歴代誌下

 

 

「彼らはエジプトに上り、戦車を一両銀六百シェケル、馬を一頭百五十シェケルで輸入した。同じように、それらは王の商人によってヘト人やアラム人のすべての王に輸出された。」 歴代誌下1章17節

 

 ダビデ王の死後、息子ソロモンが王となりました(歴代誌上29章28節、23章1節参照))。歴代誌下1~9章にソロモンの業績が記されています。1章がソロモンの知恵のこと、2~4章が神殿建築、5~7章は神殿奉献の祈りと主の応答、8章が諸事業、9章にシェバの女王の来訪とソロモンの富という内容になっています。

 

 王となったソロモンは、全会衆と共にギブオンに下り、神の臨在の幕屋の青銅の祭壇で、一千頭の焼き尽くす献げ物をささげました(3節以下)。それは、ソロモンにとって、神を礼拝することがイスラエルの王としての最も重要な務めであるということを示しています。

 

 ギブオンは、エルサレム北西およそ10kmにある町です。神の箱がペリシテに奪われて以来、シロの町に置かれていた臨在の幕屋がギブオンに移されていました(3節、サムエル記上1章以下、4章、列王記上3章4節)。

 

 神の箱は、ダビデがエルサレムに張った幕屋に置かれていたので(4節、歴代誌上15章1節以下)、臨在の幕屋のあるギブオンと神の箱が設置された天幕のあるエルサレム、2箇所で神が仰がれていたわけです。

 

 その夜、神がソロモンに現れて「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」(7節)と言われました。それに対してソロモンは「今このわたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。そうでなければ、誰が、あなたのこの大いなる民を裁くことができましょうか」(10節、列王記上3章6節以下、9節)といって、上からの知恵と識見を求めています。

 

 神はその答えを喜ばれて、知恵と識見だけではなく、ソロモンが求めなかった富と財宝、名誉も加えて与えられました(12節、列王記上3章13節以下は「富と栄光、長寿」)。これは、何よりも先ず神の国と神の義を求める者には、必要なものはみな添えて与えられると、主イエスが教えられたとおりのことです(マタイ福音書6章33節)。

 

 神に与えられた知恵と富で、先ずソロモンがなしたことは、戦車千四百と騎兵一万二千を集め、戦車隊の町々と王のもとに配置すること(14節)、また、銀や金、レバノン杉を大量に供給したこと(15節)、戦車と馬をエジプトのクエから買い入れたことです(16節)。

 

 そして、冒頭の言葉(17節)のとおり、戦車一両銀六百シェケル、馬一頭百五十シェケルで輸入して、それを近隣諸国に輸出しました。つまり、国の安全を強化すると共に、商売をして蓄財するという、富国強兵策を実施したわけです。

 

 この後、彼はそのような知恵と富を総動員して、壮麗な神殿と豪華な宮殿を建設します(1章18節以下)。そして、彼の知恵と富は、世界中をうならせます(9章参照)。12節で与えられた神の約束が、このように実現していると示しているかたちです。

 

 ただ、そのようなことをするために、知恵と識見、それに加えて富や財宝、名誉が与えられたのでしょうか。彼はその知恵と識見をもって、イスラエルの民をどこへ導こうとしているのでしょう。残念ながら、民に対してどのような政治を行ったのか、彼がこの後、どのように神に聴き、神に従ったのか、殆ど何も記されていません。

 

 列王記を学んだときにも何度か開きましたが、申命記17章14節以下に「王に関する規定」が記されています。そこに、「王は馬を増やしてはならない」(同16節)とありますし、また「銀や金を大量に蓄えてはならない」(同17節)とも記されています。それらは確かに、国を守るのに力になるものでしょう。しかしながら、主なる神はそのようなものに頼らず、主に頼れと言われるのです。

 

 ダビデが「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。もし主を求めるなら、主はあなたに御自分を現してくださる。もし主を捨てるならば、主はあなたをとこしえに拒み続けられる」(歴代上28章9節)と諭していたのは、そのためです。

 

 その意味で、申命記に「王に関する規定」が設けられたのは、ソロモンとそのコラがなしたことに対する反省が込められているのかも知れません。「子らよ、わたしに聞き従え。主を畏れることを教えよう」(詩編34編12節)とダビデは詠いました。よしんば、武力をもって国を守ることが出来たとしても、それが主に従う道でなければ、やがて滅びを招くことになってしまいます。

 

 主イエスが、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」(マルコ8章36節)と言われました。この命は、神とのつながりを示しています。そのつながりが失われれば、充実した真の生命を生きることは出来ません(ヨハネ15章5節参照)。

 

 御前に謙り、その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩みたいと思います。

 

 ♪主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ、その人は水路の側に植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は何をしても、栄える。♪(ミクタム プレイズ&ワーシップ 21番[詩編1編2~3節]) 

 

 主よ、今日も御言葉の恵みに与らせてくださり、感謝します。日々御前に謙り、御言葉の恵みを受け、主の幹につながるぶどうの枝として、豊かな実を結ぶことが出来ますように。聖霊の助けと導きに与り、主の平和に満たされ、主の愛の証し人としての使命を全うすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「この方のために神殿を建てる力が誰にありましょうか。天も、天の天もこの方をお納めすることができないからです。主のために神殿を建てようとするわたしは何者でしょうか。神殿はただ主の御前に香をたくためのものでしかありません。」 歴代誌下2章5節

 

 いよいよ、ソロモン王が神殿と王宮の建築に取りかかります(1章18節、口語訳、新改訳は2章1節)。既に父ダビデの代にダビデの町に王宮が建てられていますが(歴代誌上14章、15章1節、17章1節)、イスラエルの名を知らしめる豪華壮麗な宮殿が、神殿と共に必要だと考えたのでしょう。

 

 まず、荷役の労働者7万人、石を切り出す労働者8万人、その監督3600人を動員します(1節)。その上で、隣国ティルスの王フラムに使節を送り(2節、列王記上5章15節ではヒラム)、「金、銀、青銅、鉄、深紅の織物、緋の織物、青の織物を扱う熟練した者で、種々の彫刻にたけた者を一人こちらに送ってください」と求めます(6節)。

 

 この15万3千6百人については、17節にも同じ記述がありますが、フラムに使節を送り、熟練した人をお願いするための準備に、ここに記されているのでしょう。ただ、16節によれば、これらはイスラエルの地にいるすべての寄留民の人口であり、彼らを荷役の労働者、石を切り出す労働者、民を働かせる監督にふり分けたということです。

 

 「イスラエルの地にいるすべての寄留民」とは、イスラエルに残留していたカナン人のことと考えられます。このことは、列王記上5章27節の「イスラエル全国に労役を課した」という言葉と矛盾していると指摘されるようですが、列王記上9章20~22節の記述からも、イスラエル全国にいるすべての寄留民に労役を課したと読んでよさそうです。

 

 ソロモンはまた、「レバノンからレバノン杉、糸杉、白檀の木材を送ってください。わたしは、あなたの家臣たちがレバノンの山林の伐採のことをよくわきまえていることを知っています。わたしの家臣をあなたの家臣と共に働かせ、大量の木材を準備させていただけないでしょうか」とフラムに願います(7節)。

 

 その際、父ダビデのときの王宮建築の協力に感謝を述べつつ(2節)、「わたしはわが神なる主の御名のために神殿を建て、これを主のために聖別して、その御前に香草の香をたき、絶えずパンを備え、朝に夕に、安息日と新月祭、我らの主の祝祭日に、焼き尽くす献げ物をささげ、このことがイスラエルにおいていつまでも守られるようにしようとしています」(3節)と、神殿建築の趣旨を語ります。

 

 そして、「わたしが建てようとしている神殿は大いなるものです。わたしたちの神はすべての神々にまさる大いなる方だからです」(4節)と、その心意気を示します。

 

 ただ、冒頭の言葉(5節)のとおり「しかし、この方のために神殿を建てる力がだれにありましょうか。天も、天の天もこの方をお納めすることができないからです。主のために神殿を建てようとするわたしは何者でしょうか。神殿はただ主の御前に香をたくものでしかありません」と続けて、神の御前に謙遜を示します。

 

 香をたくのは、主なる神の御前に祈りをささげるためです。ソロモンは、神殿が完成して感謝の祈りをささげた際にも(6章14節以下)、「神ははたして人間と共に地上にお住まいになるでしょうか」(18節)といった後、「わが神、主よ、ただ僕の祈りと願いを顧みて、僕が御前にささげる叫びと祈りを聞き届けてください」(19節)と求めています。 

 

 だからといって、香を炊く祭壇が置けるスペースさえ確保すればよいというのではありません。すべての神々にまさる大いなるお方に相応しく「輝かしく偉容を誇る神殿を建てようとしているのです」(8節)と言います。それでも、どんなに贅を尽くし意匠を凝らして人々が目を見張るような神殿を建てたとしても、人間が神のお住まいになるような建物を建てるのは不可能だと語っているのです。

 

 ここに、ソロモンの信仰が表れています。それは素晴らしいものです。実に、神が喜ばれるのは建物ではなく、神を畏れてなされる礼拝です。神殿の大きさや立派さ、そこでなされる礼拝の形式などが大事なのではありません。輝かしく威容を誇る神殿を建てさえすれば、イスラエルは安泰ということにはなりません。神は大量のいけにえなどではなく、私たちの謙った心を求めておられるのです。

 

 真心から神を畏れて御前に進めば、真の神を礼拝するに相応しい姿勢、それを表現する形がおのずから現れてくるでしょう。ここにソロモンは、自分たちに出来る最上のものを神に献げたいと言っているのです。ソロモンは、自分に与えられた知恵と識見、さらに、合わせて授けられた富と財宝、名誉のすべてをもって神に仕え、それに相応しい礼拝をしようとしています。

 

 フラムはソロモンの願いに対して、「主は御自分の民を愛して、あなたをその王とされた」(10節)と言い、「天と地をお造りになったイスラエルの神なる主はたたえられますように」(11節)と賛美をささげます。

 

 パウロが「神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(使徒言行録17章24~25節)と語ります。

 

 実に、天地万物を造り、その御手の内にすべてのものを支えておられる神は、私たちを愛し、私たちとの交わりを喜んでくださるお方です。ゆえに、罪人の私たちを選び、独り子の命で贖い(ローマ書5章8節)、私たちに「アバ父よ」と呼ぶ霊を授けて、私たちが神の子であることを明らかにしてくださったのです(同書8章15,16節)。

 

 計り知れない神のご愛に心から感謝し、御名をほめ讃えましょう。私たちの日々の祈りが、神の御前に芳しい香りとして常に立ち上るように、そのために自分を空しくし、絶えず聖霊に満たしていただきましょう。

 

 主よ、御子の命をもって罪人の私たちを贖い、神の子としてくださったこと、そして、弁護者なる聖霊を住まわせる神の宮としてくださったことを、感謝します。相応しくないものを心の中から締め出し、聖霊を通して注がれる神の愛で心を満たしてください。日々主の御声を聴き、御旨に従って歩み、御業を行わせてください。すべてを主に委ねます。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「ソロモンはエルサレムのモリヤ山で、主の神殿の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自身を現され、ダビデがあらかじめ準備しておいた所で、かつてエブス人オルナンの麦打ち場があった。」 歴代誌下3章1節

 

 冒頭の言葉(1節)のとおり、ソロモンが主の神殿の建築を始めました。それは、その治世の第4年2月2日のことです(2節)。

 

 古い尺度では1アンマが約52cmということなので、奥行き60アンマ=31.2m、間口20アンマ=10.4mという大きさです(3節)。高さが記されておりませんが、列王記上6章2節によれば、30アンマ=15.6mです。4節に前廊の高さが120アンマ=62.4mとされていますので、前廊が塔のようになっていたということでしょう。

 

 神殿の内部は、20アンマ=10.4m四方の部屋三つに区切られています(4,8節、列王記上6章3,4節)。最初の部屋が前廊(4節)、それから外陣とも呼ばれる聖所(拝殿)、そして、内陣とも呼ばれる至聖所です(8節)。

 

 内部には糸杉が貼り付けられ、それを金で覆い、そこにナツメヤシと網目模様の浮き彫りが施され(5節)、さらに宝石で飾られました(6節)。また、壁にはケルビムの浮き彫りがつけられました(7節)。至聖所には、2体のケルビムが置かれました(10節)。

 

 聖所と至聖所を分けるのは、青の織物、深紅の織物、緋の織物、麻の織物で作られる垂れ幕で、そこにもケルビムの縫い取りが施されました(14節)。神殿入り口には、ヤキンとボアズという名の青銅製の2本の柱を立てました。民はこの柱の間を通って、前廊に入ることになります。

 

 ヤキンとは 主が設立されたという意味、ボアズとは、力をもってという意味だと言われます。すると、「この神殿は、主が御力をもって設立されたものだ」ということを示すモニュメントとして、2本の青銅の柱が神殿入り口に立てられたということになります。

 

 ところで、神殿が建てられたのはエルサレムのモリヤ山で、そこはかつて、エブス人オルナンの麦打ち場があったと、1節に記されています。かつて、ダビデが民の数を数えようとして神の怒りを招き(歴代上21章1節以下)、疫病で7万もの死者が出ました(同14節)。民を打つ天使がエルサレムの町に襲いかかろうとしたとき、神が天使にストップをかけました(同15節)。

 

 天使はそのとき、この麦打ち場の傍らにいました。一方、神はダビデに、オルナンの麦打ち場に祭壇を築かせ(同18節)、ダビデはそこでいけにえをささげます(同26節)。その祈りが聞かれ、疫病はやみました(同27節))。神が天使をストップさせた背後に、このダビデの祈りがあったというわけです。そして、それも神の導きでした。

 

 民の苦しみを見て自らの罪を深く悔いているダビデに、祭壇を築くこと、つまり神の御前にいけにえをささげて祈ることを、神が命じられたのです。神はダビデの心を見、また疫病に苦しむ民の呻きを聞かれて、災いを思い返されたのです。ダビデはその場所に神殿を築くことにしました(歴代上22章1節)。

 

 ダビデがこの神殿を見ることは許されませんでしたが、かつてダビデが神の前に罪を犯し、裁きがなされた場所、そして、そのための執り成しがなされ、犠牲が捧げられた場所に神殿が建てられたということを、この記事を通して繰り返し思い起こすことで、神の憐れみをその都度新たに味わうことが出来ます。こうして、罪の増すところ、主の恵みもまたいや増すのです(ローマ5章20節)。

 

 また、モリヤ山と言えば、かつてアブラハムが神に命じられて、独り子イサクを焼き尽くす献げ物として神にささげようとした場所です(創世記22章1節以下、2節)。それは、神がアブラハムの信仰を試されたのでした(同12節参照)。そして、神はイサクの代わりに雄羊を用意しておられ、それをいけにえとしました(同13節)。

 

 アブラハムは、神がいつも自分を見守っていてくださること、必要を満たしてくださることを知り、そこを「ヤーウェ・イルエ(主は備えてくださる)」と名付けました(同14節)。ヤーウェ・イルエの直訳は、「主は見ておられる」という言葉です。神はご自分に従う者をご覧になって、その必要を豊かに満たしてくださるということです。

 

 そのことで、「人々は今日でも『主の山に、備えあり(イエラエ)』と言っている」(同14節)と記しています。ここで、「主の山」というのは、詩編24編3節、イザヤ書2章3節などから、神殿の丘を指すものであることが分かります。つまり、創世記の著者は、イサクをささげようとした「モリヤの山」が、未来の神殿が建てられる場所であることを知らせようとしていたわけです。

 

 そして何より重要なことは、神殿を建てられたその場所は、やがて神の独り子キリスト・イエスの十字架が建てられる場所になったのです。キリストこそ、ダビデの罪を赦し、アブラハムに甦りの命を証しするためにささげられた神の小羊です。絶えず十字架の主を見上げ、憐れみの主の御声に従って歩ませていただきましょう。

 

 主よ、御子イエスの贖いのゆえに感謝します。私たちはキリストのものとされ、主は私たちの体を、神が遣わされた聖霊の宿る神殿とされました。この体で、神の栄光を表わすことが出来ますように。絶えず主の十字架を仰ぎ、御言葉に従って歩ませてください。 アーメン

 

 

「ソロモンは青銅の祭壇を造ったが、その長さは二十アンマ、幅は二十アンマ、高さは十アンマであった。」 歴代誌下4章1節

 

 冒頭の言葉(1節)に、元資料の列王記にはなかった祭壇の記述があります(列王記上7章23節参照)。ただ、同8章64節、列王記下16章14,15節により、青銅製の祭壇があったのは明らかです。その大きさは、縦横20アンマ(10.4m)、高さ10アンマ(5.2m)というとても大きなものでした。

 

 かつて、荒れ野で神がモーセに命じて造らせた祭壇が、縦横5アンマ(2.6m)、高さ3アンマ(1.6m)でした(出エジプト27章1節)。ということは、ソロモンが造らせた祭壇は、荒れ野時代の祭壇に比して、縦横が4倍、高さが3倍余り、体積は50倍を越えます。

 

 ソロモンは、神殿の奉献式に際して、牛2万2千頭、羊12万匹を献げています(7章5節)。ソロモンの時代、国力が増大し、非常に多くの献げ物を捧げることが可能になったわけです。そのために大きな祭壇が必要になったと考えられます。この祭壇の奉献のために、イスラエルのすべての民を集めて七日間の祭りが行われました(同8,9節)。

 

 その偉容を見て、シェバの女王は感嘆の声を挙げ、神を賛美致しました(9章、列王記上10章参照)。以後、イスラエルとシェバとの間に活発な交易がなされたことだと思いますが、大事なのは人を驚かせたり感激させることではありません。当然のことながら、最も大事なのは、神に喜んでいただくことです。

 

 ソロモンの父ダビデは、「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51編18,19節、40編7節も参照)と詠っています。

 

 これは、いけにえを献げる必要はないと言っているのではなくて、どのような心で献げるかということを語っているのです。悔い改め、謙って御前にすすむならば、「そのときには、正しいいけにえも焼き尽くす献げ物も、あなた(神)に喜ばれ、そのときには、あなたの祭壇に雄牛が献げられるでしょう」(同51編21節)というのです。

 

 その背後には、ダビデ自身が繰り返し味わった、神の恵みと憐れみがあります。そもそも、ダビデは自分の罪を自分で償いきれるものでないことを知っていました。バト・シェバとの姦淫も、その罪を隠すための夫ウリヤ殺しも、神の御前に決して赦されざる罪です。しかし、神はダビデを憐れみ、その罪を赦されました。

 

 その恵みに応えたいというダビデの心があります。だから、息子ソロモンにも、「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」と命じていたのです(歴代誌上28章9節)。

 

 祭壇の横には、鋳物の「海」(2節以下)や洗盤が造られました(6節以下)。「海」は直径10アンマ(5.2m)、深さ5アンマ(2.6m)という大きさです。円筒形であれば55000ℓ、半球形では36000ℓという容積になります。しかし5節に「容量は優に3千バトもあった」と記されていて、1バトが約23リットルだとすると、69000ℓということで、計算が合いません。

 

 どういう形をしていたというのでしょうか。列王記上7章26節には「その容量は2千バト(46000リットル)もあった」とされていて、この方が正確な数字でしょう。そして、半球形というより、円筒に近い形だったということになります。そして、歴代誌の「優に三千バトもあった」というのは、少々誇張した数字なのでしょう。

 

 「海」は、祭司が身を清めるために用いられます(6節)。洗盤は、神の幕屋では、祭司が身を清めるための器でしたが(出エジプト記30章17節以下)、ソロモンの神殿では、いけにえの用具などを洗い清めます(6節)。祭司は、祭壇で贖いの供え物をささげ、海で身を清めた後、神殿に入り、神を礼拝するのです。これは、今日のバプテスマを象徴しているといってよいでしょう。

 

 主イエスが私たちのために贖いの供え物となってくださった今、私たちが祭壇にいけにえを供える必要はなくなりました。主なる神は、十字架を祭壇として、そこに御子イエスを供え物としてささげられたのです。だから、私たちのために贖いの業を成し遂げてくださった主イエスを信じて義とされます(ローマ書3章22節など)。義とは、神との関係が正しくなるということです。

 

 また、バプテスマは、キリストと共に葬られてその死に与る者となり、新しい命に生きるためです(同6章4節など)。バプテスマの恵みに与った者は、信頼しきって、神に近づこうではありませんか(ヘブライ書10章22節)。

 

 しかし、その時に私たちは空し手で近づくのではありません。感謝の心をもってする賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を携えます(ヘブライ書13章15節)。さらに、主の恵みに温められた心でする善い行いと施しをささげます。このようないけにえを神は喜ばれるのです(同16節)。主を喜ぶ心で御顔を仰ぎ、御声に耳を傾けましょう。

 

 主よ、私たちのために御子イエスが十字架で肉を裂き、血を流してくださいました。心は清められ、良心の咎めはなくなり、体は清い水で洗われています。主を信じ、真心から神に近づきます。主の愛により、互いに善い業に励むことが出来ますように。御名を崇めさせたまえ。 アーメン

 

 

「ラッパ奏者と詠唱者は声を合わせて主を賛美し、ほめたたえた。そして、ラッパ、シンバルなどの楽器と共に声を張り上げ、『主は恵み深く、その慈しみはとこしえに』と主を賛美すると、雲が神殿、主の神殿に満ちた。」 歴代誌下5章13節

 

 7年の歳月をかけて建設して来た神殿が(このような記述は歴代誌にはない)、いよいよ完成しました(列王記上6章38節)。ソロモンは、神殿にあらゆる祭具を運び込み、宝物庫に納めました(1節)。そして、主の契約の箱を神殿に担ぎ上るため、イスラエルの長老、部族長、諸家系の首長を招集します(2節)。

 

 第七の月の祭り、即ち仮庵祭(レビ記23章34節)に、すべてのイスラエル人がエルサレムに集まったとき(3節)、レビ人は契約の箱と臨在の幕屋のすべての祭具、機材を担ぎ上り(4,5節)、契約の箱を神殿の内陣、至聖所のケルビムの翼の下に安置しました(7節)。

 

 至聖所に置かれた契約の箱は、ケルビムの翼に覆われて、外から確認することは出来ないのですが、長い担ぎ棒の先端が内陣の前の聖所からは見えたと記されています(9節)。棒の先が至聖所と聖所を隔てる扉の下から見えたということでしょう。そのために、箱の存在が確認されるので、「今日もなおそこに置かれている」(9節)という報告も出来るわけです。

 

 ただし、歴代誌が著述されたのはバビロン捕囚後のことですから、その時は既に契約の箱は失われていました。歴代誌はこれを列王記に従って記述しているわけですが(列王記上8章8節)、列王記が記されたのも、イスラエルがバビロンに滅ぼされた後のことですから(列王記下25章27節参照)、契約の箱は既に存在していません。

 

 それにも拘わらず、このように記述されているということは、契約の箱に示される神との契約関係は、神の箱がなくなって解消されたりはしていない、今も契約関係にある。だからこそ、主なる神を礼拝するための第二神殿が築かれたのだ(エズラ記6章13節以下)と主張しているかのようです。

 

 話を元に戻して、これまで、契約の箱はダビデがエルサレムに建てた幕屋に安置されてあり(1章4節)、臨在の幕屋とすべての祭具などはギブオンにありました(1章3節)。こうして、ソロモンの神殿が完成した今、神の箱と臨在の幕屋、すべての祭具機材が一箇所に集められ、主を仰ぎ、礼拝する場所がソロモンの神殿に集約されることになったのです。

 

 そして、レビ人の詠唱者全員が120人のラッパ奏者の祭司たちと共に祭壇の東側に立ち(12節)、冒頭の言葉(13節)のとおり声を合わせて「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と主を賛美しました。4000人の詠唱者たちによる賛美は、それは素晴らしいものだったろうと想像します(歴代誌上23章5節参照、ただし、25章8節では288人)。

 

 そして、彼らが主の御名をほめ讃えると、雲が主の神殿に満ちたと記されています。雲は、神の臨在を現わしています。ですから、14節では「その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が神殿に満ちたからである」と言われています。それは、主がソロモンの立てた神殿を、契約の箱を安置する場所として承認されたということを明示します。

 

 イスラエルの民が荒れ野を旅するとき、主は雲の柱をもって彼らを導かれました(出エジプト13章21,22節)。それは、進むべき道を示す道標としての役割と共に、日中の日照りから民を守る日傘の役割を果たすためでもあったでしょう。

 

 また、イスラエルに3年半に及ぶ干魃が起こって地が渇ききっていたとき、エリヤの祈りに答えて手のひらほどの小さい雲を与え、やがて空が厚い雲に覆われて激しい雨を降らせました(列王記上17~18章)。それにより、雨を降らせて地に豊かな実りを与えるのは、バアルではなく主なる神であるということを、主ご自身が力強く証明されたわけです。

 

 主イエスが十字架の死と復活を予告された6日後、数名の弟子を連れて高い山に登られました(マタイ16章21節以下、17章1節以下参照)。そこで主イエスの姿が変わり、モーセとエリヤが現れて主イエスと語り合います。モーセとエリヤは、旧約聖書の代表的指導者ですから、そこに、旧約聖書の代表者と新約聖書で証しされている主イエスとの会談が成立しているのです。

 

 ペトロがその光景に感激し、ここにいるのは素晴らしいことです。主イエス、モーセ、エリヤのために仮小屋を三つ建てましょうと言い始めます(同17章4節)。その時、光り輝く雲が彼らを覆いました。神殿に雲が満ちたのと同様、主イエスとモーセ、エリヤが会談していたその山に、父なる神が臨まれたのです。さながら、シナイ山に主が降られたときのようです(出エジプト記19章18節)。

 

 そして、神の声が聞こえます。それは、主イエスが神の愛する子、神の心に適う者であるから、これに聞け、という声でした(マタイ17章5節)。光り輝く雲に覆われて視界が遮られた今、見えるものにとらわれず、モーセやエリヤという偉大な先祖に信頼するのでもなく、雲の中から語りかける神の言葉で、神の独り子なる主イエスに聴き従うようにと示されたわけです。

 

 主は、賛美を住まいとされるお方です(詩編22編4節:新改訳)。イスラエルの賛美を受けて聖所に雲が満ちたのは、聖所で主がその賛美を受けとめられたということです。私たちも絶えず聖霊に満たされて唇の実を主にささげ、主を心の中心にお迎えしましょう。

 

 そして、静かに語りかけられる主の御声に耳を傾けましょう。神は求める者に聖霊をくださいます(ルカ11章13節)。聖霊によって真理を悟り、聖霊の力を受けてキリストの証人となります。先ず神の国と神の義とを求め、すべての必要を満たしていただきましょう。日々、主とその御言葉に信頼して参りましょう。

 

 主よ、日々御声に耳を傾け、その導きに従います。主の御心にかなう歩み、働きが出来ますように。主の御前に絶えず唇の実、賛美のいけにえを主にささげます。常に私たちの心を聖霊で満たしてください。インマヌエルの主の恵みが常に豊かにありますように。 アーメン!

