列王記下

 

 

「アハズヤはサマリアで屋上の部屋の欄干から落ちて病気になり、使者を送り出して、『エクロンの神バアル・ゼブブのところに行き、この病気が治るかどうか尋ねよ』と命じた。」

 列王記下1章2節

 

 アハブの死後、その息子アハズヤが王になりました(列王上22章40節)。彼はサマリアで屋上の欄干から落ちて病気になり、冒頭の言葉(2節)のとおり、使者を遣わしてエクロンの神バアル・ゼブブに、この病気が治るかどうか、伺いを立てます(2節)。

 

 「バアル・ゼブブ」というのは、当時おそらく病気の癒しで評判の神だったのでしょう。エクロンは、ペリシテの町です。また、バアル・ゼブブとは「ハエの主」という意味です。そのような名の神がいてはいけないとは思いませんが、新約聖書で「悪霊の頭」と言われ、サタン=悪魔と言われる「ベルゼブル」(マタイ12章24節)は、本来の読み方は、バアル・ゼブール(「家の主人」の意)です。

 

 マタイ10章25節で「家の主人がベルゼブルと言われるなら」というのは、本来の読みに基づく表現なのです。イスラエルの民にとって、真の神に適応すべき「家の主人」という称号を異教の神バアルに用いることをよしとせず、これを「バアル・ゼブブ」と読み替え、そして、サタンの別名としたのでしょう。

 

 主は御使いを預言者エリヤに遣わし、アハズヤに告げるべき言葉を伝えます。それは、アハズヤは、まるでイスラエルに神がいないかのごとく、エクロンの神バアル・ゼブブに伺いを立てようとしたので(3節)、アハズヤが上った寝台から降りることなく、必ず死ぬというものでした(4節)。

 

 エリヤはアハズヤの使者たちと会って主の言葉を伝え、使者たちからそれを聞いたアハズヤは、毛衣を着て、腰には革帯を締めていたということから、主の言葉を伝えた預言者が、ティシュベ人エリヤであることを悟ります(8節)。

 

 「毛衣を着て」は、「毛深い人」とも訳せる言葉で、「バアル・セーアール」と記されています。「バアル・セーアール」と言われるエリヤが、「バアル・ゼブーブ」と戦うという語呂合わせが、ここにあります。

 

 語呂合わせと言えば、この後のところにもあります。「神の人」(イーシュ・エロヒーム)に降りて来いというと、「神の火」(エーシュ・エロヒーム)が降って来たという語呂合わせです(12節)。

 

 アハズヤは、50人隊の長をその部隊と共に遣わして、エリヤに山から降りて来なさいと命じます(9節)。すると、天から火が降って来て、隊長と50人の部下を焼き尽くしました(10節)。同じことが二度ありましたが(11節以下)、アハズヤは、懲りずに三度目も同様に行います(13節)。

 

 三度目に派遣された部隊長はエリヤに命乞いし、それに対して、神はエリヤに、使者たちに同行することを許します(15節)。そこでエリヤは立ち上がり、アハズヤのところに降りて行って、主からアハズヤの使者に告げよと命じられた言葉(3節)をもう一度、今度はアハズヤに対して語り(16節)、その言葉どおりにアハズヤは死にました(17節)。

 

 ここで、主はアハズヤに対して、何度も悔い改めのチャンスを与えておられたのだと思います。彼の父アハブは、エリヤから厳しい裁きの言葉を聞いたとき、悔い改めて御前に謙ったので、罰を免れたことがありました(王上21章27節以下)。それを知らないアハズヤではなかったでしょう。

 

 しかしながら、アハズヤは謙るどころか、エリヤに軍隊を送って自分に従わせようとしたのです。自分が遣わした軍隊に二度、天から火が降っても、その態度を改めようとはしませんでした。

 

 三度目の時、神がアハズヤのもとに赴くことを許されたのは、神が50人隊の隊長やその部下たちの命を憐れまれたということもあると思いますが、悔い改めないアハズヤに対して、最後通告をするためだったわけです。アハズヤ自身が、五十人隊の長のように主の御前に命乞いし、悔い改めていれば、全く違った結果になったことでしょう。

 

 主なる神は、ご自身を否む者には、その罪を子孫に三代、四代も問われますが、主を愛し、その戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみをお与えくださると、十戒の中で語っておられます(出エジプト20章5,6節)。

 

 異教の神バアルの像を造って拝み、主を否むアハブの罪を息子アハズヤにも問われ、残念なことに、アハズヤはそれに答え損なってしまったわけです。だから、父アハブに語られていた、「見よ、わたしはあなたに災いを下し、あなたの子孫を除き去る」という呪いの言葉が、実現することになってしまったのです(王上21章21節以下)。

 

 アハズヤには子がなく、彼の弟ヨラムが王位を継ぐことになりました(17節)。 アハズヤはユダの王ヨシャファトの治世第17年にサマリアで即位し、2年間イスラエルを治めたと列王記上22章52節に記されています。そして、彼が死に、代わってその子ヨラムが王となったのは、ユダの王、ヨシャファトの子ヨラムの治世第2年のことです(17節)。

 

 ヨシャファトはエルサレムで25年王位にあったので(列王記上22章42節)、その治世17年に即位し、代が変わってその子ヨラムの治世第2年にアハズヤが死んだとなると、少なくとも9年は王位にないと、計算が合いません。9年間王位になりながら、イスラエルを治めたのが2年とはどういうことでしょう。

 

 そのことについて、3章1節に「ユダの王ヨシャファトの治世第18年に、アハブの子ヨラムがサマリアでイスラエルの王となり」とあり、ヨラムはアハズヤの治世2年目に、病気になったアハズヤと共にイスラエルを共同統治することになり、ヨシャファトの子ヨラムの治世第2年にアハズヤが死んで、アハブの子ヨラムが正式にイスラエルの王となったということでしょう。

 

 いたずらに主を悲しませないよう、主の御前に謙って日毎に主の御言葉に耳を傾け主の御業に励む者とならせていただきましょう。そのため、心を一新し、主が望まれるままに自分を造り変えていただきましょう。

 

 主よ、あなたは深い憐れみのゆえに、御子キリストの十字架の死によって私たちの罪を贖い、神の子として生きる道を開いてくださいました。それは、まったく一方的に与えられた主の恵みです。その恵みに感謝し、常に主の御名をほめ讃えます。常に私たちを聖霊に満たし、福音宣教の使命を全うさせてください。 アーメン

 

 

「渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。『わたしがあなたのもとから取り去られる前に、あなたにために何をしようか。何なりと願いなさい』。エリシャは、『あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください』と言った。」 列王記下2章9節

 

 エリヤが天に上げられるときが来ました。ギルガルを出て(1節)、エリヤはエリシャに「主はわたしをベテルにお遣わしになるが、あなたはここにとどまっていなさい」と告げると、エリシャは「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。わたしはあなたを離れません」と答え、共にベテルに下って行きます(2節)。

 

 ベテルで預言者の仲間たちが、エリヤが取り去られることを知っているかとエリシャに尋ねると、「わたしも知っています。黙っていてください」(3節)と答えます。「預言者の仲間たち」とは「預言者たちの息子たち」(ブネイ・ハ・ネビーム)という言葉です。

 

 同様のやり取りが、その後2度、エリコとヨルダン川のほとりで繰り返されます(4,5節、6,7節)。「預言者の仲間五十人もついて行った」(7節)とは、ベテルとエリコの預言者の仲間たちがついて来ていたということでしょう。そしてそれは、エリヤを呼びに遣わされたアハズヤの使者たちと同じ数です。

 

 ギルガル(1節)からベテル(2節)、エリコ(4節)、そしてヨルダン川へ(7節)という行程は、何を意味するものでしょうか。ヨルダン川を渡ってギレアドの地に向かうのが目的であれば、西のベテルに向かってから、ギルガルの数km南にあるエリコに戻って来るという旅は不用でしょう。

 

 どこまでエリヤについて行くのか、エリヤの後継者となるエリシャの覚悟が問われているかのようです。そして、預言者の仲間たちは、エリヤからエリシャへのバトンタッチのときに何が起こるのか、目撃する役割を担っているようです。「黙っていてください」(3,5節)とは、黙って見ていなさいということでしょう。

 

 ヨルダン川のほとりに立ったエリヤが外套で水を打つと、ヨルダン川の水が分かれました。二人は乾いた土の上を向こう岸に渡ります(8節)。預言者の仲間たちは遠く離れて立ち止まったままのようです(7節)。

 

 そこで、冒頭の言葉(9節)のとおり、エリヤがエリシャに願い事を尋ねると、エリシャは「あなたの霊の二つの分をわたしに受け継がせてください」と求めました。「あなた(エリヤ)の霊の二つの分」というのは、エリヤの2倍の霊の恵みを求めているということではないでしょう。

 

 長男は、弟たちの二倍の遺産を受け取る権利(長子権と呼ばれる権利)を持っていました(申命記21章17節)。だから、「あなたの霊の二つの分を受け継がせてください」というのは、その長子の権利をエリシャが求めたということで、それは、エリシャがエリヤの後継者となりたいという強い意欲を示していることになります。

 

 それを聞いたエリヤは、「あなたはむずかしい願いをする」(10節)と言います。誰がエリヤの後継者となるのかということは、主なる神がお決めになることで、エリヤがその願いをかなえてやることは出来ないということでしょう。

 

 また、エリヤの後継者となれば、困難を背負うことになるという意味もあるでしょう。そのときエリヤは、かつて自分がカルメル山上でのバアルの預言者との戦いを勝利した後、その使命を投げ出そうとしたという経験について、思い起こしていたのかも知れません(列王上19章参照)。

 

 そして、自分が取り去られるのを見たならば、願いが叶えられる、それを見なければ叶えられないと告げます(10節)。それは、モーセが神の後ろ姿を見て、イスラエルの民を率いるおのが使命を確認したように(出エジプト33章参照)、エリヤのような預言者の使命について、エリシャに悟らせるためだったのでしょう。

 

 あらためて、エリヤがエリシャと共にギルガルを出てベテルへ(1節以下)、ベテルからエリコへ(4節以下)、そしてヨルダンに行き(6節以下)、ヨルダン川の水を分けて乾いた土の上を向こう側へ渡ったのは(8節)、かつてモーセが取り去られて、後継者ヨシュアが約束の地に渡ったのとほぼ逆コースです(ヨシュア記3,6,7,10章)。

 

 モーセはヨルダンの東、ギルガルの地で死にましたが、どこに葬られたのか、知る者はいません(申命記34章6節)。その時モーセは120歳でしたが、目はかすまず、活力も失せてはいなかったと記されています(同7節)。神が取られたので、いなくなったのです。そして、ヨシュアがモーセの後継者として立てられ(ヨシュア記1章2節以下)、イスラエルの民を約束の地へ導きました。

 

 エリヤも、モーセと同様に神が取られました(11,12節)。エリヤが嵐で天に取り去られる様子の一部始終をエリシャは目撃しました(12節)。一連の出来事でエリヤの後継者としての決意が試されたエリシャでしたが、エリヤの最期を見届けて、預言者の使命を確認したエリシャが、ここに正式にエリヤの後継者とされたのです。

 

 そのときエリシャは「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」(12節)と叫びました。外敵との戦いにおいて、イスラエルを勝利に導くのは、戦車や騎兵の数、力ではなく、主が共におられ、イスラエルのために戦ってくださるかどうかです(申命記20章1節、サムエル記上14章6節、17章47節、詩33編16,17節など)。

 

 預言者は、主の言葉を託されて働く者です。エリシャがエリヤを「父」、「イスラエルの戦車」、「騎兵」と呼んだのは、エリヤがまさに主に力を託されて、武具で身を固めた敵軍に対するイスラエルの守りだと評し、その方を「父」と呼んで、自分がその方の使命を引き継ぐ者となると宣言したのです。

 

 そのエリシャの許に、エリヤの外套が落ちて来ました(13節)。これはかつて、神がエリシャをエリヤの後継者に選ばれたとき、一度エリヤから投げかけてもらったものです(列王上19章16,19節)。はっきりと分かる形で、エリシャがエリヤの後継者として立てられたことが示されています。

 

 エリシャはその外套を取り上げて、エリヤがやったようにヨルダンの水を分け、渡ることが出来ました(14節)。エリコの預言者の仲間たちは、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」(15節)と言い、迎えに出てその前にひれ伏しました。

 

 主イエスは「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9章23節)と招かれました。私たちは、主の御前に自己推薦出来るような存在ではありませんが、主は私たちを選び、主の業を行って実を結び、その実がいつまでも残るように、任命してくださいました(ヨハネ15章16節)。

 

 日毎に主を仰ぎ、主の御声に耳を傾けましょう。絶えず聖霊に満たされ、力を受けて主の御旨に従って歩ませていただきましょう。

 

 主よ、御子キリストの十字架の贖いによって救いに与り、神の子とされました。私たちにも、他者のための十字架が用意されています。背負う力を持ち合わせてはいませんが、御言葉と御霊の助けにより、委ねられた使命を果たすことが出来ますように。そうして主の御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「エリシャは言った。『わたしの仕えている万軍の主は生きておられる。わたしは、ユダの王ヨシャファトに敬意を抱いていなければ、あなたには目もくれず、まして会いもしなかった。』」 列王記下3章14節

 

 アハブの死後、モアブの王メシャがイスラエルに反旗を翻しました(4,5節、1章1節)。アハブの子ヨラムは、ユダの王ヨシャファトに援軍を頼みます(6節以下)。彼らはなぜか、エドムの荒れ野を迂回する道を進みます(8節)。9節に「ユダの王およびエドムの王と共に出発した」とあるので、エドムの王にも支援を願ったということのようです。

 

 サマリアから東にモアブの地を目指したのではなく、エドムの荒れ野、即ち死海の南方を迂回する遠回りをして七日を費やすことになり、部隊と連れている家畜のための水が底をつきました(9節)。ヨラムは「ああ、主はこの三人の王をモアブの手に渡すために呼び集められたのか」(10節)と言います。主に背いているという自覚を持っていたわけです。

 

 そのときヨシャファトが、「ここには我々が主の御旨を尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」(11節)と尋ねました。これは、かつてヨラムの父アハブがヨシャファトに向かって、ヤベシュ・ギレアド奪還のため共に出陣しようと願ったときと全く同じ状況です(列王上22章5,7節)。

 

 しかしながら、ヨラムとヨシャファトは前述のとおり、死海の南を迂回しているわけです。それは勿論ユダの南方なので、その近辺にいる主の預言者の情報については、イスラエルの王ヨラムよりも、ユダの王ヨシャファトの方が詳しいはずです。

 

 にも拘わらず、「ここには我々が主の御旨を尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」と、ヨラムに尋ねているということは、この地に主の預言者がいるかどうかではなく、主の預言者がモアブの王メシャに戦いを挑めと告げたのか、その預言者はヨラムと同行して、今ここにいるのかと尋ねているということだろうと想像します。

 

 その問いに、ヨラムの家臣の一人が「ここには、エリヤの手に水を注いでいた、シャファトの子エリシャがいます」(11節)と答えました。「エリヤの手に水を注いでいた」というのは、エリヤに近く仕えていたということでしょう。ヨシャファトはそれを聞いて、「彼には主の言葉があります」(12節)と言います。

 

 ヨシャファトがどこでサマリアにいる預言者エリシャのことを知ったのかは、不明です。けれども、絶えず主の御旨を尋ねようとするヨシャファトの姿勢に、彼の父アサが主の目にかなう正しい道を歩んだように(列王記上15章11節)、ヨシャファトも主の道をまっすぐに歩んでいたということを、確認することが出来ます(王上22章43節)。

 

 ですから、ヨシャファト自身、常に主の御旨を問うために、傍らに預言者を置いていたでしょうし、そうした預言者から、北イスラエルの預言者エリシャの風評を聞くことがあったかも知れません。あるいは、エリヤのことを知っていて、彼に仕えていたというのであれば、主の言葉を語るに違いないと考えたのでしょう。

 

 そこで、エリシャのもとに下って行くというのですが(12節)、死海の南を迂回してモアブに向かっていた彼らが、水がなくて困っていたというのに、再びサマリアに戻ってエリシャを訪ねるというのは、考え難いところです。ここにエリシャがいますという家臣の答えから(11節)、何らかの理由でエリシャがエドムの荒れ野まで、足を延ばして来ていたのでしょう。

 

 エリシャのもとに行ったとき、彼はヨラムに、父母の預言者たちのところへ行けと言いました(13節)。ヨラムの父アハブ、母イゼベルに仕えていた預言者が主の御言葉を告げる預言者でなかったことが、ここでも確認されます。ヨラムは両親ほどではありませんでしたが(2節)、ネバトの子ヤロブアムの罪を犯し続け、それを離れようとしてはいませんでした(3節)。

 

 ヨラムはエリシャに「モアブの手に渡そうとしてこの三人の王を呼び集められたのは主だからです」(13節)と答えています。現状を主の裁きのように捉えているのです。そこで、この瀕死の状況において、どのようにすれば良いのか、主の御旨を問うために、主の預言者エリシャの許に来たのだというわけです。

 

 その時エリシャは、冒頭の言葉(14節)のとおり、ユダの王ヨシャファトに敬意を抱いていなければ、ヨラムに会いもしなかったと言いました。エリシャがこのとき、もしも会見を拒否したままであれば、どうなったのでしょうか。神の御旨は告げられず、命の水を得られないまま、悲惨な最期を遂げることになったのかも知れません。

 

 エリシャは、楽を奏する者を連れて来るように求め(15節)、彼らが演奏を始めると、主の御手がエリシャに臨みました(15節)。確かに主は、イスラエルの賛美を受けられる方です(詩編22編4節)。そこに、ご自身の臨在を示されました。

 

 主は、「この涸れ谷に次々と堀を造りなさい」(16節)と言われ、続けて「風もなく、雨もないのに、この涸れ谷に水があふれ、あなたたちは家畜や荷役の動物と共にそれを飲む」(17節)と約束されました。

 

 そして翌朝、その言葉のとおり、その地が水で満たされました(20節)。カルメル山でエリヤに火をもって答えられた神は(列王上18章30節以下、38節)、雨を降らせ、命の水をお与え下さるお方なのです(同41節以下参照)。

 

