを待ち望みましょう。そうして、心から、主を賛美しましょう。 

 

 主よ、日本列島の至る所で大規模自然災害が発生し、被災された方々が多くあります。仮設住宅での生活を余儀なくされている人々がおられます。復興の道筋が立たないというところもあるようです。どうぞ憐れんでください。助けてください。しかし、夜は夜もすがら泣き悲しんでも、喜びの朝を迎えさせてくださると信じていますから、私たちも心を尽くして主に感謝をささげ、その驚くべき御業をすべて語り伝えます。御名が崇められますように。御心がなりますように。 アーメン

 

 

「立ち上がってください、主よ。神よ、御手を上げてください。貧しい人を忘れないでください。」 詩編10編12節

 

 1節に「主よ、なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」とあります。「苦難」(バッツァーラー)は、「飢饉、貧困」という意味の言葉が用いられています。旱魃などによって実りがなく、苦しい生活を強いられている小作農が、それにも拘わらず、地主に小作料を納めるように責められて、一切のものを失おうとしている状況を思い浮かべてみればよいでしょう。

 

 どんなに願っても雨が降らず、収穫に与ることが出来ないため、貧しい小作農たちは、その貧困から逃れるすべがありません。そのように、問題が自分に押し迫り、一切を飲み尽くそうとしています。しかし、それを押し返すだけの力が、自分にはありません。

 

 そのとき、神の姿はとても小さいものになっています。時には、本当に神はおられるのだろうかと、その存在を疑わしく思うほどになります。押し迫る問題が自分の心の中であまりにも大きくなり、問題の向こうに神が隠れてしまうのです。だから詩人は、「なぜ遠く離れて立ち、苦難の時に隠れておられるのか」と叫び、訴えているわけです。

 

 3節で「主をたたえながら、侮っている」というのは、イザヤ書29章13節の「この民は、口でわたしに近づき、唇でわたしを敬うが、心はわたしから遠く離れている」という言葉を思い起こさせます。「たたえる」(バーラフ)を、口語訳、新改訳は「呪う」と訳しています。神の名を用いながら貪欲に貧しい者から搾取するのは、神を侮り、神を呪うような振る舞いだという解釈なのでしょう。 

 

 彼らは、主の裁きは「あまりにも高い」から、自分たちには影響がないとうそぶいて(5,6節)、「口に呪い、詐欺、搾取を満たし、舌に災いと悪を隠す」(7節)のです。

 

 唇や舌による悪について、ローマ書3章の「正しい者はいない」という段落で、悪行のリストが提示されている中に、「彼らののどは開いた墓のようであり、彼らは舌で人を欺き、その唇には蝮の毒がある。口は、呪いと苦みで満ち」(同3章13,14節)という言葉をパウロは記しています。言葉による悪に無縁の者はいないということでしょう。

 

 さらに、神に逆らう者たちは、貧しい人、不運な人に襲いかかります。彼らは罪もない人を殺し、しかし、自分たちには罪がないかのように振る舞います(8節以下)。そのような状況の中で、貧しい人々は、「神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない」(11節)と、絶望の淵にうずくまっています。

 

 詩人はこのように、貧しい人々、不運な人々の苦境を主に訴えて、冒頭の言葉(12節)の通り、 「立ち上がってください、主よ。神よ、御手をあげてください。貧しい人を忘れないでください」と執り成し祈ります。

 

 「立ち上がってください」(クーマー)は、民数記10章35節に「主よ、立ち上がってください。あなたの敵は散らされ、あなたを憎む者は御前から逃げ去りますように」と言う言葉があり、主の箱が出発するときに、モーセはこう言ったということです(同34節)。

 

 しかしこれは、荒れ野を移動するときというより、神の箱を携えて出陣するときの言葉のようです。詩編3編8節、17編13節、35編2節、44編27節などの用法も、それを支持します。 

 

 132編8節にも「主よ、立ち上がり、あなたの憩いの地にお進みください、あなた御自身も、そして御力を示す神の箱も」とあります。これは、歴代誌下6章41節のソロモンの祈りに重なります。神の箱に、目に見えない神の存在を見、神の力をもって神の宮のあるダビデの町に憩いをもたらすよう求めているわけです。

 

 詩人は、主は必ず自分の祈りに答え、立ち上がってくださると確信しているようです。だから、「なぜ、逆らう者は神を侮り、罰などはない、と心に思うのでしょう」(13節)と語り、「あなたは必ずご覧になって、御手に労苦と悩みをゆだねる人を顧みてくださいます」(14節)と、信仰によって宣言しています。

 

 詩人にとって、「不運な人」(ヘーレカー:口語訳「寄るべなき人」)は、単にアンラッキー、不幸な人というのではありません。神の御前に立って訴える権利も資格もないことを知っている貧しい人ですが、だから、自分を苦しめる権力者によって与えられている苦痛をありのまま神に訴え、すべてを神の御手に委ねるほかない人なのです(14節後半)。

 

 嵐の夜、「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(マルコ福音書4章38節)と、眠っておられた主イエスを起こして訴えたペトロのように、また、悪霊に取りつかれた子どもを主イエスのもとに連れてきた父親が、「信じます、信仰のないわたしをお助けください」(同9章24節)と、憐れみを求めて自らの心を開いたようにです。

 

 主イエスは、「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである」(ルカ福音書6章20節)と 仰いました。貧しい人に神の国が与えられるのは、百パーセント神の恵みです。そこにしか頼るものがない、そこにしか避けどころを持ち得ない人々の信頼と希望を裏切られはしないのです。

 

 あらためて、「不運な人はその手に陥り、倒れ、うずくまり、心に思う、『神はわたしをお忘れになった。御顔を隠し、永久に顧みてくださらない』と」(10,11節)というのは、私たちの罪の呪いを一身に負って十字架に死なれた主イエスの姿そのもののようです。

 

 主イエスは、この虐げられ、苦しめられている貧しい人、不運な人の傍らに共におられ、その運命をご自身のこととして引き受け、そして、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ福音書15章34節)と、私たちに替わり、十字架の上で父なる神に叫んで訴えられたのです。

 

 そして、父なる神は、主イエスを陰府に捨て置かれはしませんでした。三日目に甦らせ、そうしてご自分の右の座に着かせられたのです。今私たちは、主イエスを信じる信仰によって神の子とされ(ヨハネ福音書1章12節)、主イエスとともに座に着くことが許されています(エフェソ書2章6節など)。

 

 あらゆる問題を主のもとに持ち出しましょう。訴えましょう。神のもとに助けがあることを信じ、主を待ち望みましょう。苦しみの中にある方々のために、執り成し祈りましょう。

 

 主よ、多くの方々が自然災害の犠牲となり、その苦しみが続いています。また、人の愛のない業によって傷つき、苦しめられている人が大勢います。どうか主の癒しと助けがありますように。日々、その生活を顧みてください。主の恵みを信じます。憐れみを信じます。 アーメン

 

 

「主は聖なる宮にいます。主は天に御座を置かれる。御目は人の子らを見渡し、そのまぶたは人の子らを調べる。」 詩編11編4節

 

 1節に「主を、わたしは避けどころとしている」と記されています。原文には、「主を」(バ・ヤハウェ:in the Lord)という言葉が冒頭にあります。わたしは主を信じる、主に依り頼む、主のみもと以外にわたしの避けどころはない、という信仰の表明です。

 

 これは、平時に語られた言葉ではありません。「鳥のように山へ逃れよ。見よ、主に逆らう者が弓を張り、弦に矢をつがえ、闇の中から心のまっすぐな人を射ようとしている。世の秩序が覆っているのに、主に従う人に何ができようか」(1~3節)という友らの言葉に対して、詩人が答えた言葉なのです。

 

 「山へ逃がれよ」というのは、ソドムにいたロトとその家族に御使いが、町に下る罰の巻き添えにならないよう、低地のどこにもとどまらず、山へ逃げなさいといった出来事(創世記19章1節以下、17節)を思い起こします。

 

 また、終末の徴について語られていた主イエスが、「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(マルコ13章1節以下、14節)と語られた状況を想像します。その言葉にしたがって、起源70年にエルサレムがローマによって陥落させられる前に、エルサレム教会の人々はヨルダン南部のペトラに逃げたと伝えられています。

 

 このとき、詩人はそのような危機に直面していたわけです。主に逆らう者は、弓に矢をつがえ、闇に紛れて心のまっすぐな人の命を狙っています。「世の秩序が覆っているのに」(4節)の「秩序」(シェート)は「拠り所、土台、支え」という言葉です。

 

 心のまっすぐな人の拠り所、支えは、主の賜る平和、平安でしょう。それが覆ったということは、暴力と不正が蔓延しているということになります。そのように、正義が不義によって脅かされているときに、どのように振る舞うかということが問われています。詩人は、鳥のように山に逃れる代わりに、自分の信仰を宣言しているわけです(1節)。

 

 詩人は、この信仰に基づき、自分が避けどころとする主とはどのようなお方なのか、4節以下で紹介しています。まず、冒頭の言葉(4節)のとおり、主なる神は聖なる宮、天に御座を置いておられる真の神です。

 

 そして、そのお方は、ひとり天において孤高を保っておられるのではありません。「御目は人の子らを見渡し」(4節)とあるように、神はその眼差しを私たちに向けておられるのです。

 

 ここで、「見渡し」(原語:ハーザー)というのは、「見る、予見する、知覚する、見て取る、預言する」という意味で、新改訳聖書は「見通す」と訳しています。外見だけでなく心までも見られる神が、よくよく目を凝らして注視しておられると解釈すればよいでしょうか。

 

 「山に逃げよ」と勧告した友は、神ではなく、敵の姿を見ています。敵が闇に紛れて矢を番え、狙いをつけているのを見て詩人に忠告しました。けれども、詩人は、自分に注目していてくださる主なる神に目を上げたのです。このように、何を見ているか、何に目を向けているかということで、その人がどこに立っているかということが示されます。

 

 ということは、「そのまぶたは人の子らを調べる」と言われていることから、神は、私たちが何に目を向けているか、何に信頼して立っているか、敵の姿や困難な問題を通して調べられるということも出来ると思います。

 

 ヨブが苦しみを経験したのも、そういうことだったのかもしれません。アブラハムに「長子を全焼のいけにえとしてささげよ」と言われたあの無理難題も、そうでしょう(創世記22章参照)。

 

 私はこの試験に合格する自信はありません。正直に言えば、ペトロのように主を否み、鳥のように山に逃げ出すことでしょう。また、ヨナのように舟に乗り込み、神が行けと命じられたニネベとは反対のタルシシュに向けて逃げ出すかも知れません。けれども、そのような弱い私にも、主は眼差しを向けておられます。

 

 それは、三度否んだペトロを見つめられたあの主イエスの眼差しです(ルカ福音書22章61節)。それは「そら見ろ、前もって言っておいたとおり、やっぱり裏切っただろう」という目ではなく、「信仰が無くならないよう、あなたのために祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(同22章32節参照)という、愛と恵みに満ち溢れた眼差しでしょう。

 

 その眼差しに支えられ、励まされてペトロは再び立ち上がることが出来ました。主はその眼差しを私たちにも向け、弱い私たちを労わり、励ましてくださっているのです。だからこそ詩人は、「主を、わたしは避けどころとしている」と言うのです。

 

 御目をもって私たちを見通しておられる主の憐れみに依り頼み、愛をもって「恵みの業」なる「正義」(ツェダカー)を実現される主の御言葉に従って、日々歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、私たちは自分一人でしっかりと立っていることは出来ません。常にあなたの助けを必要としています。問題に遭遇するたびに私たちの避けどころであり、天のみ座から私たちに愛と恵みに満ち溢れた眼差しを向け、私たちの心の内までも見通しておられる主を仰ぎ、御言葉に耳を傾け、聖霊の導きに与ることが出来ますように。主の恵みと慈しみが絶えず豊かにありますように。 アーメン

 

 

「主の仰せは清い。土の炉で七たび練り清めた銀。」 詩編12編7節

 

 表題に、「第八調」とあります。これは音楽用語のオクターブを表わす言葉と考えられています。新改訳では、8弦の竪琴による伴奏と訳しています。岩波訳には「正確な意味は不明。最低の音調を表す音楽用語か」という注釈がつけられています。指揮者に伴奏者もいて歌う詞ということであれば、その調子は明るく力強いものだったのかも知れませんね。

 

 2節に「主よ、お救いください」という祈りが記されています。続けて、「主の慈しみに生きる人は絶え、人の子らの中から信仰のある人は消え去りました」(2節)と哀歌が歌われ、そして「主に逆らう者は勝手に振る舞います、人の子らの中に卑しむべきことがもてはやされるこのとき」(9節)という哀歌で閉じられます。至る所に悪がはびこっているということです。

 

 その悪をすべて滅ぼしてほしいと願い(4節)、その悪について「人は友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心を持って話します」(3節)、「滑らかな唇と威張って語る舌」(4節)と告げ、そして、悪人の「舌によって力を振るおう。自分の唇は自分のためだ。わたしたちに主人などはない」(5節)という発言を記します。 

 

 弱い者には居丈高になり、強い者にはへつらう。語る言葉と心に思うことが違う二心。言葉による粉飾といえばよいでしょうか。その自信過剰な語り口は、神を無視し、他者を踏みつけにする悪人の振る舞いを自ら表明しています。 

 

 悪人の発言に対し、「虐げに苦しむ者と呻いている貧しい者のために今、わたしは立ち上がり、彼らがあえぎ望む救いを与えよう」(6節)と語られた主の御言葉が記されています。詩人はこの言葉をどこで聞いたのでしょうか。もしかすると、悪しき者の発言に心痛めながら神の宮に来て、そこで献げられている礼拝、賛美、祈りに、神の御思いを聞いたのかも知れません。

 

 そして、この御言葉を聴いた詩人は、冒頭の言葉(7節)の通り、「主の仰せは清い。土の炉で七度練り清めた銀」と応答の歌を歌います。主の御言葉の確かさを、この言葉をもってアーメンとたたえているのです。

 

 御言葉の確かさ、真実さは、「人は友に向かって偽りを言い、滑らかな唇、二心をもって話します」という3節の言葉と好対照です。「土の炉で七たび練り清めた」とは比喩的な表現ですが、詩人が苦しみ呻き、嘆き悲しむたびに、「救いを与えよう」という主の御言葉が真実だったという経験をしたということではないでしょうか。繰り返し、神の御言葉、その約束の確かさを味わったわけです。

 

 何度も神の御言葉の確かさを味わうということは、何度も苦しみを経験したということでしょう。そしてその都度、神の御言葉を信頼し、御言葉に従うかどうか、選択を迫られたということでしょう。

 

 そう考えると、苦しみを通して神の御言葉の確かさを味わうということは、逆に苦しみを通して私たちの信仰が試されるということでもあるわけです。私たちが主なる神を見ているだけでなく、主なる神も私たちを見ておられるのです。

 

 以前、カトリック教会の「心のともしび」という番組に「心の糧」というコーナーがあり、多くのカトリック信者が、自らの心の糧について原稿を書き、それをナレーターが朗読していました。その中に、三宮麻由子さんという方の話がありました。

 

 三宮さんは4歳の時に病気で失明されましたが、上智大学フランス文学科卒業、同大学院博士前期課程を修了し、現在、外資系の通信社に勤務しながら、エッセイストとして活躍しておられます。2001年に執筆した「そっと耳を澄ませば」が日本エッセイストクラブ賞、09年には点字毎日文化賞を受賞されました。

 

 彼女は、渓谷にオオルリという鳥が生息して、川のせせらぎと共にこの鳥の鳴き声が足下から聞こえてくると、その谷の深さを知ることが出来、クロツグミという鳥は、少し開けた畑のようなところにいる鳥で、山に向かって歩いているときに前方の少し高いところから鳴き声が聞こえたら、そのあたりまではこのまま歩いて行ける、そこから先には山があるしるしといった話しておられました。

 

 そうして、三宮さんは、目が見えなくなったからこそ、真剣に鳥の声を聞き、自然の音の景色を味わうことが出来るようになった、これが見えなくなったことの恩恵だと言われていました。見えないということを、誰もが恩恵と受け止められるわけではありません。いつでもそのように思える、というわけでもないでしょう。

 

 けれども、確かに耳を開くということ、真剣に耳を傾けるということが、それまで分からなかった新しい恵みの世界を開くということを、そこに示されます。

 

 闇という漢字は、門構えに音と書きます。闇なのに、光などではなく、音とはどういうことでしょうか。闇とは光がないのではなく、隣人の声が聞こえないことではないでしょうか。確かに、誰の声も聞こえないというのは、孤独の闇の中にいるということでしょう。

 

 けれども、音の門が開く、他者の声が聞こえるようになるとき、今まで閉ざされていた、否、知らずに自分で閉ざしていた恵みの世界、新しい光の門が開かれるということではないでしょうか。「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます」(詩編119編130節)という御言葉もあります。

 

 主の御言葉を祈り深く聴き、その恵みを自分が受けるだけでなく、周りの方々とも分かち合いましょう。外の光に惑わされず、しっかりと御言葉に耳を開き、自分の課題、問題に御言葉の光を当てることができるように、その確かさ、真実さを味わわせて頂きましょう。

 

 主よ、私たちは偽る者ですが、あなたは常に真実です。その御言葉に真理があり、命があります。あなたに依り頼む私たちに、御言葉の真実を教えてください。朝毎に、御言葉に耳を傾けます。土の炉で七度までも練り清められた銀のような、真実な御言葉の恵みを、いつも味わわせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「あなたの慈しみに依り頼みます。わたしの心は御救いに喜び躍り、主に向かって歌います。『主はわたしに報いてくださった』と。」 詩編13編6節

 

 13編は、「救いを求める祈り」の詩です。

 

 2,3節に「いつまで」(アドゥアーナー)という言葉が4度出て来ます。望ましくない事態が早く終わることを望気持ちの表れですが、それが繰り返されることに、激しい苦しみが続いていて、忍耐の限界にあるということが示されます。

 

 原文では、「わたしを忘れておられるのか」(2節)の後に、「永遠に」(ネイツァー)という言葉があります。口語訳は「とこしえに」、新改訳は「永久に」と訳出しています。まさに、詩人には、苦しみが永遠に続くように感じられているわけです。

 

 敵に苦しめられているようですが(3,5節)、それは外敵でしょうか。国内の政敵といった存在でしょうか。それとも、病魔のようなものでしょうか。いずれにせよ、自分を苦しめる敵の前で、自分の命が風前の灯のように感じられているのでしょう。

 

 特に、詩人の心を暗くしていたのは、自分を苦しめる敵の存在もさることながら、神が自分を「永遠に」忘れておられるかのような状況に置かれており、そうでなければ神が御顔を隠して、詩人を顧みてくださらないということでした(2節)。

 

 そこで、詩人のうちに思い煩いが生じます。神の答えがない故に詩人の嘆きは去らず、一方、敵は勝ち誇るのです(3節)。このままでは、祈っても無駄、祈るのをやめようかとさえ考える危機に陥りそうです。

 

 そこで詩人は、「わたしの神、主よ、顧みてわたしに答え、わたしの目に光を与えてください」(4節)と訴えます。目の光についての言及は、サムエル記上14章27,29節、詩編19編9節、38編11節、エズラ記9章8節などにもあり、それらは、生命力を象徴しています。ここでも、「目に光を与えてください、死の眠りに就くことのないように」(4節)と祈り求めています。

 

 それはしかし、ただ寿命を延ばしてくださいということではありません。それでは、単に苦しみが長く続くだけです。詩人は、光がほしい、明るさがほしいと願っているのです。今、自分の中に光を見出すことが出来ません。闇の中にいるのです。それは、光なる神の御顔が隠されているからです。

 

 主イエスが、「体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身は明るいが、濁っていれば、全身が暗い。だからあなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう」(マタイ福音書6章22,23節)と言われました。全身の明るさが、目が澄んでいるか、濁っているかで左右されるわけです。

 

 そこでは、目が何を見ているのかということが問題になっています。目が澄んでくるものを見ているのか、それとも目を濁らせるものを見つめているのかということです。前後の文脈によれば、私たちが富を追い求めているときに目が濁り(同19節)、何よりもまず神の国と神の義を求める者は、目が澄んで全身が明るく照らされるのです(同33節)。

 

 パウロも、「わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることが出来るようにし、心の目を開いてくださるように」(エフェソ書1章17,18節)と祈っています。

 

 それに続けて、「そして、神の招きによってどのような希望が与えられているか、聖なる者たちの受け継ぐべきものがどれほど豊かな栄光に輝いているか悟らせてくださるように」(同18節)という願いを記しています。

 

 パウロは、キリストに逆らって迫害をしていたとき、彼はその栄光を見ることが出来ませんでした。心に光がなかったからです。しかし、復活されたキリストの光を受けました。主イエスの御顔に輝く神の栄光に目が開かれたのです(第二コリント書4章6節)。

 

 祈りは、冒頭の言葉(6節)の通り、信頼と希望の言葉をもって閉じられます。主への信頼は、「あなたの慈しみに依り頼みます」という告白に言い表されます。主の「慈しみ」(ヘセド)は、私たちに対する不変の愛です。希望は、主が詩人の祈りに報いてくださった故に、賛美を捧げるという約束において表明されています。

 

 ここで、「報いる」(ガーマル)という言葉は、「報酬を与える、気前よく分け与える」という意味のほかに、「乳離れする、成熟する」という意味もあります。神の恵みの豊かさと共に、苦難を通してさらに信仰から信仰へと進ませ、成熟させてくださったという喜びが表現されていると解釈することが出来ます。

 

 苦難から逃れさせてくださるというだけでなく、その苦難を通して成長させてくださる主をたたえて、すべてが神の慈しみであったと悟ることが出来るというわけです。それも、「主よ」と呼ぶことにおいて、その悩みを訴え、救いを求めて祈ることを通して、祈りが答えられる恵みに与るのです。

 

 創世記1章2節に、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」とあり、神が言葉を発せられると、そこに光をはじめとして(同3節)、そしてすべての被造物が、神の御心のままに創造されました。

 

 私たちが、苦難の闇の中で、どう祈ってよいか分からないとき、聖霊がそこに介入して(ローマ書8章26節)、三位一体なる神が、万事を益となるよう、私たちのため、私たちと共に働いてくださるのです(同28節)。

 

 私たちも慈しみ深き主に従って歩み、絶えず唇の実を主にささげたいと思います。

 

 主よ、思いがけないときに,思いがけないことで災難に見舞われることがあります。病気や事件、事故、災害など、どんなことでも、どんな時にも、絶えずあなたに目を向け、主を求めて、その恵みに与ることが出来ますように。そのために、心の耳と目をインマヌエルの主に向かって開かせてくださいますように。 アーメン

 

 

「神を知らぬ者は心に言う。『神などはない』と。人々は腐敗している。忌むべき行いをする。善を行う者はいない。」 詩編14編1節

 

 表題に「ダビデの詩」とありますが、それはダビデ自身による署名ではなく、編集者がこれをダビデの詩として収集したということです。編集者は、ダビデがいつこの詩を詠んだと考えているのでしょう。サウル王に追い回されているときでしょうか(サムエル記上18章以下)。あるいは、息子アブサロムに背かれたときでしょうか(サムエル記下15章以下)。

 

 冒頭の言葉(1節)で、「神を知らぬ者」と訳されているのは、「愚かな、無分別な」(ナーバール)という言葉で、口語訳、新改訳は、「愚かな者」と訳しています。サムエル記上25章に、頑固で行状の悪いならず者のナバルという人物が登場して来ますが、それが本名というより、その人物の言葉や振る舞いが愚かで無分別なものであるということを、その名で言い表しているわけです。

 

 ただ、ここでいう「愚かさ」とは、知能の低さや判断の鈍さなどというものではありません。「神などない」という人の中に、知能の高い人、賢い人が少なからずいるでしょう。むしろ彼らにとって、目に見えず、手で触れることもできない神に信頼するのは、愚かなことだと思えるでしょう。 

 

 箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る」という言葉があります。ですから、聖書の信仰では、何が愚かといって、神を畏れないこと、神に従わないこと以上に愚かなことはないと考えられているわけです。そこで新共同訳では、「ナーバール」を「神を知らぬ者」と意訳しているのでしょう。

 

 また、神はいると考えること、その存在を認めることが、神を知っていることにはなりません。すなわち、神を知ることとは、学問的、論理的に理解することではありません。人格的な信頼関係に入ることです。人格的な信頼関係とは、神の御言葉に耳を傾け、その導きに喜びをもって従うことです。

 

 ですから、神の存在を信じ、認めていると言いながら、神の言葉に耳を傾けようとせず、み言葉を聞いてもそれに従おうとしないのなら、それは結局、神を知らないに等しいことであり、愚かにも心の中で「神などはない」と言っているのと、何ら変わりはないということです。

 

 パウロが、大切なのは、バプテスマ(洗礼)を受けたかどうか、既にクリスチャンであるかどうかということではなく、常に愛によって信仰が働いているか、神の言葉に従い、み心を求めて歩んでいるかということだと言いました(ガラテヤ書5章6節参照)。

 

 ヨハネも、「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内に神の愛が実現しています。これによって、わたしたちが神の内にいることが分かります」(第一ヨハネ書2章4,5節と語っています)。

 

 そして、「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(同3章23節)と言います。神を知る人、神との人格的な信頼関係に生きる人は、隣人との関係を大切にします。そうしない人は、神との信頼関係にも生きていない人であり、その人は偽り者で、その内に真理はないと言っているのです。

 

 詩人は、「神などいない」という言葉に続き、「善を行う者はいない」といい、それを3節で繰り返しています。この「善」(トーブ)についても、単に道徳的に「善を行わない」と言っているのではなく、「目覚めた人、神を求める人はいないか」(2節)と探される主に応えず、神に背き去っていることを指して、善を行う者は一人もいないと言っているようです。

 

 4節の「悪を行う者」は、「主を呼び求めることをしない者」と言い換えられ、そして、「神は従う人々の群れにいます。貧しい人の計らいをおまえたちが挫折させても、主は必ず、避けどころとなってくださる」(5,6節)と言います。貧しく弱い者たちを抑圧すること、彼らが神に頼るのを愚かと笑うこと、それを「悪」として、神が彼らに報いられるというのです(5節参照)。 

 

 その時彼らは、主なる神が貧しく弱い者として、主に従い、主を避けどころとする人々と共におられることを知るでしょう。そして、主を避けどころとすることこそ、彼らの力であり、主に頼ることこそ、真の賢さであることを、畏れをもって悟るでしょう。 

 

 一方、たとい人間の企みによって苦しめられることがあっても、その営みが破壊されるようなことがあっても、主の御名を呼び求めるとき、主が避けどころとなられ、救いの道を開いてくださるのです。

 

 終わりに、「イスラエルの救いがシオンから起こるように」(7節)という祈りがささげられます。そして、目を未来へと転じて、「主がご自分の民、捕らわれ人を連れ帰られるとき、ヤコブは喜び躍り、イスラエルは喜び祝うであろう」(7節)といい、主が詩人の祈りに応えてくださること、それで救いを味わうことになると信じているようです。 

 

 イスラエルはその歴史において、繰り返し苦難を経験して来ました。エジプトの奴隷とされたことがあり(出エジプト記1章11節以下)、北イスラエルはアッシリア、南ユダはバビロンに攻め落とされて、それぞれ捕囚となりました(列王記下17,24,25章)。

 

 ペルシアによってバビロンから解放され、エルサレムの神殿と城壁を再建することはできましたが(エズラ記、ネヘミヤ記参照)、やがてギリシア、シリアによる過酷な支配のときの後、ローマの支配を受けることになります。

