ヨブ記

 

 

「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」 ヨブ記1章1節

 

 今日からヨブ記に入ります。ヨブ記について、ヘブライ語の語彙や記述されているモティーフ、取り扱われている主題の共通性から、第二イザヤ(イザヤ書40章以下)の成立と関係のあるバビロン捕囚時代に著述されたものではないかと考えられています。

 

 冒頭の言葉(1節)で、ヨブ記の主人公ヨブは、「ウツの地」にいたといいます。「ウツ」は、創世記22章21節ではナホルの長男の名で、パレスティナ北東シリアの地を指すと考えられ、また哀歌4章21節によれば、パレスティナ南東エドムの地を指しているようです。いずれにせよ、それはイスラエル国内ではありません。

 

 ヨブという名について、 「アッヤ・アブム=(神なる)父は何処に」という意味ではないかと考えられています。つまり、生涯を通じて神が臨在されるようにという永続的な祈りを示しています。また、「アーヤブ=憎む」の受動態分詞形で「憎まれ、迫害された者」という意味の名前ではないかという学者もいます。

 

 「父なる神はどこへ」も「憎まれ、迫害された者」も、ヨブの苦難について、主なる神は長く沈黙しておられて、ヨブの訴えにお答えにならないというのを、その名前に宛てたというかたちになっています。上述のとおり、ウツがイスラエル国内でなく、ヨブがイスラエル人でなければ、その名の意味をヘブライ語で考えても、意味がないことかも知れません。 

 

 ヨブ記には、ヨブがいつの時代に生きていたのかを判別させる情報が何も記されていません。そのことからヨブ記の記者は、この物語を具体的な過去の歴史としてでなく、いつの時代にも、そして誰にでも起こり得る出来事として、ここから大切な指針を学んで欲しい、それを学ぶことが出来ると考えているのではないかと思われます。

 

 つまり、誰もがヨブ、あるいはヨブの三人の親友エリファズ、ビルダド、ツォファルの立場に立たされることがあるということです。ですから、ヨブになったつもりで、あるいは、彼の友になったつもりで、そこに語られている言葉の意味、その人物の思想などを考えてみましょう。

 

 ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と言われます(1節)。「無垢」は「ターム=完全な、汚れのない」という言葉で、神の前に示される敬虔さを示しています。また、「正しい」は「ヤーシャール=平らな、真直ぐな、正しい、正直な」という言葉で、悪を避けて、真直ぐな道を歩む真正直さを示しています。この敬虔さと真正直さが本書のテーマであり、通奏低音になっています。

 

 2~3節で、「七人の息子と三人の娘を持ち、羊七千匹、らくだ三千頭、牛五百くびき、雌ろば五百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった」と記されていますが、この記し方で、ヨブが敬虔に真正直に歩んでいたので、そのような祝福を神から受けたということを示しているようです。

 

 ところが、あらゆる財産、すべての子どもたちを、交互に襲いかかって来た異邦人による略奪と天災によって、一瞬にして失ってしまいます(13~19節)。何故、そんなことが起こったのでしょうか。財産はともかく、子どもを失って平気な親はいません。

 

 長男の家で開かれていた「宴会」は、4節の「順番に」というのが「彼の日に」という言葉で、誕生を祝う日であることを示していることから、誕生を祝う宴会が、大風で子らをすべて失う弔いの日に変わってしまったのです。どんなに嘆いても嘆き足りないでしょう。どれほど神を呪いたい思いになるでしょうか。それこそ、自分も死にたくなる気分ではないでしょうか。

 

 その報せを受けたヨブは立ち上がり、まったく沈黙したまま衣を裂き、髪を剃って喪に服し、地にひれ伏しました(20節)。それは、悲しみを表す表現、大きな痛みを受けて、それを形式的に表現したものです。感情を形に表すことは、感情が爆発し荒れ狂うのを防ぐ防波堤のような役割を果たします。

 

 そして、ヨブは口を開きます。それは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(21節)という言葉でした。

 

 まず、自分自身を主語として、すべてを失った悲しみを、「裸でそこに帰ろう」と言い、次いで、この出来事は主の御業だという信仰を示し、結語で「主の御名はほめたたえられよ」と賛美して、すべてを肯定的に受け止めていることを表現しています。

 

 この言葉は、深い悲しみを形式的に表現したことと同様、愛する子らを失った大きな心の痛みを、死別に際しての伝統的な信仰告白の言葉で言い表し、それ以外の暴言が飛び出してくるのを防ぐ垣根としたと理解することが出来ます。つまり、形式的な感情表現と、伝統的な信仰告白によって、感情の爆発、不敬虔な暴言を必死に抑え込んだわけです。 

 

 天上の神の会議において、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」とサタンが神に言いました(9節)。「利益もないのに」というのは、「故もなく、自由に、無償で」という言葉です。

 

 ヨブのみならず、私たちは神によって創造されました。ですから、自発的に神を畏れ、敬うというよりも、神に造られた者としての意識のゆえに、その応答として神を畏れ、敬うというのが、私たちの礼拝の出発点であるのは、疑いもないことです。

 

 それは、私たちがどのようなものとして神に創造され、その被造物である私たちが、創造者なる神とどのような契約を結ぶことが出来るのかという問いを思わせるものです。であれば、御自分の創造された、模範的な敬虔さ、正しさを示しているヨブを打つことをサタンに許し、ヨブが精神的、肉体的な苦しみを受けたことは、それは神御自身の苦しみでもあったのではないでしょうか。

 

 ヨブが、その振る舞いと言葉で神を非難せず、むしろ賛美したことを、「このようなときにも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」(22節)と評価しています。それは、この時点で、彼の自意識のなせる精一杯の振る舞いであり、言葉だったと思われます。そしてそのことが、2章で問われることになるのです。

 

 新約の時代に、主イエスが、使徒ペトロたちの離反を、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(ルカ福音書22章31節)と予告され、続けて「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(同32節)と仰いました。

 

 サタンに振るわれて、自分の力で立ち続けることのできる者はいないということです。だからこそ、主イエスが私たちのために祈りで支え、再び立ち上がることが出来るようにしてくださるというのです。そして、その経験を通して、同じように振るわれ、打ちひしがれている者を慰め、力づけることが出来るようにしてくださるというのでしょう。 

 

 主イエスは、神の御子であるにもかかわらず、多くの苦しみを受け、その苦しみをとおして従順を学ばれたお方です(ヘブライ書5章8節)。私たちと同じ試練を味わってくださったので、私たちの弱さを知り、憐れみと恵み、時宜にかなった助けをお与えくださるのです(同4章15,16節)。

 

 さらに、御霊も弱い私たちのうちにあって私たちのために呻き祈られ、執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。かくして神は、私たちのために、どんなにマイナスと見える状況に囲まれていても、あらゆることがプラスとなるように働いてくださるのです(同8章28節)。

 

 私たちも、御霊の助けと導きに与って、どんなマイナスもプラスに変えてくださる主を信頼し、御名を誉め讃えつつ歩ませて頂きましょう。

 

 主よ、思いがけない不幸に見舞われる中で、ヨブはそこで主への賛美の言葉を語ることが出来ました。私たちも御霊の助けと導きに与り、万事を益とされる主に信頼し、「主は与え、主は奪う。主の御名はほむべきかな」と賛美することが出来ますように。その賛美が、真実となりますように。そして、全世界に主の平和が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」 ヨブ記2章5節

 

 主なる神の前に神の使いたちが集まり、サタンも来て主の前に進み出たとき(1節)、主神が、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(3節)とサタンに言われました。これは、1章8節で語られたのと全く同じ言葉です。

 

 そして、「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ」(3節)と、サタンの攻撃にもかかわらず、敬虔に過ごすヨブのことをさらに誇らしく思っておられるという発言をされました。

 

 というのは、サタンは、ヨブが神を畏れ敬うのは、神がヨブとその一族、全財産の周りに垣根を設けて守っているからだといって(1章10節)、一瞬にしてすべての財産を取り去り、すべての子らを奪い去ったけれども、ヨブは神を非難することなく、罪を犯すことがなかったからです(同22節)。

 

 逆に、主がヨブについて、「地上に彼ほどの者はいまい」(1章8節)と称賛するのは、確かな根拠に基づいていたということがよく分かっただろうというのです。ところが、それに対してサタンは、「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです」(4節)と応じます。

 

 「皮には皮を」というのは、何かの諺と考えられていますが、その意味は明らかではありません。ただ、「皮には皮を」と「命のためには全財産を」との対比で、二番目の「皮」と「全財産」が対応していると理解されます。

 

 1章10節の、神がヨブとその一族、全財産の周りに垣根をめぐらしているという言葉遣いで、ヨブには、幾重にも彼を覆っている皮があるということ、子どもたちや全財産というのは、ヨブにとって、彼を守る外側の「皮」だろうということが示されます。

 

 そして、ヨブ自身にも神の垣根がめぐらされていて、彼の命は最も内側の「皮」の中に守られているということ、その皮のためには外側の皮を、彼の命のためには全財産をという表現になっているのではないでしょうか。

 

 そこで、最後の守りである皮を取り去り、冒頭の言葉(5節)のとおり、主が手を伸ばしてヨブの骨と肉に触れられれば、もはや彼は無垢でいることは出来ず、神を呪うに違いないと告げるのです。

 

 それを聞いた神は、「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな」(6節)と、サタンがヨブを試すことを許されます。そこでサタンはヨブに手を下して、全身をひどい皮膚病にかからせました(7節)。その攻撃にどのようにヨブが応じるのか、注目されます。

 

 ヨブは、灰の中に座り、素焼きのかけらで体中かきむしりました(8節)。「灰の中に座る」というのは、エステル記4章3節に、「灰の中に座って断食し、涙を流し、悲嘆にくれた」という言葉があり、上着を裂き、粗布をまとうなどの形式と並んで、悲嘆を表現する方法ということではあります。

 

 他方、重い皮膚病を患う人が出ると、町の人々は彼を外のゴミ捨て場に追放することが常だったと言われ、ヨブもそのような目に遭わされた、つまり、ひどい皮膚病を患った上に、屈辱的な振る舞いをされたということかも知れません。 

 

 そして、「素焼きのかけらで体中をかきむしった」というのは、頭をそるという以上の、悲しみを表現する極端なやり方でしょうか。あるいはまた、ひどい皮膚病のかゆみに、強く激しい刺激で対抗しているということでしょうか。

 

 こうしてヨブの行動は、1章のときとは明らかに変化しました。その内容をはっきり把握することが出来ない、あいまいで複雑なものになって来ています。 

 

 そこで、ここまで口を開くことのなかったヨブの妻が、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」(9節)と発言します。「呪って」と訳されているのは、「バーラフ(祝福する、讃える)」という言葉です。

 

 岩波訳は「神を讃えて」と訳し、脚注に「ヨブの妻は夫が誰よりも高潔で、それを放棄しないことを知っているが、夫がこれ以上苦しむのを見ていられない。夫が神を呪って処罰を受けてでも、早く世を去って欲しいと思うが、彼が神を呪うわけがない。そこで彼女は、『神を讃え抜いて死んだらいい』と夫に語る」と記しています。

 

 とすると、「呪って」と訳しても「讃えて」と訳しても、ほとんどその意味に変わりはないということになります。そしてこれは、おのが腹を痛めて産んだ子らを一度に失った苦しみに加え、皮膚病で苦しむ夫を傍らで見ながら、どうすることも出来ないので、神を呪って死にたいと彼女自身が考えている表れなのではないかと思われます。

 

 ただ、サタンがヨブの妻を用いて、神を呪って死ぬようにヨブを唆したということも出来そうです。というのは、サタンが「手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい」と言いましたが、ヨブにとってその妻は、「わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」(創世記2章23節)というべき存在でしょう。ヨブの骨と肉に触れるとは、彼女に触れることでもあったのです。

 

 ヨブの苦しみは神御自身の苦しみではないかと、昨日学びましたが、ヨブの妻の苦しみは、ヨブの苦しみを示しています。ヨブは「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(10節)と言います。

 

 ここで、「お前まで愚かなことを言うのか」とヨブは語っていますが、「お前まで」ということは、誰かが彼に「愚かなこと」を言ったということを表しています。それは誰なのでしょう。原文は「あなたは、愚かな女たちの一人が語るように、語っている」という言葉遣いです。愚かな女たちの仲間になったというような表現でしょうか。

 

 ただ、「お前は愚かなことを言う」というのではなく、そのような言葉遣いをすることで、むしろ、ヨブの心の片隅に、妻が語ったとおり「神を呪って死ぬ方がまし」とささやく声があったと表明しているようにも思われます。

 

 また、1章21節では「わたしは」と、自らの思い、信仰を明確に表現しました。ここでは「わたしたちは」と、妻をその協力者として共に立たせて、「不幸もいただこうではないか」と、決意を言い表すような問いかけの言葉で終わっています。

 

 ヨブの言葉の後に、「このようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことはしなかった」(10節)と、彼の振る舞い、言葉に対する評価が記されています。1章22節の「このようなときにも、ヨブは神を非難することなく、罪を犯さなかった」というのと、特に変化はないようです。

 

 ただ、「唇をもって罪を犯すことはしなかった」ということは、表現された言葉ではなく、彼の心中はいかなるものか、彼の骨と肉はなんといっているのかというところは、彼の態度同様、あいまいになって来ているということを示してはいないでしょうか。

 

 ヨブの妻の発言について、「あなたはまだ一人で自分の無垢を主張するのですか。自分の完全さ、汚れのなさを主張し、それを保ち続けようとすることで、自分は神の外に、神と無関係に立っているということになりはしませんか。その無垢な自分を苦しめる神を呪うことになりはしませんか。それは自分の死を意味することではありませんか」と読む解釈が注解書にありました。

 

 ということでいえば、ヨブの妻の発言の内容、その意図も、すべて明確だということにはならない部分があるようです。ヨブは妻の発言を「愚かなこと」と断じていますが、註解書のような読み方をすると、これを「愚か」と言えるのかということにもなります。

 

 私たちの敬虔さ、汚れのなさは、どんな不幸に襲われてもそれに動じないでいる様子を見せ続けること、伝統的な信仰告白を唱え続けることで保たれていくものでしょうか。それとも、自らそれを守ろうとすることを放棄し、今自分が置かれているところをありのままに受け止め、受け入れることで守られるものでしょうか。それとも、さらに別の道が開かれるのでしょうか。 

 

 私たちがヨブのような苦しみを受けたとき、どのように考え、どのように振る舞い、何を語るでしょうか。伝統的な信仰告白に立ち、賛美を続けるという真似をすることは出来そうにありません。苦しみ悩みを主に訴え、しばしば不信に陥り、人や神を呪うかも知れません。そんな弱い自分であることを、いやというほど思い知らされることでしょう。

 

 あらためて、ゆえなく神を敬うことのできない者であることを自覚し、その私を母の胎にお造りくださった神の憐れみにひたすら依りすがり、あるがまま神の御手に委ねて歩みたいと思います。

 

 主よ、私は自分の命を守るためなら何でもする自己中心的な臆病者です。キリストの血潮と聖霊の力によらず、自分の力で確信を持ち続け、平安に生きる者にはなれません。主の御名によって絶えず正しい道に導き、どんなときにも共にいて、その鞭と杖をもって、わたしを力づけてください。御霊の導きに与り、主に従う者となることが出来ますように。 アーメン

 

 

「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか。」 ヨブ記3章20節

 

 サタンの二度目の攻撃に対して、唇をもって罪を犯すことをしなかったヨブではありますが(2章10節)、次第に心中穏やかならざる事態となって来ました。これまでのように、敬虔さを保って歩むべきだと考える思いと、突然襲って来た苦難を訝しむ心がせめぎ合います。

 

 そこに、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルが訪ねて来て、それと見分けられないほどのヨブの姿に嘆きの声を上げ(同11,12節)、七日七晩共に地面に座っていて、その激しい苦痛を見て、話しかけることも出来ませんでした(同13節)。確かにこんなとき、人間の言葉は何の助けにもなりません。

 

 やがて、ヨブが口を開きます。最初に出て来たのは、「わたしの生まれた日は消え失せよ。男の子をみごもったことを告げた夜も」(3節)という言葉でした。誰に向けた言葉とも言えない、独白というしかないような言葉です。しかもそれは呪いの言葉で、自分の生まれた日を呪い、みごもった夜を呪います。

 

 この言葉を展開するかたちで、生まれた日を呪う言葉を4,5節に「その日は闇となれ、神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな。暗黒と死の闇がその日を贖って取り戻すがよい。密雲がその上に立ちこめ、昼の暗い影に脅かされよ」と言います。これは、創世記1章1~5節の第一の創造の記事を逆転させるような言葉です。

 

 「闇となれ」(イェヒー・ホーシェフ)は、「光あれ」(イェヒー・オール:創世記1章3節)の「光」(オール)を「闇」(ホーシェフ)と言い換えた用語です。生まれた日は、初めてこの世の光を見た日ですが、それが闇に覆われていればよかった、光を見る日がなければよかったというのです。

 

 また、みごもった夜を呪う言葉が、6節以下に展開されますが、まず、「闇がその夜をとらえ、その夜は年の日々に加えられず、月の一日に数えられることのないように」(6節)と言います。光が創造されて、「夕べがあり、朝があった。第一の日である」(創世記1章5節)となりました。「闇が夜をとらえる」とは、朝の光を迎えないということでしょう。

 

 次に、「その夜ははらむことなく、喜びの声も上がるな」(7節)といいます。「夜」(6節)と「みごもるべき腹の戸」(10節)に並行関係を見て、夜がはらまなければ、つまり、光を産み出すことがなければ、自分が生み出されることはなかったということでしょう。

 

 ヨブは言葉を継いで、 「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに、死んでしまわなかったのか。せめて、生まれてすぐに息絶えなかったのか。なぜ、膝があってわたしを抱き、乳房があって乳を飲ませたのか。それさえなければ、今は黙して伏し、憩いを得て眠りについていたであろうに」(11~13節)と言います。

 

 「母の胎にいるうちに」は、「子宮から」(メー・レヘム)という言葉です。岩波訳は、「なぜ、私は死んで子宮を離れなかったのか」としています。次の句が「生まれてすぐに息絶えなかったのか」という言葉なので、「母の胎から出て死ななかったのか」ではなく、「母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」と訳したわけです。

 

 そのように死産であれば、また、生まれてすぐに息絶えていれば、さらに、抱きとめる者がなく、乳を含ませられることがなければ(12節)、「今は黙して伏し、憩いを得て眠りについたのに」(13節)、即ち、今のこの苦しみに遭わず、永遠の憩いの中にいれたのにということです。

 

 17節以下、死によって、疲れた者が憩いを得、捕らわれ人も安らぎ、奴隷も自由になるいうのは、皮肉たっぷりです。特に、19節の「主人」には「アドナイ」という言葉が用いられています。これは、ユダヤの人々が主なる神の名を呼ぶときの表現です。神のことを、奴隷を追い使って苦しめるひどい主人のように思い始めているのでしょうか。

 

 そして、冒頭の言葉(20節)のとおり、「なぜ、労苦する者に光を賜り、悩み嘆く者を生かしておかれるのか」と、姿を現さない神に問う言葉が飛び出して来ました。なぜ神は、この状態を放置しておられるのか。なぜ自分をこの苦しみに閉じ込めておられるのか。死なせてくださればよいのに、というのです。

 

 しかし、願っても死を賜りません。「地に埋もれた宝にもまさって、死を探し求めているのに」(21節)です。私たちにとって、最も価の高い宝と言えば、それは命でしょう。「命どぅ宝」という言葉があります。しかし、ヨブにとって、今一番願わしいのは、命にまさる「死」なのです。

 

 単純に神の最善を信じられなくなったヨブにとって、「行くべき道が隠されている者の前を、神はなお柵でふさがれる」(23節)というのは、自分や家族、全財産を守るために、周りを幾重にも廻らされていたはずの神の垣根が、今や自分を閉じ込め、行くべき道を覆い隠してしまう柵になっているという状況です。

 

 死によって憩いを得ると13,17節で語っていますが、しかし、彼の現実は、その死がかなわず、「静けさも、安らぎも失い、憩うことも出来ず、わたしはわななく」(26節)と、呻くようにその苦しみを吐露しています。

 

 25節に、「恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった」とあります。自分に襲いかかった不幸を、「恐れていたこと」、「危惧していたこと」と言い、以前から恐れや不安を抱いていたことを示しているのです。

 

 何故ヨブがそのような不安を抱いていたのか、勿論よく分りません。しかし、これまでの彼の敬虔さの背後に、恐れや不安があったということです。恐れや不安を覆い隠す敬虔さというか、経験にしていれば、恐れや不安が実現することはないと考えていたのでしょうか。

 

 彼が恐れ、危惧していた不幸に見舞われ、そして、その苦しみを癒してくださらないのなら、どうして、なおも神に信頼し、敬い続けることが出来るでしょうか。彼の苦悩は、深まるばかりです。いつまで苦しまなければならないのでしょうか。誰が、どのようにして、この苦しみから救ってくれるのでしょうか。今や、謎だらけです。

 

 私たちは、私たちの主イエスが、彼をこの苦しみから救ってくださると信じています。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」(第二コリント書8章9節)と言われています。

 

 主イエスは、罪を犯されたことのない、清いお方ですが、私たち罪人の身代わりに十字架に死なれました(ガラテヤ書1章4節、第一ペトロ書2章24節)。その際、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか)」(マルコ15章34,37節)と叫ばれました。

 

 主イエスは、神を「アッバ、父よ」(マルコ14章36節)と呼んでおられました。しかし、ここでは「エロイ(わが神)」と呼ばれます。神を「父」(アッバ)と呼べなくなっているわけです。そうして、見捨てられるはずのない神の御子が、私たちに替わって十字架にかかり、罪の呪いを受けて、死なれました。

 

 主イエスの死によって、私たちは罪の呪いから解放され、神の子として永遠の命に生きることが許されたのです。主の恵みに感謝し、救いの喜びを胸に、日々希望と平安をもって歩みたいと思います。 

 

 主よ、今、苦しみの中におられるすべての人々に、主の慰めと平安が豊かにありますように。癒しと助け、勇気と希望をお与えください。あなたの御声を聞くことが出来ますように。キリストによる平和と喜びが常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「神を畏れる生き方があなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか。」 ヨブ記4章6節

 

 ヨブが口を開いて自分の運命を呪い(3章1節)、神はなぜ自分に死を賜らないのかと嘆き訴えるのを聞いて(同11節以下)、ヨブの友人の一人、テマン人エリファズは黙っていることが出来なくなりました(1節)。

 

 テマンはエサウの孫、エリファズはエサウの子の名前です(創世記36章10,11節)。ということは、エリファズは、パレスティナ南のエドムの地に住む者ということなのでしょうか。

 

 エリファズは、何とか友のヨブを慰め、力づけ、励ましたかったのでしょう。そこで、持てる知識や経験などを総動員しつつ注意深く言葉を選び、「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが、誰がものを言わずにいられようか」(2節)と話しかけました。

 

 エリファズは、かつて、ヨブ自身が悩み苦しんでいる多くの人々を諭し、力づけて来たことを思い起こさせます(3,4節)。ここでエリファズが思い起こさせようとしている、ヨブが他者を諭し励ましていた内容とは、宗教的な経験に基づく正統な知恵に歩めということ(6節以下)、そして、神の告げられた特別な言葉に耳を傾けるということでしょう(12節以下)。

 

 そこで、エリファズもヨブに倣って、彼に励ましを与えようとしているのです。先ず、冒頭の言葉(6節)のとおり、「神を畏れる生き方があなたの頼みではなかったのか。完全な道を歩むことがあなたの希望ではなかったのか」と語ります。それは、神を畏れる生き方や完全な道を歩むことが、イスラエルの民にとっても頼みとするところであり、また希望であることを示しています。

 

 そして、「わたしの見て来たところでは、災いを耕し、労苦を蒔く者が、災いと労苦を収穫することになっている」(8節)と語ります。つまり、人が蒔く種によって収穫する実が決まるということで、この因果応報の論理が真実であるから、災いをもたらし、人に労苦を与えるような者は、神の裁きを受けるというのです(9節以下)。

 

 エリファズにヨブを責める思いが全くないかと言われれば、そうとも言い切れません。「神の息によって滅び、怒りの息吹によって消え失せる」(9節)というのは、ヨブの子らを死に追いやった大風を思わせ(1章19節)、その原因がヨブの子らにあると言っているようなものだからです。そして、ヨブに臨んだ数々の苦難は、ヨブの蒔いた種に問題があると仄めかすことになります。

 

 つまり、神を畏れ、正しく歩んで来たのであれば、何も心配しないで、その苦難を乗り越えるべく、その道を守り通すべきだ。正しい歩みに対する神の報いに希望を置くべきであって、その生き方を忘れて何に頼り、どこへ行こうとしているのか。どこで間違ってしまったのかというのです。

 

 次いで、エリファズが神秘的な体験を通して聞いた言葉を(12節以下参照)、17節以下に記しています。「恐れとおののき」(14節)、「風=霊(ルーアッハ)」(15節)、「姿を見分けることはできなかった」、「目の前に一つのかたち」などで、その言葉の主が天的な存在であることをほのめかしています。

 

 その言葉は、「人が神より正しくありえようか。造り主より清くありえようか」(17節)と告げます。これが、因果応報の論理と並ぶ、もう一つのエリファズの主張です。神は、御使いたちの過ちを認められる方です(18節)。新共同訳の「賞賛されない」は、「 誤りを認める」(ヤーシーム・ターハラー)という言葉遣いです。

 

 御使いがそうであるなら、塵から作られた人間はなおさらです(19節)。17節の「人」(エノーシュ)は、「死すべき者(mortal man)」という言葉です。「日の出から日の入りまでに打ち砕かれ」(20節)も、その存在の儚さを示します。そんな有限な死すべき者、砕かれて「永久に滅び去る」者が、何を根拠に神に逆らうのかというのです。

 

 道に迷っている人は、自分が今どこにいるのか、どちらに向かって行けばよいのか、分らなくなっています。分からないまま動き回るので、ますます泥沼にはまり込んだようなことになってしまいます。自分の居場所が分かり、そして進むべき方向が定まれば、やがて目指すところに辿り着くことが出来ます。

 

 確かに、ヨブが帰るべきところは、神を畏れ、その御言葉に従って生きる生活です。エリファズが語る通り、かつてヨブは、それを頼みとしていたのです(6節、1章1節)。そして、神はヨブに豊かな恵みを与えておられました(1章2節以下)。持てるものをすべて失い、苦しみが襲いかかって来ても、すぐに信仰を失ってしまうようなことはありませんでした(1章21節、2章10節)。

 

 けれども、苦しみが続く中で、次第に分らなくなってしまったのです。それは、彼が神を畏れ、神に従うことをやめたから、苦しみを受けたというのではなく、信仰生活を守り、神に従って歩んでいたにも拘わらず、苦しみの穴に落ち込んでしまったからです。そして、どうすればその穴から這い出ることが出来るのか、皆目見当もつかないからです。

 

 エリファズは、ヨブの苦しむ有様を見るに忍びなかったのでしょう。苦しみの中で自分の運命を呪い、神への不信を口にするヨブの言葉を聞くに堪えなかったのでしょう。そう思うのは、エリファズ一人ではありません。私たちも皆そうです。人を慰め、励ましたいと思うのは、苦しむ姿を見ていられないのです。立ち直った姿を見て、自分も安心したいのです。

 

 それが悪いということでもありませんが、しかし、苦難の中にいる人の苦しみをあるがまま理解しようとするなら、解決を焦らず、先ずその人の語る言葉にじっと耳を傾け、苦しみの共感に務める必要があるでしょう。

 

 三人の友らは初め七日七晩、黙ってヨブの傍らに座っていました(2章11節以下、13節)。余りの厳しい状況に言葉がなかったわけです。苦しむヨブに徒に言葉をかけることなく、黙して共に座す友らのゆえに、彼の内にあった真実な叫び、苦しい思いが吹き出すかたちになったのです。ヨブは、三人の友がその苦悩を受け止め、共感してくれることを望んでいたのでしょう。

 

 苦しみ、呻きに共感する友が得られれば、彼は慰め、励ましを受けることが出来るでしょう。私たちのためには、誰よりも神の御子イエスが私たちに寄り添い、私たちの声に耳を傾け、共に涙してくださいます。「慈しみ深き友なるイエスは、我らの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈める時も、祈りに応えて慰め給わん」(新生讃美歌431番2節)と歌うとおりです。

 

 主なる神は、塵にすぎない弱い私たちのために、独り子をも惜しまず与えるほどに愛を注いでくださるお方です。「だから、憐れみを受け、恵みに与って、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ書4章16節)。

 

 天にまします我らの父よ、願わくは、神を畏れる生活が守られますように。願わくは、我らを試みに遭わせず、悪しきものから救い出してください。国も力も栄光も、すべてあなたのものだからです。全地にキリストの平和と導きが常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人。全能者の戒めを拒んではならない。」 ヨブ記5章17節

 

 5章にも、ヨブの友エリファズの言葉が続きます。語っているうちに、少し興奮してきたのでしょうか。「呼んでみよ、あなたに答える者がいるかどうか。聖なる者をおいて、誰に頼ろうというのか」(1節)という言葉で、エリファズはもはや、ヨブの傍らではなく、彼を断罪する側にいるようです。

 

 ここで、「聖なる者をおいて」は「聖なる者たちから」(ミ・ケドーシーム)という言葉で、「聖なる者のうち、誰に頼ろうというのか」という表現でしょう。僕たちをも信頼されず、御使いたちの誤りを認められる(4章18節参照)神が、誰の仲介を受け入れると思うのかと、ヨブを皮肉っているようです。

 

 塵から災いは出ず、土が苦しみを生ずるわけでもないのに(6節)、人間は生まれれば必ず苦しむということは(7節)、その苦しみ、災いは、人間によって生じている、炎の上に火の粉が舞うように、苦難災難は人間自身が生み出したものだと告げます。

 

 そこで8節以下に、エリファズがヨブの立場であればどうするかということが、語られています。彼は、「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」(8節)と言います。

 

 苦難の中にも神の愛が込められていて、神は人の滅びではなく、救いを望んでおられること、だから、冒頭の言葉(17節)のとおり、神の懲らしめに反発しないで、喜んで神の戒めに従い、幸いを得なさいと勧告しているのです。神に戒められ、訓戒される者の幸いは、真の知恵に基づくもので(箴言3章11節以下)、だから、エリファズもヨブを戒めるというのでしょう。

 

 神は人の破滅ではなく、救いを望んでおられるので、罪人を懲らしめのために傷つけ、打つのは神の愛であり、だから、罪人が悔い改めるかどうかを条件とせず、包み、癒してくださる(18節)。苦難の後には神の救い、恵みがついてくるとも言います(19節)。苦難には意味があり、そこから学べという主張は、聖書の中に繰り返し登場して来る思想です。

 

 そのことを知らないヨブではないと思います。むしろ、よく知っているといってもよいでしょう。だからこそ、自分の苦しみはどういう意味なのか、何が原因なのか、どんなに考えても分からずに、苦しみ呻いているのです。

 

 エリファズが愚か者が根を張るのを見て、直ちにその家を呪った(3節)といって語ったその内容は(4,5節)、一夜のうちにすべての財産を失い(1章13節以下)、すべての子らが息絶えてしまった(同18,19節)ヨブの境遇そのものです。ヨブがどんな愚かなことをしたというのでしょうか。

 

 人の苦しみについて、創世記3章17節以下に「お前のゆえに、土は呪われたものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る。土に帰るときまで。お前がそこからとられた土に。塵にすぎないお前は塵に返る」と言われています。

 

 つまり、アダムの子孫である私たちは、苦難に遭うのは、避けられない運命だということです。しかし、その苦難をどう見るかによって、生き方は様々に分かれるということになります。

 

 ヤコブ書5章13節に「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい」とあります。私たちは、平穏無事なときには、あまり熱心に祈りません。苦難に遭うと、その苦しみからの救いを真剣に祈るでしょう。神は苦難を通して、私たちを祈りの世界、神と深く交わる世界へと導いておられるわけです。

 

 ローマ書9章19節以下に、焼き物師(陶器師)と粘土の譬えを用いて、神が私たちを神の憐れみを盛る器として、栄光を与えようとしておられるとあります。陶器師が自分の心にかなう器を造るために、山から土を切り出し、砕いてしばらく水に沈め、不純物などを取り除いてよく練り、それをろくろで整形し、上薬をかけて高温の火で焼きます。

 

 これら一つ一つの行程は、そのように取り扱われる粘土にとっては、大変な苦痛かも知れません。けれども、それらの行程を経て、美しい陶器が作られていくのです。

 

 同様に私たちも、この世から取り出され、御言葉の恵みに入れられ、キリストの血潮で罪が清められ、イエス・キリストを着せられ、聖霊の火に燃やされて、神の憐れみが盛られる神の器とされます。

 

 主イエスは、神の御子であるにも拘らず、多くの苦しみを受け、その苦しみを通して従順を学ばれました(ヘブライ書5章8節)。これは、ゲッセマネの園でひどく恐れて悶え、祈られたこと(マルコ14章33,35節以下)、また、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(同15章34節)と十字架上で叫ばれた、あの苦しみを指し示しています。

 

 この主こそ、私たちすべての者の大祭司なのです。私たちと同じ試練を味わってくださったので、私たちの弱さを知っておられ、時宜にかなった助けをお与えになるのです(ヘブライ書4章15,16節)。だから、主イエスの軛は負いやすく、その荷は軽いのです(マタイ11章29節)。

 

 第二回伝道旅行中、フィリピの町でパウロとシラスが無実の罪で鞭打たれ、投獄されるという苦しみに遭いましたが(使徒言行録16章23節)、真夜中に彼らはその獄舎で賛美を歌い、神に祈りをささげました(同25節)。

 

 すると、不思議なことが起こり(26節以下)、その結果、獄舎の看守家族が救いに与ることになりました(同33節)。パウロがそこで賛美と祈りをささげたのは、彼らの心に主イエスがはっきりと刻まれていたからでしょう。 