 

 

「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください。あなたご自身も御力を示す神の箱も。あなたに仕える祭司らは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は幸福に浸って喜び祝うでしょう。」 歴代誌下6章41節

 

 雲が神殿を満たし、そこに神の栄光が満ちたのを見て(5章13,14節)、ソロモンは、「主は、密雲の中にとどまる、と仰せになった。荘厳な神殿を、いつの世にもとどまっていただける聖所を、わたしはあなたのために建てました」(1,2節)と言いました。至聖所という、誰の目にも触れないところに契約の箱が置かれ、そこが主の臨在の場とされた理由が、ここに示されます。

 

 ここで、イスラエルの民がエジプトを脱出して以来、雲の中、そして臨在の幕屋と共に移動して来た主なる神が、その臨在を示される場、即ち民が主を礼拝する場が、主の選ばれた都エルサレムの、主が選ばれた指導者ダビデの息子ソロモンによって建設された神殿に定められたということを、イスラエル全会衆の前で確認しようとしているのです(6,9節)。

 

 14節以下に、ソロモンの祈りが記されています。この祈りの中でソロモンが先ず願っているのは、ダビデの家を堅く立て、王位に就く者が絶えないようにということです(15,16節)。エルサレムを選び、ダビデを選ばれた主のために神殿が建てられたことで、主とイスラエルの関係、就中ダビデの家と主との関係も、永遠に確かなものとされることを期待しているわけです。

 

 その上で、御前に捧げるソロモンの叫びと祈りを聞き届け(19節)、新築なった神殿に御目を注ぎ(20節)、イスラエルの民の祈り求めに耳を傾けてくださるよう、主に願います(21節)。さらに22節以下で、民が罪を犯した結果、災いを被ったとき、神殿に向かって祈る祈りに耳を傾け、その罪を赦してくださいと願っています。

 

 聖書でいう罪とは、必ずしも犯罪を指してはいません。原典(ヘブライ語)には「的を外す、目的を見失う」(ハーター)という言葉が用いられています。新約原典(ギリシア語)の「ハマルティア(名詞)・ハマルタノー(動詞)」も同義です。主に正しく向いていない心から、悪しき思い、悪しき行動が出て来るというわけです。

 

 罪を犯した者が主の神殿で祈るということは、悔い改めるということです。「悔い改め」とは、方向転換を意味する言葉です。正しい方向に向き直るのです。旧約聖書では「立ち帰る」(シューブ)という言葉が用いられています(24節、申命記30章2節、イザヤ30章15節など)。主への不服従の状態から、正しく主に立ち帰ることを表しています。

 

 冒頭の言葉(41節)は、詩編132編8,9節に基づくものです。ここに「神なる主よ、立ち上がって、あなたの安息所にお入りください」と語られています。安息所とはどこのことでしょうか。「あなたご自身も御力を示す神の契約の箱も」と言われていて、契約の箱はソロモンの建てた神殿の内陣(至聖所)に運び込まれたから(5章7節)、その場所を「神の安息所」と呼んでいると考えられます。

 

 安息所といえば、安息する場所ということでしょうけれども、神殿を神の安息される場所とするということではないでしょう。人と共にあって、神は安息されるでしょうか。

 

 ソロモン自身が「神は果たして人間と共に地上にお住まいになるのでしょうか。天も、天の天も、あなたをお納めすることが出来ません。わたしが建てたこの神殿など、なおふさわしくありません」(18節)と言っているとおりです。

 

 ソロモンはここで、安息という言葉を使って、これまで民と共に移動し続けて来た契約の箱が、永久にエルサレムの神殿に安置されることを願っているわけです。そしてそれは、主がそこに常にご臨在くださることによって、ダビデの家が永遠に堅く立てられているようにということでしょう(歴代誌上17章12節以下、22章10節)。

 

 それはまた、主がご臨在くださることによって、イスラエルの民が神の安息に与らせていただくことが出来るということでもあります。私たちが神の安息を受けるにふさわしい義人だから、主がソロモンの建てた宮においでくださるということではありません。むしろ神の安息をいただかなければ生きることの出来ない、弱く貧しい者だからです。

 

 主イエスは、嵐の船の中でも眠っておられました。波風を恐れ、死を恐れる弟子たちのために主は波風を鎮め、ご自身の平安を弟子たちに分け与えてくださいました(マルコ4章35節以下)。

 

 父なる神に信頼する心に平安があります。神の愛が恐れを締め出します(第一ヨハネ書4章18節)。主は今、私たちの心を聖霊の宮としてお住まいくださっています。主に信頼する者に平安と喜びをくださいます。

 

 パウロとシラスがフィリピで伝道していたとき、一人の女奴隷を悪霊から解放したことがもとで、その主人から訴えられ、彼らは鞭打たれ、牢に入れられるという踏んだり蹴ったりの目に遭わされました(使徒言行録16章16節以下)。

 

 彼らがその夜、賛美と祈りをささげていると、他の囚人たちはそれに聞き入っていました。それは、囚人たちが求めていた安らぎ、そして喜びが、そこにあったからでしょう。

 

 何故パウロたちはむち打たれ、投獄されるという目に遭いながら、神を賛美することが出来たのでしょうか。彼らの心に聖霊を通して神の愛が注がれ、恐れも不安もなく、主イエスにある平安と喜びがその心に満ちていたからでしょう。

 

 ソロモンは、主が安息所にお入りくだされば、救いの衣をまとい、幸せに浸って喜び祝うでしょうと言いました。私たちも今日、「神なる主よ、聖霊の宮とされた私たち、キリストの体なる教会へお入りください」と、主に祈ります。それによって主の慈しみに生き、幸せに浸って喜び祝う者とならせていただきましょう。

 

 主よ、立ち上がって聖霊の宮である私たちの内に、キリストの体なる教会をあなたの安息所としてお入りください。私たちは救いを衣としてまとい、あなたの慈しみに生き、幸福に浸って喜び祝います。私たちにお与えくださった聖霊を通して、常に神の愛が心に注がれているからです。日々主を仰ぎ、その御声に耳を傾け、導きにお従いします。御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン!

 

 

「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地を癒す。」 歴代誌下7章14節

 

 ソロモンが祈り終わると、天から火が降って祭壇のいけにえを焼き尽くし、主の栄光が神殿に満ちましたた(1節)。エリヤがカルメル山の上でバアルの預言者たちと戦ったときのような光景が展開しました(列王記上18章38節)。これは、ダビデが神殿用地を購入して献げ物をささげたときと同様(歴代誌上21章26節)、ソロモンの祈りを聞き届けたというしるしです。

 

 この記述は、列王記にはありません。列王記は、祈り終わったソロモンが、立ち上がってイスラエルの全会衆を祝福したといい(列王記上8章54,55節)、祝福の言葉を記しています(同56節以下)。歴代誌の記者は、ソロモン王の祝福の言葉の代わりに、その祈りに対する応答として、主が天から火を降されたと記しているわけです。

 

 それは、裁きの火ではなく、当にソロモンを祝福し、イスラエルの民を祝福する火です。火が降って神殿に神の栄光が満ちたのを見たイスラエルの民は、敷石の上に顔を伏せて礼拝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」(3節)と賛美しました。

 

 前に詠唱者が「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と賛美をささげたときに、雲が神殿に満ち、神の栄光が満ちるという出来事がありました(5章13,14節)。度々、栄光が満ちたというより、その間ずっと神の栄光が満ち溢れていたということでしょう。

 

 そして、ソロモンはすべての民と共に牛2万2千頭、羊12万匹を献げて神殿を奉献しました(4,5節、列王記上8章62節以下)。その量があまりに多かったので、祭壇だけでは供え尽くすことが出来ず、神殿の庭の中央部を聖別して、そこで献げ物をささげました(7節)。

 

 そのとき、ソロモンはレボ・ハマトからエジプトの川に至るまで(イスラエルの最大版図)の全会衆と共に七日間の祭を執り行い、八日目に聖なる集まりを開きました(8節以下)。これは、第七の月の祭りのときに契約の箱を神殿に担ぎ上るという出来事(5章2節以下)も含め、仮庵祭と呼ばれる秋の収穫を喜び祝う祭りです。

 

 神殿と王宮が完成し、奉献の儀式をなし終えた夜、主がソロモンに顕現され(11節)、「わたしはあなたの祈りを聞き届け、このところを選び、いけにえのささげららレルわたしの神殿とした」(12節)と言われました。神殿の完成に加え、王宮が完成したことを述べて、ここに、ダビデの家が堅く据えられ、王朝が確立したことを示しています。

 

 そして、ソロモンの祈りに対する応答として、神が天を閉ざして雨が降らなくするとき、いなごに大地を食い荒らさせるとき、民に疫病を送り込むとき(13節)、冒頭の言葉(14節)のとおり、民がひざまずいて祈り、神の顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、神が祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒すという約束が語られています。

 

 確かにそれは、ソロモンが6章19節以下で祈り求めた祈りの答えです。大旱魃で飢饉となったり、イナゴの大発生で農作物が食い荒らされたり、また、疫病が流行したとき、それらがすべて、人の罪のゆえだとは考えません。近年各地で頻発している大地震も、また突然襲って来る豪雨なども、それらがみな神の裁きだとは思いません。

 

 しかし、イスラエルの民の背きに神が天変地異を起こされた時、そこで民がひざまずいて祈り、御顔を求めて神に立ち帰るなら、神がその祈りに耳を傾け、罪を赦し、大地を癒してくださるということは、神は、私たちが絶えず祈ること、御顔を慕い求めること、常に神のもとに立ち帰ることを要求しておられるということであり、神はその祈り願いを聞き届けようと思っておられるということです。

 

 新約においても、「求めなさい」(マタイ7章7節)、「絶えず祈れ」(第一テサロニケ5章17節)、「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」(フィリピ4章6節)と命じられているとおりです。

 

 私たちの前に困難がおかれると、自分の限界を知ります。そこで謙遜を学ぶでしょう。どうして良いか分からずに神を呼ぶでしょう。そこに祈りがあります。そうした中で神の御声を聴くでしょう。そこに恵みがあります。困難に遭遇するのはいやなものですが、神の御前に謙って祈り、主の恵みを味わうために困難が与えられたというように受け止めることが出来るのであれば、何と幸いなことでしょう。

 

 使徒言行録17章26~27節に「神は一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と記されています。

 

 季節を決めるということは、人生にはバラ色の春というような状況もあれば、夏の猛烈な暑さ、冬の厳しい寒さを味わうようなときもあるし、すべてが枯れ果てるような晩秋もあるということでしょう。

 

 居住地の境界をお決めになったということは、どこに行っても良い、何をしても良いというのではなく、行けない場所がある、出来ないことがある。勿論、すべてを所有することなどは出来ない。そこで自分の限界を知るということではないでしょうか。

 

 四季それぞれにある苦しみから祈りに導かれることもあれば、四季の恵みを味わって神に感謝することもあるでしょう。春だから素晴らしいとは言えない人がいるでしょう。一方、冬の厳しさを素晴らしいという人もいます。いずれの人も、神の前に出ることが出来ます。御顔を慕い求めるとき、誰もが神を見出すことが出来ると言われています。それが最も素晴らしいことでしょう。

 

 主の御前に謙り、御顔を慕い求めましょう。御言葉に耳を傾けましょう。その導きに素直に従いましょう。そうして、主の豊かな恵みを感謝し、「主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と、心から主に賛美をささげましょう。

 

 主よ、あなたが私たちを祈りに導こうとしておられることを感謝します。私たちの祈りを聞き届けてくださるという約束を感謝します。絶えず、主の御声に耳を傾け、導きに従って歩ませてください。傲慢にならないよう、柔和と謙遜を学ばせてください。主の御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン!

 

 

「ソロモンの工事はすべて、主の神殿の定礎の日から、完成の日まで無事に遂行され、主の神殿は完全なものとなった。」 歴代誌下8章16節

 

 神殿に7年(列王記上6章38節)、王宮に13年(同7章1節)、計20年の歳月をかけて(同9章10節)、ついに主の神殿と王宮が完成しました(1節)。歴代誌は、王宮建設の詳細に関しては、その記述を省略しています。

 

 次いで、「フラムから贈られた町を次々と再建し」(2節)というのは、ソロモンがヒラムに贈ったガリラヤ地方の20の町が気に入られず(列王記上9章11節以下)、返されたものを修復・再建したということではないかと思われます。修復しなければならないようなものを贈ったのでは、関係を壊しかねません。ただ、それによって、嗣業の地を損なわずにすみました。

 

 それだけでなく、北方のハマト地方を攻略して版図を拡げます。ハマト・ツォバは、アラムのツォバ王国の首都ハマトのことでしょう。ソロモンの父ダビデのとき、ツォバの王ハダドエゼルと戦って勝利したことがありました(サムエル記下8章3節以下、同10章6節以下も参照)。

 

 また、シリアの荒れ野にタドモルの町を建築しました(4節)。ヨセフスの「古代史」にも、タドモルはソロモンの創建と記されているそうです。タドモルとは「ナツメヤシ」のことで、ダマスコの北東230㎞余りにあるオアシスが、今もその名で呼ばれています。

 

 そこに砦の町が築かれたということは、イスラエルの勢力が広範囲に及んでいたことを如実に物語っています。彼はまた、城壁で守りを固めた砦の町、上ベト・ホロンと下ベト・ホロン(5節)、バアラトと、補給基地の町、戦車隊の町、騎兵隊の町を築きました(6節)。こうして、イスラエルの国が堅く立てられたのです。

 

 さらに、神殿における礼拝を、父ダビデが命じたとおりに行わせたことが、報告されています(12節以下、14節)。その姿勢は、ダビデが「わが子ソロモンよ、この父の神を認め、全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ」(歴代誌上28章9節)と命じていたとおりと言ってよいでしょう。

 

 冒頭の言葉(16節)に「主の神殿は完全なものとなった」と記されていますが、神殿が立派に完成されさえすれば、それでよいということではないということです。これらの文脈を通して、神殿は、国のあり方に関わり、そして何より、神が神として崇められ、御名にふさわしい礼拝が日々執り行われることによって、完全なものとなると言おうとしているのです。

 

 詩編に「主御自身が建ててくださるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127編1節)という言葉があります。

 

 127編には「都に上る歌。ソロモンの詩」という表題がつけられています。「家」が神殿を意味していると考えられるので、神殿を建て、国を守るのは、主なる神ご自身の御業だというイスラエルの王ソロモンの信仰を、このように言い表しているということになります。

 

 また、主の神殿が完全なものとなったということは、言わずもがなのことですが、そこに主なる神がおられるということです。どんなに立派な建物が出来、どんなに豪華な装飾が施されても、そこに主がおられなければ、神殿ではありません。主がいてくださるからこその神殿です。

 

 人間が神の住まいを造ることが出来るということではありませんが、ソロモンが願ったとおり(6章19節以下参照)、主がそこに目を留め、そこに向かってささげられる祈りに主が耳を傾けてくださる。その場所が、主によって堅く定められたということです。

 

 主イエスが「汚れた霊は、人から出ていくと、砂漠をうろつき、休む場所を探すが、見つからない。それで、『出て来たわが家に戻ろう』と言う。そして、戻ってみると、家は掃除をして、整えられていた。そこで、出かけて行き、自分よりも悪いほかの七つの霊をつれてきて、中に入り込んで、住み着く。そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」(ルカ11章24~26節)という話をされました。

 

 汚れた霊は、砂漠で休み場を探すと言われます。「砂漠」とは、原文では、正に文字通り、「水がない」(アヌドゥロス)という言葉が用いられています。そこは、命あるものの生存が脅かされる場所です。それが汚れた霊の休み場ということは、汚れた霊は、命を脅かす存在だということになります。

 

 ここで、水とは、主の御言葉のことであり(エフェソ5章26節参照)、また、聖霊を象徴するものと考えられます(ヨハネ7章37節以下参照)。主の御言葉を宿していなければ、また、主を心にお迎えしなければ、前よりも悪くなると読むことが出来ます。どんなに道徳的で、人間愛があっても、そこに主がおられなければ、悪いものが入り込んで来るのを留めることが出来ないというわけです。

 

 ダビデが「わが子ソロモンに全き心を与え、あなたの戒めと掟を守って何事も行うようにし、わたしが準備した宮を築かせてください」(歴代誌上29章19節)と祈りました。この「全き心」とは、主の御言葉に従い、主をお迎えした心のことだと教えられました。

 

 主よ、どうぞ私たちの間に、私たちの心の中にお入りください。私たちを、あなたの望まれるようなものに造り変えてください。絶えず主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩むことが出来ますように、私たちの心と考えを、人知を超える神の平和をもってお守りください。心から主を褒め讃えます。いよいよ御名が崇められますように。 アーメン!

 

 

「あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう。」 歴代誌下9章7節

 

 シェバの女王がソロモンの名声を聞き、それを確かめに大勢の随員を連れ、多くの贈り物をもってやって来ました(1節)。イスラエル三代目の王を表敬訪問しているわけですが、それは、「難問をもってソロモンを試そう」と記されているように、自分たちが今後国交を開くべきかどうかを見定める審問をしにやって来たというところでしょう。

 

 ところが、考えていたすべての質問に適切に解答が与えられ、答えられないことが何一つありませんでした(2節)。そして、見るもの、聞くものすべてが女王の想像の域をはるかに超えており、まさに息も止まるような思いだったそうです(4節)。

 

 女王はソロモンの知恵をたたえ、「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、人の言うことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことは大いなるお知恵の半分にも及ばず、あなたはうわさに聞いていたことをはるかに超えておられます」(5,6節)と言います。

 

 ソロモンの知恵について、列王記上5章12節以下(口語訳など:4章32節以下)に、「彼の語った格言は三千、歌は千五百に達した。彼が樹木について論じれば、レバノン杉から石垣に生えるヒソプにまで及んだ。彼はまた、獣類、鳥類、爬虫類、魚類についても論じた」とあります。

 

 確かに、何を聞いても答えられるというのは、大変なものです。恐るべき知恵でしょう。しかしそれは、エンターテイメントとしての面白さはあっても、国を治める王として、どうしても必要な知識というものではありません。爬虫類について論じることが出来なくても、政治を行うにはあまり困りません。樹木の名を知らなくても、王として恥じ入ってしまうというほどのことでもないでしょう。

 

 シェバの女王にとって、彼女が驚き、その知恵をたたえているのは、ソロモンが博学だということ以上に、国の指導者として知るべきことを知り、正しく賢く判断し、実行しているということではないでしょうか。だから、冒頭の言葉(7節)で、「あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。あなたの前に立ってお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう」と言うのです。

 

 ここで、「臣民」と訳されているのは、「アナシェーハー(「あなたの人々」の意)」という言葉ですが、口語訳のように「あなたの妻たち」としているものがあります(岩波訳も参照)。「家臣たち」は「アバーデーハー(あなたの僕たち)」です。「幸いなるかな、あなたの妻たち。幸いなるかな、あなたのこれらの僕たち」という言葉遣いです。

 

 シェバの女王は、こうした言葉遣いで、自分もソロモンの妻、あるいは家臣になりたいという思いをここに披瀝しているわけです。この王の知恵を聴き、その指導に従って歩むことが出来れば安心という世界ですね。

 

 そして、ソロモンを王とされた神をたたえて、「あなたを王位につけられたあなたの神、主のための王とすることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえに続くものとし、あなたをその上に王として立て、公正と正義を行わせられるからです」(8節)と語ります。

 

 女王は、ソロモンの背後に主なる神を見たわけです。このような王が立てられること、その指導でイスラエルがとこしえに続くものとして堅く立てられるということは、主の導きなくして出来るものではないという、女王の信仰の表明とも言えるのではないでしょうか。

 

 ソロモンは、女王の望むものは何でも与えたとあり(12節)、それは、シェバとイスラエルの間で正式に交易が始まったということを示していると思われます。ソロモンに与えられた知恵を聞き、女王が望んだものの中で最も重要なものが、天地を創造された主なる神を信じる信仰であったといってもよいのでしょう。

 

 使徒パウロが第3回伝道旅行の途中、エフェソの教会の人々に「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」(使徒言行録19章2節)と尋ねました。信仰生活をするために、聖霊を受けることが重要だということです。

 

 そのとき、エフェソの人々は、聖霊のことを聞いたこともないと答えました(同2節)。聖霊についての知識も必要ですが、何より、聖霊に満たされ(エフェソ書5章18節)、その力を頂くこと、聖霊の導きに従うことが重要です(ガラテヤ書5章16節以下、25節)。

 

 聖霊が、私たちを主イエスを信じる信仰に導き(第一コリント12章3節)、主イエスが教えておられることを思い起こさせ、その真理をわきまえさせてくださるからです(ヨハネ14章17,26節、16章13節など)。ソロモンは、この聖霊の知恵を頂いたのです。聖霊に聞いて語ったから、人々が驚くような知恵が開かれたのでしょう。

 

 惜しみなく知恵を与えると約束しておられる神に(ヤコブ書1章5節)、はっきりと聖霊を求めましょう。求める者には聖霊をくださいます(ルカ11章13節)。神は聖霊を限りなくお与えになるのです(ヨハネ3章34節)。

 

 主よ、私たちを常に聖霊に満たしてください。聖霊によって、神の御愛が心に注がれます。主を信じる信仰を通して、神の栄光に与る希望をもって喜んでいます。私たちに真の知恵を授けてください。主を畏れることを学ばせてください。御名が崇められますように。御心がこの地になりますように。アーメン!

 

 

「王は民の願いを聞き入れなかった。こうなったのは神の計らいによる。主は、かつてシロのアヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉をこうして実現された。」 歴代誌下10章15節

 

 ソロモンの死後、息子レハブアムがイスラエルで4人目、ダビデ王朝3代目の王として、即位しました(9章31節)。1節で、「すべてのイスラエル人が王を立てるためにシケムに集まって来る」ということは、ここでの「すべてのイスラエル人」とは、ユダ族を除く北イスラエル10部族の民のことを指しているようです。ここで、ソロモンの子を自分たちの王とするか、協議しようということです。

 

 そこへ、ネバトの子ヤロブアムがやって来ました(2節)。彼は、ソロモンがイスラエルの民に課した苛酷な労役、重い軛を軽くしてくれるように、レハブアムに願いました(4節)。何故ヤロブアムがエジプトにいて、そこから戻って来たのか、歴代誌には記述がありませんが、列王記上11章26節以下、40節を前提としているわけです。

 

 レハブアムは、先ず長老と相談しました(6節)。長老たちは、優しい態度で、好意を示すようにと進言します(7節)。レハブアムは次に、自分に仕える同期の若者に尋ねます(8,9節)。若者たちは、重い軛を更に重くしてやれと言います(10,11節)。レハブアムは、長老たちの勧めを捨て、若者の意見を採り入れて、ヤロブアムに厳しい回答を与えました(12節以下、14節)。

 

 14節の「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから、わたしはさらにそれを重くする」というところ、 原文は「わたしはお前たちの軛を重くする。わたしはその上に加えよう」という言葉です(新改訳、岩波訳参照)。列王記上12章14節で「父がお前たちに重い軛を負わせたのだから」と言っているのを、「わたしはお前たちの軛を重くする」と書き換えて、王国分裂の原因が、レハブアムにより重くあるようにしているようです。

 

 レハブアムの回答を聞いて、ユダを除く10部族の民は、ダビデの家を離れ、ヤロブアムと行動を共にするようになりました(16節)。レハブアムは労役の監督ハドラムを遣わします。彼らを労役につかせようとしたのでしょうが、イスラエルの人々が彼を石で打ち殺してしまいます。それに恐れをなしたのでしょうか。レハブアムは戦車に乗り、エルサレムに逃げ帰ります(18節)。

 

 「わたしの小指は父の腰より太い。父が重い軛を負わせたのだから、わたしはさらにそれを重くする。父がお前たちを鞭で懲らしめたのだから、わたしはさそりで懲らしめる」(10,11節)と告げるようにと進言した若者たちはどうしたのでしょう。

 

 レハブアムは、全イスラエルの王として立てられるためにシケムに行ったはずでしたが、若者たちに踊らされて国を分裂させ、南ユダ2部族のみの王ということになってしまいました(17節)。そして、再び全イスラエルを指揮する機会を回復することは出来ませんでした(19節)。

 

 改めて、レハブアム王は何故、ヤロブアムの願いを聞き入れなかったのでしょうか。歴代誌の著者はそれを冒頭の言葉(15節)で「神の計らいによる」と語っています。つまり、神御自身の手によって、長老たちの意見を採用しないよう、レハブアムの心が頑なにされ、若者の意見を採用するという愚かな判断に導かれたわけです。

 

 ということは、神は初めからイスラエルを二つに分裂させるおつもりだったということになります。何故神は、イスラエルを二つに裂くようなことをなさるのでしょうか。小国イスラエルが二つに分かれて争っていては、外敵に当たることは出来ません。主イエスも「どんな国でも内輪で争えば、荒れ果ててしまう」と仰っておられます(マタイ12章25節)。

 

 神がそのようになさったのは、歴代誌では省略されてしまっていますが、ソロモンが神の教えに聴き従わなかったゆえでした(列王記上11章9節以下)。主なる神は、二度も御自身をソロモンに現され、他の神々に従ってはならないと戒められたのですが、ソロモンはそれに聴き従わなかったのです。

 

 ソロモンは主なる神から、契約と掟を守らなかったから、王国を裂いて取り上げると告げられておりました(同11節)。主が出されたこのイエローカードの告知に対し、ソロモンが悔い改めて主に立ち帰っていたならば、ヤロブアムが反旗を翻す事態になることはなかったのかも知れません。また、ヤロブアムに背かれたときに主の御前に謙り、国が分裂しないで済むよう懇願したのではないでしょうか。

 

 けれども、ソロモンは、悔い改めて主に立ち帰ることも、謙って主に祈り求めることも出来ませんでした。そこで主はヤロブアムにイスラエル10部族を託し、彼がダビデと同じように主に聴き従って主の道を歩むことを期待されたのです(同11章30節以下、38節)。

 

 つまり、神のご計画は、イスラエルを内部で分かれ争わせて滅ぼしてしまおうというのではなく、ヤロブアムによってイスラエル10部族をご自身に従わせることでした。そして、それが主の御心であり、それによって北イスラエルが主の祝福に与るのを見て、レハブアムを悔い改めさせようとしておられたのでしょう。