 モアブの人々は、その水が血のように赤いのを見て(22節)、「これは血だ。王たちは自分たちどうしで争い、討ち合ったにちがいない。モアブよ、今こそ奪うときだ」(23節)といって突進して行きましたが、さんざんな返り討ちに遭いました(24節)。そこで、エドムの王に向かって最後の攻撃を仕掛けますが、これも失敗に終わりました(26節)。

 

 最後にモアブ王は、長男を城壁の上で焼き尽くすいけにえとしてモアブの神ケモシュもにささげました。すると、イスラエルに対して激しい怒りが起こり、イスラエルはそこを引き上げて自分の国に帰ったと言われます(27節)。

 

 全く思いがけない結末です。激しい怒りの持ち主がだれなのか、明言されません。モアブ王メシャでしょうか。モアブの神ケモシュでしょうか。それとも、主が憤られたのでしょうか。そもそも何を怒られたのでしょう。詳細は語られません。ただ、ネバトの子ヤロブアムの罪を離れ、悔い改めて命の水をお与えくださる主に立ち帰るよう求められているのではないでしょうか。

 

 主イエスは「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました(ヨハネ4章13節)。また、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(同7章37,38節)と言われています。

 

 常に主の御言葉を慕い求め、命の水に与らせていただきましょう。

 

 主よ、私たちはあなたを離れて誰のところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。命の言葉なる主を信じ、聖霊に満たされて、永遠の命に至る水が泉となって湧き出で、生きた水が川となって流れ出ますように。主に従う者の上に、主の恵みが常に豊かにありますように。アーメン

 

 

「彼は言った。『外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。空の器をできるだけたくさん借りて来なさい。』」 列王記下4章3節

 

 4章には、「エリシャの奇跡」という小見出しがつけられています。そこには、負債からの救済(1~7節)、死から命へ(8~37節)、有害物質の除去(38~41節)、百人の給食(42~44節)という、エリシャによってなされた四つの奇跡が記されています。いずれも、死から命へ、絶望から希望へという共通のテーマを持っています。

 

 最初の「負債からの救済」という奇跡は、預言者仲間の一人が亡くなり、その後、債権者がやって来て、子ども二人を負債のかたに連れ去り、奴隷にしようとしていると、その預言者の妻が訴えたことに対して(1節)、エリシャが行ったものです。

 

 エリシャが、あなたの家に何があるのかと尋ねると、彼女は「油の壺一つのほか、はしための家には何もありません」(2節)と答えます。彼女の家に残っているものは、本当にごく僅かです。家財道具から一切合財、債権者に持って行かれたというところでしょうか。油の壺一つだけでは、殆ど何の助けにもなりません。

 

 けれども、それを聞いたエリシャは、「外に行って近所の人々皆から器を借りて来なさい。家に帰ったら、戸を閉めて子供たちと一緒に閉じこもり、その器のすべてに油を注ぎなさい。いっぱいになったものは脇に置くのです」(3,4節)と彼女に告げました。

 

 そこで、彼女は家の戸締まりをし、二人の子らは空の器を集めて来ました。そして、彼女が集められた空の器に壺の油を注ぎます(5節)。驚くべきことに、壺の油は尽きません。集められた器はすべて満たされました。「もっと器を持っておいで」と彼女が言うと、子どもたちは「器はもうない」と答えました。すると、油は止まりました(6節)。

 

 それを神の人エリシャに報告すると、エリシャは「その油を売りに行き、負債を払いなさい。あなたと子どもたちはその残りで生活していくことができる」(7節)と言いました。

 

 アハブの御世、3年にわたる旱魃が続いている中、サレプタの貧しいやもめを、エリヤが救ったことがありました(列王記上17章8節以下)。そのとき、底をついていた壺の粉と瓶の油が、その後、再び雨が降って地に実りが与えられるまで、幾日食べてもなくならないという奇跡が行われました(同16節)。

 

 また、ギルガルの地が飢饉に見舞われていたとき(38節)、一人の男が初物のパン、大麦パン20個と新しい穀物を袋に入れて、エリシャのもとに持って来ました(42節)。それを人々に与えて食べさせるよう命じると、「食べきれず残す」(43節)と言われた主の言葉のとおり、百人もの人がそれを食べて食べきれず、残すという奇跡もありました(44節)。

 

 これらの箇所に見る、ごく僅かなものですべての必要を満たされただけでなく、多くのものが余るというのは、男だけでも5000人いるという大群衆の腹を五つのパンと二匹の魚というごく僅かなもので満たし、残りを集めると、12の籠に一杯になったという、主イエスが行われた奇跡の物語を思い起こします(マルコ6章30節以下など)。

 

 また、この出来事から、主の恵みについて教えられます。彼女らには、負債を返す力がありませんでした。だれかにその負債を肩代わりして貰わない限り、子どもを奴隷として売るしかなかったのです。しかも、負債を返し終えさえすれば、それでよいというわけではありません。

 

 そもそも、預言者の夫が負債を残して亡くなり、それが返せなかったわけです。負債がゼロになっただけでは、明日からまた借金生活が始まってしまいます。だから、借金がゼロになった後の生活がきちんと出来る仕組みや備えが必要なのです。

 

 私たちの信仰において、負債とは罪のことです(ルカ11章4節参照)。粉飾して、負債などないという顔をしている人でも、神の御前に、負債のない人、罪を犯したことがないと言える人などいません(詩編14編1節以下)。

 

 そして、誰も自分の力ですべての負債を返すことができません。だから、神の御子キリストが十字架にかかり、私たちの負債をすべて、支払ってくださいました。けれども、借金体質がそのままでは、再び借金生活に逆戻りです。そうならないように、収入を確保できる仕組み、借金を産まない体制が必要です。

 

 主なる神は私たちに、別の助け主として真理の御霊、聖霊を送ってくださいました。私たちは、私たちといつまでも共にいてくださる聖霊の力を受けて、新しい歩みをすることが出来るのです(ヨハネ14章16,26節、15章26節、16章8節以下)。主イエスを信じて罪赦された今、聖霊の満たしと導きを求めましょう。

 

 もう一つ、預言者エリシャが隣近所からたくさんの空の器を集めさせ、その器を油で満たしました。そして、すべての器を満たしたとき、油は止まってしまいました。空の器がなくなったからです。用意された器の分だけ、油が注ぎ出されました。

 

 ここで、器は私たちの必要であり、壺の油はそれを満たす主の恵みであると考えます。私たちが器を満たしてくださいと主に祈り願うと、主はその祈りに答えて、恵みを注いでくださいます。隣近所から空の器を集めなさいというのは、家族や隣人の救いを求め、恵みを求めて執り成しの祈りをせよということにもなるでしょう。

 

 空の器を主のもとに持ち出せば、すべて恵みで満たして頂くことが出来ます。集めた器をすべて満たせば、油は止まってしまいます。無尽蔵の主の恵みで、家族親族、知人友人が満たされるよう、祈り願いましょう。そうして、日毎の御言葉と祈りを通していただいた恵みを、隣人のために用いさせていただきましょう。

 

 主よ、日々御言葉を通して新たな恵みを示してくださり、感謝します。私たちの家族、隣人がすべて、主の救いの恵みに与りますように。心も体も健康で、日々充実した生活が出来ますように。生活の必要がすべて満たされますように。仕事が祝されますように。そのことを通して、いよいよ主の御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。」 列王記下5章14節

 

 新共同訳聖書は、5章も「エリシャの奇跡」という見出しで括る大きな段落に入れています。ここは、アラムの将軍なあ万に起こった出来事が記されています。1節に「アラムの王の軍司令官ナアマンは、主君に重んじられ、気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからである」と記されています。

 

 イスラエルに敵対するアラムの将軍ナアマンが、主君に重んじられ、気に入られていた理由を、「主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたから」と語っているということは、主はご自身の御旨を行われるために、イスラエルに敵対しているような者をも用いられるということです。

 

 しかも、「彼らはイスラエルの地から一人の少女を捕虜として連れて来て」という2節の言葉から、アラムの勝利はイスラエルに対するものだったということです。主に従わないイスラエルがアラムに対して反抗するように導き、それに対し、敵軍の将ナアマンが主の御名を呼び、助けを求めたので、主がアラムに勝利を与えられたというところでしょうか。

 

 ところで、ナアマンは重い皮膚病を患っていました(1節)。彼の妻が召使いにしていたイスラエルの少女が(2節)、「御主人様がサマリアの預言者のところにおいでになれば、重い皮膚病をいやしてもらえるでしょうに」(3節)と女主人に告げました。それをナアマンがアラムの王に伝え(4節)、イスラエル行きの許可を得ます(5節)。

 

 ナアマンは、アラムの王から委ねられた親書と、銀10キカル(342kg≒2千万円)、金6千シェケル(68.4kg≒3億3千5百万円)、着替えの服10着という贈り物を携え、イスラエル王の許にやって来ました(5,6節)。その親書を読んだイスラエルの王は衣を裂き、これはアラムの王の陰謀だとばかり、感情を露わにします(7節)。

 

 そのことを伝え聞いた預言者エリシャはイスラエルの王に、自分のところにナアマンをよこすよう進言します(8節)。そして、やって来たナアマンに使いを遣って、「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」(10節)と言わせます。

 

 アラム王の親書を携え、多くの贈り物をもってイスラエルまでやって来たナアマンは、顔を見せようともしないエリシャのやり方が礼を失していると憤慨し、「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」(11,12節)といって国へ帰ろうとします。

 

 けれども家来たちは、「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか」(13節)と執り成します。つまり、命じられたのは大変なことではないのだから、やってみてはどうかとナアマンに勧めたわけです。

 

 ナアマンは家臣の勧めを受け、思いを変えて冒頭の言葉(14節)のとおりヨルダン川に下り、エリシャに指示されたとおり川に七度身を浸しました。それは確かに、やろうとして出来ないような難しいものではありません。実行できました。

 

 ナアマンが腹を立てたのは、エリシャが自分に対して敬意を示さないこと、彼の命じたことが余りにも簡単で、それで本当に清くなると考えることが出来なかったからでしょう。王に重用されている軍の司令官という立場、彼のメンツが、一預言者の言葉に従うことを難しくしたのです。

 

 しかし、彼は部下の諫めを受け入れ、エリシャの言葉に従いました。すると、彼の体は元に戻り、清くなりました(14節)。体が元に「戻った(シューブ)」のを見たナアマンは(14節)、エリシャのところに「引き返す(シューブ)」(15節)という語呂合わせがここにあります。

 

 自分を出迎え、対面して癒しを行おうとしなかったエリシャに憤慨して立ち去ろうとした将軍ナアマンが、身の清めを経験して、エリシャの言葉が確かに神の言葉であることを悟りました。彼は、随員全てを連れてエリシャの前に立ち、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」(15節)と、その信仰を言い表しています。

 

 さながら、エリシャの臣下に入ろうかというような振る舞いです。ナアマンが神の恵みを味わうためには、謙ること、忠実に御言葉に従うことが求められました。一度だけではなく、七度身を浸すというのも、七が完全数で、主の御言葉に完全に従えという表現と考えられます。

 

 また、洗う度にだんだん清くなったというのではなく、七度身を浸し、川の水で七度身を洗って初めて清められたのです。そうして主の恵みを受けるため、彼の従順と忍耐が試されたわけです(ヘブライ書10章36節参照)。

 

 主イエスの母マリアは、「お言葉どおり、この身に成りますように」(ルカ1章38節)と答えました。主イエスもゲッセマネで「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(同22章42節)と祈られました。私たちも神の恵みに与るために、絶えず謙遜と従順が試されています。

 

 日毎に開かれる主の御言葉の前に、常に謙遜と従順をもって歩ませていただきましょう。

 

 主よ、ナアマンが七度洗ってその身が清められたように、私たちの心を繰り返し御言葉で清めてください。人知を超えた神の平安で、私たちの心と考えを絶えず守ってください。主の恵みが常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「そのうちの一人が梁にする木を切り倒しているとき、鉄の斧が水の中に落ちてしまった。彼は、『ああ、ご主人よ、あれは借り物なのです』と叫んだ。」 列王記下6章5節

 

 預言者の仲間たちがエリシャに、今住んでいる場所は狭すぎるので、大きな家を建てるため、ヨルダンに材木を切りに行きましょうと言います(1,2節)。預言者仲間が共同生活をしていた場所は、ベテル(2章3節)、エリコ(同5節)にもありますが、4章38節とのつながりから、ギルガルと考えるのが妥当であろうと思います。

 

 ただ、エリシャはサマリアに家があることが報告されており(2章25節、5章3,9節)、その私邸のほかに、預言者仲間と共に生活する公邸があると考えたらよいのでしょうか。その場所が狭くなったということは、エリシャを指導者と仰いで集い来る預言者の数が増加して来たということです。

 

 歴代の王たちがなかなか主なる神の御声に耳を傾けようとしない北イスラエルにあって、エリシャのもとに預言者が集うということは、御声を正しく聴きたいと思う者が増えているということであり、王を初め北イスラエルの民に主の御言葉を正しく告げ知らせる働き人が、より多く求められているということなのでしょう。

 

 主イエスが、「収穫は多いが働き手が少ない」(マタイ9章37節)と仰いましたが、収穫が多いというのは、問題,課題が多いということでもあります。だから、多くの働き手を必要としているわけです。

 

 家を増築するための材木を集めるため、木を切りに行くという申し出を受けて、「行きなさい」(2節)と応じたエリシャでしたが、預言者の一人が、「どうぞあなたもわたしたちと一緒に来てください」(3節)と懇請します。「一人」には、定冠詞が用いられているので、預言者仲間の代表ということでしょう。

 

 そして、新共同訳で「わたしたち」と訳されているのは、「あなたの僕たち」(アブデイハー)という言葉で、5節の「ご主人」(アドニー:「わたしの主人」の意)と共に、上下関係を強調する表現になっています。

 

 新改訳は「どうぞ」を「思い切って」と訳して、その願いの強さを表現しています。預言者集団のトップとして、当然同行すべきだということなのでしょうか。あるいは、以後不測の事態が起こることを予感してということなのかも知れません。委細は不明ですが、その強い要請にエリシャは、「わたしも行こう」と応じました。

 

 ヨルダンで材木となる木を切り出している最中に、一人の者が手を滑らして、鉄の斧を水の中に落としてしまいました(5節)。その斧は借り物でした。当時、鉄は貴重品で、簡単に手に入れることが出来ません。貧しい預言者仲間には、到底買えるような代物ではなかったと思われます。だから、木を切るために、どこかから借りて来ていたわけです。

 

 斧を落とした者は、冒頭の言葉(5節)の通り「あれは借り物なのです」と叫びました。借りて来たものを、返せませんで済ませるわけにはいきません。買って返すお金もないとなると、どうしたらよいのでしょうか。エリシャに助けを求めるほか、何をすることも出来ませんでした。

 

 助けを求める声を聞いたエリシャは、「どこに落ちたのか」と尋ね、示された場所に枝を切って投げ込みました(6節)。すると、なんと鉄の斧が浮き上がったのです。そこで、浮き上がった斧を拾い上げさせました(7節)。あり得そうにないことが起こって、窮地を脱することが出来たのです。

 

 借り物は、必ず返さなければなりません。主イエスがファリサイ派などの人々から、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか」(マルコ12章14節)と尋ねられたとき、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(同17節)とお答えになりました。

 

 考えてみてください。私たちの人生において、これは自分のものと主張することが出来るものがあるでしょうか。一時期、所有することは出来ても、手放すときがやって来ます。つまり、すべて預かりもので、返すべき時がやってくるのです。

 

 私たちにとって最も大切な、なくてならないもの、それは命です。まさに命こそ、神からの預かりものです。だから、清算のときがきます。その時、「これは借り物だったのに、取り返しのつかないことをしてしまった」と叫ばずにすむ生き方が出来ているでしょうか。神からの預かりものなのに、罪の中に沈めてしまって自分ではどうしようもない。それが私たちの現実ではないでしょうか。

 

 しかし、神は私たちに救いの手を差し伸べてくださいます。エリシャが投げた木の枝は、私たちにとって、キリストの十字架を象徴しているようなものです。罪に沈んでいた私たちが、キリストの十字架の贖いによって、もう一度生き返ることが出来ました。自分で清算することの出来なかった罪の代価を、神の御子がご自身の命によって支払ってくださったのです。

 

 キリストによって新たにされた自分の人生を、まさしく神からの預かりものと覚え、「是非わたしと一緒に来てください」と願い、どんなことも「ああ主よ」と主に依り頼み、日々御言葉に聴きつつ歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、あなたの恵みと導きを感謝いたします。御子の命というかけがえのない代価をもって贖い出し、神のものとしていただきました。御霊の住まわれる神の宮として、御名の栄光のため、私たちのこの体を用いてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「王の介添えをしていた侍従は神の人に答えた。『主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう』。エリシャは言った。『あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない。』」 列王記下7章2節

 

 アラムの王ベン・ハダドが全軍を招集して、サマリアを包囲しました(6章24節)。ベン・ハダドとは、アラムの神である「ハダド」の息子という意味のアラム王の称号です。

 

 聖書中では、ユダの王アサの時代に、ベン・ハダド1世が登場します(列王記上15章18節)。それから、イスラエルの王アハブの代に出て来るのがベン・ハダド2世で(同20章1節)、今回と同じ人物です。

 

 アハブは、神の助けによってアラムを2度打ち破りましたが(同20,21節、29節以下)、そのとき、ベン・ハダドの助命の嘆願を受け入れて協定を結び(32節以下)、彼を安全に帰国させました(同34節)。

 

 その協定を破り、ベン・ハダドは三度目イスラエルに攻め込み、サマリアを包囲して兵糧攻めにしているわけです。サマリアは、大飢饉に見舞われた上にアラム軍による包囲で、まさに泣き面に蜂状態、大変なことになりました(列王記下6章25節)。

 

 そこで、イスラエルの王ヨラムは、エリシャに使者を遣わし、エリシャの首をはねさせようとします(同31節)。それは、ヨラム王が、この大艱難が主によって引き起こされたものと考えていて(同33節)、それゆえ、主の預言者にその怒りをぶつけようとしているわけです。

 

 しかし、主がイスラエルに艱難を与えているのであれば、エリシャを殺したところで、それが止む道理はありません。むしろ、主を畏れないその行為が、主の怒りの炎に油を注ぐ結果になるだけです。ヨラムに求められているのは、主を畏れ、その御前に謙ることでしょう。

