ルツ記

 

 

「ナオミは言った。『どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦い)と呼んでください。全能者がわたしをひどい目に遭わせたのです。出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです。なぜ、快い(ナオミ)などと呼ぶのですか。主がわたしを悩ませ、全能者がわたしを不幸に落とされたのに。』」 ルツ記1章20,21節

 

 これから、ルツ記の学びです。ルツ記は、キリスト教会の聖書では「歴史書」として士師記とサムエル記の間に置かれていますが、ヘブライ語聖書(マソラ本文)では「諸書」(ケスビーム)に入れられています。ルツ記の最近の研究では、その言語学的文法的特徴から、捕囚期、もしくはその後の時代に成立したものと考えられています。

 

 ルツ記で物語られているのは、イスラエルが誇る王ダビデが誕生する3世代前のことです(4章17節)。ダビデは、紀元前1000年ごろ、歴史の舞台に登場して来ました。1節によれば、それはイスラエルで王制が採られる前の、士師によって国が治められていた時代のことです。

 

 最初の舞台は「モアブの野」です(2節)。イスラエルが飢饉に襲われたので、ユダのベツレヘムから、夫エリメレク、妻ナオミ、マフロンとキルヨンという二人の息子の4人家族が(2節)、飢饉を逃れてモアブの野に移り住みました。

 

 かつて、イスラエルの父祖アブラハムが飢饉を逃れてエジプトに下ったのを皮切りに(創世記12章10節以下)、その子イサクはゲラルのペリシテ人の地に逃れ(同26章1節以下)、その子ヤコブとその家族は、ヨセフが宰相を務めるエジプトに下りました(同6章)。

 

 ユダの山地はおよそ肥沃な農地ではありません。そこに住む人々は、飢饉に見舞われる度に、家族を守るため食料を求めて移動しなければなりませんでした。しかし、モアブがベツレヘムよりも食料を調達し易かったかどうか、確かな証拠はありません。むしろ、この後に起こる出来事は、その移住が相応しいものではなかったと語っているようです。

 

 エリメレク一家がモアブの野に移住してどれほどの時間が経ったときか分かりませんが、一家の大黒柱が亡くなります(3節)。日本語に訳されていませんが、原文を見ると、2節では「彼の二人の息子」ですが、3節では「彼女の二人の息子」と言い換えられています。妻のナオミがエリメレクに代わって主役になったということです。

 

 やがて、遺された二人の息子マフロンとキルヨンは、モアブの女性を妻に迎えました(4節)。婚姻関係を持つことで、モアブの野での生活の安定を図ったものと考えてもよいのでしょう。その後、10年ほどは安穏とした生活が営まれたようです。

 

 けれども、なんとマフロンとキルヨンが相次いで亡くなってしまいます(5節)。彼らには、10年の結婚生活で子どもが与えられなかったようです。どう考えてよいのか分かりませんが、ナオミにとっては、夫と息子たちという頼りとする男性すべてを、この地で失ってしまうことになりました。

 

 ただ、ヘブライ語を話す者にとっては、息子たちが亡くなることは、決して突飛なことではありません。というのは、マフロンとは「病気、弱さ」(ハーラー)と関連し、キルヨンは「失敗、虚無、絶滅」(キラーヨーン)と関連する名前だからです。名は体を表すと言いますが、名前の通りになったわけです。

 

 家族の男たちを失ったナオミは、ついに帰国を決意しました(6節)。飢饉を逃れてモアブの地に来たときは夫と二人の息子がいて、若さもあり、将来に不安を抱いていなかったことでしょう。けれども、モアブの地で10年余を過ごし、生活の基盤を整えることが出来たわけでしょうけれども、将来を共に歩むべき最愛の家族を失ってしまったのです。

 

 これから、何を頼りに生きていけばよいでしょうか。不安を通り越して、絶望してしまいました。ただ、一縷の望みといってよいかどうか、自分が帰ろうとしている故郷では、「主がその民を顧み、食べ物をお与えになった」(6節)ということを、風の便りに聞いたのです。それで、どうせ死ぬなら故郷でといった思いを起こさせ、帰国しようということになったのでしょう。