 

 その上、聖霊が、どう祈ればよいかも分からない弱い私たちの内にあって、私たちのために呻き、執り成してくださいます(ローマ書8章26節)。そうして、神は私たちのために、あらゆることがプラスとなるように働いてくださるというのです(同8章28節)。それが、苦難をも誇り、喜ぶと語っているパウロの信仰の核心です(同5章3節)。

 

 ヘブライ書12章5節に、「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない」(12章5節)と語られ、神の子として、神の鍛錬を軽んじないこと、懲らしめられても力を落とさないこと、それによって鍛えられ、子として取り扱われるのであると教えています。

 

 「だから、萎えた手と弱くなった膝をまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい」(同12,13節)。

 

 主よ、人に説くことは出来ても、自分自身は失格者になってしまう弱く愚かな私たちを憐れんでください。苦難にあって萎えた手と弱くなった膝を強く、まっすぐにしてください。自力で信仰を守ることなど出来ません。御言葉の前に謙り、その導きに素直に、喜びをもって従うことが出来ますように。そうして御名を崇めさせてください。 アーメン

 

 

「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように。」 ヨブ記6章15節

 

 エリファズが語った言葉(4,5章)を聞いたヨブは、しかし、そこに慰めを見いだすことが出来ませんでした。それは、エリファズの言葉が理解出来なかったからではありません。実行不可能な言葉だったからでもありません。また、ヨブが考えつきもしないような突飛なことだったからでもありません。

 

 むしろ、ヨブはエリファズの言葉を正確に理解していることでしょう。実行することも出来ると思います。そしてその考えは、エリファズが最初に語ったとおり、かつてはヨブ自身が持っていたもの、他の人を慰め励ますときに、ヨブ自身が語ってきたことだったのです(4章3,4節)。

 

 それにも拘わらず、ヨブが混乱しているのは、これまで神を信頼し、神にすべてを委ねて歩んできた自分を、神御自身が苦しめ、この罠から逃れさせてくださらないと感じているからです。

 

 最初は、すべての持ち物を失っても、「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえよ」(1章21節)と、そう信仰を表明することが最善だと信じていたのです。そして、「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2章10節)と、妻に語っていました。

 

 エリファズの「わたしなら、神に訴え、神にわたしの問題を任せるだろう」(5章8節)という言葉に対し、「わたしの苦悩を秤にかけ、わたしを滅ぼそうとするものをすべて天秤に乗せるなら、今や、それは海辺の砂よりも重いだろう。わたしは言葉を失うほどだ」(2,3節)と、その苦悩の深さを示します。

 

 なぜかといえば、それは、「全能者の矢に射抜かれ、わたしの霊はその毒を吸う。神はわたしに対して脅迫の陣を敷かれた」(4節)ということで、自分の思いを訴え、問題を任せたいと願う神御自身が、自分の敵となって、その苦しみを与えているからだというのです。

 

 そこで、エリファズの言葉について、「味のない物」(6節)で、食べられないと言い、さらに、「わたしのパンが汚れたもののようになれば」(7節)と、人々が自分の皮膚病を汚れたものとして神に呪われたかの如くに見ているけれども、ヨブにとってエリファズの語る言葉こそが汚れたパンのようで、それに触れたくもないと言っています。

 

 「(わたしの)魂」(ネフェシュ)には、「命、息」という意味のほかに、「喉、食欲、願望」という意味もあります。岩波訳は「喉」と訳しています。文脈から、「食欲」と訳すのも、趣があるように思います。

 

 3章20節に「悩み嘆く者」という言葉がありますが、直訳は、「魂が苦い者」です。「苦い」は複数形で、自分に幾重にも苦難が襲いかかって来ていることを、そのように苦味として表現しているわけです。

 

 実は、6章の中に「魂」という言葉がもう一度用いられています。それは、11節の「忍耐しなければならない」というところです。原文は、「わたしの魂を長くする」という言葉遣いになっています。苦しみの中で長く生きること、あるいは、数々の苦味を長く味わうということで、耐え忍ぶという訳語になっているわけです。

 

 「そうすればどんな終わりが待っているのか」(11節)というように、ヨブには、これから先、自分を待ち受けているものの見通しが立ちません。それを楽しみ待つような力も、自分には残っていません。

 

 そして、「わたしにはもはや助けとなるものはない。力も奪い去られてしまった」(13節)と、かつて、自分は神にその助け、力を頂いて来たけれども、今や、全く見捨てられてしまったというのです。

 

 そこで、「絶望している者にこそ、友は忠実であるべきだ」と言います。「忠実」(ヘセド)は、「善、誠実、慈しみ」という意味の言葉です。神に見捨てられたヨブは、友の友情に期待したのです。しかし、それは裏切られました。

 

 冒頭の、「わたしの兄弟は流れのようにわたしを欺く。流れが去った後の川床のように」(15節)という言葉が、その思いをよく表わしています。パレスティナでは、雨期となる冬の始めと終わりに雨が少し降って、そのとき川に大量の水が流れますが、乾期の夏には川が干上がってしまいます。水が流れなくなった川のことを「ワーディー」と言います。

 

 ヨブは、見舞いにやって来た三人の友らが、自分の苦しみを受け止め、慰め、励ましてくれると期待しました。ところが、エリファズの言葉を聞いて、その期待は空しく裏切られてしまったということです(20,26節参照)。

 

 「絶望した者の言うことを風に過ぎないと思うのか」(26節)といって、自分の言葉をちゃんと聞いてほしいと訴えます。そして、「どうかわたしに顔を向けてくれ。その顔に偽りは言わない」(28節)というところに、自分の現実をありのままに見て欲しい、ヨブの立場になって考えて欲しいと、理解を求めるヨブの本心が示されています。

 

 今ヨブが一番望んでいるのは、神が死を与えてくれることです(8,9節)。死こそ、自分をこの苦しみから解放する、最も現実的なものだと思っているのです。ということは、ヨブが今、友のこととして語っている、「水の流れが去った後の川床」というのは、実は、彼の財産を奪い、家族を奪い去り、そして彼を苦しめ続けている神に対する婉曲な言い回しのようですね。

 

 なぜ苦しまなければならないのか、その理由も示されず、いつまでこの苦しみが続くのか、その出口も見えない。そんな中で、なお沈黙しておられる神に、ヨブは失望しているのではないでしょうか。それゆえに、もはや神には期待しない、二度と裏切られたくない、そのために人生を終りにするんだと考えているのでしょう。

 

 苦しみから解放されず、それではと願った死をさえも与えられなくて苦しみ続けるという袋小路に、神はヨブを追い込もうとしておられるのでしょうか。失望の果て、自ら命を絶つ罪を犯させようと考えておられるのでしょうか。勿論、そうではないでしょう。

 

 むしろ改めて、本当の命の拠り所は何か、水の流れの源はどなたなのかということを、ヨブにもう一度教えようとしておられるのではないでしょうか。ヨブが願っている死よりも、さらにリアリティーのある生ける神の力を知らせるためです。だから今、神は黙してヨブに寄り添い、ヨブの心の内にある思いをすべて、ありのまま吐き出させておられるのです。

 

 「それで、兄弟たち、わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり、御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです。更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられるのですから、心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか。」(ヘブライ書10章19~22節)

 

 インマヌエルの主よ、苦しみの中にあるすべての人に、慰めと平安がありますように。希望が与えられ、苦しみから解放されますように。命が守られますように。キリストと結ばれて、その親しい交わりの内に恵みと平和が豊かに与えられますように。 アーメン

 

 

「忘れないでください。わたしの命は風に過ぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう。」 ヨブ記7章7節

 

 ヨブの人生観は、もともと明るいものではなかったようです。最初の発言の際に、「恐れていたことが起こった。危惧していたことが襲いかかった」(3章25節)と語りました。幸せな日々が奪われる不安、自分の身に思いが得ない病が襲いかかる恐れを持っていたわけです。

 

 今ここでは、「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。傭兵のように日々を送らなければならない」(1節)と言います。つまり、望むと望まざるとに拘わらず、上官の命令に従って危険な戦地に遣られ、しかも、その苦しい務めによって得られる報いは、辛く悲しい夜だというのです(3節)。

 

 「兵役」(ツァーバー)という言葉は、14章14節とイザヤ書40章2節で、「苦役」と訳されています。ヨブの苦難が、バビロン捕囚の苦しみと用語において同じ扱いになっているのは、興味深いところです。そして、イザヤはその苦役が終わりのときを迎え、慰めを受けると告げているのに対し、ヨブは、この苦難がいつ終わるのか、自分では皆目見当もつかないのです。

 

 だから、疲れ果てて寝床に入っても、苦痛で安眠出来ず、いらだちながら夜明けを迎えることになります(4節、13,14節)。そして、そのような苦難の連続で消耗戦を戦っている内に、あっという間に一生を終えてしまわなければならないという空しさを覚えています(6節)。

 

 6節の「望み」(チクワー)という言葉には、「希望、期待、絆、縄」といった意味があります。自分の人生という機織り機は目まぐるしく動き、糸がなくなれば止まる。自分には、もう希望という糸が尽きてしまった。空しく空回りし、そして止まるだけ。なんという空虚な人生観でしょうか。

 

 そして、その苦しみ、その空しさを与えているのが、3章17節で「神に逆らう者」(ラーシャー)と呼んでいた「悪人」であり、同18節で「追い使う者」(ナーガス)と言った「圧政者」であり、そして、同19節で奴隷に苦役を与える「主人」(アドーン)であるところの神だというわけです。ここに、ヨブのやりきれない気持ちが、如実に示されています。

 

 ヨブはもう一度神に向かって目を上げ、冒頭の言葉(7節)のとおり、「忘れないでください。わたしの命は風に過ぎないことを」と叫びます。苦しみから逃れるために、先には死を願ったヨブですが(6章8,9節)、ここでは、今すぐに憐れみをかけてくださらなければ、手遅れになります、このまま神を呪って死にますよと言っているかのようです。

 

 ここで、幸いを見ないまま瞬く間に終りを迎え、神が目をかけてやろうかと思い直すころには、もはや影かたちもなくなっていると訴えるのは(8,21節)、ヨブが本当に願っているのは、生きるか死ぬかということではなく、生きるにしても死ぬにしても、神の恵みに与り、心に安息を持つことが出来るかどうかということなのでしょう。

 

 ヨブは、ひとときたりとも神を忘れたことがありません。しかし、今のヨブには、神が自分のことを忘れてしまっているかのように思われるのです。

 

 また「わたしは海の怪物なのか竜なのか、わたしに対して見張りを置かれるとは」(12節)というのは、神がヨブを、黙示録12章に出てくる「竜」のような危険な存在と見なして、闇の中に閉じ込めて、いつも見張っておかなければならないと考えておられるのかという問いです。

 

 ヨブは、勿論そのような存在ではありません。神の恵みを失うなら、一日たりとも生きていくことの出来ない、弱い存在です。そうならないよう、神を畏れ、ひたすら悪を避けて生きて来ました(1章1節など)。だから、もう一度思い出して欲しいのです。苦しみの中にいる自分を憐れみ、救って欲しいのです。

 

 17節に、「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか」と記されています。この言葉に関連して、詩編8編5節に「人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」という言葉があります。

 

 「人の子」は「土の子」(ベン・アーダーム)という言葉です。この言葉遣いで、詩人は土くれにすぎない小さな存在に目を留めてくださる神の恵み憐れみに、驚きつつ賛美をささげているのです。

 

 しかしながら、ここでヨブは、苦しみを受けなければならない理由が自分の罪、過ちにあるというなら、なぜそれを見逃してはくださらないのか。全能なる神と比べ、人間のわたしが何をなし得るほど大きな存在と思われて、目をそらされず、見張り続けておられるのかというのです(18,19節参照)。

 

 そもそも、ヨブ自身には、どの行為が神に背いた罪、過ちと見なされているのか、思い当たる節があるわけではないのです。「わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれがなんだというのでしょう」(20節)と言っているように、たとい何かあったにしても、これほどの苦しみを受けなければならないような大罪を犯した覚えはないということです。

 

 ゆえに、「なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか」(21節)と神に尋ねます。これだけ苦しめたのだから、もういいでしょう、その手を放してくださいという、苦しみを耐え難く思っている表現だと思われます。「今や、わたしは横たわって塵に返る」(21節)は、土の器が徹底的に打ち砕かれ、死んで塵灰になってしまうということでしょう。

 

 だから、「あなたが探し求めても、わたしはもういないでしょう」(21節)というのは、手遅れになる前に、締め上げる手を放してくださいと願うヨブの思いが込められています。

 

 この言葉は、義なる神は罪を赦してくださるお方、悪を取り除いてくださるお方であると、ヨブが理解し始めているか、そうでなくても、そのように期待し始めているのではないかというように思われます。ここに、新約の光が既に差し込んで来ているようです。

 

 神は勿論、ヨブを忘れてはおられはしません。髪の毛の数を一本残らず数えるほどに、私たちに目を留めてくださるお方です(マタイ10章30節)。ヨブの訴えを無視し、苦しみの中に放っておられるはずもありません。

 

 けれども、ヨブとの、この不幸な出来事が訪れる以前の関係をそのまま維持しよう、そこに戻ろうとしておられるわけでもないでしょう。これまで以上の、さらに親密な関係を築こうとしておられるのだと思います。

 

 以前、「出口のないトンネルはない。トンネルは、目的地まで最短距離を進むためのもの。人生にトンネルの期間があったら、それは神様に出逢う最短距離だ」という言葉を聞きました。暗闇に光、地獄で仏という言葉があるように、この言葉の真実を味わう経験をする瞬間がやって来るということでしょう。

 

 どんなときにも御霊の助けと導きに与り、主の恵みと慈しみを信じて進ませて頂きましょう。

 

 主よ、私たちはあなたの憐れみなしに、希望を持ち、平安に過ごすことは出来ません。あなたこそ、希望の源であり、平和の源なるお方だからです。常にあなたの慈しみの御手の下におらせてください。恵みの主から離れることがありませんように。そうして、御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「その場所では呑み込まれたようでも、お前など知らない、と拒まれても、葦は、生き生きと道を探り、ほかの土から芽を出す。」 ヨブ記8章18,19節

 

 エリファズとヨブとのやりとりを聞いていたシュア人ビルダドが、次に口を開いて話し始めます(1節)。ビルダドのことについて、シュア人とは、アブラハムとケトラとの間に生まれた子で(創世記25章2節)、「東の方、ケデム地方」(同6節)、即ち、アラビア地方に住む者ではないかと考えられます。

 

 ビルダドは、本書だけに出て来る珍しい名です。名前の意味にも諸説あるようですが、正確なところはよく分かりません。

 

 ビルダドは、「神が裁き(ミシュパート)を曲げられるだろうか、全能者が正義(ツェデク)を曲げられるだろうか」(3節)という反語的な問いをもって、伝統的な知恵をヨブに語ります。それは、ヨブの「わたしの正しさ(ツェデク)が懸っている」(6章29節)という言葉を、神の公正と正義に対する非難と、ビルダドが考えたからです。

 

 4節の「あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ、あれらをその罪の手に委ねられた」という言葉は、子らの死の原因がその罪にあったと明言し、それによって、ヨブの全身を覆っているひどい皮膚病も、ヨブにその原因があることを仄めかしています。

 

 そこで、「あなたが神を探し求め、全能者に憐れみを乞うなら、また、あなたが潔白な正しい人であるなら」(5,6節)と、そこからどのように回復に道をたどればよいか、その道筋を示します。

 

 そうすれば、「神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めて、あなたの家を元どおりにしてくださる」(6節)というのです。「あなたの権利を認めて」は、「あなたの義」(ツィドケハー)という言葉で、「神があなたの義の住まいを修復される」というのです。つまり、ヨブが主張する「正しさ」は、神を求め、その憐れみを乞い、潔白で正しく歩むとき、神によって回復されるということです。

 

 そのことについて、7節で「過去(レーシート:「初め」の意)のあなたは小さいものであったが、未来(アハリート:「終わり」の意)のあなたは非常に大きくなるであろう」と、神の回復に与った結果、非常に豊かなものとなるので、今のヨブの苦しみは取るに足りないものとなると言います。

 

 そして、水辺に群生するパピルスや葦を取り上げ、それを譬えとして提示します(11節以下)。それは、詩編1編やエレミヤ書17章5~8節に示されているのと同様、水に示される神と神の御言葉に背いて生きる者と(12~15節)、神に信頼し、その御言葉に従って生きる者(16~19節)の有様を示しています。

 

 特に、冒頭の言葉(18,19節)で、神により頼む者は、妨害や拒絶に遭遇しても、なお希望に生きることが出来ることを示し、7節の「未来(アハリート)のあなたは非常に大きくなるであろう」というイメージを、「葦は生き生きと道を探り、ほかの土から芽を出す」(19節)と言います。

 

 「生き生きと道を探り」は、「ほかの土から芽を出す」に合うように考えられた訳語で、「これが彼の道の喜びである」という言葉遣いです。また、「ほかの土から芽を出す」は、「後で(アヘール)塵(アーファール)から芽を出す」という言葉です。

 

 ビルダドが拠って立っているのは、「過去の世代に尋ねるがよい。父祖の究めたところ(ヘーケル:「調査、探究、探し出されたもの」の意)を確かめてみるがよい」(8節)と語っているとおり、過去から積み重ねられて来た経験によって導き出された知恵です。

 

 エリファズも、「これが我らの究めた(ハーカール)ところ。これこそ確かだ。よく聞いて、悟るがよい」(5章27節)と語っていました。当然のことながら、そこに、耳を開いて聞くべき知恵が多くあることを、私たちも知っています。そして、そのことはヨブも認めるところです(9章2節参照)。

 

 確かに、神に対して過ちを犯した者は、神の裁きを免れることは出来ないでしょう。けれども、人生の辛酸を嘗めている者はすべて、神に対して過ちを犯した者だと断言してよいでしょうか。今ヨブが苦しんでいるのは、この問いに対する明確な答えが与えられないからです。つまり、このような苦しみを味わわなければならない理由、根拠を、ヨブは未だ見出だすことが出来ないのです。

 

 前にヨブがエリファズに対して、「絶望した者の言うことを風にすぎないと思うのか」と語っていました(6章26節)。自分の言葉が、中身のない空しいものだと思うのか、だから耳を傾けようとしないのかという意味です。

 

 ビルダドはそれを取り上げて、「いつまで、そんなことを言っているのか。あなたの口の言葉は激しい風のようだ」(2節)と言っています。まさに彼は、ヨブの言葉に聞くべき内容がないと考えているわけです。

 

 けれども、だからといって聞き流してもおけませんでした。それは、その風が激しいからです。自分が無意味だと考えていることが、自分自身の思想や人生哲学を吹き飛ばしてしまいそうな力で攻撃して来て、ここで黙っていれば、自分がこれまで築いてきたものが崩れてしまうとでも考えているのでしょう。だから、ビルダドも激しい言葉でヨブに応酬し、自分自身を保とうとしているわけです。

 

 思い出してみると、四方から吹き付けた大風で、ヨブの子らが宴会を開いていた家が倒れ、そこで皆召されました(1章19節)。それによって、ヨブの人生が覆されたのです。大切なものを失い、そして自らも苦しみを味わい続けています。

 

 ヨブが語る言葉で、自分の人生が覆されてしまうように感じるということは、ヨブがこの苦しみから逃れる道を探る必要があるのと同様、ビルダドも、今ヨブが味わっている苦しみを通して、新しい神の恵みに目を開く必要があるわけです。自分で自分の立場に固執するのではなく、ビルダドこそ、おのれを空しくして、神に聴く必要があるのではないでしょうか。

 

 そうすれば、「あなたが神を尋ね求め、全能者に憐れみを乞うなら、また、あなたが潔白な正しい人であるなら、神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めて、あなたの家を元どおりにしてくださる。・・・なお、あなたの口に笑いを満たし、あなたの唇に喜びの叫びを与えてくださる」(5,6,21節)という、新しい神の恵みに酔うことが出来るのです。

 

 主イエスは、「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ」(マルコ2章22節)と言われました。私たちも、常に主の御言葉に耳を傾け、新しい神の恵みに目が開かれた者でありたいと思います。

 

 主よ、ビルダドは苦しみの中にいるヨブを慰めようとしていたはずなのに、激しい言葉の応酬により、かえって傷口を広げるような結果を招いてしまっています。ビルダド自身がその口に笑いを満たし、唇に喜びの叫びを与えてくださる主の新しい恵みを絶えず味わっていないからです。主よ、私たちを憐れみ、常に恵みの下に置いてください。 アーメン

 

 

「このように、人間とも言えないような者だが、わたしはなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら、わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら、その時には、あの方の怒りに脅かされることなく、恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない、と。」 ヨブ記9章32~35節

 

 ヨブは、ビルダドの「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか」(8章3節)という言葉の正当性を認め、「それは確かにわたしも知っている。神より正しい(ツァーダク)と主張できる人間があろうか」(2節)と語ります。そして、その知識が今ヨブを苦しめているのです。

 

 神は確かに正しいお方です。その裁きも、正しいものであるにちがいありません。だから、正しい者にはよい報いがあり、悪しき者には悪しき報いがあるはずです。

 

 しかし、今、ヨブは悩み苦しんでいます。愛する子らの死は、正しい神による裁きなのでしょうか。ヨブが全身ひどい皮膚病に悩まされているのは、いったいどういう理由があるというのでしょうか。ヨブは、これほど苦しまなければならないような過ち、神に裁かれ、懲らしめられなければならないような罪を犯した覚えがないのです。

 

 神は天地を創造された御手をもって、今も働いておられますが(5節以下、9節)、それはヨブにとって、理解不可能なものになっています。10節は、エリファズの語った言葉(5章9節)を繰り返したものですが、エリファズは神の創造の御業をたたえる表現として、「測り難い」といったものを、ヨブは神の御心を理解することは出来ないと、全く否定的に語っているようです。

 

 それは、5節以下9節まで神の創造の御業を告げるヘブライ語の動詞五つが分詞形で綴られ、10節の「成し遂げる」(オーセ)、「不思議(に見える)」(ニフラーオート)の二つの分詞形と合わせて七つの分詞を連ねることで、神の創造の意図が、全く測り難い(エーン・ケーヘル:cannot understand)ものであるということを示しているのです。

 

 「神がそばを通られてもわたしは気づかず、過ぎ行かれてもそれと悟らない」(11節)というのは、かつて信頼を寄せていた神が、全く理解することの出来ない苦しみを与える敵となっておられるからです。

 

 そして、自分の無実を神に訴えたいと思っても、神は知恵に満ちておられ、自分の髪の毛一筋までもご存知の神に何を言えばよいのか分らないし(14,15節、ルカ12章7節参照)、むしろ、自分には殆ど自覚のない髪の毛一筋ほどのことで、これほどまでにひどく傷つけられています(17節)。

 

 「理由もなくわたしに傷を加えられる」(17節)という言葉は、サタンの「利益もないのに神を敬うでしょうか」(1章9節)という言葉、そして、神の「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとした」(2章3節)という言葉に、「理由もなく」(ヒンナム)という同じ言葉でつながっています。

 

 また、「無垢なのに、曲った者とされる」(21節)、「無垢かどうかすら、もうわたしは知らない」(22節)、「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる」(23節)と、「無垢」(ターム)という言葉を連ねていますが、これは、ヨブ記のテーマであり、神はヨブが誰よりも無垢な正しい人物であることを認めていました(1章8節、2章3節)。 

 

 神は、このように悩み苦しむヨブを、今どのように見ておられるのでしょうか。どうすれば、神はヨブと同じテーブルにつくことが出来るのでしょう。今の状況を乗り越えるために、話し合うことが出来るようになるのでしょうか。もしかすると、神御自身がヨブを求めて、彼にこのように激しく求めさせておられるのでしょうか。

 

 それだからでしょうか。ヨブは、こうした思いの中から、冒頭の言葉(32節)のとおり、「あの方と共に裁きの座に出ることができるなら」と、同じテーブルにつき、互いに論じ合うことが出来るようになることを願います。

 

 続いて、「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」(33節)と語ります。相手は人ではなく、神です。対等に語り合える立場ではありません。だから、同じ裁きの座についた神と自分の間に立って執り成し、調停、仲裁してくれる者を求めているのです。

 

 そして、「わたしの上からあの方の杖を取り払ってくれるものがあるなら」(34節)と、その調停、仲裁が功を奏することを望み、それによって、「恐れることなくわたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていない」(35節)と神に訴えることが出来ると告げます。

 

 ヨブはこの時、そのような場が設けられ、そのような調停者、仲裁者を見出すことが出来、そして、その仲裁が功を奏すると、本気で考えていたかどうか、そのような者の存在を信じていたかどうかといえば、それは、全く疑わしいものです。むしろ、そんなことはないけれども、そうだったらよいのにと、叶わぬ夢を見ていたのではないでしょうか。

 

 先に「なぜ、わたしの罪を赦さず、悪を取り除いてくださらないのですか」(7章21節)と語り、義なる神は、罪を赦すお方であり、悪を取り除くお方ではないのかという考えを示していました。今受けている苦難によって、自分の罪の償いは終わったのではないか、というような思いが込められた発言です。

 

 今ここに示されたヨブの願望は、神と人との仲裁者、仲保者としての主イエス・キリストの出現を指し示す、預言的な役割を果たしています(ローマ8章34,35節、第一テモテ2章5節など)。主なる神は、世の罪を取り除く神の小羊として、独り子イエスを世に遣わされました(ヨハネ1章29節)。世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためです(同3章17節)。

 

 ヨブが主イエスと出会ったとき、主イエスが願いの通り、ヨブの上から杖を取ってご自分の上に置き、その苦しみをすべて取り除いてくださったことを知り、そして、自分が神の子どもとして取り扱われているのを見出すでしょう(34,35節参照)。それは神ご自身が、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられるからです(第一テモテ2章4節)。

 

 「人間とは何なのか。なぜあなたはこれを大いなる者とし、これに心を向けられるのか」(7章17節)といって、自分はそのようなものではないと語っていたヨブは、そのとき、「主よ、人間とは何ものなのでしょう、あなたがこれに親しまれるとは。人の子とは何ものなのでしょう、あなたが思いやってくださるとは」(詩編144編3節)と、驚くべき恵みを讃えることでしょう。

 

 「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのですから、わたしたちの公に言い表している信仰をしっかり保とうではありませんか。この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる天において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ書4章14,15節)。

 

 主よ、あなたの御名はほむべきかな。ヨブは苦しみの中で、赦しを願い、仲裁者を求めました。主は、御子イエスを仲保者として世に遣わされ、その死によって、罪の赦し、救いの恵みをお与えくださいました。ヨブの願いは、神の御心を先取りしたかたちでした。主イエスによる慰めと平和がすべての民の上に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「手ずから造られたこのわたしを虐げ退けて、あなたに背く者のたくらみには光を当てられる。それでいいのでしょうか。」 ヨブ記10章3節

 

 神と共に裁きの座につき(9章32節)、神との間を調停し、仲裁してくれる者がいて(同33節)、神の裁きの杖が取り払われれば(同34節)、自分はその潔白を主張できる(同35節)と、夢物語を語ったヨブは、相手を特定しないまま、神に向かって言いたいことを口にします(2節以下)。

 

 「わたしの魂は生きることをいとう。嘆きに身をゆだね、悩み嘆いて語ろう」(1節)という言葉は、3章20節、7章11節の言葉をなぞっており、最後に「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国にわたしが行ってしまう前に、その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほどなのだ」(21,22節)というのも、3章5,6節のイメージを再提示しています。

 

 それは、神の創造の御業に思いを馳せて、ヨブがこの世に生まれた意味、目的を、改めて神に問うためです。ヨブは、9章5節以下で神の創造の御業の意図が理解不能だと語っていましたが、それで神に問う思いを諦めたのではなく、むしろ、自分の生きる意味や苦しみのわけを、きちんと理解できるようにしてほしいと、必死に訴えているわけです(2節)。 

 

 そこで、冒頭の言葉(3節)を語ります。神は、創造の御業において、一つ一つを心を込めて造られ、出来たものをご覧になって、「良し」とされました(創世記1章4節など)。神は、御自分がよしと認められた完成品を、邪険に捨て去られるのか。まるで、悪巧みする者たちを輝かせるかのように。それが神のなさることなのか。それを、「良し」と言われるのか、と。

 

 原文には、「このわたし」という言葉はありませんが、「手ずから造られた」とは「あなたの手の産物」(イェギーア・カペイハー)という言葉で、ここで神が虐げ退けようとしているのはヨブですから、そのように意訳されているわけです。8節の「御手をもってわたしを形づくってくださったのに」という言葉も、この意訳を支持してくれるでしょう。

 

 9節で「心に留めてください、土くれとしてわたしを造り、塵に戻されるのだということを」と言います。陶器師は、思いのままに土を選び、こね、成型して器を作ります。意に沿わなければ、何度でもそれを壊して作り直します。このイメージがヨブに新たな思いを示しました。それは、そのようにする陶器師が間違っているわけではない、悪いわけではないということです。

 

 「乳のように注ぎ出し、チーズのように固め、骨と筋を編み合わせ、それに皮と肉を着せてくださった」(10,11節)と、胎内での受胎、そして胎児の形成を表現しているのは面白いところですが、ヨブはここに、自分の誕生は、両親による性の営みなどではなく、「あなた」と呼ぶ神の御業だと言い表しています。

 

 しかもそれは、「命と恵み(ヘセド)を約束し、あなたの加護によってわたしの霊は保たれていました」(12節)と、ヨブに命を与えた神は、「変わらぬ愛」(ヘセド)をもってヨブを守って来られたのです。「加護」は、「訪問、責任」(ペクダー)という意味の言葉です。繰り返し訪れて、彼の成長を見届けておられたということです。

 

 ところが、そのようにヨブを心に留め、よいものをもって満たしてくださっていた神が、突然豹変してしまわれました。13節の「しかし、あなたの心に隠しておられたことが、今、わたしに分かりました」という言葉に、その思いが表現されています。

 

 自分の苦しみが去らないのは、神が自分の過ちを見逃されないからだ(14節)。ヨブが母の胎に形づくられてこのかた、ひと時も休まず見守って来られた方は、保護を与えられるのと同様、どんな細かいことも一つ残らず几帳面に記録し、可能な限り十分な罰をお与えになるのだ。

 

 数々の苦しみを味わって来たのは、神がヨブの悪を一つ一つ告発するために、「次々と証人を繰り出し、いよいよ激しく怒り、新たな苦役をわたしに課せられ」(17節)ているという証拠なのだ。

 

 ヨブは今この議論の中で、ある程度自分の過ちや罪、弱さを認めているように見えます。だから、自分がこのように苦しみを受けているのは、神の間違っておられるのだという訴えを取り下げています。

 

 ただ、そのように神に罪を攻めたてられるなら、どんな人も「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国」(21節)に追い遣られてしまうでしょう。そんな苦しみを味わうくらいなら、産まれる前に母の胎から墓へと運ばれていればよかった、母の胎を出て、だれの目にもとまらぬうちに死んでしまえばよかったという結論に至ってしまうでしょう(18,19節)。

 

 けれども、ヨブの心にあるのは、そんな絶望的な思いばかりではありません。「わたしの人生など何ほどのこともないのです。わたしから離れ去り、立ち直らせてください」(20節)と言います。もし神がそのように追及する手を緩めてくださればと願います。「立ち直る」というのは、「明るい顔になる、微笑む、輝く」(バーラグ)という言葉です。

 

 「光あれ」(創世記1章3節)といって光ある世界を創造された神が、「二度と帰って来られない暗黒の死の闇の国」(21節)、「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇がその光となるほど」(22節)という、創造以前の世界に自分を追い遣ってしまわれないようにと願うのです。

 

 ひどい皮膚病に覆われ、灰の中に座して苦しみ呻いていたヨブの心に、長いトンネルの向こうに光が見える兆しが表われ始めたといって良いのかも知れません。

 

 我が国では、年間の自殺者が1998年に急増して3万人を突破して、14年連続で高い水準にありました。しかし、2009年から減少に転じて2012年に3万人を割り、昨年は21,312人でした。これはしかし、交通事故死者の6倍弱です。最近はインターネットで自殺指南をするサイトもあるようです。

 

 警察庁の自殺白書によると、15歳から39歳の死因のトップが自殺であり、死因に占める割合も大きなものがあります。因みに、15歳以下と40代は、死因の2位が自殺、50代前半が3位となっています。若者の死因のトップが自殺というのは、先進7か国では日本だけで、その死亡率も他国に比べて高いものになっています。

 

 様々な悩みを抱える中、それを心開いて相談し、適切な解決の道を見出すことが出来ず、孤独に死を選び取るしかなかった方々の無念さを思います。ヨブは、病と孤独の苦しみの中で、神に訴えました。神が土くれに過ぎない自分を心に留めてくだされば、明るい顔になれると、一縷の望みを抱いています。

 

 それは、かつて、命と恵みを約束された神が、苦しみ呻いているヨブの霊を、今も守り支えているからでしょう。そして、そのことに彼の眼が開かれるように、彼の心にその思いを与えて、ヨブに神を呼び求めさせておられるということではないでしょうか。

 

 愛の神は、私たちにも主イエスを信じ、「アバ父よ」と神を呼ぶ霊を授けてくださいました(ローマ書8章15節)。ですから、私たちの希望は失望に終わることはないのです(同5章3~5節)。

 

 どんなことでも思い煩うことをやめ、何事でも感謝を込めて祈りと願いとをささげ、求めているものを神に打ち明けましょう。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、私たちの心と考えを、キリスト・イエスによって守ってくださいます(フィリピ4章6,7節)。

 

 主よ、私たちはあなたのお創りになった美しい世界に生かされていながら、なんと多くの苦しみに囲まれていることでしょう。多くの人々が周りにいるのに、深い孤独感に苛まれています。そこに私たちの罪があります。主よ、私たちの国を憐れんでください。弱い私たちを助けてください。命の光の世界が開かれますように。すべての人々の上にキリストの平和が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「しかし、神があなたに対して唇を開き、何と言われるか聞きたいものだ。」 ヨブ記11章5節