 

 紀元66年にエルサレムでユダヤを支配するローマ軍に対して、過激派による暴動が起こり、それをきっかけにユダヤ全土に反ローマの機運が広がり、ユダヤ戦争と呼ばれる戦いに発展しました。しかし、ローマの将軍ティトゥスによって70年にエルサレムが陥落、マサダ要塞での最後の抵抗も73年に制圧されました。

 

 その後、紀元132年にバル・コクバによって起こされた反乱も、135年にエルサレムが落ち、バル・コクバは戦死、主だった指導者たちは処刑されました。律法の書物はすべて廃棄され、ユダヤ暦も廃止、エルサレムは「アエリア・カピトリナ」、ユダヤは「シリア・パレスティナ」と改称されました。これは「ペリシテ人」から採った名前で、現代のパレスティナはこれに由来します。

 

 以来、ユダヤ人は亡国の民となりましたが、不思議な導きで1948年5月にイスラエルが再建されました。その後のイスラエルとアラブの争いを思うと、すべてを手放しで喜ぶわけにはいきませんが、しかし、悲しみを喜びに変えてくださり、憂える民に感謝の歌を与えてくださる神がおられるのです。

 

 私たちも、共におられ、心の内に宿っておられる十字架の主に信頼し、神と人に誠実な愛をもって仕える者にならせて頂きましょう。

 

 主よ、私たちは深い憐れみによって神の子とされました。恵みに慣れ、当然のことのように勘違いし、御言葉に背いて罪を犯す者とならないように、神を知らぬ者のように振舞うことがありませんように。聖霊によって、絶えず私たちの心に神の愛を注いでください。苦難に押し潰されず、主を避けどころとして、希望に生きることができますように。 アーメン

 

 

「主よ、どのような人があなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことが出来るのでしょうか。」 詩編15編1節

 

 15編は、神殿中庭に入り、礼拝に参加する条件や資格を問う歌で、明らかに祭儀の場で成立したものです。かつては聖所ごとに所定の条件があって、それに基づいて祭司が立ち入りを許可したのかも知れません。詩編が祭儀の式文として用いられたことが、このような問答形式のうちに反映しているのではないかと考えられます。

 

 ここで問題になっているエルサレムの神殿での礼拝ということは、過越祭などで訪れた大勢の巡礼が、神殿に入る条件について冒頭の言葉(1節)のとおり、「主よ、どのような人があなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」と主なる神に尋ねている様子を思い浮かべます(1節)。

 

 「あなたの幕屋」とは、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(出エジプト記25章8,9節)とお命じになって、神がイスラエルの民に造らせた移動用聖所=神の幕屋(テント)のことです。

 

 「聖なる山」については、詩編2編6節にも「聖なる山シオン」という表現が出て来ており、それは、ダビデが都を定めたエルサレムのことを指しています。そしてそこに、ダビデの子ソロモンが壮麗な神殿を建てました。つまり、「あなたの幕屋」も「聖なる山」も、主なる神を礼拝する場所を指しているわけです。

 

 ということは、どのような人が、主なる神を礼拝するのにふさわしいのでしょうかと尋ねていることになります。その問いに対して、2節以下にその問いの答えが記されています。巡礼者の問いに対して、神殿入り口に立つ祭司がその条件を答えているというかたちです。

 

 即ち、「それは、完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人。友に災いをもたらさず、親しい人を嘲らない人。主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び、悪事をしないとの誓いを守る人。金を貸しても利息を取らず、賄賂を受けて無実の人を陥れたりしない人」(2~5節)です。

 

 ここに、「完全な道を歩き」に続けて10の条件が語られています。あたかも、モーセに授けられた十戒のようです。そして、5節後半に「これらのことを守る人は、とこしえに揺らぐことがないでしょう」と結ばれています。

 

 けれども、「完全な道を歩く」とことが、以下の条件を完璧に守れということであるならば、それを文字通り実行出来る人がいるでしょうか。残念ながら、人は不完全な存在です。完全なお方は、主なる神ただお一人だけです。そしてまた、これを守りさえすれば、主なる神を礼拝する権利、主と親しく交わる資格を手に入れることが出来るというものでもないでしょう。

 

 イスラエルの民が幕屋を作り、ソロモン王が神殿を建てたのは、彼らがその権利や資格を有していたからではありません。主ご自身がイスラエルの民の内に住まおうとされたからです(出エジプト記25章8,9節、列王記上6章11~14節)。

 

 さらに言うならば、これを実行可能にするのは、礼拝を行う権利や資格を手に入れようとする人間の意志などではありません。私たちと共に住まおうとされる主の力により、霊的な導きと助けが与えられて初めて可能になるのです。つまり、完全であられる主なる神に導かれ、共に歩ませて頂くということです。

 

 今日、私たちの「体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり」(第一コリント書6章19節)、また、「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(第二コリント書6章16節)と言われています。私たちの体とは、教会のことであり、私たちがキリストの名によって集まっている集まりを指しています。

 

 礼拝や祈り会など、教会の集会の中に、また、信徒二人が心を合わせて祈ろうとしているところに、主イエスは共におられ(マタイ18章20節)、そこに聖霊が宿られるのです。私たちはまず、このことに畏れを抱かなければなりません。集会を主催しておられるのは主なる神であり、私たちは主によって集められたものであると宣言されているようなものだからです。

 

 私たちと共におられ、私たちの間に宿られる主の御顔を慕い求め、その御言葉に耳を傾けましょう。主は、被造物に過ぎない私たち人間、しかも、生まれながら神の怒りを受けなければならない罪深い存在に対して、「これらのことを守る人は、とこしえに揺らぐことがない」(5節)ようにしてくださると約束されました。

 

 これは、「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実がいつまでも残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ福音書15章16節)と主イエスが言われているのと同様のことでしょう。ここに、神の深い愛と計画が示されています。

 

 主の導きに従ってまことの礼拝をささげ、恵みを受けて出て行き、豊かな実を結ぶことが出来るように、祈りつつ励んで参りましょう。

 

 主よ、あなたの深い憐れみにより、慈愛の御顔を絶えず拝することが出来ますように。御言葉を慕い求めて朝ごとに御前に進ませて下さい。御言葉を悟る光を与えてください。御霊の力を受けて、神の愛と恵みを多くの人に証しすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。」 詩編16編8節

 

 表題に「ミクタム。ダビデの詩」とありますが、「ミクタム」の意味は不明です。70人訳は「碑文」、ルター訳は、ketem(黄金)と関係させて「黄金の宝」、その他、アッカド語のk-t-m「覆う」と関連づけて「隠れた祈り」、「贖罪のための奉納文」とするなど、色々な解釈がなされています。それは、この詩が人々に大きな影響を与えて来たというしるしでしょう。

 

 詩人は、最初に「神よ、守ってください」(1節)と言っています。詩人を悩ませ、苦しめているのは、「ほかの神の後を追う者」たちです(4節)。彼らのことを3節では、「この地の聖なる人々、わたしの愛する尊い人々」と呼んでいます。これは、祭司、レビ人という宗教指導者たちのことではないかと思われます。

 

 主に仕える祭司が、他の神の後を追うとはどうしたことでしょうか。ただ、「レビ人は、イスラエルが迷ったとき、わたしから離れて偶像に従い迷ったので、その罪を負わねばならない」(エゼキエル44章10節)という言葉もあります。理由はどうあれ、こうして祭司、レビ人らが主なる神に背き、異教の神々に仕えたことが、イスラエルの民を苦しませ、ついに国を滅ぼす結果となったのです。

 

 詩人は、「守ってください」という祈りの言葉に続いて、「あなたを避けどころとするわたしを」と、神への信頼の言葉を口にします。原文は「なぜなら、わたしはあなたに身を避けますので」(キー・ハーシーティー・バーフ)という、詩人の神への信頼を根拠として、「わたしを守ってください」(シャーメレーニー)と願った言葉遣いになっています。

 

 その信頼=信仰を、「あなたはわたしの主(アドーン)」(2節)と言い表します。それは、「わたしはあなたの僕(エベド)」と告白していることになります。この告白こそ、主なる神と相見えるに相応しいものです。

 

 出エジプト記21章1節以下に「奴隷について」の規定がありますが、そこに、生涯、主人を離れて「自由の身になる意志はない」(5節)と明言する場合の規定もあります。詩人の信頼の言は、生涯、主に仕えると喜びをもって告げるものです。主を離れて、詩人の幸いはないという言葉にも、それが表わされています。

 

 そして、その関係は5節で、「主はわたしに与えられた分、わたしの杯」と言い換えられます。イスラエル12部族の中で、レビ人は嗣業の地の分配を受けませんでした。ヨシュア記13章33節に「彼らの嗣業はイスラエルの神、主ご自身である」と記されています。レビ人は、イスラエルの神、主のために働き、主から生活の糧を受けるのです。

 

 しかるに、「この地の聖なる人々」(3節)とされている祭司、レビ人らは、「ほかの神の後を追う者」(5節)となっています。それに対しがこの詩人は、主なる神に信頼し、神から命の糧を受けており、「杯」に示されるように、神との親しい交わりに与ることを喜びとしています。

 

 どれほどに神を信頼しているのかということを、冒頭の言葉(8節)において、「わたしは絶えず神に相対しています」という言葉で言い表しています。詩人は、どんな時にも目の前に神を見ているわけです。7節に「わたしは主をたたえます」と言っていることから、詩人は、賛美を通して心の中心に主を迎え、絶えずその臨在を覚えているのです。

 

 「主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」(7節)という言葉で、常に主の励ましや諭しを必要としていることが分かります。また、自分の心に光がないことを「夜」と表現しているとも考えられます。そういう現実にあって、だからこそ神を仰ぎ、賛美によって神に心を向けるのです。そしてその都度、神の励ましや諭しを受ける恵みを味わってきたのです。

 

 詩人は、どのような環境にあっても、そこが神の用意された「麗しい地」と受け止め、「輝かしい嗣業を受けた」と信じて(6節)、神をたたえています。そのとき、「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません」(8節)と告白する恵みを味わうことが出来るわけです。ここに、信仰の醍醐味があります。

 

 ここで、「右」あるいは「右手」には、特別な意味があります。英語でも「右(right)」には、「権利、正義、正常」という意味があります。聖書では、右、右手は力の象徴です(詩編45編5節、ヨブ記40章14節など)。ですから、攻撃を受け止める側になり(詩編91編7節、ヨブ記30章12節など)、訴える者が立つ側になります(ゼカリヤ書3章1節)。

 

 また、弁護者や救助者が立つ側でもあります(詩編109編31節、121編5節など)。「主は右にいまし、わたしは揺らぐことがない」(8節)とはそのことです。

 

 そして、威厳と光栄の座でもありました(詩編45編10節、列王記上2章19節など)。御子キリストが天に引き上げられて右の座に着くとは、これを意味しています(詩編110編1節、ヘブライ書10章12節など)。

 

 神の右に、威厳と栄光をもって座に着いておられる主イエスが、私たちの右側で私たちのために執り成し、弁護し、助けて下さるから、その恵みを味わうことが出来るから、「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」(11節)と、心から主をほめたたえているわけです。

 

 日毎に主を仰いで御言葉に耳を傾け、信仰により心から主を賛美しましょう。

 

 主よ、あなたを避けどころとします。弱い私たちをお守りください。御言葉を与えてください。あなたは絶ず私たちに最善のことをしてくださいます。その慈しみはとこしえに絶えることがありません。主の御名はほむべきかな。我が国に、全世界に、キリストの平和がありますように。 アーメン

 

 

「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう。」 詩編17編15節

 

 17編は、無実の罪で責め立ててくる敵から、神の公正な裁きをもって救われることを求める、祈りの詩です。

 

 1節の「主よ、正しい訴えを聞き、わたしの叫びに耳を傾け、祈りに耳を向けてください」という祈りで始められたこの詩は、冒頭の言葉(15節)の「わたしは正しさを認められ、御顔を仰ぎ望み、目覚めるときには御姿を拝して満ち足りることができるでしょう」という信仰の表明で結ばれています。

 

 その間には、「あなたはわたしの心を調べ、夜なお尋ね、火をもってわたしを試されますが、汚れた思いは何ひとつ御覧にならないでしょう」(3~4節)と、夜中に詩人の心を試される神についての言葉があります。

 

 これは、詩人が、苦しみの中で眠れない夜を過ごしているということでしょう。というのは、「あなたに逆らう者がわたしを虐げ、貪欲な敵がわたしを包囲しています」(9節)、「わたしに攻め寄せ、わたしを包囲し、地に打ち倒そうと狙っています」(11節)とあって、詩人が敵に囲まれ、苦しめられている様子が記されているからです。

 

 表題に、「祈り、ダビデの詩」と記されていますが、敵とは、外国から攻め込んできた敵軍のことでしょうか。それとも、ダビデの命をしつこく狙っていたサウル王のような存在のことでしょうか。それとも、ダビデの失脚を狙って暗躍する者の陰謀、スキャンダルをでっち上げたり、失政を非難したりというようなことでしょうか。

 

 いずれにせよ、詩人はそれを裁判所に訴え出たり、力で対抗し、相手を押さえ込もうとしてはいません。そうではなく、御言葉に従い、主に信頼して、「わたしの口は人の習いに従うことなく、あなたの唇の言葉を守ります。暴力の道を避けて、あなたの道をたどり、一歩一歩、揺らぐことなく進みます」(4,5節)と語ります。

 

 そして、神による救いを期待して、「慈しみの御業を示してください。あなたを避けどころとする人と、立ち向かう者から右の御手をもって救ってください。瞳のようにわたしを守り、あなたの翼の陰に隠してください」(7,8節)と、祈り求めるのです。

 

 このような信仰の表明、主への信頼に基づく祈りがなされているのは、詩人が自分の苦しみを、神による試練と考えているからです。「夜なお尋ね、火をもってわたしを試されます」(3節)とは、そのことです。

 

 だから、詩人は苦しみを味わって眠れぬ夜を過ごしながら、神の前に信仰の祈りをささげるていのです。そして、夜に祈りをささげるのは、この夜がいつまでも続くわけではないこと、詩人の祈りを聞かれ、その願いに応えて喜びの朝を迎えさせてくださるお方がおられることを(30編30節後半参照)、詩人が知っているからです。

 

 私たちは、主イエスのゲッセマネでの祈りを知っています(マルコ福音書14章32節以下)。苦しみ悶えて2時間ずつ三度(同37,40,41節)、6時間にも及ぶ祈りをささげられましたが、朝には喜びに変わっていたでしょうか。

 

 主イエスはその夜捕えられ、大祭司の家で不当な死刑判決を受けました(同53節以下、64節)。さらに、処刑の許可を得るため、総督ピラトの官邸に引いて行かれます(同15章1節以下)。ピラトは、群衆の声に負けて主イエスを十字架につけることを許します(同15節)。

 

 十字架上で主イエスは、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」と叫ばれ(同34節)、やがて息を引き取られました(同37節)。十字架はそのとき、闇に包まれていました(同33節)。遺体が十字架から降ろされ、墓に葬られました(同46節)。

 

 かくて、死の闇が完全に主イエスを飲み込み、主イエスがもはや喜びの朝を迎えることはできないかのように見えました。ところが、三日目の朝早く、主イエスが葬られた墓の入り口の石が転がされ(同16章4節)、そこに主イエスの遺体はなく、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」(同6節)と告げられます。

 

 「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました」(第一コリント書15章3~6節)と、パウロが記しています。ここに、祈りの答えがありました。

 

 主イエスを信じる者は、たとい死んでも生きる、生きていて主イエスを信じる者は決して死なないと約束されています(ヨハネ福音書11章25節参照)。この復活であり、命であられる主イエスに対する信仰があるからこそ、どんなときにも、どんなことでも祈ることが出来るのです。

 

 「正しさが認められる」とは、神が私たちの罪を赦し、贖ってくださったので、主を信じる信仰によって義と認められたということで(ローマ書3章21節以下)、その意味では、むしろ神の義が行われた、神の正しい御業が行われたということです。そしてそれは、救い主なる神がおられることを本当に知るようになるということです。

 

 朝毎に、「目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることができる」という信仰の恵みに与らせていただきましょう。

 

 主よ、人々の様々な苦しみを受け止め、助けを祈り求める者の避けどころとして、御救いを表してください。「目覚めるときには御姿を拝して、満ち足りることができる」という御言葉の真実を、私たちも豊かに味わうことが出来ますように。 アーメン

 

 

「あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支える。あなたは自ら降り、わたしを強い者としてくださる。」 詩編18編36節

 

 18編は、主なる神の救いに感謝する歌です。この詩のもと歌ともいうべき詩が、サムエル記下22章にあります。表題の「主がダビデをすべての敵の手、また、サウルの手から救い出されたとき、彼はこの歌の言葉を主に述べた」(1節)という言葉も、サムエル記にほぼそのままの言葉で記されているものです。

 

 であれば、この詩は、ダビデがその晩年に自分の人生を振り返り、神への感謝として詠ったものということになります。ダビデは優れた軍人であり、指導者でしたが、竪琴の名演奏家であり(サムエル記上16章18節)、また優れた詩人でした。

 

 詩編の中に、「ダビデの詩」と言われる詩が73編あります。それは、必ずしも作者がダビデであるということではありませんが、詩編の半数近くにダビデの名が記されているのは、彼が優れた詩人である証しでしょう。

 

 ただ、「サウルの手から救い出されたとき」(1節)が何時のことを指しているのか、よく分かりません。それがサウルの死を意味しているのであれば、そのときダビデはサウルとその子ヨナタンを悼む歌を歌ってはいますが(サムエル記下1章17節以下)、当然のことながら、それは感謝の歌ではありません。

 

 ダビデの人生はまさに、「死の波がわたしを囲み、奈落の激流がわたしをおののかせ、陰府の縄がめぐり、死の網が仕掛けられている」(5,6節)というように、苦難の連続でした。若い日にはサウル王に命を狙われ(サムエル記上18章以下)、壮年期には息子に謀反を起こされ、命からがら王宮を抜け出さなければならなくなりました(サムエル記下15章以下)。

 

 その中で主を呼び求め、その都度、主が避けどころとなられ、ダビデは主の救いを受けるという恵みに与ったのです(2~4節)。だから、「主は命の神、わたしの岩をたたえよ。わたしの救いの岩なる神をあがめよ」(47節)と、生きて働きたもう神を賛美するのです。

 

 ダビデは、「わたしは主の道を守り、わたしの神に背かない。わたしは主の裁きをすべて前に置き、主の掟を遠ざけない。わたしは主に対して無垢であろうとし、罪から身を守る」(22~24節)と詠っています。

 

 これに対しては、反論したい人がいるでしょう。ダビデの勇士ウリヤ、その妻バト・シェバ、預言者ナタン、軍の長ヨアブたちが、「ダビデ王よ、あなたはそれを本気で言っているのですか」と、厳しく問うのではないでしょうか。神の御前で、それは嘘だと告発するのではないでしょうか。

 

 そうです。ダビデは神に背き、大変な罪を犯しました。ウリヤの妻バト・シェバと姦淫し(サムエル記下11章2節以下)、その罪を隠すためにウリヤをヨアブに託し、戦場で死なせました(同14節以下)。そして、バト・シェバを王宮に招き、自分の妻にしました(同27節)。

 

 これらの罪をナタンに責められたことがあります(同12章1節以下)。ダビデは、その罪を認めました(同13節)。そして、これらのことを主なる神ご自身が誰よりもよくご存知のはずです。それなのに、なぜこのように詠えるのでしょうか。

 

 一つには、おのが罪を認めたダビデに対し、預言者ナタンが「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」(同13,14節)と語っています。主が彼の罪を取り除き、罪なき者とされたのです。罪を贖うために、彼に代わって生まれたダビデの子が死にました。

 

 36節に「あなたは救いの盾をわたしに授け、右の御手で支える。あなたは、自ら降り、わたしを強い者としてくださる」とあります。ここで、「あなたは、自ら降り」を、新改訳、岩波訳は「あなたの謙遜は」と訳しています。フィリピ書2章6節以下の主イエスの謙りを思わせる訳です。

 

 また、パウロの「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント8章9節)という御言葉を思い起こします。

 

 つまり、神がダビデのすべての罪を赦し、「わたしは主に対して無垢である」と詠うことが出来るように、神自ら地上に降られたということです。そしてそれは、神の御子、主イエスが神と等しい身分を捨てて人間となられてこの地上に来られたこと、そして十字架の死によって人類の罪の贖いを成し遂げてくださったことを示しているわけです。

 

 ダビデはこの信仰を、聖霊の導きによって獲得したのでしょう。それ以外に説明する言葉を持ちません。この主イエスの贖いのゆえに、ダビデは神の御前で、清い者とされたわけです。

 

 そして、今この詩を味わっている私たちも、その恵みに与りました。それ故、右の御手で支えられ、主に強められて、「御目に対してわたしの手は清い」(25節)と詠うことが出来るのです。

 

 「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」(エフェソ書2章10節)。ハレルヤ!アーメン!

 

 主よ、御前に清い神の子とされていることを感謝します。キリストにあって善い業を行うように新しく造られたことを、常に覚えさせてくださり、悪に負けず、善を行うことが出来ますように。弱い私たちの目と心を、いつも主に向けさせてください。 アーメン

 

 

「どうか、わたしの口の言葉が御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ。」 詩編19編15節

 

 詩編19編は、その内容によって2~7節、8~15節の二つに区分されます。その内容や言葉遣い、韻律の点で、二つはかなりかけ離れているので、およそ同一の作者のものとは考えられません。

 

 第一部は、自然を通してご自身を啓示される「神(エル)」をたたえる賛美です。第二部は、律法を通してご自分の御旨を明らかにされる「主(ヤハウエ)」を賛美しています。二つの詩が一つに合わされているわけです。また、第二部は、律法をたたえる歌(8~11節)と、主の僕としての個人的な祈り(12~15節)の二つに分けられます。

 

 先ず第一部について、神は、様々な方法を用いて語りかけ、その御心をお示しになります。パウロも、「神について知りうる事柄は、彼らにも明らかです。神がそれを示されたのです。世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます」(ローマ書1章19,20節)と語っています。

 

 「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す」(2節)と記されているように、私たちが心の耳を開けば、日毎に新しく神の御旨を聞くことが出来るわけです。鳥も草も神をほめたたえ、大切な奥義を語り伝えています。それは、私たちが用いている「言葉」ではありません。しかし、その響きは全地に向けられており、ユダヤ人と異邦人の別なく、すべての人に届けられているのです。

 

 第二部のはじめに、「主の律法」、「主の定め」(8節)、「主の命令」、「主の戒め」(9節)、「主の裁き」(10節)と記されています。「主の律法」を様々な言葉で言い換えているわけです。「律法」(トーラー)は、「教え」と訳されるべきでしょう。

 

 これらの語彙は、詩編119編も見られるものですが、そこには10節の「主への畏れ」という言葉は見られないので、「畏れ」(イルア)を、音の似た「言葉」(イムラ)と読み替えるようにという提案が、BHS(ヘブライ語聖書・シュツットガルト版)の脚注にありました(119編11,38節参照)。

 

 主の律法が「完全」であるのは(8節)、それがまさに主の教え、主の言葉だからです。主の御声には力があり(29編3節以下)、御言葉によってすべてのものは造られました(創世記1章3節以下)。

 

 そのことをヨハネが、「万物は言(ことば)によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものはなかった」(ヨハネ福音書1章3節)と言っています。ここに語られている「言」とは、主イエスのことです(コロサイ書1章15,16節も参照)。

 

 同14節に「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と記されていることから、それが分ります。

 

 「言」の原語は「ロゴス」です。黙示録19章13節でも、主イエスのことを「神の言葉(ロゴス)」と呼んでいます。一方、マルコ福音書2章2節などにある主イエスの「御言葉(ホ・ロゴス:the word )」とは、キリストの語られた神の国の福音を意味しています(使徒言行録8章4節の「福音」は「ロゴス」、同14章25節、コロサイ書4章3節参照)。

 

 こう見てくると、詩人が賛美しているのは、実は、主イエスのことと言ってもよいでしょう。確かに、「主の律法」、「主の定め」などのところに主イエスの名を入れて読んでも、違和感なく読むことが出来ます。

 

 考えてみれば、主イエスの誕生は、星の輝きによって東方の占星術の学者たちに知らされ(マタイ福音書2章1節以下)、夜空に天使が現れて、羊飼いたちに告げ知らせました(ルカ福音書2章8節以下)。星の声にならない声を聴くことが出来たのは(4節)、異邦人の学者たちだけだったようです。

 

 また、羊飼いたちは見聞きしたことを人々に告げ知らせましたが(ルカ2章17節)、それを聞いた人々は皆、その話を不思議に思っただけでした(同18節)。つまり、羊飼いたちの言葉を、神の教え、神の言葉として聞くことが出来なかったわけです。

 

 そして、何よりも肉体をとってこの世に来られた神の言葉である主イエスを、人々は喜び迎えることが出来ませんでした(ヨハネ福音書1章5,11節)。それどころか、主イエスを十字架につけて殺してしまったのです(同19章16節以下、30節)。

 

 しかるに神は、御子を贖いの供え物として私たち人類の一切の罪をその身に負わせ(ヘブライ書9章23節以下、26,27節)、その死により、私たちは罪赦され、神のものとされたのです(第一コリント書8章29,30節)。

 

 詩人は、冒頭の言葉(15節)で「主よ、わたしの岩、わたしの贖い主よ」と神を呼んでいます。ということは、8節以下で語られた主の御言葉は、詩人を罪の呪いから贖い出すものだったわけです。

 

 だからこそ、「魂を生き返らせ」(8節)、「心に喜びを与え」(9節)ました。まさに御言葉は、「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い」(11節)ものでした。

 

 私たちも、贖い主なるキリストと新しい契約を結び、主イエスを私たちの心にお迎えしました(黙示録3章20節)。食事を共にする親しい交わりが始まったのです。

 

 主よ、どうか、私たちの口の言葉があなたの御旨にかない、心の思いが御前に置かれますように。私たちの耳があなたの御言葉に向かって開き、深い御旨を悟らせてくださいますように。私たちを奢りから引き離し、支配されないようにしてください。主イエスの尊い血潮によって清められ、日々主に従って歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「今、わたしは知った、主は油注がれた方に勝利を授け、聖なる天から彼に答えて、右の御手による救いの力を示されることを。」 詩編20編7節

 

 20編は、その表題に「ダビデの詩」と記されていますが(1節)、この詩は、戦いに赴く王のために戦勝を願う祈祷文であると見なされています。その意味では、「ダビデ王のための詩」、そしてまた、ダビデ王朝に連なる王たちのための詩といった方がよいでしょう。

 

 「苦難の日」(1節)とは、一週間、または一ヶ月のうちに一日、苦しみに遭う日があるということではありません。イスラエルが苦難に遭うときはいつでも、瞬間瞬間ということです。イスラエルの王が主なる神の御名を呼ぶならば、主がその祈りに応えて、聖所から助けを遣わし、王を支えてくださるのです。

 

 冒頭の言葉(7節)で「油注がれた方」というのは、一般に王や祭司を指していますが、この詩ではダビデ王のことを指すことになります。詩人は、主がダビデの祈りに応え(2節以下)、勝利を与えてくださるようにと祈ります(10節)。それは、主が私たちの真の救い主であり、ダビデ王をはじめ、イスラエルの民も皆、主の助けを必要としているからです。

 