 

 ですが、そこに働いているのは、主の御業です。主がイスラエルの民を顧みられたというのです(6節)。それが、ナオミの帰還を可能にしたということは、そこに主の導きがあったということ、ナオミがイスラエルに戻ることが、主の御心であったということではないでしょうか。 

 

 しかしながら、そのことはまだ、ナオミ自身の希望となってはいませんでした。だから、故郷に帰ったナオミに、町の女性が「ナオミさんではありませんか」(19節)と声をかけると、「はい、そうです」とは答えないで、冒頭の言葉(20節)の通り、「どうか、ナオミと呼ばないで、マラと呼んでください」と答えています。

 

 新共同訳聖書にはカッコ書きで注釈がつけられていますが、「ナオミ」は「快い」、「マラ」は「苦い」という意味です。国を出るときは、家族に囲まれて「ナオミ」でしたが、今はすべてを失って「苦しみ(マラ)」だというのです。

 

 しかも、そのようにしたのは主なる神だ、神が自分を不幸に堕とされたのだと、ナオミは考えています(21節)。夫を、そして息子たちを取り上げたのは、主の御手だと、嫁たちにも語っていました(13節)。確かに、そう言いたくもなる状況ではあります。

 

 とはいえ、彼女はすべてを失ったわけではありません。飢饉で逃げ出した故郷を主が顧みて、今は食べ物があるようになっています。将来を託した息子は失いましたが、七人の息子にもまさる嫁のルツが(4章15節)、ナオミに従って来ているのです。

 

 ルツは、ナオミが自分の里に帰れと言っても(11節以下)、「あなたの民はわたしの民、あなたの神はわたしの神。あなたの亡くなられる所でわたしも死に、そこに葬られたいのです。死んでお別れするのならともかく、その他のことであなたを離れるようなことをしたなら、主よ、どうかわたしを幾重にも罰してください」(16,17節)と答えました。

 

 二人がナオミの故郷の「ベツレヘムに着いたのは、大麦の借り入れの始まるころ」(22節)でした。自分では、今は「苦しみ(マラ)」と思っていても、主は彼女を「ナオミ」と呼ばれます。主なる神の計画は、平和の計画であって災いの計画ではなく、将来と希望を与えるものだからです(エレミヤ書29章11節)。

 

 私たちに平和の計画をもって将来と希望をお与えくださる主、万事が益となるよう共に働かれる主を仰ぎ(ローマ書8章28節)、何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けましょう(フィリピ書4章6節)。

 

 主よ、あなたは私たちのために、ご自分の栄光の富の中から、必要のすべてを豊かに備えてくださるお方です。あなたが私たちに最善のことをしてくださいます。そう思えない状況の中で、主を信じられる者は本当に幸いです。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰を与え、導いてください。 アーメン

 

 

「わたしの主よ、どうぞこれからも好意を示してくださいますように。あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて、本当に慰められました。」 ルツ記2章13節

 

 ナオミと共にユダのベツレヘムにやって来たモアブ人の嫁ルツは、落穂を拾いに畑に行くと、ナオミに告げます(2節)。それは大麦刈の始まるときでした(1章22節)。過去の飢饉が嘘のような情景です。ナオミにとって、モアブ行きは何のためだったのかと、あらためて嘆きたくなるような話です。

 

 律法には、「穀物を収穫するときは、畑の隅まで刈り尽くしてはならない。収穫後の落穂を拾い集めてはならない。ぶどうも、摘み尽くしてはならない。ぶどう畑の落ちた実を拾い集めてはならない。これらは貧しい者や寄留者のために残しておかねばならない」(レビ記19章9,10節、23章22節、申命記24章19節以下など)と規定されています。

 

 しかし、モアブ人のルツが、この規定を知っていたということはないでしょう。あるいは、ナオミがユダヤにはそのような定めがあるということを教えたので、ルツが、それでは行って来ますということだったのではないでしょうか。

 