 

 ヨブがシュア人ビルダドに答える言葉を聞いて、ヨブの三人目の友・ナアマ人ツォファルも黙っていられなくなり、「これだけまくし立てられては、答えないわけにいくまい」(1節)といって口を開きます。

 

 ナアマ人ツォファルについて、ナアマは、ユダ族の嗣業の地の中で南西部のシェフェラ(低地)にあった町で(ヨシュア記15章33節以下、41節)、ラキシュやエグロンなどと同じ地域にありましたが、正確な位置は不明です。それが正しければ、これまで登場して来た人物の中で、唯一のユダヤ人(ユダ族)ということになります。

 

 最初のエリファズは、「あえてひとこと言ってみよう。あなたを疲れさせるだろうが、だれがものを言わずにいられようか」(4章2節)と、少し遠慮がちに語っていました。続くビルダドは、ヨブの潔白を前提とし、ヨブの子らだけを罪に定めていました(8章4~6節参照)。

 

 ツォファルは、ヨブが「わたしの主張は正しい。あなたの眼にもわたしは潔白なはずだ」(4節)と主張していると言い、それに対して冒頭の言葉(5節)のとおり、「しかし、神があなたに対して唇を開き、なんといわれるか聞きたいものだ」といって反論を始めます。

 

 もっとも、ヨブが文字通り、自分が潔白だという主張をしたことはありません。ただ、ヨブが5章9節のエリファズの言葉を抜き出して、その意味を9章5~10節で覆してしまったので、あらためて、エリファズを弁護しようとしているのです。

 

 それは、「神が隠しておられるその知恵を、その二重の効果をあなたに示されたなら、あなたの罪の一部を見逃していてくださったと、あなたにも分かるだろう」(6節)という言葉です。ただ、ここは原文の解釈が難しく、邦語聖書の訳は一致していません。

 

 それでも、「(二重の)効果」(トゥーシヤー)という言葉に注目すると、エリファズが5章12節の「手の業」という箇所でこれを語っていて、それに対してヨブが6章13節で「力」と訳される言葉として用いていました。つまり、エリファズとヨブの間でやりとりのあった言葉を、ツォファルがここで取り上げているわけです(岩波訳脚注参照)。

 

 いずれにせよ、神が隠されていた知恵が開かれれば、罪の一部を見逃していてくださったと分かるということは、神がすべてを明らかにされ、適正な裁きをなされたならば、さらに重い処罰が下されることになるだろうと告げ、知恵を隠し、罪の一部をも逃されていたというところに、神の善意があるというわけです。

 

 また、「二重の効果」というのはどういうことか、よく分かりませんが、原文では、「知恵に関する二倍のもの」といった言葉遣いになっていて、新改訳の、「すぐれた知性を倍にしてくださる」というのが、原意に近いのではないかと思われます。

 

 この表現で思うのは、最後に主なる神がヨブの境遇を元に戻された際、「財産を二倍にされた」ということで(42章10節)、ツォファルはここで、知らずにその結論を先取りしていたのかも知れません。

 

 しかしながら、「神があなたに対して唇を開き、何と言われるか聞きたいものだ」(5節)といって、神の正しい審判を仰げというのですが、それをツォファルが神に尋ねた結果が、6節だというのでしょうか。「神が隠しておられるその知恵」(6節)と言いながら、それはヨブには隠されていて、ツォファルには分かるというのでしょうか。

 

 だから、7節で「あなたは神を究めることができるか。全能者の極みまでも見ることができるか」とツォファルが言うとき、誰もが確かに「出来ない、分からない」と答えるほかはないでしょうが、しかしそれは、ツォファルにも出来ないこと、分からないことでしょう。それこそ、このような主張に対して、神が何と言われるのか、聞きたいものだと反論されてしまうことになります。

 

 そう考えれば、ヨブが言っていたとされている、「わたしの主張は正しい。あなたの目にもわたしは潔白なはずだ」という言葉は、ツォファル自身の思いを正確に言い表したもので、11章に語る自分の「正しい」主張を、ヨブに聞き入れさせようとしていることになりそうです。

 

 といって、ツォファルの語っていることが全く間違いだということになるかと言えば、そうは言いきれません。38章以下の主なる神の発言を受けて、ヨブがそれに対して「『これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。』そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を越えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(42章3節)と答えています。

 

 ツォファルが6節で「神が隠しておられるその知恵を、その二重の効果をあなたに示されたなら」と語った言葉が「知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは」という表現で用いられていて、その結論をここに先取りしたようなかたちになっているからです。 

 

 しかしながら、ヨブの友らは本来、ヨブを慰め、励ましたいと思って、発言しているのでしょう。それなら、何故ヨブが神に苦しめられているのか、自分の頭で考えるのでなくて、ヨブの身になって、神が唇を開いてなんとお答えになるのか、尋ねてみればよいのです。

 

 そうすれば全く違った思いになり、ヨブにかける言葉もきっと、全く違ったものになるはずです。主なる神がエリファズに「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」(42章7節)と仰せになっているからです。

 

 他人に向かって語った言葉を、自分自身に当てはめてみればよいのです。人を裁くその裁きで自分も裁かれます(マタイ7章2節)。人を罪に定める者は、自分も罪に定められます。人を祝福すれば祝福されます。人を呪えば自分も呪われます(創世記12章3節)。憐れみ深い人は神の憐れみを受けます(マタイ5章7節)。

 

 主イエスは、「敵を愛しなさい。人によいことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすればたくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(ルカ福音書6章35~36節)と言われました。

 

 これを、自分の力で実行出来る人がどれだけいるでしょうか。でも、実行したいと思うことは出来ます。実行させてくださいと神に願うことも出来ます。私たちの天の父は、求める者によいものをくださると約束されています(マタイ7章11節)。

 

 ルカは、マタイの告げた「よいもの」のことを、「聖霊」と規定しています(ルカ11章13節)。聖霊をいただいて、他人からしてもらいたいと思うことを、聖霊の力を受け、その導きに従って隣人にさせていただく者とならせていただきましょう。

 

 主よ、姦淫の現場で捕らえられた女性に対し、罪を犯したことのない者が、先ず、石を投げなさいと主イエスに言われて、石を投げることの出来た者は一人もいませんでした。御言葉の光に照らされるとき、自分自身が神の憐れみを必要とする罪人であることが分ります。互いに赦し合い、愛し合うために、聖霊を通して神の愛を満たしてください。御言葉を聞いて行う者とならせてください。全世界に主イエスの恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「神と共に知恵と力はあり、神と共に思慮分別もある。」 ヨブ記12章13節

 

 三人目の友ナアマ人ツォファルの発言に対して、12~14章でヨブが答えます。これで、友らとの対話が一段落することになります。3章にわたる応答は、ツォファルだけでなく、ほかの二人にも聞かせる意図があってなされたものといってよいでしょう。2節に、「確かにあなたたちもひとかどの民」と言っていることも、それを示しています。

 

 ここで、「確かに」(オムナム)は、9章2節と同じアーメンの副詞が用いられ、「本当に」といって、友らの主張を皮肉をもって肯定しています。というのも、友らが語ったことは、ヨブの知らないことではないから(3節)、それをわざわざ語って聞かせたのは、この自分を愚か者と見下し、笑いものにしている証拠だというわけです(4節)。

 

 ヨブは、「獣に尋ねるがよい、教えてくれるだろう。空の鳥もあなたに告げるだろう」(7節)と語り、続けて「大地に問いかけてみよ、教えてくれるだろう。海の魚もあなたに語るだろう。彼らは皆知っている。主の御手がすべてを造られたことを。すべての命ある者は、肉なる人の霊も、御手の内にあることを」(8~10節)と言います。

 

 これはツォファルが、高い天、深い陰府、遠い地の果て、広い海原という宇宙の4つの領域を語って(11章8,9節)、それを創造された神の超越性を語ってヨブを非難したことに対し(同6,7節)、野の獣、空の鳥、大地、海の魚という、特別ではないこの地の被造物でさえ、その程度のことは知っていると、ツォファルを非難する言葉で切り返したわけです。

 

 ただ、ヨブは自分で獣に尋ねたことがあるのでしょうか。空の鳥に耳を傾けたのでしょうか。本当に耳を傾けてみたら、獣や空の鳥たちは何と語るでしょうか。私は、神のなさることはみな素晴らしいと語るのではないかと思います。そしてそれは、ヨブ自身が耳を開いて受け止めなければならない言葉ではないかと思うのです。

 

 主イエスは、「空の鳥をよく見なさい」(マタイ福音書6章26節)、「野の花がどのように育つのか、注意してみなさい」(同6章28節)と言われました。野の獣、空の鳥は、必死に生きています。彼らは種蒔きをしませんし、刈入れもしません。蔵に取り入れたりもしません。いわゆる私たちが持っているような保険、安全保障を何一つ持ってはいません。

 

 自然環境の変化は、その生活に重大な影響を及ぼします。けれども、明日のことを心配したり、思い煩って、不安と恐れで何も手につかなくなったりはしません。今日を懸命に生きています。懸命に子を養い、花を咲かせ、実をつけます。与えられた境遇で懸命に生きようとする姿が何よりも美しいものであると、主イエスは仰ったのです。

 

 一方、ソロモン王は美しい宮殿に住み、素晴らしい家具、調度品、美術品などに囲まれ、目もくらむような宝石類、高価な衣装などを数多く持っていたことでしょう。しかしそれはソロモン自身の美しさなどではありません。いずれも見た目、人の評価をよくしようとするものです。

 

 私たちも皆、「ミニ・ソロモン」です。少しでも自分の評価をよくしようとして、磨きをかけます。人の評価、評判というものを、絶えず気にしているのです。そして、ソロモンのようになれないとき、スネたり、ひがんだり、他者を妬んだりします。時には、自分をそのように生み育ててくれなかったと、親を恨みさえするのです。

 

 どうして私を信じ、あなたの命、あなたの問題を私に委ねないのか、ああ、信仰の薄い者たちよと、主イエスが仰っているようです。主イエスは、そのような私たちの弱さをよくご存知なのです。

 

 ヨブは、冒頭の言葉(13節)のとおり、知恵と力、思慮分別は神と共にあると語って、主を賛美しています。あるいはこれも、この程度のことは知っているという、いわば反語的に語った言葉だったかもしれません。

 

 しかしながら、神の知恵、神の力、思慮分別は、人間の思考、能力を超えて働きます。だから、私たち人間は、神の知恵が示されても、それを知恵として認識出来ないことがあり、神の力が表わされても、それを力として理解し得ないこともあります。

 

 それが如実に示されたのが、主イエスの十字架です。人間は、罪なき神の独り子主イエスを十字架につけて殺してしまうのです。主イエスは、十字架上で何の力も示されませんでした。けれども、十字架の死を通して、主イエスは神の愛を実現し、世界を変え、歴史を変えて来られたのです。

 

 パウロが、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です」(第一コリント1章18節)、「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです」(同25節)と記しています。

 

 キリストと出会い、その恵みに触れたとき、自分にとって愚かとしか思えなかった、弱さの極みとしか見えなかった十字架が、私たちに救いを与える神の知恵、神の力であることを、パウロも悟ったのです(第一コリント1章24節)。コロサイ書2章3節には、「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠されています」とあります。

 

 甦られたキリストとの出会いで、その宝を知らされたパウロは、自分のようなキリスト教会の迫害者が罪赦され、救われたからには、キリストにおいて救われない者は一人もいない、すべての者が救われるのだと、喜びをもって告げ知らせる者となったのです。

 

 私たちも主の恵みに与った者として、神を畏れ、神を信じ、神に聴き、一切を神に委ねて歩んで参りましょう。

 

 主よ、愚かで罪深い私のために、御子が身代わりとなって死んでくださいました。それなのに恩を忘れ、不平不満が心に湧いて来ます。恐れや不安にさいなまれることがあります。どうか憐れんでください。私の心の王座においでくださり、私をあなたの望まれるような者にしてください。主の恵みと平安が常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「そうだ、神はわたしを殺されるかもしれない。だが、ただ待ってはいられない。わたしの道を神の前に申し立てよう。」 ヨブ記13章15節

 

 ヨブは、自分が話しかけたいのは全能者、神に向かって申し立てたいと言います(3節)。ここにヨブは、神について、友らと話し合いたいわけではない。自分は、全能なる神と話し合いたいと語り、だから、「どうか黙ってくれ、黙ることがあなたたちの知恵を示す」(5節)と願います。

 

 神について、友らの語る程度の知識は自分も既に持ち合わせていて、改めて教えてもらう必要はないし(1,2節)、彼らはヨブを慰め癒す医者のつもりなのだろうけれども、彼らの処方する薬は何の役にも立たず、かえって苦しみを増しているだけだから、というわけです(4節)。

 

 これは、出血の止まらない女性が多くの医者にかかってひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであったという、マルコ福音書5章25節以下の記事を思い出させます。そのとき、主イエスこそ真の医者であることが示されました。

 

 7節で、「神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り、欺いて語るのか」と、ヨブは友らを厳しく糾弾します。ヨブが無実を訴えるということは、それは神の裁きが間違っていると神を攻撃していることになると考える友らは、それで黙っていられず、神は正しい、間違っているのはヨブだと告発して来たわけです。

 

 その行為は、彼らが神の弁護を買って出ていることで、しかもそれは事実に基づく正しい弁論ではない、むしろ、その弁論によって、神が彼らの弁護を必要とする、彼らよりも小さな存在になってしまう。それとも、そうすることで神に媚びへつらっているのかと、ヨブは反論しています(7,8節)。

 

 ヨブがそういうのは、自分がこれほど苦しめられる理由を見いだすことが出来ず、それが彼の苦悩をいっそう深いものにしているのであって、それを神に明らかにして欲しいと願っているわけですが、彼らの偽りの弁護のお陰で、かえって神の姿が見えなくなってしまっているのです。

 

 誰も、神の弁護士になることは出来ません。神は、ご自分のなさっていることについて、ご自分でその御心をお示しになることがお出来になります。だから、弁護士を必要とはされないのです。むしろ、神の御前に立つために弁護士を必要としているのは、私たちの方です。

 

 パウロが、「わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです。・・それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」と言っています(ローマ14章10,12節)。誰が、自分の語ったこと、したことについて、神に申し開きをし、無罪放免を勝ち取ることが出来るでしょうか。

 

 ツォファルが「あなたは神を究める(ハーカール)ことができるか」(11章7節)とヨブを詰問しましたが、ヨブは「人を侮るように神を侮っているが、神に追求されてもよいのか(ハーカール)」(13章9節)と問い返しています。神に追求されて無事でいられる人など、どこにもいないでしょう。

 

 冒頭の言葉(15節)で、「わたしの道を神に申し立てよう」とヨブは言います。ここで、「申し立てよう」というのは、「主張する」(ヤーカー)という言葉ですが、9章33節に、ヤーカーの分詞形で、「仲裁者」(モーキーアハ)という言葉が用いられていました。 

 

 仲裁者の登場を待てないので、殺されることになっても、主の前で自分の主張をしようというのでしょうか。口語訳は、待てない、神に期待できないということで、「絶望だ」と意訳しています。そんな絶望的な状況の中で、勇気を振り絞って神の前に進み、自分のことを分かってもらうようにしようという状況でしょう。

 

 実は、「ただ待ってはいられない」という文章について、原文には、「~ない(not)」を示す「ロー」という言葉を、同じ音で「彼に対して、彼を(in him)」を意味する文字として読むようにというしるし(ケレー)が付けられています。 その読みを採用すると、「神がわたしを殺しても、わたしは神を待ち望む」という、新改訳や欽定訳のような訳文になります。

 

 それだと、神は必ず自分の主張を受け止めてくださるはずだという、神に対する信頼がヨブの内に再びよみがえってきたかのように読めます。どちらの読みが正しいのか、簡単に決められません。古くから、研究者の間で論争されて来たところで、解釈の別れる有名な個所なのです(岩波訳脚注参照)。

 

 ヨブはその登場を待ちきれなかったかも知れませんが、神は、私たちのために仲裁者を用意してくださいました。それが、キリスト・イエスです。第一テモテ書2章5節に「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」とあります。

 

 主イエスについて、第一ヨハネ書2章1節に「御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます」と記されています。「弁護者」とは、パラクレートスという言葉ですが、「パラ」は「傍ら」、「クレートス」は「呼ぶ」という意味で、傍らにおいでくださる方、私たちを慰め、助けてくださる方のことです。それが、主イエス・キリストなのです。

 

 そして、父はもうお一方、私たちのもとに弁護者を遣わされました。それは、真理の霊と言われるお方です(ヨハネ14章16,17節など)。真理の霊は、私たちに主イエスを証しし(同15章26節)、神を「アッバ、父よ」と呼ばせ、私たちが神の子であることを証ししてくださいます(ローマ8章15,16節、ガラテヤ書5章5,6節)。

 

 ヨブは殺されることになっても、主の前に申し立てをしようと言い、「このわたしをこそ、神は救ってくださるべきではないか」(16節)と訴えていましたが、確かに神は、彼の言葉を受け止め、救うために、救い主なる主イエス、そして別の弁護者として真理の御霊を遣わし、神の子として生きる恵みをお与えくださったのです。 

 

 父なる神は求める者に聖霊を与えてくださると約束されています(ルカ福音書11章13節)。日々主なる神を求め、その御言葉に耳を傾け、導きに従って歩ませていただきましょう。

 

 主よ、絶えず御前に謙り、御言葉の恵みに与らせてください。永遠の命の御言葉を持っておられるのは、主イエスお一人だけだからです。何故ヨブが苦しまなければならないのか、未だ詳らかにされてはいませんが、徒に口を開かず、傍らに座して、共に主の御言葉を待つ姿勢を、私たちにも持たせてください。御言葉が私たちの上に実現しますように。キリストの平和が全地にありますように。 アーメン

 

 

「木には希望がある、というように、木は切られても、また新芽を吹き、若枝の絶えることはない。」 ヨブ記14章7節

 

 ヨブは、自分の苦しみを神に訴えます。その訴えに神がいつ答えてくださるのか、それが今のヨブの最大の関心事です。「人は女から生まれ、人生は短く、苦しみは絶えない。花のように咲き出ては、しおれ、影のように移ろい、永らえることはない」(1,2節)という言葉には、林芙美子の「花の命は短くて苦しきことのみ多かりき」(『浮雲』)という文句が浮かびます。

 

 ヨブの思いの中に、自分の人生がこの苦しみと空しさの中で短く早く終わってしまうという恐れがあるようです。「人生はあなたが定められたとおり、月日の数もあなた次第。あなたの決定されたことを人は侵せない」(5節)といって、このまま、神は自分を断罪したまま、終わりのときを迎えさせることになれば、悔いだけが残るでしょう。

 

 必死に思いを巡らし、想像力を掻き立て、希望の芽を見出そうとします。それが、冒頭の言葉(7節)です。きっかけは、ビルダドの語った「その場所では呑み込まれたようでも、お前など知らない、と拒まれても、葦は、生き生きと道を探り、ほかの土から芽を出す」(8章18,19節)の言葉だったかもしれません。植物の強(したた)かさが、そこに示されています。

 

 木が切られ、切り株になっても、そこからひこばえが出て来るし、切り倒された木が朽ちて土になるとき、それを養分として、次の世代がそこに命を産み出していきます(8,9節)。このイメージに、一つの励ましを得ました。

 

 「新芽を吹き」は、「変える、刷新する」(ハーラフ)という言葉で、14節に、その名詞形のハリファーという言葉が「交代の時」として用いられています。このハーラフという言葉は、第二イザヤと言われるイザヤ書40章の31節に、「新たな力を得」というところで、状況の逆転を意味する言葉として用いられています。

 

 また、「幹が朽ちて塵に返」(8節)るというのは、「土(塵:アーファール)の中で幹が死ぬ」という言葉です。それは、ヨブが自分の運命を7章21節、10章9節で、はかない、ただ死を迎えて無になるという意味で用いていた言葉です。

 

 しかしながら、塵に返ってそれでお仕舞いというのではありません。「水気にあえば、また芽を吹き、苗木のように枝を張る」(9節)と、そこに命の希望を見出しているのです。

 

 ただ、人間は木ではありません。葦ではありません。自分はそこから、どのように希望をつなぐことができるのでしょう。「息絶えれば、人はどこに行ってしまうのか」(10節)というとおりです。そこで、「どうか、わたしを陰府に隠してください。あなたの怒りがやむときまで、わたしを覆い隠してください」(13節)という願います。

 

 「陰府」(シェオール)は、すべてが朽ち果て、塵に返るまで、死んだ人が置かれている世界と考えられていました。そこで、神の怒りの時を過ごすということは、当初の、神に断罪されて死を迎えるということです。

 

 ところが、ヨブはそこで、「しかし、時を定めてください、わたしを思い起こす時を」という願いを口にします。塵に返る前に、自分が無に帰す前に、自分を思い出して欲しい、自分に目を留めて欲しいというのです。

 

 神が思い出され、目を留めてくださるということについて、神が不妊のラケルを心に留めてその願いを聞かれ、胎を開かれた出来事(創世記30章22節)や、長くエジプトで労役についていた民の呻きに、イスラエルの父祖との契約を思い起こされ、御心に留められて、解放のためにモーセが遣わされたという出来事(出エジプト記2章23節以下)が思い起こされます。

 

 ヨブは、自分の人生は無意味ではなかった、短命で不幸というだけでは終わらなかった、むしろ、最後に神の「しかり」をいただくことが出来たと思えるように、その「時を定めてください」と願っているわけです。ヨブは、生前に苦しみからの解放がかなわないのなら、せめて死後の世界に、神の憐れみを味わいたいと切望しているようです。

 

 とはいえ、ヨブはこのとき、神がその願いに応えてくださると信じていたわけではないでしょう。「人は死んでしまえば、もう生きなくてもよいのです」(14節)は、「人が死んで、生きるだろうか」という言葉です(口語訳、新改訳、岩波訳)。死後の世界に、神の憐れみを味わうことなど、できるのかという言葉のように見えます。

 

 当然のことながら、このときはまだ、主イエスが十字架で贖いの死を遂げられた後、三日目に甦られたこと、主イエスを信じる信仰によって義と認められ、神の子とされ、永遠の命が授けられること、その恵みに誰もが与ることができることなど、ヨブにとって想像も出来ないことでした。

 

 しかしながら、このヨブの願いは、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ福音書23章42節)というあの強盗の願いにつながり、そのときイエスはその強盗に、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)と約束されました。

 

 ということで、復活ということについて、永遠の命に与るということについて、それが彼らに明らかになるためには、まだ数百年も待たなければなりません。けれども、ヨブはここで、自ら知らないままに、主イエスの甦りを指し示し、主による復活の希望を語っていることになるのではないでしょうか。

 

 使徒パウロが、つながれている牢の中から、「わたしたちのためにも祈ってください。神が御言葉のために門を開いてくださり、わたしたちがキリストの秘められた計画を語ることができるように」(コロサイ4章3節)と、祈りの要請をしています。

 

 キリストの秘められた計画について、コロサイ書1章27節で「この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたのうちにおられるキリスト、栄光の希望です」と語られていて、復活されたキリストが私たちの内に住まわれるということです。

 

 確かに、そこに私たちの希望もあります。主イエスを知る恵みの素晴らしさ、今も生きておられる主のお与えくださる希望がいかなるものか、パウロは多くの人々に知って欲しいと思っているのです。この新しい恵みが開かれるためのヨブの試練なのでしょうか。

 

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解尽くせよう」(ローマ書11章33節)。

 

 主よ、ヨブはひどく苦しめられ、生きる望みさえ失いそうになる中で、新しい力を得て再び立ち上がる希望を与えてくださる神を頼りにするように導かれました。それが空しい夢幻ではなく、神の御子イエス・キリストの到来、贖いの業と復活を指し示すものであることを知っています。あなたは憐れみ深く、希望を失望に終わらせられない方だからです。キリストの恵みと平安が私たちと共に常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「あなたは最初の人間として生まれたのか。山より先に生まれたのか。神の奥義を聞き、知恵を自分のものとしたのか。」 ヨブ記15章7,8節

 

 ヨブが神に訴え、返す刀で自分たちをばっさりと切り捨てる言葉を聞いて(13章参照)、年長者エリファズが2度目に口を開きました(1節)。第二ラウンド開始です。ヨブのために駆けつけ、共に座し、真剣に語った言葉がヨブの心に届かなかったというだけでなく、偽りだ、神へのへつらいだなどと言われては(13章7節以下)、エリファズとしても立つ瀬がありません。

 

 2度目のエリファズの言葉には、最初の言葉(4~5章)の繰り返しも見られますが、しかし、そこに込められていた、ヨブを何とか励まし、力づけようという優しさ、彼が受入れやすいように言葉を選ぶ配慮といったようなものは、今回は、殆ど感じられません。むしろ、ヨブを自分たちの信仰の破壊者であるかのように考えて、強く反論しています。

 

 それは2,3節で、ヨブの言葉を、「空虚な意見」、「無益な言葉」、「役に立たない論議」と断じ、それは、ヨブが「東風」という、アラビア砂漠を渡って吹き付けて来る砂塵混じりの熱風シロッコを、その腹に満たしているからだと、ヨブの言葉の内容が破壊的なものであることを示します。

 

 当初、ヨブが敬虔な生き方をしていたことや、完全な道を歩もうとしていたことを認める発言をしていたエリファズですが(4章6節)、神に訴え、問題を神に任せよとの奨めを受け入れず(5章8節参照)、むしろ神を非難する言葉を聞いて、今や、その発言によって、ヨブの内に隠されていた悪が明らかになった(4節)。彼の口、舌、唇が、彼の有罪を証明しているというのです(5,6節)。 

 

 そうして、冒頭の言葉(7,8節)を口にします。これは、箴言8章22節で「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って」と言い、続く25節で「山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが、わたしは生み出されていた」と告げる言葉などを背景にしていると考えられます。箴言で「わたし」というのは、擬人化した知恵のことです。

 

 エリファズがこう言ったのは、12章7節以下、特に同22節の「神は暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出される」といった言葉を受けて、天地が造られる前から、その創造の目的や隠されている意図を知っているかのように思い上がっているのではないか、お前はただの人間に過ぎないだろうと、ヨブを問いただしているのです。 

 

 それは確かにそのとおりでしょうけれども、だから、天地創造の目的や、そこに隠されている意図について、全く語れないということにはなりません。そうであるなら、創世記1,2章を始め、その神話的な内容を書き留めることは出来ないということになってしまいます。

 

 世界万物の創造物語が書き残されているのは、創世記の著者が、最初の人間として生まれたからでも、しかも山よりも先に生まれたからでもありません。神の啓示を受けたから、神よりその奥義を聞き、知恵を得たからということでしょう。

 

 これまで学んだように、ヨブは友らとのやり取りの中で、創造の秘密にとどまらず、新約聖書の福音に通じるイメージを記しています。友らの発言がそれを誘発したと言ってもよいかもしれませんが、その背後に神の導き、啓示があったということも出来るでしょう。彼を突然襲った不幸や友らの発言を通してヨブの心に働きかけ、思いを与え、また、願いを起こさせたのではないでしょうか。

 

 歴代誌下18章に、北イスラエルの王アハブに対して預言者ミカヤの語った言葉が記されています。ミカヤはその時、幻で見た天上での会議の内容について語り(同16節以下)、それに対して、御用預言者たちはミカヤを非難し(同23節)、アハブはミカヤを獄につなぎ置かせました(同26節)。

 

 冒頭の言葉を含む10節までのヨブを非難する言葉について、ちょうどこのミカヤを非難する御用預言者のような立場の発言ではないかと考えるのは、それほど飛躍した考えということでもないように思われます。

 

 そしてエリファズは、「なぜ、あなたは取り乱すのか。なぜ、あなたの目つきはいらだっているのか」とヨブに語りかけています(12節)。確かにそのときヨブは取り乱し、その目つきはいらだっていたことでしょう。それは、神に苦しめられていて、その答えが見つからなかっただけでなく、3人の友らの言葉によって、その苦しみが増していたからです。

 

 しかし、ヨブに向かってそのように語ったエリファズの心はどうだったのでしょう。そんなに取り乱さず、目を吊り上げないで、落ち着いてゆっくり話そうというような話し方ではありません。「神の慰めなどは取るに足りない、優しい言葉は役に立たない、というのか」(11節)という言葉から考えても、殆どけんか腰でヨブに挑みかかっているわけです。

 

 エリファズもそのとき、棘のあるヨブの言葉に自尊心を傷つけられ、心乱されて、その目はつり上がり、ヨブを糾弾せずにはおれない思いになっていたのではないでしょうか。だから、ヨブの真実な謝罪の言葉を聞くまでは、溜飲を下げることは出来ないというような思いになっているのだと思います。

 

 あらためて、「あなたを罪に定めるのはわたしではなく、あなた自身の口だ」(6節)という言葉が心に留まりました。この言葉をエリファズ自身、よく味わうべきです。主イエスが、「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(マタイ7章1,2節)と言っておられます。

 

 また、「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」(同12章36,37節)と言われます。他者を責める言葉が自分を量る秤となり、それによって自ら罪ある者とされないよう、語る言葉に留意すべきなのです。

 

 そして、それは私のことでもあります。いつも人の目を気にして戦々恐々としています。批判に敏感に反応し、強い口調で自分を守ろうとします。そして、言わなくてもよいことまで口にします。まさに、私の口が私を罪に定めているのです。

 

 改めて、主に信頼しましょう。主を尋ね求めましょう。導きに従って歩みましょう。主が、「立ち帰って、静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ30章15節)と仰せくださるからです。

 

 主よ、私たちを憐れみ、私たちの弱さ、愚かさ、過ちをお赦しください。あなたの憐れみと赦しなしには生きられません。人に対する恐れから、人の言葉で取り乱す頑なな思いから解放してください。常に共にいて、支え、守り、教え、導いてください。主が私たちのうちにいて、すべてのすべてとなってくださいますように。 アーメン

 

 

「このような時にも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天には、わたしを弁護してくださる方がある。」 ヨブ記16章19節

 

 苦難を訴えても神は何も答えてくださらず(13章20節以下)、慰めてくれるはずの友は神にへつらう偽りの弁護士で、ヨブの苦しみは増すばかり(2節、13章7,8節)。ヨブは沈黙を願い、「わたしがあなたたちの立場にあったなら、そのようなことを言っただろうか」(4節)、「口先で励まし、唇を動かすことをやめなかっただろうか」(5節)と彼らに言います。

 

 それから神に向かって、「もう、わたしは疲れ果てました」(7節)と言い、「このわたしの姿が証人となり、わたしに代わって抗議するでしょう」(8節)、つまり、自分が苦悩の果てに死んだその姿が神を告発するだろうと語ります。

 

 ヨブが11,12節で「神は、悪を行う者にわたしを引渡し、神に逆らう者の手に任せられた。平穏に暮らしていたわたしを神は打ち砕き、首を押さえて打ち据え、的として立て」と語っているのは、1,2章の主なる神とサタンとのやりとりを思えば、全く的外れな言葉ではないでしょう。

 

 そのことについてエリファズは、「彼は神に手向かい、全能者に対して傲慢にふるまい、厚い盾をかざして、頑に神に向かって突進した」(15章25,26節)といって、その傲慢さのゆえに神の裁きを受けた、ヨブの受けた災いがその証拠だと断じていました。

 

 そこで、義人アベルの流した血が土の中で神に向かって叫んだ如く(創世記4章10節)、ヨブの血が彼の義を叫び続けることを要求します(18節)。この地上には、ヨブが信頼を寄せることの出来る者がいません。親しい友ですら、その苦しみについてヨブが語ることを聞こうとしないからです。

 

 そのとき、突然、彼の口から全く思いがけない言葉が飛び出します。それが、冒頭の言葉(19節)です。天にヨブのための「証人」、ヨブを「弁護してくださる方がある」と言います。9章33節に「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」と、自分の願望を述べていましたが、ここでは大きく一歩進んで、「ある」と断定するのです。

 

 さらに、「わたしのために執り成す方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す」(20節)と語ります。これは、自分の執り成し手、友となるのは神だということです。「執り成す方」、「わたしの友」は、いずれも複数形です。これは創世記1章26節、11章7節で主なる神がご自分のことを「我々」と語っている、「尊厳の複数」と呼ばれる用法なのでしょう。

 

 そして、「神を仰いでわたしの目は涙を流す」とは、自分の思い、感情を神に向かって注ぎ出すという表現でしょう。どのように語っても、それが聞き入れられず、苦しみが増すばかりだったというヨブの思い(6,7節)が込められた言葉のようです。

 

 「わたしのために執り成す方」(岩波訳は「わが仲裁者」)を口語訳、新改訳、欽定訳などは「わたしを嘲る(scorn me)」と訳しています。確かに、どちらの訳も可能な言葉のようで、文脈で訳し分けられているようです。

 

 21節の「神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように」という言葉は、なかなか興味深い表現です。「裁く」(ヤーカー)は、9章33節の「仲裁する者」(モーキアハ)という名詞の動詞形です。神が御自分と「この男」、つまりヨブとの間を仲裁してくれるようにと願っているからです。

 

 父なる神と私たちとの間に立つ仲裁者、神の子キリスト・イエスの存在を、このときヨブはまだ知りません。実際に、神との間に立つ仲裁者のことを、ヨブはどのように考えていたのでしょうか。

 

 これまで、ヨブは自分の身に起こる出来事を、エリファズらと同様、因果応報的に考え、正義に従って罪を裁く絶対者を神として仰いでいました。だから、その神に無実を訴え、解放を願い求めて来たのです。

 

 そして、その訴えを神に届けるために、「あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら」(9章33節)と考えたのでした。そのとき、ヨブの中では、そのような者はどこにもいないと考えている方が大きかったのではないでしょうか。それがここに来て、自分のための証人が天にいると語り出しました。

 

 「見よ」(19節)という言葉から、ヨブには、天におられる神を見る新しい目が与えられたようです。どう見えているのか、確実なことは何も言えませんが、ここでヨブは、因果応報的に罪を裁く正義の神というだけでなく、ヨブの友となり、正義の神と人の子ヨブとの間を執り成すという仲裁者としての神の姿も、そこに見ているということでしょう。