 

 しかるにエリシャは「明日の今頃、サマリアの城門で上等の小麦粉1セアが1シェケル、大麦2セアが1シェケルで売られる」(1節)と告げます。1シェケルが現在の貨幣価値でいくらになるのか分からないので、高いのか安いのか判別できませんが、しかし、穀物が売りに出るということは、飢饉とアラム軍という大艱難を脱出できるということです。

 

 ところが、王の介添えをしていた侍従は、エリシャの告げる主の御言葉を信用しません。冒頭言葉(2節)のとおり「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」と答えています。それは、侍従だけでなく、ヨラム王も、そしてアラム軍に包囲されているサマリアの町の住民も、同様だったのではないでしょうか。

 

 そのとき、都の城門の入り口に重い皮膚病を患う者が4人いて、このままここに座して死を待つよりも、アラム軍に投降しよう。うまくいけば生き延びることが出来るかも知れないと考えて、立ち上がりました(3,4節)。ところが、アラムの陣営に近づいてみると、そこはもぬけの殻でした(5節)。

 

 それは、主が戦車や軍馬、大軍の音をアラムの陣営に響き渡らせられたので、イスラエルがヘト人の諸王やエジプトの諸王に援軍を頼んだのだと恐れ(6節)、アラム軍は取るものも取り敢えず、逃げ去ってしまったのでした。あとには、天幕も馬もロバもそのまま残されていました(6,7節)。

 

 重い皮膚病を患っている者たちは、一つの天幕に入って思う存分飲み食いし、金品を隠して自分のものにしようとしましたが(8節)、この事実を隠したままいるなら、神の罰を受けるに違いないと考えて、これを王家の人々に知らせようとサマリアの町に戻り(9節)、情報を門衛に伝えます(10節)。

 

 門衛はそれを王家の人々に知らせました(11節)。知らせを聞いた王はしかし、これをアラム軍の策略と考え、重い皮膚病を患う者たちのもたらしたよい知らせを、にわかに信じることが出来ず、それは町から出て来た者たちを捕らえ、町に攻め入ろうとするアラム軍の策略だと家臣たちに告げました(12節)。

 

 そこで家臣の一人が、偵察隊を出しましょうと進言します(13節)。そして、偵察隊が派遣されることになりましたが、彼らが出て行って見たのは、重い皮膚病を患う者たちが知らせたとおりで、軍勢を追撃してヨルダンまで行きましたが、その道の至るところに、敗走するアラム軍の衣類や武具が捨てられていました(15節)。

 

 偵察隊の報告を聞いた民は、アラムの陣営に行って略奪をほしいままにし、主の告げられた言葉の通り、食料が城門で売られるようになりました(16節)。サマリアを取り囲んでいたアラム軍は、どれほどの大軍だったことでしょうか。

 

 王は、侍従を城門の管理に当たらせましたが、殺到した民衆に踏み倒されて死んでしまいました(17節)。エリシャが、「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない」(2節)と言っていたとおりです。預言者の言葉を信用しなかっただけでなく、主なる神にもそんなことは出来ないと、主を侮る発言をしたからでした。

 

 エリシャの告げた主の言葉をヨラム王が信じていれば、重い皮膚病を患う者たちの報告を疑うことはなかったでしょう。また、もしも偵察隊を出そうという家臣がいなければ、ヨラム王を初め、イスラエルの民は皆、いまだに空腹を抱え、座して飢え死にするのを待つばかりだったことでしょう。

 

 しかし、主なる神は、エリシャの告げた言葉を実現するために、アラム軍が兵糧を残して逃げ去るように計らわれ、それを重い皮膚病の者たちに発見させ、その報告を信じられない王のために、斥候を出すよう家臣に進言させ、そのようにして、エリシャの告げた福音が真実な主の言葉であり、イスラエルにまことの神、主がおられることを、明示したのです。

 

 イスラエルにそのように食料がもたらされたのは、ヨラムが悔い改めたからでも、イスラエルの民が主に助けを求めたからでもありません。むしろ、飢饉にアラム軍の包囲という絶体絶命の状態になったのをエリシャの責任にして、彼の首をはねさせようとしたのです。ということですから、このように救いが示されたのは、主の一方的な憐れみというほかはありません。  

 

 主は繰り返し、私たちが命の道、義の道を歩むことが出来るように招かれます。その道を開かれます。ところが、そのような主の言葉を素直に信じることが出来ません。あまりにも現実に囚われているからです。あまりにも罪深く、主の御声を聴くことが出来ないからです。

 

 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)と、私たちを信仰へと招かれる主の御前に謙り、常に主の御言葉に耳を傾けましょう。御旨に従い、主の御業に励む者とならせていただきましょう。

 

 主よ、深い憐れみをもって私たちを招き、導いていてくださり、感謝致します。日々主の御前に謙り、御言葉に耳を傾け、御霊の導きに従って歩み、その祝福に与ることが出来ますように。弱い私たちを助け、信仰に歩ませてください。 アーメン

 

 

「ハザエルは、『この僕、この犬にどうしてそんな大それた事ができましょうか』と言ったが、エリシャは、『主はあなたがアラムの王になることをわたしに示された』と答えた。」 列王記下8章13節

 

 アラムの王ベン・ハダドが病気になり(7節)、その病気が治るかどうか、ダマスコを訪れていた預言者エリシャに尋ねます。直前に、イスラエルとアラムの戦争があり(6章8節以下)、神の人エリシャによってアラム軍の作戦が見透かされるというので(同12節)、彼を捕らえるために大軍を差し向けたりもしています(同14節)。

 

 何度も悔しい思いをさせられた相手に、使者を送るとはどのような心境なのかとも思います。しかし、前に軍の司令官ナアマンの重い皮膚病をエリシャに癒してもらったことがあったので(5章)、自分も癒して欲しい、元気になりたいという願いがあったのでしょう。だから、贈り物を持たせて、主の御旨を尋ねさせたのです(8節)。

 

 そのとき、ベン・ハダドが遣わした使者が、ハザエルです(8節)。エリシャはハザエルに、「行って王に言うがいい。『あなたは必ず治る』と。しかし、主は彼が必ず死ぬことをわたしに示された」(10節)と告げます。

 

 そして、エリシャはハザエルの顔をじっと見つめて、泣き出します(11節)。それは、必ず治るはずのアラムの王ベン・ハダドが、必ず死ぬことになるからということもあったと思います。しかしながら、それよりもハザエルによってイスラエルに大いなる災いがもたらされるということが、エリシャに涙を流させたのです(12節)。

 

 その涙の理由を尋ねた後のハザエルとエリシャとのやりとりが、冒頭の言葉(13節)です。つまり、アラム王ベン・ハダドに代わり、家臣ハザエルが王となって、イスラエルに災いをもたらすのだということです。ここに、ハザエルがどのようにして王になるのかということについては、何も記されていません。

 

 かつて、主がエリヤに「ハザエルに油を注いで彼をアラムの王とせよ」(列王記上19章15節)と告げられました。そのとき、エリヤがダマスコに赴いてハザエルに油を注いだという記事は、どこにもありません。また、エリヤの後継者エリシャが今ここで、ハザエルに油を注いだということでもありません。ただ、神の言葉として、彼がアラムの王になると予告したのです。

 

 王のもとに帰ったハザエルは、「必ず治ると彼(エリシャ)は言いました」(14節)と報告します。そして翌日、ハザエルは事故を装うかの如く、王ベン・ハダドの顔に濡れた布を乗せて暗殺し、代って自分が王となりました(15節)。エリシャの告げた言葉を、自らの手で実現するために、アラム王を暗殺するという手段を選んだわけです。

 

 神はなぜ、ハザエルに油を注げとエリヤに告げたのでしょうか。それは、12節に言われているように、ハザエルが王となって「砦に火を放ち、若者を剣にかけて殺し、幼子を打ちつけ、妊婦を切り裂く」という恐るべき災いを、イスラエルにもたらすためです。エリシャは、この言葉をハザエルに告げるため、わざわざダマスコを訪ねたわけです。

 

 この災いがイスラエルにもたらされることを知って,エリシャは泣き出したのです。だからといって、エリシャはハザエルが王にならないようにしたわけではありません。むしろ、上述のとおり、王となると予告しました。

 

 こうして、神はアラムを、イスラエルを試すために用いられます。危機にあってイスラエルが主なる神に信頼し、その御言葉に従おうとするか、それとも、自分の知恵や力などを頼みとするかを試すのです。

 

 そして、試練の中でイスラエルが神に信頼することがないとき、神はアラムを用いてイスラエルに敵対させ、イスラエルを打ち負かすようにさえなさるのです(列王記下8章28,29節、10章23節、12章18,19節、13章3,22節)。

 

 主は「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」(イザヤ書45章7節)と告げられます。私たちが主に背き、我が道を行こうとするとき、私たちに災いをもって臨まれます。

 

 そう告げられたのは、私たちに災いを下したいからではなく、義の道、平和の道を歩ませたいからです。また、主にあって災いを通過することで、忍耐や従順を学ばせられるのです。

 

 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ書5章8節)と言われます。そして主イエスは「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい(マタイ11章29節)」と告げて、主と共に重荷を担うよう招いておられます。

 

 パウロが、「キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1章29節)と言っているのは、そのことでしょう。

 

 さらに、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマ8章28節)とあります。それは、御霊なる神の働きです。

 

 主なる神は、ご自身の計画に従って私たちを召し出してくださいました。どのようなときにも、神を愛し、主に信頼する者たちのためには、神は万事を益に変えてくださる、どんなマイナスと見える出来事もプラスにしてくださるというのです。

 

 主を愛し、主に信頼して、その御言葉に耳を傾け、日々その導きに従いましょう。

 

 主よ、あなたはハザエルを用いてイスラエルを裁き、ネブカドレツァルを用いてユダを打ち、そしてキュロスを用いてバビロン捕囚から解放されました。御旨を行われるために、すべてのものが用いられます。私たちも主の御用のために用いていただきたいと思います。主に用いられる器として、整えてください。試練を耐え忍び、主を喜び、賛美することを教えてください。 アーメン

 

 

「ヨラムはイエフを見ると、『イエフ、道中無事だったか』と尋ねたが、イエフは答えた。『あなたの母イゼベルの姦淫とまじないが盛んに行われているのに、何が無事か。』」 列王記下9章22節

 

 ヨルダン川東部ギレアドの地、ラモト・ギレアドの領有を巡り、北イスラエルの王ヨラムの父アハブの時代から、隣国アラムとの間に戦争が断続的に行われていました(列王記上22章3節以下)。ヨラムはその戦いで傷つき、戦線を離れてイズレエルで療養しておりました(列王記下8章28~29節)。

 

 ときに、イスラエルの将軍イエフが、軍勢を率いてイズレエルにやって来ました(17節以下)。彼は、密かに預言者エリシャの遣わした従者によって油注がれ、ヨラムに代わって王となり、アハブの家を撃つよう命じられていました(6節以下)。

 

 将軍イエフを出迎えたヨラムは、彼が軍勢を率いて戻ってきたので、アラムとの戦いがどうなったのか気になり、冒頭の言葉(22節)のとおり、「イエフ、道中無事だったか」と尋ねます。「道中無事だったか」という言葉の原語は「シャローム」の一語です。口語訳は「平安ですか」、新改訳は「元気か」と訳しています。

 

 この箇所では、通常の挨拶ではなく、アラムとの戦いにおいて平和を獲得したのか、つまりラモト・ギレアドを巡る戦いに勝ったのかと問うているのではないでしょうか。先に2度騎兵をやってそれを尋ねさせたのに、応答がなかったということで、王自ら戦車を用意してイエフのもとに出向き、同じ問いをしているわけです。

 

 戻って来た将軍に対して、王自身が車を走らせて出迎えるというのは、およそ尋常なものではありません。イスラエルは無事なのか、この戦いに勝利したのかということが、いかに真剣な問いであったかということです。

 

 であれば、今現在、ヨラム自身のうちに「シャローム」、平安がない、不安と恐れの中にあるのだということをを窺い知ることが出来ます。つまり、無事だ、勝利したという福音・グッドニュースを聞きたい、それによって平安を得たいと考えているのです。

 

 その問いに対して、イエフは「イゼベルの姦淫とまじないが盛んに行われているのに、何が無事か」とヨラムに答えました。その言葉遣いは、およそ王とその家臣の会話とは思えません。

 

 イエフは、隣国との関係ではなく、主なる神との関係において「シャローム」を考えていました。主との間に真の平和がなければ意味がない。主のシャロームを破壊する者が国の中にいるなら、隣国に勝利したとしてもそれは無益だというわけです。真のシャロームを獲得するには、先ず、皇太后イゼベルの姦淫とまじないをやめさせなければなりません。

 

 イエフの意図を悟ったヨラムは、同行して来たユダの王アハズヤに「アハズヤよ、裏切りだ」(23節)と叫び、慌てて逃げ出しますが、イエフに射殺され(24節)、ナボトの畑に投げ捨てられます(25節)。それは、ヨラムの父アハブが、ナボトから奪い取ったもので、エリヤがアハブに告げていた裁きの言葉どおりです(26節、列王記上21章19節以下)。

 

 また、アハブの娘アタルヤを母に持つアハズヤも、逃げる戦車の中で傷を負い、メギドで命を落としました(27節)。さらに、ヨラムの母イゼベルも、偶像礼拝の罪を刈り取ることになりました(30節以下)。繰り返しエリヤによって断罪されていたのに、主の御前に悔い改めることをしなかったアハブの家系は、預言通りに滅ぼされてしまいました。

 

 どうすれば、真の平和を築くことが出来るのでしょうか。それは、イエフが語ったように、姦淫とまじないをやめること、それにかわって、先ず神の国と神の義とを求めることです(マタイ6章33節)。何よりも神を第一とすべきなのです。

 

 神の国を求めるとは、神に御支配頂くこと、神にお委ねすることです。神の支配のもとにある国、それが神の国です。心の中心に主を迎え、家庭や職場、学校、地域が神の御支配に与るように求めるのです。

 

 神の義とは、神との正しい関係です。絶えず神を崇め、神の前に謙ることです。神の義を求めるとは、神との関係を正しくしたいと願うこと、罪の赦しを求め、主の救いに与ることです。

 

 主イエスは、世の罪を取り除く神の小羊です(ヨハネ1章29節)。主イエスが私たちのために死なれ、神との関係を正しくしてくださいました。そしてキリストは、私たちに「アバ父よ」(ローマ書8章15節)と呼ぶ聖霊をお与えくださいました。私たちと神との正しい関係とは、神が私たちの真の父親となられ、私たちが真の神の子になることです。

 

 神と私たちとの関係が正しくなり、神が私たちと共に住み、私たちを御支配くださるとき、私たちに乏しいことはありません。必要なものはみな、加えて与えられると約束されているからです(マタイ6章33節)。こうして、神との関係がシャロームになるならば、隣国との関係においても神がシャロームをお与えくださるでしょう。

 

 キリストは、十字架を通して私たちを神と和解させ、十字架によってユダヤ人と異邦人とを一つに結んでくださいました。十字架の縦の棒は神と私たちを結ぶ架け橋、横の棒は私たちお互いを結ぶ架け橋です。そして、その中心にキリストがおられ、私たちを一つにしてくださるのです。

 

 主の招きに応え、主との真の平和に与るため、何よりもまず、神の国と神の義とを求めて主の御前に進みましょう。その御言葉に耳を傾けましょう。導きに従って歩みましょう。

 

 主よ、御言葉と祈りを通して、また、信仰の交わりを通して、希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださいますように。平和の源である神が、常に私たち一同と共におられますように。 アーメン

 

 

「『一緒に来て、主に対するわたしの情熱を見てください』と言った。二人は彼の戦車に一緒に乗り、サマリアに行った。」 列王記下10章16,17節

 

 ラモト・ギレアドで預言者の従者から油注がれて(9章6節)、イスラエルの王となったイエフは(同13節)、告げられた通りにアハブ家を撃ち滅ぼすため、アハブの子ヨラムを殺し(同14節以下、24節)、ヨラムを見舞っていたユダの王アハズヤ(アハブの娘アタルヤの子)を撃ち(同27節)、次いでアハブの妻イゼベルを殺しました(同30節以下、33節)。

 

 1節に、アハブには子どもが70人いたと、記されています。イゼベル以外にも多数の妻がいて、そのように多くの子を得たのでしょう。文字通り70人というよりも、完全数7と10の倍数で、たくさんの子どもということを示す概数といってよいでしょう。

 

 イエフは、サマリアの町の指導者たちに、アハブの子ら70人の中から最も優れた正しい指導者を立て、自分と戦えという手紙を送ります(1節以下、3節)。町の指導者たちはイスラエルとユダの王を撃ったイエフに恐れをなし(4節)、仰せに従うと、イエフに対する恭順の態度を示します(5節)。

 

 そこでイエフが、70人を残らず殺すよう彼らに命じると(6節)、ただちに実行されました(7節)。さらに、アハブの姻戚となっていたユダの王アハズヤの身内の者42人を殺しました(12節以下、14節)。それは、エリヤによってアハブに告げられた言葉のとおりでした(10,17節、列王上21章21節)。

 

 その後、イエフは、自分を出迎えに来たレカブの子ヨナダブに会います(15節)。聖書中、初めてここにレカブの子ヨナダブが登場して来ました。しかし、イエフとヨナダブは、既知の間柄でした。イエフがヨナダブに挨拶して、「わたしの心があなたに心に対して誠実であるように、あなたの心も誠実ですか」(15節)と尋ねたのは、その関係に変化がないか確認したのでしょう。

 

 さらに、冒頭の言葉(16節)のとおり、「一緒に来て、主に対するわたしの情熱を見てください」と語っている言葉から、イエフがヨナダブに、自分の行動を認めてもらいたいと考えているということが分かります。イエフの行動は、主に対する情熱によるものだというのです。

 

 だとすれば、ヨナダブは、主なる神に対する信仰において、イエフに一目置かれる教師のような存在であるということになるでしょう。そのことで、エレミヤ書35章6節に「父祖レカブの子ヨナダブが、子々孫々に至るまでぶどう酒を飲んではならない、と命じたからです」とあります。

 