 ルツは、刈り入れをしている農夫たちを見つけて、落穂を拾い始めました。それは、「たまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地」(3節)でした。つまり、ナオミの夫エリメレクの親族の畑と知らずに、ルツは落穂拾いを始めたわけです。

 

 ボアズのことは1節で、「ナオミの夫エリメレクの一族には一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった」と紹介されています。「有力な親戚」(ギッボール・ハイル)とは「傑出した富める者、有力者、尊敬に値する人」といった意味の言葉です。ベツレヘムにおいて高い地位を占めていたことを暗示します。

 

 このような言葉遣いは、愛する家族を失い、貧困のどん底にいるナオミや外国人嫁ルツとボアズとの社会的格差を際立たせます。しかし、後にボアズはルツのことを「立派な婦人」(エーシェト・ハイル、3章11節)と褒めていて、二人の距離が縮まっていることを示します。

 

 ボアズの畑で刈り入れをする農夫たちを監督している召し使いたちは、農夫たちの後について落ち穂を拾っている女性が、ナオミに着いて来たモアブの娘であるということを知っていました。そして、異邦の若い女性の動向が気になったのか、彼女の行動を観察していたのです。しかしそれは、単なる好奇心ではなかったようです。

 

 というのは、主人ボアズがルツのことを召し使いの一人に、「そこの女は誰の娘か」(5節)と尋ねたとき、「ナオミと一緒に戻ったモアブの娘」(6節)と答えただけでなく、「『落穂を拾い集めさせてください』と願い出て、朝から今までずっと立ち通しで働いておりましたが、今、小屋で一息入れているところです」(7節)と報告しているからです。

 

 ボアズはその後ルツに、「主人が亡くなった後も、しゅうとめに尽くしたこと、両親と生まれ故郷を捨てて、まったく見も知らぬ国に来たことなど、何もかも伝え聞いていました」(11節)と語っています。モアブの地で亡くなったエリメレクのこと、その後のナオミの苦労、そして、その嫁ルツがナオミについてベツレヘムに来たことも、予め聞き知っていたわけです。

 

 自分の畑で働いている若い女性がそのルツであったことを知り、しかもその誠実な働きぶりを聞いて、ボアズはルツに親切を示します。それは、ずっとボアズの畑で落ち穂を拾うこと(8節)、喉が渇いたら、若い者がくんでおいた水を飲むこと(9節)、食事に同席させること(14節)、麦束の間でも落ち穂を拾わせ(15節)、刈り取った束から穂を抜き落としておくこと(16節)です。

 

 5節の「誰の娘か」には「召し使い」(ナアル)の女性形が用いられて、彼女の主人、父親などについて尋ねる言葉ですが、8節でルツに「わたしの娘よ」(バトゥ)と呼びかけたとき、彼は、ナオミがルツをそう呼んだのと同様(2節参照)、自分の家族として守ろうという言葉遣いをしています。

 

 思いがけない親切に、ルツはかえって警戒感をもって、「よそ者のわたしにこれほど目をかけてくださるとは。好意を示してくださるのは、なぜですか」(10節)と問うていますが、それが確かに好意であると分かると、冒頭の言葉(13節)のように、「どうぞこれからも好意を示してくださるように」と、少々厚かましくお願いをしています。

 

 ここで、「あなたのはしための一人にも及ばぬこのわたしですのに、心に触れる言葉をかけていただいて」というのは、原文は「あなたは、あなたのはしために親切に語られたからです。わたしはあなたのはしための一人のようではないのですけれども」という言葉です。

 

 「はしための一人のようではない」(アノヒー・ロー・エヒエ・ケアハト・シフホーテーハー)というのを、新共同訳聖書は、「はしための一人にも及ばぬ」と、謙遜して語っているように訳していますが(岩波訳も同様)、反対に「わたしは、ただのはしためではない」というニュアンスに訳出することも出来ます。

 

 しかし、ルツはここで、確かに謙遜に語っただろうと思います。ルツの誠実な働きぶり、姑のナオミに対して示した親切、そして、この謙遜な態度により、ボアズの心に好意以上のものが芽生えていたのでしょう。

 