 

 ただ、本当に見えていたのでしょうか。実際に見たというのでしょうか。本当は、天にいる弁護者を想定する以外に、自分にはもう希望がないということではないでしょうか。だから、本当にいると考えているというのではなく、彼がそう望んでいるだけだというのではないのでしょうか。あるいは、そうかも知れません。

 

 しかし、聖書は、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11章1節)と教えてくれます。また、「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ2章13節)という御言葉もあります。神が私たちに望みを与え、それを神が実現してくださると信じる信仰に導かれるわけです。

 

 ところで、天におられる弁護者とは、主イエスのことです(ローマ書8章34節、第一テモテ書2章5節、第一ヨハネ書2章1節など)。ヨブの一縷の望みは、はるかかなたの天の御座におられる御父とその右に座しておられる主イエスを、仰ぎ見ることになります。そして、救いが完成する時、主イエスがヨブを弁護して、神の御前で無実を勝ち取ってくれるのを、見るのです。

 

 ということで、神が彼に試練をお与えになったのは、ヨブのこのような思い、望みに導くためだったのではないかと思われます。厳しい災難に遭って、それがなかなか解消しないので、神に向かって呻き叫ぶ中、仲裁者を求める思いが起こされ、そこから、自分のための証人、神の御前で弁護してくれる方が天にいるという希望になったわけです。

 

 神がお与えくださった希望なら、それも、苦難が忍耐を海、忍耐が練達を生み、そうしてそこから生まれた希望なら、それは、失望に終わることがありません(ローマ書5章3~5節)。そして主なる神は、その希望を土台とした信仰に答え、御子イエスをこの世にお遣わしくださいました。

 

 私たちは罪深い者ですが、キリストの十字架で贖われ、罪赦されて神の御前に義とされました。今もキリストが神の御座の右にいて、私たちのために執り成しをし続けてくださっています。その恵みに感謝し、主イエスの御言葉に聴き従って進みましょう。

 

 よ、希望の源であられるあなたが、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とで私たちを満たし、聖霊の力によって希望に満ち溢れさせてくださいますように。平和の源であられる神が私たちと共にいてくださいますように。そうして、希望と喜び、平安をもって、日々歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「あなた自ら保証人となってください。ほかの誰がわたしの味方をしてくれましょう。」 ヨブ記17章3節

 

 5節に「利益のために友を裏切れば、子孫の目がつぶれる」と記されています。これは、我が利益のために友を裏切るような者は、神様に酷い目に遭わされるぞという意味の格言ですが、親が子供に「友人を大切にせよ」というしつけをするときに教える言葉でしょうか。あるいは、友に裏切られた者が口にする呪いの言葉でしょうか。 

 

 いずれにしても、これは、「親の因果が子に報い」という、因果応報の論理です。我欲で友を裏切るのは、子孫の目がつぶれるような酷いことだという考え方は、理解出来ないわけではありません。しかしながら、もしもこの言葉を視覚に障害のある方がお聞きになったら、どのように感じられることでしょうか。

 

 実際に視覚に障害を持つ方の親御様で、自分が利益に目がくらんで友人を裏切ったために我が子が目に障害を持って生まれたのだと、額面通りに受け止めることが出来るような方は、一万人に一人もいらっしゃらないと思います。

 

 盲学校の先生が記された文章を読んだことがあります。それは、子どもたちを散歩させているとき、幼い子を連れたお婆さんが、「お米を粗末にする子は、あの人たちみたいに目がつぶれちゃうんだよ」と言い聞かせている言葉が聞こえて、その言葉を子どもたちに聞かせたくなかったという文章でした。

 

 当然のことながら、子どもたちや彼らの親がお米を粗末にしたから失明したわけではないでしょう。ただ、「なぜ自分の子が苦しまなければならないのか、何が悪かったのか、本当に親の因果が子に報いたのか」と、無限地獄のように自分を責め、その運命を呪っておられる方があるかも知れません。

 

 「この格言はわたしのことだと人は言う」(6節)という言葉から、ヨブが5節の格言を記しているのは、友らがそれを引用して、子らの災いはヨブの罪のためだと責めたということのようです。

 

 降りかかった災難に加え、その原因が自分の罪の故だと攻めたてて来る友らの言葉に傷つき、「わたしは顔につばきされる者。目は苦悩にかすみ、手足はどれも影のようだ」(6,7節)と言います。「目がかすむ」というのは、創世記27章1節などから、気力の衰えを示す表現といってよいでしょう。

 

 8節で「正しい人よ、これに驚け。罪のない人よ、神を無視する者に対して奮い立て」と語り、9節で「神に従う人はその道を守り、手の清い人はさらに勇気をもて」と言うのは、11節以下の希望を失ってしまった表現から考えて、友らを強烈に皮肉っている言葉というべきでしょう。

 

 そして、「あなたたちは皆、再び集まって来るがよい。あなたたちの中に知恵ある者はいないのか」(10節)と、挑発的に呼びかけています。4節で「彼らの心を覆って目覚めることのないように」と神に願っていることから、5節の格言も、自分の利益を守るためにヨブを裏切る友らに、「子孫の目がつぶれる」という災いが下るよう、逆に神に訴えていると読むことも出来ます。

 

 しかしながら、友の災いを願い、それが適えられたところで、彼の苦しみの解決にはなりません。ヨブが自分の現実を振り返ると、「わたしの人生は過ぎ去り、わたしの計画も心の願いも失われた」(11節)と、過去は自分を支えてくれず、未来にも希望がないというほかはないのです。

 

 そして、「陰府に自分のための家を求め、その暗黒に寝床を整えた」(13節)と言い、死後の世界を予約した状態だというのです。つまり、今や何の希望もなく、死を迎えることになるというのです。14節の「墓穴」を「わたしの父」と呼び、「蛆虫」を「わたしの母、姉妹」と呼ぶというのも、同じ思いでしょう。

 

 イザヤ書51章1,2節に「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ。あなたたちの父アブラハム、あなたたちを生んだ母サラに目を注げ」という言葉があり、これは、誕生の起源を示しています。それに対し、ヨブは、自分がこれから向かう死の世界を、父母、姉妹というのです。

 

 それこそ、「どこになお、わたしの希望があるのか。誰がわたしに希望を見せてくれるのか」(15節)というとおりのことです。希望はすべて陰府に落ち、塵の上に横たわっているという、絶望的な状態なのです(16節)。

 

 ただ、ヨブ自身の思いとは別に、イザヤの言う「切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴」、即ちアブラハムとサラに目を注ぐというのが、命の誕生を意味しているということは、16節の言葉は、墓穴、蛆虫に象徴される死を通して、新しい命を産み出す父母のような存在、即ち主なる神に目を注ぐことになると、ヨブ記の読者に予め示しているのかも知れません。 

 

 冒頭の言葉(3節)で、「保証人となる」というのは、「誓約する、負債を保証する、担保を与える」(アーラブ)という言葉です。箴言11章15節、17章18節、22章26節では、他人の保証人となって損害を被らないように、賢く慎重に考えて対処せよと、「保証人になる」ことをネガティブに語っています。

 

 ヨブがここで、神に向かって、保証人となって欲しいと願うのは、友人たちがヨブの敬虔さ、無垢の証人となって欲しいのに、むしろ攻撃して来る、それは、ヨブに味方して損害を被ることを恐れて、賢く慎重に振る舞い、彼の保証人となるのを避けているからでしょう。確かに、「(神の)ほかの誰が、わたしの味方をしてくれましょう」というとおりです。

 

 イザヤ書38章14節に「つばめや鶴のように、わたしはすすり泣きの声を上げ、鳩のようにわたしは呻く。天を仰いでわたしの目は弱り果てる。わが主よ、わたしは責めさいなまれています。どうかわたしの保証人となってください」という言葉があります。

 

 これは、ヒゼキヤ王が40歳を前に死の病にかかった際、延命を願い求めて、それが聞き届けられたときに、回復の保証を求めたときの言葉です(同1節以下、列王記下20章1節以下)。そして、主はその願いを適えてくださったのです!

 

 16章19節で「このようなときにも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天にはわたしを弁護してくださる方がある」と語っていたヨブは、どこにも寄る辺なく、何より自分自身の力の衰えを覚えていて、今はまだ自分を苦しませているだけの神ですが、しかし、そこでただひたすら神を求め、そのお方が保証人となってくださるというところに希望を見出そうとしているのです。

 

 主なる神は、このヨブの思いにこたえる形で、私たちの弁護者として御子キリストを遣わし(ローマ書8章33,34節)、私たちが救われて神の子となり、御国を受け継ぐ保証として、聖霊を送ってくださいました(エフェソ書1章13,14節)。

 

 私たちも、人の思いや古い言い伝え、格言などではなく、真の神であり、私たちの助け主であられる主を仰ぎ、その御言葉に聴従して、私たちの人生に神の業をあらわしていただきましょう。

 

 主よ、様々な自然災害に襲われ、復興途上の地にある方々、放射能の影響におびえながら生活せざるを得ない方々、また、先祖伝来の土地を強制的に接収され、他国との戦争に利用されて加害性をも問われ続けている方々、騒音等に加え、軍人の犯罪にも苦しめられ続けている方々に、上よりの慰めと平安、真の回復、解放が与えられますように。全地に主の恵みと平安が常に豊かにありますように。アーメン

 

 

「彼の思い出は地上から失われ、その名はもう地の面にはない。」 ヨブ記18章17節

 

 18章には、ビルダドの2度目の言葉が記されています。彼は、エリファズに対するヨブの応答を聞いているうちに黙っていられなくなり、ヨブの言葉を遮るようにして発言しました。それは、ヨブが自分たちの言葉を聞かず、愚かなことを言い続けているように見えるからです。

 

 そこでビルダドは、「いつまで言葉の罠の掛け合いをしているのか」と言います(2節)。「人を呪わば穴二つ」という諺ではありませんが、相手の揚げ足を取るようにして非難し合い、そして、自ら言葉の罠に陥り、解決策を見いだせなくなっているというのです。

 

 「なぜわたしたちを獣のように見なすのか」(3節)という言葉について、獣は、神が天地をされた第六の日に、人と共に創造され(創世記1章24節以下)、また、人を助けるものとして創造されました(同2章18~20節)。しかし、神のかたちに創造されたのは人だけで(同1章26,27節)、また、人の真の助けとなったのは、人から造られた人でした(同2章23節)。

 

 詩編8編6~9節に「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも」 とあります。

 

 ここに、御手によって造られたものをすべて、羊も牛も野の獣、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも、人の足元に置かれたと記されています。ビルダどの言う「わたしたちを獣のように見なす」とは、彼らを足元に見る、見下すということであり、もっと言えば、軽蔑するということです。

 

 軽蔑する相手の話は聞かないでしょう。つまり、そのように軽蔑しているから、自分たちの言葉を聞こうとしないのだろうということです。しかし、彼らはもともと親しい友人でした。ヨブの災難を聞いて彼を慰めようと見舞いに来たのです。どこで、こんなことになってしまったのでしょう。なぜ、こんなすれ違いを起こしているのでしょうか。

 

 ヨブ記の記者は、このビルダドの発言を通して、創造の秩序における人と動物の関係に光を当て、その類比として、ヨブがビルダドら友人をどう見ているのかというより、ヨブを含め苦しみの内にいる人をどう見るのか、さらには、神と人と関係をいかに見ているのかということを、あらためて考えさせようとしているようです。 

 

 ビルダドは、勿論ヨブが災難に遭えばよいと思っているわけではありません。神に逆らう者の灯火は暗くなり(5節)、歩みも弱り(7節)、破滅の罠に陥り(8節)、家族に不幸が及び(12節)、自らも病いに冒されて(14節)、死に絶え(16節)、その結果、冒頭の言葉(17節)の通り、記憶も残されないと語りながら、そんな結末を迎えないよう警告しているのです。

 

 確かに、記憶されないというのは、空しくはかないことです。ヨブが、「大地よ、わたしの血を覆うな、わたしの叫びを閉じ込めるな」(16章18節)と訴えていたのは、直に死を迎える自分が誰にも忘れ去られた存在とならないようにという、真剣な願いが込められていたものでしょう。

 

 また、「未来の人は彼の運命に慄然とし、過去になった人々すら身の毛のよだつ思いをする。ああ、これが不正を行った者の住まい、これが神を知らぬ者のいた所か、と」(20,21節)と、17章11,13節のヨブの言葉をなぞりながら、ヨブと同じような悲劇が訪れるのではないかと多くの人々が恐れを抱いたという表現で、ヨブに対していくらか同情を示しているとも読めそうです。 

 

 つまり、ヨブがその苦しみから一刻も早く解放されて欲しいと考え、そのために、自分の罪を認めて悔い改めるように願っている、ビルダドのヨブに対する思いが、このところに示されているわけです。

 

 10数年前、東京秋葉原で無差別殺傷事件を起した行った被告は、第一審で死刑判決を受け、控訴を棄却されて、被告は心神喪失もしくは心身耗弱の疑いがあり、死刑判決は破棄されるべきだと上告しましたが、史上最悪の通り魔事件で、模倣犯を産み出したこともあり、動機に酌量の余地はなく、死刑を認めざるを得ないと退けられて、死刑が確定することになりました。

 

 彼が事件を起こした動機について、自分の名前をかたって掲示板荒らしをした者に抗議する目的で大事件を起こすことにしたと、自ら書き込んでいました。「大事件といえば、近年マスコミをにぎわす無差別殺傷事件、また、大事件は大都市、大都市は東京、東京でよく知っているのは秋葉原、日曜日なのは歩行者天国にたくさんの人が集まるから」と、場所と時が決められました。

 

 彼は、短大卒業後、5年余りの間、各地を転々として転職を繰り返していますが、それは、会社の人間関係で不満なことがあると、それを無断欠勤、退社というかたちで表したからです。同様に、自分の意に沿わない相手には、相手の望まないことをしたり、時には暴力に及ぶというかたちで思い知らせるという考え方をする人物だったようです。

 

 友達もいたようですし、友達作りが苦手ということでもなかったようですが、しかし、自分の不満をそのように身勝手な行動で示されれば、周囲は引いてしまうでしょうし、誰とも深い関係を持つことは、なかなか難しかったことでしょう。

 

 少年時代に芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を読んで、自分が助かるために他者を蹴落とそうとして蜘蛛の糸が切れ、再び真っ逆様に地獄に堕ちたカンダタとは自分のことだと、しばらくその思いから離れられなくなり、地獄の恐ろしさに震えたのを覚えています。そこに、私たちの弱さ、愚かさ、身勝手さ、罪そのものの姿が描き出されていると思います。

 

 そして、そのことで本人だけでなく、家族も不幸のどん底にたたき込まれるようなことになります。まことに残念なことに、事件後、死刑囚となった男性の兄弟が、事件を苦に、手記を残して自死しています。それはしかし、家族が当然負わなければならない責めなどではないでしょう。

 

 「その子は飢え、妻は災いに遭う」(12節)、「子孫はその民の内に残らず、住んだ所には何一つ残らない」(19節)とは、家族の連帯責任を問うているわけです。出エジプト記20章5節に「わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが」と記されていて、罪の呪いが子孫に及ぶことが規定されています。

 

 けれども、主なる神は新しい契約においてそれを取り消し、「その日には、人々はもはや言わない。『先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く』と。人は自分の罪のゆえに死ぬ。誰でも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く」(エレミヤ書31章29,30節)とエレミヤに告げさせられました。

 

 ビルダドの願いが、ヨブが悔い改めて回復することで、もう一度親しい友を取り戻すことであるなら、まして神は、ヨブをはじめ、家族のことを心に留めておられることでしょう。主なる神は、御自分を信じる者に、その家族の救いをも約束してくださるお方だからです(使徒言行録16章31節)。 

 

 憐れみ豊かな神は、罪人を忘れ去られるお方ではありません。捕囚の民に、「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」(イザヤ書43章1節)と告げ、「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(同3節)ていると語られました。

 

 使徒パウロも、キリストが不信心な者のために死んでくださったことにより、罪人であり、神に敵対していた私たちを深い憐れみの心でとらえ、この上なく愛し、義とし、救ってくださったと語ります(ローマ書5章8~10節)。神に逆らう者を排除し、痕跡も残らないようにされるのではなく、彼とその家族を憐れみ、導き救う手だてを与えてくださるお方なのです。

 

 私たちを救い出し、永遠の命を授け、神の子としてくださった神に感謝しましょう。信仰によって私たちの心の内にキリストを住まわせ、神の愛に根ざし、愛にしっかり立つ者として頂きましょう。その喜びを、世に向かって証ししましょう。

 

 主よ、今我が国に溢れている不寛容の言葉、振る舞いによって傷み苦しむ者を顧み、助けてください。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解し、神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たされますように。主の恵みと平和が全世界に、特に我が国の同胞の上に常に豊かにありますように。私たちが御業のために用いられる器となりますように。 アーメン

 

 

「わたしは知っている。わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。」 ヨブ記19章25節

 

 19章には、ビルダドに対する二度目の応答が記されています。初めに「どこまであなたたちはわたしの魂(ネフェシュ)を苦しめ、言葉をもってわたしを打ち砕くのか」(2節)と言います。

 

 神はサタンに、ヨブの骨と肉に触ることを許されましたが、「命(ネフェシュ)だけは奪うな」(2章3,4節)と命じられました。友らはその禁を犯し、言葉で打ち砕こうとしていることになります。

 

 「打ち砕く」(ダーカー)は、「踏みにじる、押し潰す、砕く」という意味の言葉で、細かく切り刻まれ、すりつぶされて塵になってしまう、つまり、死を迎えることになりそうだと訴えます。というのも、彼らがヨブに向かって語る言葉は、「辱めを誇張して論難」(5節するものだからです。

 

 4節の「過ちはわたし個人にとどまる」(4節)は、少し分かり難い表現ですが、「とどまる」(ルーン)は、「夜を過ごす、一泊する」という言葉です。つまり、一泊二日の逗留という、ごく些細なことだということです。それを、友らはヨブの災難を見て、因果応報的に、とても重い罪を犯したから神に裁かれてそのような災難に遭うのだと、「論難」しているというわけです。

 

  かくて、助けを求めているのに、神にも友らにも、家族親族にさえも見捨てられて(6~19節)、その結果、「骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになって、わたしは生き延びている」(20節)と言わなければならない状態です。「骨」とは、ヨブ自身のことを指していると思われます。

 

 ここで、「すがりつく」(ダーバク)には、創世記2章24節の「結ばれる」、ルツ記1章14節の「すがりついて」という用法もあります。皮膚と肉には、「中に」(ベ)という意味の前置詞がついています。上記の意味を込めて、皮膚と肉の中に守られていたいと願ったというような表現でしょう。 しかし、それはかなわなかったのです。

 

 「皮膚と歯ばかりになって」(べ・オール・シナイ)は、「歯の皮で」という言葉で、つまり、骨以外に何もない、やっと生きているだけという状況です。ここに、確かにサタンの考えた、ヨブを守るすべてのものが取り去られて、丸裸になったヨブがいます。 

 

 そこで、このまま消え去ることは出来ない、人々に忘れ去られることのないように、「どうか、わたしの言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように」(23,24節)と言います。

 

 これは、16章18節の「大地よ、わたしの血を覆うな、わたしの叫びを閉じ込めるな」と語っていたことを、再び取り上げた発言です。その発言に続いて「このようなときにも、見よ、天にはわたしのために証人があり、高い天には、わたしを弁護してくださる方がある」(16章19節)と、目を天に転じて、希望を語っていました。

 

 そして、それは19章でも同様です。ヨブは、冒頭の言葉(25節)のとおり、「わたしは知っている、わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」と宣言しました。

 

 「贖う」(ガーアル)というのは、買い取る、あるいは身の代金を払って身受けするという意味です。身受けするということは、借金のかたに身売りされて他人の僕、奴隷のような状態になっていて、そこから解放されるということを意味しています。

 

 ヨブは今、苦しみの奴隷になっています。そのような災難に遭う理由が分らず、苦しんでいます。しかも、自分でそこから逃れることが出来ません。ヨブは、自分に代わって代価を払い、自分をこの苦しみから解放してくれる者、自分を贖ってくれる者を待ち望んでいるのです。

 

 奴隷に売られた同胞を買い戻すのは、家族・親族に課せられていた義務です。「贖う者」をゴーエールと言いますが、それは「近親者」という意味です。ルツ記4章1節でナオミの畑地を買い戻し、ルツを引き取る責任を負う「親戚の人」が登場しますが、それがゴーエールです。 

 

 ところが、ヨブには、贖うべき者がいません。親族も友達も彼を見捨て(14節)、妻に嫌われ、子らにも憎まれている(17節)と言います。ただ、子らは既に世にはいません(1章19節)。「神を呪って死ぬほうがましでしょう」とヨブに進言した妻は(2章9節)、今どうしているのか分りません。

 

 地上の人間に対する希望を失ったヨブは、天を仰ぎ、神が自分の味方となり、自分の証人、弁護者となってくださるようにと要請しました(16章19節、17章3節)。了承を取り付けたということでもありませんが、これは神のほかに頼る方はいないという、ヨブの最後の望みなのです。

 

 「わたしは知っている」(25節)というのは、「わたしは確かに知っている」という言葉で、これは、単なる知識として知っているというのではなく、身をもって知っているという言葉遣いです。ヨブとヨブを贖う方との間に、人格的な交わりがあるということです。呻き苦しむヨブを憐れまれた神が、ヨブにこのような思いを授けられたのでしょうか。

 

 「ついには」(アハローン)は、第二イザヤにおいて、神の「わたしは初めであり、また終り(アハローン)である」(イザヤ書44章6節、48章12節)という宣言に用いられています。この関連で、初めに創造者として登場された神は、終わりに贖う者として登場されると読めます。

 

 25節に言う「塵の上」とは、「塵に過ぎないお前は塵に返る」(創世記3章19節)と、知識の木から取って食べたアダムに神が運命づけられたように、死ぬべき存在の人間ということを意味しています。

 

 「上に」(アル)と訳される前置詞には、「ために、代わって」という用法もあります(8章6節口語訳参照)。「塵のために、塵に代わって」ということになります。贖う方が、塵のために、塵に代わって立ち、神とヨブとの関係を修復してくれるということです。 

 

 「わたしは知っている」と語ったヨブですが、その確証があるといってよいのでしょうか。勿論、証明して見せることなど、出来はしません。ただ、彼の希望が「知っている」という表現をとったのでしょう。その希望だけが頼りです。

 

 16章でも学んだとおり、パウロは、苦難が忍耐、忍耐が練達、そして練達が希望を生むことを知っていると言い、希望はわたしたちを欺くことがないと結んでいました(ローマ書5章3~5節)。主が彼に苦難を通して天を仰がせ、希望に導いておられるのです。

 

 主は、正義の神であり(詩編116編5節、イザヤ書5章16節、30章18節、ゼカリヤ書8章8節、ローマ書1章17節など)、また、愛の神であられます(ローマ書2章4節、5章5節、第一ヨハネ書4章8~10,16節など)。愛を行われることを通して、正義を実現されるのです。

 

 私たちも、私たちを贖う方は生きておられると告白しながら、このお方を信頼し、御言葉に耳を傾け、その御足跡につき従って参りましょう。

 

 主よ、新約の福音につながる希望を、今日見せて頂きました。ヨブは天を仰いで、自分をその苦しみから贖い出してくださる方があること、神が近親者となられる、神の家族としていただくことができるという希望を見出したと言います。どうぞ、たえず私たちの目を開いてください。インマヌエルの主に目を留めることが出来ますように。耳を開いてください。常に御声を聞くことが出来ますように。そして、喜びと感謝をもって主と共に歩ませてください。 アーメン

 

 

「たとえ彼が天に達するほど、頭が雲に達するほど上って行っても、自分の汚物と同様、永久に失われ、探す者は、『どこへ行ってしまったのか』と言わなければならなくなる。」 ヨブ記20章6,7節

 

 ナアマ人ツォファルの2度目の弁論が、「さまざまな思いがわたしを興奮させるので、わたしは反論せざるをえない」(2節)という言葉で始まりました。黙って泣き寝入りなんてできない、みたいなことですね。

 

 続く3節の、「あなたの説はわたしに対する非難と聞こえる」は、「あなたの非難はわたしを侮辱するものだ」 という言葉、そして、「明らかにすることを望んで、答えよう」は、「悟りの霊によって答えよう」という言葉遣いです。ヨブの言葉で混沌とした暗闇に飲み込まれてしまわないように、善悪をしっかり識別する霊をもって応答するというわけです。 

 

 そして、「あなたも知っているだろうか」(4節)と言葉を続けます。これは、19章25節の「わたしは知っている」というヨブの言葉に対する反論です。

 

 そして、ここに訳出されていませんが、文頭に「これを」(ゾート)という言葉があります。そして、19章26節の「この皮膚が損なわれようとも」のところにも同じく用いられています。この箇所を直訳すると、「わたしの皮膚がここ(ゾート)で剥がされた後に」となります。

 

 実は、「皮膚」(オール)は、母音の点の位置を変えると、「目覚め」(ウール)という言葉になります。また、「剥がされた」と訳したナーカプという言葉には、「巡る」という意味もあります。実際に1章5節で「宴会が一巡すると」のところに用いられていました。これらを採用すると、「わたしの目覚めの後、一巡りしてこのところに戻る」ということになります。

 

 一巡りで示されているのは、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう」(1章21節)にあるように、裸(無)から命、そして裸(無=死)という一巡りですが、19章でヨブは、命から死(陰府、塵)、そして目覚めて命という一巡りを考えているといってもよいでしょう。

 

 つまり、ヨブが知っていると語った「ここ」(ゾート)は、新しい命を見ることのできるところです。それに対して、ツォファルの語る「ここ」(ゾート)は、神に逆らう者の行き着く先、誰も見ることのない死の世界ということになります。

 

 ヨブは、自分の言葉が書き留められ、永遠に残ることを願いましたが(19章23,24節)、「神に逆らう者の喜びは、はかなく、神を無視する者の楽しみは、つかの間に過ぎない」(20章5節)とツォファルは語って、記憶に留められるようなことも、ごく短い期間であると言い返します。

 

 さらに、冒頭の言葉のとおり、「たとえ彼が天に達するほど、頭が雲に達するほど登って行っても」(6節)と、バベルの塔の物語(創世記11章4節)を思わせるイメージを描いて見せた上で、その結末を「永久に失われ」(7節)、そして「飛び去り、消え失せ」(8節)、「二度と彼を見ない」(9節)、つまり完全に忘れ去られると断じます。

 

 ヨブの「ついには塵の上に立たれるであろう」(19章25節)という言葉は、11節で「若さがその骨にあふれていたが、それも彼と共に塵の上に伏すであろう」と言われていて、かくて、ヨブが19章23節以下で抱いた希望を、ツォファルはことごとく押し潰そうとしています。 

 

 つまり、ヨブが「わたしを贖う方は生きておられ」(19章25節)という希望に基づいて、神がわたしの側に味方されるなら、「あなたたちこそ、剣を危惧せよ。剣による罰は厳しい。裁きのあることを知るがよい」(19章29節)と警告していたのを、「何をバカなこと言っているのか、それはこっちの台詞だろ!」と、ツォファルが反駁しているわけです。 

 

 ヨブの災難、その苦しみは、ヨブ自身の背きの罪に原因があると判断しているツォファルにとって、ヨブが神の前に罪を悔い改めて灰をかぶるということなしに、神がヨブを苦しみから贖い出す味方となられるということは、到底考えることが出来ないことなのです。

 

 「あなたたちは皆、偽りの薬を塗る役に立たない医者だ。どうか黙ってくれ」(13章4,5節)、「あなたたちは皆、再び集まって来るがよい。あなたたちの中に知恵ある者はいないのか」(17章10節)、そして、「あなたたちこそ、剣を危惧せよ。裁きのあることを知るがよい」(19章29節)などと挑発し、非難されれば、そうなるのも無理はないというところです。

 

 ただ、自分の言い分を聞かない友らを非難し、そして、自分の苦しみの叫び、訴えになかなか答えてくださらない神を罵るような言葉を口にしながらも、ヨブはそのような状況の中から一縷の望みを見出そうとして必死にもがいて来ました。

 

 そんなヨブを見て、因果応報の論理で彼を裁き、その望みを木っ端みじんにし、神に逆らう者がいる余地は、この天と地のどこにもないというのが、ツォファルの語った「悟りの霊」のなせる業、語らせる言葉なのでしょうか。

 

 それこそ、冒頭の言葉は、ツォファル自身がもう一度自分に当てはめて考えなければならないものではないでしょうか。自分では、天に上って神様の悟りの霊をいただいたつもり、雲の上に達して霊を識別する力を受けたはずだと思っているかも知れませんが、その高ぶりが、ヨブに寄り添って胸の内を傾聴するということを、とても難しくしています。

 

 このようなときに大切なのは、どちらが正しいか、神の霊によって語っているのはどちらなのかということではありません。双方が、相手の言葉に素直に耳を傾けることができるかどうか、相手の思いを正しく理解出来たのかどうかということでしょう。ヨブもそうだと思いますが、ツォファルもそれに失敗しているのです。

 

 そしてそのとき、神の御言葉を素直に聴くことも出来なくなっているのだと教えられます。心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛する者は、それと同様に、自分自身のように隣人を愛する者とされるからです(マタイ22章34節以下)。

 

 第一ヨハネ書4章20節にも、「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」と語られています。

 

 また、霊に導かれている者は、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え」(フィリピ2章3節)、相手のことにもっと注意を払うでしょう。

 

 特に、「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」(第一コリント8章2節)と語られている言葉を心に留めるべきです。知識は人を高ぶらせ、愛は人を造り上げるからです(同8章1節)。

 

 胸に手を当てて考えるまでもなく、これは「言うは易く行うは難し」というところです。けれども、私たちの言葉に常に耳を傾け続けていてくださる主イエスに対し、私たちも真実をもって答えましょう。

 

 高ぶりによって一致を壊すのではなく、御霊によって互いに謙り、共にキリストの体として立て上げていただきましょう。詩と賛歌と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって共に賛美する導きに与りましょう。

 

 主よ、人に説きながら自分が失格者にならないようにとパウロは言いました。本当に度し難いのは自分です。どうか私の内側を探ってください。御言葉の光で照らしてください。そして、主の力強い御手のもとに、自分を小さく低くしてください。家族を、隣人を愛する愛を与えてください。主イエスの恵みと平安が常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「わたしは人間に向かって訴えているのだろうか。なぜ、我慢しなければならないのか。」 ヨブ記21章4節

 

 21章は、ツォファルの2回目の発言(20章)に対するヨブの応答の言葉です。これで、友らとのやりとりが二巡り(①3~14章、②15~21章)したことになります。

 

 初めに、「どうか、わたしの言葉を聞いてくれ。聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ」(2節)と言います。「どうか、聞いてくれ」(シメウー・シャーモーア)とは、「聞く」(シャーマー)という言葉を二つ重ねた表現です。口語訳は「とくと、わたしの言葉を聞き」としています。

 

 それは、とにもかくにも、黙ってわたしの言葉に耳を傾けてほしいという願いを示すものです。友らが、ヨブの言葉に込められた思いを全く受け止めてくれていない、むしろ、はねつけてしまっているということです。

 

 「聞いてもらうことがわたしの慰めなのだ」は、原文を直訳すると、「これがあなたがたの慰めになる」ということになります。口語訳はそのように訳しています。それを新改訳は「これをあなたがたの私への慰めとしてくれ」と、新共同訳と同様の解釈をもって意訳しています。

 

 ヨブが「あなたがたの慰め」というのは、自分の思いがきちんと受け止められれば、彼は落ち着くでしょう。落ち着いたヨブを見ることが、友らの慰めになるということで、そのように語っているのではないかと思われます。

 

 だから、新共同訳、新改訳は、友らがヨブの話を聞き、その思いを受け止めることが、直接友らを慰めるのではなく、まずはヨブの慰めとなるということで、それによって彼らも慰めを受けることになるということであれば、新共同訳、新改訳は、ヨブが友らの慰めを願っているわけではないとして、「あなたがたの慰め」を「わたしの慰め」と意訳しているわけです。

 

 岩波訳は「それがあなたがたの慰めになればよい」と訳していて、その脚注には、「友人たちの無理解に直面しているヨブは、ここであえて願いとは逆のことをいって、失望を表明する」と記されています。それが、この箇所に関する適切な解釈かも知れません。

 

 というのは、エリファズが15章11節で「神の慰めなどは取るに足らない、優しい言葉は役に立たない、というのか」と言っていましたが、ヨブは34節で「空しい言葉で、どのようにわたしを慰めるつもりか」といって、「神の慰め」といって語るエリファズの「優しい言葉」など、空しくて何の助けにもならないと非難しているからです。

 

 もし、友らが本当にヨブを慰めようと思っているのなら、もっと彼の言う話を聞いたことでしょう。ただ、ヨブの切なる願いは、友らに訴えて聞いてもらうことではありませんでした。冒頭の言葉(4節)のとおり、「わたしは人間に向かって訴えているのだろうか」というからです。つまり、自分が神に向かって訴える言葉を、そこで聞いていなさいという意味になります。

 

 ヨブは、神に聞いてもらいたいと思う内容を7節以下に披瀝します。それはしかし、ヨブにとっては、身震いするような恐怖を呼び起こすものでした(6節)。

 

 そのことについて、ビルダドが18章20,21節に、神に逆らう者の運命、その末路を見た者が、身の毛のよだつ思いをするといっていたように、今、ヨブを襲っている災い、ヨブのたどっている運命の道を見れば、誰も、慄然とした思いになり、沈黙せざるを得なくなるからです(5節)。

 

 ヨブがこの連想で思っているのは、神に逆らう者もそうでない者も、同じ運命をたどるということです。そのことを、まず、「なぜ、神に逆らう者が生きながらえ、年を重ねてなお、力を増し加えるのか」(7節)と尋ね、決してビルダドやツォファルが言っているような結果にはなっていないと、自身の観察結果に基づいて反論します。