 

 預言者エレミヤが告げるとおり、神のご計画は災いではなく、平和の計画であり、将来と希望を与えるものなのです(エレミヤ書29章11節)。主を呼び、主に祈り求めるなら、主は聞かれ、主を尋ね求めるならば、主に会うことが出来ると約束してくださいました(同12,13節)。

 

 どのようなときにも主を求め、主に従って歩みましょう。わたしたちに救いをお与えくださるのは、主イエスのほかには、おられないからです(使徒言行録4章12節)。

 

 主よ、どんなときでも謙遜に御前に進み、その御言葉に耳を傾け、その導きに素直に従うことが出来ますように。あなたのなさることが最善であり、主にあってどんなマイナス状況も益とされ、将来と希望を与える平和の計画が実現するからです。御名はほむべきかな。 アーメン

 

 

「またレビ人に続いて、イスラエルのすべての部族の中から、イスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちが、エルサレムに出て来て、先祖の神、主にいけにえをささげた。」 歴代誌下11章16節

 

 ソロモンの死後、国が南北に分裂し、北(イスラエル)はネバトの子ヤロブアム(エフライム族)、南(ユダ)はソロモンの子レハブアムが治めることになりました(10章15節以下)。それは、ソロモンが神の戒めを守らなかったからでした(列王記上11章1節以下)。

 

 ただ、そのことは歴代誌では伏せられていて、ヤロブアムとレハブアムの会談で、北の諸部族の訴えにレハブアムが耳を貸さなかったことが、決裂の原因となっています(10章1節以下、15節)。「アヒヤを通してネバトの子ヤロブアムに告げられた御言葉」(同15節)とは、列王記上11章31~39節に記された預言のことですが、歴代誌には記録されていません。

 

 17節の「ダビデとソロモンの道」という表現で、この父子の治世を一体のものとして示し(7章10節参照)、彼らが「全き心と喜びの魂をもって神に仕え」(歴代誌上28章9節)ていたということを物語っています。

 

 主なる神はヤロブアムに「わたしはあなたを選ぶ。自分の望みどおりに支配し、イスラエルの王となれ。あなたがわたしの戒めにことごとく聞き従い、わたしの道を歩み、わたしの目にかなう正しいことを行い、わが僕ダビデと同じように掟と戒めを守るなら、わたしはあなたと共におり、ダビデのために家を建てたように、あなたのためにも堅固な家を建て、イスラエルをあなたのものとする」と約束されました(列王上11章37,38節)。

 

 ところが、ヤロブアムは主に従いません。15節に「ヤロブアムは、聖なる高台、山羊の魔神、自ら造った子牛に仕える祭司を自分のために立てた」と記されています。「聖なる高台」はカナンの土着の神を礼拝する場所です。そして、山羊の魔神、ヤロブアムが造った子牛などの偶像を拝ませるため、自分で祭司を任命し、レビ人、主の祭司らを遠ざけました(14節)。

 

 列王記上12章28節以下には、金の子牛を造ったこと、聖なる高台に神殿を設け、レビ人でない祭司を立てて務めにつかせたことは記されていますが、そこに山羊の魔神については触れられていません。

 

 これは、ヤロブアムだけでなく、代々の北王国の民がレビ記17章7節の「彼らがかつて、淫行を行ったあの山羊の魔神に二度と献げ物をささげてはならない」という規定に反していたということなのでしょう。 

 

 ヤロブアムは、主を礼拝するためにエルサレムを訪れているうちに、民の心が自分から離れてしまうと考えて、国内に各種の礼拝施設を設け、そこに神官を置いたわけです(列王記上12章26節以下)。それは、ヤロブアムを王とした主の計らいを忘れ、自分の力で王となったかのように思い違いをして、神に聴き従うよりも、自分の知恵と力で王位を守ろうと考えたわけです。

 

 北イスラエル10部族は、ソロモンの重い軛と、それを軽くして欲しいという訴えに耳を貸さなかったレハブアムのゆえに、ダビデの家を離れることになりました(10章4節以下)。しかしながら、その中には、ヤロブアムの偶像礼拝推進に心を痛めた人々がいました。

 

 まず、レビ人や祭司たちがエルサレムに集まって来ました(13節)。彼らはイスラエル各部族の中に居住地を与えられ、そこで民の信仰を導いていたのですが(ヨシュア記20,21章)、ヤロブアムに遠ざけられ、務めをやめさせられたのです(14節)。

 

 次いで、冒頭の言葉(16節)のとおり「主を求めようと心を定めた者たち」がエルサレムにやって来ました。彼らは、部族の結束などより、また、ソロモン、レハブアムに対する遺恨などよりも、主を求めることを選び、そのためにエルサレムにやって来て、先祖の神、主にいけにえをささげたのです。

 

 「主を求めようと心を定めた者」とは、歴代誌の著者が考える、信仰において賞賛される者たちのことです。ダビデがソロモンを諭した「全き心と喜びの魂をもってその神に仕えよ。主はすべての心を探り、すべての考えの奥底まで見抜かれるからである。もし主を求めるなら、主はあなたにご自分を現してくださる」(歴代誌上28章9節)という言葉も、それを示しています。

 

 17節に「彼らは三年間ユダの国を強くし、ソロモンの子レハブアムを支援した」とあります。これは、12章1節に「レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、すべてのイスラエル人と共に主の律法を捨てた」とあることから、レハブアムがその治世4年目に主を離れ、その掟を捨てたために、レハブアムを支援することをやめたということでしょう。

 

 主イエスは「何よりも先ず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6章33節)と教えられました。神の国とは、神の支配ということです。主が私たちの心の中においでになり、私たちを治めてくださると、そこが神の国になる、家庭に迎えれば、そこが神の国になるのです。また、神の義とは、神との正しい関係、神との親しい交わりを意味します。

 

 神が共におられ、親しい交わりを通して平和と喜びが与えられ、すべてが祝福されます。ですから、神に仕えるためにエルサレムに集まってきたレビ人や、ユダと共に主を求めることを選んだイスラエルの民のゆえに、レハブアムは励まされ、ユダの国は強くされました(17節)。

 

 ダビデとソロモンの道を歩んだから、国が強くされたのです。しかし、それは3年間という限定的なものでした。国が強くなり、力がついてくると、主の律法を捨ててしまいました(12章1節)。これは、一度の決意で一生を支えることは出来ないということです。

 

 私たちの心は揺れ動きます。日々主を求めると、心を定めましょう。御言葉に耳を傾け、主に祈りましょう。聖霊の力を受けましょう。そして、その恵みを証ししましょう。

 

 主よ、私たちの上に御言葉の恵みが開かれ、また祈りの霊が注がれますように。主を求めることに熱心な群れとしてください。福音の交わりが豊かにされ、芳しい香りを放つ群れとなれますように。 アーメン

 

 

「王がへりくだったので、主の怒りは彼から離れ、彼が徹底的に滅ぼされることはなかった。ユダにも良い事があった。」 歴代誌下12章12節

 

 「主を求めようと心を定めた者たち」が、ユダの国を強くし、レハブアムを支援しました(11章16,17節)。ダビデの道に歩む彼らを通して、神がユダの国を祝福されたわけです。ところが、国が固まり、自らも強くなると、なんとレハブアムは主の律法を捨て、「ダビデとソロモンの道」(11章17節)に歩むことをやめてしまいます(1節)。

 

 「主の律法を捨てる」ということは、主の教えに背くということで、異教の神々を礼拝するということを意味しています。ダビデとソロモンの道を歩むことで、主を求めようと心を定めた者たちの支援もあって、国が固まり、レハブアムも力をつけましたが、それによって道を踏み外してしまいました。「自らも力をつける」という表現には、思い上がりという意味が込められているようです。

 

 「主を求めようと心を定めた者たち」がユダの国を強くし、レハブアムを支援したのは、3年間と記されていました(11章17節)。ということは、レハブアムの治世第4年に、主の律法に従うことをやめたわけです。

 

 すると、主の律法から離れたレハブアムを咎めるように、エジプトの王シシャクがエルサレムに攻め上って来ました(2節)。レハブアムは、ベツレヘム、エタム、テコア、ベト・ツルなどユダの各地に砦の町を建設していましたが(11章5節以下)、それら15もの町々を要塞化する工事が、4年で既に完了していたとは考えられず、工事中の町も少なくなかったことでしょう。

 

 そんな状況の中、戦車千二百両、騎兵六万を擁し、リビア、スキイム、クシュの人々からなる数え切れない傭兵を伴って攻め上ってきたエジプトの侵攻を食い止めることは出来ませんでした(3節)。彼らは、砦の町を次々に陥れ、首都エルサレムに迫って来ます(4節)。

 

 ソロモンはファラオの娘を后に迎え、彼女のために宮殿を建て(8章11節)、エジプトとの友好関係は保たれていたはずです。また、レハブアムがエジプトを侵略したという事実もないと思います。にも拘わらず、シシャクが攻め上って来たのは、「彼らが主に背いたから」(2節)と説明されています。

 

 ただ、ソロモンの後継者レハブアムは、アンモン人ナアマの子であり(13節)、ファラオの娘の産んだ子ではありませんでした。王妃700人、側室300人(列王記上11章3節)からどれ程の王子が生まれたのか、その中からどのようにしてレハブアムが選ばれたのか、全く不明ですが、そうしたことが、エジプトとの関係にひびを入れる結果となったのでしょうか。

 

 将軍たちが王を交えて軍議を開いているところ、預言者シェマヤがやって来て、「あなたたちが主を捨てたので、主もあなたたちを捨てて、シシャクの手に渡す」と告げました(5節)。ということは、両国の関係がどうであれ、神がエジプトを、イスラエルを打つ道具として用いておられるということになります。

 

 主の律法を捨てることは、主を捨てることであり、だから、主から捨てられることになったのです。預言者の言葉を聞いた王と将軍たちは、「主は正しい」(6節)と謙ります。主の律法を捨てたのが自分たちの誤りだったと認め、悔い改めたわけです。

 

 その謙りをご覧になった主は、「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさず、まもなく彼らに救いを与える。わたしの怒りをシシャクの手によってエルサレムに注ぐことはしない」(7節)と、その怒りの拳を降ろされます。

 

 これは、レハブアムの罪が全く不問とされたというのではありません。攻めて来たシシャクによって神殿も王宮も荒らされ、あらゆる宝物が奪い去られました(9節)。しかし、エルサレムは滅亡を免れました。冒頭の言葉(12節)の通り「主の怒りは彼から離れ、彼が徹底的に滅ぼされることはなかった」のです。

 

 そして、「ユダにも良い事があった」と記されています。良い事とは、何より滅亡を免れたことでしょう。それは、王が謙ったゆえでした。となれば、王が神の前に謙ることを、「良い事」と言っているのかも知れません。さらに、彼らの謙りの結果、主の恵みに与り、それからのレハブアムの治世に「良い事」が始まったのです。

 

 国力が増すと、王の心はいつの間にか傲慢になりました。神の守りを自分の実力であるかのように思い上がります。高ぶって神の教えを捨てたためにエジプトの侵略を受け、主の御前に謙ったとき、主の憐れみを受けました。ソロモンの知恵と富でその名を世界にとどろかせたイスラエルが、それらのものをすべて失ったために、もう一度、主を頼りとするようになったのです。

 

 すべての宝物は失われてしまいました。しかしそれは、もともと与えられたものっだのです。主は生きておられ、私たちに必要なものをもう一度お与えになることが出来ます。金の盾が青銅の盾に替わっても、特に支障はありません。

 

 「主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目覚めているのもむなしい」(詩編127編1節)のです。主から離れたとき、砦の町は役に立ちませんでした。主の神殿と王宮、その宝物、ソロモンが造った金の盾なども、何の役に立ちません。

 

 しかし、主は私たちを愛し、守ってくださるお方です。「主は愛する者に眠りをお与えになるのだから」(同2節)、主を信じ、主に依り頼めばよいのです。主のもとに安んじて憩えばよいのです。

 

 レハブアムの父ソロモンは、多くの外国人女性によって心迷わされて偶像に従う者となりました(列王記上11章3,4節)。そして、母ナアマはアンモン人です。アンモンの神ミルコム、あるいはモレク神を礼拝した母の影響を受けて(同5,7節)、主の律法を捨てることになったのかも知れません。

 

 それで、残念なことにレハブアムは、17年の治世の間「心を定めて主を求めることをせず、悪を行った」(14節)という評価を受けています。私たちは、日毎に御言葉に耳を傾け、心を定めて主を求める者、その導きに従って歩む者にならせていただきましょう。

 

 主よ、あなたの恵みと導きを感謝します。聖霊様、私たちの心に歓迎申し上げます。私たちの心の王座にお就きください。私たちに不必要なものはすべて取り去ってください。絶えず心を定めて主を求め、その導きに素直に聴き従うものとしてください。御名が崇められますように。御心がこの地に行われますように。 アーメン!

 

 

「見よ、神が頭として我々と共におられ、その祭司たちは、あなたたちに対する進軍のラッパを吹き鳴らそうとしている。イスラエルの人々よ、勝ち目はないのだから、あなたたちの先祖の神、主と戦ってはならない。」 歴代誌下13章12節

 

 北イスラエルの王ヤロブアムの治世第18年に、レハブアムの子アビヤが南ユダの王となりました(1節、列王記上15章1節では「アビヤム」と呼ばれている)。レハブアムのときと同様(12章15節)、ヤロブアムとアビヤの間にも戦いが続いていました(2節)。

 

 もともと、主が父レハブアムに対して「あなたたちの兄弟に闘いを挑むな、それぞれ自分の家に帰れ」(11章4節)と命じておられたのですが、上述の通り、レハブアムとヤロブアムの間に戦いが絶えず、主の戒めが守られない一面を明示していました。これも、「国が固まり、自らも力をつけ」(12章1節)た結果なのでしょうか。

 

 列王記では、アビヤについての叙述は簡単で、「父がさきに犯したすべての罪を犯し、その心も父祖ダビデの心のようには、自分の神、主と一つではなかった」(列王記上15章3節)という評価がなされていますが、歴代誌には、そうした評価はありません。むしろ、主なる神への信仰に立って、神に背き、罪の道を歩むヤロブアムに立ち向かうという姿勢を示しています(4節以下参照)。

 

 歴代誌の著者は、列王記にはない独自資料でアビヤとヤロブアムの間の戦いを記述し、その際、列王記とは違う視点でアビヤを見ているわけです。

 

 この戦いにおいて、南ユダは40万の戦士をもって戦いに臨み、北イスラエルは倍の80万でそれに対抗します(3節)。この戦士たちの数は、かつてダビデがヨアブに命じて数えさせたものとほぼ同じです(サムエル記下24章9節)。つまり、互いに全軍で戦いに臨んでいるかたちです。

 

 開戦の前にアビヤが立ち上がり、ヤロブアムとイスラエル兵らに(4節)、イスラエルの王権は、ダビデとその子孫に与えられたものであり(5節)、ヤロブアムは主君への反逆者で(6節)、ならず者を集めて若輩のレハブアムを圧迫したと主張し(7節)、さらに、おびただしい軍勢と、おのが神として造った金の子牛像を頼みとして主の王国ユダに敵対していると非難します(8節)。

 

 ここで、「命知らずのならず者」(7節)は、「命知らず(レーク:「中身がない、空っぽ」の意)のならず者(ブネー・ベリアル:「ならず者の子ら」の意)」という言葉です。その命知らずのならず者が「彼のもとに集まって」(7節)で言及される「彼」を、ヤロブアムではなく、「自分の主君」(6節)、即ち、レハブアムのこととする解釈もあります。

 

 レハブアムと共に育ち、彼に仕えていた若者たち(10章8節)のことを、「命知らずのならず者」と考え、彼らの圧迫でレハブアムが長老たちの賢い忠告を退けた結果、王国が分裂することになったというわけです。7節後半の文言から、この方が正しい理解ではないかと思われます。

 

 そう考えると、アビヤはレハブアムのような「若すぎて気も弱い」者ではないから、ヤロブアムが命知らずのならず者として自分を圧迫することなど出来はしないと言っていることになるでしょう。

 

 また、ソロモンの背きのゆえに主なる神がヤロブアムを選んで北イスラエルの王としてお立てになったと列王記に記されており(列王記上11章31節以下)、ソロモンへの反逆というアビヤの非難は言いがかりというところですが、しかし、神の戒めに背いて金の子牛像を造り(8節)、また、主の祭司やレビ人たちを退けたことは(9節)、まさに主への敵対行為です。

 

 9節の「神でないもの」は、ホセア諸8章6節では「サマリアの子牛」に対して用いられているので、ここでも「ヤロブアムがあなたたちのために造って神とした金の子牛」(8節)のことを指すとも考えられますが、11章15節との関連で「山羊の魔神」のことではないかと考える学者もいます。

 

 一方、南ユダは主を礼拝し、主に従って歩んでいると告げ(10節以下)、冒頭の言葉(12節)の通り、神は自分たちに味方されており、今や、神の祭司たちが進軍ラッパを吹き鳴らそうとしている。どう考えても勝ち目はないのだから、主なる神に戦いを挑むことはやめよと宣言します。

 

 しかし、このような物言いで、相手が軍を引くとは考え難いところです。ヤロブアムはアビヤの言葉に反発するかのごとく軍隊を進め、兵を二分して、伏兵をユダの後ろに回らせます(13節)。ユダ軍を挟撃する作戦です。前にも後にも、自軍と同じ規模の敵軍が配置され、迫って来ます。絶体絶命、アビヤ軍全滅の危機です。

 

 それに気づいたユダの人々は、主に助けを求めて叫び、祭司はラッパを吹き(14節)、そして、ユダの人々が鬨の声を上げます(15節)。すると、神が敵をユダの手に渡されたので(16節)、敵の大軍に大打撃を与え、50万の兵を剣で倒しました(17節)。自軍を倍する敵に、兵の少ないユダが圧倒的勝利を収めたのです。

 

 それは、兵の数によらず、その強さによらず、主を頼みとしたからです(18節)。かつて、ヨシュア率いるイスラエル軍がエリコの町を攻めた際、主の御告げの通りに町を巡り、祭司が角笛を吹き、民が鬨の声を上げると、町の城壁が崩れ落ちて町を滅ぼし尽くたという出来事を思い起こします(ヨシュア記6章20節)。

 

 列王記上15章9節によれば、アビヤよりもアブサロムの方が長生きをしていますが、歴代誌では、「アビヤの時代代に二度と勢力を回復できず、主に撃たれて死んだ」(20節)とされます。「撃たれて」は、15節の「撃退された」(ナーガフ)と同じ動詞です。敵軍の将ヤロブアムの死をもって、北イスラエルの敗戦を特徴づけているようです。

 

 武力に勝るイスラエル軍にアビヤの軍が勝利出来たのは、主を頼みとしたからでした(8節)。16章7,8節でも主を頼みとするかどうかが、ユダにとって決定的な条件であることが示されます。歴代誌の著者は、捕囚後を生きる民にも、主を頼みとすることの重要性を教えようとしているのです。

 

 神の憐れみなしには、人に救いはありません。主なる神はそのことを私たちに教えるために、独り子を世に遣わされました。ところが、イスラエルの宗教指導者たち、彼らに扇動されたエルサレムの民は、愚かにも神の子を十字架につけて殺してしまいます。しかも、それは良い事をしたかのように思っていたのです。

 

 しかるに神は私たちを憐れみ、罪のない独り子の死をもって私たちの罪を贖い、救いの道を開いてくださいました。もう、感謝のほかありません。だから、主イエスが語られる言葉に喜びをもって従うしかないのです。

 

 感謝をもって御前に進み、謙ってその御言葉に耳を傾け、その恵みに与った喜びをもって導きに従いましょう。

 

 主よ、十字架で贖いの御業を成し遂げ、救いの道を開いてくださった主イエスに感謝します。愚かで弱い私たちを憐れみ、絶えず正しい道、命の道に導いてください。御言葉と御霊の働きによって私たちを清めてください。あなたが望まれるような者になれますように。そして、御業のために用いてください。 アーメン!

 

 

「アサは彼の神、主を呼び求めていった。『主よ、あなたは力のある者にも無力な者にも分け隔てなく助けを与えてくださいます。わたしたちの神、主よ、わたしたちを助けてください。わたしたちはあなたを頼みとし、あなたの御名によってこの大軍に向かってやって来ました。あなたはわたしたちの神、主であって、いかなる人間もあなたに対抗することができません。』」 歴代誌下14章10節

 

 1節に「アサは、その神、主の目にかなう正しく善いことを行った」という評価が記されています(列王記上15章11節も)。ダビデの子らで初めてのことです。だからでしょうか。列王記では16節ですが(同15章9~24節)、歴代誌ではここから3章を割り当てるという、とても大きな扱いになっています。

 

 歴代誌はアサの父アビヤについて、列王記15章3節の「彼もまた父が先に犯したすべての罪を犯し、その心も父祖ダビデの心のようには、自分の神、主と一つではなかった」という評価を削除し、替わってヤロブアムの背きの罪を糾弾しつつ「我々は我々の神、主に対する務めを守っている」(13章11節)と、主への信仰を明らかにしています。

 

 その信仰が「主の目にかなう正しく善いことを行った」(1節)アサを産んだということになりそうです。アサは、異国の祭壇と聖なる高台を取り除き、石柱を壊し、アシェラ像を砕き(2,4節)、主を求め、律法と戒めを実行するように命じました(3節)。そのように主を求め、戒めに従うアサ王に、主は安らぎを与えられたので、国は平穏でした(5節、13章23節)。

 

 そこで、外敵に対する守りのために砦の町を築き、城壁を巡らして塔を建てました(5,6節)。国が平和に保たれているので、砦や城壁などは必要ないようなものですが、神の恵みを得たダビデ、ソロモンが、神殿建築を果たしたように、安らぎを与えられたアサも、建築事業を行ったわけです。

 

 彼には、盾と槍を携えるユダの兵30万、小盾を携え、弓を引くベニヤミンの兵28万がいました(7節)。しかし、それで国が安泰だというのではありません。小国ユダの平和は、主なる神が守ってくださればこそです。

 

 アサがユダの人々に「我々は、我々の神、主を求めたので、この地を保有することができる。主を求めたからこそ、主は周囲の者たちから我々を守って、安らぎを与えてくださったのだ」(6節)と語っているとおりです。

 

 だから、ユダに対してクシュ人ゼラが百万の軍隊と戦車3百両を率いてマレシャまで出て来たとき(8節)、アサ王は自分たちに倍する敵を迎え撃つために出陣しましたが(9節)、戦いを前にして、主を呼び求めて祈りました。

 

 冒頭の言葉(10節)は、その祈りの言葉であり、主に依り頼む信仰の告白です。ここにアサ王は、自分たちの信ずる神がユダに勝利をお与えくださることを確信していたのです。

 

 これは、「見よ、神が頭として我々と共におられ、その祭司たちは、あなたたちに対する進軍のラッパを吹き鳴らそうとしている。イスラエルの人々よ、勝ち目はないのだから、あなたたちの先祖の神、主と戦ってはならない」(13章12節)と告げ、挟撃したイスラエル軍を前にして、主に助けを求めたアビヤ王の信仰に通じます(同14,15節)。

 

 主なる神は、アサのこの信仰の祈りに応え、クシュ人を撃たれたので(11節)、ゲラルまで追撃して一人残らず討ち取り、おびただしい戦利品を持ち帰ることが出来ました(12節)。また、ゲラル周辺のすべての町をも撃ちました(13節)。それは、ゲラル周辺に住むペリシテ人たちが、クシュ人に同行していたということだったのでしょうか。

 

 パウロは「神が味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ書8章31,32節)と語りました。

 

 ヨハネの手紙一4章4節には「あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」と記されています。私たちの内にお迎えした主イエスが、世にいる者よりも強いお方であり、そのお方が私たちに味方していてくださるので、この世に対して、常に輝かしい勝利を収めることが出来ます。

 

 主イエスは悪霊払いについての論争で、「まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ」(マルコ3章27節)と言われました。

 

 私たちが主イエスを生活の真ん中、また心の中心にお迎えし、主の御言葉に従って歩んでいるならば、主を縛り上げることが出来るような強いものはこの世に存在しないので、略奪に遭って大切なものを失うというようなことは、全くないでしょう。

 

 しかしながら、私たちは信仰を持ってはいますが、いつの間にか主に従うというよりも自分で考え、自分で行動してしまうことがあります。完全に明け渡していない自分がいます。そして、あれこれとあくせく働いて、出て来るのは涙とため息、喜びも平安もない生活になっていることがあります。

 

 それは、心が縛られて、大切なものが奪われてしまった状態です。そしてそれを、自分でもどうしようもない状態になってしまうことがあります。そんなとき、もう一度、主を心にお迎えしましょう。主の御名を呼びましょう。主が祈りを聞いてくださいますから、どんなことでも感謝をもって神に願いましょう。

 

 そうすれば、主が約束通りに平安を授けてくださいます(フィリピ書4章6,7節)。聖霊を通して、神の愛を心に注いでくださいます(ローマ書5章5節)。主にあって、勝利に導いてくださいます(ヨハネ16章33節)。主に信頼し、絶えず主を呼び求めましょう。

 

 聖霊様、今日も私たちと共にいてください。私たちの内側をあなたの力と平安で満し、行くべきところに行き、語るべき言葉を語り、留まるべきところに留まり、なすべきことを行わせてください。あなたが悲しまれることをしないよう、守ってください。そうして、あなたが望まれる者にならせてください。御名が崇められますように。 アーメン!