 そして、後にルツはボアズの妻として迎えられることになり(4章10節)、二人の間に子が授けられます。その子の孫が国王となります。つまり、確かにルツは、ただのはしためではなかったのです。ダビデ王の曾祖母となったのですから。

 

 当然のことながら、このときルツは、自分がボアズの嫁となることはおろか、曾孫が国王になることなど、思いつきもしなかったことでしょう。ただただ、「はしための一人にも及ばぬ」自分に親切にしてくれるボアズに、感謝するばかりだったと思います。

 

 「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かのときには高めていただけます」(第一ペトロ書5章6節)とペトロが語っています。主が出会わせてくださる人、出来事に誠実に向き合いましょう。そして、絶えず主を仰ぎましょう。

 

 主よ、あなたはナオミを顧み、その嫁ルツに目を留めて、ボアズを通して恵みをお与えになります。まだ、ナオミもルツも、そしてボアズも知りませんが、彼らが出会うことは、あなたのご計画でした。主の御業が最善であると信じられる人は本当に幸いです。その幸いを私たちにも授けてください。御心がこの地になりますように。アーメン

 

 

「しゅうとめのナオミが言った。『わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探して来ました』。」 ルツ記3章1節

 

 ナオミは、冒頭の言葉(1節)のとおり、「わたしの娘よ、わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探して来ました」と嫁のルツに告げました。ここで、「幸せになる落ち着き先」というのは、新しい嫁ぎ先のことです。

 

 以前、モアブからユダのベツレヘムに帰って来る際、ナオミは二人の嫁に、「どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように」と祝福を祈っていました(1章9節)。

 

 ナオミは今、自分について来たルツのために、新たな嫁ぎ先を与えて安らぎを得させたいと考えているわけです。新たな嫁ぎ先とは、ルツが落穂を拾わせてもらっている畑の持ち主ボアズのことでした。ボアズは、エリメレクの家を絶やさないようにする責任のある親戚です(2章20節、レビ記25章25節)。

 

 それに加え、ルツに特別な配慮をして、彼女に対する好意を示しています。何しろ、1日で1エファ(約23リットル)もの大麦を拾い集めさせ(2章17節)、その上、収穫が終わるまでずっと、他所に行かないようにと、ルツに告げているからです(同21節)。

 

 そこで、ナオミはこの機を逃さないように、早速ルツに行動を起こさせます。2節に「麦打ち場で大麦をふるい分ける」という言葉があります。収穫した麦を脱穀した後、麦ともみ殻をふるい分ける作業のことです。その夜は喜びの夜で、楽しい食事が終ると、ふるい分けた穀物と共にそのまま一夜の眠りをとるというのが習わしだったようです(7節参照)。

 

 それを知っていたナオミは、「体を洗って香油を塗り、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい」(3節)とルツに言い、そして、「あの人の衣の裾で身を覆って横になりなさい。その後すべきことは、あの人が教えてくれるでしょう」(4節)と入れ知恵します。そしてルツは、ナオミの言うとおりにします(5節以下)。

 

 夜中、ボアズが足元に寝ている女性に気づいて「お前は誰だ」と尋ねると、女性は「わたしは、あなたのはしためルツです。どうぞあなたの衣の裾を広げて、このはしためを覆ってください。あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」(9節)と答えました。「衣の裾を広げて、自分を覆ってください」とは、自分を保護してくれる人になって欲しい、つまり、自分を妻に迎えて主人になって欲しいと願っているのです。

 

 ここで、「衣の裾」(カーナーフ)という言葉は、ボアズがルツを祝福して「主がその御翼のもとに逃れて来たあなたに十分報いてくださるように」(2章12節)と祈ったときの「御翼」と同じ言葉です。岩波訳は「あなたの翼を僕女の上に広げてください」と訳しています。ルツは、ボアズが祈った「主の報い」を、ボアズを通して受け取りたいと求めたのです。

 

 また、「家を絶やさぬ責任のある方」(ゴーエール:9節)とは、「贖う」(ガーアル)という動詞の分詞で、岩波訳が「贖い手」と訳しています。口語訳は「最も近い親戚」、新改訳は「買い戻しの権利のある親類」です。ルツを妻とすることは、エリメレクの家を贖う責任を負うことになるというわけです。