 ヨナダブの子孫のレカブ人たちは、ヨナダブの言葉に従って禁欲的な生活を忠実に守って来たと語っています(同7節以下)。そして、それを引き合いに出しながら、主が、ヨナダブの一族は父祖の命じた命令を堅く守っているのに、ユダの人々が神の言葉を受け入れないのはなぜかと仰っています(同12節以下)。

 

 ここで主ご自身が、レカブ人ヨナダブとその一族の生き方を認め、賞賛しておられるのです。また、ヨナダブという名前は、高貴な主、寛大な主という意味です。ここにも、ヨナダブの家の主に対する信仰を見ることが出来るでしょう。

 

 ヨナダブは、アハブの家を滅ぼしたイエフの働きを認め、アブラムを祝福したメルキゼデクのように(創世記14章17節以下)、イエフを祝福するために出て来たのではないでしょうか。それは、エリヤを通して示されていた主の御心だったからです。二人は共にサマリアに向かい、アハブの家の者をことごとく撃ち殺して、一族を全滅させました(17節)。

 

 そして、イスラエルからバアルの預言者とバアルに仕える者たちを一掃するため、策を講じます。自分はアハブ以上にバアルに仕えるつもりだから、バアルのすべての預言者、祭司を自分のもとに集めよ、来ない者は生かしておかないと、すべての民に命じたのです(18節以下)。

 

 そして、バアルに仕える者が神殿に満ちたとき、イエフは近衛兵と侍従たちに命じて彼らを剣にかけて殺させ(25節)、神殿を破壊させました(26,27節)。かくて、イスラエルからバアルの預言者とバアルに仕える者たちを一掃したのです。それは主を喜ばせ、イエフの子孫4代にわたってイスラエルの王座に就くと約束されます(30節)。

 

 ただ、ネバトの子ヤロブアムの罪を離れず、ベテルとダンの金の子牛を退けなかったので(29節)、主なる神はイスラエルを衰退に向かわせ、アラム王ハザエルがイスラエルの領土を侵略し始めました(32節)。北イスラエル初代の王の過ちをだれも是正することができず、親の呪いが子々孫々に影響を与え続けているわけです。

 

 そうしたこともあり、自分の知恵や力で主に従うことを徹底するというのは、とても難しいもののようです。だからこそ、主の御前に謙り、その導きと助けに与る必要があります。 

 

 私たちも、主に対する情熱を見ていただくため、私たちの心と生活から、主の御前に相応しくないものを一掃しませんか。まず主イエスの御言葉に耳を傾けましょう。示される罪を主の前に告白し、主の血潮によって清めていただきましょう。聖霊を心に迎え、絶えず御霊に満たしていただきましょう。そして、心から主に向かって賛美をささげましょう。

 

 主よ、私の心を探ってください。御前に相応しくない思い、醜い考えを取り除いてください。キリストの血潮によって、すべての罪を赦し、汚れを清めてくださったことを感謝します。主の御言葉を心に豊かに宿すことが出来るよう、聖霊に満たし、その力と導きに与らせてください。 アーメン

 

 

「ヨヤダは、主と王と民の間に、主の民となる契約を結び、王と民の間でも契約を結んだ。」 列王記下11章17節

 

 南ユダの王アハズヤの母アタルヤは、北イスラエルの王アハブとその妻イゼベルの娘です。彼女が南ユダの王ヨラムの妻となったため(8章18節)、彼女を通してユダにもバアル信仰が持ち込まれました。ヨラムとその妻アタルヤの子アハズヤも、アハブの家と同様、主の目に悪とされることを行いました(同27節)。

 

 そのため、エリヤの預言のとおり(列王記上21章21節以下)、アハブの血を受け継ぐアタルヤの息子アハズヤはイエフに殺され(9章27節以下)、その一族にも難が及ぶことになったのです(10章12節以下)。

 

 皇太后アタルヤは、息子アハズヤの死を知り、ただちに王族をすべて抹殺しようとします(1節)。それはなんと、自分が南ユダ王国の支配者となるためで、邪魔になる者を排除しようとしたのです。そうしなければ、アハブ家の一員である自分の命が危ないということと、南ユダにおいてバアル信仰を守りたいと考えたのではないかと想像します。

 

 けれども、ただ一人、アハズヤの子ヨアシュだけは、ヨラム王の娘でアハズヤの妹ヨシェバによって救い出されました(2節)。ヨラム王の娘でアハズヤの姉妹ということは、アタルヤの娘でもあります。王族の抹殺という意味では、ヨシェバもその対象なのです。

 

 歴代誌下22章11節によれば、ヨシェバは祭司ヨヤダの妻となっていました。だから、バアル信仰推進者の母とは生き方を異にしていて、王子ヨアシュを母アタルヤの手から救いたいと考えたのでしょう。

 

 「乳母と共に」というので(2節)、ヨアシュはまだ生後間もない乳飲み子でした。そこで、アタルヤが国を支配していた6年間、主の神殿に隠して、養育していたわけです(3節)。

 

 7年後、祭司ヨヤダはアタルヤに対抗するため、カリ人と近衛兵からなる百人隊の長たちを味方につけ、ヨアシュを王とする組織を固めます(4節以下)。カリ人は小アジア南西部カリアの住民で、傭兵としてよく知られていたそうです。

 

 このように周囲を固めることが出来たので、ヨヤダはヨアシュを冠をかぶらせ、掟の書を渡しました(12節、申命記17章18,19節)。人々はヨアシュに油を注いで王とします。民は、「王万歳」と歓呼して、新しい王を迎えました(12節)。そして女王アタルヤは殺されます(13節以下、16節)。

 

 ただし、列王記の記者は、アハズヤの死後、王族を抹殺して自ら王位についたアタルヤを、南ユダの王として認めてはいないようで、一度も「王」と呼びません。前述のとおり、アタルヤがヨラムの后となってから、南ユダを主に背かせて来たことが、その要因でしょう。

 

 ヨアシュが即位したのは、7歳のときです(12章1節)。だから、主の祭司ヨヤダが摂政として指揮をとり、冒頭の言葉(17節)のとおり、もう一度、主とユダの王及び民との間に「主の民」となる契約を結ばせ、さらに、王と民との間にも、保護と忠誠の契約を結ばせました。

 

 この契約に基づき、民はバアル神殿を破壊し、像を徹底的に打ち砕きます(18節)。これは、主を愛し、主にのみ仕えるというユダの民の信仰の証しです。それから、ヨアシュを神殿から王宮に導き、王座に着けました。かくて、主なる神はエルサレムに平和をもたらされたのです(20節)。

 

 イザヤ30章15節に「お前たちは、立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」とありますが、祭司ヨヤダの指導と、その教えに従うヨアシュ王の働きによって(12章3節)、南ユダは悔い改めて主の前に立ち帰り、主に信頼する生活に戻って、神の恵みに与ることが出来たのです。

 

 こうして、北イスラエルでは王イエフにより(9~10章)、南ユダでは祭司ヨヤダの指導によって、国中でバアルが取り除かれ、ダンからベエルシェバまで主を信じ、主にのみ栄光を帰す体制が回復されました。

 

 けれども、大切なのは国家体制ではありません。イスラエルの民一人一人が、主を神とするのか、バアルを神とするのか、はっきりさせておかなければならないということです(列王記上18章21節参照)。その双方に仕えることは出来ません。

 

 神はただお一人であると宣言している聖書が正しければ(申命記6章4節、ローマ書3章30節など)、他に神々がおられるはずはなく、聖書が偽りであるなら、聖書の神も偽りだからです。

 

 主イエスも、二人の主人に仕えることは出来ない、と言われました(マタイ6章24節)。私たちも、主イエスを信じてバプテスマを受け、主と新しい契約を結んだキリスト者(クリスチャン)として、日々主の御言葉に耳を傾け、主にのみお従いする者とならせていただきましょう。

 

 主よ、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道に留まらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ幸いを、日々豊かに授けてください。主の恵みと平安がこの地に、そして世界中に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「ヨアシュ王は祭司ヨヤダおよび他の祭司たちを呼んで言った。『なぜ神殿の破損を修理しないのか。以後あなたたちはあなたたちの担当の者から献金を受け取ってはならない。それは神殿の破損を修理するために使われるべきものだからだ。』」 列王記下12章8節

 

 7歳で即位したヨアシュは(1節)、40年王位にありました(2節)。7歳で国を治めることが出来るはずもありませんから、即位当初から祭司ヨヤダが摂政として、ヨアシュを補佐していました。その後も、ヨアシュはヨヤダの指導を受けて、生涯を通じて主の目にかなう正しいことを行い(3節)、王としての使命を果たして行きました。

 

 ヨアシュは祭司たちに、神殿に破損が生じたときには、神殿にもたらされる献金を用いて修理せよと命じました(5,6節)。それは、アタルヤがエルサレムにバアル神殿を建てたころから、エルサレムの神殿は放置され、破損したところの修理がなされていなかったということなのでしょう。

 

 ところが、王の治世第23年になっても、それが実行されません(7節)。そこで、ヨアシュは献金の処理を祭司たちに任せるのをやめ(8,9節)、王の書記官と大祭司が出納の責任を持ち、工事担当者に渡して修理を行わせることにしました(10節以下)。

 

 冒頭の言葉(8節)にあるとおり「なぜ神殿の破損を修理しないのか」とヨアシュは祭司たちに尋ねていますが、その答えは記されていません。神殿修復の命令は、ヨアシュ王が祭司ヨヤダの指導によって発したものではなかったのでしょうか。

 

 あるいは、ヨアシュの摂政となって、ヨヤダが心変わりでもしたのでしょうか。あるいはまた、これまでしばらくの間、バアル神殿建設、バアル信仰の推奨がなされて、主の神殿に仕える者が意欲を喪失していたのでしょうか。

 

 はたまた、祭司たちが生活苦などで、神殿への献金を生活費のために充当せざるを得ないような状態だったというのでしょうか。いずれにせよ、ヨヤダを含む主の祭司たちが、神殿の修復命令を実行しなかったことは、理解に苦しむところです。

 

 9節の「神殿の破損を修理する責任を負わないことにした」という言葉から、祭司たちに神殿の修理に当たる時間的な余裕がなかったか、経理事務も含めて、そのための必要な能力を持ち合わせていなかったということなのかも知れません。

 

 王の書記官たちの仕事ぶりは、「会計監査を受けることはなかった」(16節)と言われていますので、どれほど徹底して、誠実に仕事をこなしたかが分かります。彼らがそれほど王の命令に忠実に従ったということは、王の厳命があってのことでしょうが、しかしそれは、王自身が徹底して主に従っていたという証しでしょう。

 

 ヨアシュは、イスラエルの王アハブの曾孫(アハブの娘アタルヤの孫)であり、アハブの影響を受けて祖父ヨラムや父アハズヤが主の目に悪を行っていたにも拘わらず、そのような悪例に倣わず、主の目に正しいことを行う王となりました。その背後に、祭司ヨヤダと、その妻で叔母ヨシェバの指導がありました。

 

 また、そうとは記されてはいませんが、バアルにひざまずかず、これに口づけしない七千人の、神を畏れる真の指導者を求める熱い祈りが、ヨアシュ王をイスラエルの歴史に登場させたのではないかと想像します(列王記上19章18節参照)。

 

 かつて、モーセの建てた神の幕屋も(出エジプト記25章以下)、ソロモンの建てたエルサレムの神殿も(列王記上6,7章)、意匠を凝らし、最も善いもので美しく飾られていました。それが、いつしか異教の神々が祀られて礼拝される場となり、やがて修復されないままに放置されるようになっていたのです。

 

 今日、主は私たちを、神の霊が住まう聖霊の宮、神の神殿とされました(第一コリント3章16,17節)。私たちの体が、聖霊の宿る神殿なのです(同6章19節)。私たちの心と考えは、御言葉と御霊によって美しく飾られているでしょうか。主を失って荒れたまま、修理もなされていないというような状態に放置されてはいないでしょうか。

 

 確かに悪魔は巧みに取り入ります。「軒を貸して母屋を取られる」というのは、人類の歴史の中で繰り返されてきた事実です。アダムとエバは、蛇に唆されて主なる神に背き、善悪を知る木の実を食べて、楽園を追い出されました(創世記3章)。主との親しい交わりが断たれる結果となったのです。

 

 汚れた霊は、「砂漠をうろつき、休む場所を探す」(ルカ11章24節)と主イエスは言われました。「砂漠」とは「水のないところ」(アヌドゥロス)という言葉ですが、それは主イエスの命の水(ヨハネ4章14節)、また御霊の水がないところです(同7章37,38節)。

 

 汚れた霊につけ込まれ、命の水を失って彼らに休み場を提供することがないように、絶えず主に目を向け、主の御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の満たしと導きを祈り求めましょう。主の御旨に従いましょう。

 

 主よ、あなたを私たちの心の中心にお迎えします。私たちの人生の主、王となってください。私たちの心は、聖霊を通して注がれる神のご愛に満たされています。汚れた霊が入り込む余地などありません。私たちは、御子イエスの血潮という尊い代価によって買い取られたものです。私たちの体を用いてご自身の栄光を表わしてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「しかし、主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨て去ることはなさらなかった。」 列王記下13章23節

 

 北イスラエルでは、イエフの死後、その子ヨアハズが王となりました。イエフは主の命に従ってアハブの全家を滅ぼし、国中からバアルを取り除きましたが(10章28,29節)、ダンとベテルに置かれている金の子牛像はそのままで(列王記上12章19節)、イスラエルの人々は、ヤロブアムの罪から離れることがありませんでした(2節、10章31節)。

 

 6節には、「サマリアにはアシェラ像が立ったままであった」と記されています。バアルの石柱を壊し、神殿を破壊してバアルを滅ぼし去ったイエフですが、ヤロブアムの罪だけでなく、アシェラ像も立てられたままだったのです。それゆえ、主は北イスラエルを衰退に向かわせられ(同32節)、隣国アラムの王ハザエルとその子ベン・ハダドに苦しめられることになります(3節)。

 

 ここで、「ベン・ハダド」は、ハザエルの前の王と同じ名前です。前王ベン・ハダドが病の床にあったときに、王に手をかけ、替わってハザエルが王となったのです(8章7節以下、15節)。自分が殺した王と同じ名を、我が子につけているというのは、どういうことでしょう。

 

 ハザエルの心境はよく分かりませんが、ハダドはアラムの神の名前で、「ハダド(神)の子」を意味する「ベン・ハダド」は、アラムの王としての称号のようなものだから、ハザエルの子をそのように呼んだのではないかと考えられます。これで、聖書に登場するベン・ハダドは3人目です。

 

 話を元に戻して、ヤロブアムの罪を離れない北イスラエルに怒りを燃やされた主が、アラム軍によってイスラエルを苦しめられました(2,3節)。そこでヨアハズが主をなだめると、主はそれを聞き入れて(4節)、一人の救い手を送られました(5節)。ヤロブアムの罪を離れない北イスラエルの王アハズヤのなだめを、主はなぜ受け入れられたのでしょうか。

 

 そのことについて、冒頭の言葉(23節)のとおり「主はアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約のゆえに、彼らを恵み、憐れみ、御顔を向け、彼らを滅ぼそうとはされず、今に至るまで、御前から捨て去ることはなさらなかった」とあります。神は、かつてイスラエルの父祖アブラハム、イサク、ヤコブと契約を結んでいたことを覚えておられました(創世記17章1節以下)。

 

 アブラハムは、紀元前2000年頃を歩んだイスラエルの父祖です。一方、ヨアハズは紀元前800年頃登場して来た王です。なんと、1200年も前に結んだ契約のゆえに、イスラエルの民を、御前から捨て去ることもなさらなかったと言われているのです。

 

 これは、主なる神が、ご自分がお選びになったイスラエルの民を滅ぼしてしまうことをよしとはされなかったということです。そこで、彼らを憐れみ、救う手だてを探ってくださった結果、アハズヤの子ヨアシュは、アラムに奪われた町々を取り返すことが出来たということです(25節)。

 

 私たちも、神の憐れみによって救いに与りました。決して、私たちが神の恵みを受けるに足る、清く正しい信仰の生活が出来ていたからということではありません。むしろ、生まれながら神の怒りを受けて当然、神に打たれて当然の者でした(エフェソ2章3節)。

 

 しかるに神は、主イエス・キリストの贖いのゆえに、誰一人として、御前から捨て去ろうとはなさらないのです。私たちを滅ぼすことをよしとしない神が、私たちを救う手だてを神自らお与えくださったのです。ここに、神の愛があります(第一ヨハネ4章9,10節)。憐れみがあります。

 

 それは、独り子を十字架につけるというものでした。どこに、他人を救うために我が子を差し出して平気な親がいるでしょうか。まして、愛の神が独り子を捨てるのです。どう考えればよいのでしょうか。

 

 それは、罪人の私が救われるためには、その方法しかなかったのです。私たちが神の子と呼ばれるために、どれほどの愛を神から賜ったのか、考えてみましょう(第一ヨハネ3章1節)。それはもう無限大の愛です。計算することが出来ません。

 

 命は地球よりも重いと言いますが、まさに神の愛と赦しは、地球の何ものをもってしても、その代価を支払うことなど出来ません。それを無償でお与えくださったのです。誰がこのような愛に応えることが出来るでしょうか。返礼することなど、とうてい不可能です。ただ、神の深いご愛に感謝し、日々御言葉に耳を傾け、導きに従って歩むほかはありません。

 

 いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰をもって恵み豊かな主をほめたたえ、御霊に満たされて主を証しする者となりましょう。

 

 主よ、私たちは取るに足りない僕、はしためです。にも拘わらず、独り子の命をもって贖い、神の子としてくださいました。どのようにすれば、そのご愛にお応えすることが出来るでしょうか。私たちには、その知恵も力もありません。ただ、御言葉に聴き従うのみです。どうぞ私たちを、御霊の導きにより、あなたが望まれるような者にしてくださり、御業のために用いてください。 アーメン!