 

 

「彼はアサの前に進み出て言った。『アサよ、すべてのユダとベニヤミンの人々よ、わたしに耳を傾けなさい。あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちにご自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる。』」 歴代誌下15章2節

 

 オデドの子アザルヤに神の霊が臨み(1節)、ユダの王アサに預言を告げます。それが、冒頭の言葉(2節)で始まる主の言葉です。アサは、クシュ人ゼラの大軍を退け(14章7節以下)、ゲラル周辺のすべての町を撃って(同13節)、多くの戦利品を持ち帰っていました(同12節)。驕り高ぶってレハブアムの道を歩まないよう「勝って兜の緒を締めよ」といったところでしょうか。

 

 預言の内容について、3節に「長い間、イスラエルにはまことの神もなく、教える祭司もなく、律法もなかった」と言っているのは、おそらく士師記の時代のことを指しているのでしょう。そのころ、国ははなはだしい騒乱に巻き込まれ、安全に行き来することが出来ませんでした(5節)。国と国、町と町が互いに争い、破壊し合っていたからです(6節)。

 

 「しかし、あなたたちは勇気を出しなさい」(7節)というのは、14章2節以下に記されている宗教改革を完遂しなさいということでしょう。2節で「あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちにご自分を示してくださる」と語られているのは、14章6節でアサ自身が民に告げていたことでした。

 

 預言者アザルヤについて、父オデドの名のほか、彼のことを知ることの出来るものは何もありません。オデドも8節では「預言者」と呼ばれています。ただ、アザルヤとは「主は助け」という意味であり、父オデドは「回復させる人、元に戻す人」という意味です。そのような名を持つ預言者がアサのもとに遣わされたというのも、偶然以上の意味を持つ出来事ということです。

 

 その言葉を聞いてアサ王は勇気を出し、ユダの全地から偶像を取り除き、主の神殿の祭壇を新たに築き直しました(8節)。すると、主なる神が彼と共におられるのを見て、イスラエルから多くの者が彼のもとに投降して来たと言われます(9節)。

 

 かつて、レハブアムの代にイスラエルの神、主を求めようと心を定めた者たちが、イスラエルのすべての部族の中から、エルサレムに出て来て主を礼拝し、ユダの国を強くしました(11章16節)。しかし、それは3年間という短い間で(同17節)、その後、レハブアムは主の律法を捨ててしまいます(12章1節)。国が固まり、自らも力をつけたことが高ぶりになってしまったのです。

 

 ヤロブアムの背信のためにエルサレムにやって来て、主を求めつつレハブアムに協力していた人々は、レハブアムの背信を見て、レハブアムを支援することをやめてしまったことでしょう。ここに、主の目に適う正しいことを行う王の登場を見て、再びイスラエルから多くの人々がエルサレムにやって来たわけです(10節)。

 

 あらためて、主を求め、主と共にいるとは、異教の偶像を取り除き、主の祭壇を築き直すこと、主の御言葉に耳を傾け、その教えを守ることと示されます。かつて神を求めたことがあれば、それでよいというのではありません。私たちが主の霊の導きに与るとき、自分たちの姿、特に罪の姿が示されることでしょう。

 

 アサ王が主の目にかなう正しいことを行い、異国の祭壇と聖なる高台、石柱やアシェラ像を壊し、取り除いたことが、14章1,2節に記されていました。前に行っていたことを、アザルヤの言葉に力を受けて、ユダとベニヤミンの地でさらに徹底的に行うと共に、エフライムの山地で攻め取った町々から、忌むべき偶像を除き去り、主の祭壇を新しくしたと読むことが出来ます(8節)。

 

 エフライムの山地は北イスラエルの領土ですが、列王記上15章16節などに「アサとイスラエルの王バシャの間には、その生涯を通じて戦いが絶えなかった」と記されているので、ある時期、その戦いの中でエフライム山地の町々を占領することがあって、アサはその町々にあった異教の神々を廃する宗教改革を断行したようです。

 

 人はいつの間にか、偶像を造ってしまいます。偶像というのは、目に見えるもの、形あるものばかりではありません。自分を安心させようとして、あるいは自分の欲望を満たすために、主を求めることを妨げ、主と共にいることが出来ないようにするもの、それらすべてが偶像です。

 

 私たちが求めれば、ご自分を示してくださると主は言われますが(申命記4章29節、エレミヤ書29章12節以下など)、神ご自身がご自分を示そうとしておられるので、私たちが求める前から、ご自分を示す準備をしておられるのです。いえ、それだけでなく、私たちに求める心を起こさせてくださるのです(フィリピ2章13節)。

 

 それが、私たちを祝福してやまない主の御心です(15節参照)。御言葉と聖霊の導きに従い、自分の心の内にある、神にふさわしくないものを取り除かせていただきましょう。

 

 「神の聖霊を悲しませてはいけません」(エフェソ4章30節)という御言葉があります。また、「霊の火を消してはいけません」(第一テサロニケ5章19節)という御言葉もあります。

 

 そのために「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」(同5章16~18節)と命じられます。それは、「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられること」(同18節)だからです。

 

 喜びと感謝を携えて絶えず神に祈ること、神がそれを望んでおられます。主は私たちと共におられますが、ただ黙ってそこにいるというのではなくて、語り合うこと、交際することを求めておられるわけです。

 

 また「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(エフェソ5章18,19節)と言われます。主の恵みを受け、聖霊に満たされて、心から賛美のいけにえ、唇の実を主にささげましょう(ヘブライ13章15節)。

 

 私たちを愛し、恵みをお与え下さる神の御言葉に耳を傾け、感謝と喜びをもって祈りをささげましょう。どんなマイナスもプラスに変えてくださる主を信じ、どんなことも感謝しながら、歩みましょう。

 

 主よ、あなたの御言葉に耳を傾けます。私たちと共にいてください。心を尽くし、魂を尽くしてあなたを求めます。私たちにご自分をお示しください。主の恵みと導きが常に豊かにありますように。主の霊に満たされ、その導きに従い、絶えずあなたに唇の実をささげさせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「主は世界中至るところを見渡され、ご自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。この事について、あなたは愚かだった。今後、あなたには戦争が続く。」 歴代誌下16章9節

 

 アサ王は、その治世が終わりに近づいたとき、大きな試みに遭いました。治世第36年に北イスラエルの王バシャがユダに攻め込んで来たのです(1節)。この戦いについて、列王記上15章16節以下に、年代を除いてあとは同じように記述されています。

 

 ただ、同15章33節によれば、バシャは、アサの治世第3年に王となり、その治世は24年に及んだというのですから、アサの治世第36年には(1節)、バシャは既にこの世にありませんでした。

 

 アサの治世第26年にバシャの子エラがイスラエルの王となり(列王記上16章8節)、翌年、家臣ジムリが謀反を起こして代わって王となり(同9,15節)、しかし、7日後に全イスラエルがオムリを立ててジムリを追い落とし、代わってオムリが王となりました(同16,22,23節)。

 

 アサの治世第36年は、オムリがイスラエルの王のときということになります。ということで、いずれかの資料に年代の誤りがあると言わざるを得ません。アサの忠実さによって得た平和の期間を長くするために、歴代誌の著者が1節と15章19節のアサの治世の年代を20年ほど後ろにずらしたと想定する注解者があり、それが妥当ではないかと思われます。

 

 バシャがラマに砦を築くということは(1節)、既にベニヤミン領に攻め込んでその地を確保しているというしるしです。そこを橋頭堡として、さらに深くユダに攻め込んで来ようというわけです。

 

 そこでアサは、アラム王ベン・ハダドに金銀を贈って北イスラエルを牽制させ、攻撃がやむように願いました(2節以下)。その際、アサは「わたしとあなた、わたしの父とあなたの父との間には同盟が結ばれています」(3節)と言っていました。父アビヤの代に結ばれた同盟関係を自分たちの間でも確認し、その上で、バシャとの同盟を破棄するように求めたわけです。

 

 その求めに応じて、アラム軍が北イスラエルの補給基地を攻略したので(4節)、バシャはラマの構築を中止しました(5節)。しかも、バシャがラマに砦を建てるために運び込んだ石材と木材を利用して、ゲバとミツパに砦を築くことが出来ました(6節)。

 

 アサにとって、ベン・ハダドへの貢物は、王宮の宝物庫だけでなく、主の神殿からも金銀を取り出すということで、とても大きな負担だったわけですが、敵を追い払うことが出来ただけでなく、国境の防備も固めることが出来たわけです。まさに一石二鳥の結果となったので、快哉を叫びたいところでしょう。

 

 けれども、そこへ先見者ハナニがやって来ました。このことについては、列王記に記述がありません。19章2節、20章34節に「先見者ハナニの子イエフ」が登場して来ます。イエフがアサの子ヨシャファトと関わりがあったと考えると、イエフの父ハナニが先見者としてヨシャファトの父アサに主の言葉を告げるのは自然の成り行きと、歴代誌の著者は考えたのでしょう。

 

 アサ王のもとに来た先見者ハナニは、「あなたはアラム王を頼みとし、あなたの神、主を頼みとしなかった。それゆえ、アラムの王の軍隊はあなたの支配を離れる」(7節)と告げます。

 

 「支配を離れる」ということは、それまではユダがアラムを支配していたということでありません。そうであるなら、貢物の金銀を贈って助力を依頼することはなかったはずです。ここではむしろ、主を頼みとしていれば、北イスラエルの王バシャの軍を排除するだけでなく、アラムをもユダの支配下に置くことが出来たはずだったということでしょう。

 

 それをこのとき、アサ王が主を頼みとせず、貢物でベン・ハダドを動かして解決しようとしたため、立場が逆転する結果になってしまったわけです。また、アサの貢物でベン・ハダドがバシャとの同盟を破棄するというなら、アサとベン・ハダドとの同盟も、金の切れ目が縁の切れ目ということになります。

 

 アサ王は、主の目にかなう正しいことを行って来ました(14章1節)。彼は、国内から異教の偶像を取り除き続けてきました(同2節以下、15章8節)。母マアカがアシェラ像を造ったというので、太后の位から退けることさえしています(15章16節)。そして、自軍に倍する敵軍を前にしても、主を頼みとし、主の御名で大軍に立ち向かうと信仰を言い表しました(8節、14章7節以下)。

 

 何故今回は、主を頼みとせず、冒頭の言葉(9節)にあるように「あなたは愚かだった」と言われるようなことをしたのでしょうか。それは、それほど問題が大きくなかったからなのかも知れません。

 

 自分に倍するような敵ならば、主を頼みとするほかありませんでした。でも、自分が動けば、また、あれこれ工夫すれば、なんとかなるかも知れないというようなレベルのとき、祈るまでもないと思うのではないでしょうか。

 

 大罪を犯すと考えれば手を出さなかったかも知れませんが、この程度ならといった軽い気持ちで罪に手を染めてしまうケースがあるでしょう。富士山に躓く人はいません。私たちが躓くのは、ごく小さな段差です。

 

 大祭司カイアファの屋敷でペトロが主イエスを否んだとき、もしもペトロ自身が縛られて大祭司の前に引き出され、同じように尋ねられたのであれば、「わたしは主イエスの弟子です」と答えられたのかも知れません。

 

 神はアサのその判断を「愚かだった」と言われました。これは、聞かなければならない大切な言葉であり、そこから信仰を学ばなければなりません。主なる神は、私たちを愚かなままにしておきたくはないのです。冒頭の言葉(9節)のとおり、「主は世界中至るところを見渡され、ご自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる」のです。

 

 主の言葉を聞いてアサ王は憤り、ハナニを獄に投じました(10節)。「民の中のある者たち」とは、先見者ハナニを支持した者たちのことでしょう。アサは彼らを虐待したと言われます。その後、アサ王が足の病にかかり(12節)、2年後に命を落としたのは(13節)、先見者と民に対する悪のためということでしょう。

 

 主なる神は、どんなときにも主を信頼し、絶えず主に尋ね、導きに従って欲しかったのです。たとい失敗しても、もう一度主の祭壇を新しく築き直すこと、改めて主を求めようと心を定めることを望んでおられたのです。

 

 失敗しないように気をつけていても、失敗してしまうのが私たちの常です。失敗したとき、そしてそれに気づいたときには素直に悔い改め、主の赦しを頂いて、主と共に前進させて頂きましょう。

 

 「互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」(コロサイ書3章9,10節)。主の祝福を祈ります。

 

 主よ、あなたに信頼します。弱い私たちを憐れんでください。絶えず御言葉に立ち、その導きに従うことが出来ますように。御心を尋ねて祈り求めます。私たちの歩むべき道を示してください。主こそ道であり、真理であり、命だからです。私たちを主の御業に用いてください。御心がこの地になりますように。 アーメン

 

 

「主はヨシャファトと共におられた。父祖ダビデがかつて歩んだ道を彼も歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のようには行わなかったからである。」 歴代誌下17章3,4節

 

 17章から、ダビデ王朝6代目の王ヨシャファトについて記述しています。列王記の記述の仕方では、北イスラエル王アハブと姻戚関係を結び、その動きに従属的に紹介されるという登場の仕方になっていますが(列王記上22章1節以下)、歴代誌の著者はヨシャファトを主要な王の一人とし、肯定的評価をしています(21章12節、22章9節も参照)。

 

 ヨシャファトは先ず、ユダの町に軍隊を配置し、父アサが占領したエフライムの町々にも守備隊を置いて(2節)、防御を固めました。ヨシャファトは主の祝福を受けて勢力を増し、ユダにいくつもの城砦と補給基地の町を築き(12節)、町々で大きな工事を進め、エルサレムに戦士、勇士を集めました(13節)。

 

 冒頭の「主はヨシャファトと共におられた」(3節)という言葉は、短いですが、とても素晴らしい言葉です。主イエスの誕生によって「その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ書7章14節の預言が実現すると、マタイ福音書1章21節以下に記されています。そして「インマヌエル」とは「神は我々と共おられるという意味である」と説明されています。

 

 どうして、主がヨシャファトとご一緒におられたというのでしょうか。その理由について、冒頭の言葉(3,4節)に「父祖ダビデがかつて歩んだ道を彼も歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のように行わなかったからである」と語られています。

 

 ヨシャファトの父王アサに対して預言者アザルヤが「あなたたちが主と共にいるなら、主もあなたたちと共にいてくださる。もしあなたたちが主を求めるなら、主はあなたたちにご自分を示してくださる。しかし、もし主を捨てるなら、主もあなたたちを捨て去られる」(15章2節)と告げていました。

 

 そのことを、ヨシャファトは父アサから聞いていたのではないでしょうか。また、実際にアサが行っていたことを、ヨシャファトがその傍らで見ていたのでしょう。

 

 ただし、アサは生涯その道を歩み通すことが出来ませんでした。最後に道を踏み誤ってしまったのです(16章7節以下)。先見者からそれを指摘されるとかえって怒りを表わし、民の中のある者たちを虐待するという、八つ当たり的な行動を取っています(同10節)。そして、晩年、重い病にかかりましたが、それでも主を求めなかったと批判されています(同12節)。

 

 とはいえ、それによってアサのなした業績がすっかり無駄になったとは思いません。神は、キリストの弟子のために汲んだ水一杯の恩を忘れないお方だと言われているからです(マルコ福音書9章41節)。

 

 アサ王は、41年という長い治世を全うし、眠りにつきました(16章13節)。アサのもとで、国が長い間、平穏の内にあったのです。そして主の憐れみのもと、特別な葬りがアサのためになされたのです(同14節)。

 

 主に慰められる以上の慰めはありません。主が共にいてくださるということ以上の平安はありません。アサの心変わりにも拘わらず、主なる神はその深い憐れみのゆえに、どんなときにもアサと共にいてくださったということではないでしょうか。だからこそ、それを見たアサの子ヨシャファトが、さらに熱い心で主を求めたのだと思います。

 

 「バアルを求めず」(3節)ということについて、6節で聖なる高台やアシェラ像をユダから取り除いたと言われます。「先祖の神を求め、その戒めに従って歩み」(4節)ということについては、高官やレビ人、祭司たちが主の律法の書を携えてユダのすべての町々で教育を行うように遣わし、民の教化に当らせたと記されています(7~9節)。

 

 ヨシャファトの主を求める熱心さも、次第に増大しているということを示すかのようです。それゆえ主は、ヨシャファトを祝福され、多くのものがもたらされました。5節には、ユダの民がヨシャファトに貢ぎを贈ったとあります。

 

 さらに10節以下に主の恐れが近隣の国々を襲い、ユダに戦いを挑む者はなく(10節)、ペリシテ人のもとから貢ぎ物や税が届けられ、アラビア人も雄羊、雄山羊を7700匹ずつ届けたと記されます(11節)。このように、祝福が拡大しているわけです。

 

 こうして、ヨシャファトはおおいに富み栄え、勢力を増し、ユダを守る勇士、武装兵の数は百万を越えています(12節以下)。あまりに多いので、少々誇張されているのではないかという学者が少なくありませんが、いずれにしても、そのように主がヨシャファトを祝されたという表現です。

 

 何よりも先ず主を求める者のためには、その必要のすべてを豊かに与えてくださるという約束の実現を、そこに見ることが出来ます(マタイ6章33節参照)。持っている人は更に与えられて豊かになるという言葉がありますが(同25章29節)、主との関係が正しくされるときに、主が共にいてくださるという恵みに、すべての必要が満たされるという恵みが増し加えられるのです。

 

 私たちも、何よりも先ず主を求め、その導きに従って歩むことを通して、主が共におられて私たちを祝福していてくださることを感謝する者とならせていただきたいと思います。

 

 主よ、ヨシャファト共におられ、豊かな恵みを賜ったように、いつも私たちと共にいてくださることを感謝します。あなたを求めることを心に定め、御言葉に耳を傾けます。キリストの言葉が私たちの内に豊かに宿りますように。私たちの歩みを導き、御心を行わせてください。 アーメン!

 

 

「しかし同時にヨシャファトはイスラエルの王に、『まず主の言葉を求めてください』と言った。」 歴代誌下18章4節

 

 ユダの王ヨシャファトが、大いなる富と栄光に恵まれるとともに、イスラエルの王アハブとも姻戚関係を結んだと、1節に記されています。具体的には、息子ヨラムのために、アハブの娘アタルヤを嫁に迎えるというものです(21章6節、22章2節)。

 

 ヨシャファトは前の章で、「主はヨシャファトと共におられた」と評される人物でした。一方アハブは、「彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」と言われる人物です(列王記上16章30節)。アハブは、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕えました(同31節)。

 

 バアルを求めず、先祖の神を追い求め、その戒めに従って歩んでいた(17章3,4節)といわれるヨシャファトがなぜ、釣り合いのとれない軛と思われる、アハブとの姻戚関係を結ばなければならなかったのでしょうか。

 

 それは、レハブアム以来、南北に分かれたイスラエルの間に、戦いが絶えなかったので、ここらで友好関係を築いて、国内の軍事的、政治的緊張を緩和したかったということでしょう。また、婚姻に伴う持参金のためとも言われます。けれども、17章でみたように、それらを必要としないほどに主の恵みを受けて、豊かな富を得、軍備を増強して国を固めていました。

 

 ヨシャファトがアハブを尋ねたとき、アハブは、ラモト・ギレアドに攻め上ろうとヨシャファトを誘いました(2節)。もともと、ラモト・ギレアドはイスラエルの領土でしたから(列王記上4章13節)、そこに攻め上ろうということは、アラムに奪われている領土を取り返そうということです。

 

 ただ、ここで「誘う」というのは、申命記13章7節で異教の神礼拝に誘うというところで用いられているのと同じ言葉です。このような言葉を選んでいるのは、歴代誌の著者がアハブとの姻戚関係を、異教の偶像礼拝に誘うようなものであり、それに伴って、命の危機を招くと、ヨシャファトを強く非難する思いがそこに込められているのでしょう。 

 

 「一緒にラモト・ギレアドに行っていただけませんか」(3節)というアハブに、「戦うときには、わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体です」(3節)と答えます。どこまでも一緒にということですが、その際にヨシャファトは冒頭の言葉(4節)の通り、「まず主を求めてください」とアハブに言いました。

 

 そこでアハブは、自分の400人の預言者を召集し、「戦いを挑むべきか、控えるべきか」を尋ねます。すると彼らは、「攻め上ってください。神は、王の手にこれをお渡しになります」と答えました(5節)。

 

 しかし、ヨシャファトはそれに満足せず、ほかに主の預言者はいないのかと尋ねます(6節)。アハブは渋々、ミカヤを呼びます。というのは、ミカヤがアハブの災いばかりを預言していたからです(7,8節)。

 

 呼び出されたミカヤは初め、「攻め上って勝利を勝ち取ってください」(14節)と言いますが、真意を尋ねると、「イスラエル人がみな、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました」(16節と言い)、さらに、「主がこのあなたの預言者たちの口に偽りを言う霊をおかれました。主はあなたに災いを告げておられるのです」(18節以下、22節)と続けました。

 

 ここで、祝福を語る400人の預言者と、400人の預言者の告げる祝福は偽りで、それはアハブをラモト・ギレアドで倒れさせるためだと災いを告げたミカヤと、どちらが真に神によって語っていたのでしょうか。どうすれば、それが判別出来るのでしょうか。

 

 主イエスは、神の御心を行おうとする者は、その教えが神から出たものか、その人が勝手に語っているのか、分かるはずだと言われました(ヨハネ福音書7章17節)。アハブはミカヤを投獄監禁して戦場に赴きました(25節以下)。戦いの後、ミカヤを処罰するためでしょう(26節参照)。

 

 ヨシャファトは、ミカヤの言葉をどのように聞いたのでしょう。残念ながら、彼もヨシャファトの言葉に真剣に耳を傾け、その災いを免れようとはしませんでした。ヨシャファトがアハブと姻戚関係を結んだことが問題だったように、ここで、ヨシャファトが主の預言者の言葉を聞きながら、その言葉に従おうとしないところに、問題があります。

 

 もしも、ヨシャファトがミカヤの言葉を聞き、アハブにラモト・ギレアドに攻め上るのを辞めさせ、主なる神を求め、その戒めに従って歩むように進言していたら、それをアハブが聞き入れていたら、彼は、この戦いで命を落とすことはなかったのです。

 

 悔い改めとは、方向転換をすることです。人の思いや考えではなく、神の御心に従うことです。けれども、アハブは神に従うよりも、自分の思いを優先しました。神の御言葉の前に謙るよりも、ミカヤに反発するかたちで行動してしまいました。それは、王としてのメンツでしょうか。結局、自分の周りに集めた御用預言者らの言葉に気を良くし、真の預言者の言葉に耳を閉ざしてしまいました。

 

 そのため、災いを告げたミカヤの預言どおり、その戦いの中で深手を負い、息絶える結果となったのです(33,34節)。アハブと同行したヨシャファトも、敵に包囲されて絶体絶命のピンチに陥りましたが、すんでのところで救われました(31節)。

 

 31節の「引き離された」という言葉は、2節の「誘う」という言葉です。「アハブと一体」と言っていたヨシャファトの前から、神が敵を誘い出して救ったという表現で、行くべきでなかった戦争のさなか、神の助けを叫び求めたヨシャファトは、神の救いを見ることが出来たのです。ここに、神の憐れみがあります。

 

 繰り返し学んでいるように、気分や感情によらず、信仰によって行動しましょう。ヨシャファトがアハブに言ったように、主の御言葉を求めましょう。告げられた御言葉に聴き従いましょう。そうして、聖霊に満たされ、神に力づけられ、励まされて歩ましょう。

 

 主よ、アハブは自分の意に沿わない神の言葉に耳を傾けることが出来ませんでした。その結果、災いを刈り取ることになりました。ヨシャファトは、主の御言葉を求めることは知っていましたが、素直に従うことが出来ませんでした。そのために、危うく命を落としてしまうところでしたが、主に助けを求めて、九死に一生を得ました。私たちも同様に弱く愚かな者です。憐れんでください。日々御言葉を求めて、御前に進むことが出来ますように。謙って聴き従うことが出来ますように。聖霊の満たしと導きを心から願います。 アーメン

 

 

「ヨシャファトはエルサレムに住んでいたが、再び出かけて民の中をベエル・シェバからエフライムの山地まで巡り、彼らを先祖の神、主に立ち帰らせた。」 歴代誌下19章4節

 

 ヨシャファトは、ラモト・ギレアドの戦場から無事帰還を果たすことが出来ました。それは、「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました。主は、『彼らには主人がいない。彼らをそれぞれ自分の家に無事に帰らせよ』と言われました」(18章16節)との預言が実現したということです。

 

 そこに先見者ハナニの子イエフがやって来て、「悪人を助け、主を憎む者の友となるとは何事ですか。そのために主の怒りが下ります」(2節)と告げます。アハブと姻戚関係を結び(18章1節)、一緒にラモト・ギレアドに攻め上ったことが(同3,28節以下)、ここに咎められているのです。

 

 確かに、アハブとの姻戚関係は、禍根を残す結果となります。姻戚関係とは、ヨシャファトがその子ヨラムのためにアハブの娘アタルヤを嫁に迎えたということです。その結果、ヨラムはアハブの家が行ったように主の目に悪とされることを行い、さらにその子アハズヤも、アハブの家の道を歩むようになるのです(21章6節、22章2,3節参照)。

 

 かつて、イエフの父ハナニがヨシャファトの父アサ王に対して、「あなたはアラムの王を頼みとし、あなたの神、主を頼みとしなかった」(16章7節)と責めたとき、アサは怒ってハナニを投獄してしまいました(同10節)。しかし、ヨシャファトは父アサとは違い、イエフの言葉を聞いたとき、さらに謙り、徹底して神の御言葉に従う決心をしたようです。

 

 3節でイエフが「しかし、あなたには良い事も見られます。あなたはこの地からアシェラ像を除き去り、揺るぎない心で神を求めました」と言います。この言葉によって、2節の裁きをなかったことにするというのではありませんが、ヨシャファトがこれからどのような歩みをするのかによって、裁きが猶予されたり、また取り消しになることもあるのです。

 

 ヨシャファトは以前、ユダの町々に高官、レビ人、祭司たちを遣わして主の律法を教え、民の教化にあたらせたことがあります(17章7節以下)。今回は、それを徹底するために、王自らベエル・シェバからエフライムの山地まで経巡り、民を主に立ち帰らせました(4節)。

 

 そして、すべての砦の町に、町の裁判官を任命します(5節)。この「裁判官」は、「士師」(ショフティーム)と同じ言葉です。彼らは裁判だけでなく行政指導も行い、さらに砦の町の指導者として、軍事的な責任も担っていたものと思われます。エルサレムでも同様に、裁きと紛争解決のためにレビ人や祭司、氏族の長を任命しました(8節)。

 

 各部族ごとに行われていた司法制度が中央集権的に進められるようになっていく過程で、すべての町に裁判官が置かれるようになる前に、王の軍隊が駐屯している砦の町で、王の任命する裁判官が立てられたわけです。

 

 また、エルサレムの上級裁判所に、申命記17章9節に規定されているレビ人や祭司と並んで、イスラエルの氏族の長が立てられているのは、上述の通り、中央集権的に司法制度が定められていく過渡期で、より成熟した制度では、氏族の長を必要としなくなっていくということでしょう。

 

 任命した裁判官たちにヨシャファトは、「人のためでなく、主のために裁くのだから、自分が何をすべきか、よく考えなさい。裁きを下すとき、主があなたたちと共にいてくださるように」(6節)と告げました。

 

 また「主を畏れ敬い、忠実に、全き心をもって務めを果たせ。あなたたちの兄弟が自分の住んでいる町からあなたたちに訴え出るときはいつでも、それが傷害事件であれ、律法、戒め、規定、おいてに関する問題であれ、彼らが主に罪を犯して、怒りがあなたたちと兄弟たちの上に降りかかることのないように、彼らを戒めなさい」(9節以下)と命じました。

 