 

 それに対してボアズは、「今あなたが示した真心は、今までの真心よりまさっています」(10節)、「わたしの娘よ、心配しなくていい。きっとあなたが言うとおりにします」(11節)と答え、ルツの願いを承諾しました。ここで、ボアズはルツがとったこの行動を、「真心」(ヘセド)と表現しました。

 

 「ヘセド」は旧約において、神の慈しみを示す重要な言葉です。ここでは、変わらない忠誠心といった意味で用いられているのでしょう。岩波訳は、「今までの真心」とは、夫の死後姑を見捨てなかったこと、そして、「今示した真心」とは、このような(夜半に男性の足元に伏すという)大胆さをもってまでして、姑の「贖い主」を求めていることという注釈をつけています。

 

 それはまた、ルツがナオミに対して示している忠誠心と共に、ボアズに対して行ったこと、即ち自分に好意を示してくれたボアズのもとに赴き、「(自分が)幸せになる落ち着き先」と、エリメレクの家の贖いとを、ボアズの手に委ねようとしたことを、ルツの「真心」(ヘセド)とボアズが受け止めたということでもあります。それで、ボアズはルツのために最も良いことをしてやろうというのです。

 

 このことで、「神を愛する者たち、つまり、ご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしは知っている」(ローマ書8章28節)という御言葉が示されました。神を愛する者のために、神は万事を益となるように共に働かれるというのです。

 

 神を愛するというのは、神が恵みをお与えくださったことに対する真実な応答といってよいでしょう。ということは、神を信じ、自らを神に委ねることといってもよいでしょう。ボアズの示した好意に対して、ルツのとった行動がボアズによって「真心」と受け止められ、すべてがそれまで以上の益に変えられていくのを見ることが出来ます。

 

 私たちが幸せを得る落ち着き先、それは、私たちに恵みを与えご自身の計画に従って私たちを召してくださり、万事が益となるように共にお働きくださる主なる神の懐です。真心から神を愛する者とならせていただきましょう。

 

 主よ、私たちがあなたを選んだのではありません。あなたが私たちを選んでくださいました。それは、私たちが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり、主イエスの御名によって祈ることを父なる神がかなえてくださるためです。それはすべて、神の驚くべき恵みです。その恵みに信仰と希望と愛をもって応答し、託される使命を全うすることが出来ますように。 アーメン

 

 

「近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた。オベドはエッサイの父、エッサイはダビデの父である。」 ルツ記4章17節

 

 ボアズは、自分をその翼で覆い、エリメレクミの家を贖うように求めて来たルツに対し、「わたしの娘よ。心配しなくていい。きっと、あなたが言うとおりにします」(3章11節)と約束しました。そして、早速行動を開始します。

 

 1節の「町の門のところ」というのは、広場になっていて、裁判を行う場所にもなりました。ボアズがそこに行って座ると、エリメレクの土地を買い戻す責任のある親戚が通りかかったので、彼を呼び止め、そこへ座らせます。また、町の長老10人を証人として選びました(2節)。こうして裁判の準備が整いました。

 

 まず、ボアズが親戚の者に、モアブの野から帰って来たナオミが、エリメレク所有の土地を手放そうとしているが、それを買い戻して、「家を絶やさぬ責任ある者」(ゴーエール:3章9節、4節「責任を負っている人」)としての責任を果たすつもりがあるかと尋ねると(3節以下)、「わたしがその責任を果たしましょう」(4節)と応えました。

 

 そこでボアズが、「ナオミの手から畑地を買い取るときには、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません」(5節)と続けると、親戚の者は、「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。」(6節)と応えました。

 

 土地だけなら、エリメレクの名を残すためではあっても、買い取った畑地は自分のものになるので、喜んでその責任を果たしたいということでしょうけれども、ナオミの嫁ルツをめとらねばならないとなると、ルツが産んだ子がエリメレク所有の地を嗣ぐ正当な後継者ということになりますから、せっかく買い取った土地を再び手放さなければならなくなります。