 

 

「しかし、イスラエルの神、主が、ガト・ヘフェル出身のその僕、預言者、アミタイの子ヨナを通して告げられた言葉のとおり、彼はレボ・ハマトからアラバの海までイスラエルの領域を回復した。」 列王記下14章25節

 

 父ヨアシュに代わり、25歳で南ユダ王国の王となったアマツヤは(1節)、29年間エルサレムで王位にあり(2節)、主の目にかなう正しいことを行いました(3節)。「アマツヤ」は「主の力」という意味の名前です。

 

 アマツヤは塩の谷で1万人のエドム人を討ち、セラを攻め落としました。セラとは「岩」という意味です。岩や断崖を特徴とするセラの町は、エドムの首都でした(7節)。セラを攻め落としたアマツヤは、その町に「ヨクテエル」という名を付けました。ヨシュア記15章38節のユダの町のリストに、同じ名前の町があります。

 

 勢いをかって、アマツヤは北イスラエルに戦いを挑みます(8節)。ここで、「戦いを交えよう」と訳されているのは、「互いに顔を合わせよう」(レカー・ニトラーエ・パーニーム:口語訳)という言葉で、首脳会議の申し込みのようですが、北イスラエルの王ヨアシュの返事は、屈辱的なものでした(9,10節)。

 

 「なぜ挑発して災いを招き、ユダも一緒に倒れるようなことをするのか」(10節)という言葉を聞いて、アマツヤはまさに挑発されたように、ベト・シェメシュで戦いに臨みます(11節)。ところが、返り討ちに遭い、惨敗を喫します(12節)。

 

 「ベト・シェメシュ」は「太陽の家」という意味で、太陽神を祀る神殿がここにあったのでしょう。ここは、エルサレムの西方20㎞の丘陵地帯で、ペリシテとの国境に近いところにある町です。

 

 戦いに敗れた結果、エルサレムの城壁は北イスラエル軍に破壊され(13節)、神殿と王宮の財宝が奪われてしまいました(14節)。このことは、後のヨシヤの時代にエジプトの王ファラオ・ネコに戦いを挑んで敗れたこと(23章29節)、そして、最終的にバビロンに滅ぼされて、すべてのものを奪われる出来事を予表しているかのようです(24章13節)。

 

 その後、アマツヤに対する謀反が起こり、アマツヤはラキシュに逃れましたが、追っ手によって殺されてしまいました(19節)。アマツヤの父ヨアシュも、謀反によって殺されました(列王下12章21節)。

 

 アマツヤは父を殺した者に復讐しましたが(5節)、律法に従ってその子どもたちは殺しませんでした(6節)。それがかえって仇となり、殺されなかった子らが核となって、謀反が行われたのではないかと考えることも出来そうです。

 

 一方、北イスラエル王国では、ヨアシュの子ヤロブアム(ヤロブアム2世)がサマリアで王となり、41年間、国を治めました(23節)。彼の治世は恵まれて、北はダマスコを越えてレボ・ハマトまで支配地域を広げ、南は、アラバの海、即ち死海までの地域を確保しました(25節)。ここで、政治手腕を発揮することと、霊的に恵まれることは必ずしも一致してはいません。

 

 ヤロブアム王(2世)は、イスラエルに罪を犯させた父祖ヤロブアム(1世)の罪を全く離れなかったと言われます(24節)。にも拘わらず、ソロモン時代に匹敵するほどの領土を回復することが出来たのです(列王記上8章65節)。

 

 この世はまったくままなりません。主の前に正しいことを行う王が辛い目に遭い、主の目に悪を行う王が栄えているように見えます。これが、神に創られた私たち人間が、現実に生きている世界です。勧善懲悪、因果応報がなされるドラマの世界のようにはいきません。

 

 主は、イスラエルの名前が天の下から消し去られることを望まれないのです(26,27節、13章4,23節)。むしろ、助ける者がなく、羊飼いのいない羊のように弱り果て、倒れようとしている有様をごらんになって、神は深く憐れまれ(マタイ9章36節、列王上22章17節)、ご自身が助ける者となってくださったのです。

 

 それは一方的な神の恵みであって、決してヤロブアムの知恵や力などではありません。冒頭の言葉(25節)に、「預言者、アミタイの子ヨナ」が登場して来ます。そして、ヨナの告げた言葉の通り、国土が回復されたとあります。このことは、国土の回復が神の憐れみであったということを、明確に示すものと言ってよいでしょう。

 

 ユダの王アマツヤが北イスラエルとの戦争に敗れたのは、ヨアシュが言ったとおり、エドムをうち破って思い上がり、神に栄光を帰すのではなく、自ら高ぶったからでしょう(10節)。どこまでも謙遜に、神に従って歩む者となることを神が望んでおられるのです。

 

 そのことを私たちを含め、読者に教えるために、聖霊なる神が列王記の記者にペンを取らせ、この記事を書かせたのではないでしょうか。

 

 放蕩息子の父は、すっかり落ちぶれて帰ってきた弟息子を見つけると、走り寄って接吻し、最上のものを与え、子牛を屠って祝宴を開きました。「死んだ者が生き返り、いなくなっていた者が見つかったのだから、食べて祝おう」と言います(ルカ15章11節以下)。ここに、神の愛があります。

 

 この神の愛に応える術はただ一つ、神の愛に感謝し、その御旨に従って生きるほかはありません。つぶやかず、疑わず、主の十字架を仰いで進ませていただきましょう。

 

 主よ、ヤロブアム2世の時代に、あなたの恵みを受けて、その領土を回復することが出来ました。しかし、それを主の恵みと感謝して、導きに従って歩もうとしなかったイスラエルは、結局、滅びを招いてしまいました。御前に謙り、御言葉に耳を傾け、導きに従って忠実に歩むことが出来ますように。主の恵みと導きが、常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「彼は、父アマツヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った。」 列王記下15章3節

 

 アマツヤの子アザルヤが、南ユダの王となって52年間、国を治めました(1,2節)。冒頭の言葉(3節)には、彼は、主の目にかなう正しいことをことごとく行った、と記されています。アザルヤとは、「主は助け」という意味ですが、13,30,32,34節では、ウジヤ(「主はわが力」の意、歴代誌下26章も)と呼ばれています。

 

 そこに、「父アマツヤが行ったように」と記されているように、アザルヤの父アマツヤも、主の目にかなう正しいことをことごとく行いました(14章3節)。アマツヤの父ヨアシュも、主の目にかなう正しいことを行ったと記されていました(12章3節)。3代続けて、主の目にかなう正しいことを行ったという評価を受けています。

 

 けれども、彼らの運命は過酷です。アザルヤの父アマツヤも祖父ヨアシュも、謀反によって暗殺されました。そして、アザルヤは主に打たれて、死ぬまで重い皮膚病に悩まされたのです(5節)。

 

 主の目にかなう正しいことをことごとく行ったアザルヤが、なぜ主に打たれることになったのでしょうか。その理由について、列王記は沈黙していますが、歴代誌下26章15,16節に、彼は勢力ある者となり、名声が遠くまで及ぶことにより、思い上がって堕落し、主に背いたと記されています。晩節を汚す結果となったかたちです。

 

 アザルヤは16歳で王となって52年間王位にありました。アザルヤの死後、ヨタムの即位が25歳のときということは(33節)、アザルヤが43歳のときに生まれたということになります。ヨタムは、父アザルヤが重い皮膚病で隔離されることになったため、皇太子という立場で王宮を取り仕切り、国の民を治めることになりました(5節)。

 

 それがどれほどの期間であったのかは不明ですが、突然、国を治める責任を負わせられた若者にとって、それは大変なプレッシャーだったことでしょう。彼はそのとき、主の目にかなう正しいことを行っても、そんな酷い目に遭うのなら、自分の好きなことを好きなようにやったほうがましだと考えなかったのでしょうか。

 

 そのことについて、列王記の記者は「彼は、父ウジヤが行ったように、主の目にかなう正しいことをことごとく行った」(34節)と評価しています。謀反で殺されたヨアシュ、アマツヤ、そして重い皮膚病になったアザルヤ。彼らはしかし、それで主を仰ぐのを辞めたというのではなく、主の目に適う正しい道を歩みました。

 

 アザルヤの祖父ヨアシュは、叔父の祭司ヨヤダの指導を得て、その道を歩みました。その子アマツヤは、父ヨアシュの生活に強く影響されていたのでしょう。その生き方をアザルヤも見て、主の御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩もうと考えたのでしょう。

 

 そのような父アザルヤの信仰を、息子として誇りとしていたのではないでしょうか。だからこそ、晩年に重い皮膚病を患うことになった父を見ても、道を曲げることをしなかったわけです。

 

 その背後に、預言者イザヤのサポートがあったのかも知れません。イザヤが預言者として召されたときのことが、イザヤ書6章に記されていますが、それは、「ウジヤ王が死んだ年のことである」(イザヤ書6章1節)ということです。具体的なかかわりは不明ですが、しかし、そこに神の導きがあったことは、疑いのないことでしょう。 

 

 使徒ペトロがその手紙の中で、「あなたがたが召されてのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(第一ペトロ2章21節)と語っています。

 

 キリストの弟子たちは、キリストを模範として、ただその後ろに着いて行ったというだけでなく、その足跡に自分の足を乗せるようにして歩むように召されているというのです。深い雪道を歩くとき、前の人の足跡に自分の足を乗せていけば、たとえ道が雪で分からなくなっていても、安全に歩いて行くことが出来るという話を聞いたことがあります。

 

 キリストは私たちの罪のため、私たちが罪に死に、義によって生きるようになるために、十字架にかかって死んでくださいました(同2章24節)。キリストに従って歩むとは、私たちも隣人のために苦しみを担うということです(ルカ9章23節参照)。

 

 それは、苦難の道ではありますが、キリストと共に軛を負う者は、そのことによって柔和と謙遜を学び、また主と共にある平安が与えられ(マタイ11章29節)、そして、永遠の御国に至るのです(ヨハネ14章6節)。

 

 ヨアシュにアマツヤ、アザルヤ、ヨタムも、神の御前に義人ではありません(ローマ書3章9節以下)。家臣の謀反によって殺される理由が全くないというわけではなかったと思います。アザルヤは主に打たれ、重い皮膚病に悩まされたのは、それ相当の理由があったのでしょう。

 

 となれば、主の目にかなう正しいことを行うというのは、主イエスのごとく、全く罪を犯すことがなかったということではないでしょう。これは、罪ある者が罪あるままに神の御前に出、素直に主の御言葉を聴き、導きのままに恵みも災いも受け取る姿勢を言っているのではないでしょうか。

 

 そもそも、私たちが信仰に導かれたのは、私たちが主の御前に正しく歩んでいたからではありません。むしろ、神を知らず、神に背く道を歩んでいました。表も裏もすべてご存知の主に自分を委ね、「安かれ、畏れるな」とお語りくださる主の御言葉に聴き従う姿勢を言っているのだと思います。

 

 私たちが正しい道を歩めるのは、私たちのゆえではなく、御名のゆえに絶えず正しい道に導き返してくださる主の恵みです(詩編23編3節)。真の牧者であられる主の御声に絶えず耳を傾け、日々新たに恵みと慈しみに与りましょう。

 

 主よ、私たちは罪人でした。キリストの贖いにより、信仰によって義とされていることを感謝します。日々、主の御言葉に耳を傾ける私たちの上に、恵みと慈しみが常に豊かにありますように。主の御足跡に従って歩むことを通して、主の御業をなし、その栄光を表わすことが出来ますように。 アーメン

 

 

「アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあった。彼は、父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わなかった。」 列王記下16章2節

 

 ユダの王ヨタムの子アハズが王となりました(1節)。彼は冒頭の言葉(2節)のとおり、16年間ユダを治めましたが、父祖ダビデと異なり、主の目にかなう正しいことを行わず、主の忌み嫌われた異教の慣習に倣いました(3節)。

 

 アハズの父ヨタムは、主の目にかなう正しいことを行ったと聖書に記されておりましたし(15章34節)、その父たちも、主の目に正しいことをことごとく行ったと言われる王たちでしたが(12章3節、14章3節、15章3節)、アハズはその道を踏み外しました。

 

 父ヨタムの時代、北イスラエルとアラム連合軍が戦いを挑んで来るようになりました(15章37節)。アラム・北イスラエル連合軍は、勢力を伸ばしつつあるアッシリアに対抗するため、ユダにも連合軍に加わるように求めていたのですが、ユダはその求めに応じなかったからです。

 

 そこで、まずユダを屈服させようと、攻撃して来ることになったのでしょう。もしもユダがアッシリアと組むようなことにでもなれば、アラム・北イスラエル連合軍が挟撃されるかたちになるからです。アハズの時も、その戦いが続いていました(5節以下)。

 

 ユダがアラム・北イスラエル連合軍に加わらなかった背景に預言者イザヤがいて、人間的、現実的な対応ではなく、また、異教の神々に頼るのでもなく、主なる神に頼るように指導したのでしょう(イザヤ書7章)。

 

 それによって父ヨタムは、勢力を増すことが出来ました(歴代誌下27章6節)。ところが、アハズはその道を歩みません。異教の神々を頼み(3,4節)、そして、アッシリアに貢ぎを贈り、援軍を求めました(7,8節)。

 

 アッシリアの王ティグラト・ピレセルは、アハズの願いを受け入れてアラムに攻め込み、首都ダマスコを占領して王レツィンを殺しました(9節)。アラム・北イスラエル連合軍がアッシリアに粉砕されたわけです。そうならないようにユダを攻めたはずですが、かえってやぶ蛇でした。

 

 これで、アラム・北イスラエル連合軍の圧力から解放されることになり、ユダはめでたしめでたしと言いたいところです。けれども、そう手放しで喜ぶわけにはいきません。

 

 アハズの父祖が晩年不幸に見舞われていたのは、ことがうまく運ぶことによって思い上がり、まことの神を離れてその怒りを買ったからでした(歴代誌下24章17節以下、24,25節、25章14節以下、27節、26章16節以下)。神に背いて目先の問題が解決すれば、それでよかったということにはなりません。さらに大きな不幸に見舞われることになるからです。

 

 ルカによる福音書第17章5~6節に、「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう」と記されています。

 

 弟子たちが「わたしどもの信仰を増してください」と願ったのは、自分たちの力に不足を感じているからでしょう。もっと確かなものを持ちたいと考えているのです。そんな弟子たちに主イエスは、「分かった、お前たちの希望どおりにしてやろう」とは言われません。そうではなくて、「からし種一粒ほどの信仰があれば」と言われたのです。

 

 からし種は、栽培される植物の中で最も小さいと言われているほど小さな種です。鼻息で吹き飛んでしまうような小さな信仰であっても、桑の木があなたの言うことを聞いて動き出すと言われます。即ち、問題に立ち向かい、問題に勝利を与えるのは、私たちの信仰の大きさではありません。私たちの信じる主なる神が、問題に解決をお与えくださるのです。

 

 周辺の列強諸国、同胞北イスラエルとの関係悪化などにより、南方の港町エイラトを失ったことなどで、アハズ王の心は不安や恐れに支配されていたのでしょう。そのとき、どうな状況にも動じないで、主を信頼し続ける父ヨタムの信仰の強さ、心の平安が欲しいと思っていたのだと思います。

 

 しかしながら、押し迫ってくる不安や恐れの大きさに、手当たり次第に神頼みをし、願いをすぐにも聞き入れてくれる神を探すのです。けれども主なる神は、目で見たり、手で触れたりして、自ら計測することが出来るような「確かさ」を私たちに持たせてはくださいません。

 

 エレミヤが、「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない壊れた水溜めを」(エレミヤ書2章13節)と言っていますが、アハズの行為はまさにそれでした。

 

 彼が、ティグラト・ピレセルに言った「わたしはあなたの僕、あなたの子です」という言葉は、主なる神に対してこそ語られるべきものだったのです。主は、私たちの信仰を求めておられます。私たちをありのまま愛し、そのまま迎え入れてくださる主に信頼することだと言われるのです(ヨハネ20章29節)。

 

 主は「わたしの目にあなたは価高く貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ43章3節)ていると仰ってくださいます。「私にはあの人のような知恵、力がない」という必要はないのです。 私たちに知恵があるかないか、力があるかないか、そんなことは、いうまでもなく主は既にご存知です。私たちのすべてをよくご存じの主が、ありのまま愛してくださっています。

 

 だから、自分に命じられた、自分のすべきことをすればよいのです(ルカ17章10節)。他人と比較してではなく、自分が分かっただけ、神に聴いただけのことを聞いたまま、聞こえたまま、神が語られたまま、アーメンと従えばよいのです。

 

 神は、立ち帰って神を信じ、依り頼む者に救いと平安、力をくださいます(イザヤ30章15節参照)。繰り返し愛と憐れみをもって語りかけてくださる主を仰ぎ、共に主に信頼して、その御旨のままに歩ませていただきましょう。

 

 主よ、取るに足りない私たちを神の子とし、その恵みと平安に与らせてくださり、感謝致します。常に御顔を仰ぎ、日々謙って御言葉に耳を傾け、絶えず主に信頼して歩ませてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「主はついにその僕であるすべての預言者を通してお告げになっていたとおり、イスラエルを御前から退けられた。イスラエルはその土地からアッシリアに移され、今日に至っている。」 列王記下17章23節

 

 イスラエルが南と北に別れ、北イスラエル初代の王ヤロブアムから数えて18代目、王ホシェアの時代に、ついに北イスラエル王国は姿を消すことになりました(1節以下)。それは、ヤロブアムが犯した偶像礼拝の罪を離れなかったからです(7節以下、21,22節)。

 

 ヤロブアムが偶像礼拝に走ったのは、民の心が自分から離れてしまうかも知れないという、不安と恐れからでした(列王記上12章26~27節)。そして、代々の王が、ヤロブアムを見本として、その道を歩み続けました。

 

 最も神から遠ざかったのは、7代目の王アハブの時代でした(列王記上16章30節)。彼は、隣国シドンの王エトバアルの娘イゼベルを后に迎え(同31節)、サマリヤにバアルの神殿を建てました(同32節)。弱小国が南北の列強と渡り合っていくためになされた、政略結婚だったと思われます。

 

 けれども、それが神を喜ばせるはずがありません。神は預言者エリヤを遣わして、アハブに警告します(同17章1節)。エリヤの指導のもと、天から火を呼び降した主に、民は「主こそ神です」と信仰を言い表し、敵わなかったバアルの預言者たちを殺しました(同18章39,40節)。

 

 アハブはエリヤの裁きの預言を受けたとき(同21章17節以下)、衣を裂き、粗布をまとって断食して、神の前に謙りました。そこで主は、災いをくだすのを延期されます(同29節参照)。主は確かに、憐れみ深いお方なのです。