 

 ツォファルは、悪人の本質について、「その腹は満足することを知らず、欲望から逃れられず」(20章21節)と言い、それは貪欲だと語っていました。ヨブは、悪人たちの不信心、不敬虔が貪欲の根っこにあると考えています(14,15節)。悪人たちは、神の祝福で富を得たのではなく、自分の力、手の働きで財産を築いて来たと考えているというのです(16節)。

 

 しかしながら、ヨブはそれを妬み、羨ましく思っているわけではありません。この言葉の後に、「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」(16節)と間をおかず述べて、神に逆らう者の考え方に学んだり、その姿勢に倣ったりすることなど、思いもよらないことだと明言します。

 

 ただ、「ある人は、死に至るまで不自由なく、安泰、平穏の一生を送る」(23節)と言い、「また、ある人は死に至るまで悩み嘆き、幸せを味わうこともない」(25節)と対比します。豊かな人は安心感をもって体もくつろいで過ごせるのに、貧しい人は「悩み嘆き」と訳された、その欠乏を魂の問題として苦しみ、死ぬことになります。

 

 二人に共通しているのは、人は死ぬ運命にあるということですが、ただ、生前受けたものには大きな差があり、それによって、安楽で幸いな日々を過ごす人と、貧しく悩み多い日々を過ごす人があるというのは、そこに神の正義が機能していない証拠だ。機能していれば、イスラエルの民がマナで養われたときのように、日毎の受ける分は公平平等になるだろうと考えているのです。

 

 こうして、自分たちの行く末を考えたときに、敬虔に生きた者が必ず良い報いを受けるということでもない、不幸な経験をする者に、さらに容赦ない運命が待ち受けているということなら、どう生きればよいのか、いよいよ暗たんたる思いで、慄然として身震いが止まらないということになるでしょう(6節)。

 

 ここで、あらためて冒頭の言葉(4節)を考えてみましょう。まず、「我慢しなければならないのか」と訳されているのは、「ティクツァル(不足している)・ルーヒー(わたしの霊)」で、「我慢できない」とか、「いらだつ」という意味になります。

 

 それを、打ち消す「ない」(ロー)という言葉があって、「我慢できないことはない、いらだたない」という文句になるわけです。「なぜ、我慢しなければならないのか」という言葉で、もはや、いらだちを抑えられないという、爆発寸前の思いを語ります。

 

 次に、「わたしは人間に向かって訴えているのだろうか」という言葉を見ましょう。「訴えているのだろうか」というところ、実は、「わたしの訴え」(シーヒー)という名詞が用いられています。

 

 「訴え」(シーアッハ)は、「不平、嘆き、呟き」という言葉です。この「シーアッハ」という言葉は、旧約聖書中に18回出て来ます。うち7回がヨブ記、詩編に5回、創世記に2回といった具合で、ヨブが繰り返し、呟き、嘆き、訴えを口にしていることが分かるという頻度です。

 

 その呟き、嘆き、不平不満を、「人間に向かって訴えている」わけではない、自分を苦しみから解放してくださらない神に向かって、ヨブは繰り返し訴えているのです。その姿勢は、主なる神への祈りとして受け止められているのではないでしょうか。

 

 それは、主イエスがルカ11章5節以下で、来客のためにパンを貸してくれるよう執拗に頼む友の姿、また、同18章1節以下の、公正な裁判を願ってひっきりなしに訴えるやもめの姿に見られるもので、それはいずれも、祈りを姿勢を教える譬え話でした。

 

 ここに、ヨブの語っていた「我慢ならない」という言葉は、忍耐袋の緒が切れたというのではなく、「どうしてですか、何故ですか」と訴え続けることで、それは決して静かに穏やかにということではありませんが、しかし、そうするほか為す術を知らない者の忍耐強い祈りとして、主が受け止めてくださるということを示しているように思います。

 

 それを、ヨブが願っている通り(2,3節)、沈黙したまま徹底的に聞くだけ聞いてくださるお方がいるのです。それは、天において彼を保証し、弁護し、執り成す友(16章19,20節)、贖う方(19章25節)とヨブが期待する主イエスです(第一ヨハネ書2章1節)。

 

 私たちもまず主の前に座り、心にあるままを主に打ち明けましょう。すべてをそのままに受け止めてくださる主の慰めと平安にあずかりましょう。主の恵みを頂いた者は、うずくまり、座り込んでいる方々の傍らに座す者とならせていただきましょう。そうして、共に主の業に与らせていただきましょう。

 

 主よ、世の中には、重い病に苦しむ人々がいます。突然の災害に見舞われた人もいます。世界の紛争地域におられ、厳しく辛い生活を強いられている方々も少なくありません。不条理としか言いようのない苦しみの中にいる彼らのことを、心に留めてください。彼らの嘆きを聞いてください。その祈りに応えてください。慰め、平安、癒し、そして希望が、豊かに与えられますように。全世界にキリストの平和が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「神に従い、神と和解しなさい。そうすれば、あなたは幸せになるだろう。」 ヨブ記22章21節

 

 22章から、ヨブと友らの三回目の議論(22~26章)が始まります。それで、友らとのやりとりは終わりです。ただし、ツォファルは発言していません。それに代わって、ヨブの最終弁論というべき主張が、27章以下31章までに記されています。

 

 エリファズの意見は、初めは何とかヨブに励ましを与えようとしているというニュアンスのものでしたが、次第にヨブを責めるものに変わって来ました。それも、前回は15章5,6節でヨブが罪人であるということを仄めかす程度でしたが、今回は、5節以下、ヨブの悪を並べ立てて攻撃しています。

 

 それは特に、弱い者、貧しい者を抑圧している(6,7,9節)、力づくで他者の土地を奪う(8節)という強欲ぶりとして描かれていて、「だからこそ、あなたの周りには至るところに罠があり、突然の恐れにあなたはおびえる」(10節)といって、彼が災いに遭ったのは当然だと告げているのです。

 

 そこに挙げられている悪行について、ヨブが実際に行ったのを知っているということでもないのでしょうけれども、かつてヨブのように地位や富を手にしていた者が陥りやすい罪を列挙し、彼が被っている災いを考えると、その程度のことはしていたはずだと推定しているのでしょう。

 

 推定無罪という言葉があります。刑事裁判において、「検察官が被告人の有罪を証明しない限り、被告人に無罪判決がくだされる」ということを意味する、刑事訴訟法に定められた原則です。

 

 つまり、被告人が自分の無実を証明する必要はないのです。裁判官の立場から、「疑わしきは罰せず、疑わしきは被告人の利益に」という言葉もあるそうです。つまり、推定で被告人を犯罪者にすることは出来ないということです。

 

 しかし、エリファズはそのように推定でヨブを罪人、悪人と決めつけた後、冒頭の言葉(21節)のとおり、「神に従い、神と和解しなさい」と勧めています。そして、「そうすれば、あなたは幸せになるだろう」と言います。ヨブのように神と争い、対立していては、幸せにはなれないよという物言いです。

 

 「従う」(サーカル)という言葉には「親しくする」という意味があり、口語訳は「あなたは神と和らいで」、岩波訳は「あなたは彼(神)と協調して」と訳しています。2節の「有益である」も同じ言葉で、ここでは、神との関係をよくする行動を指しているということです。

 

 「和解」(シャーラム)には「報酬」という意味もあり、その意味を出せば、「さあ、あなたは神に役立つ僕となって、よい報酬を得なさい」という訳になります。神に逆らって苦しむよりも、神に忠実に仕えて恵みを得よと勧めているわけですが、これで思い出すのは、サタンが神に語った、「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか」(1章9節)という言葉です。

 

 そうすると、エリファズの勧めは、利益があるから神を敬うというサタンの言葉に沿ったものであることになります。つまり、エリファズの関心は、神とのよい関係というよりも、もっぱら自分の幸福、利益ということになっているのではないかと考えられるわけです。

 

 また、エリファズは2節で「人間が神にとって有益であり得ようか」という言葉でヨブを非難していたのに、21節で「神に有益な僕となって、よい報酬を得なさい」とヨブに勧めるというのは、矛盾しています。

 

 ただ、神に造られた存在として、無前提で神を仰ぐということは出来ません。すでに神の恵みが私たちの周りにあり、様々なかたちでそれを享受しています。そもそも「利益もないのに神を敬うでしょうか」という問い自体、私たちには答えることの出来ない問題ではないでしょうか。私たちには、神を敬い、礼拝するべき理由がたくさんあるからです。

 

 求める者にはよいものをくださると、主イエスも言われました(マタイ7章11節)。主イエスを信じる者には、神の子となる資格が与えられ(ヨハネ1章12節)、罪が赦され(コロサイ2章13節)、永遠の命が与えられ(ヨハネ5章24節)、天の御国に本籍を持つ者とされます(フィリピ3章20節)。

 

 そして、聖霊が授けられます(ルカ11章13節)。聖霊は、キリストに替わる「別の弁護者」(ヨハネ14章16節)として父なる神から遣わされた「真理の霊」(同17節)です。聖霊は、「神の霊」、「キリストの霊」(ローマ8章9節)とも呼ばれます。即ち、求める者に与えられる「よいもの」とは、三位一体なる神御自身なのです。

 

 ヨハネが、「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」(第一ヨハネ1章3節)と言っていますが、その交わりを保証し、可能にしているのが聖霊の働きなのです。

 

 パウロは、かつて自分にとって利益だと思っていたものを、キリストを知るあまりのすばらしさのゆえに、すべて損失と見なすようになったと言っています(フィリピ3章7,8節)。利益を得るためにキリストとの関係を正すというより、キリストとの関係が正しくなることが、最大の利益なのです。

 

 ヨブは苦しみの中で神を求め、「自分の弁護者」(サーヘード=記録、証言:16章19節)、また「自分を贖う方」(ゴーエール=近親者:19章25節)を見出しました。そしてこれから、その方との交わりが開かれるのです。

 

 その意味では、ヨブはすべてのものを失うという苦難を味いましたが、それを通して、本当に頼りになるもの、真の近親者、贖ってくださるのはどなたなのか、自分がよって立つべきものはどこにあるのかということに目が開かれる導きを受けたのです。

 

 何よりもまず、「神の国と神の義」に示される、主なる神ご自身を求め(マタイ6章33節)、その御言葉に聴き従いましょう。

 

 主よ、絶えずあなたの側におらせてください。あなたは私たちの心と思いのすべてをご存じです。み言葉により、聖霊によって清めてください。私たちの心の王座に就き、私たちを御心を行う者として整え、御業のために用いてください。全世界に主イエスの恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「しかし、神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ。」 ヨブ記23章10節

 

 23,24章は、エリファズに対するヨブの三度目の応答です。このとき、ヨブの目はエリファズではなく、どこにおられるのか分からない神に向けられているようです。

 

 2節の「今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い」で、「嘆き」(シーアハ)という言葉は、21章4節で「わたしは人間に向かって訴えている(シーアハ)のだろうか」というところに用いられていました。それは、神に向かっての嘆きだということです。

 

 また、「苦しみ」(メリー)と訳されているのは「反逆、反乱、謀叛」という言葉です。神に反抗して、嘆き、呻いて訴えているということになります。

 

 エリファズが、「神に従い、神と和解しなさい」(22章21節)と奨めていましたが、ヨブはむしろ、嘆き訴えて反抗することが、自分の敬虔な信仰を表わす神への祈りだといっているかのようです。 

 

 「呻きのために、わたしの手は重い」も、祈りの姿勢を示しています。詩編28編2節に「嘆き祈るわたしの声を聞いてください。至聖所に向かって手を上げ、あなたに救いを求めて叫びます」とあります(77編3節など参照)。

 

 「手は重い」というのは、出エジプト記17章12節で、祈るために上げた手が疲れて下がるさまを示していました。ここでは、祈りの答えがなかなか与えられず、気力が萎えて来ていることを示しているのでしょう。

 

 3節に「どうしたら、その方を見出せるのか。おられるところに行けるのか」というように、神がどこにおられるのか、どうすれば自分の訴えが神に届くのか、皆目分からなくなっているのです。であれば、神に向かって祈っているのか、ただぶつぶつと不平を呟いているだけなのかと、不安になってしまいます。

 

 ヨブは、9章32節以下に言い表したように、ここでまた、神と共に裁きの座につくことを願い求めます。そうすれば、神の面前に訴えを整え、言い分を伝えることが出来るからです(4節)。また、神の応答の言葉を聞き、御心を悟ることも出来ます(5節)。

 

 そうすれば、神が自分に「心を留め」(シーム:1章9節、4章20節など)、自分の「訴え」(ミシュパート)が「解決」(パーラト:「救い出す」、21章10節では「子を産む」と訳されている)されます(6節)。19章25節の「わたしを贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」という希望の光が、ここにも見られます。

 

 けれども、その光はとても弱くなっています。日の昇る方へ進んでも、日の沈む方へ退いても、左へ、右へと目を転じても、神が見いだせないのです(8,9節)。つまり、ヨブの訴えに応える神の言葉が、ヨブの耳に聞こえて来ないのです。

 

 それでもヨブは、諦めはしません。神が必ず自分の正しさを認めてくださると信じています。冒頭の言葉(10節)で「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ」といい、続けて「わたしの足はその方に従って歩み、その道を守って離れたことはない」(11節)、「その唇が与えた命令に背かず、その口が語った言葉を胸に納めた」(12節)と語っています。

 

 「わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」というのは、22章24節でエリファズが「黄金を塵の中に、オフィルの金を川床に置くがよい」と言ったのを受けてのものです。同25節に「全能者こそがあなたの黄金」と述べているので、24節の「黄金」は、その時ヨブが大切にしていた、自分が正しく敬虔に生きて来たという思い、誇りを指しているといってよいでしょう。

 

 それを塵の中に置くとは、その思い、プライド、そこから出た神への訴えを捨て去るように、葬るようにということでしょう。その誇りが高ぶりとなり、神の前に謙り、忠実に聞き従うことを妨げていると、エリファズは考えていたわけです。

 

 しかしヨブは、それをきっぱり拒絶し、試してもらえば、自分がどのようなものか、分かると言います。金に不純物が含まれていないか、金でメッキしただけのものではないか、比重を量ったり(金の比重は19.32g)、一定温度で溶かしてみれば、何が混ざり込んでいたのかも分かります(金の融点は1064.18℃)。

 

 それによって、自分の信仰が純粋なものだということを確認してほしいということでしょう。けれども、このとき、ヨブは自分で気づかないまま言っているようですが、それこそ火のような試練(第一ペトロ書4章12節)で、彼の信仰の純粋さ、無垢で敬虔なものかどうかが試されているわけです(1章8節以下、2章3節以下)。

 

 ヨブと三人の友らとのやりとりは、ヨブがそれまで信じて来た旧来の因果応報的な信条と、自分に襲いかかって来た大変厳しい現実とのギャップに苦しんでいる、ヨブ自身の心の葛藤が投射されているものと言ってもよい内容です。

 

 ここでヨブが拠り所としているのは、主なる神なのか、それとも「その方(神)に従って歩み、その道を守って、離れたことはない」という自分の正しさなのか、そこが問われているといってもよいのかも知れません。神を見出そうとして見つけることが出来ないのは、ヨブが自分の正しさを神に認めさせようとするその自信が、彼の目を曇らせているように思われます。

 

 「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19章16節)と尋ねた青年に対して、主イエスは「命を得たいのなら、掟を守りなさい」(同17節)と答えられました。

 

 主イエスが提示された掟について(同18,19節)、「そういうことはみな守って来ました」(同20節)と青年は答えます。それに対して主イエスが、「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(同21節)と言われました。

 

 そのとき青年は、主イエスの言葉に聞き従うことが出来ませんでした。「悲しみながら立ち去った」(同22節)と記されています。それは「たくさんの財産を持っていたからである」と、その理由が述べられています。

 

 青年は、掟を行うのに熱心で、そのことに誇りを持っていたことでしょう。彼がたくさんの財産を持っているのは、神に祝福されているしるしと考えられていたでしょう。青年が主イエスの言葉に従うことが出来なかったのは、主イエスに従って永遠の命を得ることよりも、自分の持ち物の方が大事だったわけです。

 

 エリファズが求めて、ヨブが拒否した、「黄金を塵の中に、オフィルの金を川床に置くがよい」という奨め、改めて、それは本質的な問いだということが分かります。そして、それはヨブならずとも、金持ちの青年ならずとも、誰にも出来はしないのだろうと思います。神の義を、自分のなす業、行為で獲得することは出来ません。

 

 それは、ただ主イエスを信じる信仰により、恵みとして与えられるのです(ヨハネ3章36節、エフェソ2章8,9節)。恵みの主に信頼して、歩み出しましょう。

 

 主よ、私たちの目を開き、常に主の御顔を仰がせてください。私たちの耳を開き、御言葉に耳を傾けさせてください。何よりも私たちを愛し、恵みをお与えくださる主に信頼し、主に従って歩ませてください。主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない。」 ヨブ記24章12節

 

 ヨブは、「なぜ、全能者のもとには、さまざまな時が蓄えられていないのか。なぜ、神を愛する者が、神の日を見ることができないのか」(1節)といって、神の御心が分からない中で、神が蓄えている(ツァーファン:「隠す、蓄える」の意)時の中に、世の中の不正を正すための「神の日」を定めておられるはずなのに、それを見られないのはなぜかと訴えます。

 

 ヨブがそう考える根拠が2節以下12節までに列挙されています。うち、2~4節の弱い立場の者が虐げられ、力づくで隣人のものを貪るという悪については、エリファズが22章5~9節で、ヨブが行っていると告発していた内容です。

 

 しかし、ヨブは、それを行っている悪人を告発する目的で、それらを語り出したわけではありません。悪人によって苦しめられている人々に共感しつつ、その最後に、冒頭の言葉(12節)のとおり、「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない」と、深い嘆きを語るのです。

 

 「心を留める」は、23章6節で「顧みる」と訳されていた、「シーム」ということばです。23章では、神がヨブの訴えを心に留めてくださるという期待を語りました。しかしながら、現実には、ヨブにお答えにならないだけでなく、断末魔の呻きをあげている者、深く傷ついてあえいでいる者にも、目をお留めくださらないのです。

 

 「惨状」(ティフラー)は、「空しい、愚かさ、愚劣さ、良くない」といった意味の言葉ですが、この言葉は、1章22節で「このようなときにも、ヨブは神を非難(ティフラー)することなく、罪を犯さなかった」というところに用いられています。この意味を生かせば、神は呻き、喘ぎをもってする非難に心を留められないということになります。

 

 神が悪に、そしてその悪によって苦しめられている人に目を留めてくださらない様子を、13節以下に語ります。14節に「人殺しは夜明け前に起き、貧しい者、乏しい者を殺し、夜になれば盗みを働く」と言います。「夜明け前に」というのは「光に」(ラー・オール)という言葉です。

 

 13節に「光に背く者」とあるので、「光に」とは、「光に逆らって」の意味かも知れません。ただ、後半の「夜になれば盗みを働く」との関連で考えると、「光」は「昼」を表すもので、日の高いときに人を殺し、夜には盗みを働くということになります。いかに神が悪を見逃しておられるかというしるしです。

 

 エリファズの22章の発言に対する応答として、「今日も、わたしは苦しみ嘆き、呻きのために、わたしの手は重い」(23章2節)と語り始めたヨブが、「町では、死にゆく人々が呻き、刺し貫かれた人々があえいでいるが、神はその惨状に心を留めてくださらない」(12節)と嘆いているのは、出エジプトの出来事に対する疑いを言い表す挑戦的なものだという解釈があります。

 

 出エジプト記2章23節に「それから長い年月がたち、エジプト王は死んだ。その間イスラエルの人々は労働のゆえにうめき、叫んだ。労働のゆえに助けを求める彼らの叫び声は神に届いた」と記されています。このときに、エジプトの苦役によるイスラエルの人々の呻き、助けを求める叫び声は神に届きました。

 

 ヨブは23章3節で、「どうしたら、その方を見出せるのか。おられるところに行けるのか」と問うていました。イスラエルをエジプトから救い出された神、そのために燃える柴の中からモーセに語りかけた(出エジプト記3章4節以下、9節)、その方はどこにおられるのかと問うのです。

 

 このとき、あるいはヨブの目に、民の苦しみを見、叫び声を聞き、その痛みを知り(同3章7節)、その苦しみから連れ出してくださる(同10節)という神は見えず、むしろ、民の痛みを感じようとせず、頑迷になって行くファラオのように神を見ていたかも知れません(同5章以下)。

 

 ヨブは今回の発言を、「だが、そうなっていないのだから、誰が、わたしをうそつきと呼び、わたしの言葉をむなしいものと断じることができようか」(25節)という言葉で閉じています。

 

 23章3節の「どうしたら、その方を見出せるのか」という言葉は、「誰が与えるのか」(ミー・イッテン)「わたしは知る」(ヤーダッティー)という言葉遣いでした。つまり、「誰が」(ミー)という同じ疑問代名詞が、今回のエリファズに対するヨブの応答の言葉の初めと終わりに用いられて、その発言全体を特徴づけているわけです。

 

 「断じる」(25節)は、23章6節(顧みてくださる)、24章12節(心に留めてくださらない)に続いて、今回のヨブの発言で3度目に用いられる「シーム」という言葉です。 神が顧みてくださるのか、心に留めてくださらないのか、相反する思いを内に抱えたまま、今日もヨブは「苦しみ」(メリー:23章2節=反抗)つつ、神を呼び求めているのです。

 

 主イエスが「義に飢え渇く人々は、幸いである。その人たちは満たされる」(マタイ5章6節)と、山上の説教(同5~7章)において語られました。ここに語られている「義」とは、神との関係を示しています。

 

 私たちと神との間に正しい関係が造られる時、それを「義」というのです。義兄弟という言葉でいう「義」がそれです。義兄弟は本当の兄弟ではありませんが、兄弟の関係となったということです。

 

 「神の義」、即ち神との正しい関係を、人間が自ら造り出すことは出来ません。むしろ、人間は神の前に罪を犯し、「神の義」を損なって来たのです。そこで、「義に飢え渇く」とは、神との正しい関係を強く求めることです。主イエスは、義に飢え渇く者は、神がそれを満たしてくださると約束されました。

 

 それは、神ご自身が私たち人間と正しい関係を回復したいと考えておられるからです。そして、そのことのために、独り子イエス・キリストをお遣わしになりました。キリストがご自分の命をもって私たちを贖い、あらゆる罪を赦して神の子とし、永遠の命に与らせてくださったのです。

 

 それはまだ、ヨブの目には隠されています(1節)。しかし、必ず時は満たされるのです。神の国は来るのです(マルコ福音書1章15節)。

 

 主よ、ヨブは今、神が自分の呻きに応えてくださること、神の日を見ることを、飢え渇く思いで求め続けています。それに応えるかのように、義に飢え渇く者は幸いと語られた主イエスの御言葉を感謝します。求めを満たしてくださるという約束をいただきました。御心がこの地に成りますように。全世界に主の恵みと平安が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらに過ぎない。」 ヨブ記25章6節

 

 25章には、シュア人ビルダドの、ヨブに対する三度目の発言が記されています。ヨブの三人の友人がヨブに語るのは、この章で終わりです。ツォファルが三度目に発言することはありませんでした。

 

 そして、ビルダドの発言は短く終わっています。その後、ヨブの言葉が長々続いているところから考えて、ビルダドの発言を途中で遮り、もはや彼らの意見に耳を貸すつもりはないこと、自分の思いのたけを述べ尽くすことだけが、彼の望みだったということを示しているかのようです。

 

 また、ビルダドの4~6節の発言は、エリファズの4章17~19節、15章14~16節の発言を借用したものです。ヨブがビルダドに応答した後(26章以下)は、もはや彼らが反論しないことで、三人はヨブとの議論に手詰まりを覚えていたのではないかと思われます。

 

 4節以下の議論を導入するために、ビルダドは2,3節で、神の威光を語ります。「恐るべき支配の力」(2節)を持つ神が、高慢に神に逆らう者を退け、全宇宙に「平和を打ち立てられ」(2節)ます。

 

 「その軍勢は数限りなく」(3節)というのは、イザヤ書40章26節の「目を高く上げ、だれが天の万象を想像したかを見よ」という言葉で示されるように、空の星のことを意味しています。というのは、「天の万象」とは「天の軍勢(ツァーバー)」という言葉なのです。

 

 創世記1章14~19節に日と月と星が創造されたという記事がありますが、それによって「昼と夜とを治めさせ」(同18節)というのは、ビルダドの言う「支配」(マーシャル)と同じ動詞が用いられています。

 

 「その光はすべての人の上に昇る」(3節)は、「その光を受けない者が誰かいるか」という言葉遣いです。ヨブは神におびえさせられて、「わたしは暗黒を前にし、目の前には闇が立ち込めている」(23章17節)と言っていました。それに対して、神の支配は平和、その光はすべての人をあまねく照らすと、ビルダドが反論しているわけです。

 

 ヨブは以前、「人間とはなんなのか。なぜあなたはこれを大いなるものとし、これに心を向けられるのか」(7章17節)と言っていました。これは、詩編8編5節をもじったものです。土くれに過ぎない人が天地を創造された神に顧みられる感動を歌っています。特に、御手によって造られたものをすべて「治める」(マーシャル:同7節)という、栄光ある使命が与えられたことに、驚きを表わしているのです。

 

 一方、ビルダドが「月すらも神の前で輝かず、星も神の目には清らかではない」(5節)といった後、冒頭の言葉(6節)のとおり、「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらにすぎない」と語るのは、人は、正しさ、清さにおいて、神の前に輝かない月、清いとされない星よりも、劣った存在だと告げていたのです。

 

 「蛆虫」は、17章14節、21章26節において、死を象徴するものです。「虫けら」は、マタイ福音書6章19節、20節との関連で、腐食を示しているのではないかと思います。土くれを「塵」と称するのと同様、人は死ぬべき存在、しかも、「蛆虫」、「虫けら」ということで、最期の時が迫って来ていることを思わせます。

 

 詩人もヨブも、ビルダドが考え、発言していることを否定することはないでしょうけれども、ビルダドは、人間の死ぬべき運命、弱さ、はかなさを思わずにいられない存在に、神がお与えになった、すべて命あるものを治めるようにという素晴らしい使命を忘れているようです。

 

 「人がどうして神の前に正しくあり得よう」(4節)という言葉は、ヨブばかりでなく、エリファズ、ビルダド、ツォファルにも、そして、今ヨブ記を読んでいる私たちにもあてはまります。いったい誰がヨブに石を投げることが出来るでしょうか。そんな資格のある者はいません。皆同じ罪人なのです(ヨハネ8章7節以下参照)。

 

 パウロが、「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。次のように書いてあるとおりです。『正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない』」(ローマ書3章9~12節)と指摘しているとおりです。

 

 私たちは、自分で自分を義とすることは出来ませんけれども、しかし、最後の審判の時、主イエスが私たちの右にお立ちくださり、神の御前で私たちのために弁護者として私たちの無罪を主張してくださいます。

 

 それはちょうど、サタンに向かって、「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」(1章8節)と語られた神の言葉のようなものではないでしょうか。

 

 なぜ、神の前に正しくあり得ないと言われる人間が、「無垢な正しい人」と評価されているのでしょうか。神は、ヨブが自分の義を盾に、神は間違っていると主張し始める前だったので、そう評価されたというわけではないでしょう。サタンの試みに遭えば、無垢ではいられなくなるということを、神はよくよくご存じだったのではないでしょうか。

 

 それにも拘わらず、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている」と賞されるのは、主イエスの贖いの業、救いの恵みゆえです。主イエスがご自分の十字架の死によって、私たちを訴えて不利に陥れる証書を、その規程もろとも破棄してしまわれたからです(コロサイ書2章14節)。

 

 私たちの罪の代価がキリストの十字架を通して支払われたので、私たちは主に結ばれて、罪なき者として生きることが出来るようにされたわけです。そしてそれは、私たちが神がお与えくださる新しい使命に生きることなのです。

 

 神の恵みを無駄にせず、キリストの言葉を心の内に豊かに宿らせ、心から父なる神に感謝しつつ、委ねられた使命を果たすべく、その御業に励みましょう。

 

 主よ、主に敵対して歩んでいた罪人の私のために、御子が贖いの業を成し遂げてくださったこと、その深い憐れみのゆえに、心から感謝致します。御名が崇められますように。和解の御業が前進しますように。全世界にキリストの平和がありますように。 アーメン

 

 

「だが、これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか。その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう。」 ヨブ記26章14節

 

 26章は、ビルダドの三度目の発言に対するヨブの応答です。25章のビルダドの言葉があまりにも短かったことと、本章5節以下の段落のテーマがビルダドの主張に添ったものであるために、5~14節はビルダドの言葉であると考えて、25章6節以下につなげて解釈する学者も少なからずおられるようです。岩波訳もその立場をとっています。

 

 ことの真偽はよく分りませんが、主なる神は、ヘブライ語原典を現在のかたちで私たちに伝えさせておられ、またビルダドの立場との相違も垣間見えることから、与えられているままに受け取り、学んでいくべきだろうと思います。

 

 ヨブは、「あなた自身はどんな助けを力ない者に与え、どんな救いを無力な腕にもたらしたというのか。どんな忠告を知恵のない者に与え、どんな策を多くの人に授けたというのか」(2,3節)という言葉でビルダドの発言を遮り、反論を開始しています。

 

 ビルダドは、「どうして、人が神の前に正しくありえよう。どうして、女から生まれた者が清くありえよう」(25章4節)と言い、月星も神の前に輝きを失う(同5節)と語った後、「まして人間は蛆虫、人の子は虫けらにすぎない」(同6節)と断じました。

 

 ここに、人間のことを、「人(エノシュ:死ぬべき存在 mortal man)」、「女から生まれた者」、「蛆虫」、「虫けら」と語っています。有限の存在であり、月や星よりも清さにおいて劣る人間、蛆虫、虫けらに過ぎない者が、全能の神と言い争うことなど、許されることではないという発言でしょう。

 

 それを受けたヨブも、「力ない者」、「無力な腕」(2節)、「知恵のない者」(3節)と、それを展開しています。そして、友人たちによって、神の御前に力なく、無力で、知恵のない者とされている自分を、どのように助け、救い、忠告し、方策を授けたのかと問うのです。

 

 これは、ビルダドをはじめ、友らの言葉は、自分にとって、何の助け、救いにもならず、忠告を受けることも、苦難から抜け出す方策を授かることもなかったと、皮肉をこめて語っているわけです。

 

 5節以下に森羅万象の知識を披瀝していますが、これは、25章2,3節のビルダドの神の力、御業をたたえる言葉を受けて、その程度のことは自分も知っているという表現です。これは、一回目の対話においてビルダドの発言(8章)に対して答えた、9章の言葉に重なる発言になっています。

 

 たとえば、9節の「覆い隠す」は9章7節の「太陽は昇らず」、11節の「天の柱は揺らぐ」は9章6節の「地の柱は揺らぐ」、12節の「海」、「ラハブ」は9章8,12節に、それぞれ出て来ます。

 

 その結論として、冒頭の言葉(14節)のとおり、「これらは神の道のほんの一端。神についてわたしたちの聞きえることは、なんと僅かなことか」と言います。あらゆる知力や感覚を総動員しても、神について見聞きし、知り得ることはごく一部、ほんの僅かなことだということです。

 

 このことも、9章2節の「神より正しいと主張できる人間があろうか」、また、同4節の「御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。神に対して頑なになりながら、なお、無傷でいられようか」と重なっていました。 

 

 「わたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」の「僅かな」(シェーメツ)というのは大変珍しい言葉で、旧約聖書中2度だけ、それもヨブ記だけに用いられています。ここと、もう一か所は4章12節です。

 

 そこでは、「シェーメツ」が「かすかに」と訳されていました。エリファズは、忍び寄るかすかな声によって神の知恵の言葉を聞いたと語っていました。、そのとき聞き取ったのが、同17節以下の括弧に括られている言葉です。 

 

 ヨブは「わたしたちの聞きえることはなんと僅かなことか」と受けた上で、「その雷鳴の力強さを誰が悟りえよう」と語ります。「雷鳴」という言葉は、詩編81編8節に「わたしは苦難の中から呼び求めるあなたを救い、雷鳴に隠れてあなたに答え、メリバの水のほとりであなたを試した」というところにも用いられています。

 

 この詩編の言葉は、出エジプトの物語を簡潔に描き出しています。神は、エジプトにおいて苦役のゆえに嘆いていたイスラエルの民の助けを求める叫びを聞かれ(出エジプト記2章23節)、モーセを遣わしてエジプトの国から導き出されました(同12章51節)。

 

 神は、民をシナイの荒れ野に導き(同19章1節)、シナイ山で十戒を含む律法をお授けになります(同20章1節以下)。その際、神は雲の中に姿を隠し、雷鳴をもってモーセに語られました(同19章16,18,19節)。

 

 雷鳴をもって語られる神のイメージを浮かび上がらせて、「かすかに聞いた」というエリファズに挑戦しているようです。また、「力強さ」(ゲブーラー)という言葉は、ツォファルに答えるヨブの言葉の中で、12章13節の「神と共に知恵と力(ゲブーラー)はあり、神と共に思慮分別もある」というところに用いられていました。

 

 しかしながら、神の知恵、力の強さ、思慮分別は、今のヨブにとって、自分が正しいと神の御前に主張することが出来ない(9章2節)、そうすれば、ただでは済まない(同4節)という、喜ぶことの出来ないものでした。「誰が悟りえよう」というのは、そういう思いなのでしょう。

 

 22章以下、三度目の対論において、ヨブの発言に何度も「誰?」(ミー)という疑問代名詞が用いられます。23章2節、24章25節がそうでした。今回は、4節に二度用いられています。そして、「誰が?」と言っていますが、その答えは明らかに「神」を示しています。

 

 ヨブは4節で、神の言葉を取り次いでいるのか、神の息吹(ネシャーマー:霊、息)があなたを通して吹いているのかとビルダドに質しています。それを仄めかす発言は、ビルダドの言葉から伺うことは出来ませんが、エリファズの発言(4章17,18節)を25章4,5節に引用しているのは、自分も同様に神の霊の導きを受けているということを示しているのでしょう。