 そして、「勇気をもって行え。主が善を行う者と共にいてくださるように」(11節)と祝福します。上に立つ者が心を定めて正しく行えば、主によって国は堅く立てられます。王が主を畏れ、主を畏れ敬うことを指導者たちに命じるのは、国全体が主を畏れること、主に従うことを徹底して、その祝福に与るためなのです。

 

 国内ではこのように徹底的に主を求め、主に従うことを率先して行っているヨシャファト王が、対北イスラエル政策については、なんのためらいもないかのごとく姻戚関係を結び(18章1節)、それをイエフから咎められたのに、後にイスラエルの王アハズヤとも協定を結び(20章35節)、それを預言者エリエゼルに断罪されています(同37節)。同じ過ちを繰り返すのは、およそ賢いとは言えません。

 

 同じ民族が二つに分かれて争っていては、国は立ち行かないから、互いに協力し合うべきであるというのは、正しい認識だと思います。しかし、どの点で、どのように協力し合うのかということは、どうでもよいことではありません。ヨシャファトは、自分の決断が何をもたらすのかということについて、認識が今一つ十分ではないかのようです。

 

 そのために、自分が彼(ヨシャファト)も歩み、バアルを求めず、先祖の神を求め、その戒めに従って歩み、イスラエルの人々のようには行わなかった」(17章3,4節)と評されるヨシャファトにも、その道を踏み外せば、主なる神の怒りが下ります(2節、20章37節)。

 

 歴代誌は、主に従う者への祝福と、主に背く者への裁きを併記して、常に主に従う者として歩むよう導くと共に、主に背く道を歩む者に、悔い改めて主に立ち帰り、主を頼りとして歩む者となるよう招いているのです。

 

 絶えず御言葉に耳を傾け、主の御心を尋ね求めましょう。常に主の前に謙り、御霊の導きに従いましょう。

 

 主よ、わが愛する祖国日本が、主を畏れ敬い、忠実に全き心で主に委ねられた務めを果たす国になりますように。国の指導者に創造主を畏れ敬う心を与え、また、主を畏れる者たちが指導者の周囲にいて、悪しきものの攻撃から守られますように。自分の思いよりも主の御心を優先する国、まず主に祈り、御言葉に忠実に従って歩む国、自分のように隣人を愛する国となりますように。 アーメン

 

 

「彼は言った。『すべてのユダよ、エルサレムの住民とヨシャファト王よ、よく聞け。主はあなたたちにこう言われる。「この大軍を前にしても恐れるな。怖気るな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである。」』」 歴代誌下20章15節

 

 モアブ人、アンモン人、メウニム人が大挙して南ユダに攻め込み、ヨシャファトに戦いを挑みました(1節)。この戦いについて、列王記には何の記述もありません。列王記下3章4節以下との関連を見る注解者もありますが、状況や登場人物、ヨシャファトの振る舞いなど、歴代誌と列王記の隔たりは小さくありません。

 

 メウニム人について、原文では「アンモン人の一部」となっていますが(新改訳参照)、直前のアンモン人を誤って繰り返すかたちになっているので、口語訳、新共同訳、岩波訳は七十人訳に従って「メウニム人」としています。10節の「アンモン人、モアブ人、セイルの山の人々」との関連で、メウニム人は死海南方のエドム人との関わりが深い人々のことと考えられます。

 

 彼らが大挙して攻めて来て、「ハツァツォン・タマル、つまりエン・ゲディ」にいるという報せがヨシャファトのもとに届きました(2節)。エン・ゲディ(「子山羊の泉」の意)は死海西岸にあり、南北のちょうど中間に位置するオアシスです。ダビデがサウル王の手を逃れて、この要害に身を潜めていたことがあります(サムエル記上24章1節)。

 

 ただし、ハツァツォン・タマルとエン・ゲディは同一ではないとする学者が少なくありません。岩波訳の注にハツァツォン・タマルについて「ナツメヤシがある砂利地の意。エン・ゲディの北のハツァツァ谷(ナハル・ハツェツォン)か。あるいは南に求める学者もいる」と記されています。

 

 報せを聞いたヨシャファトは、その大軍を恐れました(3節)。ユダにも百万を超える兵士がいたはずですが(17章14節以下)、それでも恐れをなすということは、戦力にどれほどの開きがあったのでしょう。あるいは、先にイエフが「主の怒りがあなたに下ります」(19章2節)と告げていたのがこれだと、ヨシャファトは考えたということでしょうか。

 

 ヨシャファトは、戦ってもとうてい勝ち目はないことを悟り、主を求めることを決意して、ユダのすべての民に断食を呼びかけました(3節)。ヨシャファトの呼びかけに答えて、ユダの民は主を求めて集まります(4節)。絶体絶命のピンチに、王と民が一つになって主を求めたのです。それは、主に対して、悔い改めの姿勢を示すものでした。

 

 ヨシャファトは、「わたしたちには、攻めてくるこの大軍を迎え撃つ力はなく、何をなすべきか分からず、ただあなたを仰ぐことしかできません」(12節)と訴えました。ヨシャファトはこの時、北イスラエルに援軍を求めませんでした。確かに、「主を求めることを決意していた」(3節)わけです。

 

 すべての民が主の御前に立っていたとき(13節)、レビ人ヤハジエルに主の霊が臨み(14節)、冒頭の言葉(15節)のとおり、「この大軍を前にしても恐れるな。おじけるな。これはあなたたちの戦いではなく、神の戦いである」と告げます。ヨシャファトを討つ神の怒りの手かと思われた大軍を、神御自身が、恐れる必要などないと言われるのです。

 

 そして、「明日敵に向かって攻め下れ。見よ、彼らはツィツの坂を上って来る。あなたたちはエルエルの荒れ野の前、谷の出口で彼らに会う。そのとき、あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ」(16,17節)と告げられます。

 

 確かに、主は御自分を求める者に、お応えになられる方です(イザヤ書58章9節、エレミヤ書29章12~14節、33章3節など)。エルサレム神殿奉献のときにも、「もしわたしの名をもって呼ばれるわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの地をいやす」(7章14節)と言われていました。

 

 主は、「敵に向かって攻め下れ」(16節)、「恐れるな。おじけるな」(17節)と言われていますが、戦うのはユダの民ではありません。「あなたたちが戦う必要はない。堅く立って、主があなたたちを救うのを見よ」(17節)と言われているからです。つまり、主御自身がユダのために戦い、勝利をおさめられる「神の戦い」(15節)なのです。

 

 ヨシャファトだけでなく、この言葉を聞いたユダの人々は主の御前にひれ伏して礼拝し(18節)、レビの子らが立ち上がり、声を張り上げて、イスラエルの神、主を賛美しました(19節)。

 

 翌朝、ヨシャファトがユダの民に「あなたたちの神、主に信頼せよ。そうすればあなたたちは確かに生きることができる。またその預言者に信頼せよ。そうすれば勝利を得ることができる」(20節)と語ると、以前は恐れに包まれていたユダの民が大胆に立ち上がり、軍隊の前に歌を歌う者を任命して立たせ、「主に感謝せよ、その慈しみはとこしえに」(21節)と言わせます。

 

 そして、喜びと賛美の歌を歌い始めたところ、攻め込んで来た敵軍に伏兵が立ち向かい(22節)、その後、なんと敵軍は同士討ちをして全滅してしまいました(23節以下)。確かにユダの民は、戦わずして勝利を得たのです。

 

 かくて、王と民が心を一つにしたこと、断食して主を求めたことに主が答えられ、圧倒的な勝利を授けられたわけです。王と民に一致をもたらしたのは、そして真剣に主を求めたのは、絶体絶命の危機に遭遇したからです。危機に直面して慌てふためいて逃げ出したり、近隣の強国を頼ったりするのではなく、主を求めたからこその大勝利でした。

 

 ここに、祈りの力、祈りに答えてくださる主の力が示されます。どう祈ればよいか分からない弱い私たちのため、御霊が切なる呻きを持って執り成してくださいます(ローマ8章26節)。そして、神は万事を益に変えてくださるのです(同28節)。

 

 ユダの民は主の御言葉を聴いたとき、ひれ伏して主を礼拝し、賛美をささげました。そして、兵士たちの前に歌う者を配して、喜びと賛美の歌を歌い始めました。そこに勝利を先取りして喜び歌う民の信仰があります。その賛美の中に臨在される主が(詩篇22編4節)、勝利を収められたのです。

 

 この信仰に倣い、まず祈りましょう。御言葉を求めましょう。主がご自身を示してくださったら、すべてを委ねて賛美しましょう。

 

 主よ、私たちにも御言葉を聴かせてください。御前に謙る者としてください。御霊の導きに従い、主を信じる信仰によって歩ませてください。そして、勝利の歌、主をたたえる賛美の歌を歌わせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン!

 

 

「しかし主は、ダビデと結んだ契約のゆえに、ダビデの家を滅ぼそうとはされなかった。主は、ダビデとその子孫に絶えずともし火を与えると約束されたからである。」 歴代誌下21章7節

 

 ヨシャファトに代わって、その子ヨラムが王位に就きました(1節)。ヨラムについて、歴代誌の著者は肯定的な評価を全く与えません。3節の「ヨラムが長子であったので、ユダの王位は彼に譲った」という記録も、ヨラムが王として治めた時代が好ましいことでなかったことを示しているようです。

 

 ヨラムには「アザルヤ、エヒエル、ゼカルヤ、アザルヤ、ミカエル、シェファトヤ」(2節)という6人の弟がおりました。ただ、アザルヤという名の兄弟が二人いるとは考え難いので、どちらかを削るか、二番目のアザルヤをウジヤとでも訂正すべきでしょう。

 

 彼らは「イスラエルの王ヨシャファトの子である」(2節)と言われます。多くの写本や70人訳、ウルガタなどは「ユダの王」となっています。マソラ本文は、より難しい「イスラエル」が本来のものと考えて、それを採用しています。即ち、「イスラエルの王」がここに用いられるのは誤りと考えて、後に「ユダの王」と書き換えられたと考えるわけです。

 

 ヨシャファトは、ヨラムを含む7人の子らに砦の町を与え、財宝をも豊富に分け与えていました(3節)。それは、兄弟で力を合わせてユダの国を守っていくことを願ってのことと思われます。あるいはヨシャファトが、ヨラムの所有欲、自己顕示欲の強さを見て、予め分け与えておくことにしたのかも知れません。

 

 けれども、それが裏目に出たのか、ヨラムが自分の兄弟のすべてと、高官のうち何人かを剣で殺すという最悪の結果を招いてしまいました(4節)。兄弟の存在も含め、列王記にはこの出来事が記されてはいません。

 

 ヨラムの妻は、イスラエルの王アハブの娘アタルヤです(列王記下8章26,27節)。彼女に唆されて兄弟殺しをしたと解釈してよいとは思いませんが、アタルヤのために、彼女の父アハブが行ったように、ヨラムはイスラエルの王たちの道を歩み、主の目に悪とされることを行ったと、歴代誌の記者は述べています(6節)。

 

 ただ、ヨラムがアハブの娘アタルヤを妻として迎えたのは、父ヨシャファトがその子ヨラムのために計画してさせたことで(18章1節)、ヨラム自身のしたことではありません。なぜ、バアルを求めず、先祖の神、主を求め、その戒めに従って歩んでいたヨシャファトが(17章3,4節)悪名高いアハブとイゼベルの娘を自分の跡取り息子の嫁として迎えることになったのか、分かりません。

 

 ここで、ヨラムの兄弟の名前に関して、アザルヤは「主は助け」、エヒエルは「神は生きておられる」、ゼカルヤは「主は覚えられる」、ミカエルは「だれが神のようであろうか」、シェファトヤは「主は裁かれる」といった意味を持っています。

 

 ヨラムが弟たちを殺したということで、生ける神の助けを失い、主に覚えられず、主の裁きをおのが身に招くようなことになるということを、彼らの名前によってほのめかしているようです。

 

 ヨラムは、その行状といい、主に背く偶像礼拝の罪といい、父ヨシャファトとは全く違う道を進みました。その結果、神の恵みの道から外れ、先ず、エドムが反旗を翻し(8節以下)、またリブナが反旗を翻しました(10節)。それでも、悔い改めて主に立ち帰るどころか、ヨラムは主を捨ててユダの山々に聖なる高台を築き、バアルに依り頼みます(11節)。

 

 そのとき、ヨラムに宛てて預言者エリヤから一通の手紙が届きました(12節以下)。北イスラエルの預言者エリヤがユダの王に手紙を書くというのは、異例中の異例というところです。また、父ヨシャファトのときに、エリヤは天に帰り、後継者エリシャが立てられました(列王記下2,3章)。現実的に、エリヤから手紙が届いたとは考え難いところです。

 

 ただ、エリヤはアハブお抱えのバアルやアシェラの預言者たちと戦った人物ですから(列王記上18章16節以下、19節)、アハブの娘を妻に迎えてその家族になり、アハブの道を歩むヨラムに対して警告を与えるには、最も相応しい役どころです。

 

 そして、エリヤの言葉が現実のものとなります。ペリシテ人とアラブ人がユダに攻めて来て、王宮の財宝や王子、王妃たちを奪い去りました(17節)。弟たちにしたことが、自分にも降りかかって来たのです。

 

 また、ヨラム自身も重い病に冒され、ひどい苦しみにあえぎながらその生涯を閉じました(18,19節)。王として葬られることもありませんでした(19,20節)。それが、ヨラムの背きの罪の結果であると教えているのです。

 

 しかし、冒頭の言葉(7節)の通り、神はヨラムのすべてのものを奪い去りはしませんでした。彼の最年少の息子ヨアハズが残されたのです(17節)。そしてそれは、神がダビデと結んだ契約のゆえだというのです。

 

 その契約とは、「主があなたのために家を興す。あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする。この者がわたしの名のために家を建て、わたしは彼の王国を揺るぎないものとする」(サムエル下7章11~13節、歴代誌上17章10節以下)というものです。

 

 そして、ヨラムの重罪にも拘わらず、このダビデとの契約が破棄されることなく、有効に機能しているというわけです。神がこの契約を維持しておられるのは、ユダの王の忠実さ、民の従順さのゆえではないとすれば、何のためでしょうか。それこそ、神の憐れみのゆえ、イスラエルの民に対する愛のゆえです。

 

 主なる神は、繰り返し御言葉に反逆し、罪を犯すダビデの子らのために、その子孫として主イエスをこの世にお与えになりました(マタイ1章1節参照)。主イエスは、十字架にかけられて殺されました。それは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださるためでした(ガラテヤ書3章13節)。

 

 もはや私たちが罪に定められ、その裁き、即ち、律法の呪いを受けることはありません。私たちは主イエス・キリストの恵みを知っています。主は豊かであったのに、私たちのために貧しくなられました。それは、主の貧しさのゆえに、私たちが豊かになるためだったのです(第二コリント書8章9節)。

 

 主イエスは、ご自分を受け入れた者、その名を信じた者には、神の子となる資格をお与えくださいました(ヨハネ1章12節)。以来、キリストにおいて神の子となる者が絶えることはありません。こうして、主イエスにより「ダビデの家を堅くたて、その王国を揺るぎないものとする」という契約は、確かなものとなったのです。

 

 愛と赦しの福音により、主の命に活かされた者として、その恵みに答えて今日も歩ませていただきましょう。

 

 主よ、あなたは独り子をお与えになったほどにこの世を愛されました。あなたの愛と憐れみは測り知れません。そのような深く広い愛がなければ、私たちが救いに与ることは出来ませんでした。罪を赦し、神の子として生きる救いの道を開いてくださり、感謝します。主の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受け取ります。その恵みを無駄にせず、福音に相応しい歩みをなすものとなることが出来ますように。 アーメン!

 

 

「こうして、アタルヤが国を支配していた六年の間、ヨアシュは彼らと共に神殿の中に隠れていた。」 歴代誌下22章12節

 

 ヨラムの最年少の子アハズヤが、南ユダの王となりました(1節)。父ヨラムと共に、アハズヤ以外の王子たちがペリシテ、アラブ連合軍によって奪い去られ、殺されてしまったからでした(1節、21章17節)。

 

 「アハズヤは42歳で王となった」(2節)とありますが、父ヨラムが32歳で王となり、8年後に病死していますから(21章5,18節以下、20節)、その最年少の息子が42歳で王位に就くとは考えられません。列王記下8章26節には、「アハズヤは22歳で王となり」とあり、それが現実的でしょう。なお、70人訳では、20歳とされています。

 

 この王位継承劇は、サウルとその子らが、ペリシテとのギルボア山の戦いで戦死し(歴代誌上10章1節以下、サムエル記上31章1,2節)、年少の子イシュ・ボシェトが擁立されたことを思い出させます(サムエル記下2章8節以下)。そのイシュ・ボシェトは、自軍の略奪隊の長二人に寝首をかかれ(同4章1節以下)、その結果、サウル王朝は滅亡しました。 

 

 アハズヤは、母アタルヤの悪い勧めを受けてアハブの道を歩み(2,3節)、さらに、ヨラムの死後、アハブの家の者が顧問となって、主の目に悪とされることを行います(4節)。彼らは、イスラエルの王ヨラムと共に、アラムの王ハザエルと戦おうとして、ラモト・ギレアドに向かいました(5節)。

 

 これは、アハズヤの祖父ヨシャファトが、ヨラムの父アハブと共にラモト・ギレアド奪還に向かい、返り討ちにあったことに対する弔い合戦のかたちということになります(18章28節以下参照)。ヨラムはこの戦いで負傷し(5節)、イズレエルに戻ります。アハズヤはヨラムを見舞うため、イズレエルに下りました(6節)。

 

 そして、アハブの家に裁きを行うために立てられたイエフにより、北イスラエルの王ヨラムと共にアハズヤの命が絶たれ、その兄弟の子らも殺されました(8,9節、列王記下9章14節以下)。

 

 歴代誌と列王記では、アハズヤの討たれた場所が違いますが、歴代誌では、アハズヤが北イスラエルと結んだことを重大な過失と考え、それを強調するためにサマリアに潜んでいるところを捕えられたことにしたのでしょう。

 

 結びに「こうして、アハズヤの家には国を治めることのできる者はいなくなった」(10節)と言います。これは、7節で「アハズヤがヨラムを訪れることによって滅ぶに至ったのは神による」と言われているとおり、アハブが進んでバアル礼拝を行ったことで神を怒らせた結果、姻戚関係にあるアハズヤも、同じ裁きを受けることになったわけです。 

 

 息子アハズヤが死んで、皇太后の地位を失うことを嫌ったのか、母アタルヤは王位継承者を殺し、自らその地位に立ちます(10,12節)。そこには、自分の孫なども含まれていたはずです。なんと酷いことでしょうか。

 

 アタルヤにとって、王位は神の御心によって立てられるものではなく、力ずくで奪い取るものだったようです。しかしながら、それもアハブの血を絶やすために神がなされたことなのかもしれません。

 

 とはいえ、ここに、南ユダ王国最大の危機が訪れます。ダビデの血筋によらない王が立つことになったのです。ただし、聖書の記者は、アタルヤを王と呼びません。彼女が正統な王ではあり得ないと考えているわけです。

 

 そのため、イスラエルの王・誰それの治世第何年に王となったという決まり文句が、アタルヤのためには記されません。ただ、冒頭の言葉(12節)で、彼女は6年の間、ユダ王国を支配したと報告されています。アタルヤが実効支配していた6年間、南ユダ王国には王がいなかったことになります。

 

 アタルヤは王族をすべて滅ぼそうとしましたが、しかし、ダビデの血は絶やされてはいませんでした。ヨラムの娘でアハズヤの妹、そして、祭司ヨヤダの妻となった王女ヨシェバが、アハズヤの子ヨアシュを乳母と共に連れ出し、神殿にかくまっていたのです(11,12節、列王記下11章2,3節)。

 

 ヨシェバは祭司ヨヤダに嫁していたので、王族ではなくなって、アタルヤによる殺害を免れたのでしょう。そして、アハズヤの子ヨアシュを救出することが出来ました。このような最大の危機の中でも、神の契約のゆえにダビデの血筋が守られているのです(歴代誌上17章7節以下、14節)。

 

 風前の灯火のように、いつ吹き消されてしまうか分からないように見えるダビデの血筋ですが、しかし、そこに神の御手があって、悪しきものの吹き付ける風からその灯心をしっかりと守っています。

 

 主は「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする」(イザヤ書42章3節)というお方です。どんなにアタルヤの権力が強大でも、一人の赤ん坊の命を奪うことが出来なかったのです。

 

 イザヤが、「エッサイの株から一つの眼が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊が留まる」(イザヤ11章1節)と告げ、メシアがエッサイの株、ダビデの子孫から生まれると預言していますが、この約束どおり、ダビデの子孫からメシヤを誕生させるため、主がダビデの血筋を守っておられるのです。

 

 この主なる神こそ、死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させるお方であり、約束したことを実現させる力もお持ちの方です(ローマ書4章17,21節)。そして、私たちの罪のために主イエスを死に渡され、私たちが義とされるために復活させられたお方です(同25節)。

 

 私たちも主を信じる信仰によって強められ、神を賛美しましょう。

 

 主よ、あなたの深い憐れみのゆえに感謝致します。常にその慈しみの御手の下に留まり、御言葉に聴き従います。私たちが主から離れることのないように、私たちを常に聖霊に満たし、絶えず御前に唇の実を献げさせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「ヨヤダは、自分とすべての民と王との間に、主の民となる契約を結んだ。」 歴代誌下23章16節

 

 アハブの娘でヨシャファトの子ヨラムの妻(21章6節、22章2節)、アハズヤの母・皇太后のアタルヤが、ヨラムの死後、王位継承者を殺して6年間ユダを支配していましたが(22章10節以下)、7年目、ついに祭司ヨヤダは意を決し、アハズヤの子ヨアシュを王として擁立するために動きます(1節)。

 

 まず、百人隊の長らと契約を結びます(1節)。エリシャファト以外の名は、祭司、レビ人のリストに見いだされるものです。ということは、彼らは神殿の警備にあたっているということでしょう。6節の「祭司と奉仕にあたるレビ人以外は、だれも神殿に入ってはならない」というヨヤダの言葉からも、それが示されます。

 

 そして彼らは、ユダのすべての町から、レビ人とイスラエルの氏族の長を召集します(2節)。イスラエルのすべての民がヨアシュ擁立に協力、承認するよう求めているかたちです。そして、ヨヤダは神殿の中でヨアシュと契約を結ばせます。それは、ヨアシュを王とする契約でした(3節)。

 

 次いで、祭司、レビ人らを組み分けして、三分の一を門衛、三分の一を王宮、三分の一を礎の門に配置し、民は皆、神殿の庭に留まらせます(4,5節)。神殿に入れるのは祭司とレビ人だけなので(6節)、彼らが万全の備えをもってヨアシュ王を守るのです(7節)。

 

 それから、兵士や民に武装させて祭壇と神殿を中心にヨアシュの周囲を固め(9,10節)、そこに登場して来たヨアシュに冠をかぶらせ、掟の書を渡して彼を王とし、ヨヤダとその子らは彼に油を注いで、「王万歳」と叫びました(11節)。

 

 走りながら王を讃える民の声を聞いて、主の神殿の民のところに行ったアタルヤは(12節)、柱の傍らに立つ7歳のヨアシュ王と、その側に居並ぶ将軍や吹奏隊を見ました。また国の民が喜び祝ってラッパを吹き鳴らし、詠唱者たちが楽器を奏で、賛美の先導を行っています。

 

 アタルヤは衣を裂いて「謀反、謀反」(13節)と叫びました。王を擁立すること、それを祝うことが、ユダを治めている自分に対する反逆だということですが、かえってヨヤダに呼び出された百人隊の長たちに捕らえられて、王宮の馬の門の側まで連れて行かれ、そこで殺されました(14,15節)。

 

 「彼女について行こうとする者は剣にかけて殺せ」(14節)という指示も出されていますが、そのような者がいたようには記されていません。もしいたとしても、ごく少数だったのではないでしょうか。

 

 彼女の6年間の支配がよいものであれば、そうはならなかったのかも知れませんが、主の目に悪とされることを夫ヨラムや息子アハズヤに行わせ、アハズヤが死ぬと、自ら権力の座につくために手段を選ばず、孫たちを初め王族をすべて滅ぼそうとしたやり方を、当然のことながらユダの民が喜んでいなかったことが知られます。そして、何より神に喜ばれないことでした。

 

 冒頭の言葉(16節)のとおり、ヨヤダは、自分とすべての民と王との間に、主の民となる契約を結ばせました。すべての民が王と契約を結んだというのではなく、ヨアシュ王を初めとして、すべての民が「主の民となる契約」をもって、主に献身することを確認したわけです。

 

 ヨアシュが王となったのは、7歳の時です(24章1節)。だから、まだ幼い王のために祭司ヨヤダがヨアシュの摂政となり、すべての民と王の間に立って、皆が主の民となる契約を結ばせたのです。

 

 まさしくここに、ユダの国は誰のものでもなく、主なる神を真の王とする神の国であり、その民は主の民であることを宣言しているのです。そして、真の王なる主のもとで、ダビデの血筋に連なるヨアシュが王として立てられて行きます。

 

 すべての民はバアル神殿に行き、それを祭壇と共に破壊し、像を打ち砕き、バアルの祭司を殺しました(17節)。ヨヤダは主の神殿を祭司、レビ人に委ね、賛美をもって主に焼き尽くす献げ物をささげ(18節)、また神殿に汚れを持ち込ませないようにしました(19節)。そして、神殿から王を連れ出して王宮に入り、王座に着けました(20節)。

 

 ヨアシュの父アハズヤも、その父ヨラムも、主の道に歩まず、主の目に悪とされることを行った王たちでしたが、ヨアシュはヨヤダの指導の下で、「ダビデとソロモンの道」(11章17節)に歩む善い政治を行うことが出来たのです。国の民は皆喜び祝い、町は平穏でした(21節)。

 

 ところが、これで南ユダは安泰ということにはなりません。ヨヤダの死後、ヨアシュは道を変えてしまいます(24章17節以下)。そうして、最後はバビロン捕囚という滅びを刈り取ることになります(36章11節以下)。

 

 けれども、すべて無駄ということではありません。ヨアシュがアタルヤの手から守られ、ヨヤダの下で王として立てられ、正しい政治によってユダの国が正しい道に導かれたのは、すべて主なる神の計らいです。

 

 主は繰り返しその豊かな憐れみをもって、イスラエルを義の道に導こうとされるのです。そうして、世の罪を取り除く神の小羊・主イエスの登場に向けて、主の御旨のみが実現していくのです(箴言19章21節)。

 

 「だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです」(ヘブライ書13章15,16節)。ハレルヤ!