 

 しかし、アハブの子アハズヤは、依然としてヤロブアムの道を歩み続けます(同22章53節)。その後もエリシャなど、イスラエルを代表する預言者が遣わされましたが、歴代の王たちが真の悔い改めに至ることはありませんでした。ヤロブアムの道を歩んだと言われていないのは、謀反で王位を手に入れて僅か一ヶ月で暗殺されたシャルムだけです(列王記下15章13節以下)。

 

 北イスラエル最後の王はホシェアです。前王ペカに対して謀反を起こし、彼を撃ち殺して、王位に就きました(15章30節)。アラムとの連合軍でアッシリアと戦い、敗れたペカの時代からアッシリアに賠償を支払っていたと思われますが(3節、15章29節)、ホシェアはその重さに耐えかねて、アッシリアの王の代替わりに乗じ、南の強国エジプトに助力を頼み、朝貢を停止します(4節)。

 

 しかし、ティグラトピレセルに代り、新しく王となったシャルマナサルが、北イスラエルに攻め上って来て、ホシェア王を牢につなぎ、さらに、首都サマリアを包囲しました。ところが、陥落させるのに3年を費やしたということは、サマリアの城塞が堅固だったということと、アッシリア国内の問題があったようです。

 

 サマリアを包囲している間に死亡したシャルマナサルに代わり、兄弟のサルゴン2世(イザヤ書20章1節参照)が即位しました。サルゴンは、首都サマリアを占領して、民らを捕虜としてアッシリアに連行しました(6節)。連行された民がアッシリアから帰還して来ることはありませんでした(23節)。

 

 アッシリア王は、連行したイスラエルの民の代わりに、バビロン、クト、アワ、ハマト、セファルワイムの人々を連れて来て、サマリアの住民としました(24節)。

 

 主イエスがサマリアを通られた時、シカルという町のヤコブの井戸辺でサマリアの女と出会われました(ヨハネ4章4節以下、7節)。その女性と会話を交わされました際に、「あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と言われました(ヨハネ4章18節)。

 

 ここで、5人の夫とは、北イスラエル滅亡後、生き残った民とサマリアに植民された五つの民族との混血を意味し、今連れ添っているのは夫ではないというのは、サマリアの民がゲリジム山の上に独自の神殿を建て、エルサレム神殿と一線を画するようになったことを表わしているという解釈があります。

 

 ホシェアという名は、「救い」という意味ですが、ついに救いの道は閉ざされました。歴史のアヤでしょうか。イスラエルの民を約束の地に導き入れたのは、ヨシュアです。彼は、本来ホシェアという名前でしたが、モーセによってヨシュアと呼ばれるようになったのです(民数記13章16節)。

 

 ヨシュアは「ヤハゥエは救い」という意味です。モーセの後継者ヨシュアによって約束の地を獲得したイスラエルが、ホシェアの時にその地を追われたのです。

 

 神は、繰り返し罪を犯し続ける私たちのために、神の御子を救い主としてお与えくださいました。人間となってこの世に来られた救い主は、「イエス」と名付けられました。イエスをヘブライ語でいうと、実は、「ヨシュア」なのです。主イエスに従い、その恵みに与る命の道を歩ませていただきましょう。

 

 主よ、かつてヨシュアによってイスラエルの民を約束の地に導き入れられたように、御子イエスによって私たちを永遠の御国に導き入れてくださり、心から感謝致します。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことでも感謝する信仰で、主の恵みに応え、御業に励むことが出来ますように。聖霊に満たし、その知恵と力に与らせてください。 アーメン

 

 

「しかし民は、答えてはならないと王に戒められていたので、押し黙ってひと言も答えなかった。」 列王記下18章36節

 

 南ユダの王アハズに代わり、その子ヒゼキヤが25歳で王位に就き、29年間ユダを治めました(1,2節)。彼は、父祖ダビデのように主の目にかなう正しいことを行い、国中から聖なる高台、石柱、アシェラ像など、異教の偶像を取り除きました(3,4節)。

 

 モーセの作った青銅の蛇も(民数記21章8,9節)、打ち砕きました。人々がそれをネフシュタンと呼び、香をたいていたからです。神とモーセに逆らった罪の呪いから逃れるために作られたものが、間違った礼拝の対象となったというのは、私たちがいかに真の礼拝から逸れやすいのかを物語っています。

 

 「彼はイスラエルの神、主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った」(6節)、「その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった」(5節)、「主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した」(7節)と、ヒゼキヤに対して最大限の評価がなされています。

 

 治世第4年にアッシリア王シャルマナサル5世がサマリアに攻め上りましたが(9節)、途中で死亡したため、後継者の兄弟サルゴン2世が3年後に首都を陥落させ(10節)、北イスラエル王国は滅亡しました。その後、ヒゼキヤの治世第14年、即ち紀元前701年に、南ユダにもアッシリア王センナケリブが攻め込んで来ました(13節)。

 

 父アハズの時代にアラム・イスラエル連合軍の攻撃を受け、アッシリアに救援を求めて以来(16章7節以下)、朝貢する関係になっていました。信仰において賞賛されたヒゼキヤが、サルゴン2世の死後、その子センナケリブに代替わりした時、アッシリア国内の乱れに乗じ、エジプトを頼りとしてアッシリアに背き(7節)、朝貢を停止したのでしょう。

 

 ユダの砦の町をことごとく占領したセンナケリブに対し、ヒゼキヤは使者を送り、朝貢を停止した過ちを詫び(14節)、課された罰金(14節、銀300キカル:10トン余、金30キカル:1トン余)を支払いました(15,16節)。朝貢停止が、主なる神に対する信仰によるものでなかったという証拠でしょう。

 

 けれども、それに満足せず、アッシリアの王センナケリブは、北イスラエル同様、ユダを滅ぼすため、エルサレムに大軍を向かわせます(17節)。そして、王のスポークスマン、ラブ・シャケは、エジプトという折れかけた葦の杖に頼るな、降伏せよ、そうすれば、命を得、死なずにすむ。主は我々の手からエルサレムを救い出すことは出来ない(19節以下、28節以下)と豪語します。

 

 それに対して、エルサレムの民は押し黙って一言も答えません。それは冒頭の言葉(36節)のとおり、ヒゼキヤ王から、答えてはならないと戒められていたからです。アッシリアの高官ラブ・シャケの挑発に乗り、あるいはその脅しによって、不信仰な言葉を発しないように、エルサレムの民が一致団結して、王の言葉を守っています。

 

 その沈黙の中で、民は何を考えていたのでしょう。ヒゼキヤ王は何を考えていたのでしょうか。そこには、ラブ・シャケの嘲りに強く抗議することも、ましてや、力でアッシリアを追い返すことも出来ないという苦悩があるでしょう。

 

 また、信頼したエジプトが全く頼りにならなかったという後悔もあるでしょう。しかし、事ここにいたり、焦って言葉を発し、徒に動き回るのではなく、ただ一つの拠り所である主なる神に頼り、黙して祈るのです。

 

 「力を捨てよ、知れ、わたしは神」(詩編46編11節)という言葉があります。口語訳では「鎮まって」、新改訳では「やめよ」と言われています。「力を捨てよ」(11節)とは、「静まる、リラックスする」という意味の言葉(ラーファー)です。

 

 嵐の船の中で眠っておられた主イエスが、風と湖を叱って「黙れ、静まれ」と言われると、すっかり凪になりました(マルコ福音書4章35節以下、39節)。

 

 「静まれ」といえば、水戸黄門の印籠を思い出します。三つ葉葵の紋章の前に誰もがひれ伏すごとく、「わたしは神」と宣言されるお方の御前に、恭順の姿勢を示すことが求められています。

 

 かくて、自分たちの知恵や力に頼らず、静かに神に依り頼めば、救いを得られると教えられます。イスラエルの民が主に依り頼み、すべての問題を主に委ねることを通して、アッシリアも、主こそが真の神であることを知ることになるのです。

 

 主イエスも、嘲りと辱めには一言もお答えになられず、沈黙を守られました(マタイ26章57節以下・イザヤ書53章7節も参照)。ペトロがその様子を、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」と記しています(第一ペトロ2章23節)。

 

 そして主イエスは、十字架の死によって贖いの業を成し遂げられ(同24節)、三日目に死の力を撃ち破ってお甦りになりました(同1章3,21節、第一コリント15章3,4節)。それによって私たちにいきいきとした希望を与え、朽ちず、穢れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださったのです(第一ペトロ1章3,4節)。

 

 確かに「神に立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30章15節)のです。主に依り頼み、その御言葉に従って歩みましょう。主の平安を祈ります。

 

 主よ、ヒゼキヤはアッシリアの圧倒的な力の前に沈黙していました。力で対抗するのではなく、策略を用いるのでもなく、主にすべての問題を委ねていたのです。私たちも、困難な問題の前に沈黙し、主なる神に向かいます。私たちの救いは、主にこそあるからです。弱い私たちを憐れみ、信仰に堅く立たせてください。主の恵みと平安が常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を裂き、粗布を身にまとって主の神殿に行った。」 列王記下19章1節

 

 アッシリアの高官ラブ・シャケの嘲りの言葉を聞いたヒゼキヤ王は、先に砦の町を占領されたときには、降伏して貢ぎをしたのですが(18章14節以下)、今回は、アッシリアに更なる貢ぎを贈るのではなく、また、これと戦うために軍を招集するのでもなく、冒頭の言葉(1節)のとおり、衣を裂き、粗布をまとって主の神殿に行きました。

 

 ヒゼキヤはここで、自分の知恵や力に頼まず、悔い改めて主なる神に頼るのです。そして、宮廷長や書記官、祭司の長老などの高官たちに粗布をまとわせ、預言者イザヤのもとに遣わしました(2節)。それは、イザヤに執り成しの祈りを依頼するためです。

 

 「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない」(3節)と言い、「苦しみと、懲らしめと」という言葉で、この苦難を、自分の罪の懲らしめという認識を示し、そして「辱め」という言葉で、その懲らしめが、王に対してだけでなく、むしろ主なる神に対する侮辱としてあらわされていることを語ります。

 

 ラブ・シャケの嘲りの言葉が、自分の罪によって起こされ、それが主への侮辱と示されたということは、自分の罪が主を侮辱するものだったと認識させられているといってもよいのでしょう。ここに、ヒゼキヤの悔い改めた姿をはっきりと見ることが出来ます。そして、そういう認識、罪の理解が、私たちにも求められているのだと思います。

 

 さらに、エルサレムの状況を出産直前の妊婦にたとえ、「胎児は産道に達したが、産み出す力がない」と語って、、母子の命の危機に際して熟練の助産婦や医師の助けを求めるように、アッシリアの前に絶体絶命の危機を迎えているエルサレムに対し、主の助けを求めて執り成してくれるよう、預言者イザヤに訴えたのです。

 

 「わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう」(詩編50編14~15節、91編14~16節、エレミヤ書29章12~14節、33章3節など参照)という御言葉がありますが、主は、このヒゼキヤの心からの悔い改めと真剣な祈りに答えられます。

 

 主なる神が求めておられるのは、焼き尽くす献げ物などの犠牲ではなく、私たちの打ち砕かれた霊、打ち砕かれ悔いる心だからです(詩編51編18~19節)。主は従う人に目を注がれ、助けを求める叫びに耳を傾けてくださいます(同34編16,18節)。

 

 ヒゼキヤはそのように謙って、主の御前に出ました。そして、イザヤに執り成しの祈りを願いました。自ら祈るだけでなく、祈りの勇士、預言者イザヤに祈りの援軍を求めたのです。

 

 王に遣わされた家臣たちがイザヤのもとに行くと(5節)、イザヤは「あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない、見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼が噂を聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される」(6,7節)という主の言葉を告げます。

 

 そして、その言葉のとおり、アッシリアと戦うためにクシュの王ティルハカが軍を進めているという知らせが、ゼンナケリブ王のもとに届きます(9節)。ラブ・シャケはそれに対応するため、ユダを早急に屈服させようと、再び脅しをかけます(10節以下)。

 

 先の主の言葉に力を得たヒゼキヤは、「わたしたちの神、主よ、どうか今わたしたちを彼の手から救い、地上のすべての王国が、あなただけが主なる神であることを知るに至らせてください」(15節以下、19節)と祈り求めます。主はその祈りに応え(20節以下)、その夜のうちに、御使いによってアッシリア陣営の18万5千の兵を撃ちました(35節)。

 

 センナケリブ王は、ニネベに逃げ帰りますが(36節)、自分の神ニスロクの神殿で礼拝しているとき、家臣に暗殺されてしまいました(37節)。先に、主がイザヤを通して語っておられたとおりになったのです(7節参照)。そして、確かに主がヒゼキヤと共におられ、「彼が何を企てても成功した」(18章7節)という言葉が真実であることをはっきり示されました。

 

 一方、ラブ・シャケは、どの神がアッシリアの手から国を守ることが出来たかと嘲りましたが(12節、18章33節以下)、アッシリアの神は、アッシリア兵を主の御使いの手から(35節)、そして、ニネベに逃げ帰り、神殿で礼拝をささげているセンナケリブ王をその息子である二人の暗殺者の手から(36,37節、イザヤ書27章38節)、守ってはくれなかったのです。

 

 使徒パウロが、悪魔の策略に対抗するため、霊の武具を身に着けよと教えていますが(エフェソ6章10節以下)、その中で「どのような時にも、霊に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」(同18節)と命じ、さらに、パウロ自身のためにも祈ってほしいと要求しています(同19節)。

 

 彼は、執り成しの祈りの必要性を知っており、その実践を願っているのです。祈りこそ、悪魔の要塞を打ち砕く神の力をもたらすものです。そして何より、御霊ご自身が執り成して下さるので(ローマ8章26節)、万事が益となるのです(同28節)。

 

 どんなマイナス状況も、それを変えてプラスにすることのお出来になる主に信頼し、御名を呼びましょう。御霊の満たしと導きを祈り求めましょう。

 

 主よ、あなたを避け所、砦とし、あなたに信頼する者は幸いです。必ず、あなたが救い出してくださるからです。その信仰は聞くことから、聞くことはキリストの言葉によります。絶えず、主の御言葉を聞かせてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように。 アーメン

 

 

「ヒゼキヤは使者たちを歓迎し、銀、金、香料、上等の油など宝物庫のすべて、武器庫、また、倉庫にある一切のものを見せた。ヒゼキヤが彼らに見せなかったものは、宮中はもとより国中に一つもなかった。」 列王記下20章13節

 

 死の病にかかったヒゼキヤは(1節)、憐れみを求めて神に祈りました(3節以下)。その結果、病が癒され(5節)、15年間寿命が延ばされ、また、アッシリア王の手からヒゼキヤもエルサレムの町も守られるという約束を頂きました(6節)。

 

 1節の「そのころ」は、ヒゼキヤ王の在位は29年間であったこと(18章2節)、延ばされた寿命が15年間だったことから(6節)、治世の14年目だったことが分かります。そしてそれは、アッシリア王センナケリブのエルサレム攻撃と同年に起こった出来事でした(18章13節)。

 

 ヒゼキヤが主の約束の確証を求めると(8節)、主はヒゼキヤの求めに従って、日時計の影を10度、後戻りさせられました(11節)。つまり、地球が逆回転し、時間が40分逆戻りしたことになります。現代科学では到底考えられないような、通常あり得ない奇跡を見せられました。

 

 人の命は地球よりも重いという言葉がありますが、これはまさに、主がヒゼキヤの命をいかに憐れまれたかということであり、神が一人の人物の祈りをいかに重く受け止められ、お応えくださるのかという、明確なしるしです。

 

 そのころ、ヒゼキヤの見舞いのため、バビロンの王メロダク・バルアダンの親書と贈り物を携えた使者たちがやって来ました(12節以下)。それに気をよくしたヒゼキヤは、冒頭の言葉(13節)のとおり、宝物庫、武器庫、倉庫にある一切のものを見せました。それは、宮中だけでなく、国中で見せなかったものが何一つないというほどの徹底ぶりでした。

 

 バルアダンがヒゼキヤの見舞いに使者を遣わしたのは、強国アッシリアに立ち向かうために、アッシリアを撃退した南ユダとの間に(19章35節以下)、しっかりと協力関係を築いておきたいという意図があったものと思われます。

 

 一方、ヒゼキヤが宝物庫などにあるすべてのものを見せたというのは、バルアダンの親書と贈り物に対する感謝、返礼の思い、バルアダンを信頼し、一緒にアッシリアと戦おうという意思を表明しているものと考えられます。

 

 なお、アッシリアの王センナケリブに対し、賠償金として銀三百キカル、金三十キカルを支払った際、宝物庫が空になっていたと思われますが(18章13節以下、15,16節)、その後、そこに銀、金、香料、上等の油などを蓄えることが出来たのは(13節)、主の恵みというほかはないでしょう。

 

 隠すことなくすべての宝物などを見せたとき、預言者イザヤがやって来て、訪問者について、そして、ヒゼキヤがその訪問者に何を見せたのか尋ねました(14,15節)。ヒゼキヤは、「遠い国、バビロンから来ました」(14節)、「王宮にあるものは何もかも見ました。倉庫の中のものも見せなかったものは何一つありません」(15節)と答えました。

 

 イザヤは「王宮にあるもの、あなたの先祖が今日まで蓄えてきたものが、ことごとくバビロンに運び去られ、何も残らなくなる日が来る、と主は言われる。あなたから生まれる息子の中には、バビロン王の宮殿に連れて行かれ、宦官にされる者もある」(17,18節)と告げました。

 

 その言葉に対するヒゼキヤの言葉は、「あなたの告げる主の言葉はありがたいものです」(19節)というものでした。およそ考えられないような応答ですが、ヒゼキヤがそう答えた理由を、「彼は、自分の在世中は平和と安定が続くのではないかと思っていた」と記しています。

 

 およそ理解に苦しむ言葉です。これまで、イザヤの告げた言葉は、ヒゼキヤの思い上がりや愚かな振る舞い、自分さえよければよいという極めて利己的な考え方に対する神の裁き、罰だと思っていました。しかしながら、そうであるなら、彼の在世中に平和と安定が続くとヒゼキヤが考えた理由が分かりません。

 