 

 ヨブがそう質しているということは、彼らの発言が神の言葉の取次だとは思えない、彼らが神の霊の導きを受けているとは考えられないということでしょう。神に自分の苦しい思いを訴え、神に応えて欲しいと思っているヨブは、だから、神に替わって発言する友らの言葉はいらないと考えているのでしょうか。

 

 一方、力のない者に助けを与え、無力な腕に救いをもたらし、知恵のない者に忠告を与え、問題を解決する策を授けるためには、神の言葉、神の息吹が必要だと、ヨブは考えているわけです。それは、何より、ヨブが求めているものだからです。

 

 力がなく、知恵を必要としているとき、神の言葉を求めましょう。神の霊の導きを求めましょう。日々神の言葉、霊の導きに与り、その恵みを共に分かち合いましょう。力のない者に助けを与え、無力な腕に救いをもたらす神の愛の言葉、慰めの言葉を分かち合うことが出来れば、どんなに幸いでしょうか。

 

 私たちが神について知っていることは僅かで、神の御言葉の力強い轟きに較べれば、私たちの言葉は囁きにもなりません。謙遜に、神の導きを祈り求めましょう。神に用いられる器として頂くために、主の導きに従順に、喜びと感謝をもって従う者となりましょう。

 

 主よ、私たちはふつつかな僕にすぎません。私たちに語るべき言葉、為すべき業を教えてください。御言葉と御霊の導きに従順に、喜びと感謝をもって従うことが出来ますように。この地に御心をなす器として用いてください。主の御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「わたしは自らの正しさに固執して譲らない。一日たりとも心に恥じるところはない。」 ヨブ記27章6節

 

 25章のビルダドの発言に対して26章で反論したのに続き、ヨブは27章で誓いの言葉を口にします。その結論が、冒頭の言葉(6節)です。

 

 2節で「わたしは誓う」というのは、原文で「神は生きている」(ハイ・エール)という言葉ですが、これは、誓いを立てるときの定型表現なので、そのように訳されているわけです。

 

 4節を直訳すると、「もしわたしの唇が不義(アヴェラー)を語るなら、もしわたしの舌が偽り(レミーヤー)をつぶやくなら」という言葉遣いです。その帰結が記されていませんが、5節前半につながっていると見てもよいでしょう。

 

 5節の「断じて」は「わたしにとっては断じて」(ハリーラー・リー)という言葉です。5節前半を直訳すると、「わたしにとっては断じて、もしも、わたしがあなたがたを正しいとするなら」という文章になります。

 

 分かりやすく訳せば、「わたしがあなたがたを正しいとするなら、わたしは呪われよ」ということでしょう。つまり、「わたしにとっては断じて」というのは、自分自身を呪う言葉なのです。「恥を知れ」と訳した聖書もあるようです。

 

 さらに、5節後半の「死に至るまで」は、「たとえ息絶えることがあっても」という意味で、「たとえ息絶えることがあっても、潔白を主張することから離れない」という文章になり、命をかけてそれを守るという、誓いの言葉といってよいでしょう。

 

 6節までに、三つの誓いの表現があり、内容的にも、①2,3節、②4,5a節、③5b,6節に分けられます。①は神に対して、②は自分自身に対して、そして③は潔白と正しさに焦点を合わせています。

 

 2節の「魂」(ネフェシュ)、3節の「息吹」(ルーアハ)、「息」(ネシャーマー)という命に関する三つの言葉と、3節の「鼻」、4節の「唇」と「舌」という体の三つの器官とが対応していて、「骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている」(19章20節)と息も絶え絶えの様子だった者が、今ここに力があふれているような表現を用いています。

 

 生まれなければよかった、生まれてすぐ死ねばよかった、早く死にたいという表現で、独白を始めたヨブでしたが(3章参照)、ここまで友らとの対論を重ねて来て、ただ苦しく辛いだけ、空しいだけではなかったということでしょうか。あるいは、ヨブ自身が分からないかたちで、神の力、助けに与って来たということでしょうか。

 

 しかし、「断じて、あなたたちを正しいとはしない」(5節)というのは、友らの意見に首肯できるものではないという強い思いが示されます。だから、「わたしに敵対する者こそ罪に定められ、わたしに逆らう者こそ不正とされるべきだ」(7節)と断罪し、13節以下に、悪人のたどる運命を列挙しています。

 

 これはまるで、20章のツォファルの発言のようです。そのような読み方をする註解者もいます。その真偽は分かりませんが、「自らの正しさに固執して譲らない」(6節)ヨブが、自分を苦しめた友らのたどる運命として、それを語ったという解釈もできるでしょう。

 

 これまで自分に向けて語られて来た、神に逆らう者が被る報いについて、友らに向かって述べるというところに、他者を裁く者はその裁きで裁き返され、呪う者は呪い返されるという構図が完成します。ただ、そのように友らを裁き、罪に定めることは、正しいことでしょうか。「一日たりとも心に恥じることはない」(6節)という人のすることでしょうか。

 

 正しい者がなぜ災いをこうむるのかということで苦しんできたヨブですが、彼は今もまだ、正しいことをした者には神の恵みが、神に逆らうものには神の裁きが臨むという、伝統に基づく価値観の上に立っているわけです。

 

 自分の正しさに固執して、その自分に対する神のなさりように、神の不義をいうヨブが、他者の罪に対する義なる神の処罰を語るというのは、明らかに矛盾です。10節で「全能者によって喜びを得、常に神を呼び求めることができるだろうか」と語るヨブにそのとき、全能者による喜びがあったとはいえないでしょう。

 

 ただ、苦難の中から希望を見出そうともがき、呻いて、苦しみからの解放をひたすら待ち望んでいるわけです。まるで、嵐の海に浮かぶ舟の中で枕して眠っている主イエスをたたき起こし、私たちが溺れ死んでもかまわないのですかと、取り乱して叫んでいたペトロのような(マルコ4章38節)、平安を失い、希望を失ってしまった姿です。

 

 とはいえ、主イエスはそのペトロの叫びを無視なさいませんでした。嵐を鎮め、目的地に無事たどり着かせてくださいました。それは、彼らの信仰の結果などではありません。主の恵みです。主を呼び求めることのできる幸いを思います。

 

 私たちは、自分の知恵や力ではなく、主イエスを拠り所とし、常に主イエスを呼び求め、主イエスの平安に与らせていただきましょう。

 

 主よ、どんなときにも思い煩うことなく、何事でも感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているところをあなたに打ち明けます。あらゆる人知を越えるあなたの平和で、私たちの心と考えを、キリスト・イエスによって守ってください。主の恵みと平安が常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「神は知恵を見、それを測り、それを確かめ、吟味し、そして、人間に言われた。『主を畏れ敬うこと、それが知恵。悪を遠ざけること、それが分別。』」 ヨブ記28章27,28節

 

 27章で自分を苦しませる神と友らに、自分自身に誓って自らの潔白を主張したヨブが、28章では一転して、「神の知恵の賛美」をしています。 

 

 人は、地の底から金や銀、銅などの鉱石、また高価な宝石を見つけ、掘り出すことが出来ます。5節の「下は火のように沸き返っている」という文言について、これは地下のマグマのことを指していると考えてよいでしょう。

 

 食物(レヘム:「パン」の意)を産み出す大地も、その下では火が燃えていて、鉱石にサファイヤが混じり、金も含まれます(6節)。「鉱石」(エベン:「石」の意)とサファイヤ、「粒」(アーファール:「塵」の意)と金という組み合わせは、訳語とは別の意味合いがありそうです。

 

 ヨブは、23章10節で「神はわたしの歩む道を知っておられるはずだ。わたしを試してくだされば、金のようであることが分かるはずだ」と語っていました。塵となる運命のヨブが、火で試されて金のようであることが分かるというのです。

 

 3節の「人は暗闇の果てまでも行き、死の闇の奥底をも究めて鉱石を探す」という言葉には、全く希望がない地震の様子を言い表した10章22節の「その国の暗さは全くの闇で、死の闇に閉ざされ、秩序はなく、闇が光となるほどなのだ」という言葉と同様の言葉が用いられています。

 

 「死の闇」(オーフェル)は、ヨブの口からしか聞けない言葉で、3章6節、23章17節でも用いられていました。ヨブは自身の塵となる運命、生涯の最後の暗さを嘆いていましたが、暗黒の塵の中に貴金属の鉱石が隠されているように、彼はこのイメージを思い巡らす中で、自分自身の内側を探っていたのではないでしょうか。

 

 ダビデ・ソロモン時代に、既に金や銀という貴金属のほか、青銅という合金を造ったり、鉄を製造する技術があったことが分っています。三千年も前の人々が持っていた知識、技術の高さに驚かされてしまいます。どんなに強い猛禽類、猛獣でも見出せず、手に入れられないものを(7,8節)、人は見出し、採り出す技術を開発して来ました(9節以下)。

 

 それにも拘らず、人は知恵を見つけ、それを手に入れることが出来ません(12節)。人が知恵の在処を知らないのは、「命あるものの地には見出されない」からです(13節)。海や深い淵も「わたしの中にはない」(14節)と言います。

 

 また、「知恵は純金によっても買えず」(15節)、「金も宝玉も知恵に比べられず」(17節)という言葉で、ヨブのいう「知恵」は、この世のどんな価値あるものでもそれと較べることができず、代価を支払って手に入れることのできないものであることが強調されます。

 

 その在り処、そこに至る道を知っているのは、神ただお一人だけです(23節)。24節以下の言葉から、その知恵とは、天地創造に関する知恵のようです。確かに、天地がどのように創造されたのか、どのようにして全宇宙のバランスを取っておられるのか、命が存在する惑星をどのようにして生み出されたのか、分からないことだらけです。

 

 このことで、蛇に唆されて善悪の知識の木からとって食べたという創世記3章の記事を思い起こします。その木の実は、神に食べることを禁じられていたものでした。その禁を破ったのは、「目が開けて神のように善悪を知る者となる」(同5節)という誘惑でした。

 

 けれども、木の実を食べた結果、彼らが手にしたのは、神のように善悪を知る賢さなどではありません。「生涯食べ物を得ようとして苦しむ」(同17節)こと、「塵に過ぎないお前は塵に返る」(同19節)ということでした。

 

 神はここで、人の到底獲得し得ない深遠な知恵を独り占めして、一人悦に入っておられるようなお方ではありません。冒頭の言葉(28節)で、「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」であると、神ご自身の言葉として語られています。

 

 ただ、ここにきて初めてヨブがそのことを悟ったというのではないでしょう。箴言1章7節に「主を畏れることは知恵の初め」とあり、またコヘレトの言葉12章13節に「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」と語られているように、これはむしろ、伝統的な信仰姿勢といってよいでしょう。

 

 つまり、それはずっと前から知られていたことです。しかし、突然の悲劇、大変な苦難を経験して、その知恵に疑問が生じました。そのことで、ここまで友らと議論を重ねて来たのです。

 

 どういう経路でここに立ち戻ったのか、定かではありませんが、彼がこのように告げるとき、それは、元に戻ったということではなく、火のような試練にあって日の光の見えない暗黒を経験し、必死に出口を求めて呻き続け、求め続けて来て、あらためて神の言葉が響いたということでしょうか。

 

 あるいは、人の知り得ない知恵をもって、ご自身のかたちに創造された人のうちに、神はその知恵を隠しておられ、神がきっかけをお与えくださるときに、その知恵が開かれて、神を畏れ敬わせ、悪を遠ざける歩みをすることができるようになるということでしょうか。

 

 神のなさることに無意味なものはなく、自分にとってそう思うことが難しくても、それは常に最善であること、最善以下をなさることはないと信じましょう。日々主の御言葉に耳を傾け、常に御顔を慕い求めましょう。

 

 主よ、あなたはすべての者を憐れむために、すべての人を不従順の状態に閉じ込められました。神の富と知恵と知識のなんと深いことでしょう。誰が神の定めを窮め尽くし、神の道を理解し尽くせるでしょうか。すべてのものが神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が世々限りなく神にありますように。 アーメン

 

 

「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった。」 ヨブ記29章14節

 

 28章で神の知恵を讃美したヨブは、ここにきて「どうか、過ぎた年月を返してくれ、神に守られていたあの日々を」(2節)と、過去を回想しつつ嘆きの言葉を語り始めます(2節)。それは、かつては神の栄光が、ヨブを守り導いていたからです。

 

 以前、「その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな」(3章4節)と言っていました。「その日」とは、ヨブが生まれた日のことです。彼が被った災いがあまりに辛く厳しいものだったので、そんな光が与えられなければよかったのにと考えたのです。

 

 けれども今、ヨブは神のもとにいたときの光を喜びたたえています(3節)。神との交わりがいかに豊かであったかを、「わたしは繁栄の日々を送っていた」(4節)といい、それは、「乳脂はそれで足を洗えるほど豊かで、わたしのためにはオリーブ油が岩からすら流れ出た」(6節)というほどの豊かさだったと誇ります。

 

 その祝福ゆえに、ヨブは町中の尊敬と栄誉を受けていました(7節以下)。ヨブは、与えられた豊かな恵みを私せず、身寄りのない子らを助け、助けを求める人を守り(12節)、見えない人の目、歩けない人の足(15節)、貧しい人の父となり、彼らの訴訟に尽力(16節)、不正を行う者の牙を砕き、その歯にかかった人々を奪い返しました(17節)。

 

 その振舞いを、冒頭の言葉(14節)のとおり、「わたしは正義を衣としてまとい、公平はわたしの上着、また冠となった」と言っています。この箇所を直訳すると、「わたしは正義を着、わたしの公正はわたしを上着や冠のように着た」となります。素直に読めば、「正義」(ツェデク)がヨブの上着で、「公正」(ミシュパート)が彼の精神を象徴するものということでしょう。

 

 正義や公正を身に着けることについて、詩編132編9節に「あなたに仕える祭司らは正義(ツェデク)を衣としてまとい、あなたの慈しみに生きる人々は、喜びの叫びを上げるでしょう」とあります。

 

 また、イザヤ書11章4,5節には「弱い人のために正当な裁きを行い、この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち、唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし、真実をその身に帯びる」と記されています。

 

 つまり、正義と公正は、祭司や王が身に着けるべきものだということです。だから「上着」(メイール:「上着、外套(マント)、ガウン」)や「冠」(ツァーニーフ:「王冠、ターバン、帽子」)が言及されているわけです。

 

 ヨブは自分のことを、正しく情け深い王のような者であったと言おうとしているのです。25節に「わたしは嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物だった」と告げています。

 

 そのことについて、「ソロモンの詩」といわれる詩編72編1節に「神よ、あなたによる裁き(ミシュパート)を王に、あなたによる恵みの御業(ツェダカー[ツェデクの女性形])を王の子にお授けください」とあります。正しい王は、正義と公正をもって治めるので、貧しい者たちは暴虐から救われ(同4,12節以下)、その統治は地を潤す豊かな雨のようだと言われます(同6節)。

 

 そこで、「王が太陽と共に永らえ、月のある限り、代々に永らえますように」(同5節)、「王の名がとこしえに続き、太陽のある限り、その名が栄えますように」(同17節)と、王の長寿を願う祈りがささげられます。

 

 ヨブは18節で、「わたしは家族に囲まれて死ぬ」と、平和で安らかな最期を期待し、また「人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう」と、長寿を期待していたように述べています。それが、正義と公正をもって貧しい人々、弱い人々らを助けた者に、当然のごとく期待される報いというものでしょう。

 

 さらに、「わたしは水際に根を張る木、枝には夜露を宿すだろう。わたしの誉れは常に新しく、わたしの弓はわたしの手にあって若返る」(19節)と、14章7~9節で語っていた希望のイメージを、もう一度取り出しました。

 

 このように語ったのは、今の自分を顧みて、それは浅はかな夢だったと言いたいのでしょうか。それとも、「幹が朽ちて塵に返ろうとも」(14章8節)、改めて希望が与えられるということになるというのでしょうか。

 

 もしも、浅はかな夢だった、もう夢など見るものではないということであるなら、いまだ3章の嘆きと同一線上にあるということでしょう。しかし、前述のとおり、彼はかつての光を喜びたたえることで、19節を単に浅はかな夢だったというのではなく、希望の将来が開かれる夢を見たいと考え始めているということではないでしょうか。

 

 本当に暗闇に光が差し込むように、希望を見出せるのか、まだ判然としていませんが、ヨブには「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」(28章28節)という御言葉が示されていました。それは、旧来の信仰に基づく知恵を、苦難を通して再認識したということでしょう。

 

 これまでヨブは、止むことのない苦難を嘆きつつも、友らとの論争の中で調停者、仲裁者を望み(9章33節)、天に自分の証人、弁護者、執り成す方を認め(16章19,20節)、そして「わたしを贖う方は生きておられ」(19章25節)ると語っていました。

 

 パウロが「わたしたちのうちに働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」(フィリピ書2章13節)というとおり、ヨブがその希望を語った背後に、神の確かな導きがあったといってよいでしょう。

 

 しかしそれは、力づくでヨブの思いを変えさせたということではありません。神はヨブから遠く離れておられたのではないのです。ヨブとの交わりを控えておられたということでもないでしょう。彼が苦しみ、呻く声を側近くで聞いておられたに違いありません。

 

 「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、うずくまっている人を起こしてくださいます」(詩編145編14節)と言われています。無理矢理腕を引っ張って立ち上がらせるというのではなく、時を待って、起き上がる力を授けてくださるのです。また、「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」お方です(同30編6節)。

 

 神は、この苦しみをとおして、ヨブを真の信仰に導こうとしておられるのです。信仰こそ、神を喜ばせるものだからです(ヘブライ書11章6節参照)。自分の感覚や感情に頼るのではなく、神の御言葉に信頼し、自分の考えではなく、神の御心を悟るように、私たちの心に働きかけてくださるのです。

 

 はばかることなく、恵みの主の前に進みましょう。日毎、主の御声に耳を傾けましょう。感謝をもって祈りと願いを主にささげましょう。

 

 天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。御国も力も栄光も、すべてあなたのものだからです。主の御心を悟り、その導きに従うことが出来ますように。 アーメン!

 

 

「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵芥に等しくなってしまった。」 ヨブ記30章19節

 

 前章より、ヨブの嘆きは続きます。かつては、「嘆く人を慰め、彼らのために道を示してやり、首長の座を占め、軍勢の中の王のような人物であった」(29章25節)というヨブでしたが、今は若者らの物笑いの種(1節)、嘲りの的にされ(9節)、息も絶えんばかりになっています(16節)。

 

 30章には「今」(アッター)という言葉が、1,9,16節(「もはや」と訳されている)にあったーというのは、単なる駄洒落ですが、23節までの箇所が、「今」という言葉で始まる三つの段落で区切られています。

 

 ヨブを物笑いの種にした若者らのことを1節以下の段落で、「彼らの父親を羊の番犬と並べることすら、わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず、何の気力も残っていないような者らだった」(1,2節)、「愚か者、名もない輩、国からたたき出された者らだった」(8節)などと言います。

 

 「身寄りのない子らを助け、助けを求める貧しい人々を守った」(29章12節)と言っていたヨブが、そのような侮辱的な言葉で彼らのことを描写するとは、どうしたことなのでしょうか。

 

 情け深い王のようなヨブが(25節参照)、絶えず心にかけ、守り、助けていた相手から、嘲りの言葉、振る舞いを受けて、実は彼らは、最も軽蔑していた人々なんだ、彼らは、人間社会から完全に疎外されたような輩だったのだというのです。最も軽蔑していた輩から、嘲りを受けるような存在になってしまったと、自己卑下する表現として語っているのでしょう。

 

 9節以下の段落では、どのような嘲りや屈辱的な振る舞いを受けたのか、語り出されています。それが、29章7~17節の、ヨブの情け深い行為に対する報いなのだとすれば、まさに恩を仇で返されたということになります。

 

 神に守られ(29章1節)、神との親しい交わりの中にあって(同4節)、正義と公平を旨として歩んで来た(同14節)ヨブが、神の守りを失い、無残な姿になっているのを見て、彼を自分たちのところから追い出すのです(13節以下)。それは、町からということもあり、そして、生きている者たちの間からという意味でもあります。「死の破滅がわたしを襲い」(15節)とあるからです。

 

 16節以下の段落は、嘲られ、屈辱的な振る舞いを受けた結果、ヨブの現状の姿が述べられています。神の手に守られていたヨブが、「夜、わたしの骨は刺すように痛み、わたしをさいなむ病は休むことがない」(17節)、「病は肌着のようにまつわりつき、その激しさに私に皮膚は見る影もなく変わった」(18節)という有様です。

 

 そのような苦しみの中で叫ぶ声を神は無視したうえ(20節)、「あなたは冷酷になり、御手の力をもってわたしに怒りを表される」(21節)と、神の手によるひどい扱いを告発します。そして、「わたしは知っている。あなたはわたしを死の国へ、すべて命あるものがやがて集められる家へ、連れ戻そうとなさっているのだ」(23節)と結論します。

 

 29章4節の「神との親しい交わりがわたしの家にあり、わたしは繁栄の日々を送っていた」という、命と栄光に輝いていたヨブの家は、今や死者の集うところに変えられようとしています。

 

 冒頭の言葉(19節)の「泥」(ホメル)は、4章19節の「人は塵の中に基を置く土(ホメル)の家に住む者」、10章9節の「土くれ(ホメル)としてわたしを造り」という言葉から、人の肉体をあらわすものといってよいでしょう。

 

 「塵芥」は、「塵」(アーファール)と「芥」(エーフェル:「灰」の意)という言葉です。二つ並べられるとき、「塵」は、創世記2章7節の「土の塵で人を形づくり」という、人の起源を示し、「芥=灰」は、命の燃え尽きた残りかす、人の宿命を示します。いかに価なくはかない存在かといった表現です。

 

 「塵芥」と二つ並べる言い方が、旧約聖書にもう一箇所登場します。それは、創世記18章27節です。それは、アブラハムが神に「塵あくたにすぎないわたしですが」といって、ソドム、ゴモラにいるロトを守ろうとして執り成す場面の一節です。

 

 神の前に謙った姿勢を示すものですが、しかし、そこでアブラハムのしているのは、「正しい者と悪い者を一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界で裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」と、無鉄砲にも神に公正な裁きを願い訴えているのです。

 

 ヨブがここに、「塵芥に等しくなってしまった」というとき、単に死ぬべき運命だというだけでなく、にもかかわらず、「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない」(20節)、それでいいのですか、全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんかと、勇気をもって告発しているわけです。 

 

 ヨブは、このままで終わりたくはないのです。だから、諦めきれずに神に向かって叫ぶのです。24節で「人は、嘆き求める者に手を差し伸べ、不幸な者を救おうとしないだろうか」と問い、続く25節で「わたしは苦境にある人と共に泣かなかったろうか。貧しい人のために心を痛めなかったろうか」と反問しています。

 

 これらの言葉で、不完全な人間でさえそうするのであれば、まして主なる神は、嘆き求め、苦境にある自分に手を差し伸べ、救って下さるはずだ、それなのに、未だそれが実現していないと、神を非難するヨブの思いが示されています。

 

 とはいえ、それならもう主なる神に頼らない、主を呼び求めることはやめるということではありません。未だ、神の答えが得られず、神が自分に目を留めておられないと思うからこそ、ヨブは嘆き、神に訴えるのです。

 

 ここに、「ヤベツの祈り」の祝福が見えて来ます。ヤベツの祈りとは、「ヤベツがイスラエルの神に、『どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください』と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた」と、歴代誌上4章10節に記されているものです。

 

 ヤベツは、母の苦しみを背負って生まれて来ました。「母は、『わたしは苦しんで産んだから』と言って、彼の名をヤベツと呼んだ」(同9節)と記されているとおりです。なぜ、母が苦しみの中でヤベツを産んだのか、その苦しみとはどのようなものであったのか、正確なところは皆目分かりません。

 

 しかし、ヤベツは神に向かって「わたしを祝福してください」と願い、「苦しみを遠ざけてください」と求めました。きっと、来る日も来る日も、神の恵みと憐れみを祈ったことだろうと思います。そしてそれは、もともとヤベツの母親が祈っていた祈りかも知れません。そして、ヤベツがその祈りを引き継いだのです。

 

 そのたゆまぬ祈りが神に聞き入れられました。そして、この諦めない祈り、神に信頼してやまない信仰心が、兄弟たちの尊敬を集めることになったのだと思います(同9節)。

 

 主イエスも、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えられました(ルカ福音書18章1節以下)。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる逆風の中で、しかし、「主に望みを置く人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章31節)者とされます。

 

 ヨブの訴え、ヤベツの祈りに倣い、死者の中から復活された主イエスの恵みによって日々強められ、御言葉に従って歩み、信仰をもって祈りをささげましょう。

 

 主よ、あなたが私と共にいて私を助け、恐れるなと言い、救いの御手で私を支え、たじろぐなと語ってくださることを感謝します。私たちを大いに祝福してください。御名の栄光を拝することが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしを胎内に造ってくださった方が彼らをもお造りになり、われわれは同じ方によって母の胎に置かれたのだから」 ヨブ記31章15節

 

 31章はヨブの最終弁論です。ヨブは最後の最後まで自分の潔白を信じて、「わたしがむなしいものと共に歩き、この足が欺きの道を急いだことは、決してない。もしあるというなら、正義を秤として量ってもらいたい。神にわたしの潔白を知っていただきたい」(5,6節)と語ります。

 

 「決してない」(5節)は、原文にはない表現です。5節の文頭に「もしも~なら」(イム)という言葉があり、「もしもわたしがむなしいものと共に歩き、この足が欺きの道を急いだことがあるなら」という言葉遣いになっています。古代世界では、自分の潔白を誓うのに、もし罪を犯していたなら、処罰されてもよいという覚悟を示す意味で、自分自身を予め呪うという慣習がありました。

 

 「決してない」と訳された「イム」という言葉が、31章に14あります(5,7,9,13,17,19,21,25,27,29,30,31,33,39節)。つまり、呪いの誓いが14回語られているわけです。

 

 14は、7の倍数です。「誓う」(シャーバー)という言葉は、「7」(シェバ)という言葉から発展したものですから、7の倍数の誓いをなすということは、それによって誓いの効果を高めようとしているわけです。

 

 ただ、「もしも~なら」といった後に、「~してもよい」という処罰を記さず、理由、説明、期待を綴っている箇所も多くあり、呪いの誓いの定式に従っているのは、7~8,9~10,21~22,38~40節の4箇所です。

 

 いずれにせよ、このような語り口に、自分の正しさをどうしても神に認めてもらいたいという、ヨブの強い意志が示されます。それによって、すぐにもこの苦しみから解放してほしいと、言葉を尽くして訴えているのです。

 

 31章の最後に、「ヨブは語りつくした」(40節)と記され、3章から続いてきた弁論に終止符を打ちます。語り尽くしたヨブには、これ以上言うことはありません。あとは神がヨブの訴えを聞いて、判決をくだされるのを待つだけです(16章21節参照)。

 

 ヨブは、この裁判で、天に自分の弁護をしてくださる方、自分のために執り成す方があると言っていました(16章19,20節)。また、わたしを贖う方は生きておられるとも語っています(19章25節)。

 

 しかし、彼の最終弁論に、そのような彼の弁護者、執り成し手、また贖う方に対する信頼の言葉は出て来ませんでした。それはただ、彼の潔白を証明してくれさえすればよい、神がそれを認めてくれさえすればということでしょう。

 

 「ヨブは語り尽くした」(タンムー・ディブレイ・イヨーブ)は、ヨブの言葉は終わったという言葉遣いです。「終わった」(タンムー)は、 「無垢」(ターム)や「潔白」(トゥンマー)という言葉によく似ています。まるで、ヨブの最終弁論が終わったという署名に、無垢、潔白と書いているような、そのように読んでほしいと願っているような言葉遣いです。

 

 ここに、自分の義に依り頼んで神と相対するヨブの姿が、改めて浮き彫りになりました。ヨブ自ら、神から離れて、たった一人で立っています。即ち、ヨブの「正しさ」が、神からヨブを離れさせる「仇」となっているわけです。そして、ヨブがこの「仇」から離れるのは、極めて困難です。なぜなら、正しく歩むのは、よいことだからです。だからこそ、悩みも深いのです。

 

 使徒パウロが、「わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では、他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵芥と見なしています」(フィリピ書3章7,8節)と語っています。

 

 有利であったはずのものが、かえって徒となったというのです。彼は、出自や経歴に誇りを持っていました(同5,6節)。しかし、彼の誇っていた出自、経歴や学識が、キリストとの交わりを妨げ、真の命に与ることを阻害していたということです。

 

 そのことに気づかせるために復活の主が彼に現れ、目からうろこが落ちるという経験をさせられたのです(使徒言行録9章1節以下、18節)。ダマスコ途上で強い光に撃たれ、何も見えなくなってしまいましたが(同8,9節)、彼の目をふさいでいた「うろこのようなもの」は、実は、自分の誇りとしていたものだったと気づかされたわけです。

 

 ヨブの最終弁論の中で、冒頭の言葉(15節)に目が留まりました。ヨブは13節で、奴隷やはしためのことを取り上げ、彼らを不当に扱ったことはないと言い、その理由を説明する言葉で、自分も彼らも神がお造りになったのだからと言っています。

 

 「我々は同じ方によって母の胎に置かれた」(イェクネヌー・バーレヘム・エハード)を直訳すれば、「我々を母の胎に置かれたのは一人」となります。一人の主によって形づくられ、この世に送り出されたのです。

 

 ここで、「母の胎」(レヘム)は「憐れみ」(ラハミーム)の宿る場所です。母親が胎内の子に抱く感情のことを「憐れみ」というわけです。自分と奴隷を「我々」と括り、「同じ方」(エハード:「一人の」の意)が「母の胎」に置かれたということで、自分と奴隷との間に「憐れみ」という情があるように、自分たちと自分たちを母の胎に置かれた方との間にも、憐れみがあるはずだと言いたいのでしょう。

 

 「同じ方」について、申命記6章4節に「われらの神、主は唯一の主である」(アドナイ・エロヘイヌー・アドナイ・エハード)という言葉があります。直訳すると「主はわれらの神、主は一人」という言葉です。

 

 現代に生きる私たちと私たちの神、一人なる主との間にも、同様にあわれみがあるはずです。私たちも同じ方によって母の胎に形づくられ、同じ方によって鼻に命の息を吹き入れられ、生きる者としていただきました(創世記2章7節)。使徒パウロがキリストを信じる信仰に導かれ、それまでの価値観が一変する経験をしたように、私たちも同じ信仰に与りました。

 

 詩編34編9,10節に「味わい見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか。御もとに身を寄せる人は。主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。主を畏れる人には何も欠けることがない」と言われています。主イエスの福音に耳を傾け、主を信頼することにより、主を知る知識の絶大な価値を実際に知り、味わい、経験する者とならせて頂きましょう。

 

 主よ、キリストの迫害者であったパウロを恵みによって使徒とし、キリストの福音宣教のために豊かに用いられました。ゆえにパウロは神の栄光に与る希望を誇りとし、さらに、苦難さえも誇りとすると語っています。私たちも、聖霊を通して注がれる神の愛を心に、御業のために用いてください。主イエスの恵みと平安が私たちの上に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない。」 ヨブ記32章13節

 

 ヨブの最終弁論が終わったとき、腹を立てて発言を始めた人物がいました。それはエリフという若者で、「ブズ出身でラム族のバラクエルの子」と紹介されています。「エリフ」は「彼は神」という意味です。父親の「バラクエル」は「神は祝福する」という意味です。「ラム族」とありますが、「ラム」は高いという意味です。

 

 「ブズ」については、アブラハムの兄弟ナホルの次男が「ブズ」です(創世記22章21節)。ちなみに、ナホルの長男の名は「ウツ」で、それは、ヨブがいる町の名前でした(ヨブ記1章1節)。ということは、エリフはヨブの親族に当たる存在ということになるのかもしれません。エレミヤ書25章23節も、ブズ人がアラビアの人々であることを示しています。

 

 ここでエリフは、ヨブに対して怒りをもって語り始めます。それは、ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するからです(2節)。神が言い分を聞いてくだされば、自分が潔白であることが分かるというヨブの主張は、神がヨブに対して行っていることは間違っていると言っていることになり、それは、ヨブの方が神よりも正しいと主張していることだというのです。

 

 また、このように神を敵に回して言い争おうとするヨブの過ちを、正しく指摘できない三人の友らに対しても、エリフは怒っています(3,5節)。三人の友がヨブに言い負かされて沈黙したことは、エリフにとって、神の義を汚すヨブの過ちを黙認することになるという大問題だったのです。

 

 エリフとその父親、出身部族の名前の背後に、神の栄光が危険にさらされているとみて、それを弁護しようという護教的な意図が隠されているのかも知れません(36章3節も参照)。

 

 2~5節の短い箇所に、「怒る」(ハーラー)という言葉が4回出て来ます。だから、彼が大変感情を害していたこと、その感情丸出しの意見開陳であったことが伺えます。

 

 大変な苦しみの中にいるとはいえ、そして、ヨブが律法に従って正しく歩んで来た者であることは、エリフも知っていることだったでしょう。けれども、神よりも自分の方が正しいなどというヨブの暴論を、エリフとしては到底聞き流すことが出来なかったわけです。

 

 エリフの言葉の中に、大変重い言葉を見つけました。それは冒頭の言葉(13節)の、「『いい知恵がある。彼を負かすのは神であって人ではないと言おう』などと考えるべきではない」という言葉です。

 

 これは、三人の友らに向けて語られているもので、ヨブの過ちを正しく指摘しないまま、ヨブを打ち負かすのは神御自身で、それは人の役割ではないなどと考えて、沈黙してしまうのは間違いだということです。

 

 何が重いのかといえば、苦しみの中にいる人、そしてその苦しみの中から神に向かって抗議の言葉を語る人に対して、人間が何を語り得るのかということです。どういう言葉が彼の慰めとなり、励ましとなるのでしょうか。どうすれば、彼を正しく苦しみの闇から希望の光へと導き出すことが出来るのでしょうか。