 8節で「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」と言います。その国の軍事力は、戦車と馬、兵士をどれだけ持っているかで計られます。戦車や馬は、当時の最も有力な軍備でした。今日でいえば、核を搭載できる大陸間弾道ミサイルにあたるものと言ってもよいでしょう。

 

 ダビデ時代、イスラエルは戦車を持ってなかったと考えられています。であれば、戦車を誇り、馬を誇る敵の存在は、イスラエルにとって大きな脅威だったのです。そのような敵の脅威に対して、どのように立ち向かうか、絶えず問われたのです。

 

 ダビデが軍の司令官ヨアブに人口調査を行わせたとき(歴代誌上21章1節以下)、主なる神はダビデに対して憤りを示されました(同7節)。それは、「剣を取りうる男子」(同5節)、即ち、兵の数を数えるものだったからです。そのとき、イスラエルには110万、ユダには47万の兵があると報告されています(同5節)。

 

 ダビデが兵を数えたのは、国を守るために兵馬の数に頼っている証拠、相当の数をもっていることを確認して安心しようとする心の表われでしょう。あるいはそれによって、自分の政治的手腕を自慢しようという思いも隠れていたのかも知れません。いずれにせよ、それは、神に背く行為と見なされたのです。

 

 ダビデの子ソロモンは、「戦車千四百、騎兵一万二千を保有」していたと、列王記上10章26節に記されています。兵馬を増やすことで軍事力を増強しようとするのは、エジプトやアッシリアなど南北の強国に挟まれているイスラエルの王として、当然の行動と考えたのでしょう。

 

 ところが、申命記17章14節以下の「王に関する規定」を見ますと、そこに「王は馬を増やしてはならない」(同16節)と定められています。即ち、主なる神が王に求めておられるのは、軍事力などに頼らず、主への信仰を堅く保ち、主の掟を忠実に守ることなのです。

 

 弱小国がいかに軍事力を増強しても、強国には対抗できません。だから、「戦車を誇る者もあり、馬を誇る者もあるが、我らは、我らの神、主の御名を唱える」(8節)と詩人はその信仰を表明しているのです。そして、「彼らは力を失って倒れるが、我らは力に満ちて立ち上がる」(9節)という結果に至ると歌います。

 

 イスラエルがアッシリアに蹂躙されたとき、指導者たちは南の大国エジプトに頼り、その馬や戦車、騎兵に助けを求めようとしました(列王記下18章21,23,24節)。そのことに対して、預言者イザヤが告げた言葉が、イザヤ書31章1節以下に記されています。

 

 イザヤは「災いだ、助けを求めてエジプトに下り、馬を支えとする者は。彼らは戦車の数が多く、騎兵の数がおびただしいことを頼りとし、イスラエルの聖なる方を仰がず、主を求めようとしない」(同1節)といって、アッシリアの脅威よりも、主を求めようとしないことを警告しています。

 

 また、「エジプト人は人であって、神ではない。その馬は肉なるものに過ぎず、霊ではない」(同3節)といって、「人」であるエジプト人と「神」、「肉」なる馬と「霊」を対比し、有限の存在と永遠無限のお方が並び立つことはできない、全知全能の創造者に打ち勝つものなどないと、イザヤは告げるのです。

 

 主イエスは、ダビデの子孫として、ベツレヘムにお生まれになりました(ヨハネ福音書7章42節、ローマ書1章3節)。主イエスこそ、真のメシアです(マタイ福音書16章16節)。キリストとは「メシア」のギリシア語訳で、「油注がれた方」(7節)という意味です。

 

 主イエスは私たちを罪と死の呪いから救い出すため、ご自分の命を贖いの供え物として、十字架の上で死なれました。そして、三日目に死の力を打ち破って甦られ、それから40日後に天に昇られ(使徒言行録1章3,9節)、神の右の座に着かれたのです(ローマ書8章34節など)。

 

 そして、神は主イエスを信じる私たちをキリストに固く結びつけ、私たちにも油を注いでくださいました(第二コリント書1章21節)。それは、私たちが神の子とされたことの保証として、聖霊が与えられたということです(同22節、第一ヨハネ書2章20,27節、ローマ書8章16節など)。

 

 そして私たちは、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」(第一ペトロ書2章9節)とされました。それは、一方的に与えられた神の恵みです。「かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている」(同10節)と言われているとおりです。

 

 ですから、「主は油注がれた方(私たち)に勝利を授け、聖なる天から彼(私たち)に答えて右の御手による救いの力を示される」と、絶えず私たちの主に信頼し、御名をほめ歌うことが出来るのです。

 

 それは、私たちを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった主イエスの力ある業を(第一ペトロ書2章9節)、私たちが広く全世界に宣べ伝えるためなのです(使徒言行録1章8節)。

 

 私たちに勝利を授け、祈りに応えて救いの力を示される恵みの主に信頼し、絶えず主の御名をたたえる賛美をささげましょう。

 

 主よ、み名が崇められますように。み国が来ますように。み心が行われますように。そのために、私たちを聖霊で満たし、み業のために用いられる器となりますように。日々み言葉に耳を傾け、その導きに与らせてください。その恵みに感謝し、絶えず主のみ名をほめたたえる唇の実、賛美のいけにえをみ前にささげます。 アーメン

 

 

「彼を迎えて豊かな祝福を与え、黄金の冠をその頭におかれた。」 詩編21編4節

 

 冒頭の言葉(4節)は、王の戴冠式の描写のようですが、王として即位したときのものでしょうか(サムエル記下2章4節、5章3節)、それとも、外国との戦いに勝利した栄冠でしょうか(同12章30節)。

 

 2節、6節の「御救い」は「あなた(神)の救い」(ヨシューアテハー)という言葉遣いで、王に与えられる神の十全な救いを意味します。そして2節の「喜び祝う」、「喜び躍る」、6節の「賜る」という動詞がいずれも未完了形であることから、戦勝祝いの栄冠と言うより、王の即位を喜び、神の祝福を祈る儀式において、繰り返し歌われたものと考えてよいでしょう。

 

 表題に「ダビデの詩」と記されていますが(1節)、ダビデは王になる前、サウル王に命を狙われて逃亡生活を送りました(サムエル記上19章以下)。それは、ダビデの武勲をサウルが妬み、さらに自分の王位を狙っているのではないかという被害妄想的な思いを抱いていたからです(同18章8,9節、20章31節など参照)。

 

 黄金の冠を戴いたダビデは、かつて、羊の番をしている少年でした。彼は8人兄弟の末っ子です。サウルを見限った預言者サムエルが、次の王を選ぶために神に促されてダビデの父エッサイの家にやって来ました(同16章1節以下)。そこで選ばれたのがダビデでした。

 

 サムエルがエッサイの長男エリアブを見たとき、王にふさわしいのは、この若者だと思いました(同6節)。しかし神は、姿に目を奪われるなと言われました(同7節)。7人の兄たちがすべて調べられた後、末っ子のダビデが羊の野から呼び戻されました。そして、この少年ダビデが、王となる油注ぎを受けたのです(同12,13節)。

 

 けれども、それですぐに王になれたわけではありません。父に仕え、羊を飼う生活が続きます。やがて、主から来る悪霊にさいなまれるサウルのために竪琴を奏でました(同14節以下)。ダビデは、人類史上最初の音楽療法士と言われます。サウルはダビデを気に入り、武器を持つ者に取りたてました(同21節)。

 

 また、ペリシテの戦士ゴリアトを倒して(同17章)、サウルに兵士として召し抱えられます(同18章2節)。そしてダビデは出陣するたびに勝利を収めたので、戦士の長に任命され(同5節)、すべての兵士たちやサウルの家臣にも喜ばれました。

 

 勝利を収めて帰還したサウル王は、迎えに出た女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(7節)と歌うのを聞いて激怒し(同8節)、ダビデを妬みの目で見るようになります(同9節)。以後、悪霊に取り憑かれた状態になり(同10節)、ダビデの命を狙い始めます(同11節)。ダビデは、大変な試練のときを過ごさなければならなくなるわけです。

 

 このことは、今日の私たちにも当てはまります。パウロが、「わたしは戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。いまや、義の栄冠を受けるばかりです。かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(第二テモテ書4章7,8節)と言っています。

 

 私たちも、聖霊をとおして神の子となるしるしの油注ぎを受けました(第二コリント書1章21節)。そうして、やがて義の栄冠を授けられる希望の日がやってくるのです。その日まで、この地上にあって、各自、その分に応じ、賜物に応じ、能力に応じて、主のためによき戦いをしなければなりません。

 

 黙示録3章21節にも、「勝利を得る者を、わたしは自分の座に共に座らせよう。わたしが勝利を得て、わたしの父と共にその玉座に着いたのと同じように」と記されています。王の王、主の主なる御子イエス・キリストが座しておられる玉座に共に座るということは、義の栄冠を授けられるというのと同じことでしょう。

 

 その戦いについて、エフェソ書6章12節に「わたしたちの戦いは、血肉に相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と記されています。

 

 そして、「邪悪な日によく抵抗し、すべてを成し遂げて、しっかりと立つことが出来るように、神の武具を身に着けなさい」(同13節)と命じ、「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい」(同14,15節)と、身に着ける武具を説明します。

 

 さらに、「信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、即ち神の言葉を取りなさい」(同16,17節)と続けます。

 

 つまり、神の武具とは人を傷つけるものではなく、人を生かす力、霊的な守りを与えるものなのです。具体的には、「どのようなときにも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(同18節)というとおり、聖霊の導きによって祈り、願い求めることだと教えています。

 

 私たちは、イエス・キリストの命という尊い代価を払って神に買い取られたものです(第一コリント6章20節)。それは、私たちが主なる神に授けられた使命を全うしてが神の栄光を現すためです。

 

 そのことについて、黙示録4章4節に、白い衣を着て、頭に金の冠をかぶった24人の長老が登場します。彼らは玉座におられる主イエスを礼拝し、冠を玉座の前に投げ出して(同10節)、「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(同11節)と賛美しました。

 

 主イエスによって贖われた私たちの体で神の栄光を現すために、絶えず主のみ言葉に耳を傾け、主のみ心を行う知恵と力を祈り求めましょう。求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれると約束されています(ルカ11章9,10節)。ハレルヤ!

 

 主よ、私たちに信仰の勝利を与えてください。私たちは主に依り頼みますから、その慈しみに支えられて、決して揺らぐことがないでしょう。神の武具を身に着けて、すべてを成し遂げ、主にあってしっかりと立つことが出来ますように。聖霊の助けを受けて、主を求め続けさせてください。 アーメン

 

 

「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方。」 詩編22編4節

 

 22編は、キリスト者にとって重要な詩です。それは、主イエスが2節の「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」という言葉を、十字架の上で叫ばれたからです(マルコ15章34節)。

 

 また、8,9節の「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い、唇を突き出し、頭を振る。『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら、助けてくださるだろう』」という言葉は、十字架につけられた主イエスを嘲る人々を描写しています(マルコ15章29~32節)。

 

 17節の「犬どもがわたしを取り囲み、さいなむ者が群がってわたしを囲み、獅子のようにわたしの手足を砕く」は、主イエスが十字架につけられる際に、手足を釘で刺し貫かれたこと、脇腹が槍で突かれたことを語っているようです(ヨハネ19章34節、20章20,25節参照)。

 

 そして19節の「わたしの着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く」は、主イエスを十字架につけたローマの兵士たちがくじで主イエスの衣服を分け合ったことと合致しています(マルコ15章24節)。

 

 そのように、キリスト者にとって主イエスの最期を描写しているものとしてよく知られ、受難預言として読まれるこの詩ですが、そのような解釈を一端離れて、詩の言葉に静かに耳を傾けてみましょう。

 

 冒頭の言葉(4節)について、原文の「ヴェ・アッター・カードーシュ・ヨーシェーブ・テヒロート・イスラエール」を直訳すれば「しかし、あなたこそ聖、イスラエルの賛美(複数)に座す方」となります。新共同訳の「だがあなたは、聖所にいまし、イスラエルの賛美を受ける方」はかなりの意訳です。

 

 口語訳は「しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる、あなたは聖なるおかたです」、新改訳は「けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」、岩波訳は「しかし、あなたは、聖なる方、イスラエルの諸々の讃歌に座する方」と訳しています。

 

 「いまし」と訳された言葉は、「座す、住む、留まる」(ヤーシャブ)という意味の言葉です。「ヨーシェーブ」は現在完了分詞なので、「住まいとされる方」、「座する方」という訳語にもなるわけです。

 

 主なる神がイスラエルの賛美の上に座しておられる、賛美を住まいとされるという表現は、この箇所以外には出て来ません。岩波訳の脚注にも、「讃歌を歌うイスラエルの会衆の上に臨む神(申10:21参照)の意か。ヤハウェは『ケルブたちに座する』(80:2、99:1)のが普通で、『讃歌に座する』という表現はここだけ」とあります。

 

 讃歌を歌う会衆の上に神が臨まれるという考え方が妥当であるならば、神のおられる聖所に向けて讃歌がささげられると考えることも出来ますから、新共同訳のような解釈も生まれて来るわけです。

 

 聖所は、神を礼拝する場所です。そして、苦しみの中にいる民が避難してくる場所です。この詩人は、いま、神から捨てられたように感じて、絶望の淵にいます(1~3節)。それは、詩人がどのように呻き、呼び求めても、神が答えてくださらないからです。それでも、神を呼ばずにはおれません、叫ばずにはおれません。

 

 詩人にとって、神は聖なるお方、あらゆるものから区別されているお方です。だれも神聖を冒すことは出来ません。神の聖さの前ではすべてのものが沈黙するのです。しかし、この聖なるお方は、イスラエルと特別な関係を持たれます。

 

 かつて、イスラエルの民がエジプトで奴隷となっていたとき、彼らの呻きを聞かれました。そこで、モーセを立て、イスラエルの民を救われました。彼らに、歓喜の歌をお与えになりました。

 

 出エジプト記15章2節に「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」とあります。「(主は)わたしの歌」というのは、主がわたしに歌を与えてくださったということです。神が「葦の海の奇跡」(同14章)を通してイスラエルの民を救い出されたからです。

 

 この民と共におられ、民の内に住まうために、主なる神は「聖なる所」として幕屋を造らせました(同25章など)。イスラエルの民はその幕屋で主とお会いし、祈りをささげてきました。神は絶えずその祈りを聞き、彼らの信仰に応えてくださいました。

 

 詩人は、先祖のエジプトの奴隷の苦しみに自分を重ね、そして、先祖を救ってくださった神、先祖の祈りに答えてくださった神を思っているのです(5,6節)。そこで、7節以下に自分の苦境を訴え(13~19節)、祈りに答えて救い出してくださるように求めます(20~22節)。

 

 そしてついに、「わたしは兄弟たちに御名を語り伝え、集会の中であなたを賛美します」(23節)と歌い始めます。嘆きの祈りが喜びの賛美に変えられたのです。ここに、詩人の信仰経験があります。神の恵みに触れたのです。

 

 パウロが、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(第一テサロニケ書5章16~18節)と語っています。パウロの人生は、苦難の連続でした(第二コリント書11章23節以下)。その彼が、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝していたのです。だから、他の人々にもそうするように教えているわけです。

 

 そうするのは、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」(第一テサロニケ5章18節)だからです。つまり、私たちがいつも喜び、たえず祈り、どんなことも感謝するとき、神はその喜びの歌、感謝の賛美を住まいとされるのです(4節)。

 

 私たちもこの詩人に倣い、主イエスを通して賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を、絶えず主にささげましょう(ヘブライ書13章15節)。主は万事を益とされます(ローマ書8章28節)。どんなマイナスも、プラスになるのです。

 

 「主を畏れる人々よ、主を賛美せよ。ヤコブの子孫は皆、主に栄光を帰せよ。イスラエルの子孫は皆、主を畏れよ」(24節)。

 

 主よ、御名を崇め、感謝と賛美をささげます。絶えずあなたに目を留め、あなたにのみ信頼を置き、その御言葉に聴き従う者とならせてください。地の果てまで、すべての人が主を認め、御許に立ち帰り、国々の民が御前にひれ伏しますように。 アーメン

 

 

「死の影の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」 詩編23編4節

 

 23編は、聖書の中で最も愛誦されてきた詩であり、私たちを慰めや励ましを与え、力づけるもののひとつです。この詩には、羊飼いが羊の群れを、どこまでも続く広い草原や、こんこんと湧き出る泉のほとりに伴っているといった、大変美しく安らぎを与える平和な情景が描かれています(2節)。

 

 けれども、雨の少ないパレスティナでそのような光景を目にするのは困難です。特に、ダビデ家の属するユダ部族に与えられたイスラエル南部の嗣業の地には、農耕に適さない、荒涼とした石ころ砂漠が広がっています。

 

 そのような厳しい自然環境の中で羊の群れを養い育てていくためには、羊の餌場、水飲み場を求めて絶えず移動せざるを得ません。そのためには、遊牧の経験豊富な羊飼いの存在が不可欠なのです。

 

 1節に「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と言われています。これは、神が羊飼いで、私たちが羊という関係を示しており、そして、「わたしには何も欠けることがない」ということは、主は優れた羊飼いであると言っているわけです。このように神を羊飼いと表現している箇所は、イザヤ書40章11節、エレミヤ書31章10節、エゼキエル書34章11節以下などにあります。

 

 表題に、「賛歌、ダビデの詩」と記されています。ダビデは少年時代、羊飼いをしていました(サムエル記上16章参照)。そこから神に選ばれて、イスラエルの王となりました。

 

 詩編78編70,71節に「僕ダビデを選び、羊のおりから彼を取り、乳を飲ませている羊の後ろから取って、ご自分の民ヤコブを、ご自分の嗣業イスラエルを養う者とされた」とあります。これは、神がダビデを羊を飼う者からイスラエルの民を養う者にされたという表現です。

 

 イスラエルの王は、神に代わってその民を養うように選ばれた羊飼いであるとも言われるのです。神に民を養う羊飼いとして選ばれたダビデが、神を羊飼いと呼んで感謝をささげているというところに、この詩の面白さがあります。

 

 ダビデがこの詩を作ったのは、羊飼いをしていた少年時代のことではありません。神への揺るぎない信頼に基づく心の静けさが、詩全体に溢れていますが、それは、何の苦労も煩いも知らなそうな子どものものではないのです。

 

 そうではなく、辛い経験と苦闘を通して(4,5節)、静かな夕べの憩いを見出し(6節)、様々な危険に脅かされているにも拘わらず、神との交わりの内に力を得ている(2,6節)、円熟した心の所産と見るべきです。

 

 この詩が、ダビデが晩年にいたり、息子アブサロムに命を狙われて都落ちしたとき(サムエル記下15章以下)の作ではないかと言われるは、そのためです。「死の影の谷」(4節)とか、「わたしを苦しめる者」(5節)という言葉で、敵に追われて死の淵を歩んでいるという様子が思い浮かぶからです。

 

 この想定が正しいのかどうかは不明ですが、ダビデにとって、息子に謀反を起こされたのは、どんなに辛い経験だったことでしょう。しかし、神はダビデを顧みて絶体絶命のピンチから救われ、再び王宮に戻し、王座に着くことが出来るようにされました。そこに神の憐れみがあります。

 

 このような経験を背景として、どんな時にも神が自分の羊飼いとして共におられ(1,4節)、食卓の交わりを通して慰められ、力づけられる(5節)信仰の喜びを歌い上げているのです。

 

 確かに、ダビデの目の前にあった現実は、「死の影の谷」と評した、荒涼とした石ころ砂漠かもしれません。瞬間瞬間、命が脅かされる状況が広がっている場所です。それでも、主なる神が私と共にいてくださるという確信により、彼の心のうちには、青草の原が広がり、命の水の湧き出る泉があったのです。

 

 ダビデの子孫として生まれ(マタイ福音書1章1節、ローマ書1章3節など)、「わたしは善い羊飼いである」(ヨハネ福音書10章11節)と語られた主イエスは、私たちの罪の贖いのために十字架にかかられ、そして三日目に死の力を打ち破って甦られました(第一コリント書15章3,4節)。

 

 主イエスは今も生きて、私たちの主、私たちの神として、私たちと共にいてくださいます(マタイ28章20節)。そして、私たちのためにあらゆる恵みを備えてくださるのです。主を信じ、主の導きに従って、祈りつつ、賛美しつつ歩ませていただきましょう。

 

主よ、あなたは、どのようなときにも私たちの希望の源です。信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださいますように。 アーメン

 

 

「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた。」 詩編24編2節

 

 24編は、栄光に輝く王たる主の権威を称えています。

 

 1節に「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」とあります。原文では、最初に「主のもの」(ラ・ヤハウェ)と記されています。主なる神が天地の創造者であるがゆえに、天地万物の所有者であり、そこに住むすべてのものの支配者であることを表しています。

 

 そして、その次に大変興味深い表現が出て来ます。それは冒頭の「主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」(2節)という言葉です。

 

 「潮の流れ」は、「川」(ナハル)という言葉で、絶えず流れて定まらない混沌の表象と、注解書に記されていました。岩波訳の脚注にも、「ここの『海』、『潮』(エゼ31:4,15、ハバ3:9-10)は、地の下にあるとされた(出20:4)『淵』を暗示する」とありました。

 

 旧約聖書には、神が大空の上と下に水を二分され(創世記1章6節以下)、そして、大地を水の上に広げた(詩編136編6節)と記されています。それはまるで、大陸が海の上に浮かんでいる浮島のようなものと考えているかのようです。当時の人々は、海と陸など、地球のことをそのように理解していたのかもしれません。

 

 ただ、現代科学では、海と陸ではありませんが、マントルの上を地殻が覆っていると考えられています。ちょうど卵の白身にあたる部分がマントルで、卵の殻が地殻です。因みに、黄身にあたるところは核(コア)と言います。地球の表面を覆う厚さ100㎞の地殻は、幾つかの板(プレート)に別れています。

 

 そして、マントルが熱によって対流すると、それによってその上のプレートが動かされているのです。つまり、大陸といえども不動ではないし、地球は冷たく大きな岩の塊というわけではないのです。私たちの住む日本は、プレートの端っこで、プレートとプレートがぶつかり合う位置にあると考えられています。そのぶつかり合いで地震などが発生します。

 

 あらためて、「大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」というのは、私たちの人生を描写しているようです。自分はしっかりと人生設計をしたつもり、それに従って地歩を固めて来たつもりでも、それが一夜にして崩れることがあります。

 

 一流と言われる学校で学び、一流と言われる企業に就職して安定した生活を手に入れたはずだったのに、この不況下でリストラされ、あるいは倒産の憂き目を見た方々があります。突然の病や事故で、人生設計を狂わされてしまった人々がおられます。

 

 減少傾向にあるものの、1997年以降、毎日65人以上の人が自殺されるという異常事態が続いています。若者は勿論、中高年の自殺も大変な問題です。経済の問題、社会の問題、健康の問題、家庭の問題、人間関係の問題など、問題をあげればきりがありません。どんなに丈夫な家を建てても、大地そのものが揺り動かされれば、私たちの人生はそれによって大きく揺れ動くわけです。

 

 そのとき、私たちは大地を拠り所とするのではなく、目に見えるものの大きさやかたち、数の多さなどに信頼するのではなく、大海の上に大地の基を据えられた方、潮の流れの上に世界を築かれた主を信頼することが出来れば、それはどんなに心強いことでしょうか。私たちには波風を静める力はなくても、私たちと共におられる主イエスがその力を持っておられます(マルコ福音書4章35節以下)。

 

 3節以下に、創造主を礼拝する会衆について記しています。それは、他者に悪事を働かない潔白な手を持ち、隣人に対して誠実に相対する人、空しいものに魂を奪われず、ひたすら忠実に主に仕える清い心を持つ人です(4節)。その人は、主を求め、神の御顔を尋ね求めます(6節)。

 

 そのように主を仰ぐ者を祝福され、救いの神を慕い求める者に恵みをお与えになります(5節)。ここで、「恵み」と訳されているのは、「義、正義」(ツェダーカー)という言葉です。「祝福」(ベラーカー)という言葉と韻を踏んだ言葉遣いです。「義」は、神との関係を回復し、正しくする神の賜物です。だから、意味を汲んで「恵み」と訳したのでしょう。

 

 7,9節に、「栄光に輝く王が来られる」といい、8,10節に、「栄光に輝く王とは誰か」、告知します。それは、雄々しく戦われる万軍の主です。栄光に輝く王は、ご自分を求め、礼拝する民に、勝利者として臨まれます。天地万物の創造者にして支配者であられる主なる神は、ご自分の名をもって呼ばれる都、そこに建立された神殿に、勝利者としておいでになります。

 

 私たちをご自分のかたちに創造し、この世界に住まわせられた主の御顔を絶えず尋ね求め、私たちに恵みをお与えくださる救いの神の御言葉に日毎に耳を傾けましょう。

 

 天のお父様、今日も私たちに必要な糧をお与えください。私たちはあなたの口から出る一つ一つの言葉によって生かされているのです。主によって造られたすべての人々に、恵みと平和が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「主よ、あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください。」 詩編25編4節

 

 この詩には、アルファベットによる詩という注がついています(9,10編参照)。各節の最初の文字がアルファベットの文字順にならんでいるわけです。それは、詩の言葉を覚えやすくするという一つの技巧ですが、そこに、あらゆる言葉を尽くし、技巧を凝らして主に祈り、また賛美するという信仰の姿勢を見ることが出来ます。

 

 1節に「主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み」とあります。「仰ぎ望み」とは、「高く上げる」(ナーサー)という言葉で、手を天に向かって高く上げるのは、神に祈りをささげる仕草です(28編2節、141編2節)。

 

 「魂を高く上げる」とは、全身全霊をもって神に祈るということであり、おのがすべて、命をも神に委ねるという、神への信頼を言い表すものです(哀歌3章41節も参照)。それで、「仰ぎ望む」という訳語になっているわけです。24編4節の「魂を奪われることなく」も、「魂を上げることなく」という言葉遣いでした。

 

 その信頼は、2節の「神よ、あなたに依り頼みます」や、20節の「御もとに身を寄せます」、3,5,21節の「あなたに望みを置く」などの言葉にも示されています。そしてそれは、詩人の個人的な貧しさや孤独(16節)、悩み、痛み(17節)、労苦、罪(18節)からの解放、救いを求めて神に祈る根拠となっています。

 

 22節では「イスラエルをすべての苦難から贖ってください」と、神のすべての民のための祈りの言葉でこの詩が閉じられています。詩人の苦難がイスラエルの苦難に連なるものであること、私たちも神の民として、この詩の祈りに合わせて、自分自身の苦難からの救いを求めて祈るよう教えられます。

 

 この詩を読んで目につくのは、「道」という言葉です。そのうち、4節の「(従う)道」と10節の「(主の)道」は「小道」(オーラハ)という言葉、残りは、「道、大路」(デレク)という言葉です。また、「道」(デレク)から派生した「導く」(ダーラク)という動詞が、5,9節に用いられています。

 

 冒頭の言葉(4節)の中で、二つの「道」という言葉が使われているのは、詩の技巧によるものでしょう。口語訳は「あなたの大路をわたしに知らせ、あなたの道をわたしに教えてください」と訳し、新改訳は「あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えて下さい」と訳しています。リビングバイブルでは「進むべき道」、「歩むべき小道」となっていました。

 

 道は往来する場所、目的地に向かって通過するところですが、そこに、「従う」とか、「進むべき」、「歩むべき」という形容詞がつくと、私たちが生きている上での規範というような、道そのものが意味のあるものになります。

 