 さらに、列王記の著者がヒゼキヤについて、「彼はイスラエルの神、主に依り頼んだ。その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった。彼は主を固く信頼し、主に背いて離れ去ることなく、主がモーセに授けられた戒めを守った。主は彼と共におられ、彼が何を企てても成功した」(18章5~7節)と評価していることと矛盾します。

 

 あらためて、イザヤが告げた言葉について考えてみると、それは、これから百年後に起こることを予め告げたものだということが分かります。即ち、ヒゼキヤから数えて7代目のヨヤキンの時代のことです。

 

 そのとき、バビロンの王ネブカドネツァルがイスラエルの都エルサレムに攻め上り(24章10節以下)、神殿と王宮の宝物をことごとく運び出し(同13節)、ヨヤキン王とその家族、国の有力者たちを捕虜としてバビロンに連れ去りました(同15節)。

 

 バビロンの王は伯父マタンヤを王とし、ゼデキヤと改名させていましたが(同17節)、ゼデキヤがバビロンに反旗を翻した結果(同20節)、ついにエルサレムが陥落(25章1節以下)、神殿の祭具などことごとく奪い去られ(同13節以下)、王子はことごとく殺され、ゼデキヤは両目をつぶされて足枷をはめられ、バビロンに連行されました(7節)。

 

 ゼデキヤは、去勢されたというようなことではないようです。しかし、ゼデキヤの子孫が断たれてしまうことで、結果的に「宦官にされる者もある」という言葉が成就したも同じになりました。

 

 先に、北イスラエルがアッシリアに滅ぼされたとき(17章1節以下)、「ユダもまた自分たちの神、主の戒めを守らず、イスラエルの行っていた風習に従って歩んだ。主はそこでイスラエルのすべての子孫を拒んで苦しめ、侵略者の手に渡し、ついに御前から捨てられた」(同19,20節)と言われていました。

 

 そうなったのは、ヒゼキヤの父アハズが、まことの神、主に頼らず、異教の神々とアッシリア王に依り頼んだからであり(16章3節以下)、ヒゼキヤのあとを継いだマナセも、主の目に悪とされることを行い(21章2節以下)、その上、罪のない者の地を非常に多く流したからです(同16節)。

 

 ヒゼキヤの曾孫にあたるヨシヤが王となり、主の神殿で律法の書を見つけ(22章8節以下)、女預言者フルダに託宣を求めたとき(同14節)、主は既に災いを下すことを決めておられてその計画に変更はないこと(16,17節)、しかしながら、その言葉を聞いて心を痛め、謙って悔い改めているヨシヤは、その災いを見ることはない(19,20節)と告げられました。

 

 このことから、ヨシヤ同様、否それ以上にヒゼキヤが徹底的に主の御心に歩んでいたので、彼の時代には、父アハズのときに定められた裁き、災いを、見ることはないと告げられたから、と考えてよいのでしょう。それだから、「平和と安定が続くのではないかと思っていた」(19節)わけです。

 

 ヒゼキヤ一人の善行で、主の裁きの決定を覆すことは出来ませんでしたが、しかし、その善行の故に、ヒゼキヤの病は癒されて寿命を15年延ばして頂くことが出来ました。また、彼の在世中は、平和と安定が続き、国民もその恵みを享受することが出来ました。さらに彼の後7代目まで王朝が守られたのです。その背後に、イザヤやエレミヤなど、主の預言者たちの働きがありました。

 

 私たちは、主イエスの救いと恵みを味わいました。キリスト・イエスに結ばれて、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝することが、求められています(第一テサロニケ5章16~18節)。

 

 恵みに慣れ、感謝を忘れることがないように、日毎に主の御前に謙り、その御言葉に耳を傾け、御旨を行うために、聖霊の満たしと導きを祈り求めましょう。祈りをお聞きくださる主を信じ、共に神の恵みを証しして参りましょう。

 

 主よ、いつも感謝をもって御前に祈りと願いをささげ、求めるところを申し上げます。人知をはるかに超えた神の平安で心と考えを守ってくださるからです。常に、私たちの耳を開き、御声を聞かせてください。私たちを聖霊で満たし、主の証し人として用いてください。主の恵みと導きがいつも豊かにありますように。 アーメン

 

 

「わたしはわが嗣業の残りの者を見捨て、敵の手に渡す。彼らはそのすべての敵の餌食となり、略奪の的となる。」 列王記下21章14節

 

 ヒゼキヤの子マナセが12歳で王になり、55年に亘り、ユダを治めました(1節)。年若いときに王となったということもあり、その在位期間は、イスラエル史上最長です。安定した統治が行われていたと考えられます。その手腕には、並外れたものがあったのかも知れません。

 

 しかしながら、マナセは父ヒゼキヤが廃した聖なる高台を再建し、バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造りました(3節)。主の神殿の庭に天の万象のための祭壇を築き(5節)、アシェラの彫像を造って神殿に安置しました(7節)。自分の子に火の中を通らせ、占いやまじないを行い、口寄せや霊媒を用いました(6節)。

 

 それは、かつてイスラエルの民をエジプトの国、奴隷の家から救い出し、約束の地に導き入れ、民の求めに従って王を立て、恵みを与えて来られた主なる神にとって、マナセの振る舞いはどんなに悲しいことだったでしょうか。

 

 十戒において、主を否み、神ならぬものを神とする者の罪を子孫に3,4代までも問うとされること(出エジプト記20章3節以下、5節)や、死刑に関する規定(レビ記20章)の冒頭に、自分の子をモレク神にささげる者(同2節以下)、口寄せや霊媒を訪れる者(同6節)が挙げられているところに、神の御思いが示されます。

 

 ヒゼキヤは、主に信頼することにおいて、ユダの中で最高であったと言われます(18章5~6節)。しかし、その子マナセは父に倣わず、北イスラエルの王アハブ(列王記上16章30節)が行ったように、主の目に悪とされることを行います(2,3節)。

 

 その徹底ぶりは、「主がイスラエルの人々の前で滅ぼされた諸国の民よりもさらに悪いことを行った」(9節)と言われるほどです。即ち、南ユダも滅ぼされて当然の状況になっているということです。

 

 マナセがそのように、父親とは正反対の、最悪の道を選んだ理由は定かに分かりませんが、12歳で王となっているので、王の側近の影響が小さくないのだろうと思います。父ヒゼキヤのときには、預言者イザヤがヒゼキヤを指導していましたが、ユダヤの伝説では、マナセによってイザヤは殉教させられたと言われています。

 

 ヒゼキヤはその晩年、バビロンとの協調路線を進もうとしていました(20章12,13節)。想像をたくましくして考えると、国内にバビロンよりもアッシリアに頼る方がよいと考える勢力があって力を持ち、アッシリアがイスラエルに侵攻したのは、ヒゼキヤの急進的宗教改革の所為だと考えて、国の舵をヒゼキヤとは逆方向に切るようマナセを指導したのかも知れません。

 

 ヒゼキヤは、死の病が癒され、寿命を15年延長してもらいました(20章6節)。ヒゼキヤが死んで、マナセが王位についたのが12歳だったのですから、ヒゼキヤの病が癒されて、その3年後にマナセが生まれたことになります。もしも、ヒゼキヤが癒されないまま天に召されていれば、マナセが生まれて来ることはなかったわけです。

 

 ヒゼキヤの善政なしに、その癒しがなかったと考えると、マナセは父ヒゼキヤや預言者イザヤ、そして主なる神に感謝して、主をおのが神とする道をまっすぐに進むべきでした。

 

 しかし、残念なことに、マナセは徹底的に主に背く道を進むことにその治世を費やしたので、祖父アハズの代に「ユダもまた自分たちの神、主の戒めを守らず、イスラエルの行っていた風習に従って歩んだ。主はそこでイスラエルのすべての子孫を拒んで苦しめ、侵略者の手に渡し、ついに御前から捨てられた」(17章19,20節)と言われていた裁きが確定的になってしまいました。

 

 国内外に紛争があったようには記されていないので、長い間、ユダの民は平和と安定、それに伴う繁栄を享受したのだろうと思います。であれば、主の戒めに従わないマナセに対して、その舵取りにブレーキをかける者はいなかったのでしょう。55年の長きにわたって主の目に悪とされる政をなしましたが、無事に寿命を全うしています。

 

 一方、「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」と評されるヒゼキヤは、25歳で王となり、29年間王位にありました(18章2,3節)。もし15年寿命が延ばされなければ(20章6節)、39歳の若さでこの世を去ることになっていました。アッシリアに攻め込まれて絶体絶命のピンチも経験しました(18章13節以下)。

 

 どう考えてよいのか分かりません。だからということでしょうか。マナセの子アモンも、マナセが歩んだ道をそのまま歩んだのです(20節)。この後、アモンの子ヨシヤを除いて、主の目に正しいとされる道を歩む王はなく、裁きがユダの上にも降ることになります。

 

 箴言14章12節、16章25節に「人間の前途がまっすぐなようでも、果ては死への道となることがある」という言葉があります。これは、人間の尺度ではなく、神の尺度で測って、命の道を進みなさいと教えています。同じ言葉が二度語られているのは、それだけに心して聞くようにということでしょう。

 

 どうすれば、神の尺度で見、測ることが出来るのでしょうか。神に聴き、その御言葉に従うほかはありません。主なる神は、預言者たちを遣わして、繰り返し警告されました(10節以下)。

 

 そうしながら、主は、マナセの代55年、アモンの代2年、ヨアハズの代3か月、ヨヤキムの代11年、ヨヤキンの代3か月、そしてゼデキヤの代11年、合計80年の長きにわたり、ユダの民が御自分に立ち帰るのを待ち続けられました。 

 

 けれども、彼らが真に悔い改めることはありませんでした。勿論、それでは幸福になれません。主に背く道を進みながら、主の恵みを味わうことは不可能です。ただ、歴代誌下33章11節によれば、アッシリアがエルサレムを攻め、マナセを捕らえてバビロンに連れて行きました。イザヤが、冒頭の言葉(14節)で告げた預言のとおりです。

 

 マナセはそのような苦悩を経験して、彼は主に悔い改めの祈りをささげました(同12,13節)。神はその祈りを聞かれ、マナセをエルサレムに戻されました。その恵みを味わって、マナセ自身も主が神であることを知ったのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(詩編34編9節)。

 

 主なる神は、御前に謙り、悔い改める人の傍らにいて、その苦しみから救ってくださいます(同34編19節、51編19節)。こうしてマナセはその罪を離れて神に立ち帰り、異国の神々と偶像を取り除き、主の祭壇を築いて和解と感謝の献げ物をささげ、ユダの民に主に仕えるように命じたので、結局、誰よりも長く55年(1節)という治世を全うすることが出来たのです。

 

 私たちも、絶えず主の前に謙り、御言葉に聴き従いましょう。神は私たちの歩みを守り、支えてくださいます。

 

 主よ、あなたの慈しみに感謝し、御名をほめ讃えます。徹底的に背いたマナセをさえ深く憐れみ、悔い改めたマナセに祝福を返されました。驚くべきことです。私たちは、慈しみの御手の下に身を寄せ、日毎に主の御言葉に耳を傾けます。御心に従う知恵と力を授けてください。祝福が常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「その時大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『わたしは主の神殿で律法の書を見つけました』と言った。ヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ。」 列王記下22章8節

 

 前に、ヨアシュの時代にエルサレム神殿の修復がなされたという記事がありました(列王記下12章)。その後、アハズやマナセ、アモンが主の目に悪を行い、神殿を汚しました。アモンが謀反によって殺され、その子ヨシヤが8歳で王位につきました(1節)。ユダ王国第16代の王です。

 

 8歳の子どもに国を治めることが出来るはずがありません。彼には大変優れたブレーンがいたようです。母親エディダの薫陶でしょうか。あるいは、大祭司ヒルキヤや女預言者フルダのような預言者たちによる指導でしょうか。

 

 詳細は不明ですが、その甲斐あって、歴代誌下34章の記事によれば、ヨシヤは16歳のときに自ら神を求め初め、20歳で、国内からあらゆる偶像、祭壇、香炉台などを取り除き、ユダとエルサレムを清めるという宗教改革に着手します(同3節)。

 

 また「ヨシヤの時代、その治世の第十三年」(エレミヤ書1章2節)、即ちヨシヤ王21歳のころに、アナトトの祭司ヒルキヤの子エレミヤに主の言葉が臨み、預言者としての働きが始まりました。ヨシヤの宗教改革を励まし、正しく導くために、立てられたかのようです。

 

 そして、その治世第18年、即ち26歳になって、主の神殿の修復を実行します(3節以下)。祖父マナセが神殿に異教の祭壇を築き、偶像を配置しましたが(21章4節以下)、その際に主の神殿が破壊されたのでしょう。

 

 すると、冒頭の言葉(8節)のとおり、律法の書をヒルキヤが見つけました。それは、申命記のことだろうと考えられています。律法の書を見つけたということは、それが、長い間失われたままになっていたということです。

 

 律法の書とは、主なる神とイスラエルの民との契約書です。主との契約を守るにはどうすればよいのかということが記されています。それが長い間失われたままになっていたということは、その関係をずっとないがしろにしていたという何よりの証拠です。

 

 申命記17章18,19節に、「彼(王)が王位についたならば、レビ人である祭司のもとにある原本からこの律法の写しを作り、それを自分の傍らに置き、生きている限り読み返し、神なる主を畏れることを学び、この律法のすべての言葉とこれらの掟を忠実に守らねばならない」とあります。

 

 この規定によれば、律法の書は、その写しが作られて、王の手元に置かれていたことになります。そして、律法の書の原本は、契約の箱の傍らに置かれているはずでした(申命記31章26節)。しかし、そのいずれもが見失われて久しかったのです。

 

 所在が分からなくなるほど、神殿が壊れ、荒れていたのでしょう。そもそも、神殿を建てたソロモンのときから、異教の礼拝がなされています(列王記上11章3節以下)。王も祭司も、律法の書の所在を確かめることもなかったということでしょうか。

 

 あるいは、敢えて見ないようにしたということかも知れません。そして、時間の経過とともに存在すら忘れてしまったのではないでしょうか。

 

 しかるに主は、主を求めて宗教改革を断行しているヨシヤのために、律法の書を見つけさせました。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」(ヤコブ4章8節)と言われるとおり、主を求めたヨシヤに答えて、主の御言葉をお与えくださったのです。

 

 律法の書を見つけさせてくださったのは、実は、主の計らいだったということではないでしょうか。主は生きておられ、求める者に必要な最も良いものをお与えくださいます(マタイ7章7,11節)。

 

 ヒルキヤは、書記官シャファンに見つけた律法の書を渡し、シャファンはそれをヨシヤ王の前で朗読しました。御言葉が開かれると、ヨシヤは衣を裂いて悔い改め(11節)、祭司たちを預言者フルダのもとに遣わし、主の御旨を尋ねます(12節以下)。

 

 そこで語られた主の言葉は、厳しいものでした。「この書のすべての言葉の通りに、この所とその住民に災いをくだす。彼らがわたしを捨て、他の神々に香をたき、自分たちの手で造ったすべてのものによってわたしを怒らせたために、わたしの怒りはこの所に向かって燃え上がり、消えることはない」(16,17節)と言われるのです。

 

 つまり、ヨシヤの善行をもってしても、その怒りで燃え上がった火を消すことが出来ないほど、ユダの罪が繰り返し積み重ねられてきたということです。

 

 しかし、ヨシヤの謙りと悔い改めが無駄であったというわけではありません。御言葉を聞いて心を痛め、主の御前に謙り、衣を裂いて泣くヨシヤの祈り願いを主が聞かれ、彼を憐れみ、恵みをお与えくださるのです(19節)。それは、ヨシヤが安らかに息を引き取って葬られること、その死後まで災いの実行が延期されるということです(20節)。

 

 「災い」と訳されたのは、「悪」(ラーアー)という言葉で、歴代の王が主の目に「悪」とされることを行ったということに対応する言葉遣いです。まさにユダに降される災いは、悪に対して悪で報いるという処罰になっています。

 

 ヨシヤの悔い改めは、御言葉が開かれることでなされました。その悔い改めに目を留め、主が恵みをお与えになったのですが、御言葉を見つけさせてくださったのも主でした。年若いヨシヤが主を求め始めたのは、御言葉に従って真の悔い改めに導くために、主が後ろで糸を引かれたからとなのでしょう。

 

 ヨシヤ一人で、ユダに災いを下すという主の決定を覆すことは出来ませんでした。けれども、最後まで神は民の悔い改めを待っておられるのです。

 

 そして、ヨシヤの改革によって災いの実行が延期されたということで、ユダの民は平和と安定を味わうことが出来ました。ということは、以降の王たちがヨシヤの歩んだ道をそのままに歩めば、「災い」の実行がその都度延期され、その王朝がずっと続くということにもなるでしょう。 

 

 主なる神は繰り返し、様々な方法で語りかけ、御言葉に従うようにと導かれます(ヘブライ書1章1,2節)。それは、主と出会わせ、もう一度、主との親しい交わりを回復させてくださるためです。そのために主イエスを遣わされ(ヨハネ10章10,11節)、また「アバ、父よ」と呼ぶ霊を授けてくださったのです(ローマ8章15節)。

 

 日々御言葉を開きましょう。絶えず主の導きを求めて「アバ、父よ」と祈りましょう。

 

 主よ、あなたの深い恵みと憐れみにより、主イエスと出会い、聖霊の助けを得て信仰に導かれたことを、心から感謝致します。いつも十字架の主の御顔を拝し、親しく主の御言葉を聴き、正しく学んでその導きに従って歩ませていただくことが出来ますように。 アーメン

 

 

「それから王は柱の傍らに立って、主の御前で契約を結び、主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った。民も皆、この契約に加わった。」 列王記下23章3節

 

 神殿で「律法の書」(申命記)を見出したユダの王ヨシヤは(22章8節以下)、すべての長老を集め(1節)、ユダのすべての民にすべての言葉を読み聞かせました(2節)。失われていたのですから、長い間、民も契約の言葉を聴くことがなかったということですし、むしろ、それを自分たちから遠ざけて、見ないことにしていたということでしょう。

 

 それを読んで聞かせた後、冒頭の言葉(3節)のとおり、もう一度、主の御前で契約を結び、「主に従って歩み、心を尽くし、魂を尽くして主の戒めと定めと掟を守り、この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓」いました。