 

 人が人の上に立って、見下すような思いで語られる言葉は、相手の心を動かしません。同じ苦しみを味わい、同じ境遇におかれた者でない限り、相手の心に届く言葉を語ることは出来ないのではないかと思われるのです。特に、心身共に苦しんでいる上、友らとの議論で冷静さを欠いているヨブに対して、「怒り」をもって語るエリフの言葉が届くでしょうか。

 

 しかも、このエリフの言葉は、ヨブに対しても、自分は神と対話したいと考えているだけだ、ほかの者は沈黙せよ(13章3,5節、21章4節)などという思い上がった考えを持つなという、挑戦的な意味合いを持っています。

 

 ここには、神と人、人と人との交わりを妨げ、破壊しようとする、どのような企てにも屈しないという、若者エリフの心意気を感じます。エリフがこれを語ったのは、日数、年数といった人生経験ではありません。

 

 「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」(8節)という言葉に示されているように、彼の背後に神がおられ、霊に感じさせて語るべき言葉を与えておられたということです(18節も)。

 

 19節に「見よ、わたしの腹は封じられたぶどう酒の袋、新しい酒で張り裂けんばかりの革袋のようだ」 というのは、エレミヤ書20章9節のエレミヤの言葉を彷彿とさせます。さながら、自分の発言は、預言者としてものものだといっているかのようです。

 

 また、6節の「わたしの意見」(デイイー)は、「知識」(デイア)に「わたしの」を意味する接尾辞(イ)がついたものですが、これは、前後の文脈から、経験や伝統的判断による考えではなく、神の霊感によって得られた知識だということでしょう。10,17節も同様です。37章16節の「完全な知識を持つ方」(テイーム・デーイーム)というところでの用い方が、それを支持しています。

 

 これらの言葉で、エリフがヨブを言い負かそうと考えていることが分かります。そのために、抑えがたく溢れ出るような勢いを持った言葉で(18,19節)、霊感によって与えられた知識を披瀝しようということです(8,10節)。

 

 そして、そのような言葉遣いで、自分の語る言葉を権威づけているわけです。その原動力が「怒り」であったことは、前述のとおり、2,3,5節に示されています。

 

 エフェソ書6章10節以下に、悪魔の策略に陥らず、暗闇の世界の支配者と戦うために、神の武具を身に着けよと語られています。そこに、「救いの兜をかぶり、霊の剣、すなわち、神の言葉を取りなさい」(同17節)と記されています。

 

 神の言葉が霊的な刃物だということですが、それをもって戦う相手は、「血肉」と言われる人間ではないのです(同12節)。新約の基準に従えば、霊感された言葉で相手を言い負かそうというのは、正しいことなのでしょうか。

 

 エリフが「人の中には霊があり、悟りを与えるのは全能者の息吹なのだ」(8節)といって、自分はその霊感を受けて語ると自らの言葉を権威付ける根拠は、彼が怒りを持って立ち向かおうとしているヨブにも、そして、エリファズら三人の友人たちにも当てはまります(4章12節以下、15章11節、23章3,4節)。

 

 だれが買っても負けても、それが霊感された言葉によるということになるでしょう。だれが、真に神の霊を受けて語っているのか、それは、読者自身が全能者の息吹を通して悟りを得るしかないでしょう。そこでは、誰に勝つか負けるかは問題ではなくなります。ただ、神に告げられたとおりに語ったのかどうかが問われます。

 

 神に命じられもしないのに、怒りに溢れてその知識を語るというのでは、「神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか」(13章8節)と言い返されてしまいます。

 

 どんなときにも、主のみ前に謙りましょう。そのみ声に耳を傾けましょう。その恵みを隣人と分かち合いましょう。「霊の剣、すなわち神の言葉」が、人を傷つけ殺す刃物でなく、医師の手にあるメスのような、切れ味鋭く病巣を切り取り、命を守り救う道具となるよう、聖霊の導きを祈りましょう。 

 

 主よ、聖霊を通して私たちの心に主イエス・キリストの愛を満たしてください。知る力、見抜く力を身に着けて、私たちの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられますように。キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができますように。 アーメン

 

 

「千人に一人でもこの人のために執り成し、その正しさを示すために遣わされる御使いがあり、彼を憐れんで、『この人を免除し、滅亡に落とさないでください。代償を見つけて来ました』と言ってくれるなら、彼の肉は新しくされて、若者よりも健やかになり、再び若いときのようになるであろう。」 ヨブ記33章23~25節

 

 怒りによって口を開いたエリフは、「神の霊がわたしを作り、全能者の息吹がわたしに命を与えたのだ」(4節)といって、霊感を受けて語る自分の言葉を聞き、「答えられるなら答えてみよ」(5節)と挑戦します。そうして、8節以下において、いよいよ本論に入るのです。

 

 そこでまず、ヨブの語っていたことを取り上げます(8節)。ヨブは「わたしは潔白で、罪を犯していない。わたしは清くとがめられる理由はない」(9節)と言い、なぜ自分が苦しまなければならないのかと神に訴えていました(27章5節、31章5節以下参照)。

 

 そこでエリフは、「ここにあなたの過ちがある、と言おう。神は人間よりも強くいます。なぜ、あなたは神と争おうとするのか。神はそのなさることを一々説明されない」(12,13節)と、神の裁きは間違っていると訴えることがヨブの過ちと示します。

 

 そして、「神は一つのことによって語られ、また、二つのことによって語られるが、人はそれに気がつかない」(14節)と語ります。神のなさるすべてのことには目的があり、決して沈黙しておられるのではない。いくつもの方法で、何度も語りかけられているのに、人がそれに気づかないのだと諭します。

 

 エリフのいう「二つのこと」のひとつは、「人が深い眠りに包まれ、横たわって眠ると、夢の中で、夜の幻の中で、神は人の耳を開き、懲らしめの言葉を封じ込められる」(15,16節)と示されます。

 

 これはヨブが「あなたは夢をもってわたしをおののかせ、幻をもって脅かされる」(7章14節)と語っていたことに、あてこすった言い方です。それが神の警告で、悔い改めて神に従えというわけです。

 

 いまひとつは、「苦痛に責められて横たわる人があるとする。骨のうずきは絶えることなく、命はパンをいとい、魂は好みの食べ物をすらいとう。肉は消耗して見えなくなり、見えなかった骨は姿を現し、魂は滅亡に、命はそれを奪うものに近づいてゆく」(19節~22節)と言われるところです。

 

 ここにいう「苦痛に攻められて横たわる者」とは、ヨブのことを指していると考えて間違いないでしょう。彼が被っているのは、「魂を滅亡から呼び出し、命の光の輝かせ」(30節)るために警告する苦痛だというのです。

 

 この人のために執り成す人が、苦痛を通して語られる神の言葉を説き明かし、正しいことを示してくれます(23節以下)。つまり、「わたしは罪を犯し、正しいことを曲げた。それはわたしのなすべきことではなかった」(27節)と悔い改めることを通して、救いへと至る御心に適う道を示すということです。

 

 確かに、神は様々な語り口を持っておられます。決して、沈黙してばかりおられるわけではありません。勿論、神は直接、耳で聞き、目で見、心に響くようにお語りになることがあるでしょう。

 

 聖書の言葉を通してということも、また、預言者など人を介してということもあります。空の鳥や野の花など、自然界の生物が語り手になることもあるでしょう。神を求め、神に聴こうとしていれば、あらゆるものからそれを受け止めることができると思います。

 

 敵国の王が神の言葉を語ることがありました(歴代誌下35章21,22節)。エジプトで繰り返された苦難は、ファラオに対する神の警告でした(出エジプト記14章14節以下)。ただ、神がお語りになるのは、警告や懲らしめの言葉ばかりではありません。ヤコブは夢で、ルズの荒れ野が「神の家、天の門」であることを知りました(創世記28章12,17,19節)。

 

 使徒パウロは、苦難を誇りとするといい(ローマ書5章3節)、また「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ書1章29節)と語っています。彼は自身の苦しみに、神の恵みを見、味わい、受け取ったのです。

 

 しかし、神の言葉をしっかり受け止められるか、神の言葉として聞き取ることができるかといえば、むしろ、受け止めることができず、聞き逃してしまってばかりいるのではないでしょうか。

 

 よいことがあれば、それを神の恵みと受け取るよりも、自分の知恵力の賜物と考えるでしょう。悪いことを警告の言葉として聞くより、それを他人の所為にしたりして、それで神が何を物語られているのかなどと静かに耳を傾ける気持ちにはなりません。パウロのように、苦しみを神の恵みと受け取るのは、まずもって困難です。

 

 冒頭の言葉で、ヨブのためにその正しさを証言する御使いがいて、執り成してくれるなら(23節)、そして、憐れみを乞うてくれるなら(24節)、健康になり、若さを回復するだろう(25節)と語ります。また、神との親しい交わりが回復されます(26節)。つまり、かつての繁栄を取り戻すことができるということです。

 

 それらのことは、まさにヨブが願っていたことです(9章32節以下、16章19,20節、19章25節参照)。その意味で、これがヨブの一番聞きたかった神の言葉といってよいのではないでしょうか。

 

 エリフはそのとき、どういうつもりでこれを語っていたのでしょうか。ヨブのために執り成す方がいると、確信していたのでしょうか。むしろ、「千人に一人でも」ということは、そのような御使いがいると信じていたわけではない、それのみか、そういう人がいるはずはないという、ヨブの願いを打ち砕く表現ではないかと思われます。

 

 ここでエリフは、自分で何を言っているのか、よく分っていなかったのかも知れませんが、確かに神の霊が彼の内に働き、全能者の息吹に押し出されて、示されたところを語ったのではないかと思います。

 

 エリフは、「代償」(コーフェル)という言葉を使っています(24節)。これは「贖い代、賠償金」という言葉で、命の代価、それによって死を免れるものという意味です。イザヤ書43章3節の「身代金」が、その言葉です。「この人のために」(23節)は「この人に代わって」という意味でもあります。ヨブのために、ヨブに代わって、正しさを示すために御使いが遣わされます。

 

 聖書で「代償」といえば、それは、主イエスの贖いの業のことです。神の独り子なる主イエスが、私たちの罪のために十字架にかかって死なれ、その命の代価によって、私たちを救ってくださったことです。使徒パウロが、「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ書3章24節)と語っているとおりです。

 

 また、「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(第一ペトロ書1章18,19節)、「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」(第一コリント書6章20節)と言われています。

 

 30節に「その魂を滅亡から呼び戻し、命の光に輝かせてくださる」と言われています。これは、主イエスがヨハネ福音書8章12節で「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と語られたことにつながります。イエス・キリストの贖いの業によって、私たちの魂が滅びから呼び戻され、主イエスによって命の光に輝かせてくださるということなのです。

 

 私たちも、聖霊を通して日々神の御言葉を受け、命の光に輝くようにと招かれる主イエスの御前に絶えず謙り、導きに従って歩ませていただきましょう。

 

 主よ、エリフの言うように、夢や幻、また苦難を通して語られる神のみ言葉に耳を傾けることができるでしょうか。自分の意に沿わないものを受け入れるのは、決して容易いことではありません。常に神を求め、その御心に従いたいという心を与えてください。その思いをもって、告げられる御言葉に耳を傾けさせてください。すでに、御子キリストが私たちのために、私たちに代わって、代償を支払ってくださいました。その恵みを感謝しつつ、聴いたところに従って、主の御業に励むものとしてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「人が神に対してこう言ったとする。『わたしは罰を受けました。もう悪いことはいたしません。わたしには見えないことを、示してください。わたしは不正を行いましたが、もういたしません。』」 ヨブ記34章31,32節

 

 エリフはヨブの応答を待たず、2回目の弁論に入ります。既に3人の友に向かって語り尽くしたヨブは(31章40節)、エリフに答えるつもりもないのでしょう。

 

 「知恵ある者」(2節)、「分別ある者」(10節)というのは、4節の「わたしたち」という言葉から、エリフがエリファズらヨブの友人たちと共同戦線を張ってヨブに相対するための呼びかけの言葉でしょう。32章では、彼らのふがいなさへの腹立ちを示していたので、この呼びかけは、社交辞令というところでしょうか。

 

 5,6節にヨブの「わたしは正しい。だが神は、この主張を退けられる。わたしは正しいのに、嘘つきとされ、罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた」という主張を取り上げ、それを「水に代えて嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む」(7,8節)ものと結論します。

 

 ただ、9節で「『神に喜ばれようとしても、何の益もない』と彼は言っている」と、その根拠を示していますが、ヨブ自身は、神に逆らう者らを観察した結果を21章7節以下に提示し、「なぜ、全能者に仕えなければならないのか。神に祈ってなんになるのか」(同15節)という彼らの発言を取り上げた後、「神に逆らう者の考えはわたしから遠い」(同16節)と、はっきり否定していました。

 

 10節から、自分の立ち位置を明らかにして、ヨブとの対論に備えます。それは①「神には過ちなど、決してない」(10節)=神は正しい、②「神は人間の行いに従って報いる」(11節)=神は公平、という伝統的な信仰による立場であり、これは確かに、エリファズらと同じ土俵に立っているといってよいでしょう。

 

 16節以下、そのような自分の立ち場からヨブに、「正義を憎む者が統治できようか。正しく、また、力強いお方をあなたは罪に定めるのか」(17節)と厳しく問いかけます。そのことに関して、ヨブも「神より正しいと主張できる人間があろうか。神と論争することを望んだとしても、千に一つの答えも得られないだろう」(9章2,3節)と言い、神を罪に定めることなどできはしないと語っていました。

 

 エリフは、「神は人の歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ておられる」(21節)と語ります。22節以下との関連で、これは、隠れて悪を行っても神が見ているという警告で、因果応報の原則が示されています。この原則に基づき、ヨブの不幸は、彼の悪がその原因と結論されるわけです。

 

 冒頭の言葉(31,32節)は、原文が不明瞭で、様々な解釈が成り立ちます。新共同訳は、これをヨブの悔い改めの言葉と解釈し、エリフがヨブにこのように告白するようにと促している言葉になっています。

 

 また、口語訳は「わたしは罪を犯さないのに、懲らしめられた」と訳して、自分の無実を告げ、自分は懲らしめられる理由が分からないから、悪いことをしたというなら、それを示してほしいと訴える言葉としています。

 

 ATDという註解書は、この言葉を神がヨブに告げる言葉と解釈して、神が人に対して、「わたしは悪いことをしました。もういたしません」と謝罪し、更生を誓う言葉を告げているように訳して、エリフがヨブに、神があなたの前にそのようなことをするだろうかと問う言葉という註解をしています。原文の直訳では難しい読み方ですが、前後の文脈から、この読み方は、筋が通っています。

 

 当然、この問いに対する答えは、神がヨブに謝罪されたり、悔い改めをヨブに告げるなどということは、あり得ないということになります。だから、ヨブは自分が正しいのに神に不当に懲らしめられているというのは、間違いだという論法で、だから、「ヨブはよく分かって話しているのではない。その言葉は思慮にかけている」(35節)というわけです。

 

 36節の「彼を徹底的に試すべきだ」というのは、そのように悔い改めようとしないヨブには、さらに苦難が続くということ、そしてまた、彼がどこまで神に背き、悪を行っているのか、さらに調べるべきだと言っているようです。

 

 こうして、エリフが確かにエリファズらと同じ立場に立ち、同じようにヨブの言葉を正しく聞くことができないまま、自分の立場に基づいて判断を下すという過ちに陥っています。

 

 私は小さい頃から、お天道様が見ているよ、お見通しだよと、周囲の人から何度言われたか分りません。それほどよい子ではなかったからです。だから、何度周囲の人々に、冒頭の言葉のように、「ごめんなさい、もうやりません」といったか分かりません。そう言いながら、「神様、今度はバレませんように」と罰当たりなことを願いつつ、またやるという悪い子でした。

 

 確かに、神のまなざしには、いわゆる悪を見逃さないという側面があることを否定はしませんが、しかし、私たちに注がれている神のまなざしは、何か悪事を働いているのではないか、変なことを考えているのではないかと、私たちの罪を暴こうとするものではありません。

 

 むしろ、神は私たちが悪い者であること、善いことを考えない者であることを、先刻ご承知です。神はノアの洪水の後、「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ」(創世記8章21節)と言われています。私たちをお裁きになるつもりなら、そのために見張っている必要などないわけです。

 

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し」(イザヤ書43章3節)ているという言葉について、イスラエルの民であれ、私たちであれ、私たち人間の側に神を喜ばせるよいものがあって、それで「価高く、貴く」という評価になるのではありません。神は、私たちが何者であっても、私たちを心に留め、その愛をもって「価高く、貴い」者として見ていてくださるのです。

 

 そして、罪の呪い、裁きにおののく私たちに、「恐れるな」と語りかけられました。そして、私たちの罪の贖いのため、代償としてご自分の独り子を差し出されたのです。そのようにして私たちの罪を赦し、永遠の命の恵みに入れてくださる主は、私たちを助けて足がよろめかないようにし、眠ることなく、まどろむことなく、私たちを見守っていてくださるのです(詩編121編3,4節)。

 

 私たちを愛してやまない主なる神が、私たちの歩む道に目を注ぎ、その一歩一歩を見ていてくださるというのは、何と幸いなことでしょうか。心安らぐことでしょうか。絶えず主に信頼し、感謝と喜びをもって主の御声に耳を傾けましょう。御霊の導きに従いましょう。

 

 天地を創られた主よ、あなたが私たちの歩みに目を注ぎ、その一歩一歩を見ていてくださることを、心から感謝致します。私たちの足がよろめかないように、足を滑らせないように、見守っていてください。すべての災いを遠ざけて、私たちの魂を見守ってくださいますように。特に、国がその歩みを誤らないように、正しい道に導いてください。全世界に主の平和と恵みに満ち溢れますように。 アーメン

 

 

「しかし、だれも言わない、『どこにいますのか、わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方は』と。」 ヨブ記35章10,11節

 

 35章は、エリフの三回目の弁論です。エリフは再度、「神はわたしを正しいとしてくださるはずだ」(2節)というヨブの発言を問題にし、さらに3節で「わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるか」と言います。これは34章9節の「神に喜ばれようとしても何の益もない」とヨブが言っていたとした発言を、悪意をもって変形したような言葉です。

 

 3節の原文は難解です。口語訳は「あなたは言っている。『何があなたの役に立つのでしょうか。私が罪を犯さないと、どんな利益がありましょうか』と」。新改訳は「またあなたは言う。『わたしが過ちを犯したとしても、あなたに何の利益があり、わたしにどれほどの得があるのか。』」。岩波訳は「まことに、あなたは言う、『いったい、私に何か益するのか、私が罪を離れても、何の得になるのか」と訳しています。

 

 2節、34章9節との関連で考えると、岩波訳のように訳すのがよいのではないかと思います。勿論、ヨブがこういう発言をしているということではありません。ヨブが自分の潔白を主張して、悔い改めようとしないのは、罪を離れても何の得にもならないから、そこから離れないと言っているようなものだと、エリフがそう考えたということでしょう。

 

 5節から8節まで、人の言葉と行いで神に影響を与えることはできないと言っていますが、これは、22章2~4節のエリファズの言葉を展開したものです。このことについては、ヨブも7章20節で「人を見張っている方よ、わたしが過ちを犯したとしても、あなたにとってそれが何だというのでしょう」といって、神の超越性に訴えて、苦しみから解放してくださるように願っていました。

 

 勿論、神が人の世界をはるかに高いところにおられて、人の罪でそれを害したり、人の善い行いで神に利することはできないからといって、不道徳な生活をしてよいということにはなりません。ただ、自分の道徳的生活をもって神に働きかけ、そのアドバンテージで自分の願いをかなえてもらうことなどはできないということです。

 

 9節以下では、ヨブの叫び、求めに神がお答えにならないことについて、取り上げています。ヨブは30章20節で「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない」と言っていました。

 

 エリフは、「抑圧が激しくなれば人は叫びを上げ、権力者の腕にひしがれて、助けを求める」(9節)と、時の権力者による抑圧で人々は叫び声を上げるという一般論を述べ、けれども、冒頭の言葉(10節)のとおり「どこにいますのか、わたしの造り主なる神」とその苦難の中で謙遜に神を求めようとしないと言います。

 

 

 人が叫び声を上げて助けを求めながら、それが得られないのは、神を尋ね求めないからで(10節)、それは「悪者が高慢にふるまう」(12節)ことだと結論づけています。苦しみの原因が何であれ、ヨブに求められるのは、自分にはこのような苦しみに遭う理由が分からないということではなく、「わたしの造り主なる神はどこにおられますか」と謙遜に尋ね求めることだというのです

 

 そして、「あなたは神を見ることができないと言うが、あなたの訴えは御前にある。あなたは神を待つべきなのだ」(14節)と言います。ヨブが空しく口を開き、愚かなことを言い続けられるのは、神が裁きの時の到来を待っておられるからで(15,16節)、ただ沈黙しておられるわけではないこと、ゆえにそれも、神にふさわしい態度だというのです。

 

 あらためて、エリフは神について冒頭の言葉で「わたしの造り主なる神。夜、歌を与える方。地の獣によって教え、空の鳥によって知恵を授ける方」と紹介します。ヨブは自分が苦難から解放されないことで神の正しさを問題にしているけれども、神はご自分が創造された地の獣や空の鳥を通して、即ちどのようなことからでも、人を教え、知恵を与えることが出来ると示しているのです。

 

 エリフ自身が語っているように、ヨブの訴えは神の御前にあります(14節)。神はどんな言葉も受け止めてくださいます。だから、神のときを待つべきでしょう。それはしかし、未だ怒りの時が来ていないので、神がヨブの無駄口を無視し、聞き流しておられる(15,16節)などということではないのではないでしょうか。

 

 神はその訴えを無視しておられるのではなく、むしろヨブの傍らに寄り添い、思う存分その胸の内を語らせて、そのすべての思い、願いに静かに耳を傾けてくださっているのではないかと思います。

 

 もう一言、エリフは神について「夜、歌を与える方」と語りました。なぜ、夜に歌が与えられるのでしょうか。苦しみ、悩みで眠れない夜を過ごすことがあります。そうしたとき、深く孤独を味わうものです。けれども、そのときに、神に出会う経験をするのです。そして、そこで嘆きが歌に変えられるのです。

 

 詩編30編6節に「泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」という言葉がありました。また、同16編7節に「わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励まし、わたしの心を夜ごと諭してくださいます」と記されています。悲しみの夜、光のない闇の中で、神の励まし、諭しを受けて主をほめたたえる、その歌をもって朝を迎えることができたということです。 

 

 フィリピ伝道の初めに無実というべき罪で鞭打たれ、獄舎につながれた使徒パウロと従者シラスが、真夜中ごろ、眠れずに恨み言を言っていたというのではなく、賛美の歌をうたって、神に祈りました(使徒言行録16章25節)。

 

 そうしたことが、二人の監視を命じられていた看守とその家族の救いにつながりました(同31節以下、35節)。それはまさに、苦難の中に共にいてくださり、歌を授けてくださる神の導きだったわけです。

 

 神は、私たちの苦しく辛い状況を、遠く離れたところから見下ろしておられるお方ではなく、私たちに傍らに来て、そして私たちに代わってそれを背負い、私たちを癒してくださるお方なのです。

 

 「夜、歌を与える方」に向かい、心から賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の実を絶えず献げましょう。

 

 主よ、あなたは、泣きながら夜を過ごす人にも、喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださるお方です。私たちの嘆きを踊りに変え、荒布を脱がせ、喜びを帯としてくださいます。悲しむ者に深い慰めをお与えくださる主の恵みと平和が、今、助けを、解放を必要としている人々に、そして全世界に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。」 ヨブ記36章15節

 

 36,37章は、エリフの最終弁論です。

 

 3節に「遠くまで及ぶわたしの考えを述べて、わたしの造り主が正しいということを示そう」とあります。「遠くまで及ぶわたしの考え」は、自分の知識や思索の広さを示す表現のようです。神の導きによって、遠く神にまで及ぶほどに広い知識を持っているので、そこから、神の正しさについて、ヨブに告げ知らせようという解釈でしょう。

 

 口語訳、新改訳は「遠くからわが知識をとり」、「遠くから私の意見を持って来て」という訳文で、神からその知識を得たという解釈を示しています。原文の「メイ・ラーホーク」は、口語訳などのように「遠くから」と訳すほうが正しいように見えます。

 

 一方、岩波訳は「遠くから」を「はるか昔から」としています。その注釈には「字義通りには、『遠くからのもの』。先祖から受け継がれてきた知恵であることを主張する意図を持つ」と記されています。

 

 「考え」(デイア)は32章で、霊感によって得た「知識」として示されていました。4節に「まことにわたしの言うことに偽りはない。完全な知識を持つ方をあなたに示そう」と告げます。完全な知識を持つ方とは、神ということです。「知識」(デイアー)は「考え」(デイア)の女性形です。この言葉遣いで、エリフの霊感が、その完全な知識を持つ方からのものと告げているようです。

 

 そして今エリフは、完全な知識をお持ちの方の正しさを、神に代わって証明しようとしているのです。26節で「まことに神は偉大、神を知ることはできず、その齢を数えることもできない」と言いながら、造り主なる神の正しさを証明するというのも、自分の霊感に自信を持っての発言で、ヨブには到底獲得できない知識を披瀝するということでしょう。

 

 しかしながら、それでは神の霊感を受けて、その御言葉を語るというところから大きく外れ、自分の方がヨブや三人の友らよりも広く豊富な知識を持っていると傲慢に自慢するというものに、成り下がってしまっています。

 

 そうであるなら、ヨブが「神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか」(13章8節)と友らを批判した言葉が、彼の発言に対する予めの応答になっています。

 

 5節以下、神は公正に裁きをなされるので(6,7節)、苦難はその罪の重さを指し示し(8,9節)、悪い行いを改めるようにという警告であると告げ(10節)、その諭しに聞き従えば幸いが、耳を傾けなければ苦悩のうちに死を迎えることになるといいます(11,12節)。 

 

 この文脈で語られる冒頭の言葉(15節)は、貧苦や苦悩は、その人に与えられる悪い行いをやめるようにという警告であり、また神の御言葉に耳を傾け、従うようにという勧めです。

 

 17節に「罪人の受ける刑に服するなら」、つまり神の裁きを受け入れるならと言われているので、悪い行いを改めるとは、ヨブの場合、潔白を訴え続けるのをやめることを指しているでしょう。そうすれば、彼の受けた貧苦は有効に機能し、そこから救われ、耳が開かれると言うのです。

 

 このことは、ヨブの友エリファズが5章17節以下に「見よ、幸いなのは、神の懲らしめを受ける人」と語って、ヨブに悔い改めを促していました。それに納得できなくて、議論を繰り返し、そのような理由で苦しみを受ける謂われはないと訴えていたのを見ていたはずですから、ヨブがエリフの言葉にどのように反応するか、聞くまでもないというところでしょう。

 

 ただ、エリフの意図、前後の文脈を離れて、素直に冒頭の言葉を読むと、別のメッセージが聞こえてきます。

 

 当然のことながら、貧しい人、苦悩の中にいる人を救い出すのは神ご自身であって、貧苦や苦悩がその人を救うのではありません。しかし、人は貧苦や苦悩をとおして、新たな道を見出し、かつてなかった喜びを味わうことがあります。貧苦や苦悩が神の御声に耳を開く契機となることがあるのです。

 

 勿論、苦悩を経験しさえすれば、誰もが自動的に神と出会い、その恵みを味わうことが出来るというわけではありません。卑屈になって殻に閉じこもる人もいるでしょう。周りに八つ当たりする人もいるでしょう。自暴自棄になり、取り返しのつかないことをしてしまうかも知れません。

 

 その一方で、貧苦や苦悩などは、自分の限界を教えてくれます。それによって謙遜を学びます。そしてそこから大切なことを学ぶことが出来るようにもなります。詩編119編で「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました」(同71節)と語られています。

 

 また、「わたしは甚だしく卑しめられています。主よ、御言葉のとおり、命を得させてください」(同107節)、「苦難と苦悩がわたしにふりかかっていますが、あなたの戒めはわたしの楽しみです」(同143節)と謳われていて、苦難が神の御言葉に心を向けさせ、それが慰めとなり、励ましとなっているわけです。

 

 神の言葉が貧苦と苦悩の中にいる人を慰めるのは、御子イエス・キリストを十字架につけることよって、神ご自身が自ら苦悩を味わっておられるからです。

 

       「苦しまなかったら」

    もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。

    もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛はあらわれなかった。

    多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。

 

 これは、瞬きの詩人といわれた水野源三さんの詩です(水野源三『わが恵み汝に足れり』アシュラムセンター刊より)。

 

 水野源三さんは、小学校4年生のときに患った赤痢の高熱が原因で脳膜炎を起し、首から下の神経が麻痺して、体を動かすことも、声を出すことも出来なくなりました。そんな源三さんが、お母さんと二人三脚で編み出した自分の表現法、それが瞬きでつづる詩や短歌、俳句です。

 

 源三さんはこうした苦しみを通して神と出会い、その結果、出会いの糸口となった苦難を神から賜った恵みと考えるようになられたのです。神との出会いに導くために苦しみを与えられたとは思いませんが、主なる神があらゆる出来事を通して私たちを最善に導いてくださると信頼することの出来る方は、本当に幸いです。

 

 70年前、広島、長崎に投下された爆弾で被爆した方々やそのご家族の苦しみ、未だに被爆者として国に認定されていない方があるという報道もあり、そのやりきれなさはどれほどだろうかと思います。

 

 また、東日本大震災の被災者、就中、福島第一原発事故の影響で、いまだに避難生活を余儀なくされている方々に、心から主の慰めと平安を祈り、そして、これ以上被爆者を生まないよう、核の管理の徹底を祈り願いましょう。

 

 主よ、あなたは憐れな人を守り、弱り果てた人を救ってくださいます。私たちの魂を死から、私たちの目を涙から、私たちの足を滅ぼそうとする者から、助け出してくださいました。今、不条理なことで悩み苦しみ続けておられる方々に、主の恵みと平安が豊かにありますように。すべての人々に神の愛が伝えられますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「全能者を見だすことはわたしたちにはできない。神は優れた力をもって治めておられる。憐れみ深い人を苦しめることはなさらない。それゆえ、人は神を畏れ敬う。ひとの知恵はすべて顧みるに値しない。」 ヨブ記37章23,24節

 

 36章26節から、神の偉大さをたたえる賛美が記されています。神は、雨を降らせ(36章27,28節)、雷鳴をとどろかせ(同29節)、稲光を走らせます(同32節)。37章もそのイメージを引き継ぎ、稲妻(3節)、雷鳴(4節)、そして、雨に加えて雪を降らせられます(6節)。

 

 2節の「聞け、神の御声のとどろきを、その口から出る響きを」は、雷鳴を神の御声とみなした言葉で、詩編18編4節、29編3,4,5節にも、同様の賛美がなされています。それは、神が創造の御業をなされる驚くべきとどろきで、人がその内容を知ることはないと言います(5節)。

 

 雪や強い雨は、人の手の業を封じ込めるためのもので(7節)、「獣は隠れがに入り、巣に伏す」(8節)というのは、野生の獣が手なずけられたというような表現で、神に逆らうことをやめさせる神の力を示すものということでしょう。これは、神に向かって自分の思いをぶつけているヨブが、獣のように爪を出し、牙をむいているように見えるということを示しているようです。

 

 「嵐」(9節)は、38章1節で神の臨在を示すものとなっていますが、雷を含め、強い雨風など、「懲らしめのためにも、大地のためにも、そして恵みを与えるためにも、神はこれを行わせられる」(13節)と、自然の力が神の裁き、また神の恵みとして示されます。

 

 この論法によれば、ヨブの羊と羊飼いが天からの火で焼け死に(1章16節)、またヨブの子どもたちが、四方から吹きつけた大風で家が倒れて命を落とした(同19節)というのは、神の裁き、怒りが、自然の力として現れたということになります。しかし、そのような論立てを、ヨブはおとなしく黙って聞いてはいないだろうと想像します。

 

 14節以下はエリフの最終弁論で、ヨブに対する最後の勧めが語られています。それは、冒頭の言葉(23,24節)に示されているとおり、人が神を理解することは不可能だというものです。優れた力をもって治めておられる全能者に対する、人間としてのふさわしい姿勢は、神を畏れ敬うことで、挑戦的に神に物申すことは許されないというのです。

 

 確かに、人の知恵、知識には限界があります。自分の知恵で、神を見出すことはできません。相手が神でなくても、自分自身のことさえ、知り尽くしているわけではありません。他人のことをどれだけ理解していることでしょう。ヨブの三人の友も、そして長い弁論をなしたエリフも、ヨブの訴えに対して、全く理解を示すことができませんでした。

 

 私たちは、自分に都合のよいことは神の恵みとして受け取りますが、不都合なことを同様に考えることは困難です。6節以下で大雪、大雨などの自然現象も、神の御心によって司られていると教えられますが、台風の被害や大地震による災害などをどのように考えればよいのでしょうか。自分や家族が天災などで被害を受けたとき、神の裁きだと言われて、それを素直に受け取れるでしょうか。

 

 確かに因果応報というのは、物事をわきまえる一つの知恵ですが、すべてのことにそれを当てはめるのは、無理があります。全能の神が、一つの法則に基づいてしか行動できないと言うことはないでしょう。様々な方法で語られるということであれば(33章14節)、行動原理も様々、その表現も様々でしょう。 

 

 時折、苦難を恵みと考えることが出来た人々に出会います。水野源三さんもそうでした。三浦綾子さんや星野富弘さんも、そうした人々の中の一人です。私たちの目には神様の御姿は見えませんが、このような人々がその苦しみの中で神を信じて変えられたという話を伺うと、確かに神がおられるのではないかと思います。

 

 なぜ、彼らがそのように苦しまなければならなかったのか、その理由はよく分かりませんが、源三さんの詩集や、富弘さんの詩画集などが、多くの人々に感動を与え、慰めや励ましとなっていることを考えると、苦しみの中にあった彼らに、確かに神が私たちの知り得ない方法で語りかけ、生きる力、希望を与えたのだと思わざるを得ません。

 

 47年の生涯を駆け抜けられた現代のヨブ、水野源三さんが神様に対して心を開くようになるのは、しかし、一朝一夕のことではありませんでした。源三さんのことを知った一人の牧師が、一冊の聖書を置いていったのが、そのきっかけです。源三さんが12歳の時です。

 

 その頃、源三さんを自分たちの宗教に勧誘しようとする訪問者が後を絶たず、それにウンザリさせられていたので、家族も最初は拒絶していたといいます。しかし、誠実に訪問し、家族の話に耳を傾け、福音を語る牧師に、それまでとは違うものを感じて、源三さんのお母さんが牧師に、源三さんの話し相手になってくれるよう、頼まれたそうです。

 

 源三さんを信仰に導いたのは、坂城栄光教会を築かれた宮尾隆邦という牧師ですが、当時、小学校の分校教師をしながら伝道しておられました。長野県の田舎のあばら屋に住み、大変苦労をしながら伝道されていたそうです。それは、宮尾先生に、郷里伝道という使命が与えられていたからこその働きでした。

 

 その上、源三さんと出会ったときには、既に進行性筋萎縮症を発症しておられ、杖をつきながら源三さんを訪ねておられたそうです。聖書を置いて行った宮尾先生は体の不自由な人だと母親から聞かされた源三さんは、初め、暗い人かと思っていたので、先生の朗らかな笑い声に驚いたそうです。

 

 様々な宗教の勧誘にうんざりしていた源三さんでしたが、宮尾先生の誠実なお人柄とその信仰、そして何より、宮尾先生を通して大きな業を成し遂げようとされる神ご自身の御業によって、源三さんは13歳でクリスチャンとなられたのです。

 

 私たちが信仰に導かれたのも、神の不思議な導きがあったからであり、そのために様々な出会いや導きを与えてくださったからです。そしてまた、主イエスを信じる私たちを通して、御言葉を告げ知らせ、御業をなさせてくださいます。そのすべては、応報の法則によらない、神の深い恵み、憐れみによることです。

 

 恵みに生かされている者として、神の恵みの証人として用いられる器とならせていただきましょう。そのために、聖霊の満たしと導きを祈りましょう。 

 

 主よ、どうぞ私たちをあなたの聖霊で満たし、主の御業のために用いてください。用い易い器となるために整えてください。そのための試練を耐え忍ばせてください。ひつような知恵と力を授けてください。御言葉に耳が開かれますように。主の御業を見ることができますように。そうして、御名をあがめさせてください。 アーメン!