 「あなたの道をわたしに示し、あなたに従う道を教えてください」という願いに、苦難を乗り越えて生きるべき道を教えてほしいという思いと、神に従い、神と共に歩む道を示してほしいという思いを見ることが出来ます。

 

 詩人は、神の憐れみ、助けと導きがなければ生きることは出来ず、そして神に従うことも出来ないと考えているわけです。だから、「あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください。あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています」(5節)というのです。

 

 主イエスは、「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)と言われました。ここで主イエスが言われた「道」とは、父なる神のもとに行くための道路という意味ですが、「真理、命」と並べられて、生き方、生きる姿勢を示すものとなっています。

 

 つまり、主イエスという「道」を通って神との交わりに導かれ、そこから真理を得、「永遠の命」といわれる主ご自身の豊かな命に与らせていただくことが出来るのです。詩人も、「あなたのまこと(エメト)にわたしを導いてください」(5節)と願い、「主の道はすべて、慈しみ(ヘセド)とまこと(エメト)」(10節)と語っています。

 

 私たちは神に愛され、選ばれてこの道を歩む者としていただきました。主は、「わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ福音書15章16節)と仰せくださっています。主の道を歩むとは、主イエスと共に歩むということです。主イエスとの親しい交わりに導かれます。み言葉を聴くことが出来ます。

 

 そして、この道は十字架に向かいます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ福音書9章23節)と言われるとおりです。これは、大変な覚悟を伴う言葉でしょう。道楽や片手間で出来ることではありません。

 

 私たちは主イエスに招かれて、この道を歩み始めました。そして、主イエスがいつも共にいて、必要な助け、知恵と力を授けてくださいます。ゆえに、嫌々ながらではなく、感謝と喜びをもって歩むことが出来ます。

 

 私たちを愛し、恵みをお与えくださる主を信じ、日々その御言葉に耳を傾け、真理の道、命の道をまっすぐに歩むことができるよう、絶えず御霊の導きを祈りましょう。

 

 主よ、私たちを交わりに招いてくださり、感謝します。あなたの御声を聴き、御旨に従って歩むことが出来ますように。主の御名にふさわしく、いつも正しい道に導いてください。賛美しながら主イエスという門から入り、感謝して主を礼拝する者としてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところをわたしは慕います。」 詩編26編8節

 

 1,11節に、「わたしは完全な道を歩く」という表現が出て来ます。ここで語られている「完全な道」(トーム)という言葉には、完全無欠 integrity という意味もありますが、無実とか十分、一杯とも訳されます。口語訳、新改訳は「誠実に」、岩波訳は「けがれなく」としています。

 

 2節以下、主に従って歩んで来たことを確認してほしいと主に願い、6節で「わたしは手を洗って潔白を示し」と、自分の無実を神が証明してくださることを求めています。詩人は、不当な裁判で苦しめられているのかも知れません。だから、1節冒頭に「主よ、あなたの裁きを望みます」と訴えているのでしょう。

 

 また、「完全な」を「十分 fullness 」、つまり、神の恵みが満たされている状態と捉えて読み替えれば、わたしは神の恵み充満の道を歩くという言葉になります。それは、神が詩人の心と思いを完全に満たしていることを表しています。わたしは神の恵みに満たされて歩くといってもよいでしょう。

 

 パウロが、「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」(ローマ書15章13節)と、祝福の祈りを記しています。

 

 また、「あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(エフェソ書3章18,19節)と、祈りの言葉を記しています。

 

 いずれも、神の恵みによってそのうちが満たされるように、さらには神ご自身で満ちあふれさせてくださるようにと祈り求めていますが、ここに、私たちの信仰の目標が示されます。

 

 そして、心と思いが恵みに満たされているということは、神様に自分の心と思いを明け渡したということです。それは、自分の弱さ、欠点も包まず明らかにして、ありのまま神にささげたということです。

 

 であれば、「わたしは完全な道を歩く」という言葉は、完全無欠な人間として生きるというようなことではありません。そうではなく、詩人が自分自身を主なる神に全く献げて生きていることを表している言葉だと解釈することが出来ます。

 

 その完全な献身から、主への信頼が生まれます。1節に「主に信頼して、よろめいたことはありません」と記されているとおりです。それはしかし、自分が独りでしっかり立っていたということではありません。3節に「あなたの慈しみ(ヘセド)はわたしの目の前にあり、あなたのまこと(エメト)に従って歩み続けています」と言っています。

 

 「まこと」は「真理、忠実、安定、信頼性」などと訳されます。神が忠実に守ってくださる、神は信頼出来るということです。詩人は、神の真実に支えられ、信頼すべき神に守られて歩んでいるということです。

 

 現実には、悪が詩人をよろめかせ、また、私たちをよろめかせます。5節に「悪事を謀る者の集い」という言葉があります。「集い」(カーハール)について、岩波訳の用語解説に「詩編では、神を礼拝するために集まった人々を言う(22:23,26、35:18、40:10,11、107:32、149:1)。ただし26:5では悪人の集まりを指す(民20:12参照)。七十人訳はekklesia」と記されています。

 

 「集い」(カーハール)のギリシア語訳「エクレシア」は、新約聖書で「教会」と訳される言葉です。もともと、集い、集会、会議を意味する言葉で、議会と訳されることもあります。呼び出された者たち、選ばれた者たちの集まりということです。わたしたちは主なる神から

 

 その「集い」に集まる者の謀る悪事について、10節に「彼らの手は汚れた行いに慣れ、その右の手には奪った物が満ちています」と記されています。「奪った物」と言えば、力づくで取ったという印象になりますが、原語は「賄賂、まいない」(ショーハド:口語訳、新改訳、岩波訳参照)という言葉が使われています。

 

 悪行や賄賂で手を満たしているということは、「悪事を謀る者」とは、権力を行使することのできる指導者ということでしょう。即ち、有力者の献金で政が歪められ、弱い者、貧しい者が抑圧されるという構図で、昔も今も、人間の悪の性質というものは変わらないのかという思いになります。

 

 詩人はそれを憎むと言っていますが、決してよろめかなかったと言い切れるでしょうか。むしろ、実際には、袖の下に心惑わされ、仲間に加わろうという誘惑が絶えずあったのではないかと思います。だからこそ、「わたしは完全な道を歩きます。わたしを憐れみ、贖ってください」(11節)と祈り願うのです。

 

 神はその信仰と祈りに答え、欠点だらけ、失敗だらけの私たちを赦し、憐れみ、愛してくださり、キリストの贖いによって義と認め、「あなたは潔白だ」と言ってくださるのです。そこに、神の慈しみとまことがあります(3節)。

 

 冒頭の言葉(8節)で、この詩人は、神殿を慕っています。「あなた(主)のいます家」とは、神殿のことでしょう。そして、詩人は「主のいます家」を「主の栄光の宿るところ」と言い換えています。「宿る」というのは、「幕屋」(ミシュカン)という言葉です。

 

 出エジプト記40章34節に「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」と記されています。幕屋は、エジプトを脱出した民が荒れ野を旅する間、神を礼拝するために設けられた移動用神殿で、同25章8節に「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」と言われ、幕屋と祭具を造り始めたのです(同9節)。

 

 完成したとき、雲が幕屋を覆い、栄光が幕屋に満ちました。雲は神の臨在のしるしです。神の臨在のしるしが現れているところに主の栄光が満ちたということですから、確かにそこに主なる神がご自身を現された、かみがご臨在くださったと解釈することが出来ます。

 

 つまり、主の栄光とは、人間が見物することの出来る光景や現象などではなく、神の臨在されるところで主を礼拝する恵みを味わうことと考えられます。この詩人は、神殿にやって来て、主を礼拝する喜び、神の臨在の恵みを味わうために、かつて主の栄光が満ちた幕屋、今も生きておられる神の神殿、そこに住まわれる主なる神を慕い求めると言っているのです。

 

 そして、慈しみとまことを惜しみなく注ぎ与えてくださる神への感謝の思いが、ますます主の家を慕わしく思わせているのです。主は今、私たち主イエスを信じる者の心を住まいとし、そこに神の栄光を現そうとしておられます(第一コリント書6章19,20節)。主の御顔を慕い求め、慈しみ豊かな御言葉に耳を傾け、そのまことに従って歩ませていただきましょう。

 

 主よ、あなたの慈しみは私たちの目の前にあり、あなたのまことに従って歩みます。主よ、あなたのいます家、あなたの栄光の宿るところを私たちは慕います。私たちを憐れみ、贖ってください。その慈しみ豊かな御言葉に耳を傾け、主に信頼して御名を誉め讃えつつ歩みます。 アーメン

 

 

「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」 詩編27編4節

 

 この詩は、語調やその内容から、6節までと7節以下の二つに分けることが出来ます。前半には神への信頼の賛美、後半には苦難の中から神の救いを求める嘆きの祈りが記されています。

 

 ですから、もともとはそれぞれに独立していた二つの詩が、たとえば4節と13節の表現が似通っているというような理由で、一つにまとめられるようになったのではないかと考える注解者もいます。しかしながら、主なる神への確かな信頼があればこそ、あらゆる苦難のとき、不安や恐れの中で神を呼び、助けを願い求める祈りが出来るというものではないかとも思われます。

 

 そして、いくつものモティーフが前後を一つに結べ合わせています。1,9節の「救い」(イェイシャー)、2,12節の「敵」(ツァル)、3,8,14節の「心」(レーブ)、3,12節の「立つ(挑む)」(クーム)、4,8節の「求める(尋ね求める)」(バーカシュ)、4,13節の「命」(ハイ)などです。

 

 かくて、この詩は、主を信頼することと主に祈り願うことが、密接に結びついているものであることを、私たちに教えます。主を信頼するからこそ、主に救いを求めて祈り、主に祈ることを通して、主への信仰を新たにするのです。

 

 詩人は、「主はわたしの光、わたしの救い」といいます(1節)。主を「わたしの光」(オーリー)と呼ぶのは、聖書中ここだけですが、詩人と主なる神との個人的な関係が示されます。23編1節でも「主はわたしの羊飼い」といっていました。

 

 神を光とする比喩は、18編29節、36編10節などにもあります。光は闇を照らし、道を見出します。イスラエルの民は、葦の海の奇跡を経験した後、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト記15章2節)と歌いました。

 

 詩人をさいなむ敵の攻撃の中で(2,3節)、冒頭の言葉(4節)のとおり、詩人は、ただ一つの願いをもって神の前に出ています。それは、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ臨んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」です。

 

 その願いは、「命の砦」(1節)なる主のもとに逃れ場を得ることで、神との交わりを通して、苦しみから解放され、喜びに満たされることでした。詩人にとって、神の宮において主を礼拝すること以上に大切なことはないということでしょう。

 

 9節で詩人が「御顔を隠すことなく、怒ることなく、あなたの僕を退けないでください」と求めていることから、自分の罪で神のみ怒りを受け、み前から退けられていると感じているわけです。そして、2,11節以下の敵という存在から、そこにつけ込まれているようです。

 

 そのような状況にあって、主の「わたしの顔を尋ね求めよ」(8節)という命令を聞きました。聖書の世界では、神の顔を見た者は死ぬとされています(出エジプト19章21節、33章20節、士師6章22節、13章22節、イザヤ書6章5,6節など)。しかるに、主がそう言われたのは、詩人を打つためではなく、再び正しい関係に招くためです。

 

 エレミヤ書29章12~14節に「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう」とあるのも、積年の罪が裁かれてバビロンに捕囚とされたイスラエルのためと、新しい関係を築かれるための主の招きです。

 

 「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」と、十戒の第一条に規定されています(出エジプト記20章3節)。また、「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい」(申命記6章4,5節)という命令が、旧約律法の中で最も重要な戒めであると、主イエスが言われました(マタイ福音書22章37,38節)。

 

 苦しみのとき、自分の力ではどうにもならない困難に道が塞がれているとき、私たちを招き、よい関係を築こうとしてくださるまことの神、唯一の主に依り頼むことが出来ることは、大きな喜び、また平安です。

 

 「主を仰ぎ望んで喜びを得」(4節)を、口語訳では「主のうるわしきを見」、新改訳は「主の麗しさを仰ぎ見」と訳しています。主を仰ぎ望む喜びは、主の麗しさ、主の慈愛を知ることで、詩人は、心から神との交わりを楽しみ喜ぶことを期待し、待ち望んでいるわけです。

 

 「仰ぎ望む」(ハーザー)という言葉は、「見る」という意味のほかに、「知覚する、予見する、預言する」などという意味があります。つまり、預言者が聖霊に満たされて見るということです。霊の目が開かれて見るといえばよいでしょうか。詩人は、自分の置かれている今の状況が如何にあれ、そこで霊の目が開かれて主を仰ぎ、主と交わる素晴らしさ、その喜びを味わったのです。

 

 そして今、それを求めているということは、一度そういう体験をすればもうよいというのではなく、いつでもどこでも、主と親しく交わりたい、主を仰ぎ見みたい、そのことを通してまことの喜びを得たいと考えているわけです。パウロが、聖霊に満たされなさい、満たされ続けなさいと言っているのは、そのことでしょう(エフェソ書5章18節参照)。

 

 「主の家」とは、神殿を指す言葉です。そこに宿りたいとは、神殿に住みたいということになります。主イエスが少年時代、エルサレム神殿に行かれたことがあります(ルカ福音書2章41節以下)。そのときの両親とのやり取りで主イエスは、「わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だ」と言われました(同49節)。

 

 「自分の父の家にいる」(エン・トイス・トゥー・パトゥロス・ムー:in the ~ of my father)と訳されていますが、原文には「家」(オイコス)という言葉はありません。しかも、想定されているのは複数です(トイスは冠詞で複数形だから)。主イエスにとっての「父の家」とは、エルサレム神殿には限らないということです。

 

 主イエスははここで、父を神と呼んで、自ら神の子であること、そして、自分がいるところが父なる神のおられる場所であり、「父の家にいるのは当たり前」といって、父なる神がいつも自分と一緒にいてくださると言われていることになります。

 

 ですから、「命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えること」を願い求める詩人の信仰は、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハネ福音書4章23節)と主イエスが言われた、まことの礼拝者の信仰であると言ってよいでしょう。

 

 24時間365日、共にいてくださる主のみ顔を慕い求め、み言葉に耳を傾け、み心を行う主の僕として、喜びと感謝をもって歩ませていただきましょう。

 

 主よ、どうか私たちを聖霊で満たしてください。常に霊の目が開かれて主を仰ぎ望み、霊の耳が開かれて御言葉に耳を傾けることが出来ますように。主を慕い求めて御前に進み、絶えず主との親しい交わりの内におらせていただくことが出来ますように。 アーメン

 

 

「主をたたえよ。嘆き祈るわたしの声を聞いてくださいました。」 編28編6節

 

 28編は、死の苦しみからの救いと、神に逆らう者に対する報復を求める「嘆きの祈り」(1~5節)と、祈りが聞き届けられたことに対する「感謝の賛美」(6~9節)という二部構成になっています。

 

 この詩には、三種類の「手」(ヤド)が出て来ます。それは先ず、神の御前に嘆き祈る詩人の手(2節)、次いで、神に逆らう者、悪を行う者の手(4節)、それから、神に逆らう者らが悟ろうとしない主なる神の御手(5節)です。

 

 詩人は、神に逆らい、悪を行う者の手によって苦しめられていました。彼らは、口では「平和」(シャローム)を語りながら、その心に悪意を抱き、その手で悪事を行っているのです(3,4節)。

 

 ゆえに詩人は主を呼び求め、祈りの手を上げ、救いを求めて叫んでいるのです(2節)。もしも、詩人の祈りに主が御手を動かしてくださらなければ、彼は墓に下る者とされてしまいます(1節)。

 

 しかしながら、それはただ、彼らに殺されてしまうという意味ではないように思われます。というのは3節で、「神に逆らう者、悪を行う者と共に、わたしを引いて行かないでください」と言っているからです。これは、神の裁きが、神に逆らう者、悪を行う者だけでなく、自分自身にも及ぶのではないかと思っている証拠です。

 

 詩人は、神に逆らって悪をなす者らに陥れられて、彼らの「仲間」(レーア、3節)にされてしまい、彼らと共に裁きを受けようとしているのかも知れません。友に裏切られたということでしょうか。「その仕業、悪事に応じて彼らに報い、罰してください。その手のなすところに応じて彼らに報い、罰してください」(4節)と願っているからです。

 

 続けて、「主の御業、御手の業を彼らは悟ろうとしません」(5節)と言います。詩人は、悪人の「仕業、悪事」と「主の御業」、悪人の「手のなすところ」と神の「御手の業」とを対比しています。彼らは主の御業を悟らず、悪をなすがゆえに滅ぼし、再び興される(バーナー:「建てる、再建する、確立する」)ことがないようにして欲しいと願っているのです(5節)

 

 詩人の手は今、神の前に上げられています(2節)。それは、神の助けを求める祈りの姿勢であり、また、主をたたえる賛美の姿勢でもあります(134編2節)。そのときに、手のひらは神に向かって開かれています。それは、手の中には何もないということを表わしています。だから、神を求めているのです。そして、空の手に恵みを満たしてくださる主をほめ讃えているのです。

 

 また、神の前に上げられた手は、まさにお手上げ、降参のしるしのように見えます。詩人は、神のほかに自分をこの悪の力から、自分を苦しめる者の手から解放してくれるものを知らないのです。確かに、主なる神こそ、私たちの力、私たちの盾であり(7節)、油注がれた者の力、その砦、救いです(8節)。

 

 これは、使徒ペトロが「(イエス・キリストの)ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒言行録4章12節)と言っているとおりです。

 

 手を上げて祈る者の心は、しかし、深い苦しみと不安に揺れていることでしょう。救いを求める祈りに対して、神が沈黙しておられるように思われるからです(1節)。そして、神の沈黙の時間は、詩人にとって、決して短い時間ではないでしょう。救いを待つ1日は、千年にも感じられるものです。

 

 しかるに神は、冒頭の言葉(6節)のとおり、嘆き祈る詩人の声に耳を傾けてくださいました。そのとき、詩人の心は歓喜で溢れたことでしょう。「主の助けを得てわたしの心は喜び躍ります。歌を献げて感謝いたします」(7節)と歌っています。

 

 詩人の祈りが聞かれたのは、確かに神の憐れみです。そして、主の御手を動かしたのは、詩人の信仰による祈りでした。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神が存在しておられること、また、神は御自分を求める者たちに報いてくださる方であることを、信じていなければならないからです」(ヘブライ書11章6節)という御言葉があります。

 

 主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。捜しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ7章7節)と言われました。み言葉を信じて求めましょう、捜しましょう、門をたたきましょう。神が助けてくださいます。必要を満たしてくださいます。神は必ず「求める者に良い物をくださるにちがいない」(同11節)のです。

 

 「お救いください、あなたの民を。祝福してください、あなたの嗣業の民を。とこしえに彼らを導き養ってください」(9節)と祈る詩人に倣い、自分とその家族親族、友らのために、主の恵みと導きを祈り求めましょう。そのように主に依り頼む私たちの心は、主の助けを得て喜び躍り、感謝に溢れ、主をたたえる賛美が湧き上がってくるでしょう。

 

 主よ、あなたは嘆き祈る私たちの声を聞き、時宜にかなう助けをお与えくださいます。あなたこそ私たちの力、私たちの盾、油注がれた者の力、その砦、救いです。あなたに依り頼みます。私たちの上にあなたの恵みと導きが豊かにありますように。そして御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます」 詩編29編3節

 

 29編は、天地万物の主権者であられる主をほめたたえる賛歌です。1,2節は賛美への呼びかけ、3節以下は賛美の内容、そして11節の賛美に基づく祈りで閉じられます。

 

 1節の「神の子らよ」という呼びかけは、正確には、「神々(エリーム)の子ら」という言葉で、「エリームの子ら」という語句が用いられているのは、ここと89編7節の二箇所だけです。「エリーム」は、異教の神々のことをさしていると考えられますが、「エリームの子ら」とは、この世で神々のように振る舞う権力者を指しているのではないでしょうか。

 

 そして、「栄光と力を主に帰せよ、御名の栄光を主に帰せよ、聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」(1,2節)と、彼らに主なる神を誉め讃えさせます。つまり、そのようにすることで、主の超越性、つまり主こそまことの神、主以外に神はないということを示しているわけです。

 

 3節以下に、「主の御声」(コール・ヤハウェ)という語句が7回出て来ます。聖書の中で、「7」は完全数と言われます。そこに、神の御声の力強さ、権威の完全性が示されています。

 

 「声」(コール)は、「音、雷鳴」とも訳されることがあります。冒頭の言葉(3節)では、「主の御声は水の上に響く」と言ったあと、それを言い換えるかのように、「栄光の神の雷鳴はとどろく」と語っています。「雷鳴はとどろく」は「ラーアム」(慌てふためく、(鳴り)とどろく」という一つの単語です。

 

 「主の御声」をすべて「栄光の神の雷鳴」と読み替えてみてください。勿論、ここで詩人が描写しているのは、雷の鳴り響く音が神の御声であるということではありません。雷鳴という自然現象を描きながら、それによって神の御声の力強さ、威力の凄まじさを示そうとしているわけです。

 

 6節で「シルヨン」と言われているのは、イスラエルの北にそびえるヘルモン山のことで、フェニキヤではシルヨン山と呼んでいました。8節の「カデシュ」がエドム南部の荒れ野ではなく、シリアのカデシュのことであれば、5節の「レバノン」と合わせて、いずれもシリア・フェニキアの地方を指していることになり、これは、カナンのバアル宗教の支配地域ということになります。

 

 つまり、雷鳴がとどろいてレバノンの山々を脅かし、シリアの荒れ野を悶えさせるというのは、主なる神の前に異教の神々は打ち砕かれ、踊らされ、苦しみ悶えさせられるということです。

 

 バアルは、カナン地方を中心に崇められている嵐と雨の神です。そのような神々が、主の御声である雷鳴によってもだえさせられるというのは、真に世界を治める力を持っているのは、主なる神だけだと告げているようです。

 

 9節の「主の御声は雌鹿をもだえさせ、月満ちぬうちに子を産ませる」について、「主の御声は大樹を踊らせ、森を裸にする」という訳もあります(口語訳、岩波訳およびその註を参照)。これは、異教の神々に依り頼んでいた者たちに恥をこうむらせるという意味でしょうか。

 

 この様子を見ていた「神殿のものみな」は、主に向かって「栄光あれ」とたたえます(9節)。「神殿のものみな」とは、天の御座の前にいるものたちのことだと言われます。ここに、1節で「神の子らよ、主に帰せよ。栄光と力を主に帰せよ」と求められていたことが実現しています。

 

 10節に「主は洪水の上に御座をおく」と記されています。洪水の上に座られるということは、洪水を支配し、従わせておられるということです。聖書で洪水と言えば、ノアの洪水を思い出します(創世記6章以下)。洪水によって地の表のすべてのものが拭い去られました。そうして、箱舟から出たノアの家族と永遠の契約を結ばれました(同9章9節以下)。

 

 それは、ノアたちが罪を犯さない者だからではありません。「人が心に思うことは、幼いときから悪い」と知っておられました(同8章21節)。主なる神は、罪を赦すという道を通して、新しい世界を築こうとされるのです。

 

 第一ペトロ書3章20,21節に「箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表されたバプテスマは、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです」とは、そのことでしょう。

 

 こうして詩人は、雷や洪水という、この地を脅かし滅ぼすものを描きながら、それによって神の権威、権力の凄まじさ、力強さを示しながら、しかし、それによって打ち倒され、震え上がり、苦しみ悶えなさいと言おうとしているわけではありません。

 

 確かに、罪を持ちながらも傲慢に主の御前に立とうとすれば、そしてまた、神ならぬものに依り頼んでいるならば、そこで自らの愚かさ、罪深さを思い知らされることになるかもしれません。なにしろ、神の怒りによって滅ぶべき、生まれながらの怒りの子なる私たちです。

 

 しかしながら、神は御子を通して私たちを御許に招いておられます。私たちを裁くためではなく、救いに与らせるためです。主なる神は、キリストを信じてバプテスマを受けた私たちに、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適うものである」と仰います。全地を振るわせる轟が、主に信頼する私たちには、「平安があなたがたにあるように」と聞こえるのです。

 

 だから、主に栄光と力を帰し、聖なる輝きに満ちる主の御前にひれ伏しましょう。 

 

 主よ、どうか私たちに力を与え、どのような時にもまことの主を礼拝することが出来ますように。どうか私たちを祝福して平和をお与えくださり、互いに愛と赦しに生きることが出来ますように。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心が行われますように。 アーメン

 

 

「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え、粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。」 詩編30編12節

 

 表題に、「賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩」(1節)と記されています。「神殿奉献の歌」は、「シール・ハヌカー」という言葉です。これは、ヨハネ福音書10章22節に記されている「神殿奉献記念祭」(ハヌカー・フェスト)の時に用いられる歌ということでしょう。

 

 この祭は、シリアの王アンティオコス・エピファネスによって荒らされ、冒涜された神殿で、礼拝が再開されたことを記念するものです。それは、紀元前165年にイスラエルの民がシリアから奇跡的に解放されたことを祝う記念祭でもあります。ということは、この表題がつけられたのは、紀元前165年以後ということですね。

 

 ただ、詩の内容を調べてみても、神殿奉献に関係する言葉は全くありません。むしろ、個人的に苦難から解放された喜びにより、神を誉め讃えた歌というべきです。また、ダビデの時代に神殿は建築されていないので、神殿奉献の詩をダビデが作ることもなかっただろうと思います。

 

 あるいは、この詩がダビデによって作られたものと解釈され、更に普遍的な意味に解釈が広げられて、神殿奉献記念祭において使用されるようになったのかも知れません。岩波訳の脚注には、「あるいは、29編(9節に『神殿』とある)に加筆されたものが誤ってここに入ったのかも知れない」と記されています。

 

 この詩には、詩人の祈りに答えてくださった神に対する感謝が述べられています。3~4節に「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしをあなたは癒してくださいました。主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ、墓穴に降ることを免れさせ、わたしに命を得させてくださいました」とありますので、詩人は、生死の境をさまようような重い病に罹っていたのだろうと想像されます。

 

 ということでいえば、ダビデというより、ヒゼキヤ王が瀕死の病の床で主なる神に祈りをささげ(列王記下20章3節)、その祈りが聞かれて、寿命を15年延ばしていただいたという出来事(同5,6節)に適合しているようです。

 

 詩人は、そのような病の中で癒しと助けを叫び求め、その祈りが神に聞き届けられたのです。死の闇が詩人を飲み込もうとしていましたが、神の助けによって、今、命の光に包まれています。

 

 「ひととき、お怒りになっても」(6節)という言葉から、詩人には、その病が神の怒りによるものという思いがあるようです。ということは、その癒しは罪の赦しに関わることとも言えます。詩人は、罪を赦し、命を得させてくださる「主の慈しみ」(5節)に信頼をおいているわけです。

 

 「泣きながら夜を過ごす」(6節)とは、辛くて悲しくて眠れぬ夜を過ごすということでしょう。涙で枕をぬらしたのでしょう。昼間は、寝床の周りに人がいて、あれこれと世話を焼いてくれますが、夜は独りになります。電灯などなかった時代、どんなに夜が長く感じられたことでしょうか。

 

 夜の闇に死の恐れを感じ、その戦いが孤独なものであることを思い知らされます。苦しみによって生きる望みをすら失ってしまうかも知れません。そのような中で、しかし、詩人は泣きながら神の名を呼んだのです。主の憐れみを乞うたのです(9節)。