 

 「心を尽くし、魂を尽くして」(ベ・コール・レーブ・ヴ・ベ・コール・ネフェシュ:with all heart and all soul)は、申命記6章5節の「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」を思い出させます。

 

 使徒ヨハネは、「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(第一ヨハネ5章3節、ヨハネ福音書14章15節)と言いました。そして、ここでヨシヤは、文字通り心を尽くし、魂を尽くしてこれを実行したのです。

 

 4~25節に、ヨシヤが律法の書に記されていたことを、どのように実行したのかということが記されていますが、それは、イスラエルの歴史が始まって以来の罪を一掃する徹底ぶりでした。

 

 ベテルにあった祭壇とネバトの子ヤロブアムが造った聖なる高台を壊し(15節)、サマリアの町々にあった聖なる高台の神殿をすべて取り除いた(19節)ということは、そのときユダの勢力はイスラエル全土に及ぶものだったということです。

 

 ヨシヤのように、律法に従って徹底的に主に立ち帰った王は、後にも先にもありません。ユダのみならず、イスラエル全土で異教の偶像や祭壇、聖所を焼き、汚し、取り壊しました。異教に仕える者たちを取り除きました。サウル王の即位以来、顧みられなかった過越祭を復活させました。

 

 実際、ヨシュア記5章以降、過越祭という言葉が出て来ません。過越しの出来事に示された主の救いの恵みに感謝することを、ずっと忘れていたのです。そんな大切なことを忘れるほど、その他のことに忙しかったということでしょうか。

 

 「忙しい」と「忘れる」は、いずれも心を亡ぼすという漢字です。イスラエルの王たちを筆頭に、その民から主に信頼し、その御言葉に従って歩む信仰の心が失われ、滅びへの道を急いでいたわけです。

 

 御言葉に土台し、御言葉に従って歩む国、そこに住んでいる人々は幸せだと思います(詩編1編1節以下、33編12節、40編5節、112編1節など参照)。しかし、ヨシヤの改革だけでは、人を新しく作り替えることは出来ませんでした。ヨシヤの死後、王に即位した彼の子らは、またもや主の目に悪とされることをことごとく行うのです。

 

 しかし、ヨシヤの改革は、決して無駄ではなかったと思います。そうであるなら、ヨシヤの業績をここまで詳しく書き記す必要はないでしょう。他の王たちと同様、「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」という評価、あるいはそれに少し付け足して、一番熱心に主に従ったとか、右にも左にもそれることがなかったと記しておしまいにすることも出来たと思います。

 

 列王記の記者がそうしなかったのは、どんなときでも、たとえ国が滅び、他国の奴隷とされることになっても、もう一度、悔い改めて御言葉に従う生活を取り戻そう、どういう状況でも神に信頼して歩もう、主なる神と新しい契約の生活に入ろうと言いたいからです。

 

 そのために、主は契約の言葉を見出させたのです。もしも困難の中にいるならば、主を求めなさい、主の御言葉に聴き従いなさいと言いたいのです。

 

 ヨシヤは8歳で王位に就きました(22章1節)。彼の父アモンは、家臣の謀反により、宮殿で殺害されています(21章23節)。代わって王となった幼い少年の心には、恐れや不安が一杯だったでしょう。誰に頼ったらよいのかという状況だったでしょう。

 

 そのような中で主を求め始めました。そして、ユダとエルサレムを清め始めたのです(歴代誌下34章3節)。すると、律法の書を見出しました。その御言葉に従って悔い改め、御言葉に従う生活を行ったのです。彼はそこに恵みを見出し、平安を味わったのではないでしょうか。御言葉に励まされ、力づけられていたのではないでしょうか。

 

 ヨシヤという名前は、「主は支えてくださる」という意味です。ヨシヤはそのとき、その名のごとく主なる神の支えを受けました。主に頼るように導かれたのです。

 

 本当に人の心を変えるのは、神の愛、聖霊の力です。祖父マナセ、父アモンは神に背く道を進みましたが(21章2,20節)、ヨシヤは、その道を歩まず、主に支えられて、主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩んで右にも左にもそれることがなかったのです(22章2節)。

 

 神の愛を頂きましょう。聖霊の力を頂きましょう。神は求めてくる者に聖霊を与えてくださいます(ルカ11章13節)。そして、聖霊を通して私たちの心に神の愛が注がれてくるのです(ローマ5章5節)。だから、苦難をも喜び、誇ることが出来ます(同5章2節)。これがパウロの確信であり、私たちが御霊の導きによって味わうべき信仰の世界なのです。

 

 主よ、私たちが、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主を愛し、御言葉を実行する者となることが出来ますように。御言葉に心から耳を傾ける者とならせてください。常に聖霊に満たされ、その力に与らせてください。そうして、主の恵みの証し人、愛の証し人として用いてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「バビロンの王はヨヤキンに代えて、そのおじマタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせた。」 列王記下24章17節

 

 ついに南ユダ王国が滅亡し、バビロンに隷属する日がやって来ました。ヨヤキムの治世にバビロン王が攻め上って来た(1節)というのは、紀元前605年にカルケミシュでアッシリア・エジプト連合軍を打ち破ったバビロンが、その勢いを駆って、パレスティナの支配を確実にするためにやってきたということです。

 

 エジプトのファラオによって王とされたヨヤキムは(23章34節)、国民に税を課してエジプトに賠償金の銀と金を差し出していました(同35節)。バビロンがエジプトを打ち破ったことにより、今度はバビロンに朝貢することになったのです。

 

 ところが3年後、それをやめました。バビロンがエジプトを攻略できなかっただけでなく、むしろエジプトが反撃に出て戦線を押し戻し、イスラエル南西の町ガザを占領したからです。そのため、カルデア人の先遣隊に加え、アラム、モアブ、アンモンといった周辺諸国の部隊がバビロンによって送り込まれて来ます(2節)。

 

 ここで列王記の記者は、預言者が告げたとおり,ユダを滅ぼすために主が彼らを遣わされたのだと言います。主に聴き従わないユダを撃つため、神の民ではない者たちが用いられるという皮肉がここにあります。

 

 そして、ヨヤキムの子ヨヤキンの治世3ヶ月のとき(8節)、バビロン王ネブカドネツァルが全軍を率いてエルサレムに押し寄せ、神の都をついに陥落させました(10節以下)。預言者イザヤを通して主が告げられたとおり(20章17,18節)、神殿と王宮の宝物がすべて運び出されました(13節)。

 

 王や高官、有力者たちをはじめ、軍人、職人たちも捕囚として連れて行かれました(14節以下)。「鍛冶」(14,16節)も職人ですが、わざわざ特記されているのは、彼らが刀や槍などの武具を取り扱う者だからでしょう。エルサレムから軍人や武器、そして鍛冶を取り上げれば、再軍備して反乱を起こすのを、未然に防ぐことが出来るというわけです。

 

 余談ですが、聖書には「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(エフェソ6章10節以下、11節という言葉があります)。それは、「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする」(同12節)戦いのためです。人間相手の戦いではないというのですから、人間を悪魔扱いしてはなりません。

 

 身に着けるべき武具は、真理の帯、正義の胸当て(同14節)、平和の福音のサンダル(同15節)、信仰の盾(同16節)、救いの兜、霊の剣なる神の御言葉(同17節)、そして、執り成しの祈りです(同18節)。闇の世を支配している悪魔との戦いの中にいることを覚え、すべてを成し遂げてしっかりと立つことが出来るように、絶えず御霊によって武装させていただきましょう。

 

 話を元に戻して、イスラエルは主なる神との交わりを捨て、主の目に悪とされることをことごとく行い続けて来た結果(9節)、ヨヤキン王はバビロンに捕らえられ(12節)、王の親族、高官たちも捕囚となりました(16節)。

 

 そして、冒頭の言葉(17節)のとおり、バビロンに連れて行かれたヨヤキンに代えて、その叔父(ヨセフの子)マタンヤが王とされ、名をゼデキヤと改めさせられました。彼がイスラエル最後の王となります(25章1節以下)。

 

 マタンヤとは「主の賜物」という意味でしたが、それをゼデキヤ、即ち「主の義」と改めたとあります。バビロンによって主の賜物が持ち去られ、バビロンによって主の義が示された。バビロンに服従することを通して、主との関係が正しくなるということを示しているかのようです。即ち、主がバビロンを義の器として用いておられるのです。

 

 勿論、バビロンが主なる神に対する篤い信仰を持っていたので、義の器として用いられているということではありません。また、バビロンの王に、主に従ってその器となろうという意識があるはずもありません。彼らは彼らの理屈でエルサレムに攻め上り、ヨヤキン王をはじめ主だったものを捕囚としたのです。

 

 ただ、その亡国の憂き目を見、捕囚の辱めを受けることを通して、エルサレムとユダの民が悔い改めて主なる神に立ち帰り、真のイスラエルを建てるように、主が異邦人をお用いになったわけです。

 

 預言者エレミヤが、神が立てた計画は、災いではなく平和の計画、イスラエルに将来と希望を与えるためのものだと語っています(エレミヤ書29章11節)。具体的には、バビロンの奴隷となった後、70年して帰国することが出来るという計画です(同10節)。

 

 国が滅びて他国の奴隷となることが、災いではなく平和の計画、将来と希望を与えるものだというのは、この苦難を経験した王を初め、ユダの民が主を呼び、祈り求めるようになるからです。主がその祈りを聞いてくださり(同12節)、主を尋ね求めて、主を見出すことが出来(同13節)、主と交わりを持つことが出来るようにしてくださるからです(14節)。

 

 つまり、神の民の平和とは、主なる神との関係が正しくなることなのです。そして、主との関係が正しくなるとき、希望と平和の源なる神(ローマ15章13,33節)が、将来と希望をお授けくださるのです。

 

 しかしながら、ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻します(20節)。そもそも、ゼデキヤが王となったのは、上述の通りバビロンの後ろ盾があったからですが(17節)、その後見人を捨ててエジプトに頼るのは、愚かとしか言えません。

 

 前王ヨヤキンの父(ゼデキヤの兄弟)ヨヤキムはエジプトの傀儡だったわけですが(23章34節以下)、バビロンに攻められたとき、エジプトはユダに対して何の助けも与えてはくれなかったからです(7節)。

 

 それを知らなかったとは思えませんが、それでもその愚行を行ったということは、神がイスラエルの罪を徹底的に裁くために、ゼデキヤに最悪の選択をさせたと言ってもよいのかも知れません(3,4節参照)。

 

 主に心を向けて内側から主に取り扱われ、その御心を悟り、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりましょう(ローマ12章2節)。そのため、何よりも先ず、神のご支配と神との親しい交わりを求めて、御前に進みましょう。主を信頼して大胆に神に近づきましょう(ヘブライ4章16節、7章19,25節など)。

 

 主よ、私たちがまだ弱く、罪人だったとき、私たちのためにキリストが死なれて神の愛を示され、敵であったのに、御子の死によって和解させて頂きました。その恵みに与った者として、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、義のための道具として神に献げます。主の御業のために用いてください。御国が来ますように。御心が行われますように。 アーメン

 

 

「ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。」 列王記下25章29節

 

 ヨヤキンは、攻め上って来たバビロンの王ネブカドネツァルに降伏し、家族や高官たちと共に、捕囚としてバビロンに連れて行かれました(24章12節以下)。ヨヤキンは18歳で王となり、3か月間王位にありました(同8節)。

 

 父ヨヤキムのとき、バビロンがエルサレムに攻め上って来て、服従を余儀なくされましたが、3年後にヨヤキムは反逆しました(同1節)。ヨヤキムが36歳の若さで世を去ったのは(23章36節参照)、国内の親バビロン派による暗殺という説があります。

 

 代替わりのころバビロンが攻め上って来て、3か月ほど持ちこたえたものの(24章10節以下)、結局父親の遺した置き土産のために、ヨヤキンがその責任を負わなければならなくなったのです。こうして、ヨヤキンをはじめ、主だった者たちが捕虜として連行されたのを、第一次バビロン捕囚と呼びます。紀元前597年頃に起こりました。

 

 バビロン王ネブカドネツァルは、ヨヤキンの代わりに叔父マタンヤを王とし、その名をゼデキヤと改めさせました(同17節)。ところが、何を考えたのか、ゼデキヤがバビロンに反旗を翻したのです(同20節)。

 

 エゼキエル書17章11節以下の預言によれば、ゼカリヤはその時、エジプトの援軍をアテにしていたようです。そのため、エレミヤの告げる預言を無視して(エレミヤ書27章以下)、主に背いた報いを受けるのです。

 

 24章20節の「エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から捨て去られることになった」という言葉から、バビロンに反旗を翻したのは主がユダを撃つための手立てだったのではないでしょうか。あるいは、主の導きに対して頑なになって、滅びを刈り取る道を進んでしまったのかも知れません。

 

 ゼデキヤの治世第9年にバビロン軍がエルサレムにやって来て陣を敷き、周囲に堡塁を築きます(1節)。エルサレムを包囲して兵糧攻めにしたのです(2節)。三方を谷に囲まれて、シオン(要害)と呼ばれていたのはだてでなく、一年余りも持ちこたえます(1,2節参照)。

 

 けれども、やがて兵糧がつき、飢えが厳しくなって都の一角が破られたのを見たゼデキヤは、夜陰に乗じて都を捨て、逃げ出します(3,4節)。「アラバに向かって行った」(4節)とは、ヨルダンの低地に向かっていたということで、ギレアドの地から隣国アンモンへの逃亡を目論んでいたのでしょうか。

 

 しかし、エリコの荒れ地で捕らえられ、リブラにいたバビロン王ネブカドネツァルのもとに引き出され、裁きを受けました(5,6節)。目の前で王子たちが殺され、そして両眼がつぶされ、足枷がはめられて、バビロンまで連行されました(7節)。

 

 エルサレムの都は、神殿や王宮、すべての家屋が焼き払われ(8,9節)、城壁が取り壊されました(10節)。また、貧しい民の一部を除いて、他の者は皆捕囚としてバビロンに連れ去られました(11,12節)。これを、第二次バビロン捕囚と呼びます。紀元前587年ごろのことです。

 

 第一次補囚の597年を「いくな」、第二次補囚の587年を「いやな」と読むと、覚えやすいでしょうか。

 

 バビロン王は、イスラエルに残した者たちの上に、ゲダルヤを総督として立てました(22節)。ゲダルヤは、ヨシヤ王の書記官シャファンの孫で(22章3節)、父アヒカムと共に、預言者エレミヤを守りました(エレミヤ書26章24節、39章14節)。主なる神を信じて、王に仕え、預言者に仕える家系です。

 

 ゲダルヤは、彼のもとに集まって来た人々に、「この地にとどまり、バビロンの王に仕えなさい。あなたたちは幸せになる」(24節)と誓って語ります。この言葉の背後に、預言者エレミヤの指導があったと思われます(エレミヤ書39,40章参照)。

 

 ところが、王族の一人、ネタンヤの子イシュマエルが、ゲダルヤを暗殺してしまいます(25節)。それは恐らく愛国心から出た行動だったと思われますが、しかし、総督を殺してしまったことでバビロンによる報復を恐れ、彼らはイスラエルを捨て、エジプトに向かって出発します(26節)。

 

 アブラハムの子イシュマエルは、妻サラのエジプト人の仕え女ハガルが産んだ子でした。イシュマエルのゆえに、エジプトに逃げるというのは、偶然の一致でしょうけれども、面白い歴史の巡り会わせです。このあたりの出来事は、エレミヤ書40~11章にもう少し詳しく記されています。

 

 主なる神の憐れみによってエジプトの奴隷の苦しみから解放され、約束の地に住むことが出来たイスラエルの民が、恩知らずにも主に背いてその怒りを買い、再びエジプトに逃れるのです。主の恵みを私し、主の掟を蔑ろにする者たちのなれの果てです。でも、私には彼らを笑うことが出来ません。他人のことを言えた義理ではないからです。

 

 一方、最初に捕囚とされたユダの王ヨヤキンは、37年の長い獄中生活の後、新たにバビロン王となったエビル・メロダクに情けをかけられました(27節)。新王の即位に伴う恩赦ということでしょう。

 

 エビル・メロダクはヨヤキンを獄から出し、捕囚の身となっていた他の王たちの中で最高の位を与え(28節)、さらに、冒頭の言葉(29節)のとおり、毎日欠かさず一緒に食事をするようにしたのです。「獄中の衣を脱ぎ」ということで、古い囚われの生活から新しい自由な生活へ移されたことが示されます。

 

 18歳で王となった途端、バビロンとの戦いを指揮することとなり、3か月の籠城の後、捕囚となって37年を過ごして来たヨヤキンにしてみれば、なぜそのような恵み、光栄に与ることが出来るようになったのか、全く訳が分からなかったのではないでしょうか。それこそ、一方的に与えられた驚くべき恵み(Amazing Grace)です。

 

 ここにも、主がユダに与えたのは、災いではなく平和の計画であり、将来と希望を与えるものである(エレミヤ29章11節)という預言の成就を見ることが出来ます。主はユダを滅ぼしたかったのではなく、むしろ、主の恵みの内を歩ませたいと願っておられるのです。だから、将来に向け、希望と平安を与えるために、ご自分のもとに立ち帰るよう待っておられるということです。

 

 私たちも、王の王、主の主であられるイエス・キリストの憐れみによって罪赦され、解放されました(ローマ6章18節、8章2節)。主を信じる信仰により、神の子となる特権に与りました(ヨハネ1章12節)。古い自分に死に、主と共に新しい命に生かされています(ローマ6章4節、第二コリント5章17節)。

 

 そして、日毎に信仰の養いを頂いています。やがて御国に召されたときには、主と共に食卓を囲むことが出来ます(マタイ26章29節参照)。

 

 常に主の御前に謙っていのちのみ言葉に与り、霊と真実をもって主を礼拝する者とならせていただきましょう。

 

 主よ、どんなときにも安らかに主を信頼していることが出来ません。艱難に襲われるとき、危機に遭遇すると、我を忘れてしまいます。弱い私を顧み、試練に遭わせないで、悪しき者から救い出してください。人知を越えた主の平安をもって、私たちの心と考えを守ってください。お言葉どおり、この身になりますように。主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン

 

 

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2014年8月6日サイト開設