 

 主の御名はほむべきかな。その慈しみはとこしえに。主よ、あなたの深い愛と憐れみを感謝します。そのゆえに、私たちも恵みに与ることが出来ました。いつも私たちをあなたの慈しみの御手の下に置いてください。すべての悪から、あらゆる汚れから、救い清めてください。御名が崇められますように。御心がこの地になりますように。 アーメン!

 

 

「ヨアシュは、祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行った。」 歴代誌下24章2節

 

 ヨアシュ王は7歳で即位し、40年間王位にありました(1節)。その間、祭司ヨヤダがヨアシュに大変よい指導をしました。いわゆる摂政の務めを果たしたわけです。ですから、冒頭の言葉(2節)にあるとおり、ヨアシュは主の目にかなう正しいことを行うことが出来ました。

 

 ヨヤダがヨアシュに二人の妻をめとらせ、彼らの間に息子や娘が生まれたというのも(3節)、ヨアシュの祖母アタルヤによってダビデ王家がほとんど絶滅させられそうになっていたものが(22章10節)、このように回復しているということ、それが主の祝福だということを表しています。

 

 しかしながら、そこには「祭司ヨヤダが生きている間」という限定がついています。ということは、主の目にかなう正しいことが出来たのは、祭司ヨヤダの指導の賜物であり、ヨヤダの死後は、その指導を受けることが出来なくなったため、ヨアシュは正しいことを行わなくなってしまったということを示しているわけです。

 

 正しいことを行っているとき、ヨアシュは主の神殿の修復に意欲を示し(4節)、神殿修復のための資金を民から集め、すぐに取りかかるようにという命令しました(5節)。しかし、レビ人が速やかに実行しようとしないのを見ると、祭司ヨヤダを呼びつけ、何故レビ人にすぐに実行するように要求しないのかと質します(6節)。

 

 その様子を、むしろヨヤダは喜んでいたのではないでしょうか。民も喜んで資金供与に協力し(10節)、工事担当者は神殿の修復補強作業を終え(13節)、祭具類も作り直されました(14節)。

 

 15節に「ヨヤダは年老い、長寿を全うして死んだ。死んだとき、彼は百三十歳であった」と記されています。ということは、ヨヤダの摂政になったのは、百歳ちかくになってからということになります。長寿と健康は神の恵みのしるしですが、その立ち方を神がいかに喜んでおられたかという証拠です。

 

 ヨヤダは、サラ(創世記23章1節)やヨセフ(同50章26節)、アロン(民数記33章39節)、モーセ(申命記34章7節)、ヨシュア(ヨシュア記24章29節)、ダビデ(サムエル記下5章4節、列王記下2章10,11節)など、偉大とされる人物より長寿でした。そのこともあり、「その遺体はダビデの町に諸王と共に葬られた」(16節)と、最高の栄誉を受けています。

 

 しかしながら、ヨヤダの死後、事態が変わります。ユダの高官たちがヨアシュのもとに来て、ひれ伏しました。そして、ヨアシュは高官たちの言うことを聞き入れたと言われます(17節)。まるで、長老たちの適切な進言を捨て、若者たちの勧告を聞き入れて王国の分裂を招いたレハブアムのようです。

 

 その結果、彼らは先祖の神、主の神殿を捨ててアシェラと偶像に仕えるようになりました。その罪悪のゆえに、ユダとエルサレムに神の怒りが下ったと記されています(18節)。

 

 つまり、高官たちは、主の道を離れ、バアルやアシェラを礼拝するよう、ヨアシュを唆したわけです。その高官たちとは、ヨヤダによって排除されたアタルヤの側近、その影響下にあった者らだったのかも知れません。だから、ヨヤダ亡き後、徹底的にヨヤダ色を排除する道を、ヨアシュ王に歩ませようとしたのではないかと考えられます。

 

 一方、ヨアシュはなぜ高官たちに耳を貸し、ヨヤダの教えに従う道を捨てて、異教の神々に仕えるようになったのでしょうか。ヨアシュは、幼くして父アハズヤを失いました。その後、祖母アタルヤが王族をすべて滅ぼそうとしたため(22章10節)、兄弟、親族を失いました。

 

 その暴虐からヨアシュを守り、神殿にかくまうようにしたのが、叔母のヨシェバでした。ヨシェバは祭司ヨヤダ妻でもあります。それ以来、二人が親代わりとなっていたでしょう。その後、王となった自分を支え導いてくれていました。

 

 ですから、ヨヤダの死はヨアシュにとって、大変大きな衝撃となったことでしょう。そして、彼の心にぽっかりと大きな穴があいたことでしょう。それゆえ、物事を正しく判断することが出来る状態ではなかったのかも知れません。

 

 主に立ち帰らせようと預言者が遣わされますが、その戒めに耳を傾けようとしません。その上なんと、自分たちに意見したということで、大恩あるヨヤダの息子ゼカルヤを石で撃ち殺してしまいました(21,22節)。

 

 それが神の怒りを買い、アラムの軍隊をイスラエルに鉄槌を下す道具として、少数の兵でイスラエルの大軍を打ち破り(24節)、高官たちをすべて殺し(23節)、ヨアシュにも重傷を負わせました(25節)。

 

 すると、外国人の母親を持つ二人の家臣に謀殺されてしまいます(25,26節)。「祭司ヨヤダの息子の血のゆえに」(25節)とその二人が考えていたとは思えませんが、ヨヤダの子ゼカルヤ殺害の報復のために、神が二人を用いられたわけです。

 

 主イエスが、汚れた霊が人から出て休み場を捜して、見つからないので戻って来るという話をされました(マタイ12章43節以下)。そこは空き家で、掃除をして整えられていたので、自分より悪いほかの七つの霊を連れてきて住み着くと、その人の後の状態は前よりも悪くなると教えられました。ヨヤダを失った後、ヨヤダの心はすっかり空き家状態になっていて、そこをつけ込まれたというかたちです。

 

 パウロは「あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また五体を義のための道具として神にささげなさい」(ローマ6章13節)と命じています。それは、聖霊の支配に自らを委ねること、聖霊なる神に自分自身を明け渡すことです。

 

 神に命じられたとおり、聖霊を心に迎え、聖霊に満たされることを求めましょう。絶えず主の御言葉に耳を傾け、聖霊の導きに従って歩みましょう。感情に左右されるのではなく、正しい人は、信仰によって生きると書いてあるとおり(ローマ1章17節など)、聖霊なる神を信じて進みましょう。

 

 主よ、私たちが主の道から逸れることがないように、絶えず御言葉を聞かせてください。私たちの心を探り、御前に相応しくないものを取り除いてください。主の血潮によって、清めてください。聖霊で満たし、御業のために用いてください。主の恵みと導きが常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「アマツヤは神の人に言った。『イスラエルの部隊に払った百キカルはどうしたらよいのか』。神の人は答えた。『主はそれより多くのものを与えることがおできになります』。」 歴代誌下25章9節

 

 祭司ヨヤダの子ゼカルヤの血のゆえに、暗殺されたヨアシュに代わり(24章25,27節)、その子アマツヤが25才で王となり、29年間エルサレムでユダの国を治めました(1節)。「彼は主の目にかなう正しいことを行ったが、心からそうしたのではなかった」(2節)と、列王記下14章3節の好評価に対して手を加えています。

 

 アマツヤは王となって、父を暗殺した家臣たちに復讐します(3節)。しかし、家臣たちの家族には手をかけませんでした。それは、「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる」(4節、申命記24章16節)という主の律法の規定に従ったためです。

 

 その後アマツヤは、ユダとベニヤミンの20歳以上の男子を家系に従って千人隊および百人隊の隊長の下に配属しました(5節)。エドム人討伐に向かうためです(11節以下)。兵の数は30万です。そして、イスラエルから10万の勇士を雇います(6節)。それは、アマツヤがエドムとの戦いに不足を感じたからでしょう(11節以下参照)。

 

 ところが、そこへ神の人がやって来て、「イスラエルの軍隊を同行させてはなりません。主はイスラエルの者、すなわちどのエフライム人とも共においでにならないからです。もしイクなら、単独でいって勇敢に戦いなさい。そうでなければ、神は敵の前であなたを挫かれます。神には力があって、助けることも、挫くこともおできになります」(7,8節)と言います。

 

 ここで、イスラエルの者がエフライム人と言い換えられています。エフライム族が北イスラエルの代表ということです。モーセの後継者ヨシュアがエフライム族ですし、また、イスラエルが南北に分裂して、北イスラエルの最初の王となったネバトの子ヤロブアムもそうでした。

 

 主は、主と共にいたいと願う者とご一緒くださいます。共にいたいと願わない者とは、一緒にいてくださいません。主を求めないエフライム人とは、主は共においでにならないのです。だから、ここでアマツヤが主に頼らず、イスラエルの軍隊=エフライム人を頼りとするなら、主はアマツヤともご一緒くださらないと読むことが出来ます。

 

 そこでアマツヤは冒頭の言葉(9節)の通り、「イスラエルの部隊に払った銀百キカルはどうしたらよいのか」と神の人に尋ねます。神の人の言葉を受け入れるという意思表示ですが、それだと銀百キカルが無駄になってしまうと、少々文句も言っています。銀百キカルは3420kgです。今日の銀価格は1gおよそ60円ですから、百キカルはおよそ2億円ということになります。

 

 それに対して神の人は、「主はそれより多くのものを与えることがおできになります」と答えました。即ち、百キカルを惜しまないで、彼らにやってしまいなさいというのです。

 

 アマツヤが主に頼ること、主が共におられるということを学ぶため、銀百キカルは主なる神の力、主の助けに依り頼むという大切な学科を学ぶための授業料のようなものだということでしょう。そして、アマツヤが主に信頼して歩むなら、百キカルでイスラエルの勇士を雇ったよりも多くのものを得ることが出来るのです。

 

 アマツヤは神の人の言葉に従います。イスラエルの部隊を解雇した後(10節)、勇気を奮い起こし、自分の軍隊を率いて塩の谷まで進み、2万の兵を撃ちました(11,12節)。確かに「神には力があって」(8節)、アマツヤ率いるユダの軍隊を助けてくださったのです。

 

 ところが、エドム討伐から帰ったアマツヤは、なんとセイル人の神々を導入して、これを自分の神とします(14節)。セイル人とは、彼が討伐したエドム人のことです。自軍を助けてくださった神を捨てて、打ち破った敵の神を拝むなど、どう考えればよいのか、全く理解に苦しむところです。

 

 イスラエルの傭兵に払った百キカルのもの銀が無駄になり、その上、解雇したイスラエルの部隊が、サマリアからベト・ホロンまでのユダの町々を荒らし回って略奪をほしいままにしたという報せを受けて(13節)、損を重ねたこと、送り返した傭兵部隊からユダの町を神が守ってくださらなかったことに腹を立てたのでしょうか。

 

 しかし、戦場に行かずに、前払いを受けていた給与を返さないで済んだことに満足せず、戦場での略奪や戦利品の当てが外れたことに怒りを燃やすような輩は、状況によってどんな振る舞いをするか、分かったものではありません。エドムとの戦いに同行させなかったのが正解です。

 

 そもそも、主なる神を信頼し、その御心を絶えず求めていれば、兵を雇うこともなかったはずです。また19節に「あなたはエドムを撃ち破ったと言って、思い上がり、うぬぼれている」とあるように、エドムに対する勝利を自分の実力のように勘違いしているということも、その一因でしょう。

 

 その結果、神の怒りを買い、サマリアからベト・ホロンまでのユダの町を略奪されたイスラエルに報復の戦いを挑んで惨敗し(17節以下、22節)、最後は謀反が起こってアマツヤはラキシュで殺されてしまいます(27節)。

 

 信仰を学ぶのに卒業ということはありません。常に新しい課題がやって来ます。その度に、神の知恵や力、助けを必要とする私たちです。神は、求めれば与えられると教えてくださいました(マタイ7章7節、ヤコブ書1章5節)。常に主に依り頼み、その助力をいただいて、主と共に前進させて頂きましょう。

 

 主よ、私たちは目に見えるものに依り頼む誘惑に耐えず晒されています。私たちの信仰の耳を開き、御声を聴かせてください。信仰の目を開き、主の御業を拝させてください。主を求めることに心を定めさせてください。あなたには力があって、多くのものを与えることがお出来になるからです。 アーメン

 

 

「ところが、彼は勢力が増すとともに思い上がって堕落し、自分の神、主に背いた。彼は主の神殿に入り、香の祭壇で香をたこうとした。」 歴代誌下26章16節

 

 アマツヤの子ウジヤが、ユダの民に選ばれて、16歳で王となりました(1節)。ウジヤは、「主はわたしの力」という意味の名ですが、列王記下14章21節、15章1節では、アザルヤ(「主は助けたもう」の意)と呼ばれています。父アマツヤの信仰を、この名付けに見ることが出来るようです。

 

 52年の王位というのは、イスラエル史上第2位の統治期間です。若くして王となったことと、その統治が国内外で安定していたことが、それを可能にしたものと思われます。若くして王となったのは、父アマツヤが謀反で殺害されたためです。「アマツヤが主に背を向けたときから」(25章27節)と、主への離反が謀反の理由であるかのように告げられていました。

 

 王が謀反で殺された場合、その実行犯が王位を奪取するということが、北イスラエルでは何度も繰り返されました(列王記上15章27,28節、16章9,10節、列王記下15章10,14,25,30節)。謀反で殺害されたアマツヤの代わりにその子ウジヤをユダのすべての民が選んだのは、ダビデの子孫から王位を奪うことが謀反の目的ではなかったということでしょう。

 

 王位に付けられたウジヤは、エイラトの町を再建して、ユダに復帰させました(2節)。紅海のアカバ湾北端の港町(20章36節のエツヨン・ゲベルのこと)で、南方の貿易港として重要でした。ヨラムの時代にエドムが反旗を翻した折、エイラトの支配を奪われていたのでしょう。それををウジヤが奪回し、町を再建したということです。

 

 16歳で王となったウジヤは、「父アマツヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った」(4節)と評価される政治を行いました。その背後に、ウジヤに神を畏れ敬うことを諭したゼカルヤという教師がいました(5節)。

 

 ゼカルヤ(「主は覚えてくださる」の意)の名を持つ人は、聖書中に30人ほどいます。ここに登場してきたゼカルヤの氏素性は不明です。ウジヤの祖父ヨアシュが殺した祭司ヨヤダの子の名がゼカルヤでした(24章21,22節)。あるいは、その子孫なのかも知れません。

 

 ゼカルヤの教えに従って、ウジヤが主を求めるよう努めている間、主が彼を祝福し、繁栄を与えられました(5節)。その繁栄ぶりが6節以下、15節までの所に記されています。

 

 6節から8節に、ユダの南方を平定し、彼らに貢ぎを献上させたことが記されています。「メウニム人」はカデシュ・バルネア地方に居住していたと言われます。ウジヤは、父たちが失った領地を回復しただけでなく、更に南方に拡大させたのです。

 

 8節の「アンモン」は前後の文脈に合わないことから、70人訳に従って「メウニム」と読み替えるという提案がなされています。それによって、「その名声はエジプトに近い地方にまで届いた」(8節)という論評に適合するからです。

 

 続けて、ウジヤはエルサレムの門や城壁を修復し、角に塔を築いて補強しました(9節)。北イスラエルの王ヨアシュによって壊されていたからです。また、南方の荒れ野には見張りの塔を建て、井戸を掘り、シェフェラや平地で多数の家畜を飼い、山地や肥沃な地で農耕を行わせました(10節)。

 

 さらに、戦いに備えて訓練された軍隊を持ちました。2600人の隊長に30万7500人の兵士ということは(12,13節)、1隊におよそ120人ずつの兵士がいることになります。さらに、それまで武器は自己調達だったようですが、ウジヤは全軍のために武具、武器を用意しました(14,15節)。

 

 かくて、ウジヤは勢力ある者となり、その名声が遠くにまで及ぶことになりましたが、それは、「神の驚くべき助け」(15節)によるものでした(7節も)。そのような神の助力を受けたのは、ウジヤが神を畏れ敬い、主を求めるように努めたからです(5節)。

 

 しかしながら、これでめでたしめでたし、ということにはなりません。後に、このところおきまりの堕落コースが続きます。冒頭の言葉(16節)でウジヤは「勢力が増すとともに思い上がって堕落し、自分の神に背いた」と記されています。12章1節のレハブアムを思い起こさせます。

 

 ゼカルヤがいれば、ウジヤを諌め、正しい道を歩むように指導したのでしょう。けれども、ゼカルヤ亡き後、ゼカルヤのようにウジヤを教え諭す者はいませんでした。ゼカルヤの祖父ヨアシュが、指導者の祭司ヨヤダを失ったとき、ユダの高官が主に背いてアシェラと偶像に仕えるよう唆しました(24章17,18節)。同様の働きかけがウジヤにもあったのかも知れません。

 

 ウジヤの背きについて、「主の神殿に入り、香の祭壇の上で香をたこうとした」と記されています。祭司アザルヤがウジヤに「香をたくのは聖別されたアロンの子孫、祭司である」と語ったとおり(18節)、香をたくのは祭司の務めであり(出エジプト記30章7,8節)、祭司以外の者が香の祭壇の置かれている聖所の中に入ることを許されてはいないというのです。

 

 昔、イスラエルの初代の王サウルが、預言者サムエルの到着を待ちきれず、自ら焼き尽くす献げ物を献げたことが咎められ、王座から退けられたということがありました(サムエル上13章8節以下、13,14節)。

 

 しかしながら、ダビデはエフォドを身につけ(歴代誌上15章27節)、ソロモンも焼き尽くす献げ物、和解の献げ物を献げたことがあります(列王以上3章15節など)。バビロン捕囚よりも前の時代には、王が祭司の役割を担うことがあったようです。その意味では、香をたくこと自体が問われたというよりも、その動機が問題とされて、思い上がりを指摘されたのでしょう。 

 

 香をたくというのは、祈りの象徴です(詩編141編2節、ヨハネ黙示録5章8節参照)。祈ること自体が神に背く罪とされるはずはありません。彼がそこで何を願い、何を祈ろうとしていたのかが問題なのでしょう。

 

 「主なる神からそのような栄誉を受ける資格はあなたにはない」(18節)とアザルヤが語っていることから、ウジヤ王は、すべての栄誉、栄光を手にしたいと考え、香をたいて自らを祝福しようとしていたのでしょう。勢力を増すことが出来て、その栄誉を受ける資格が自分にあると考えたのでしょう。まさしく、自らの限度を超えて思い上がっているわけです。

 

 それを指摘されて、しかし、ウジヤはそこで非を認め、謙ることが出来ませんでした。そのために彼は神に打たれ、重い皮膚病に悩まされることになりました(19節)。「死ぬ日まで」というのですから、ウジヤが政務に就くことは、もはやなかったということです。

 

 このことは、イスラエルが南北に分裂して、北イスラエルの王となったヤロブアムが、異教の偶像を造って自ら祭壇に上り(列王記上12章28節以下、32節)、それを糾弾した神の人を捕らえるようにと言って伸ばした手が萎えてしまったという出来事を思い起こさせます(列王記上13章1節以下、4節)。

 

 出来るからすればよいというのではありません。自分の分をわきまえ知り、謙って神から命じられていることを行う必要があります。自分の限界をわきまえず、分を超えて思い上がることのないように、絶えず謙虚に、順調にことが運ぶときには特に謙虚に、神に聴きましょう。御言葉に耳を傾け、祈りましょう。

 

 主よ、私たちに神を畏れ敬うことを教えてください。尊敬の出来る御言葉の教師を与えてください。あなたの力強い御手の下で謙遜と柔和を学びます。分を超えて思い上がることがありませんように。キリストご自身、己を無にして、十字架の死に至るまで従順であられました。主の道を御許へとまっすぐに歩ませてください。主の恵みと導きが常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「ヨタムは主なる神の前をたゆまず歩き続けたので、勢力を増すことができた。」 歴代誌下27章6節

 

 ヨタムが父ウジヤに代わって王となったのは、25歳の時でした(1節)。けれども、父ウジヤが重い皮膚病に冒され、神殿に近づくことを禁じられて隔離された家に住んでいたため、公務が出来なくなりました。そこで、ウジヤの子ヨタムが王位に就く前から王宮を取り仕切り、国を治めていました(26章21節)。

 

 父の死後、王位についたヨタムは、父ウジヤと同じように、主の目にかなう正しいことをことごとく行いました(2節)。ただし、「ただ主の神殿に入ることだけはしなかった」といって、ウジヤとの違いを注記します。

 

 列王記下15章35節には「ただ聖なる高台は取り除かず」とあって、そのために「民は依然としてその聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」とされていますが、歴代誌は、ヨタムが聖なる高台を取り除かなかったという部分を記さずに、「民は依然として堕落していた」と、専ら民の問題にしています。

 

 3,4節に記される建築については、歴代誌はこれまでも、神の恵みの表れとして描いていたものです。ヨタムは神殿の上の門を立て、オフェルの城壁に工事を施しました(3節)。これは、神殿をはじめエルサレムの町を要塞化するためのものでしょう。さらに、ユダの山地に町を築き、森の中に城砦や塔を築きます(4節)。こうして、外敵との戦いに備えました。

 

 また、東隣のアンモンを征服して、貢ぎ物を収めさせるようにしました(5節)。ギレアドの東に位置するアンモンと、ユダ王国は国境を接しているわけではありません。この戦いについて、列王記などに記述がありません。聖書外の資料でも、その史実を示す確かな証拠は見つかっていません。

 

 あるいは、26章8節と同様、ここでもアンモン人とメウニム人を混同しているかも知れず、であればアンモン人ならぬメウニム人が貢ぎ物を献上したという出来事をも、ヨタムが引き継いだかたちです。いずれにせよ、歴代誌はこの戦いの勝利と多量の貢ぎ物によって(5節)、ヨタムが神の恵みを受けているということを明らかにしています。

 

 そうして、冒頭の言葉(6節)にある通り、ヨタムが主なる神の前をたゆまず歩み続けたので、勢力を増すことも出来ました。こうして歴代誌は、ヨタムの治世について、否定的な評価の全くない、肯定的なものとして描きました。つまり、ヨタムは生涯を通じて主を畏れ、主を信頼して、その信仰の歩みを全うすることが出来たのです。

 

 「ヨタムは25歳で王となり、16年間エルサレムで王位にあった」と簡単に、しかしながら、27章の初めと終りに2度も記されております(1,8節)。即ち、ヨタムの生涯は、41年という短いものだったのです。たゆまず主の前を歩み、神の恵みを得て勢力を増すことが出来たヨタムが(6節)、なぜ、そのように短命だったのでしょうか。

 

 詳細は不明ですが、列王記下15章37節の記事によれば、それは隣国アラムと北イスラエル連合軍の攻撃に起因する事柄のようです。そのことについて、歴代誌は記録していません。「ヨタムの他の事績は、そのすべての戦いも、行動も、『イスラエルとユダの列王の書』に記されている」(7節)というのが、それを表しているようです。

 

 当時、アッシリアが勢力を伸ばして来ていました。アッシリアに対抗するためにアラムとイスラエルが手を組み、ユダも連合に加わるよう求められましたが、ヨタムはそれに協力しませんでした。そこで、ユダに圧力をかけ、屈服させて、共にアッシリアに向かおうということになったわけです。

 

 ここに、ヨタムの死は、戦死とは記されておりませんし、戦争で負傷したというようなことでもなさそうです。あるいは、アラム、北イスラエル連合軍との戦いによる心労などが原因となっての早逝なのかも知れません。

 

 また、その背景には、民の堕落、神への不従順もありました。上述のとおり「民は依然として堕落していた」(2節)と言われており、王が主に従って正しく歩んでいるのに、民がその模範に倣おうとしないのです。神はヨタムの信仰とよい政治を喜ばれて繁栄を与えられましたが、民は思い違いをしていたということでしょう。

 

 民は王を尊敬して従う、王は民を愛して守るという相互の信頼関係がなければ、お互いに平和、平安な日を送ることは難しいでしょう。まして、外敵に対して心を合わせ、一致して戦うことが出来ません。そして何より、そのような民の背きの罪のために、主がイスラエルの民から恵みを取り去りられるという事態に陥ってしまうでしょう。

 

 となれば、戦う前から勝負は見えています。それが、アラム・イスラエル連合軍の侵入によって明白となったわけです。それを歴代誌は次王アハズのときにアラムの王がイスラエルを打ち、多くの民を捕虜とし、大量の戦利品を奪ったと報告します(28章5節以下)。それによって、善政を行う王は祝され、悪政を行う王は辛い目に遭うという図式が示されます。

 

 改めて、歴代誌の記者はヨタムの歩みを評して、「ヨタムは主なる神の前をたゆまず歩き続けた」と記しました。なんと素晴らしいことでしょうか。私たちもそのように言われたいものです。41年の生涯は短いと言わざるを得ませんが、しかし、「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5章24節)という記事を思い出します。

 

 自分に従わない民におもねらず、かといって強圧的になるのでもなく、主の前を、主と共にたゆまず歩み続けたヨタムの信仰に倣い、私たちも日々主の御声に耳を傾け、御霊の導きに従って歩みたいと思います。

 

 主よ、私たちもヨタムに倣い、主なる神の御前をたゆまず歩き続けることが出来ますように。御言葉により、聖霊の導きを通して、主の道を教えてください。御心を行う者となれますように。主の恵みと慈しみが常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「捕虜をここに連れて来てはならない。我々は主に対して咎を負っている。あなたたちは我々の罪と咎をいっそう重くしようとしている。我々の咎は既に重く、主はイスラエルに対して激しく怒っておられる。」 歴代誌下28章13節

 

 主の御前をたゆまず歩み続けたヨタムに代わって、その子アハズが二十歳で王となります(1節、27章9節)。彼は、16年間王位にありましたが、父祖ダビデの道を歩まず、主の目に適う正しいことを行いませんでした。

 

 むしろ、北イスラエルの王たちの道を歩み、主に背いてバアルの神像を鋳造し(2節)、カナンの諸国の民の忌むべき慣習に倣ってベン・ヒノムの谷で香をたき、自分の子らに火の中を通らせました(3節)。また、聖なる高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたきました(4節)。

 

 それゆえ、神の怒りを買い、アラム・エフライム(北イスラエル)連合軍に攻められます。アラムの王は、多くの者を捕虜としてダマスコへ連れ去り(5節)、北イスラエルの王ペカは、一日で12万人の勇士を倒し(6節)、王子マアセヤ、侍従長アズリカム、王の代行エルカナも殺しました(7節)。また、20万の婦女子を捕虜として、大量の戦利品を奪い去りました(8節)

 