 

 7,8節に「平穏なときには、申しました。『わたしはとこしえに揺らぐことがない』と。主よ、あなたが御旨によって、砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると、わたしはたちまち恐怖に陥りました」と告白しています。

 

 詩人は、平穏無事を自分の信仰の故であると錯覚して、その状態が永遠に続くと思い込んでいたのですが、「み顔を隠されると」、即ち平穏無事でなくなると、魂の平安を失って全くうろたえてしまいます。ここに、詩人の罪の自覚が示されています。

 

 詩人は夜の闇の中で自分の弱さ、罪を深く示されたのでしょう。そしてそれは、神を深く思い、求めるときとなったのです。眠れないときには眠れないままに、涙が流れるときは涙するままに、そのまま神に訴えているのです。そして、神が詩人の苦しみ、悲しみを受け止め、その祈りを聞いて涙をぬぐってくださる喜びの朝が来ることを信じるのです。

 

 憐れみを請い、助けを求める祈り(9~11節)が聞き届けられ、詩人は主を讃える歌を歌います。それが、冒頭の言葉(12節)です。 神は、私たちの嘆きを踊りに変えてくださいます。それは、主の救いを喜び祝う祭りの踊りです(エレミヤ書31章13節)。

 

 また、神は粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいます。粗布は嘆き悲しみ、喪に服すること、あるいは悔い改めを表すものです。喜びを帯とするというのは、祭礼の飾り帯を締めるようなことで、詩人は、喪服から祭服に装いを替えたように、主によって悲しみが喜びに変えられたというのです(イザヤ書61章3節)。

 

 ヤコブ書5章13節以下に「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌を歌いなさい。あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」と記されています。

 

 実に「祈りに導かれるはよし」です。いつもあるがまま心を開いて、涙の夜を喜びの朝に変えてくださる主を呼び求めましょう。

 

 主よ、祈りを通して、また感謝と賛美を通して、主なる神との交わりに導かれることの恵み、主なる神の慈しみに信頼出来る喜びを知らされて感謝です。いつも主の慈しみのうちに生きることが出来ますように。主と共に歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「まことの神、主よ、御手にわたしの霊をゆだねます。わたしを贖ってください。」 詩編31編6節

 

 31編は、窮地からの救いを求める祈りです。「主よ、御もとに身を寄せます」(1節:ベハー・ヤハウェ・ハーシーティー)という句に、この詩のテーマが示されています。詩人は、身を寄せようとしている主の御もとが、確かな避難場所であってほしいと願っているのです。

 

 この詩には、「助けてください」(2節)、「救い出してください」(3,16節)、「お救いください」(3,17節)と、救いを願い求める言葉が繰り返し出て来ます。それだけ、詩人が苦しんでいるということです。人生には様々な苦しみがあります。病いの苦しみ、老いの苦しみもあるでしょう(10,11節参照)。

 

 この詩には、「敵」という言葉が3度用いられています(9,12,16節)。詩人を苦しませる者がいるのです。嘲られ(12節)、傷つけられ、命がつけ狙われることもあります(14節)。驕り高ぶる者らの偽りや侮辱(19節)、謀(岩波訳は「中傷」)、争いを挑む言葉(21節)が浴びせられています。

 

 今日、いたるところに敵意や恐れ、困難や不安があります。人はなぜ、このような苦しみを味わうのでしょうか。11節に「罪のゆえに力は失せ、骨は衰えていきます」とあります。苦しみの原因に「罪」があるというのです。聖書でいう罪とは、いわゆる犯罪のことではありません。人と人の間に言葉が通じない、心が通わない、むしろ背き合っているということです。

 

 ここで罪への言及があるということは、自分に負い目があることに気づき、自責の念に駆られているということでしょうか。病や老い、敵という、自分を苦しませ傷つける存在に囲まれているのは、自分の罪の故であると考えているのかもしれません。そして、自分でその負債を払うことが出来ない、解決をする力がないということです。

 

 そのとき、詩人は神の憐れみを求めて祈りました。八方塞りの中、祈るよりほか、術がなかったのです。そして、神はその心を受け止めてくださいます。私たちの嘆き、呻きをそのままに、私たちの心をご存知の神は、そのような「祈り」を聞いてくださいます。聖霊が執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。

 

 そして、万事が益となるように共に働いてくださるのです(同28節)。詩人はその恵みを味わいました。そして、そのような経験を通して、神に信頼することを学んでいるのです(7,15節)。

 

 冒頭の言葉(6節)で、「主よ、御手にわたしの霊を委ねます」というのは、主なる神への全き信頼と服従を示す言葉です。16節の「わたしにふさわしいときに、御手をもって追い迫る者、敵の手から助け出してください」という言葉も、同様の確信を示しています。

 

 この言葉を、主イエスが十字架で息を引き取られる間際に語られました(ルカ福音書23章46節)。ということは、この詩人の苦しみは、主イエスの苦しみを表していると見ることも出来ます。10~17節が、受難週・棕櫚の日曜日に読まれる詩編に選ばれているのも、そう理解されているということでしょう。

 

 主イエスは、私たちの一切の苦しみを引き受け、病、患いを担われました(マタイ8章17節)。あらゆる罪咎をその身に負われ、十字架に死なれました(ガラテヤ書1章4節、3章1,13節など)。その死によって、私たちは贖われ(第一コリント書6章20節など)、罪赦され(エフェソ書1章7節など)、神の子どもとされたのです(ヨハネ福音書1章12節)。

 

 詩人は続けて、「わたしを贖ってください」と記しています。「贖ってください」(パーディーター)という言葉を、口語訳、新改訳は完了形ととって、「贖われました」と訳しています。

 

 詩人は、自分の霊を委ねる相手を知っています。それは、「まことの神、主」です。「まこと」(エメト)とは、「真実、確かさ、信頼出来る」という意味です。神は永遠に真実で、偽られることはありません(第一コリント書1章9節など)。

 

 ヘブライ書11章11節に「信仰によって、不妊の女サラ自身も、年齢が盛りを過ぎていたのに子をもうける力を得ました。約束をなさった方は真実であられると、信じていたからです」とあります。サラが子を産む可能性は0%でした。しかし、神の真実によって、つまり神が語られた約束の言葉は必ず実現するので、神の真実を信じたサラに子が授けられたのです。

 

 この神の真実を拠り所として、詩人は神の御前に祈りをささげ、その真実に触れて、どのような苦難からも神は必ず贖い出してくださるという確かな希望を持つことが出来たのです。そう考えれば、「贖ってください」と訳しても、「贖われました」と訳しても、その心は同じということが出来ます。

 

 そして、そのような経験、また確かな希望があるからこそ、詩人は全幅の信頼をもって、「御手にわたしの霊を委ねます」と語ることが出来たのです。希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊によって希望に満ち溢れさせてくださるよう、共に祈りましょう(ローマ書15章13節)。

 

 主よ、あなたが私たちのすべてを受け入れ、受け止めてくださるということこそ、まことに私たちの拠り所、砦の岩、城塞です。私たちはまことの神、主に信頼し、『あなたこそわたしの神』と申します。あなたの僕に御顔の光を注ぎ、慈しみ深く、私たちをお助けください。御名が崇められますように。御心がこの地になされますように。 アーメン

 

 

「いかに幸いなことでしょう。背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。いかに幸いなことでしょう。主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」 詩編32編1,2節

 

 この詩は、七つの悔い改めの詩編(6,32,38,51,102,130,143編)の一つです。とはいえ、具体的な罪を告白しているというものではありません。罪を告白して、それを赦していただいたことに基づき、恵み深い主に信頼するよう諭すになっています。

 

 宗教改革者M.ルターはこの詩を、パウロ的詩編と読んでいます。というのは、パウロの手紙にこの詩からの引用がなされているからです。それならば、パウロに福音理解の根拠を与えた詩ということも出来るでしょう。

 

 パウロはローマ書4章5節で「しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」と語り、そして、「同じようにダビデも、行いによらずに神から義と認められた人の幸いを、次のようにたたえています」(同6節)と述べてから、冒頭の言葉(1,2節)を引用しています(同7,8節)。

 

 パウロにとって、「神から義と認められる」というのは、「背きを赦され、罪を覆っていただいた」ということです。「働きがなくても」と言っていますから、律法を完全に守ったかどうかが問題なのではありません。むしろ、律法を守れなかったこと、神に背いていたことを、神が赦してくださるというのです。

 

 ですから、「いかに幸いなことでしょう」(アシュレイ:1節、1章1節、2章12節)とは、「ラッキーだった」という意味などではありません。私たちの背きを赦し、罪を覆うために、私たちを神の恵みへと招く言葉、私たちに幸いを授けようという祝福の言葉なのです。

 

 ダビデ王は、自分の忠実な部下である勇士ウリヤの妻バト・シェバと姦淫し、それを誤魔化すためにウリヤを戦死させ、彼女を自分の妻として迎えました(サムエル記下11章)。ウリヤを戦死させるよう命じられたヨアブのほか、ダビデの罪を知る者がいたと思われますが、そのことで王を咎めはしませんでした。当然、王の権力を恐れたからです。

 

 それゆえ、完全犯罪成立かと思われましたが、神の目にダビデの罪は隠れていませんでした。そして主は、ダビデのもとに預言者ナタンを遣わし、その罪を指摘されます(サムエル記下12章1節以下)。ナタンにその罪を指摘されたダビデは「わたしは主に罪を犯した」(同13節)と告白しました。その時、主はダビデを赦され、罪が取り除かれました。

 

 詩人も、そのような経験をしたのでしょう。それがどのような罪なのか分かりませんが、詩人は罪の呵責に悩まされていました(3,4節)。そして、ついに罪科を明らかにすることにしました。そのとき、その罪と過ちが赦され、恐れや不安、苦しみから解放されるという経験をしたのです(5節)。

 

 第一ヨハネ書1章8,9節にも「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」と言われています。

 

 罪が赦され、その咎から解放された今、詩人は「あなたはわたしの隠れ家、苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもってわたしを囲んでくださる方」(7節)と、ここに感謝の祈り、喜びの賛美を献げているのです。

 

 しかしその赦しは、ただ罪を水に流したということではありません。ダビデとバト・シェバとの間に与えられた幼子が、ダビデの罪の身代わりとなりました(サム下12章14節以下、18節)。そして、ダビデの子孫としてこの世においでくださった主イエスが、私たちの罪のために十字架に死なれ(第一コリント書15章3節、ガラテヤ書1章4節など)、それによって、私たちは罪赦され、咎から解放されたのです(エフェソ書1章7節)。

 

 「放蕩息子のたとえ」(ルカ15章11節以下)で父親は、放蕩の限りを尽くした後、ボロボロになって帰って来た弟息子を憐れみ、彼に最上の衣を着せ、指輪をはめ、靴を履かせます。それは、息子としての権利を回復したという徴です。そして、祝宴を開きます。

 

 先程までひどい格好をし、おなかをすかせていたのが嘘のようです。息子は、自分の腹を満たすパンを求めて、雇い人にでもしてもらおうと考えて父親の家に戻って来たのですが、父親は、自分を「お父さん」と呼んでくれる息子の帰宅を待ち望んでいたのです。ここに、神の無条件の愛が表されています。

 

 私たち異邦人すべてに及ぶこの無条件の赦しは、神の独り子イエス・キリストの十字架の贖いによってもたらされました。この救いの恵みを味わい、喜びと感謝をもって神をほめたたえ、主に従う者となりましょう。

 

 「神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声を上げよ」(11節)。

 

 主よ、私たちはあなたの祝福への招きを聴きました。赦しと救いの恵みに与りました。この喜びと平安がすべての人に豊かにありますように。主の慈しみの御手で守り導いてください。 アーメン

 

 

「主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている。」 詩編33編5節

 

 この詩は、32編に続く賛美の詩です。32編11節と33編1節は、よく似ています。学者の中には、32編と33編は元々一つの詩だったのではないかと考えている人もいます。33編に表題がつけられていないということも、その根拠の一つとされています。

 

 あるいは、そうだったのかも知れません。ただ、一つだったものを二つに分けた理由など、納得のいく説明をするのは容易いことではないでしょう。むしろ、32編11節と33編1節がよく似ているので、二つ並べて置かれたと見るべきなのだろうと思われます。

 

 33編は、22節で構成されています。ヘブライ語のアルファベットは22文字です。この詩は、アルファベットで頭韻を踏んでいる詩ではありませんが、あらゆる言葉を用いて主を賛美するという意図が示されます。 

 

 初めに「喜び歌え」(ラーナン)という命令があります。そして、「主に従う人」はその命令に喜んで従い、主をほめ歌うのです。2節には「感謝をささげよ」(ヤーダー)、「(琴を)奏でてほめ歌をうたえ」(ザーマル)、3節には「うたえ」(シール)、「美しい調べ」(ヤータブ「上手くする、よく行う」)と、様々な言葉をもって賛美が呼びかけられています。

 

 教会では、よく賛美の歌を歌います。礼拝や祈祷会、家庭集会、その他あらゆる機会に賛美します。嬉しいときだけでなく、悲しいときにも讃美歌を歌います。詩編には実に様々な内容の歌がありますから、旧約時代から、あらゆるときに歌が歌われて来たと見ることが出来ます。

 

 「ふさわしい」(ナーヴェ)という言葉には、「美しい、麗しい」という意味があります。「賛美を住まいとされる」(22編3節:新改訳)という言葉があるように、賛美あるところに主がおいでになり、神の栄光が現れて、賛美する人が美しく見えるといっても良いでしょう。そしてまた、主なる神が、賛美は麗しい、賛美する人は美しいと見てくださるということです。

 

 宗教改革者M.ルターは、「悪魔に賛美なし」と言いました。確かに、悪魔が主なる神を賛美することはないでしょう。賛美は私たちに与えられた恵みであり、また喜びなのです。そして主も、私たちの賛美を喜ばれるのです。主を喜ばせ、悪魔を退けるために、心から主を喜び歌い、高らかに賛美をささげましょう。

 

 「主に従う人」とは、「正しい」(ツァッディーク)の複数形が使われています。直訳すれば「正しい人々」という言葉になります。聖書で「正しい」というのは、道徳的な正しさ、律法の行いの点で誤りがないというよりも、正しい関係、ふさわしい関係にあるということを指しています。神との正しい関係にある人ということから、「主に従う人」と意訳しているわけです。

 

 ダビデは、「背きを赦され、罪を覆っていただく」(32編1節)ことを経験しました。ダビデが自分の過ちを反省し、生まれ変わった気持ちで頑張ったから、背きが赦されたというのではありません。神の憐れみによって罪が覆われた結果、正しい人と認めていただいたのです。つまり、神がダビデとの関係を回復してくださったのです。だから、彼の口から神への感謝、賛美が溢れ出たのです。

 

 「イエス・キリストは昨日も今日も、そして永遠に変わることのない方です」(ヘブライ書13章8節)。私たちにも無条件の赦しが与えられています。主イエスは、この世のすべての人々の罪の贖いのために、即ち、私のためにも、十字架にかかって死んでくださいました。そして、慈しみ豊かな主は、絶えず私たちのために最善をなしていてくださいます。

 

 冒頭の言葉(5節)に、「主は恵みの業と裁きを愛し、地は主の慈しみに満ちている」と言われるとおりです。「恵みの業」は「正義」(ツェダカー)、「裁き」は「公正」(ミシュパート)ということばです。1節で、「正しい人」を「主に従う人」と意訳したように、ここでも意味を考えて、「正義」が「恵みの業」と訳されているのです。

 

 正義と公正を愛される主によって、地には「主の慈しみ」が満ちていると詩人は言います。「慈しみ」は、「慈愛、変わらない愛」(ヘセド)という言葉です。ギリシア語の「アガペー」に当たる言葉でしょう。神のアガペーの愛が全地に満ちている、だから、あらゆる言葉で、あらゆる方法で主を讃えようと語っているように読めます。

 

 本当にそうだと思える方は幸いです。むしろ、どこに神の義や公正があるのか、本当に神はこの世を愛しておられるのかという思いをもっておられる方が、少なからずおられるのではないでしょうか。どこもかしこも問題だらけ、希望も平安も見いだせない苦しみの夜を過ごしておられる方もあるでしょう。

 

 だから、神の愛などないのではなく、苦しみの夜があるからこそ、そこに神が共にいてくださること、癒やし、助け、慰めや平安をお与えくださるよう、祈り求めるのです。時にそれは激しい訴えとなり、時にそれは言葉にならない呻きになります。喜びの朝を迎えさせてくださる主を信じるからこその訴えであり、呻きなのです。主はそれも、主への賛美として受け止めてくださるでしょう。

 

 それを思うと、いつでも感謝出来ます。どこでも賛美することが出来ます。

 

 「♪主はすばらしい、主はすばらしい、主はすばらしい、わたしの主。God is so good, God is so good, God is so good, He's so good to me.♪」

 

 主は慈しみ深く、恵みに満ちる方、主がなさっておられることはいつも最善と信じて、賛美することが出来る人は本当に幸いです。

 

 ハレルヤ! 主よ、感謝致します。私たちの目に今の状況がどのように見えても、そこに恵み豊かな主の慈しみが満ちていることを信じて、感謝致します。信仰の目を開いて主の御手の業を見出だし、心からの賛美を、感謝をささげることが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう。」 詩編34編4節

 

 34編は、25編と同様のアルファベットによる詩ですが、25編は「救いを求める祈り」であったのに対して、これは、救いをお与えくださった主を賛美し、主を畏れ敬って正しく生きることを勧める教訓詩となっています。

 

 2節に、「どのようなときも、わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」とあります。具体的に喜びや感謝があるときには、神をたたえ、賛美出来ます。自然と喜びの歌が湧き上がるでしょう。詩人はしかし、「どのようなときも」と言います。悲しいときも、苦しいときも、辛いときでも、「わたしは主をたたえ、わたしの口は絶えることなく賛美を歌う」というのです。

 

 表題に、「ダビデがアビメレクの前で狂気の人を装い、追放されたときに」(1節)とありますが、これはサムエル記上21章11節以下で語られている出来事を指していると思われます。ただし、それはアビメレクの前はなく、アキシュの前でした。

 

 ダビデは、隣国ペリシテはガトの王アキシュのもとに身を寄せようとする前、ノブの祭司アヒメレクを訪れ、パンと剣を求めました(同2節以下、4,9節)。主の前から取り下げた供えのパンと(同7節)、ゴリアトの剣を受け取り(同10節)、サウルを逃れてガトに下って行ったのです。その当時、ダビデはイスラエルの王サウルから命を狙われて、逃避行の最中でした。

 

 しかしながら、アキシュの家臣たちは「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです」(同12節)といって、ダビデを受け入れるべきでないと訴えます。この言葉に身の危険を感じたダビデは、アキシュの前で気が狂ったような振る舞いをしました(同14節)。

 

 サウル王から逃れ、そしてアキシュ王に捕えられたそのときのダビデの心境を考えると、難を逃れるためにそのように振舞っただけというよりも、実際に気がおかしくなってしまいそうだったのではないでしょうか。

 

 そんなときに、誰が賛美の歌を歌えるでしょうか。本当に神を賛美出来るでしょうか。恨み辛みをあげつらうような、運命を呪い神を呪うような歌は歌えるかもしれません。恐らく詩人は、そのような苦境から救われた経験によってこの詩を作ったのでしょう。「脅かすものから常に救い出してくださった」(5節)という言葉で、詩人が繰り返しそのようなことを体験したと言い表しています。

 

 そこから、神はどのようなときにも賛美されるべきお方であるという信仰に導かれたのでしょう。そこには、どのようなときも賛美するという詩人の強い思いもあるでしょう。けれども、その苦しみのときに、神が彼と共におられること、決して見捨てられたのではない、その中で守られているということを、詩人は見出したのです。

 

 8節で「主の使いはその回りに陣を敷き、主を畏れる人を守り助けてくださった」と詠っています。恐れに押しつぶされそうになっていた詩人の目に、主の使いがどう見えたのか、よく分かりません。ただ、上述の5節の言葉や、「苦難から常に救ってくださった」(7節)という言葉のように、度重なる苦難から救い出されて、主の守りが常にあることを味わったのです。

 

 冒頭の言葉(4節)で、「主をたたえよ」というのは、「成長する、大きくなる」(ガーダル)という言葉で、それが「たたえる」という意味で用いられています。英欽定訳聖書KJVは「Magnify the Lord」と訳しされています。直訳すれば、「主を拡大せよ」となります。

 

 恐れや不安の中で、問題に囲まれて神の御姿が小さくなってしまった、見えなくなってしまった。その神の御姿を、賛美によって、賛美を通して拡大しよう、神様が心いっぱいになるようにしようと言っているかのようです。

 

 実際、神の御姿を等身大で見ることが出来たらどうでしょうか。それは、この宇宙でも入れることが出来ないほどの大きさなのではないでしょうか。そのお方が、私たちの味方となられるなら、誰が私たちに敵対することが出来るでしょうか(ローマ書8章31節)。

 

 ダビデは少年時代、自分に倍する巨人、ペリシテの戦士ゴリアトと戦ったとき、さらに大きな神が味方して勝利をとらせてくださることを確信していました(サムエル記上17章参照)。彼は、苦難の連続の中で、さらに深く主を信頼するように導かれたのです。確かに、苦難を通して味わうことの出来た喜び、開かれた恵みの世界があるのです。

 

 だから、「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(9節)というのです。 そのために苦難を通れというのではありません。どのようなときにも、主をたたえよ(2節)、主を求めよ(5,7節)、主を仰ぎ見よ(6節)というのです。

 

 「キリスト・イエスにあって、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝せよ」、と私たちに求めておられる神の御言葉に従い(第一テサロニケ書5章16~18節)、主を褒め称えながら、祈りをささげながら、日々歩ませていただきましょう。「歌いつつ歩まん、ハレルヤ、ハレルヤ。 歌いつつ歩まん、この世の旅路を」(新聖歌325番)。

 

 主よ、私たちの内には、どのようなときにも賛美をささげる力や強い思いがあるわけではありませんが、あなたが私たちと共にいて、私たちの力、私たちの歌、私たちの救いとなってくださいます。私たちに賛美を授けてくださる主に感謝し、御名を讃えます。 アーメン

 

 

「わたしに追い迫る者の前に、槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください。『お前を救おう』と。」 詩編35編3節

 

 35編には、「わたしと争う者」(1節)、「わたしに追い迫る者」(3節)、「わたしの命を奪おうとする者」、「わたしに災いを謀る者」(4節)、「不法の証人」(11節)、「神を無視する者」(16節)などと、詩人を苦しませる敵について、様々な表現が用いられています。その苦しみからの救いを求める祈りの詩です。

 

 これにも、「ダビデの詩」(1節)という表題がつけられています。3節の「追い迫る者の前に、槍を構えて立ちふさがってください」という言葉が、サムエル記上18章10,11節の槍でダビデを突き刺そうとしたサウルの振る舞いを思わせますし、同24章のユダヤ南部の荒れ野でダビデを追跡するサウルの記事を思い浮かべさせます。

 

 エン・ゲディの荒れ野にある洞窟でサウルの前に姿を現したダビデは、「主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように」(同13節)、「主が裁き手となって、わたしとあなたの間を裁き、わたしの訴えを弁護し、あなたの手からわたしを救ってくだいますように」(同16節)と、主なる神に祈り願いました。

 

 この祈りをもって、サウル王がダビデの命を狙うのは根拠のない誤りだと、神がサウル王に示してくれるように、また、それによってサウル王の手から救ってくれるように、主に願い求めたわけです。

 

 その場面で、神はサウル王の命をダビデの手に委ねたように見えます。サウル王が用を足すために入ったエン・ゲディの洞窟の奥に、ダビデと兵たちが潜んでいました(同4節)。その気になれば、ダビデ自ら手を下して、自分に追い迫るサウル王を亡き者とすることが出来たのです(同5節)。

 

 もしもダビデとサウル王の立場が逆であれば、サウル王がこの機会を逃すはずがありません。あるいは、用を足す前に洞窟の中を兵士に調べさせていれば、ダビデたちは発見され、捕らえられてサウルの前に引き出されたでしょう。そして、当然のことながら、サウルはダビデを剣にかけたことでしょう。

 

 けれども、ダビデはそのようにはしませんでした。この危難から逃れ出るためには、目の前にいるサウル王を殺しさえすればよいとは考えなかったのです。むしろダビデは、サウルに油を注いでイスラエルの王とした主を畏れました(同7,8節)。ですから、ダビデは自分で自分を守ろうとはせず、一切を主に委ねたのです。

 

 これまでもダビデは、主に信頼する信仰の恵みを繰り返し味わって来ました。そして、確かに、主のなさることが最善なのです。

 

 主イエスが、カファルナウムにいた百人隊長の信仰を喜ばれるという出来事がありました(ルカ福音書7章9節)。それは、彼の部下の病いを癒していただくのに、主イエスの御言葉ひとつあれば、それで十分であると確信して、その一言だけを求めたということでした。主イエスの御言葉の力、その権威に対する百人隊長の畏れと信頼を、主イエスが驚嘆されたのです。

 

 主イエスは、百人隊長の信仰だけでなく、百人隊長のように権威のある者が、部下に対して権威を振り回すのではなく、逆にその権威に畏れを持っていること、そして、真に権威ある主の御前に謙って御言葉を求めている態度、それも、自分のためにではなく、部下のためにそのようにする百人隊長の心根を、主イエスは喜ばれたのだと思います。

 

 誰もが、自分の思い通りに振舞えたらと考えているでしょう。ですから、権威、権力を欲しがります。それは昔話ではありません。今日の私たちの現実です。いたるところで、エゴが大手を振って歩き回っています。そして、そのエゴがぶつかり合って、人間関係の様々な苦しみを生み出しているのです。

 

 今一度、この詩人と百人隊長の信仰に学びたいと思います。冒頭の言葉(3節)で詩人は主に向かって、「わたしの魂に言ってください、『お前を救おう』と」と求めました。上述のとおり、自分で敵を排除出来る力を求めるのではなく、主なる神を拠り所とし、「おまえを救おう」(イェシュアテーフ・アニー:「わたしこそおまえの救い」)と約束してくださることに期待しているのです。

 

 「お前を救おう」という主の一言があれば、その方法はどうであれ、救いの成就までの間、たとい苦難を味わうことがあっても、トンネルの向こうに光が待っていることを、希望をもって待つことが出来ます。主と主の御言葉は信頼できるからです。 

 

 私たちも、絶えず主を呼び求め、「わたしこそ、お前の救い」と仰せくださる主を待ち望みましょう。自分のエゴから、そこから来る苦しみから、そして、エゴの背後に隠れて私たちを欲の虜にし、罪の奴隷にする悪魔から解放してくださいと。今日も主は、その権威ある御言葉をもって癒しと助けをお与えくださいます。

 

 主よ、私たちの魂はあなたによって喜び躍り、御救いを喜び楽しみます。あなたが貧しい僕らを強い者から、貧しく乏しい私たちを搾取する者から助け出してくださるからです。私たちの舌があなたの正しさを歌い、絶えることなくあなたを賛美しますように。常に主を慕い求め、その御言葉に安らぎをいただくことが出来ますように。主こそ、私たちの救いだからです。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「命の泉はあなたにあり、あなたの光に、わたしたちは光を見る。」 詩編36編10節

 

 36編は、神に逆らう悪しき者からの救いを願う祈りです。最初に神に逆らう悪人の描写(2~5節)、次に主への賛美(6~10節)、そして救いの祈り(11~13節)です。

 