 

 それでは、土地を買う代金がまるまる無駄になってしまいます。親戚の者が、「それではわたしの嗣業を損なうことになる」と言ったのは、ルツ一人を賄えないというのではなく、自分の財産を少しでも無駄にしたくないということでした。さらにまた、ルツが「モアブの婦人」であるということも(5節)、腰を引かせる原因の一つだったかもしれません。

 

 そこで、責任を譲るにあたり、親戚の者は自分の履き物を脱いで、ボアズに渡しました。文字通り下駄を預けられたボアズは、陪審席にいる長老10人と傍聴席の全イスラエルの民に、エリメレクの遺産をすべて買い取ること、また、ナオミの息子マフロンの妻であったルツを引き取って自分の妻にすることを宣言します(9,10節)。

 

 長老たちはそれを承認し、「あなたが家に迎え入れる婦人を、どうか、主がイスラエルの家を建てたラケルとレアの二人のようにしてくださるように。また、あなたがエフラタで富を増し、ベツレヘムで名をあげられるように。どうか、主がこの若い婦人によってあなたに子宝をお与えになり、タマルがユダのために産んだペレツの家のように、御家庭が恵まれるように」(11,12節)と祝福しました。

 

 ボアズとルツは結ばれ、やがて男の子を授かります(13節)。長老たちがボアズを祝福したように、今度は、女たちが登場して来て、ナオミを祝福して、「主をたたえよ。主はあなたを見捨てることなく、家を絶やさぬ責任のある人を今日お与えくださいました」(14節)と言います。

 

 「家を絶やさぬ責任のある人」とは、もちろんボアズのことですが、しかし、「イスラエルでその子の名があげられますように」というところから、授かった男の子のことを「家を絶やさぬ責任のある人」と語り、祝福しているわけです。

 

 また、この子の親は、当然ボアズとルツのはずですが、懐に抱き上げ、養い育てたと言われるのはナオミです(16節)。岩波訳の注釈によると、「懐に抱きあげ」とは、単なる愛情表現などではなく、自分の養子としたということです。

 

 だから、「養い育てた」(オーメネト:アーマンの分詞)と言われるのです。岩波訳は、「養母になった」と訳しています。民数記11章12節ではこの言葉が「乳母」と訳されていますが、ナオミの年齢を考えれば、それはあり得ないでしょう。

 

 さらに、冒頭の言葉(17節)のとおり、「近所の婦人たちは、ナオミに子供が生まれたと言って、その子に名前を付け、その子をオベドと名付けた」のです。父系社会と見えるイスラエルにおいて、近所の婦人たちがここで果たしている役割には、少々驚きを覚えます。

 

 ここで、「オベド」とは「仕える者、下僕」という意味です。オベドはその名のごとく、ナオミの生き甲斐となり、老後を支えるために彼女に仕える者となり(15節)、そして、エリメレクの家全体に仕える者となるのです(14節)。

 

 近所の婦人たちが、そのように「仕える者となるように」との思いを込めて「オベド」と名付けたのを両親は喜んで受け入れ、この子の名としたのでしょう。そこに改めて、ボアズとルツの信仰を見ることが出来ます。

 

 オベドの孫にダビデが生まれ、さらに、ダビデの子孫として主イエスがお生まれになりました(マタイ1章1,16節)。主イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10章45節)と言われました。確かにオベドの子孫であられます。

 

 主イエスは、その命の代価をもって私たちの魂を生き返らせ、御名のために絶えず正しい道に導いてくださいます。そのために十字架に死なれ、三日目に復活されたことを記念し、お祝いするのがイースターです。主の恵みを喜び、感謝をもって主に仕え、全世界の人々と共に、イースターを喜び祝いたいと思います。

 

 主よ、あなたは私たちのために、御子のみならず、すべてのものを与えて、私たちを生かしてくださいました。私たちも、あなたの憐れみにより、この体を主に喜ばれる生ける聖なる供え物として、お献げします。御名のために、清めてお用いください。御心がこの地にもなされますように。この年、イースターの喜びと希望が全地にありますように。 アーメン

 

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