 更に、エドム人、ペリシテ人に襲われて、住民が捕虜となり、幾つもの村落が占領されました(17,18節)。そこで、アッシリアに援軍を求めて使者を送りましたが(16節)、再びエドム軍、ペリシテ軍の攻撃を受け、その上、援助を頼んだアッシリア軍までも攻めて来て、神殿や王宮、高官たちの家の財宝を貢ぎとして差し出さなければなりませんでした(21節)。

 

 それでもなお、アハズは悔い改めようとせず、主なる神に背き続けました(22節以下)。特に、ユダを打ったダマスコの神々にいけにえをささげます。戦争に負けたのはイスラエルの神が弱いからで、強いアラムの神々を拝めば、祝福を受けるだろうと考えていたようです(23節)。なんと愚かなことでしょうか。

 

 ただ、上述のことがらについては、列王記下16章5節以下、イザヤ書7章などの記述とは、明らかに異なっています。列王記の箇所には「アラムの王レツィンとイスラエルの王、レマルヤの子ペカがエルサレムを攻めようとして上って来た。彼らはアハズを包囲したが、戦いを仕掛けることができなかった」と記されています。

 

 また、アッシリアの王ティグラトピレセルに援軍を頼んだ時、彼はそれを受け入れてアラムに攻め込み、ダマスコを占領し、王を殺し、住民は捕囚としました(列王記下16章7節以下)。同様に、イスラエルも攻めて、各地を占領、住民を捕囚としています(同15章29節以下)。

 

 つまり、歴代誌の著者は列王記と全く違った記述をしているのです。前章のヨタムのところで学んだように、主に従う者は主の恵みを受け、一方、主に背き、その教え、律法を捨てた者は、主の恵みを失い、その保護を受けられなくなるため、悪しきものの餌食とされてしまうと語っているわけです。

 

 一方、南ユダから大量の捕虜と戦利品を奪った北イスラエルの軍隊の前に、神が預言者オデドを遣わして、「あなたたちはユダとエルサレムの人々を服従させ、自分たちの男女の奴隷にしようと思っている。しかし、あなたたち自身はあなたたちの神、主によって罪に問われずに済むだろうか」(10節)と告げさせます。

 

 それは、「同胞を、あなたの奴隷として働かせてはならない」(レビ記25章39節以下)と、律法で命じておられたからです。オデドは言葉を継いで「今、わたしの言うことを聞き、兄弟の国から連れて来た捕虜を帰しなさい。主はあなたたちに対して激しく怒っておられる」(11節)と勧めました。

 

 それを聞いたエフライム人の頭たちは、帰還して来た兵に対して冒頭の言葉(13節)の通り、「捕虜をここに連れて来てはならない。我々は主に対して咎を負っている。あなたたちは我々の罪と咎をいっそう重くしようとしている。我々の咎は既に重く、主はイスラエルに対して激しく怒っておられる」と語ります。

 

 彼らは、神の言葉を聞いて、自分たちの罪を認め、悔い改めました。そして、すぐに捕虜と戦利品を放棄します(14節)。裸の者には衣服を着せ、履き物を与え、飲食させ、油を注ぎ、弱った者はロバに載せて、エリコまで送り届けたというのです(15節)。

 

 このように、これまで主に背き続けていた北イスラエルに対して預言者が遣わされ、神の言葉が伝えられるとすぐに従ったというのに、ダビデの契約のゆえに恵みを受け続けて来た南ユダの王アハズが、これほどまでに神に背き、主の道に歩もうとしないとは、どうしたことでしょうか。立場が完全に入れ替わってしまっています。

 

 アハズに対して、神の言葉が語られなかったとは思いません。預言者が遣わされなかったとは思いません。しかし、彼は自ら神殿の祭具を粉々に砕き、神殿の扉を閉じました(24節)。主なる神に甚だしく背き(19節)、御言葉に耳を塞ぎ、心を閉ざしてしまったわけです。

 

 「御言葉はあなたの近くにあり、あなたの口、あなたの心にある」(ローマ書10章8節)と言われます。主は私たちの側近くにおられ、私たちを助け導こうとして、私たちに語りかけておられます。「実に、信仰は聞くことから、しかもキリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(同17節)。

 

 私たちに対して愛と憐れみをもって語られている主の御言葉に絶えず耳を傾け、悔い改めて主に従う者にならせていただきましょう。

 

 主よ、何故ヨタムの子アハズが、かくまで主に背く歩みをなしたのでしょうか。そのことは、父ヨタムにとって痛恨の極みでしょう。ヨシュアのように、私と私の家は主に仕えますと告げる信仰の恵み導きを与えてください。家族親族が皆、救いの恵みに与りますように。周囲にいる人々にも常に主の導きと守りがありますように。 アーメン

 

 

「今わたしは、イスラエルの神、主と契約を結ぶつもりである。そうすれば、主の怒りの炎がわたしたちから離れるであろう。」 歴代誌下29章10節

 

 アハズに代わって、その子ヒゼキヤが25歳で王となります(1節、28章27節)。ヒゼキヤの父アハズは、20歳で王となり、16年間王位にあったのですから、亡くなったのは36歳のときということになります(28章1節、列王記下16章2節)。

 

 アハズが亡くなった後、ヒゼキヤが25歳で王位に就いたということは、ヒゼキヤはアハズの11歳のときの子どもということになります。このことについて、註解書などは全く注目していないので、真偽のほどは定かではありません。

 

 ヒゼキヤは父アハズとは異なり、父祖ダビデのように主の目にかなう正しいことをことごとく行います(2節)。即位してまず、神殿の扉を開いて修理します(3節)。それは、父アハズが神殿の祭具を集めて粉々に砕き、神殿の扉を閉じてしまっていたからです(28章24節)。

 

 続いて祭司とレビ人を集め(4節)、「今、自分を聖別し、先祖の神、主の神殿を聖別せよ。聖所から汚れを取り去れ」と命じ(5節)、そして、冒頭の言葉(10節)のとおり、「今わたしは、イスラエルの神、主と契約を結ぶつもりである」と宣言します。

 

 ヒゼキヤの父アハズは、近隣諸国との戦争に敗れて捕虜と戦利品を持ち去られたとき、主なる神の御前に謙ることをせず、助けを呼ぼうともせず、かえって「アラムの王の神々は、王を助けている。その神々に、わたしもいけにえをささげよう。そうすればわたしも助けてくれるだろう」(28書23節)といって、ダマスコの神々に礼拝をささげ、助けを求めました。

 

 つまり、主なる神は頼むに足りずと考えたのです。しかるに、アハズの子ヒゼキヤは、先祖たちが大変な悲劇に見舞われたのは、主に不忠実で、主の目に悪とされることを行っていたからだということを、はっきり悟っていました(6節)。

 

 「主はあなたたちがその目で見たように、ユダとエルサレムに対して怒り、彼らを人々の恐れと驚きと嘲りの的とされた。見よ、わたしたちの先祖はそのために剣に倒れ、息子も、娘も、妻も、捕虜にされた」(9節)というのは、アラム・エフライム連合軍に敗れて、多くの者が捕虜とされたことを指しているのでしょう(28章5節以下)。

 

 ただ、「わたしたちの先祖は」(9節、6節も)という表現から、歴代誌の著者は、最初の読者であるバビロン捕囚から帰還して国を立て直したイスラエルの民に、ユダの王や民らの度重なる背信の故に被った捕囚の苦しみのことを思い起こすように促しているかのようです。

 

 ヒゼキヤが神殿の扉を開いて修理したのは、「治世の第一年の第一の月」です(3節)。まるで、王になったら宮清めを実行しようと予め考えていて、そのときを待ちかねていたかのようです。17節には、第一の月の一日に、彼らは聖別を始めたと記されていますので、ヒゼキヤは、他のどのようなことにも増して、神殿を清め、供え物をささげて主を礼拝することに、心を注いでいたわけです。

 

 ヒゼキヤは直ちに神殿の扉を開いて修理に取りかかり、レビ人に、「わが子らよ、今このとき怠けていてはならない。主があなたたちをお選びになったのは、あなたたちが御前に出て主に仕え、主に仕える者として香をたくためである」(11節)と、檄を飛ばしています。

 

 即ち、この世の習慣や父の悪行に倣わず、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ、速やかに行動に移したのです(ローマ12章2節)。

 

 ところで、アハズによって神殿の扉が閉ざされてからこれまで、祭司やレビ人たちは、どこで何をしていたのでしょうか。主の神殿を閉め出されて、日がな一日、ぼんやりと過ごしていたのでしょうか。あるいは、日毎の糧を得るために、アルバイトに精を出していたのでしょうか。いえ、むしろ、神殿の扉が開かれる日を、主に祈りつつ待ち望んでいたのではないかと思います。

 

 ヒゼキヤが、「今わたしは、イスラエルの神、主と契約を結ぶつもりである」と宣言したのは、祭司やレビ人たちも、ヒゼキヤと共に主なる神と契約を結び、主に仕える意志があるかどうか、確認しているのです。

 

 ヒゼキヤの言葉を聞いたレビ人は、立ち上がって自分を聖別しました(12節以下、15節)。上述の通り、第一の月の一日に、彼らは聖別を始めというのですから(17節)、彼ら自身、アハズによって閉じられてしまった神殿の務めが再開されるのを、一日千秋の思いで待っていたのでしょう。だからこそ、王に言われたその日に宮清めを開始することが出来たわけです。

 

 34節には「レビ人は自分を聖別することについて祭司たちよりも忠実だった」と記されています。祭司たちの中には、神殿の扉が閉ざされた後、徒に時を過ごす者たちがいたのでしょう。また、アハズと共にダマスコの神を礼拝することに係わった者がいたのかも知れません。

 

 徹底的に神殿と祭具などを清めた後(16節以下)、焼き尽くす献げ物、贖罪の献げ物をささげ(20節以下)、楽器の伴奏で、主の賛歌とラッパの演奏をし(25節以下、27節)、ヒゼキヤ王と高官たちは主を賛美して喜び祝い、ひざまずいて礼拝しました(30節)。

 

 ここで、「ダビデ王と王の先見者ガド、預言者ナタンの戒め」(25節)、「ダビデの楽器」(26,27節)、「ダビデと先見者アサフの言葉」(30節)と、殊更にダビデの名を上げているのは、さながらヒゼキヤを第二のソロモンとして、ダビデが我が子ソロモンに告げていたように(歴代誌上28章9節以下)、全き心と喜びの魂をもって神に仕えている様子を描いて見せているようです。

 

 主の目に適う正しいことを行ったヒゼキヤのように、そして、御言葉に直ちに従ったレビ人のように、私たちも常に主を待ち望み、主に聴き従う心を持ち、心から主を喜び称える者でありたいと思います。

 

 主よ、第一に神の国とその義を追い求め、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する信仰をお与えください。そうして、あなたの望まれるまことの礼拝者となることができますように。聖霊様、常に私たちの心をあなたでいっぱいに満たしてください。アーメン!

 

 

「祭司たちとレビ人は立ち上がって、民を祝福した。その声は聞き届けられ、その祈りは主の聖なる住まい、天にまで達した。」 歴代誌下30章27節

 

 25歳で王となったヒゼキヤは(29章1節)、祭司やレビ人らを集めて神殿を清めると(同4節以下)、イスラエルとユダの全地に使者を送り、エルサレムの主の神殿に来て、イスラエルの神、主のために過越祭を行うように呼びかけました(1,5節)。

 

 「ベエル・シェバからダンに至るまで」(5節)ということは、ダンは北イスラエルの北辺の町なので、南ユダのみならず、ベエル・シェバからダンに至るまで、南から北までの全イスラエルで過越祭を守りたいと願ったということです。

 

 南ユダには使者を遣わし、北イスラエルはヒゼキヤの支配下ではないので「エフライムとマナセには書簡を送り」(1節)、エルサレムの神殿において主のために過越祭を行うよう呼びかけました。31章にヒゼキヤによる宗教改革が記されていますが、それに先立って、エルサレムの主の神殿が全イスラエルの聖所であることを全ての民に確認させようとしたわけです。

 

 けれども、長い間主の戒め、教えに従わず、以前からの風習に従っていた北イスラエルの人々は、「イスラエルの神、主に立ち帰れ。そうすれば主は、アッシリアの王の手を免れて生き残った人々、あなたたちに帰ってくださる」(6節以下)とのヒゼキヤの呼びかけを冷笑し、嘲りました(10節)。彼らは神に立ち帰るチャンスを、自ら棒に振ったのです。

 

 ヒゼキヤの治世第一年の「第二の月」ということであれば、北イスラエルはホシェア王の治世第三年で(列王記下18章1節)、彼以前のイスラエルの王たちほどではないとはいえ、「彼(ホシェア)は主の目に悪とされることを行った」(同17章1節)とされる王なので、ヒゼキヤの呼びかけに応答するはずもなかったわけです。

 

 ただ、アシェル、マナセ、ゼブルンから、謙虚になってエルサレムに来る人々もいました(11節)。そして、ユダの人々は神の御手に導かれて心を一つにし、王の命令を実行に移しました(12節)。

 

 列王記には、ヒゼキヤがこのような過越祭を祝ったという記述はありませんでした。これは、歴代誌の著者が、列王記の著者が知らなかった記事を独自に入手していたということでしょうか。

 

 過越祭は、エジプトから解放された神の御業を喜び祝う祭です(出エジプト記12章、申命記16章1節以下)。そして、歴代誌は、バビロン捕囚後に執筆編集された書物です。歴代誌の著者は、この記事を通して、捕囚からの帰還民に、捕囚の苦難から解放された感謝を込めて、主を喜び祝う過越祭を祝うよう、主に立ち帰れと呼びかけていると解することも出来ます。

 

 通常、過越祭は第一の月の14日の夕暮れに各家庭で行われます(出エジプト記12章2,6,14節、レビ記23章5節など)。しかし、このときは、エルサレムの主の神殿で行おうということで、自分を聖別した祭司の数が十分でなく、民が集まるにも時間がかかるため、一ヶ月遅れの過越祭になりました(2,3節)。それでも、多くの民がエルサレムに集まり、大群衆で盛大に祝います(13節)。

 

 18節に「民の大多数、エフライム、マナセ、イサカル、ゼブルンの多数の者が身を清めていなかった。それにもかかわらず、彼らは記されていることに違反して、過越のいけにえを食べたので」と記されていますが、過越の規定の中に、身を清めてから食事しなければならないという規則を見つけることは出来ません。

 

 出エジプト記12章48節に「無割礼の者は、だれもこれを食べることができない」という規定があり、あるいは、北イスラエル諸部族は、ヤロブアム以来長い間主を離れていたので、無割礼の者と見なされたということでしょうか。

 

 けれども、ヒゼキヤが主の赦しを乞い、「彼らは聖所の清めの規定には従いませんでしたが、神、先祖の神、主を求めようと決意しているのです」(18,19節)と執り成して、主もそれを聞き入れられました(20節)。

 

 これは、7章14節で神が神殿奉献の祈りをささげたソロモンに応えて、「もしわたしの名をもって呼ばれているわたしの民が、ひざまずいて祈り、わたしの顔を求め、悪の道を捨てて立ち帰るなら、わたしは天から耳を傾け、罪を赦し、彼らの大地をいやす」と言われていたことが、ここで実現しているわけです。

 

 全会衆は通常の七日間の祭りが終わった後、さらに七日間祭りを行うことを決め、そのとおり喜び祝いました(23節)。そこでは、長い間忘れていた神を喜ぶ心が再び燃え上がっているのでしょう。全会衆が熱く燃える心で主を求めているのでしょう。

 

 この祭りのためにヒゼキヤ王と高官たちは、会衆に大量の贈り物をしました(24節)。また祭司やレビ人たちは、会衆の燃える心に触発されて民を祝福します。それを受けて、多くの祭司が自分を聖別することになりました。

 

 この祝福の声が聞き届けられ、祈りは主の聖なる住まい、天にまで達しました(27節)。それほどの大声を出したということではありません。天が彼らのそばに来たのです。主に立ち帰れば、主は私たちのもとに帰って来られると言われているとおりです(6,9節)。

 

 私たちも主を熱く求めましょう。いつも心を主に向けましょう。主に向かって感謝のいけにえ、賛美のいけにえをささげましょう。

 

 主よ、違いを超えて共に喜ぶのはとても困難です。シリア内戦は収束に向かうでしょうか。朝鮮半島に恒久平和は訪れるでしょうか。拉致被害者が帰国できるようにするには、どうしたらよいのでしょうか。人には出来ないことも、主よ、あなたには出来ます。どうぞ解決を与えてください。共に手を取り合うことが出来ますように。そうして、主の御名を崇めさせてください。 アーメン

 

 

「彼は神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めたすべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げた。」 歴代誌下31章21節

 

 2週間に亘る過越祭が終わると、ヒゼキヤは宗教改革を断行します。ユダの町々で石柱を砕き、アシェラ増を切り倒し、聖なる高台と祭壇を破壊して、ユダ全土、ベニヤミン、エフライム、マナセからそれらを徹底的に覗き去りました(1節)。

 

 次いで、ヒゼキヤは祭司とレビ人の組分けを行い、組ごとにその任務に従って献げ物をささげ、感謝し、賛美しながら奉仕するように定めました(2節)。それは、ソロモンが父ダビデの規定に従って行ったことでした(8章14節)。

 

 それから、自分の財産から主への献げ物をささげ(3節)、エルサレムに住む民には、祭司、レビ人の受けるべき分として、産物の十分の一を献げさせました(4節以下)。すると、イスラエルの民は、穀物、ぶどう酒、油、蜜など、畑のあらゆる産物の初物、あらゆる物の十分の一(5節)、また牛と羊の十分の一、主のために聖別された物の十分の一を運んで来ました(6節)。

 

 歴代誌の著者がこのことを記すのは、祭司、レビ人がその職務に専念することができるように、民に配慮することを求めているのでしょう。4節に、「これは、祭司とレビ人が主の律法のことに専念するためであった」と記されているのがそのしるしで、歴代誌が記述されているころのイスラエルの民の生活の厳しさを伺わせます。

 

 ヒゼキヤの身の上にこれまで何があり、どのような主の恵みを味わってきたのか、詳しいことはよく分かりません。父アハズは「父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった」(28章1節)と評される人物であり、それゆえ、アハズが召されて葬られるとき、「その遺体はイスラエルの王の墓には入れられなかった」(同27節)と言われています。

 

 アハズの王位は16年で(同1節)、ヒゼキヤは25歳で王となりましたから(29章1節)、逆算するとヒゼキヤが9歳のときに父アハズは王となっています。それからアハズが亡くなるまで、ユダの王として主に背きつつ働く父の様子を見ていたわけです。ヒゼキヤがダビデのように正しいことをことごとく行ったということは、父親を反面教師として育ったことになります。

 

 そして、詳細は不明ながら、主に信頼して歩む中で主なる神の恵みを味わったからこそ、ヒゼキヤは喜んで主に従っているのでしょう。そして、それだからこそ、神殿で祭司、レビ人が各々の任務に従って献げ物をささげ、感謝し、賛美しながら奉仕するよう定めたわけです(2節)。

 

 ネヘミヤが「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ記8章10節)と言っています。感謝しながら力を得て奉仕し、それによってさらなる恵みを得て喜ぶのです。

 

 20節に「ヒゼキヤは自分の神、主の御前に良い事、正しい事、真実な事を行った」と記されていますが、主の御前に良い事、正しい事、真実な事として、彼は何をしたのでしょうか。それは先ず、祭司とレビ人を聖別して神殿を清めること(29章)、次いで、全国規模の過越祭を行うこと(30章)、そして、偶像を徹底的に取り除いたということです(1節)。

 

 そうしてヒゼキヤは、冒頭の言葉(21節)の通り、「神殿における奉仕について、また律法と戒めについて、神を求めて始めたすべての事業を、心を尽くして進め、成し遂げ」ました。これは、それを行ったことがあるという程度ではなく、主なる神を信じてその教え、戒めに従うことが人々の生活に根付くように、繰り返し、徹底して行わせたという意味ではないでしょうか。

 

 ヘブライ語の「成し遂げた」(ツァーラー)という言葉には、「成功する、繁栄する」という意味がありますから、このようなヒゼキヤの「よい、正しい、真実な」(20節)働きが豊かに実を結び、人々の生活が祝福を受けてあらゆることが成功し、繁栄したといってよいでしょう。

 

 私たちも主の恵みに豊かに与るため、信仰を生活の中にしっかりと根付かせましょう。神の御言葉に従い得ない不信仰、不従順で頑なな心、恵みを奪おうとする一切の悪しきものを除き去りましょう。

 

 私たちのために最善をなし、あらゆる必要を豊かに満たしてくださる主に、感謝と喜びをもって10分の一と感謝の献げ物をささげましょう(マラキ3章8,10節参照)。神を求めて始めたすべてのことを、心を尽くして進めましょう。

 

 主が成し遂げさせてくださいます。成功させてくださいます。繁栄させてくださいます。パウロが、「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1章6節)と記しているとおりです。

 

 主よ、私たちが知る力と見抜く力を身に着けて、私たちの愛が益々豊かになり、本当に重要な事を見分けられますように。そしてキリストの日に備えて、清い者、咎められることのない者となり、主イエスによって与えられる義の実を溢れるほどに受けて、神の栄光と誉れを讃えることが出来ますように。 アーメン

 

 

「『敵には人の力しかないが、我々には我々の神、主がいて助けとなり、我々のために戦ってくださる』。民はユダの王ヒゼキヤの言葉に力づけられた。」 歴代誌下32章8節

 

 1節に「これらの真実な事を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めて来た」と記されていますが、ここで歴代誌が「これらの真実な事を行った後」というのは、ヒゼキヤが神を求めて始めたすべての事業を成し遂げた後(31章21節)、つまり、29年間の治世の終わりということになるでしょう。

 

 しかし、列王記下18章13節によれば、センナケリブの攻撃はその治世14年のことで、ヒゼキヤはその後15年間イスラエルを治めています。つまり、この出来事の後の方が長いのです。また、センナケリブがユダの砦の町をことごとく占領したこと、それを見たヒゼキヤがセンナケリブに詫びを入れ、賠償する意志を伝えています(同14節)。

 

 歴代誌の著者は、歴史的事実や年代的な関心によらず、これまでの忠実な信仰により、主なる神がいかにヒゼキヤを祝福されたのかということを、センナケリブの攻撃やヒゼキヤの死の病に対して主がどのように対処してくださったのかということで、読者に対して例示しようとしているかたちです。

 

 アッシリアとの関係について、父アハズの代に、アラム・エフライム(北イスラエル)連合軍の攻撃を受けた際、アッシリアの王ティグラト・ピレセルに貢ぎして救援を求めて以来、主従の関係が生まれていました(列王記下16章5節以下)。

 

 ところが、ヒゼキヤは、アッシリアの王の代替わり(北イスラエルを滅ぼしたシャルマナサルからセンナケリブへ)を契機に、アッシリアに服従し、貢ぎを収めることをやめたのです(同18章7節)。その背後に、主がヒゼキヤと共におられて、彼の企てることがすべて成功したということがありました。

 

 ユダに侵攻し、砦の町々に対し陣を張ったアッシリア軍に対し、ヒゼキヤは将軍や勇士たちと協議して、町の外にある泉の水をせき止めることにしました(1~3節)。所謂ヒゼキヤ・トンネル(地下水道)を掘り、シロアムの池に泉の水を引き込んだわけです。また、城壁を修理して塔を立て、外側にもう一つの城壁を築きました(5節)。そうして、町の守りを固めました。

 

 ただ、アッシリアの布陣を見てからそれらのことを始めたのでは、とても間に合う話ではありません。二重の城壁も、守り固めというより、エルサレムの住民が増えて、町を広げる必要があったからということのようです。いずれにせよ、主の祝福を受けて、そうしたことも行うことが出来たわけです。

 

 エルサレムのヒゼキヤとユダの民に、センナケリブが使者を遣わし(9節)、「ヒゼキヤに欺かれ、唆されてはならない。彼を信じてはならない。どの民、どの国のどの神も、わたしの手から、またわたしの先祖の手からその民を救うことができなかった。お前たちの神も,このわたしの手からお前たちを救い出すことはできない」(10節以下、15節)と言わせました。あからさまな挑発、主なる神への挑戦です。

 

 それに対するエルサレムの民の反応について、歴代誌には何ら記されていませんが、答えるなという王の戒めに、ユダの人々は押し黙っていたと、列王記下18章36節に記されています。答えることが出来ないほど怯え、震え上がっていたのいうのが実態かも知れません。

 

 それでも、ヒゼキヤによって主なる神を信じる信仰を生活に根付かせるようにされていたので(6~8節、31章20,21節)、神を嘲るセンナケリブの言葉に対して、その武力に怯えながらも、主なる神を畏れつつ王に従う心に変化は見られなかったということだと思います。

 

 ヒゼキヤは民に「強く雄々しくあれ、恐れてはならない、おじけてはならない」(7節)と命じていました。その根拠は「我々と共においでになる方は、敵と共にいる者より力強い」(7節)ことであり、そして、冒頭の言葉(8節)のとおり、「敵には人の力しかないが、我々には我々の神、主がいて助けとなり、我々のために戦ってくださる」ということです。

 

 5節に「意欲的に」と訳されているのは、「強くあれ」(ハーザク)と同じ言葉の再帰動詞(直訳すれば「自分自身を強くする」)です。そもそも、ヒゼキヤという名前も、「主は強めたもう」という意味です。主に信頼して自分自身を強くされたヒゼキヤが、主に信頼して強くあれと民に命じていたわけです。

 

 センナケリブは、イスラエルの神に対してアッシリアの神の名で戦っているというのではなく、自分の手、自分たちの力で行って来たと繰り返し語っていました(13節以下)。それに対するヒゼキヤは、自分の手、自分たちの力で立ち向かうのではなく、「我々のために戦ってくださる」(8節)主なる神に祈り、天に助けを求めて叫ぶのです(20節)。

 

 このとき、預言者であるアモツの子イザヤも、ヒゼキヤ王と共に祈っているようです。それはしかし、列王記下19章、イザヤ書37章によれば、ヒゼキヤから祈りの要請を受けて、イザヤが主の託宣を求めたということでしょう。

 

 主はこの祈りに答え、御使いを遣わし、アッシリア軍を全滅させられました(21節)。完全に面目を失ってしまったセンナケリブは、傷心の内に帰国しました。そして、ニネベにあるアッシリアの神の神殿に来たところを、王子たちの謀反で殺されてしまいます(21節)。

 

 自分の手、自分たちの力を過信していたセンナケリブは、思い上がって、「お前たちの神は、わたしの手からその民を救うことができるというのか」(14節)と語っていましたが、その彼が神殿で自分の子らに殺されるというのは、なんという皮肉なことでしょう。