 詩人は、はじめに人間の罪の様を示します。「神に逆らう者に罪が語りかけるのが、わたしの心の奥に聞こえる」(2節)というように、詩人にとっても、罪は無縁のものではないのです。

 

 ここで「罪が語りかける」と擬人化してますが、「語りかける」とは「ネウム」(言うこと、御告げ)という言葉で、旧約聖書においてほとんど神が預言者に告げる言い回しです。ここでは、私たちを神に背く罪に誘い込む力が働きかけて来るということ、そしてそれは、預言者に対する神の声と同じ権威と力とを持っているということです。

 

 3節は原文が難解なところです。新共同訳は「自分の目に自分を偽っているから、自分の悪を認めることも、それを憎む事もできない」と訳しています。罪が人々から正しく判断する力を奪い、罪を罪と認められなくなるということでしょう。11月に出版された共同訳は「彼は自分の過ちを認め、憎むはずが、自分の目で自らにへつらった」としました。

 

 口語訳は「彼は自分の不義があらわされないため、また憎まれないために、みずからその目でおもねる」、新改訳は「彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで」としています。

 

 岩波訳は「まことに、彼はおのれに向かって目でへつらう、おのが咎を見出すことの憎むために」と訳し、「自分自身にへつらっているから自分の咎が見いだせない、ということか。その他読み替えを伴う諸説あり」という脚注をつけています。

 

 いずれにせよ、罪に陥った人間は、それによって現実を見損ない、罪のまやかしと自身の迷妄とによって「神を恐れない」ことを自慢するような状態になっています(2節)。その結果、偽りを語り、不善を為し、いつも悪事を行うことを考えるという罪の虜になってしまいます(4,5節)。

 

 次に詩人は、神の恵みをたたえる歌を歌います。ここに、罪の世界に生きる空しさと、神の恵みの世界に生きる喜びが、好対照をなして描かれています。これによって、詩人が神の憐れみによって救われ、恵みの世界に入れていただいたこと、それを喜び、主に感謝していることが分かります。

 

 6節に「主よ、あなたの慈しみは天に、あなたの真実は大空に満ちている」といいます。主なる神の「慈しみ」(ヘセド:不変の愛)と「真実」(エムーナー)が天に至るまで、全宇宙を満たしているということでしょう。

 

 続く7節の「恵みの御業は神の山々のよう、あなたの裁きは大いなる深淵」という言葉は、「恵みの御業」(ツェダカー:正義)と「裁き」(ミシュパート:公正)が「神の山々」、「大いなる深淵」のようだということで、これも無限の広がりを示しています。

 

 そして9節の「あなたの家に滴る恵みに潤い」という言葉は、口語訳では「あなたの家の豊かなのによって飽き足りる」、新改訳では「彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう」と訳され、岩波訳はそれを「彼らは満喫する、あなたの家の脂を」と訳し、「脂は美味の象徴」という注をつけています。

 

 マタイ15章27節でカナンの女性が主イエスに「小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と語っているように、主の家の食卓には食べるものが豊かにあり、食卓からこぼれ落ちてくるもの、滴り落ちてくるものでさえおなかを満たすのに十分なほどのものだとすれば、その食卓についている者たちの喜びは、どれほどのものになるでしょうか。

 

 また、「あなたの甘美な流れに渇きを癒す」という言葉を、口語訳は「あなたはその楽しみの川の水を彼らに飲ませられる」、新改訳は「あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます」と訳し、岩波訳は「あなたの悦楽の川で、あなたは彼らに飲ませる」としています。「甘美な」と訳されているのは、創世記2章8節の「エデン」と同じ言葉です。

 

 エデンの園には一つの川が流れいて、園を潤し、そこで分かれて四つの川となっていたと、創世記2章10節には記されています。その流れの豊かさを考えると、「渇きを癒す」という言葉の内容も、少しなめてみたというようなことではなく、その流れに飛び込んで自由に泳ぎながら、味わい楽しむという様子を想像することが出来ます。

 

 冒頭の言葉(10節)は、主なる神が命あるすべてのものを創造され、命の源である主との交わりの中にこそ、主によって創造された私たちの真の生き方があるということ、恵みの光に照らされて、私たちの生きる道を見出したということ、換言すれば、恵みによって救いに与ったということでしょう。

 

 アブラハムのもとから去らせられたハガルが、イシュマエルを連れてベエル・シェバの荒れ野をさまよい、皮袋の水が尽きたとき、何の希望もなく、ただ泣くほかありませんでした。しかし、そこで神は泣き声を聞かれ、励ましの声をかけられました。そして、ハガルの目が開かれ、水のある井戸を見つけました(創世記21章9節以下、19節)。

 

 「放蕩息子のたとえ」で、放蕩の限りを尽くして帰って来た放蕩息子を見つけると、父親は憐れに思って駆け寄り、首を抱いて接吻し、一番よい服を持って来て着させ、履物を履かせ、指輪をはめてやり、そして、肥えた子牛を屠って祝宴を開きました(ルカ福音書15章11節以下、22,23節)。

 

 弟息子は、憐れみにすがって「雇い人」にしてもらい、飢えを凌げさえすればよいと考えていたのですが、父親はこれでもかと言わんばかり、自分の持てるすべてのものをもって、いなくなり、死んだとすら思っていた「息子」の帰宅を喜んだのです(同32節)。ここに、天に満ちる慈しみ、大空に満ちる神の真実があります。それは、あらゆる罪から贖い出してくださる神の愛です。

 

 ヨハネは「言(主イエス)の内に命があった。命は人間を照らす光であった」(ヨハネ1章4節)、「わたし(主イエス)が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(同4章14節)、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同6章35節)と記しています。

 

 まさしく、主イエスこそ、私たちの命の泉であり、私たちの命の光なのです。命の泉、命の光であられる主から離れないで、日々主と共に歩ませていただきましょう。

 

 主よ、御子イエスこそ、私たちの命の泉、命の光です。私たちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。あなたを知る人々の上に、慈しみが常にありますように。心のまっすぐな人々の上に、恵みの御業が常にありますように。そうして、いよいよ御名があがめられますように。 アーメン

 

 

「主に信頼し、善を行え。この地に住み着き、信仰を糧とせよ。主に自らをゆだねよ、主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にまかせよ。信頼せよ、主は計らい、あなたの正しさを光のように、あなたのための裁きを真昼の光のように輝かせてくださる。」 詩編37編3~6節

 

 37編は「アルファベットによる詩」で、原文の奇数行の文頭の文字がアルファベット順に並んでいます。これを学び聞く者の記憶を助けるために工夫されています。

 

 その内容から、知恵を重んじる立場の作者によって、捕囚期以後に作られた格言集のようなものではないかと言われています。25節の「若いときにも老いた今も」という言葉から、経験豊かな老教師が若い弟子に語りかけるような口調で、格言を伝えようとしていると考えたらよいのではないでしょうか。

 

 岩波訳にも「年老いた知恵の教師がひとりの若者に対し、悪人にいきり立たず、神の教えに従って正しく生き、『地に住まい』、すべてをヤハウェにゆだねれば、不法は悪人は滅び、貧しい義人が『地を取得する』、と説く教訓詩。ヤハウェは終始三人称。アルファベット詩」という注釈があります。

 

 この詩は、「血潮したたる主の御かしら」(Salve caput cruentatum :新生讃美歌221番など)の作詞で知られるパウル・ゲルハルトが、「あなたの道を主にまかせて」(Befiel du deine Wege :讃美歌21 528番など)という神を信頼する賛美歌を作るきっかけとなったものです。神に対する信頼がこの詩全体を貫く基調となっています。

 

 詩人は、苦境にある人々に向かって、1節で「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな」と語りかけます。また7,8節でも「繁栄の道を行く者や、悪巧みをする者のことでいらだつな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」 と命じます。

 

 彼らの苦しみは、悪をなす者たちによってもたらされたものですが、正直者が馬鹿を見るというようなやりきれない状況に苛立ち、悪事を謀って報復するというほどに、堪忍袋の緒が切れかかっているのです。

 

 そこで、彼らの挑発に乗って悪に対して悪をもって報いることがないように(ローマ書12章17節、第一ペトロ書3章9節)、特に悪しき者らの栄達にとらわれてしまわないように、別の道を示します。それは、主を信頼する道、主にすべてを委ねる道です。 

 

 冒頭の言葉(3~6節)で「主に信頼し」(ベター・バ・アドナイ:3節)、「自らを主にゆだねよ」(ヒトアンナグ・アル・アドナイ:4節)、「あなたの道を主にまかせよ」(ゴール・アル・アドナイ・ダルッケハー:5節)と語られ、そしてもう一度、「信頼せよ」(ベター)と言われます。

 

 これらの言葉遣いで、詩人にとって、主に信頼し、その御手に依り頼むことが、人生においてどんなに大きな平安となり、喜びとなり、力となったかということを、想像することが出来るようです。

 

 4節の「ゆだねよ」は、「喜びとする」(アーナグ)という意味の言葉で、新改訳では「主をおのれの喜びとせよ」と訳されています。新共同訳は、主を喜ぶということは、主に信頼してその願いがかなえられることと解釈して、この訳文を選んだのでしょう。ちなみに、11節の「ゆだねる」も同じ言葉です。

 

 また、5節の「まかせよ」とは、「転がす」(ガーラル)という意味の言葉です。直訳すれば、「あなたの道を主の上で転がしなさい」となります。主の上で転がるということから、主の上に重荷を転がす、主の上に完全に乗る、主の手にすべてを委ねるという意味になったわけです。主に任せるというのは、主の道を主と共に歩むことであると解釈することも出来そうです。

 

 そのように主に信頼して歩むとき、主のうちに守られている喜びを味わい、それゆえ、悪事を謀る者が夜の闇をもたらそうとしても(1節)、希望の光に包まれてそれを克服することが出来るのです(6節)。

 

 主イエスが「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ福音書14章6節)と言われました。主イエスが父なる神の御許に行く唯一の道です。主の上を通れば、主と共に歩めば、父なる神の御許に行くことが出来るのです。そして、そこに真理があり、命があります。真実な交わりがあるということです。

 

 主が共におられ、主と共に住み、豊かな交わりを持たせていただくことこそが、私たちキリスト者の栄光の希望なのです。主が共におられれば、この世の歩みがいかに困難であっても、耐え忍ぶことが出来るでしょう。否むしろ、喜ぶことが出来ます。神の慈しみ、神の真心、神の愛がそこに注がれてくることを味わうからです(ローマ書5章3~5節)。

 

 スコットランドの宣教師で探検家のデイヴィッド・リビングストン(1813~73年)は、アフリカの奥地に入って長年にわたって福音宣教のために働く傍ら、奴隷貿易の廃止を訴えました。それは、猛獣や疫病、飢え、そして奴隷商人たちによる迫害などとの戦いの日々だったそうです。

 

 彼はその中で、毎日、5節の「あなたの道を主にまかせよ、信頼せよ。主は計らってくださる」という言葉を口ずさみ、そこで共に神が働いてくださるという事実を味わって力づけられ、前進し続けることが出来たそうです。

 

  「♪主にまかせよ 汝が身を 主は喜び 助けまさん

   悩みは 強くとも 御恵みには 勝つを得じ

   まことなる 主の手に ただまかせよ 汝が身を♪」(新生讃美歌566番)

 

 主よ、この地には悪事を謀る者が多くあり、のさばっているのを見ると、苛立たないではいられません。そして、私たちの内にも不正を行う者を羨む心があります。主を信頼し、信仰を糧とすることなしに、まっすぐに主の道を歩むことは出来ません。一歩一歩、あなたと共に、御旨にかなう道を歩ませてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ、ご自身でわたしに答えてください。」 詩編38編16節

 

 38編は、「七つの悔い改めの詩編」(6,32,51,102,130,143編と共に)の一つに数えられています。救いを求める祈りが記されています。表題を除く22節で詩を形成していますが、これは、ヘブライ語のアルファベットの数と同じです。

 

 詩人は今、大変な苦しみの中にいます。それは、病による苦しみのようです。4節以下の、特に6節や8節の言葉から、詩人は皮膚病を患っているものと思われます。それだけでなく、11節、14節から、目や耳にも及んでいるようです(11,14節)。

 

 それによって、病の苦しみ以上に辛い思いを味わったかも知れません。詩人の苦しみは、ヨブのそれにも似たものだったのではないしょうか(ヨブ記2章7節以下)。

 

 詩人は、この病いの原因が自分の罪過にあると考えており(4,5節)。それゆえに、「主よ、怒ってわたしを責めないでください。憤って懲らしめないでください」(2節)と願う言葉で、この詩を始めています。つまり、病が癒やされて健康になることを願うというよりも、主なる神との関係がよいものとなることで、健全な生活となることを願っているのです。

 

 けれども、「あなたが激しく憤られたからです」(4節)、「わたしの罪悪は頭を越えるほどになり、耐え難い重荷となっています」(5節)という言葉から、弟殺しの罪を犯したカインが、地上をさすらう者になるという判決を受けたときに、「わたしの罪は重すぎて追いきれません」(創世記4章1節以下、13節)と語った場面を思い出します。

 

 今回、ここを読みながら、これは、罰が重過ぎるという文句ではなくて、自分の重罪は、自分自身で背負えば生きていけない、死んでも払い切れるものではないという認識が示されているのではないかと思いました。確かに、私たちは自分で自分の負い目を払い切ることは出来ません。

 

 主イエスが「仲間を赦さない家来のたとえ」で、王様から1万タラントンの借金を赦された家来が、仲間の100デナリオンの借金を赦してやれず、牢役人に引き渡されるという話をされました(マタイ福音書18章21節以下)。

 

 1タラントンは6000デナリオンに相当し、1デナリオンは、労働者の一日の賃金に相当します。ということは、1タラントンはおよそ20年分の賃金にも匹敵する大金です。ですから、1万タラントンならば、20万年分の賃金ということになり、自分の力では到底払い得ないというものです。

 

 詩人は自分の負い目を、1万タラントンの借金のように感じているのかも知れません。そのうえ、詩人をやりきれない思いにさせているのは、友であり家族であった者が自分から離れ(12節)、敵となって詩人を責めることです(13節)。

 

 言われることに反論出来ないのが辛いところですが、しかし、彼らが神の座について自分を責め立ててくることには、我慢ならないものがあり、「わたしの敵は強大になり、わたしを憎む者らは偽りを重ね、善意に悪意をもって答えます」(20,21節)と、敵役の尊大さを告発しています。

 

 ルカ23章49節に「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」とありますが、もしかするとルカは、12節の「疫病にかかったわたしを、愛する者も友も避けて立ち、わたしに近い者も、遠く離れて立ちます」という言葉を念頭において記したのかも知れません。

 

 弟子たちや女性たちと主イエスとの距離の遠さは、関係の遠さを示しているようです。特に「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである」(申命記22章23節、ガラテヤ書3章13節)という規定があり、主イエスの仲間と見られることを、ペトロでなくても避けたいと考えたのではないでしょうか。

 

 そうであれば、ここでルカは、罪ゆえに神の罰を受け、友や愛する家族から敵対されているこの詩人の苦しみを、全人類の罪をその身に背負い、神と人から捨てられて十字架につけられ、贖いの供え物として死なれた主イエスの苦しみと重ね合わせていることになります。

 

 そうすると、冒頭の言葉(16節)の「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます」というのは、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ福音書23章46節)と言っていることになります。

 

 表題に「記念」(レ・ハズキール)と記されています(1節)。これは「思い出させる」(「ザーカル」のヒフィル形)という意味の言葉です。

 

 主イエスと共に十字架につけられた強盗の一人が、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23章42節)と求めました。主イエスは「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同43節)と応じられました。主が私のことを思い出してくださることこそ、私の救いであるというわけです。

 

 一方、主は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マルコ福音書15章34,37節)と叫んで息を引き取られました。詩人の「主よ、わたしを見捨てないでください。わたしの神よ、遠く離れないでください」(22節)という言葉をご自分のものとして、十字架上で叫びの祈りをささげられたかのようです。

 

 主イエスの贖いの死によって、私たちはすべての罪の重荷から解放されたのです。十字架の主を仰ぎつつ、主の恵みに感謝しましょう。苦難の中にある方のために、執り成しの祈りを主にささげましょう。

 

 主よ、独り子イエスが私たちの罪のために死なれましたが、三日目に復活されて天に昇り、栄光をお受けになられました。今も、私たちを覚えて執り成し祈っていてくださることを心から感謝致しま。主イエスを信じ、再びおいでになる日を望みます。絶えず、恵みと平安がこの地に豊かにありますように。特に、苦しみの中にある方々を顧み、癒やしと助けをお与えください。 アーメン

 

 

「主よ、わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください。わたしは御もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人。」 詩編39編13節

 

 39編は、神の癒しと救いを嘆願する詩です。

 

 表題に「指揮者によって。エドトンの詩。賛歌。ダビデの詩」とあり、エドトンとダビデを並べています。エドトンはレビ族に属し、ダビデ、ソロモンのもとで「竪琴を奏でながら預言して主に感謝し、賛美をささげた」(歴代誌上25章3節)音楽指揮者の一人です。ただ、作詩者が二人いるはずはないので、「賛美」といったことを意味するような音楽用語なのかも知れません。

 

 この詩の中に「沈黙」が3度出て来ます。最初の沈黙は3節で、舌で罪を犯さないように(2節)、「沈黙し」(ハーシャー)ていようというものです。これは、「神に逆らう者が目の前にいる」と記されていることから、神に自分の苦しみを訴えることで、神に逆らう者と同じであるとは見られたくないという心理が表されているのでしょう。

 

 ではありますが、そうしているとかえって苦しみがつのり、黙っていられなくなってしまいました。そこで、「教えてください、主よ、わたしの行く末を、わたしの生涯はどれ程のものか、いかにわたしがはかないものか、悟るように」(5節)と主なる神に尋ねます。

 

 2度目は10節で、主が答えてくださることを期待しての沈黙のようです。空しく影のように移ろうようなものが人生なら(6節以下)、何に望みをかけたらよいのかと訴えた後、「わたしはあなたを待ち望みます」(8節)と、その期待を表明しています。主なる神が自分にどのようなことをしてくださるか、息を潜め注目する様子をその沈黙に窺うことが出来ます。

 

 そして最後は冒頭の言葉(13節)のとおり、「わたしの祈りを聞き、助けを求める叫びに耳を傾けてください。わたしの涙に沈黙していないでください」と願い求める言葉が記されています。ということは、詩人の訴えにも拘らず、いまだ主が沈黙しておられるということでしょう。

 

 これらのことから、この詩人の境遇を想像してみました。詩人は、重い病いを患っているのではないかと思われます。そして、命の火が消えそうになっていると感じているようです(6,7,11,14節)。詩人は、この病いが主によって与えられたものであり、それは、詩人の罪を責め、懲らしめるものと考えています(11,12節)。

 

 そこで、病いの苦しみと死の恐れから、詩人の心にはさまざまな思いが湧き上がって来るのでしょう。神を呪いそうになることさえあるのでしょう。そんな自分の心の闇を垣間見た詩人は、あわてて口を閉ざします。けれども、やっぱり黙っていられない思いになるのです(3,4節)。

 

 時には心を奮い立たせ、神を信頼してみようという思いになります。主こそ、詩人の命を御手の中に握っておられるお方だからです。そこで、主が自分をどのように取り扱われるか期待しながら、沈黙し、待ち望んでいるのです(8~10節)。

 

 けれども、すぐには応答がありません。詩人は悩みます。このまま陰府に降って行くのでしょうか。神は救ってくださるのでしょうか。神よ、黙っていないで何とか仰ってください。これ以上苦しませないでください。私の涙を放っておかないでくださいと、叫び求めます。これは、ヨブが13章21,22節で神に求めたことと同じでしょう。

 

 詩人は、信仰と疑いとの間で揺れ動きながら、なお主に向かって訴え祈ります。彼の目の前には死の壁が立ち塞がっていて、もう前に進むことが出来ず、それを乗り越える力もないのです。今まで彼が積み上げてきたもの、頼りにしてきたものは、何の役にも立ちません。すべてが空しいものでした(5~7節)。

 

 主なる神との激しいやり取りの中で詩人が到達した結論は、「わたしはあなたを待ち望みます」(8節)ということであり、そして、「わたしは御もとに身を寄せる者、先祖と同じ宿り人」(13節)だということです。すなわち、神の憐れみなしには生きることが出来ない者であるということ、事ここに至り、一切を主に委ねるほかはないということです。

 

 歴代誌上29章15節に「わたしたちは、わたしたちの先祖が皆そうであったように、あなたの御前では寄留民に過ぎず、移住者に過ぎません。この地上におけるわたしたちの人生は影のようなもので、希望はありません」というダビデの言葉があります。

 

 これは、死を前にしたダビデが、神殿建築を我が子ソロモンに託し、すべてを主に委ねて賛美する祈りの内に、13節の言葉を引用したかのようにして自らの有様を述べたものです。この言葉のゆえに、詩編の編集者がこれを「ダビデの詩」(レ・ダビード)としたのかも知れませんね。 

 

 さらに、新約聖書第一ペトロ書2章11節には、「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」とあり、これはキリスト者のことを語っています。確かに私たちは、この世では旅人であり、寄留者に過ぎない者ですが、神の憐れみを受けて、復活と永遠の生命の希望に生かされているのです。

 

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ福音書7章7節)と約束された主イエスが、この詩人の死の壁を打ち壊してくださり、それに代わって彼の前に永遠の命の扉が開いてくださることでしょう。

 

 私たちも主イエスを信じ、何事につけ、その求めるところを神に申し上げ、あらゆる人知を超える神の平和によって私たちの心と考えとをキリスト・イエスにあって守っていただきましょう(フィリピ書4章6,7節)。

 

 天のお父様、御子イエスが私たちの大祭司として、御前にあって執り成し祈っていてくださることを感謝します。その祈りに励まされて、どんなことも神に打ち明けます。人知を超える平安をお授けくださるという約束を信じて、感謝致します。栄光が主に限りなくありますように。この地に、主の恵みと導きが豊かにありますように。 アーメン

 

 

「主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。」 詩編40編2節

 

 40編は、11節までが神の救いに対する感謝、12節以下が神の救いを求める祈りとなっています。14~18節は、70編2~6節に非常によく似ており、15節以下は、35編にも似た言葉遣いがありました。そのようなことで、この詩は、ある儀式に合わせるために、色々な詩句を組み合わせたものではないかと考えられています。

 

 けれども、詩人の過去の恵みの経験が今の苦しみに耐える力を与え、これまでも神があらゆる苦難、災いから救い出してくださったのだから、これからも救い出してくださるに違いないという信仰によって、先ず感謝をささげた後、今直面している苦難からの救いを求める祈りをささげているものと考えるべきではないでしょうか。

 

 冒頭の言葉(2節)に「主にのみ、わたしは望みをおいていた」と記されています。ヘブライ語原文では「待つ、希望する、待望する」(カーヴァー)という言葉が二つ重ねて用いられており、「待ちに待つ、望みに望む」という強調した表現になっています。

 

 それで口語訳は「わたしは耐え忍んで待ち望んだ」、新改訳は「私は切なる思いで主を待ち望んだ」、岩波訳は直訳調に「待ちに待ち望んだ」と訳しています。「主を待ち望む」という思いについて、25編3節、27編14節、39編8節、52編11節、69編7節、130編5節などにも告げられています。

 

 祈りの答えを、詩人は忍耐をもって待ち望んだ、待ちに待った、その答えがついに与えられた、神は確かに私の祈りを聞いてくださった、そういう思いでしょう。そこから、私はひたすら主の救いを待った、他のものには全く目もくれなかったということで、新共同訳は、「主にのみ、わたしは望みをおいていた」という訳語を選んだのでしょう。

 

 詩人がただひたすら神の助けを待ち望んでいたのは、神が「滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ、わたしの足を岩の上に立たせ、しっかりと歩ませ」(3節)てくださるという恵みを、詩人は繰り返し経験することが出来たからです。「滅びの穴、泥沼」とは、陰府という死の世界を示す表現です。つまり、瀕死の苦難からすくい上げられたということです。

 

 表題に「ダビデの詩」とありますが、ダビデの生涯を振り返ると、羊を飼っていた少年時代、獅子や熊の牙と爪から守られたこと、そしてペリシテの勇士ゴリアトの剣から守られ(サムエル記上17章)、サウルの戦士となって諸外国の敵の手から守られたこと(同18章)、特にダビデを妬み、執拗に命を付け狙うサウル王の手から守られたこと(同24章、26章など)が思い出されます。

 

 また、18節には「わたしは貧しく身を屈めています」とあります。これは、詩人が自分の手には何もない、拠って立つものがないということ、つまりそれは、神の憐れみなしには生きられないということを示しています。神が祈りに答えてくださらなければ、彼は生きることが出来ないのです。

 

 ダビデは、イスラエルの人口を数えようとして、神の怒りを買ったことがあります(サムエル記上24章)。神は疫病を送られ、瞬く間に7万人が死にました。ダビデは預言者ガドの言葉に従い、エブス人アラウナの麦打ち場に祭壇を築いていけにえを献げます。それで疫病がやみました(同18節以下、25節。歴代誌上21章も参照)。

 

 ダビデが人口を数えさせたのは、軍事目的でした(サム上24章9節、歴代上21章6節)。ここに、イスラエルの民は王の持ち物などではないこと、だから、数を頼んでおのが力、誇りとすることは許されず、主なる神のみを畏れ敬い、依り頼むべきことを、厳しく教えられたのです。

 

 やがて、ダビデが祭壇を築き、いけにえを献げたところに、息子ソロモンが神のために、壮麗な神殿を建てました(歴代誌下3章1節)。

 

 その場所について、「エルサレムのモリヤ山」と記されていますが、「モリヤ」は、この箇所のほか、創世記22章2節にしか出て来ません。そこは、アブラハムの子イサクを献げるようにと命じられたところです。今日、エルサレムには、イスラム教の神殿、岩のドームがありますが、それは、イサクを献げようとした岩の祭壇を取り囲むように建てられています。

 

 詩人は7節で「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず、焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めず、ただ、わたしの耳を開いてくださいました」と語っています。神が本当に望んでおられるのは、いけにえや供え物などではなく、神を信頼して、その御言葉に耳を傾けること、御心を悟ることだったというのです。

 

 創世記32章に、ヤコブがハランの地から多くの財産を携えて帰郷してきたとき、ヤボクの渡しで神の使いと一晩中格闘したという記事があります。そのときヤコブは、「祝福してくださるまでは離しません」と神の使いに言います(同37節)。ヤコブは欲しいものを手に入れるためには手段を選ばないという人物でした。そのために、かえって恵みを失うようなこともありました。

 

 ここで、ヤコブの願いに答えて神の使いが彼に与えたのは、「イスラエル」という新しい名前と、腿を傷めて足を引きずって歩くようになったことです(同29,32,33節)。ヤコブとは「かかと、陰謀を巡らす者、乗っ取る者」を意味し、一方イスラエルとは「神が支配したもう、神が守りたもう」という意味です。ヤコブは神から新しい力、恵みをいただきました。

 

 ですから、自分の力で戦うことはないのです。足を傷めたので、押しのける力、蹴飛ばす力はもうありません。ですから、神に依り頼むしかないのです。神の守り、神の支配に信頼する、これが、ヤコブ=イスラエルに与えられた祝福なのです。そして神は、兄エサウの心を全く作り替えておられました。平和裏に再会を果たすことが出来たのです(同33章)。

 