 

 神殿に詣でたのは、敗戦の痛手を癒し、再び立ち上がってイスラエルに報復する力を神に求めようとしていたのでしょう。しかるに、彼が嘲ったイスラエルの神、主は、センナケリブの手からイスラエルを救いましたが、イスラエルの神を嘲ったセンナケリブは、自分の拝む神の助けを得るどころか、自分の子らにその神殿で殺されてしまったのです。

 

 「アッシリア王とその全軍団を見ても、恐れてはならない。おじけてはならない。我々と共においでになる方は、敵と共にいる者より力強い。敵には人の力しかないが、我々には我々の神、主がいて助けとなり、我々のために戦ってくださる」(7,8節)と語ったヒゼキヤの言葉を日々心に響かせ、主の力に強められつつ信仰の正道を歩みたいと思います。

 

 主よ、我が国の政権は、憲法改正に向けて粛々と歩を進め、積極的平和実現のためというまやかしをもって戦争が出来る国となろうとしています。国際的な諸課題を、武力によらず平和的協議によって、一つずつ解決することが出来ますように。そのことで、共にキリストの十字架を仰がせてください。御旨が行われますように。地に平和が実現し、天に栄光がありますように。 アーメン

 

 

「マナセは12歳で王となり、55年間エルサレムで王位にあった。彼は主がイスラエル人の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った。」 歴代誌下33章1節

 

 冒頭の言葉(1節)のとおり、ヒゼキヤに代わって12歳で王となったマナセは、55年間王位にありました。イスラエル史上最長の統治期間です。12歳という若さで王位に就いたからのことですが、国内が最も安定した時期ということが出来ますし、マナセにはそれなりの政治手腕があったものと思われます。

 

 ただし、父ヒゼキヤとは異なり、マナセは異教の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行ったと言われます(2節)。バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造ったことをはじめ(3節)、神殿の中に異教の祭壇を築いたり(4節)、自分の子らをベン・ヒノムの谷で火の中を通らせ、占いやまじないを行うなどのことは(6節)、それは祖父アハズにも勝るものでした(28章2節以下)。

 

 12歳での即位で、自ら父祖ダビデに背く道を選んだとは考えにくいところです。マナセの摂政らが主の道に背くように唆したのではないでしょうか。そのことで、列王記下21章1節に、「その母は名をヘフツィ・バと言った」と記されていますが、歴代誌は、その記述を省略しています。その理由について、ヘフツィ・バがアラビア出身で、ユダに悪影響をもたらしたためと考えられると、註解書にありました。

 

 マナセの母ということは、ヒゼキヤの妻ということになります。ヒゼキヤはその治世14年目に死の病を患い、神に願って病が癒され、寿命が15年延長されました(列王記下20章6節)。マナセが生まれたのは、病が癒されてからのことです。

 

 ヒゼキヤの晩年は、必ずしも神を求めるに熱心であったとは言えず、むしろ思い上がって道を踏み外していました(32章25,31節)。マナセの誕生により、アラビア女性である妻がヒゼキヤの政策決定に何らかの影響を与えるようになったのでしょうか。

 

 実は、アモンの母(即ちマナセの妻)メシュレメト(列王記下21章19節)、ヨシヤの母(即ちアモンの妻)エディダ(同22章1節)も、アラビア人女性だと言われます。このような婚姻が行われたということが、王家がひたすら主に依り頼む道を歩んではいなかったということを示しています。

 

 7節の「彼はまた像、彫像を造り」は、口語訳では「刻んだ偶像」と訳されています。「像」は「セメル」、「彫像」は「ペセル」という言葉です。「セメル」はフェニキヤ語起源で、輸入されたフェニキヤの女神像を表していると言われます。その意味では、「セメルの彫像」と読むべきかも知れません。

 

 さらに、列王記下21章18節でマナセの墓所が「自分の宮殿の庭園、すなわちウザの庭園に」とされているのを、歴代誌は「自分の王宮に」(20節)と書き換えています。ウザとはアラブの星の神「アル・ウッザー」のこととされ、妻の影響で王宮の庭園の一部がこの神にささげられていたものと考えられています。

 

 3節の「バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った」という言葉は、列王記下21章3節と全く同じ言葉遣いですが、「バアル」、「アシェラ」について、列王記では単数ですが、歴代誌はそれを複数形にしています。つまり、そうすることで、マナセの背信をより強調しているわけです。

 

 さらに、エルサレム神殿に異教の祭壇を築き(4節)、ベン・ヒノムの谷で自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、魔術や口寄せ、冷媒を用いるなど、主の目に悪とされることを行います(6節)。このように、マナセは徹底して主に背く道を選び、突き進みました。それは、北イスラエルのアハブに勝るとも劣らない悪行と言うべきでしょう(列王記上16章29節以下)。

 

 神は、イスラエルを正しい道に戻そうとして、マナセとその民に語りかけられますが、彼らはそれに耳を貸そうともしません(10節)。そこで主はアッシリアにマナセを委ね、バビロンに引いて行かせます(11節)。この記事は、列王記には出て来ませんが、まさに、イザヤがヒゼキヤに告げた預言の通りになったわけです(列王下20章17,18節)。

 

 なぜアッシリアの捕囚とされたマナセが、アッシリアの都ニネベではなく、バビロニアの都「バビロン」に引いて行かれるのか不明ですが、これによって、やがて起こるバビロン捕囚をマナセの運命によって予め示しています。

 

 マナセはこの苦しみの中で罪を悔い改め、謙って主を求めました(12節)。そこで主はマナセの祈りを聞かれ、解放されてエルサレムに戻ることが出来ました(13節)。捕囚となったことと同様、マナセが悔い改めたという話も、列王記には出て来ません。

 

 それが何時のことで、どれほどの期間、マナセが捕囚の身であったのかは全く不明ですが、それほど長い期間ではなかったでしょう。そして、彼の治世が55年であったというのは、彼の善政のゆえでは勿論なく、マナセを悔い改めさせ、謙らせるために、神が憐れみと忍耐をもって導かれた期間だったのです。

 

 こうしてマナセは、主が神であることを悟り(13節)、ダビデの町の外壁を築き、すべての砦の町の軍の長を配置して軍備を固め(14節)、すべての偶像を取り除き、異教の祭壇も町の外に投げ捨てて(15節)、主の祭壇を築き直し、その上で和解と感謝の献げ物をささげ、民にイスラエルの神、主に仕えるように命じました(16節)。

 

 これこそ、主が望まれたものです。神の求めるいけにえは、打ち砕かれた心です。主は、悔いた心を軽しめられません(詩編51編19節)。主は打ち砕かれて謙る霊の人と共におられ、命を得させられます(イザヤ書57章15節)。主は、マナセのような徹底的に悪を行う者をさえ憐れみ、御名のゆえに正しい道に導いてくださいます。

 

 このような憐れみ豊かな神であればこそ、これまた徹底的にクリスチャンを迫害し、教会を荒らし回ったパウロも、赦されてキリストを信じ、その福音を告げ知らせる者に変えられたのです(使徒言行録9章、第一テモテ1章12節以下)。私たちも主の前に謙り、絶えず主の御言葉に聴き従う者とならせていただきましょう。

 

 主よ、この世を憐れんでください。主の前に謙ってその御言葉に耳を傾け、平和の源なる主の御旨を実現するため、争いをやめ、共に平和を構築するテーブルに就き、共に生きることが出来ますように。人と人との間に主がお立ちくださり、あらゆる隔ての壁を取り除き、主にあって一つとなることが出来ますように。私たちを平和を造り出す神の子として用いてください。 アーメン

 

 

「あなたはこの所とその住民についての主の言葉を聞いて心を痛め、神の前にへりくだり、わたしの前にへりくだって衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。」 歴代誌下34章27節

 

 マナセに代わって王となったアモンは、父と同じように主の目に悪とされることを行って罪悪を積み重ね、なんと、家臣たちの謀反によって殺害されてしまいました。そこでユダの民は、謀反を起こした者たちを討ち、アモンの子ヨシヤを王とします(33章21節以下)。

 

 ヨシヤは王となったとき、8歳であったとされます(1節)。父アモンは22歳で王となり、即位2年で暗殺されたので、ヨシヤが父アモンの死後すぐに王位に就いたとすると、彼は父アモンの16歳の時の子ということになります。

 

 ただ、民がクーデター政権を倒し、あらためてヨシヤを選び、王として即位させるには、ある程度の時間が必要でしょう。あるいは、それに数年を要したかも知れません。そうすると、ヨシヤが生まれたときのアモンの年齢はもう少し進んでいることになります。

 

 いずれにせよ、8歳の王子に国が治められるはずもありません。ヨシヤが自ら「父祖ダビデの神を求めることを始め」(3節)たという治世第8年まで、祭司ヒルキヤや書記官シャファン、あるいはまた、クーデター政権を倒すのに力あった者たちが、幼いヨシヤを補佐していたのでしょう。そして、その指導が実を結び、ヨシヤは自分で主を求める者となりました。

 

 治世第12年、20歳になったヨシヤは、国内の異教の偶像をすべて取り除き、ユダのみならずイスラエルの各地方まで、国中を清め始めます(3節以下)。治世第8年、16歳は「まだ若かったとき」とされますが、いわゆる成人となって国内を掌握し、宗教改革を行い得る力を付けたということでしょう。

 

 さらに6年後の治世第18年には、エルサレムと神殿を清め、祖父マナセ、父アモンの時代に荒らされた神殿を修理し始めたということですから(8節以下)、偶像を取り除き、異教礼拝を排除するのに6年を要したわけです。それだけ、国中に偶像礼拝がはびこっていたことになります。

 

 歴代誌によれば、祖父マナセが主の目に悪とされることで神の怒りを招き(33章1節以下)、アッシリアの王に攻められて、バビロンに引いて行かれましたが(同11節)、苦悩の中で謙り、悔い改め(同12節)、町の守りを固め、異国の神々、偶像を除き去りました(同15,16節)。ということは、父アモンのとき、再び偶像が持ち込まれたということでしょうか(同22,23節)。 

 

 神殿修復のため、寄せられた献金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤがモーセによる主の律法の書を見つけました(14節)。列王記の記述では、それは申命記の一部だろうと考えられていますが、ここでは、モーセ五書全体を指しているようです。

 

 というのは、列王記では、書記官シャファンがヒルキヤから手渡された律法の書を、自ら一度読み(列王記下22章8節)、そして、王の前であらためてそれを読み上げていますが(同10節)、新共同訳は列王記と同様「王の前でその書を読み上げた」(18節)と訳している箇所のヘブライ語原文は、「その中から読み上げた」と、一部分を読んだように記されています(岩波訳参照)。

 

 つまり、モーセ五書全体を読むには時間がかかるので、王の前でその一部分を読み上げたのだと、歴代誌の著者は、列王記下22章10節の記述を修正しているわけです。列王記でヒルキヤから渡された律法の書をシャファンが一度読んだと記されていた箇所を歴代誌が省いているのも、同じ理由と考えられます。

 

 列王記では、律法の書(申命記)の発見が宗教改革の原動力となったように記されていました(列王記下23章参照)。それに対して、歴代誌では、ヨシヤが始めた宗教改革の一環として、主の神殿を修理していたときに、律法の書が発見されたと記しています。ヨシヤの主を求める熱い信仰に応えて、主が律法の書を見つけさせてくださったようです。

 

 見つけられた律法の書は、すぐにヨシヤのもとにもたらされ(16節)、王の前で読み上げられました(19節)。律法の言葉を聞いたヨシヤは、衣を裂いて悔い改めの姿勢を表します(19節)。それは、これからさらに積極的に、主のみ言葉に聴き従う決意を示したということです。

 

 ヨシヤは、主のみ旨を求めて女預言者フルダのもとに祭司ヒルキヤや書記官シャファンらを遣わします(21,22節)。フルダは当時有名な主の預言者だったと思われます。後に神殿城壁の南の門がフルダの名前で呼ばれていることからも、その事実を確認することが出来るでしょう。

 

 ヨシヤはこの時、「イスラエルとユダに残っている者のために」(21節)と言っています。9節にも「マナセとエフライム、イスラエルのすべての生き残りの者」という言葉がありました。南ユダだけでなく、北イスラエルをも包括して、全イスラエルが主の御前に罪を犯して、主の怒りを招いているという理解を、ヨシヤはここに示しています。 

 

 フルダは、主の律法の書に記された災いと呪いが、エルサレムとその住民に臨むと明言しましたが(24,25節)、主の御旨を求めて謙っているヨシヤは、その災いを見ることはないと語っています(28節)。主の律法の書が見つかったことで、主の裁きが明示される結果となりましたが、ヨシヤはそれを悔い改めの時となし、主なる神はその祈りを聞かれたのです。

 

 主は、ヨシヤを通して全イスラエルを悔い改めに導くために、主の律法の書を見つけさせたのでしょう。勿論、ヨシヤ一人が謙って主を求めても、主の御心を変えて災いが降るのを中止させることは、出来ない相談でした。律法の書に記されているすべての呪いを実現する、異教の神に香をたき、偶像を造って主を怒らせたその怒りは消えないと言われています。

 

 けれども、ヨシヤに次ぐ王たちが皆、ヨシヤと同じように心から主を求め、見出された律法の書の教えと定めに従って歩もうとすれば、「あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られ、わたしがこのところとその住民にくだす災いのどれも、その目で見ることはない」(28節)という主の御言葉が、その王たちにも告げられたことでしょう。

 

 それは、結果的に主がエルサレムとその住民に災いを下すのを思い返されることになったということでしょう。神はイスラエルを滅ぼしたかったのではありません。民が悔い改めの実を結ぶのを待っておられたのです。王だけでなく、民が主を求めて謙ることなく、むしろ主を怒らせる悪しきことを続けたので、滅びを刈り取らざるを得なかったのです。

 

 悔い改めとは、主に聴き従っていなかった者が正しく主の方に向き直ること、その御顔を拝し、主の御言葉に耳を傾けることです。私たちは、日毎に聖書を開き、祈る恵みに導き入れられています。すべてを主に委ね、心から御言葉に耳を傾け、導きに従って歩ませていただきましょう。

 

 主よ、あなたのなさることは、常に最善です。私たちも、日々主に信頼し、御言葉に従って歩みます。弱い私たちが、道を踏み外すことのないように、誘惑に遭わせず、悪しき者からお救いください。この地に主の御心を行う器として用いてください。主の守りと導きが常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「しかし、ヨシヤは引き返さず、攻撃のために変装して、神の口から出たネコの言葉を聞かなかった。そして彼はメギド平野の戦いに臨んだ。」 歴代誌下35章22節

 

 ヨシヤ王がエルサレムで過越祭を祝うために、律法の定めに従って(レビ記23章5節、申命記16章1節以下)、第一の月の14日に過越のいけにえを屠ります。1節は、19節までの段落の表題の役割を果たしています。

 

 ヨシヤは祭司、レビ人を励まし、過越祭の準備を行わせます(2節以下)。そのためにて、ヨシヤが羊、小羊、子山羊を3万匹、牛を三千頭提供したほか(7節)、政府高官や祭司、レビの指導者たちも、それぞれ多数のいけにえを提供しました(8,9節)。

 

 準備が整っていけにえが屠られ、律法に従って献げ物が主にささげられ、他の聖なるものは鎌や平鍋で煮られてすべての民に配られました(10節以下、13節)。そうして、イスラエルの民は過越祭を祝い、続く七日間、除酵祭を祝いました(17節)。歴代誌の記者は、ヨシヤが祝ったような過越祭を行った者は、イスラエルの歴代の王の中一人もいなかったと評しています(18節)。

 

 ただし、列王記下23章22節にもそのように記されていますが、歴代誌の著者は、ヒゼキヤ王の時代に過越祭を行ったことを、歴代誌下30章に記録しています。同5節に、「規定どおりにその祭りを行っている者は多くなかった」と言います。旧約聖書中、ヒゼキヤとヨシヤ以外に、それを行ったと言われる王はいません。二人は、エルサレムの神殿で、中央集権的に過越しを祝ったのです。

 

 ヒゼキヤは、祭祀の準備不足などで過越祭を一ヶ月延期しました(30章2,3節)。また、身を清めていない者が過越のいけにえを食べるという規定違反がありました(同18節)。それに対して、ヨシヤ王は主の言葉に従って祝いが出来るよう、周到に準備を進めました(4節以下、6節)。それが、ヨシヤのように行った者はいないという意味なのでしょう。 

 

 そして、「この過越祭はヨシヤ王の治世第18年に祝われた」と注記しています(19節)。治世第18年は、神殿の修理中に主の律法の書を見つけた年です(34章8,14節以下)。ヨシヤは主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、契約の言葉を実行することを誓っていましたので(同31節)、過越祭の実施においてそれを守ったわけです。

 

 ただ、1月14日に行われる過越祭と律法の書発見、どちらが先だったのか、はっきりしません。むしろ、過越祭の方が早かったのかも知れません。であれば、神の救いの御業を喜び祝うヨシヤの信仰が主を喜ばせ、それゆえに、律法の書を見つけさせてくださったということになります。

 

 過越祭は、出エジプトにおける神の救いの御業を記念するものです。ヨシヤがそれを心を込めて祝ったのは、律法の規定によるということだけでなく、今も神の救いの御業を味わうことが出来ると信じているからでしょう。

 

 そして、捕囚後に著わされた歴代誌が、ヒゼキヤやヨシヤによる過越祭を記しているのも(30章、35章)、バビロンからの解放を第二の出エジプトの出来事と考えていることを示しています。

 

 そのように熱心に、徹底的に主に従う道を歩んで右にも左にもそれることがなかったヨシヤですが(34章33節)、その治世31年目に思いがけないことが起こりました。それが、20節以下の段落に記されています。

 

 当時、北イスラエルを滅ぼしたアッシリア帝国の力が弱り、ヨシヤは、ほぼソロモン時代の国土を回復することが出来ました。さらに、新興のバビロニアがアッシリアに迫って主とニネベを陥し、ユーフラテス川上流のカルケミシュまで追い詰めていました。エジプト軍は、アッシリアを救援するためにカルケミシュに急行しようとしていたのです(20節)。

 

 ヨシヤはそれを迎え撃とうと出て行きましたが、エジプトの王ネコは、「今日攻めて来たのはあなたに対してではなく、わたしが敵とする家に対してである。神はわたしに急ぐようにと命じられた。わたしと共にいる神に逆らわずにいなさい。さもなければ、神はあなたを滅ぼされる」(21節)と言います。

 

 「あなたに対してではなく」という表現は、このときヨシヤは既にネコに敵対していたと推測されます。ネコはカルケミシュに急ぐ必要があったので、予め使者を送って通行の許可を求めたと考えることも出来ます。

 

 しかし、冒頭の言葉(22節)の通り、ヨシヤはこのとき、ネコの語る言葉を、神の言葉と考えることは出来ませんでした。勿論、外国の王が語る言葉を神の言葉として聴くのは、当たり前のことではありませんし、誰にでも出来るということでもありません。

 

 なぜ、ヨシヤはネコに戦いを挑んだのでしょうか。国力を考えれば、エジプトに対抗出来るものではなかったと思われます。北イスラエルを滅ぼした憎きアッシリアを、エジプトが救援することを許すことは出来ないという思いだったのでしょう。また、アッシリアの国力が弱ったことで国土を回復出来たことを、自身の善政のゆえと受け止めたヨシヤの過信が、判断を誤らせたのかも知れません。

 

 だからこそと言うべきでしょうか、律法の書を見出した時、主の御旨を尋ねるために預言者フルダに使者を遣わしたヨシヤですが(34章21節以下)、彼はネコの北上を知ってどうすべきか、主の託宣を求めようとはしていません。そして、変装して、メギド平野に軍を進めます(22節)。

 

 それは、奇襲戦を仕掛けようとしたということかも知れません。戦場となったメギド平野には、エジプトの基地があったという学者もいます。そうであれば、ネコの軍がどの道を進むのか、推察することはそれほど難しいことではなかったでしょう。そうして、残念ながら、ヨシヤは自らの滅びを刈り取ってしまったのです(23,24節)。

 

 預言者フルダの告げた「あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られ、わたしがこのところとその住民に降す災いのどれも、その目で見ることはない」(34章18節)という預言と違う最期になったのは、謙って主の言葉に聴こうとしなかったからです。

 

 「死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(黙示録2章10節)と主は言われます。ヨシヤの生前の善行が主なる神に忘れられることはありませんが、しかし、授けられる命の冠に自ら傷をつけてしまったのではないでしょうか。

 

 絶えず神の前に謙り、主を求め、御心を尋ねて主の御言葉に聴き従う者としていただきましょう。

 

 主よ、私たちもヨシヤの高慢の罪と無縁ではありません。常に主を畏れ、謙って主の御言葉に耳を傾けることが出来ますように。いつも主を喜び、絶えず主に祈り、どんなことも主に感謝する、主の望まれる信仰に歩ませてください。 アーメン

 

 

「こうして主がエレミヤの口を通して告げられた言葉が実現し、この地はついに安息を取り戻した。その荒廃の全期間を通じて地は安息を得、70年の年月が満ちた。」 歴代誌下36章21節

 

 ヨシヤの死後、ヨアハズ(1節以下)、ヨヤキム(5節以下)、ヨヤキン(9節以下)、ゼデキヤ(11節以下)と、次々に王がたてられますが、彼らは主の目に悪とされることを行い(5,9,12節)、ついにユダ王国は滅びます(16節以下)。

 

 歴代誌は、ヨアハズの評価を記していません。列王記下23章32節には、「彼は先祖たちが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った」と語られていました。ただ、彼は三ヶ月王位にあっただけで、エジプトの王に退位させられ、エジプトに連れて行かれましたので、評価することが出来ないと考えたのでしょう。

 

 また、ヨヤキンが王となったのが8歳で、王位にあったのがヨアハズと同様三ヶ月と十日というのであれば(9節)、自ら望んで悪を行ったということではなく、摂政の指導のままにそれを行ったということでしょう。ただ、列王記では王となったのが18歳のときとされていて、そちらの方が正しいのではないかとも思われます。

 

 いずれにせよ、父親がしているようにして、悪を行ったとすれば、父がどのような姿をその子に見せるのかということが、とても大切な問題であることが分かります。それが国を治める王であるならば、なおさらです。

 

 神は最後の最後までイスラエルの民を憐れみ、繰り返し御使いを送られました(15節)。そうして悔い改めの機会をお与えになったのですが、彼らは神の御使いを嘲笑し、預言者を愚弄したのです(16節)。

 

 これは、12節の「主の言葉を告げる預言者エレミヤの前にへりくだらなかった」というのが、一度や二度ではなかったということでしょう(エレミヤ書21章1節以下、27章1節以下、32章1節以下、34章1節以下、37章1節以下など参照)。また、エレミヤ以外にも、主の言葉を告げる使者がいたのではないかと思われます。

 

 そこで、カルデア人が攻め込み、多くの者を剣で殺しました(17節)。神殿の祭具や宝物がすべて奪われ(18節)、神殿は火で焼かれ、エルサレムの城壁は崩されました(19節)。剣を免れた者は、捕囚としてバビロンに引いて行かれました(20節)。これで、400年に及んだダビデ王朝に幕が下ろされたのです。

 

 冒頭の言葉(21節)で「主がエレミヤの口を通して告げられた言葉」というのは、「お前たちがわたしの言葉に聞き従わなかったので、見よ、わたしはわたしの僕バビロンの王ネブカドレツァルに命じて、北の諸民族を動員させ、彼らにこの地とその住民、および周囲の民を襲わせ、ことごとく滅ぼし尽くさせる」(エレミヤ書25章8,9節)という預言のことでしょう。

 

 また、同11,12節に「この地は全く廃墟となり、人の驚くところとなる。これらの民はバビロンの王に七十年の間仕える。七十年が終わると、わたしは、バビロンの王とその民、またカルデア人の地をその罪のゆえに罰する」と告げられています。 エレミヤが出したイエローカード(警告)を無視したため、ピッチ(約束の地)を退場(捕囚)させられたのです。

 

 冒頭の言葉で「この地はついに安息を取り戻した」と記されているのは、ダビデ以降、イスラエルの王と民が主に背き続けた結果、地は汚され続け、呪われ続けていたということです。そして、イスラエル王国が滅亡し,ダビデ王朝が倒された結果、地を汚す者、地に呪いをもたらす者がいなくなったので、約束の地は安息を取り戻したと言われているのです。

 

 「70年の年月が満ちた」というのは、「70」が完全数の7と10を掛け合わせた象徴的な数字で、完全な安息、完全な更新を意味しているということが出来ます。即ち、神がその地に完全な安息を与え、そしてそこに新しい国を築かれるということです。

 

 実際には、エルサレムの都が陥落し、民が捕囚となったのがBC587年頃、そして、ペルシャのキュロス王による解放がBC538年頃ですから、捕囚期間は50年というのが正確なところです。これはちょうどヨベルの年にあたります(レビ記25章8節以下参照)。

 

 レビ記の規定によれば、同胞から買い取った土地や奴隷は、50年たてばもとの持ち主に返さなければなりませんでした(同13節以下)。神に背いて地を汚し、バビロンの奴隷とされたイスラエルの民でしたが、彼らは、ヨベルの年に神の憐れみによって、再び約束の地に帰還することを許されたわけです。

 

 そして、そのことも、予め預言者エレミヤの口を通して主が告げておられたことでした(22節、エレミヤ書29章10節以下)。「人の心には多くの計らいがある。主の御旨のみが実現する」と言われますが(箴言19章21節)、主が告げておられたとおりにイスラエルが滅び、そして主が告げられていたとおりに国を建て直すことになりました。それは、まず神の神殿を築くことです。

 

 第二神殿の完成は、「ダレイオス王の治世第6年のアダルの月の23日」(エズラ記6章15節)、すなわち、紀元前516年ごろのことです。それは、エルサレムが陥落して神殿が破壊されてから70年が過ぎたときということになります。歴代誌の著者は、エレミヤの告げた70年を、そのように理解したのではないでしょうか。 

 

 私たちは、心に主を住まわせている神の宮です(第一コリント書3章16,17節、6章19,20節)。いつも私たちと共にいてくださる主によって心に真の安息を頂き、絶えず主に向かって祈りと賛美を捧げましょう。

 

 主よ、私たちと常に共におられ、希望と平安をお与えくださる主に、心から賛美と感謝の祈りをささげます。あなたは、忍耐と慰めの源、希望の源、平和の源である神と呼ばれるお方です。様々な不安や恐れに襲われている全世界の人々に、主の安息が与えられますように。そうして、御名を崇めさせてください。 アーメン

 

 

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