 私たちも、主の恵みに感謝しつつ御言葉に耳を傾け、御心を行うことを望み、その教えを胸に刻み、広く主の福音を告げ知らせましょう。主に信頼し、どんなときにも感謝を込めて祈りと願いを献げ、主の平安をもって心を守っていただきましょう。

 

 天のお父様、ヤコブが、ダビデが主にのみ信頼して救いの恵みに与ったように、私たちも信仰により、その御言葉に聞き従い、御心を行う者となることが出来ますように。私たちの耳がいつも開かれていますように。主の恵みと導きが豊かにありますように。 アーメン

 

 

「いかに幸いなことでしょう、弱いものに思いやりのある人は。災いのふりかかるとき、主はその人を逃れさせてくださいます。」 詩編41編2節

 

 この詩で、詩編の第一巻(1~41編)が終了します。そのためかどうか分かりませんが、この詩は第1編と同じように、「いかに幸いなことか」(アシュレー)という言葉で始まっています。あるいは、同じ言葉で始まっているので、巻末に配置されることになったのかも知れません。

 

 14節の「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン」という言葉は、巻末を示す編集句です(72,89,106編参照)。「たたえる」(バーラク)は「祝福する」という言葉で、幸いを授けてくださるイスラエルの主なる神に祝福を返す言葉になっています。

 

 冒頭の「弱いもの」(ダル)には、「低い、貧しい、卑しい、寄る辺がない」という意味もあります。七十人訳(ギリシャ語訳旧約聖書)では、「貧しい」という意味の二つの言葉(プトーコス、ペネース)が併置されています。弱く貧しいもの、つまり助けを必要としているものということになります。

 

 「思いやりがある」(マスキール)は、「思慮深い、熟慮する、賢くなる」という言葉です。14編2節では「目覚めた人」と訳されています。32編の表題に「マスキール」と記されていて、岩波訳はこれを「教訓詩」と訳しています。もともと、学ぶという意味があるのでしょう。相手のことを学ぶ、理解するということから、思い遣るという言葉にもなったわけです。

 

 これらの言葉の意味から言えば、助けを必要とする弱い人、低くされている人々を思い遣る人こそ、賢い者であるということになり、そのような人の幸いが語られているわけです。

 

 弱く貧しいものに思い遣りを示す人の幸いについて、主イエスが山上の説教の中で、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである」(マタイ福音書5章3節)、「憐れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける」(同7節)と教えておられます。

 

 主イエスは、神の身分でありながら、自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました(フィリピ書2章6,7節)。それは、私たちを豊かにするためであり(第二コリント書8章9節)、また、私たちの弱さを思い遣ることが出来るようになるためでした(ヘブライ書4章15節など)。

 

 詩人は、自分自身をふくむこの詩の読者を「弱いもの」として、また、主なる神を真に「弱いものに思いやりのある人」として、ここに記しているようです。ですから、5節以下で、「主よ、憐れんでください」と求めているのです。

 

 勿論、弱いものが自分を救ってくださる神を、「いかに幸いなことでしょう」といって祝福するというのは、どう考えても、あり得ないことです。これは、寄る辺のない者に目をとめ、寄り添い、立ち上がらせてくださる主なる神の御業に倣い、弱いものを思い遣り、守る主の僕が登場することを促す教育的な発言でしょう。

 

 詩人の苦しみの原因は、4節によれば「病」であり、5節で「あなたに罪を犯したわたしを癒やしてください」と求めているところから、罪を犯した報いとして、病を患っていると考えているようです。

 

 それだけでなく、6節には「敵」という存在も登場してきます。「早く死んでその名も消え失せるがよい」というのは、その敵が詩人の罪を告発しているということなのでしょう。しかも敵は、10節の「わたしの信頼していた仲間、わたしのパンを食べる者が、威張ってわたしを足げにします」という言葉から、詩人の友人だった人物であることが分かります。

 

 実は、ヨハネ福音書13章18節にこの言葉が引用されて、イスカリオテのユダの裏切りが予告されました。「わたしに逆らった」とは「わたしに向かって彼のかかとを上げる」という言葉です。つまり、ヨハネ福音書において主イエスは、この言葉をご自分の受難の預言であると教えられたわけです。

 

 主イエスは、罪を犯されませんでしたが(ヘブライ書4章15節)、私たちの罪の身代わりに、十字架に死なれました(同9章28節)。「呪いに取りつかれて床に就いた。二度と起き上がれまい」(9節)とは、実にキリストを十字架につけた者の背後で糸を引いたサタンの心根を表しているでしょう。

 

 けれども、神は主イエスを陰府から引き上げ、三日目に甦らせられました(使徒言行録2章31,32節)。それは、11節以下の詩人の祈りが神に聞き届けられた結果であると考えることも出来ます。だから、「主をたたえよ、イスラエルの神を、世々とこしえに。アーメン、アーメン」(14節)と、主をたたえているわけです。

 

 この詩に示されているように、主イエスの贖いの死と復活を通して、私たち主イエスを信じる者は誰でも、神との関係が回復され、神の御前に神の子として立つことが許されたのです。そして、神は決して私たちを離れず、私たちを捨てない、と約束していてくださいます(ヘブライ書13章5節)。

 

 主イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神にささげましょう(同13章15節)。主の祝福に与り、神に喜ばれるいけにえとしての「善い行いと施し」を忘れないようにしましょう(同16節)。

 

 主よ、今年も日本の各地に自然大規模災害が発生しました。主の憐れみによって神の子とされ、その恵みに与っている者として、被災された方々のことを思い遣り、愛し合うことを学ばせてください。あなたの恵みと慈しみとが絶えず豊かにありますように。 アーメン

 

 

「涸れた谷に鹿が水を求めるように、神よ、わたしの魂はあなたを求める。」 詩編42編2節

 

 42編から詩編の第2巻(42~72編)が始まります。

 

 42編について、新共同訳は「42(-43)」と記しています。6,12節と43編5節が全く同じ言葉で、詩のリフレインの形になっていること、思想や内容に関連があること、43編には表題がないことなどから、本来は一つの詩だったのでしょう。それが、祭儀上で何らかの理由で、2回目のリフレインを歌ったところで二つに分けて使用されることになったのでしょう。

 

 42編は、エルサレムから離れたところに追放され、その地からエルサレムの神の宮にいます主を慕って嘆く歌です。バビロンに捕囚とされた民の中に、この詩の作者がいたと考えてもよいかも知れません。

 

 冒頭の言葉(2節)を、口語訳では「神よ、鹿が谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」と訳しています。以前は、鹿が谷川の水を飲みに山の斜面を下って来て、せせらぎで喉を潤し、一声啼いてまだ山の茂みに姿を隠すといった情景を思い浮かべておりました。

 

 けれども、新共同訳の「涸れた谷」という訳語から、谷底に降りて来て水を飲もうとしても、そこには水がない、そこで、何とか水を見つけようとして必死になるというような状態ではないかと思うようになりました。岩波訳は「川床」と訳し、脚注に「乾期に干上がった川床」と記しています。

 

 84編7節に「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう」とあります。「嘆きの谷」を岩波訳は「バーカーの谷底」と訳して、「『バーカー』は神殿への途上にある涸れ谷(ワーディ)の名か。『ベケー』と読むと『嘆き』(七十人訳等。エズラ10章1節)になる。・・その位置は不詳」という注を付けています。

 

 あるべきところに、あるはずのものがないとなると、どんなに失望することでしょう。落胆することでしょうか。巡礼者が水を求めて谷底に降ってみると、涸れた谷で水を見つけられず、そこを「嘆きの谷」と呼んだのかなあと想像します。

 

 しかし、重い足を引きずって、来た道を戻るというようなことではないでしょう。水を得ないまま、帰るわけにはいきません。川床を足で掘ってみるでしょう。あるいは、水を求めてさらに川床を移動するでしょう。なんとしてでも水を見つけて渇きを癒さなければ、命にかかわるのです。

 

 その一途さ、必死さを眺めながら、詩人は自分のことを思うのです。鹿が水なしには生きられないように、そのために必死に水を探し求めるように、自分も、神の助けなしに明日を迎えることは出来ない、兎にも角にも主なる神の御顔を慕い求めるという思いになっているのです。

 

 3節に「神に、命の神に、わたしの魂は渇く」とあります。原文は「渇く」(ツァーメー)、「わたしの魂」(ナフシー)、「神に」(レー・エロヒーム)、「命の神に」(レ・エル・ハイ:「生ける神に」の意)で、長く神を慕い求めて、魂が渇いてしまっているという状況です。

 

 だから、「いつ」(マータイ)、「来るだろう」(アーボー)、「そして、見るだろう」(ヴ・エーラーエ)、「神の顔を」(プネー・エロヒーム)と、諦めにも似たつぶやきが、口をついて出ています。 

 

 詩人を取り巻いている環境、その現実は厳しいものです。周りの人から、始終「お前の神はどこにいる」(4節)と尋ねられます。それは、詩人を心配しての言葉でしょうか。それとも、嘲りの言葉でしょうか。11節にも「お前の神はどこにいる」という言葉があり、詩人を苦しめる者が「絶え間なく嘲って言う」と告げられています。

 

 いずれにせよ、苦しみの中にいて神を求めているのですが、なかなか助けが得られない、神がその祈りに答えてくださらないという状況でしょう。都を離れ、神殿に詣でることが出来ないようになっているのを、神から遠ざけられたかのように考えているのかも知れません。

 

 というのも、以前は「喜び歌い感謝を献げる声の中を、祭りに集う人の群れと共に進み、神の家に入り、ひれ伏」(5節)すことが出来たのです。巡礼者と共に連れ立って、エルサレムの城門をくぐり、まっすぐ神殿の中庭にやって来たときの歓喜、感謝に溢れる思いをしたのは、いつのことでしょう。 

 

 詩人は、「お前の神はどこにいる」と問われて、本当に辛い思いになっているのではないでしょうか。本当は、「ほらここに、神はわたしと一緒におられる」と答えたいのに、現実はむしろ、自分の方が、私の神はどこにおられるのかと問わざるを得ない状況に閉じ込められているからです。だから、昼も夜も絶え間なく涙がこぼれ(4節)、魂はうなだれるのです(6,7節)。

 

 しかし、詩人はなおも神を尋ね求めます。涸れた谷で水を求める鹿のように、諦めずに神の御顔を待ち望みます(6,12節)。そこにしか、詩人の救いはないからです。詩人は、主が詩人の呼びかけに応え、み顔を向けてくださるところに、一縷の望みを抱いているのです。

 

 だから、「御顔こそ、わたしの救い」(イェシュオート・パーナーウ:「彼の顔の救い」の意)と告白するのです。「告白」(ヤーダー)は、「感謝、賛美」という意味もあります。口語訳、新改訳は「ほめたたえる」と訳しています。主が必ず詩人の求めに答えてくださるという信仰の表現です。

 

 主イエスは、「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(マタイ福音書7章7節)と語られ、「あなたがたの父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(同11節)と仰いました。

 

 また、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ福音書7章37,38節)と約束しておられます。

 

 慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神を信じましょう。神は、あらゆる苦難に際して私たちを慰めてくださいます(第二コリント書1章3,4節)。神は、忍耐と慰めの源であり(ローマ書15章5節)、また、希望の源です(同13節)。平和の源とも言われます(同33節)。

 

 主イエスを信じ、主にあって、忍耐と慰め、希望、平安を満たしていただきましょう。

 

 希望の源なる神様、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和で私たちを満たし、聖霊の力によって、希望に満ち溢れさせてください。平和の源なる神様、あなたが常に私たちと共にいて、恐れと不安から解放してくださいますように。将来に希望を見いだせないでいる人々を顧み、救いの御顔を仰ぐことが出来るようにしてください。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「あなたの光とまことを遣わしてください。彼らはわたしを導き、聖なる山、あなたのいますところにわたしを伴ってくださるでしょう。」 詩編43編3節

 

 43編は、もともと42編と一つの詩であったと考えられています。浅野順一氏は、「吟誦する場合の便宜上、二つに区分されたまでのことだろう」と、著書『詩篇選釈 下巻』で述べておられました。42編には詩人の困難な状況が描かれていましたが、43編には救いを求める祈りが記されています。

 

 浅野氏は、「この詩人が、エルサレム神殿に勤務していたが楽人であり、会衆を音楽的に指導するレビ人であったことは、詩の内容から想像することが出来る。しかも、彼はきわめて勝れた詩人であったようである」(上掲書)と想定しています。

 

 1節に「神よ、あなたの裁きを望みます。わたしに代わって争ってください」とあります。「裁きを望みます」は「わたしを裁いてください」(シャーフテーニー)、「わたしに代わって争ってください」は「わたしの争いを争ってください」(リーバー・リービー)という言葉です(岩波訳参照)。新改訳は「わたしの訴えを取り上げ」としています。

 

 これは、神が裁判官、また弁護士となって、自分をこの苦境から救ってほしいという願いです。このとき詩人は、「神の慈しみを知らない民(ゴーイ・ロー・ハーシード)、欺く者、よこしまな者」(イーシュ・ミルマー・ヴェ・アヴェラー)という「敵」(オーイェーブ、2節)によって嘲られ、欺かれ、虐げられていたのです。

 

 さらに冒頭の言葉(3節)で、「あなたの光とまことを遣わしてください」と求めています。「あなたの光と(あなたの)まこと」を擬人化して「遣わしてください」と言い、「彼らはわたしを導き、聖なる山、あなたのいますところにわたしを伴ってくださる」と期待しているのです。

 

 ここで、「聖なる山」とは、エルサレムの都が築かれたシオンの丘を指していると考えられますが(2編6節、3編5節、15編1節など参照)、そこは神殿が建てられた場所であり、浅野氏の想定が正しければ、詩人はそこで主に仕えていたのです。そして、再びそこで神と相見えることを望んでいるのです。

 

 それによって救いの恵みを味わい、賛美のいけにえ、喜びと感謝の歌を神にささげたいのです。「神の祭壇にわたしは近づき、わたしの神を喜び祝い、琴を奏でて感謝の歌をうたいます。神よ、わたしの神よ」(4節)と語っているとおりです。

 

 詩人が「遣わしてください」と求めた「あなた(神)の光とまこと」について、これらは、神のご人格を表す言葉ですが、一般的には、「慈しみとまこと」、「恵みとまこと」(25編10節、40編12節など)と言われることが多く、「光とまこと」という組み合わせは、ここ以外にはありません。

 

 「光」(オール)は、神の御顔に輝いているものです(4編7節、44編4節、89編16節など)。詩人は、神の御顔を仰ぐことを待ち望んでいるので(42編3,6,12節、43編5節)、「慈しみ、恵み」というところを「光」と言い換えたと考えたらよいのでしょう。

 

 光を求めるということは、今詩人は、暗闇に閉ざされているということでしょう。その暗闇は、光の神から見放されたために、光を失ってしまったということです(2節)。1節の「民」(ゴーイ)には「異邦人」という意味もあります。異国で苦しめられて、神に救いを求めているのに、その祈りに答えてくださらないということではないでしょうか。

 

 「まこと」(エメト)は、「真理、真実、確かさ、忠実さ」という言葉で、神の真実、救いの確かさを表しています。それによって詩人は、変わらない神との関係、豊かな交わりを求めているわけです。いかに、不正、不真実、暴虐に苦しめられてきたかということでしょう。

 

 主なる神は、詩人の求めに応じて「光とまこと」をお遣わしになりました。それは、主イエスです。ヨハネ福音書1章で、「言(ことば:ロゴス)」なる主イエスが、父なる神のもとから遣わされました。同4節に「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と言われ、同9節では「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」と言われています。

 

 さらに、同14節で「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と言います。ここに、「言」として言い表されている父なる神の独り子イエスが、「肉」即ち人間となられたお方であると明示しています。

 

 ヨハネは、「恵み」という言葉をあまり用いません。ここに「恵みと真理」といっているのは、旧約的な用法(創世記24章27節、詩編25編10節など)です。 それは、神の契約に表れた慈しみと、契約への忠実な態度を意味しています。

 

 主イエスを信じた者たちは、人間となってこの世においでくださった主イエスに、神の栄光を見ることが出来ました。それは、父の独り子としての栄光でした。同18節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と言われているとおり、神がお遣わしくださった主イエスを通して、神の御顔を仰ぐことが許されたわけです。

 

 パウロも、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(第二コリント書4章6節)と記しています。この光は、あのダマスコ途上でパウロを巡り照らしたものであり(使徒言行録9章3節)、それによってパウロの心の目が開き、彼は迫害者から伝道者へと造り変えられたのです。

 

 心の清い者は、神を見ると言われていますが(マタイ福音書5章8節参照)、主イエスは私たちを清い者とするためにこの世に遣わされ、私たちの代わりに罪の呪いを身に負い、十字架にかかって死んでくださったのです。その贖いの故に、私たちは憚ることなく大胆に神の御座に近づくことが出来るものとされたのです。

 

 日々十字架の主を仰ぎ、主の御名を賛美しつつ、主の御名によって主の憐れみを祈りもとめつつ、御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 

 主よ、私たちを聖霊で満たしてください。あなたの御言葉が私たちの内に豊かに宿りますように。聖霊と主の御言葉により、詩と賛美と霊の歌をもって、主をほめたたえます。御名が崇められますように。 ハレルヤ! アーメン

 

 

「わたしが依り頼むのは自分の弓ではありません。自分の剣によって勝利を得ようともしていません。我らを敵に勝たせ、我らを憎む者を恥に落とすのは、あなたです。」 詩編44編7,8節

 

 この詩は、「救いを求める共同体の祈り」です。詩人はまず、かつてイスラエルが神の栄光を帯びていた時代を振り返りながら(2~4節)、主への信仰を言い表します(5~9節)。

 

 3節の「(国々の領土を)取り上げる」と4節の「(領土を)取った」とは、同じ「ヤーラシュ(捕まえる、所有する、相続する)」という言葉が用いられています。3節の動詞はヒフィル形(使役形)、4節はカル形(標準形)です。

 

 イスラエルの先祖が獲得した土地は、神が異邦の民から取り上げさせたものだという文脈から、「国民、異邦人」(ゴーイ)を「国々の領土」と意訳しているわけです。口語訳は「もろもろの国民を追い払って」、新改訳は「国々を追い払い」と訳しています。 

 

 また、「枝が伸びるために」は、「遣わす、広げる」(シャーラー)という言葉で、国々の民を苦しめるために、神がイスラエルを派遣したということです。新共同訳は「広げる」(ピエル形)の意味を強く出して、「その枝が伸びるために、国々の民を災いに落としたのはあなたでした」と訳しています。

 

 先住民を追い出して、そこに植え付けられたイスラエルがその枝を張り広げることができるように、神が諸国民を苦しませたという解釈を示しているわけです(口語訳も同様)。岩波訳は「諸民族を砕き去って彼らをお遣わしになったのです」としています。

 

 いずれにせよ、かつてイスラエルの民が、アブラハムに約束された土地を嗣業の地として受け継ぐことが出来たのは、イスラエルの父祖たちの剣や腕の力などではなく、神の御心、神の御手の業であったということが、明確に述べられています(4節)。

 

 「御顔の光」は、4編7節、89編16節にも出る表現で、42,43編の「御顔こそ、わたしの救い」に通じ、それは民数記6章25,26節に示されるとおり、神の恵みを表しています。

 

 だから、今も依り頼むべきは、弓や剣などではなく、王の王、主の主なる神であることを、詩人は冒頭の言葉(7,8節)のとおり宣言します。そして、主が自分たちに味方してくださったので、感謝と賛美をささげるといいます(9節)。

 

 ここに、一つの危険が示されます。自分たちの戦いのために神に依り頼めば、いつでも味方になってくださる、感謝と賛美をささげることで神を味方につけることが出来ると思い込む危険です。

 

 

 けれども、神は勝利を約束するアイテムなどではありません。詩人は、「しかし、あなたは我らを見放されました。我らを辱めに遭わせ、もはや共に出陣なさらず、我らが敵から敗走するままになさったので、我らを憎む者は略奪をほしいままにしたのです」(10,11節)と言っています。

 

 詩人はこの言葉で、かつてイスラエルに恵みをお与えになった神が、今なぜ助けてくださらないのか、共に戦ってくださらないのかと訴えています。これは、御言葉に立ち、主に従って歩んだヨシヤ王の最期の時のことでしょうか(列王記下22章以下)。

 

 ヨシヤは、父アモンの道にも祖父マナセの道にも歩まず、徹底的に主の御言葉を実行しました(同23章24,25節)。しかし、新興バビロニア帝国に首都を陥落させられたアッシリアを応援するためにカルケミシュに向けて出陣してきたエジプトの王ネコを、メギドで迎え撃とうとヨシヤが出て行ったところ、逆に討たれてしまいました(同23章29節)。

 

 歴代誌下35章20節以下の記事によれば、エジプトの王ネコは、「今日攻めてきたのはあなたに対してではない。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる」とヨシヤに語り、イスラエルと戦う意志がないことを示しています。けれども、ヨシヤは神の口から出たというネコの言葉を聞こうとはしませんでした。

 

 ヨシヤは、国力が回復した今、新興バビロニア帝国に協力して、アッシリアを滅ぼす絶好機と考えていたのかもしれません。そこで、アッシリアを助けようとしたエジプトを迎え撃つ気になったのでしょう。けれどもそのとき、神はヨシヤに味方してくださいませんでした。

 

 ヨシヤに慢心があったのでしょうか。徹底的に神に聴き、その御言葉に従うという道をそれ、剣にかけて敵を打ち破ろうと出て行ったのです。そして、あえなく返り討ちに遭ってしまいました。

 

 実は、エジプト・アッシリア連合軍がカルケミシュでバビロニア帝国と戦い、さんざんに打ち破られてしまいました。バビロニア王の年代記によれば、そのときの戦いでエジプトに戻ることが出来た者は一人もいなかったそうです。ということは、ヨシヤが何もしなくても、アッシリアとエジプトは、バビロニア帝国によって滅ぼされてしまったわけです。

 

 神がヨシヤに望んでおられたのは、過越祭を盛大に祝い、多くのいけにえをささげることよりも(歴代志下35章1節以下)、謙って神に聴き従う、打ち砕かれた心、悔いる霊だったのです(詩編34編19節、51編19節など)。

 

 一度や二度の成功で慢心することなく、あらためて主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、御心を行って主の栄光を現すために、主の右の御手、御腕に依り頼みましょう。  

 

 主よ、今日も御言葉をいただきました。今あらためてあなたの慈愛と峻厳を思います。どうか、いつも慈愛の御手のもとに私たちをお守りください。恵みの光の中を歩ませてください。主の慈しみとまことが、この地に豊かにあらあわされますように。 アーメン

 

 

「神よ、あなたの王座は世々限りなく、あなたの王権の笏は公平の笏。」 詩編45編7節

 

 この詩は、王の婚礼に際して歌われたものです。表題の「『ゆり』に合わせて」は、60編1節、69編1節、80編1節にも出ますが、「ゆり」という名の歌か、その言葉で始まる歌があって、その旋律に合わせて歌えという指示だろうと考えられますが、現在、それはどういうものか分かりません。

 

 列王記上3章1節以下の、ソロモンとエジプトの王ファラオの娘との婚礼のようなときに歌われた祝婚歌と言ってよいでしょう。それで、「愛の歌」が歌われているということでしょうか。

 

 もっとも、「愛の歌」の原語は「シール・イェディドート」、愛されている者の歌という言葉です。「愛されている者」といえば、ソロモンが生まれたとき、主はその子を愛されたので、「エディドヤ」(主に愛された者)と名付けられたことを思い起こします(サムエル記下12章25節)。

 

 詩の前半には、王の人物評価が記されます。彼は、外見も教養の面も非常に優れています(3節)。剣を帯びて勇ましく戦い、国に勝利をもたらします(4~6節)。その政治は、「公平の笏」と言われるように、権力によって横暴に振舞うのではなく、真実と公正をもって執り行われています(7節)。彼は神に従うことを愛するゆえに、神に王として選び立てられ、頭に油を注がれました(8節)。

 

 政治的宗教的、そして軍事的なリーダーである王の婚礼は、国家社会にとって言うまでもなく重要な行事です。王妃は諸国の王女たちの中から、王にふさわしい女性が選ばれました(10節)。王の婚礼は、外交的な意味でも重要です。

 

 13節に「ティルスの娘よ」とあります。ティルスは、シドンに並ぶ地中海に面したフェニキヤの都市で、海上貿易で栄えていました。イスラエルはこの国との同盟が結ばれることを望んでいたものと思われます。北イスラエルの王アハブの妻イゼベルは、シドンの王女でした(列王記上16章31節)

 

 この詩は、王をたたえる言葉に終始していて、少々意外な感じがします。特に驚くのは7節で、王をたたえる文章の中に、突然、「神よ」という呼びかけが登場することです。その内容から、王のことを「神」と呼んでいることになります。こういう例は他にありません。

 

 もしも、王が「神」と呼ばれることをよしとしているのならば、ヘロデ王のように神に打たれてしまうでしょう(使徒言行録12章30節以下)。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(でエジプト記20章3節)という十戒の第一戒に違反することになるからです。

 

 口語訳は7節を「神から賜ったあなたの位は永遠にかぎりなく続き」と訳しています。新共同訳は原文に忠実な訳ですが、その意味は、口語訳のように解釈されるべきでしょう。

 

 ところが、この7節、8節の言葉を、これはキリストのことを語っているのだという解釈が示されました。それは、ヘブライ書1章8,9節です。「一方、御子に向かってはこう言われました」と記したあとに、この箇所が引用されているのです。初代教会の人々は、ここに、イエス・キリストを見出したわけです。

 

 エフェソ書5章21節以下で、パウロが夫婦に関する教えを述べていますが、そこで夫をキリスト、妻を教会にあてはめて説明しています。そう考えると、詩人がイスラエルの王を「神よ」と呼んでいるのは、なるほど納得!ということになりますね。

 

 神の御子イエスは、ユダヤ人の王としてお生まれになりましたが(マタイ福音書2章)、それは、エルサレムの「象牙の宮殿」ではなく、ベツレヘムの家畜小屋でした(同5節以下)。東方から博士たちが乳香、没薬などの高価な香料を贈り物としてささげましたが、しかし主イエスは、家畜の糞尿の匂いの染み付いた飼い葉桶に、布にくるんで寝かされていました(ルカ福音書2章7節)。

 

 インマヌエルと称えられる方は(マタイ1章23節)、すべての人々に仕える主でした。十字架にかかられる前、主イエス一行がエルサレムに上られたとき、大勢の群集がイエスをメシヤ=キリスト(油注がれた者)として歓呼の声をもって迎えました。それは、平和の王がエルサレムにこられるというイザヤの預言が実現した出来事でした(同21章5節)。

 

 主イエスは、まことの王は、柔和と謙遜をもって統治するものであることを、身をもって示されました。だから、主なる神は、主イエスに喜びの油を注がれたのです。

 

 その油は、王に即位するときに注がれるものです。それは、公生涯に入られるとき、天から聖霊が降って来たことを示していると考えることも出来ますが、十字架に贖いの業を成し遂げられた後、復活して天に昇られ、神の右の座に着かれたときと考えるのが、最もよいのではないでしょうか。

 

 その御手に、王の権威を示す笏が握られています。そして主は、愛と義をもって、真実で公平な政治を行われます。

 

 主に愛されている者として、イエスを王の王、主の主として拝し、主を喜び、御名を褒め称え、その御言葉に従って歩ませていただきましょう。

 

 主よ、あなたは私たちすべてのために、御子をさえ惜しまず死に渡された方であり、御子と一緒にすべてのものをお与えくださいます。万事が益となるように計らわれます。あなたの御前にひれ伏し、御言葉に耳を傾けます。あなたの御顔を拝します。御名があがめられますように。御心が行われますように。 アーメン

 

 

「力を捨てよ、知れ、わたしは神。国々にあがめられ、この地であがめられる。」 詩編46編11節

 

 46編は、「シオンの歌」(48,84,87編)として知られる、神の都エルサレムの重要性を讃える賛歌です。表題の「アラモト」とは「少女」という意味です。岩波訳は「少女調」と訳して、「『少女』という言葉で始まる周知の歌があって、その旋律で歌えという指示、または音程(ソプラノ)の指示か」と脚注に記しています。

 

 宗教改革者のマルチン・ルターは、特にこの詩を愛し、この詩をもとにして、1529年に「神はわがやぐら」(新生讃美歌538番)というコラールを作詞作曲しました。バッハの教会カンタータ「われらが神は堅き砦」(BWV80)をはじめ、多くの作曲家によって編曲されています。

 

 後にメンデルスゾーンが交響曲第五番を作曲し、「宗教改革」という名前をつけています。第四楽章冒頭に「コラール『神はわがやぐら』」と書かれていて、フルートがルター作曲のコラールの旋律を奏で出します。

 

 それとは別に、英国の優れた讃美歌作家アイザック・ウォッツも、詩編46編をもとに「神はわが力」(教団讃美歌286番)を作詞しています。日本で最もよく歌われる讃美歌の一つです。この力強い詩に感動し、励ましを受けた人は和知れないことでしょう。

 

 この詩のテーマは、「わたしたちの避けどころ、わたしたちの砦」(2節)としての万軍の主なる神です。8,12節の「砦の塔」(ミシュガブ)も、「避けどころ」という意味を持ち、口語訳はそのように訳しています。万軍の主は、苦難の時に共にいて、必ず助けてくださいます。

 

 続く3,4節に「わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」と詠われています。

 

 唐の詩人杜甫が、「春望」という詩に「国破れて山河在り」と詠んでいます。長安の都は戦乱のために破壊されてしまったけれども、山河の自然は昔のままに残っているということですね。大地は揺るがないもの、山は動かないものの象徴といえます。

 

 ところが、「地が姿を変え、山が揺らいで海に移る」(3節)、「海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震える」(4節)という、考えられないような天変地異が起こったとしても、「わたしたちは決して恐れない」(3節)と語っています。

 

 2011年に起こった地震と津波は、東日本に甚大な被害をもたらしました。全世界の観測史上5本の指に入る規模(マグニチュード9.0)の地震が引き起こしたもので、20年前の阪神大震災を上回る被害になりました。私たちは、このような想定外の出来事に遭遇すると、動転してしまいます。およそ冷静な判断も出来なくなります。「決して恐れない」どころではありません。

 

 ここで詩人が「恐れない」と語っている根拠は、不撓不屈の精神力というようなものではありません。天変地異を恐れ、震え上がっているとしても、先に述べたとおり、イスラエルには苦難の時に神の助けがあり(2節)、万軍の主が常に共にいてくださるからです(8,12節)。

 

 過去には、エジプトから脱出させていただいた奇跡の物語があります(出エジプト記参照)。また、アッシリアの猛攻から奇跡的に救われたこともありました(列王記下18章13節以下参照)。バビロニアの捕囚からも奇跡的に解放されました(歴代誌下36章20節以下など)。そのようにして、イスラエルの民は、自分たちと共におられる主こそ、まことの神であることを知ったのです。

 

 冒頭の言葉(11節)で「力を捨てよ」とは、「静まる、リラックスする」という意味の言葉(ラーファー)です。口語訳は「静まって」、新改訳、岩波訳は「やめよ」としています。

 

 サムエル記下24章16節では、ダビデの人口調査に憤られた主が、御使いに命じて七万人の民を討ったことが記されていますが、その罰を中止させるときに「その手を下ろせ」と命じていて、そこに「ラーファー」が用いられています。

 

 「静まれ」といえば、水戸黄門の印籠を思い出しますね。ドラマのクライマックスに、黄門に仕える家臣が三つ葉葵の紋章のついた印籠を出しながら、「静まれ、静まれ。この紋所が目に入らぬか」というと、すべての者がその前にひれ伏します。そのように、「わたしは神」と宣言されるお方の御前に、恭順の姿勢を示すことが求められています。

 

 神は、これから戦いを始められるというのではありません。「地の果てまで、戦いを立ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」(10節)のです。だから、静まって心安らわせ、主なる神に信頼せよというわけです(イザヤ書30章15節も参照)。

 

 嵐の船の中で眠っておられた主イエスが、風と湖を叱って「黙れ、静まれ」と言われると、すっかり凪になるという出来事が、マルコ福音書4章35節以下、39節に記されています。主イエスが命じると、風や湖さえも、それに従うのです(同41節)。

 

 やがて、「太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺る動かされる」(同13章24,25節)という、この世の終わりのときがやって来ます。それよりも先に、自分自身の人生の終末を迎えるかも知れません。

 

 そのとき、どんなに心が騒ぎ、波立っても、まさに溺れ死にしそうな状態であっても、そこに、インマヌエルと称えられる御子イエスが共にいてくださるのです。その主イエスが、「わたしの平和を与える」と約束してくださいました(ヨハネ福音書14章27節)。怖じ惑う私たちに、「心騒がせるな、おびえるな」と声をかけてくださる主の平和、平安が、そのとき授けられるのです。

 

 それゆえに私たちも、この世に何が起ころうとも、「決して恐れない」と語らせていただくことが出来るでしょう。何しろ、私たちは天に国籍を持つものとされており(フィリピ書3章20節)、その行くべき所が既に定まっているのですから。そうして、「知れ、わたしは神」と宣言された主とまみえ、確かに、主こそ神であることを知ることになるでしょう。

 

 主よ、「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移る」という、すべての拠り所を失って不安と恐れに押しつぶされてしまいそうな状況にあっても、「わたしたちは決して恐れない」と、その信仰を言い表す導きが与えられることを、心から感謝致します。神の恵みと平安が、頻発する大規模自然災害などによる避難生活のさなかで苦しんでおられる方々の上に豊かに注がれますように。 アーメン

 

 

「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる。」 詩編47編6節

 

 47編は、全地の王となられた主なる神への賛美を、全地の民に呼びかける詩です。

 

 2節で「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びを上げよ」と、そして7,8節でも「歌え、神に向かって歌え。歌え、我らの王に向かって歌え。神は、全地の王。ほめ歌をうたって、告げ知らせよ」と呼びかけています。賛美こそ、主なる神にふさわしいものだからです(22編4節、33編1節、147編1節、出エジプト記15章2節など)。

 

 呼びかけに続いて、3節では「主はいと高き神、畏るべき方、全地に君臨される偉大な王」と、9節でも「神は諸国の上に王として君臨される。神は聖なる王座に着いておられる」と歌われています。

 

 イスラエルは、何度も他国に侵略され、その支配を受けてきました。当然のことながら、それは決して喜ばしいことではありません。けれども、そのような苦難を味わいながら、そこで真の王なる神を知ったのです。

 

 主なる神は、イスラエルの民が苦難の中から主に叫び求めると、その声を聞かれ、救いの手を差し伸べられました(出エジプト記3章7節、ネヘミヤ記9章27,28節、ヨナ書2章3節など)。彼らが苦難を味わったのは背きの罪の故ですが、それはイスラエルを滅ぼすためではなく、将来と希望、平和を与える計画に基づくものだったのです(エレミヤ書29章11節)。

 

 そして、預言者が預言していたとおりに、イスラエルを癒し、繁栄を回復されました(同33章6節以下、歴代誌下36章21節以下、エズラ記1章1節以下など参照)。確かに主は、イスラエルを悔い改めに導き、恵みを味わわせるために、バビロンをさえお用いになることの出来る真の神、全地に君臨される偉大な王なのです。

 

 神は、アブラハムに与えると約束された地にイスラエルを導き入れ、それを嗣業の地とされました(105編8~11節、創世記12章1,7節、ヨシュア記13~19章など)。5節で「われらのために嗣業を選び、愛するヤコブの誇りとされた」というのは、そのことです。「ヤコブの誇り」は「われらのための嗣業」と同義で、イスラエルの地のことを指しています。

 

 そして、イスラエルの神は聖所におられ、賛美をお受けになる方です(22編4節)。口語訳は「イスラエルのさんびの上に座しておられる」、新改訳は「イスラエルの賛美を住まいとしておられます」と訳しています。主がイスラエルの賛美を住まいとされるということは、賛美のあるところが聖所、神を礼拝する場ということになります。

 

 かつて、イスラエルの王ダビデが神の契約の箱をエルサレムに運び上げた様子が、サムエル記下6章に記されています。同15節に「ダビデとイスラエルの家はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛を吹き鳴らして、主の箱を運び上げた」とあります。ダビデは「主の御前で力のかぎり踊った」(同14節)と記されています。

 

 詩人が冒頭の言葉(6節)で、「神は歓呼の中を上られる。主は角笛の響きと共に上られる」と詠ったのは、このときの情景を心に思い描いていたからではないでしょうか。そうすると、忘れてならないのは、詩人は、またイスラエルの民も、そしてまたダビデも、「主の箱」に神を見ていたことになります。

 

 「主の箱」には、十戒が刻まれた石の板2枚が納められていました。それは、単なる文字ではありません。生ける神の御言葉なのです。まさにその「神の御言葉」がイスラエルを喜ばせ、ダビデを踊らせているのです。

 

 そして10節に「諸国の民から自由な人々が集められ、アブラハムの神の民となる」と言われます。神の民は、地縁血縁などによらず、諸国から王なる主の支配を喜ぶ者たちを、神ご自身が自由に集められるというのです。

 

 それも、「アブラハムの神の民」です。それは、創世記12章3節の、「あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という約束を示します。神がご自分の民としてアブラハムとその子孫を自由に選ばれたように、主の祝福が全世界に及ぶという約束の成就を表しているのです。

 

 パウロが、「キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ書3章16節)と教えているのは、このことです。私たちも、全地を治める王の王、主の主に向かい、私たちに与えられているすべての賜物を用いて、賛美を献げ、礼拝しましょう。

 

 キリストは、神によって天と地の一切の権威を委ねられた主の主、王の王であられます(マタイ福音書28章18節、エフェソ書1章20,21節)。そして、「神はすべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべての者の上にある頭として教会に与えられました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ書1章22,23節)。

 

 私たちが賛美をささげるとき、主がわたしたちの心に王として臨まれ、心の中心に着座されます(9節)。そして、私たちを諸国の民から集められた自由な人々とし、アブラハムの神の民とならせてくださいます(10節)。

 

 賛美をもって主を呼びましょう。神は歓呼の中を上られます。賛美をもって全地に告げ知らせましょう。主イエスこそ、全地の王であり、まことに神であると(8節)。

 

 主よ、あなたを知る者とされ、その恵みを味わうものとしていただくことが出来た幸いを、心から感謝致します。どんな時にも、主を心の王座に、その中心に歓迎致します。どうか私をあなたの御心のままに導き、用いてください。主の御名があがめられますように。御心が行われますように。 アーメン

 

 

「城壁に心を向け、城郭に分け入って見よ。後の代に語り伝えよ。この神は世々限りなくわたしたちの神。死を越えて、わたしたちを導いて行かれる、と。」 詩編48編14,15節

 

 48編は、神の偉大さを賛美し、難攻不落のシオンの山に置かれた神の都をたたえる「シオンの歌」に属する詩とされています。因みに、「シオンの歌」とされているのは、46,84,87編などです。

 

 ”♪ 大いなる主 ほめたたえるべき主 わが神の都 その聖なる山において

   高嶺の麗しさは 全地の喜び 北の果てなるシオンの山は 大王の都 ♪”

 (4.大いなる主/詩編48編・歌集『こころの中でメロディーを』さんびの会編)

 

 これは、40年ほど前によく歌ったゴスペル・ソングです。この歌が、詩編48編2,3節に曲をつけたものだと気がついたのは、自分で聖書を繰り返し通読するようになってからのことでした。

 

 シオンの山は、イスラエルの「北の果て」にあるわけではありません。シオンの山とは、エルサレムのことです(サムエル記下5章6節以下、列王記上8章1節)。地図で調べれば分かりますが、イスラエルは北辺の地にあるわけではありませんし、エルサレムも、イスラエルの南部に位置しています。

 

 「聖なる山は、高く美しく」とありますが、エルサレムは標高790メートルの台地です。ケデロンの谷を挟んだ東側のオリーブ山の標高は814メートルあり、ここから、エルサレムの町を一望することが出来ます。

 

 イスラエルの北にそびえる高い山は、ヘルモン山です。ヘルモン山とは、聖なる山という意味です。標高が2815メートルあり、絶えず雪をかぶっているので、現地の人々は、雪の山、あるいは白髪の山と呼んでいます。この山頂の雪解け水がフィリポ・カイサリア付近から泉となって湧き出し、ヨルダン川となってイスラエルを潤しています。

 

 さらに北に進んで、トルコの北部、カスピ海と黒海のほぼ中間にアララト山があります。これは、山頂にノアの方舟が漂着したとされる山で(創世記8章4節)、標高5200メートルにも及ぶ年中雪の消えない死火山です。聖書の世界の北限といってもよい位置にあります。そのあまりの高さに、雲を突き抜けて神の住むところにまで及んでいると信じられていたそうです。

 

 そのことから、「わたしたちの神の都にある聖なる山は、高く美しく、全地の喜び。北の果ての山、それはシオンの山、力ある王の都」(2,3節)というのは、エルサレムをヘルモン山、あるいはアララト山になぞらえて語っているようです。

 

 神がエルサレムをご自分の御名を置く都と定められたこと(列王記上11章36節など)、それゆえに、神の恵みがエルサレムの都からイスラエルの隅々に流れていくということを、ヘルモンからの雪解け水がユダヤの全土を潤すヨルダン川となっていることで、例示していると考えることも出来るでしょう。

 

 また10節で「神よ、神殿にあってわたしたちは、あなたの慈しみを思い描く」と語っていることから、詩人がエルサレムの神殿で主なる神を礼拝したときに、神の恵みの麗しさに触れたのではないか、そして、その喜び、感動を、パレスティナにおける最高峰のヘルモン山、あるいは北限のアララト山の姿を借りて表現しようとしたのではないかとも思われます。

 

 「北」は原語で「ツァーフォーン」といい 、岩波訳の脚注に「北(ツァフォン)はウガリト神話(前13~14世紀)の神々の山の名で、これが後に「シオン」(ツィーヨーン)と結びついたとか、イスラエル最北の地で聖所もあったダンが後にシオンと解釈されたとか、推定される」と記されています。

 

 後者の可能性はそれほど高くはないと思われますが、前者であれば、詩人は、エルサレムという場所ではなく、主なる神の都のあるシオンの山は、ウガリトの神々の山の頂に置かれている。つまり、主なる神はすべての神々の上に君臨され、全地の民を統べ治める神であられると謳っていることになります。

 

 さらに、神の恵みは、そのような平面的空間的な広がりだけではなく、世代を超えても広がり流れていくものです。神との関係に終わりはありません。死で終わらないのです。

 

 主イエスは、私たちの罪のために死なれましたが、三日目に死の力を打ち破って甦られました。今も生きて、私たちを恵み、守り支え、導いていてくださる主イエス・キリストの愛から、私たちを引き離すことは出来ないのです(ローマ書8章35節)。

 

 冒頭の言葉(14,15節)で「後の代に語り伝えよ。この神は世々限りなくわたしたちの神、死を越えて、わたしたちを導いて行かれる」と、詩人が死を越えて働く神の力、その恵みについて詠っているのは、背後に何らかの知識や経験があるのかもしれませんが、それは神の導きです。まさに詩人は、知らずしてここに、主イエス・キリストの復活を預言しているわけです。

 

 そして、その恵みを後の代に語り伝えよと語っています。それは、子々孫々、幾千代にも及ぶ慈しみが、神によって与えられるからです(出エジプト記20章6節)。

 

 天地万物の創造者、永遠の主なる神にほめ歌をささげ、私たちを愛し、贖いの業を成し遂げて下さった主イエスの恵みを証しする者となるべく、聖霊に満たして頂きましょう(エフェソ書5章18節)。主は、求める者には、聖霊を限りなくお与えくださいます(ルカ福音書11章13節、ヨハネ福音書3章34節)。

 

 主よ、あなたは、世々限りなく私たちの神であられます。あなたは、死を越えて、私たちを導かれます。私たちを、あなたが求めておられる真の礼拝者とならせてください。常に聖霊に満たしてください。日ごとに心から御言葉を慕い求めます。御心を行う者となりますように。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「魂を贖う値は高く、とこしえに、払い終えることはない。・・しかし、神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる。」 詩篇49編9,16節

 

 49編は、人の財産も名誉も、死の力の前には無力であると告げる、教訓の詩です(岩波訳脚注)。この詩は3部構成で、その知恵に耳を傾けるよう全地の民を招く導入部(2~5節)に続き、本文が13節と21節の反復句(リフレイン)によって、6~13節と14~21節の2部に分けられています。

 

 37編でも、類似の主題を取り上げて、悪事を謀り、不正をなす者たちは神によって命が断たれるので、彼らのゆえに心乱すなという教訓が示されていました(6,7節、37編2,9,10節など)。しかし、この詩では一歩進んで、知恵ある者も愚かな者も共に死ぬと語っています(11節)。確かに、誰も死を免れることは出来ません。人の死亡率は、勿論百パーセントです。

 

 冒頭の言葉(9節)で「魂」(ネフェシュ)は、「息をしているもの、生きている存在、命」などという意味の言葉です。人の命を買うのには、いくらお金を払えばよいでしょうか。この箇所を岩波訳は「彼の魂の買い戻し料は高価で、とこしえに放棄しなければならない」と訳し、脚注に「死人の生命を金で取り戻すことは誰にもできない、ということ」と記しています。

 

 リビングバイブルはこれを、「魂はあまりにも高価なので、この世の富をいくら積んでも買い戻せません。世界中の金をかき集めても、ただ一人分の永遠のいのちも買ってやれません。もちろん、地獄から救い出してやることもできないのです」と訳していました。

 

 裁判などで人の命が値踏みされ、賠償金が支払われることがあります。しかし、そのお金を払っても、亡くなられた方を生き返らせることは出来ません。「贖う」とは買い戻すことですが、どんな大金持ちでも、命の代価を払ってそれを買い戻すことなど出来ないのです。それゆえ、人を殺めた者は、自分の命という代価で罪を償うわけです。 

 

 主イエスが「たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マタイ福音書16章26節)と言われました。全世界の富と一人の命を天秤にかけると、命のほうが重いということです。

 

 「命は地球より重い」という言葉もあります。そのように貴重なかけがえのない命ですが、自分で寿命を一日でも延ばすことは出来ません。10節に「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか」というとおりです。

 

 しかし、私たちの現実の生活は、朝早くから夜遅くまであくせくと働き、少々体調が悪くても休むことも出来ないという状況にあります。あたかも、命や健康よりも仕事や経済の方が大事と言わんばかりの生活、働き方ではないでしょうか。そうして、確実に寿命を削っているわけです。

 

 ところが、冒頭の言葉(16節)に「神はわたしの魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださる」と記されています。誰も支払うことの出来ない命の代価を、神が払ってくださるというのです。

 

 どのようにして支払わうというのでしょうか。それは、神の独り子イエス・キリストの命の代価をもって支払われるのです。キリストが私たちの身代わりに死なれ、そのゆえに私たちは、死んでも死なない永遠の命の恵みに与ることが許されたのです。

 

 それは、一方的に与えられた神の恵みであって、決して私たちのよい働きに対する報酬などではありません(エフェソ書2章5,8,9節)。私たちをキリストと共に活かし、共に天の王座に着かせてくださるために、神が私たちにプレゼントしてくださったのです(同6節)。

 

 「(陰府の手から)取り上げる」(ラーカー:「取る、受け入れる」の意)というのは、創世記5章24節で「(エノクは、神と共に歩み、神が)取られた」と語られているのと同じ言葉です。つまり、神の御許、天の御国に受け入れてくださるということです。

 

 「陰府の手」(ヤド・シェオール)とは、死者の世界を擬人化した表現ですが、死の力は人を捉え、恐れを抱かせ、やがて死の世界へ人を引きずり込んでしまいます。しかるに神は、人を「陰府の手」から奪回してくださるのです。

 

 ですから、この神の恵みを無駄にすることがないように、善い業を行って歩みましょう。善い業とは、神と共に歩むことであり、神が私たちに与えられた使命を果たすことです。私たちが救いにあずかり、神の子とされたのは、善い業を行って歩むためだからです(エフェソ書2章10節)。

 

 特に、神に愛されている子どもとして、私たちが愛によって歩むことであり(同5章1,2節)、聖霊に満たされて、神の愛と恵みを生活と言葉で証しすることです。「主イエスは私たちすべての人々の魂を贖い、陰府の手から取り上げてくださいました」と。

 

 主よ、平和と信仰を伴う愛が、私たちの上に豊かにありますように。変わらない愛をもって、主イエスを愛するすべての人に、恵みが豊かにありますように。主よ、すべての人々が主を畏れ、自分の力や知恵などではなく、謙って主のみ力に信頼し、み言葉に聴き従う道を歩んで、あなたのもとへ引き上げられることを信じて、感謝します。家族親族、知人友人に主の導きがありますように。 アーメン

 

 

「それから、わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって、お前はわたしの栄光を輝かすであろう。」 詩編50編15節

 

 50編は、御自分の民イスラエルを神が裁かれるという内容になっています。先ず1~6節で、御自身が判事として顕現され(2,6節)、被告人として、御自分の民であるイスラエルを法廷に招集されます(4,5節)。

 

 かつて、主なる神はイスラエルの民の呻きに応えてエジプトを脱出させ、契約を結ぶためにシナイ山に顕現され(5節、出エジプト記3章7節以下、12章37節以下、19章参照)、ダビデを選んで王とし、その家系を祝福して王国を確固たるものとされました(サムエル記上16章12節、サムエル記下7章8節以下)。

 

 ところが今や、イスラエルを裁く方として、民の前に立ち、彼らを告発されます。主なる神は、「献げ物についてお前を責めはしない。お前の焼き尽くす献げ物は、常にわたしの前に置かれている」(8節)と語られます。

 

 つまり、イスラエルの民が神を礼拝していないわけではないということです。常に祭壇にいけにえをささげて、神を礼拝しているのです。「献げ物についてお前を責めはしない」と言われているので、献げ物が不用だと言われているわけでもありません。しかしながら、それは、主が望んでおられる真の礼拝ではないのです。

 

 だから、9節で「わたしはお前の家から雄牛を取らず、囲いの中から雄山羊を取ることもしない」と告げ、12節に「たとえ飢えることがあろうとも、お前に言いはしない」と語り、続く13節で「わたしが雄牛の肉を食べ、雄山羊の血を飲むとでも言うのか」と、皮肉たっぷりに問われるのです。

 

 主は、「お前の家」の雄牛も、「囲いの中」の雄山羊も、本来は自分のもの、自分が創造し、生かしているものだと主張しておられ、あたかも自分の所有物の中から神にプレゼントするような思いでなされる献げ物は、創造者であられ、真の所有者であられる主の絶対的主権を否認するものとして拒否されるのです。

 

 それゆえ14節で、「告白を神へのいけにえとして献げ、いと高き神に満願の献げ物をせよ」と言われます。神が喜ばれるいけにえは、雄牛の肉や雄山羊の血ではなく、「告白」なのです(40編7節、51編18,19節、イザヤ書1章11節、エレミヤ書7章22節、ホセア書6章6節も参照)。

 

 この「告白」はトーダーという言葉で、「感謝」という意味です。口語訳では「感謝のいけにえ」と訳されていました。口を開いてする賛美(告白)が、神への感謝のいけにえとなるという解釈でしょう。動物を殺してささげるという、文字通り犠牲を払うことよりも、神をほめ讃え、賛美することを神は望まれ、また喜ばれるのです。

 

 そして、「満願の献げ物をせよ」(シャレーム・ネダーレイハー)と言われます。原文を直訳すると、「あなたの誓いを果たせ」という言葉です。神がこの願いを叶えてくださるならば、これこれの献げ物をしますと誓うことがあります。その誓いを果たすようにということで、ささげられる献げ物のことを、「満願の献げ物」と呼ぶのです。

 

 ということは、願いが満たされてささげる献げ物とは、何よりも神に対する感謝でなければならないということになります。賛美の告白が、感謝のいけにえとしてささげられるように、感謝を満願の献げ物として、「いと高き神」(エルヨーン)にささげよと求められているわけです。

 

 そして、祈りです。冒頭の言葉(15節)で神は、「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」と言われます。神は助け主です。神は、御自分の民の祈りを待っておられます。「わたしを呼ぶがよい」と招かれるということは、苦難の日に、民が神を呼んでいないということでしょう。

 

 考えてみれば、苦難の時に祈らないでいたはずはないと思うのですが、しかし、民の祈りを、神は祈りとして聞いておられないのです。その理由は、民が主なる神を信頼せず、ほかの神の名を呼んだ、別のもの、神ではないものに頼っていたということではないでしょうか。だから、「お前はわたしの諭しを憎み、わたしの言葉を捨てて顧みないではないか」(17節)と言われるのです。

 

 その罪状を18~20節に挙げた後、「お前はこのようなことをしている。わたしが黙していると思うのか。わたしをお前に似たものと見なすのか」(21節)と、神を侮る民の振る舞いを断じます。いけにえを献げ、掟を唱えることで、その罪責を免除する主ではありません。悪事を行うことは、神への背きだからです(16節)。

 

 そして「神を忘れる者よ、わきまえよ。さもなくば、わたしはお前を裂く。お前を救える者はいない」(22節)を裁きを告げます。神ならぬものに信頼を置き、神の御言葉に耳を傾けようとしないなら、バビロン捕囚というような苦難を味わうことになるわけです(エレミヤ書2章4節以下、13節)。

 

 しかるに神は、イスラエルの民をこのように告発しながら、それで彼らを滅ぼしておしまいにされるわけでもありません。「わたしを呼ぶがよい」(15節)と言われるのです。そうすれば「苦難の日にお前を救おう」(15節)と約束してくださっています。

 

 つまり、神はイスラエルの民が、あの放蕩息子のごとく、本来の自己を取り戻し、悔い改めて神のもとに帰って来ることを願い、招いておられるのです(ルカ福音書15章11節以下、17節)。

 

 主は捕囚となった民に呼びかけて、「わたしを呼べ。わたしはあなたに答え、あなたの知らない隠された大いなることを告げ知らせる」(エレミヤ書33章3節)と言われました。確かに神は、嘆きに耳を傾け、流される涙に目を留めて、彼らを憐れみ、その嘆きを喜びに変え、良いもので飽くことが出来るようにしてくださいました(同31章13,14,16節)。

 

 憐れみ深い神に感謝し、その御名を賛美しましょう。「道を正す人に、わたしは神の救いを示そう」(23節)と言われる主に、信仰をもって祈りましょう。そのことをとおして、主の栄光を輝かしましょう(15節)。

 

 主よ、繰り返し襲い来る自然災害の前に、押し潰されそうになっています。原発事故も未だ収束せず、どれほどの被害がもたらされることになるのか、皆目見当もつきません。私たちは今、あなたの御名を呼びます。私たちを救ってください。御心がこの地になりますように。御心を行う者とならせてください。 アーメン

 

 

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