 

 

「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。」 ヨブ記38章2節

 

 1節に、「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった」と記されています。主なる神が、雷鳴や山鳴りの中からモーセに語られ(出エジプト記19章16節以下)、激しい風と火の後エリヤに語られたように(列王記上19章11節以下)、嵐の中から、ヨブにお答えになりました。即ち、このとき、嵐が主の顕現されたしるしでした。

 

 ヨブは、このときをどれだけ待ち侘びたことでしょう。ようやく、直接に神と語り合える、念願のときが巡って来たのです。ヨブは、なぜ自分が苦難を味わわなければならなかったのか、神の不当なやり方を問いつめるつもりでした。神から何を言われても、自分の正当性を徹底して主張するつもりだったのです(13章22,23節、14章15節、31章35節以下など)。

 

 けれども、その出会いは、ヨブが望んでいたようには展開しませんでした。神はそのようなヨブの問いに対して、全くお答えにはなりませんでした。むしろ、冒頭の言葉(2節)のとおり、ヨブに「お前は何者か」と問います。ヨブは神を被告席に立たせて、神のなさった仕打ちの不当性を訴えるつもりだったようですが、逆にヨブが被告席に座らされ、質問に答えさせられます。

 

 モーセが、柴の燃える炎の中から神に語りかけられ(出エジプト記3章2,4節)、イスラエルの指導者として民をエジプトから連れ出すという使命が与えられたとき(同7節以下、10節)、「わたしは何者でしょう」と答えています。自分が神の前に立ち、その使命を果たすことができる人物だとは考えられないという発言です。

 

 神はヨブに「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(3節)といって、「何者か」の返答を求められます。それは、神との関係において、ヨブが何者なのかを神に知らせるというより、ヨブが自分自身について再認識するための、最も大切な問いとして、初めに語られています。

 

 神はこれまでのヨブの弁論を、「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」(2節)と、切って捨てるように語られました。「経綸」(エーツァー)は、「計画、助言、構想、目的」という意味の言葉で、12章13節では「思慮」と訳されています。

 

 その箇所でヨブは「神と共に知恵と力はあり、神と共に思慮分別もある」と言い、その神の思慮、神の計画は、「暗黒の深い底をあらわにし、死の闇を光に引き出され」(同22節)、「この地の民の頭たちを混乱に陥れ、道もなく茫漠としたさかいをさまよわせられる」(同24節)というものだと語っていました。

 

 このような言葉に異議を唱えるために、「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」と仰ったわけです。そう言われた上で、お前は何者か、男らしく答えよと問われても、いったいどのように返答することができるでしょう。

 

 そうして、「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(4節)といって質問を始められます。この問いは、イザヤ書40章12節以下の預言の言葉に似ています。神の創造の御業の秘密を、人がどうして知ることが出来るでしょう。このような質問に、誰が答えることが出来るでしょうか。

 

 12節以下に、「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(12節)といって、朝の光が闇を追い払うように、神に逆らう者を地上から払い落とすというイメージが語られ(13,14節)、続く16節から、深淵の底(16節)、死の闇の門(17節)という深い暗闇の世界を知っているかと問います(18節)。

 

 そして19節以下で、光と闇との関係について考えさせます。20節を直訳すると「あなたはそれを領地まで連れて行けるか、また、あなたはそれの家の道を知っているか」となり、そこに「光」、「暗黒」という言葉はありません。これは、18節の光と暗黒の順をそのまま19節に当てはめるという、訳者による解釈です。

 

 19節の直訳、「光の住まいに至る道はどれか、暗黒の場所はどこか」と20節の「あなたはそれを領地まで連れて行けるか、また、あなたはそれの家の道を知っているか」とをよく見ると、19aの「住まい」と20bの「家」、同じく「道」という言葉、それに対して、19bの「場所」と20aの「領地」という、いわゆる交差配列になっていることが分かります。

 

 ということは、光と暗黒の順が20節では交差して、暗黒と光という順になると考えるべきでしょう。とすると、20節は「暗黒をその境にまで連れて行けるか。光の住みかに至る道を知っているか」という訳語になります。

 

 即ち、「光」(19aと20b)が「暗黒」(19bと20a)を囲んでいる形になります。「暗黒をその境(ゲブール:「地境、領地、縄張り」の意)に連れて行く」というのは、闇に覆われていた世界に神が「光あれ」と命じられて、昼と夜ができたという創世記1章3~5節の記事で、光によって暗黒の場所が定められたことと解することができます。

 

 さらに、12節から21節までの、光と暗黒のテーマを取り扱っているこの箇所で、12節の「一生に一度でも」は、「あなたの日から」(ミー・ヤーメイ・ハー)という言葉です。そして、21節の「人生の日数」という言葉も、同じ「あなたの日から」という言葉です。つまり、「あなたの日から=あなたの人生は」というのが、この箇所の枠組みになっているのです。

 

 つまり、この箇所において、ヨブの人生には光と暗黒というものがあること、しかし、暗黒は光に囲まれ、その場所が定められているということを示すかたちになっているわけです。

 

 初めは「知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは」(2節)と、ヨブの高ぶりともいうべき罪を指弾されるような、「嵐の中から」語りかける神のきわめて厳しい表情を思い浮かべていたのですが、このように読んでいるうちに、なんだか、優しいおじいさんが可愛い孫に笑顔を見せながら語りかけているような、そんな慈しみを感じてきました。

 

 もしも神がヨブを断罪するつもりであれば、「男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えて見よ」(3節)と仰るまでもなく、たとえば、あのウザを打たれたように(サムエル記下6章7節参照)、一瞬にしてヨブを打たれたことでしょう。

 

 しかしながら、神はそうなさいませんでした。神はここでヨブに、神の経綸を知ること、悟ることを真に求められたのだと思います。そして、ヨブの誤った自信、自分を義とする思いを砕きつつ、単なる被造物としてでなく、神の語りかけに応答する者として、さらに深く神に信頼する信仰の心を、ヨブに授けてくださろうとしているのです。

 

 「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされたのです。この秘められた計画が異邦人にとってどれほど栄光に満ちたものであるかを、神は彼らに知らせようとされました。その計画とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(コロサイ書1章26,27節)と、パウロが記しています。

 

 神の深い計画を人がすべて知ることが出来るはずもありませんが、秘められた計画が明らかにされるのは、神が御自分の創造された世界、そこに住む私たちを愛されるがゆえのものです。

 

 だからこそ、秘められた計画が栄光に満ちたものであることを知らせようとされるのです。その最も大切な栄光に満ちた計画は、神が私たちの内に御子キリストを住まわせるというものでした。

 

 私たちの方からいえば、それは、私たちがキリストを信じて受け入れるということです。私たちは、キリストを信じる信仰によって義とされ、すべての罪が赦され、永遠の命が授けられ、神の子となる特権が与えられました。

 

 主に信頼し、その御言葉に聴き従いましょう。

 

 主よ、御子の贖いの業により、御救いに与りました。あなたに喜ばれる信仰の器となることが出来るように、日々私たちを御言葉と御霊によって整えてください。主の恵みと平安が私たちの上に常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「神が(駝鳥に)知恵を貸し与えず、分別を分け与えなかったからだ。」 ヨブ記39章17節

 

 38章39節から、神はヨブの目を、天地宇宙から転じて地上の動物、空の鳥たちに向けさせます。登場するのは獅子(38章39,40節)、烏(同41節)、山羊(1節a)、鹿(1節b以下)、野ろば(5節以下)、野牛(9節以下)、駝鳥(13節以下)、馬(19節以下)、鷹(26節)、鷲(27節以下)です。

 

 馬以外はすべて野生のものであり、馬は軍馬で、おとなしさとは無縁のものとして描かれています。これら鳥獣の生態について、殆ど何も知りません。ここに記されているのが、科学的に正確な描写であるのかどうかも、よく分かりません。神が造られた動物で、その名を知っている動物であっても、分からないことだらけです。

 

 獅子と烏についての描写(38章39~41節)と鷹と鷲についての描写(39章26~30節)、即ち猛獣と猛禽の営巣、子育てに関する表現でこの箇所を括っており、それは、人に容易く飼い慣らされず、むしろ危害を加える力のある爪や牙、嘴に恐れと不安を感じるというものです。

 

 創世記1章26~30節には、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配するものとして、人が創造されたことが記されています。その支配権は、神のかたちに造られたところにあると示されています。神は今、生物の支配者なる人間の代表者ヨブに対して、この目録を示しつつ、獅子や烏、鷹、鷲などを治めることができるのかと挑戦しておられるかのようです。

 

 もっとも、創世記1章30節に「地の獣、空の鳥、地を這うものなど、すべて命あるものにはあらゆる青草を食べさせよう」と記されており、その段階では、すべてのものがベジタリアンで、お互いに危険な存在ではなかったことが示されます。

 

 肉食が許されるのは同9章3節で、箱舟を出たノアに対して神が「動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。わたしは、これらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える」と言われました。そのときから動物が人を恐れるようになり、また、反撃するようになったということでしょう。

 

 イザヤ書11章6~9節に、肉食獣と草食動物、人と動物の関係が、創造当初の平和な関係に戻ったかのような預言が記されています。それは、平和の王に導かれた終末的な世界の状況でしょう。そのとき、あらためて人が彼らを治める支配者となるということなのでしょう。

 

 それはしかし、力による支配、恐れと恐怖をもたらす支配などではありません。「小さい子供がそれらを導く」(同6節)という、支配という言葉が似合わないほど穏やかな、やさしい支配です。

 

 ところで、ここに記されている動物の中で、駝鳥の評価が最低です。鳥なのに空は飛べませんし(13節)、卵は産みっぱなし(14,15節)、雛を守ろうともしない(16節)というように、ひどい言われようです。その理由について、冒頭の言葉(17節)のとおり、神が駝鳥に知恵、分別を与えなかったからだと書かれております。

 

 それでも神は、駝鳥を見捨てられているわけではありません。駝鳥にも神の特別な配慮があるのです。駝鳥は強靱な脚力で、馬やその乗り手(人間)をあざ笑うかのような走りが出来ます。

 

 人間は、神のかたちに創造されており(創世記1章26節以下)、被造物の中の最高傑作だと言われます。だからといって、ここで評価の最も低い駝鳥を、自分の思い通りに動かすことなど、容易に出来るものではありません。

 

 神は何故、駝鳥のような鳥を創られたのでしょう。それは、神にしか分かりません。誰もその経綸を悟ることは出来ません。神に代わることは出来ないのです。

 

 以前、駝鳥の卵を使って鳥インフルエンザウイルス(H7N9型)の抗体を作ったというニュースを見ました。ウイルスを不活化する抗体をダチョウの卵から精製することに、京都府立大学生命環境科学研究科の塚本康浩教授のグループが成功し、実用販売されています。

 

 何でも、駝鳥は傷の治りがきわめて早く、灼熱の砂漠で生きながら寿命が60年もあります。その驚異的な生命力に着目した塚本教授は、「すさまじい免疫力の持ち主で、抗体を作る力も強い」と見て研究し、卵から大量の抗体を取り出す技術を開発したそうです。

 

 その抗体をスプレーに入れて、マスクに吹き付けると、病原体から完全に防護してくれるというものでした。駝鳥の卵は病原体への抵抗力が強く、その上、鶏の卵の20~25倍の大きさがあり、卵1個からマスク8万枚分の抗体がとれるそうです。また、卵1個の抗体からインフルエンザ検査薬が2万人分作れるとも報道されていました。

 

 韓国で猛威を振るったmers(マーズ)の抗体を、駝鳥の卵を使って精製することに成功しました。現在、有効性、安全性を検証中だということですが、米国、韓国などにスプレー剤にして既に送られたのだそうです。エボラ出血熱のウイルスを不活性化する抗体の精製にも成功して、実用化されています。花粉症やアトピー性皮膚炎にも効果が期待されています。

 

 駝鳥は年間100個近い卵を産むそうで、しかも前述の通り、駝鳥の寿命は60年以上、産卵期間も40年ほどあることから、同質の抗体を長期間にわたって安定供給出来ることも強みということでした。また、肉は高タンパク低脂肪で健康志向で需要が高まり、世界各地に飼育農場が増加しているそうです。

 

 勿論、脅威のウイルス対策やメタボ対策という人間の健康保持のために、神が駝鳥を創造されたわけではないでしょう。とはいえ、駝鳥のお蔭で、私たち人間の命が守られるというのは、確かなことです。神が造られた被造物の多様さ、しかも、その一つ一つに注がれている配慮の細やかさには、目を見張るばかりです。

 

 神がヨブに創造の神秘を語られるのは、被造物一つ一つに込められている神の深い御心に気づかせるためでしょう。そして、それによって、ヨブの上にも神の特別な配慮があることを気づかせるためだったのではないでしょうか。

 

 慈しみ深い神に信頼し、すべてをその御手に委ねることの出来る者は幸いです。「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」(イザヤ書30章15節)と言われているとおりです。

 

 主よ、御名はいかに力強く、全地に満ちていることでしょう。その威光をたたえます。月も星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが私たちを御心に留めてくださるとは、人間は何者なのでしょう。測り知れない恵みに与っていることに感謝し、心を尽くしてその御愛を語り伝えます。全世界に主イエスの平和が豊かにありますように。 アーメン

 

 

「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。」 ヨブ記40章6節

 

 1,2節は、神の第一の発言の締めくくりです。2節の「引き下がるのか」(イッソール)と訳されているのは、4章3節で「諭す」(ヤーサル)という言葉の名詞形で「非難する者、欠点発見者」という言葉です。動詞の意味を加味して訳すと、「全能者と言い争うのは、教え諭す者か」という言葉になります。

 

 「責め立てる者」(モーキーアハ)は9章33節で「調停する者」と訳されていました。これはヨブが、神との間を調停、仲裁してくれることを期待した人のことです。動詞形の「ヤーカー」という言葉は、「裁く、責める、決定する」という意味です。

 

 ヨブは、本気で神と言い争うことができると考えていたのでしょうか。しかし、神の発言を聞いて、「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます」(4節)と答えています。ヨブの心は、神を畏れる思いで完全に満たされていることでしょう。

 

 7節から、神の第二の発言が記されます。そこで38章3節の言葉を再度繰り出し、続けて、「お前はわたしが定めたことを否定し、自分を無罪にするためにわたしを有罪とさえするのか」(8節)と問いかけられます。「定めたこと」は、「公正」(ミシュパート)と訳される言葉です。

 

 ヨブは27章2節で「わたしの権利を取り上げる神にかけて、わたしの魂を苦しめる全能者にかけて、わたしは誓う」と言っていましたが、「権利」と訳されているのが「ミシュパート」で、わたしのミシュパートを取り上げ、苦しめる全能者を告発していたのです。

 

 しかし、自分も神に対して同じことをしているとは、ヨブ自身、考えもしなかったことでしょう。そのように神を告発していたのは、ヨブが応報の原則によって「義」(ツェデク)や「公正」(ミシュパート)を考えていたからです。友らが、その原則に従って、ヨブに罪があるとしていたのを、ヨブは、自分は無実なのに苦難を受けるのは、神が公正ではないからだと批判する結果になっていたのです。

 

 それが、神の経綸を暗くすること(38章2節)、ヨブが無罪を主張するために神を有罪とすること(8節)と批判されているということは、応報の原則によって神の義を考えることはできないということを示しています。

 

 9節に「腕」という言葉があり、14節に「自分の右の手」という言葉があって、ヨブの力を示すものによって9~14節の段落を括っています。そして10~13節に、王権を象徴する装束を身に着け、王たる者にふさわしく行動することができるかとチャレンジしています。ヨブは、このチャレンジを受けて、神に代わり、奢り高ぶる者、神に逆らう者を排除することができるでしょうか。

 

 もしできれば、神はヨブを賞賛し(14節)、神にも劣らぬ者であること(9節)を認めようというのですが、ヨブならずとも、誰にもできることではありません。そもそも、奢り高ぶる者、神に逆らう者をすべてこの世から排除して、王国が成り立つでしょうか。上述の批判から、ヨブ自身でさえ、この世に留まることが許されないでしょう。

 

 これはしかし、神にしかできないと言いたいのではありません。神は、ご自分が支配するこの世界を、そのように暴力的な力で支配しようとはなさらない、ご自分に逆らう者を力で排除するという仕方で、この世を治められてはいないということです。そのことについて、38章39節~39章30節の箇所で、野生生物の支配について語るところで、既に語っておられました。

 

 あらためて、冒頭の言葉(6節)に目を留めてください。神は、第二の発言でも再び「嵐の中から」ヨブに語りかけられました(38章1節参照)。嵐の中で語りかける神のイメージは、モーセがシナイ山で十戒を受けた時、山全体が雷雲に包まれ、雷鳴がとどろいて、宿営していた民が震え上がったときのことを思い起こさせます(出エジプト19章参照)。

 

 また、ソロモンが神殿の奉献式において賛美を捧げたとき、そこに雲が満ちたことがあります(歴代誌下5章13節)。雲は、神の臨在のしるしでした。その雲が雷雲であれば、それは神の臨在を示しているだけでなく、許可なく神に近づくことを許さないというしるしでしょう。

 

 そのうえ、その雲が「嵐」をもたらすものならば、どうなるのでしょうか。嵐は、ヨブの長男の家を倒壊させて子どもたちのすべての命を奪いました(1章19節)。ヨブにとってそれは、大きな苦しみであり、また悲しみです。嵐が今ヨブに立ち向かっているということは、ヨブに対する神の裁きと考えてもよいでしょう。

 

 ヨブは苦しみをもたらした神に訴えて、答えを求めていたわけですが、耐え難い苦難を通して、苦難をもたらした嵐の中から神が語りかけておられることに、今ようやく気がついたと読むことも出来そうです(36章15節参照)。

 

 ヨブは、自分の正しさを神が認めてくれるようにと求めるあまり、むしろ、神から遠く離れることになってしまったことに気づかされたのです。そして、自分に厳しく、しかし慈しみをもって迫り、問われる神の言葉により、主が神であられること、また自分が神の被造物であるということを、再認識させられました。それはしかし、もう一度神の恵みに目を開かせることだったのです。

 

 モーセがシナイ山で十戒を授かったとき、山全体が激しく震え、モーセの語りかけに雷鳴をもって答えられるという恐るべき光景が展開されていたわけですが、モーセはそこで神と親しく語らい、40日40夜を飲まず食わずで過ごしました。飲食を忘れるほど、いえ、神と親しく交わることは、モーセにとって、私たちの理解を超えた真の食べ物であり、飲み物だったのです(ヨハネ4章32,34節、6章53節以下、55節)。

 

 詩編34編18~21節に「主は助けを求める人の叫びを聴き、苦難から常に彼らを助け出される。主は打ち砕かれた心に近くいまし、悔いる霊を救ってくださる。主に従う人には災いが重なるが、主はそのすべてから救い出し、骨の一本も損なわれることのないように、彼を守ってくださる」と詠われています。

 

 直接語りかけられた神の御前に、己の傲慢を思い知らされ、自己中心の罪を示されて平伏しているヨブにとって、神の御言葉は厳しくありますが、それは、ヨブの目を開いて悔い改めさせ、再び神との親密な交わりに導くものとなったわけです。

 

 2000年前のペンテコステの日、「突然、激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(使徒言行録2章2節)ということ、そして、「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話しだした」(同4節)という出来事があり、ペトロの説教を通して3000人もの入信者を獲得して(同41節)、エルサレムに教会が誕生致しました。

 

 「激しい風」は聖霊の到来を表わしており、そして、それまで権力の前に怯えていた使徒たちに神の力を与え、それによって宣教の働きが著しく伸展しました。「霊」は、ギリシア語(プネウマ)でもヘブライ語(ルーアッハ)でも、「風」とも訳される単語です。聖霊が激しく信徒たちの上に働きかけたということになります。

 

 十字架の前にひざまずき、聖霊に満たされ、喜びをもって従順に主に従う者としていただきましょう。そのために、約束の聖霊を求めて祈りましょう。聖霊の力を受けて、主の証人にならせていただきましょう。

 

 主よ、御前に謙り、様々な方法を持って語りかけられる御声に絶えず耳を傾けます。聖霊の助けと導きを求めます。私たちの耳を開いてください。日々上からの力に与り、頂いている恵み、平安、喜び、慰め、癒し、助けを周りの人々と分かち合うことが出来ますように。主の恵みと導きが私たちと共に常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「この地上に、彼を支配する者はいない。彼はおののきを知らぬものとして造られている。」 ヨブ記41章25節(口語訳:33節)

 

 主なる神はヨブに対し、大地や海、天体などの大自然や(38章1節以下)、雌獅子や烏などの動物について(38章39節以下)、その理解を尋ねたのに続き、3回目の弁論ではベヘモット(40章15節以下)とレビヤタン(同25節以下:口語訳は41章1節以下)について、問いかけました。41章には、引き続きレビヤタンを描写する表現が列挙されています。

 

 口語訳聖書では、ベヘモットもレビヤタンも実在の動物と考えて、ベヘモットを「河馬」、レビヤタンを「わに」と翻訳していましたが、新共同訳は原語の音をそのままカタカナ表記にして、陸と海の怪獣のような表現にしています。新改訳はその折衷案のように、ベヘモットは「河馬」、レビヤタンはそのままのカタカナ表記にしています。

 

 

 このように解釈は様々ですが、39章に実在の動物は取り上げられているので、ここは新共同訳聖書のように、陸と海の怪獣という神話的な表現と考える方がよいと思われます。特に「口からは火炎が吹き出し、火の粉が飛び散る。煮えたぎる鍋の勢いで、鼻から煙が吹き出る。喉は燃える炭火、口からは炎が吹き出る」(11~13節)は、実在の野生生物ではあり得ません。

 

 創世記3章に、蛇が善悪の知識の木の実をとって食べるように女性を唆し、神に背かせたと記されています。実在の蛇が人間のようにものを言うはずがありませんから、それは、悪魔サタンが蛇の姿を借りて人間を誘惑したのだと解釈されます。レビヤタンは、イザヤ書27章1節では蛇、海にいる竜とあり、まさに悪魔的な存在をさしていると考えることも出来ます。

 

 人は、自分の力で悪魔的な存在に立ち向かうことが出来るでしょうか。1節で「勝ち目があると思っても、落胆するだけだ」と言われ、17節には「彼が立ち上がれば神々もおののき、取り乱して逃げ惑う」と記されています。さらに、冒頭の言葉(25節)でははっきりと、「この地上に、彼を支配する者はいない」と断言されています。

 

 「支配する者」(モーシェル)は、「似たもの」という意味もあり、この言葉の動詞形(マーシャル)が30章19節で、「等しくなる」という意味で用いられています。この地上で彼に比べられる者はいない、彼のような者はいないという表現です。

 

 「地上に」(アル・アーファール)は、「塵の上に」という言葉です。上述の30章19節でヨブは「わたしは泥の中に投げ込まれ、塵(アーファール)芥に等しくなってしまった(マーシャル)」と語っていました。ここで「塵」とは、そこから造り出された人を意味しています。

 

 人の中に、レビヤタンに等しいもの、これに並び得る者はいない、むしろ、「奢り高ぶるものすべてを見下し、誇り高い獣すべての上に君臨している」(26節)と言われます。原語は、「誇り高い獣すべての王(メレク)である」となっています。レビヤタンがすべての生物の王であるかのような表現です。「奢り高ぶるもの」とはヨブに当てて用いられているようです。 

 

 ところで、ここで何故神は、レビヤタンを話題にしておられるのでしょうか。それは、神がレビヤタンを支配しておられること、御自分の思いのままにレビヤタンを用いることが出来るということを示しておられるのです。まさしく、人には出来ないことでも、神に出来ないことはないのです。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」(3節)と言われるとおりです。

 

 ヨブは、サタンにさんざん苦しめられました。そして、三人の友らと言い争い、自らの義を強く主張するあまり、神が間違っているとさえ、考えてしまいました。感情的になったヨブは、自分の内なるレビヤタンを治めることが出来なかったのです。

 

 主なる神は、ヨブの内にある高ぶりの芽、自己中心の苦い根があることを知らせるため(ヘブライ12章15節参照)、サタンを用いてヨブを試みることを許し(1章12節、2章6節)、改めて神の御前に謙り、主に信頼して御言葉に聴き従うように導かれたのではないでしょうか。

 

 主なる神は、御子イエス・キリストを人としてこの世に遣わされました。御子は、私たちの罪のために十字架にかかり、死んで葬られましたが、三日目に甦られました。それによって、罪と死の支配に打ち破り、罪に死んでいた私たちを命の支配のうちに移してくださいました。私たちの罪は赦され、神の子として生きることが出来るのです。それは、一方的な神の恵みであり、憐れみです。

 

 「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(ヘブライ書5章8~10節)。

 

 マルコ10章35節以下でヤコブとヨハネが主イエスに、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(同37節)と願いました。「栄光をお受けになるとき」は、主イエスが王になられるときという意味で用いられています。

 

 それに対して、「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」(同38節)と仰いました。ヨブと神との対話のようです(38章2節、42章1~6節)。さらに、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受けるバプテスマを受けることができるか」(マルコ10章38節)と尋ねられました。

 

 予め「できません」という答えを想定しての問いだと思いますが、しかし、二人は「できます」(同39節)と答えます。そして、主イエスも「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受けるバプテスマを受けることになる」(同39節)と肯定されました。

 

 その後、「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(同43,44節)と言われました。ここに、キリストによる支配が、ヤコブとヨハネが考えていたような、この世の王としての支配ではなく、また、レビヤタンのような暴力的力による支配でもなく、僕として皆に仕えるというものだと明らかにされています。

 

 主イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命をささげるために来たのである」(同45節)と言われました。主イエスに従う者たちは、神のかたちに造られたものであることを、皆に仕える僕となるという召しに答えることを通して、人々に証しする者となるよう、招かれているのです。

 

 自分の知恵知識、経験などで、そのようになれるわけではありません。私たちを招かれる主に信頼し、御霊の満たしと導きに与ってこそのことです。十字架の主を仰いでその御顔を拝し、御口をもって語られる御言葉一つ一つに真剣に耳を傾けましょう。常に私たちと共にいて、私たちのために執り成し、慰め励まして下さる主イエスの御言葉に従って歩みましょう。

 

 主よ、私たちは自分一人で立っているのではありません。常に主が共にいて、私たちを立たせてくださっています。御前に謙り、主により頼みつつ、御言葉に聴き従って歩ませてください。絶えず聖霊に満たし、主の御心を行う力をお与えください。全世界に主イエスの平和がありますように。 アーメン

 

 

「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」 ヨブ記42章5,6節

 

 2節以下に、ヨブの神に対する二度目の応答が記されています。38章、39章の神の言葉に対し、「わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます」(40章4節)とお詫びして、沈黙することを伝えました。

 

 しかしながら、主はそれで納得されなかったようで、「男らしく、腰に帯をせよ。お前に尋ねる。わたしに答えてみよ」(40章7節)と、二度目の発言をされました。ここまでのヨブ記の記述を見ると、発言者は相手の発言に対して異議を唱え、反論するという形態をとり続けていました。

 

 しかし、ヨブは38章2節を引用しながら、「そのとおりです。わたしには理解できず、わたしの知識を超えた驚くべき御業をあげつらっておりました」(3節)と、前の主なる神の発言を肯定し、それを自分の言葉で言い換えて賛同を表明しているのです。

 

 4節の「聞け、わたしが話す」という文句は、神の発言にそれを見出すことはできませんが、「お前に尋ねる、わたしに答えてみよ」との関連で、「男らしく、腰に帯をせよ」(38章3節、40章7節)を言い換えたものということになりそうです。神に答えるために、男らしくしろというのを、神に答えるために、まず、おとなしく神の言うことを聞けと変えているわけです。

 

 それを受けて、冒頭の言葉(5節)で「あなたのことを耳にしてはおりました」と語ります。岩波訳はここに「『片耳で聞く』とは『風聞に頼る』こと、『間接的な知識しか持たない』という表現。ここではこの一般的な用法を拡張して、ヨブが自分の不完全な認識に基づき、限られた視野に神を閉じ込めようとしていたという自己の行為を指している」という注釈をつけています。

 

 ヨブは苦難にあって以来、苦しみを訴え、神を捜し求めて来ましたが、神はそれにずっとお答えにはなりませんでした。だから、ヨブは何も耳にせず、また、暗闇を見るばかりで、何も目にすることはなかったのです。「しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」(5節)ということができます。神がヨブの前に立ち、「聞け。わたしが話す」と命じられているからです。

 

 神を見るということについて、19章26,27節に「この皮膚が損なわれようとも、この身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。このわたしが仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る」とヨブは語っておりました。それは、苦悩の中で垣間見た夢のようなものですが、ドリームズ・カム・トゥルー、それがかなったという話です。

 

 続けて、「それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(6節)と言います。ここで「自分を退け」と訳されている言葉は、直訳すると「わたしは退ける」(マーアス)という言葉で、原文に目的語はありません。そこで、「自分自身を退ける」とか、「自分の言葉を退ける」といった意訳がなされています。

 

 また、「伏す」という言葉は原文にありません。直訳的には「塵と灰の上で悔い改める」ということになります。ただ、「悔い改める」という言葉が、「アル(「上に」の意)」という前置詞を伴うときは、「~を悔い改める、~について悔い改める」と訳されます(エレミヤ18章8,10節)。それに従えば、「塵と灰について思いを変える」という訳が考えられます。

 

 「塵と灰」がペアで登場するのは、旧約聖書中、ここと30章19節、創世記18章27節の3箇所だけです。30章19節は、自分のはかない運命を嘆くような言葉でした。しかし、創世記18章27節では、神の前に有限な存在であることを告白しつつも、「全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか」(同25節)と訴えつつ、ソドムの町のために執り成しをしています。

 

 そこでは、「まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか」(同23,24節)と尋ねていました。

 

 つまり、正しい者は生かし、悪い者は滅ぼすという応報的な裁きを求めたのではなく、正しいことをなす者のゆえに、町全体をお赦しになる気はないのか、それが、全世界を裁く方の、正義を行う方法ではないのかと質しているわけです。

 

 このとき、アブラハムには、「塵あくた(塵と灰という言葉遣い)」という表現が、単に自己卑下するだけのものではなく、神のかたちに造られたものとしての(創世記1章26,27節)、そして、神の霊によって生きる者とされたものとしての(同2章7節)、責任と使命を表現するものだったようです。

 

 ヨブは、天地創造の知恵を語る神の言葉を聞きました(38章)。野生生物の支配について(38章39節以下、39章)。さらに、ベヘモットとレビヤタンの支配について聞きました(40,41章)。しかしながら、神はそこで、人間については、語っておられません。ヨブによって代表される「塵灰」なる人間は、神の言葉を聞く者として、神の前に立たされているのです。

 

 この後、神はテマン人エリファズにも語りかけ、「わたしはお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、わたしについてわたしの僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」(7節)と言い、しかし、いけにえをささげてヨブに祈ってもらえと告げられます。その祈りを受け入れ、「お前たちに罰を与えないことにしよう」(8節)と約束されます。

 

 「罰を与えない」は、「愚かさ、恥ずべき愚かな行いを実行しない」という言葉遣いです。「怒っている」というところから、「罰を与える」という報いが想像されますが、しかし、それを「愚かさ」といわれて、実行しないと語られているのです。

 

 ここに、神の義が、応報の原理では測れないものであるということが、主ご自身の言葉で言い表されています。神の義は、その愛と憐れみによって表されるものなのです。それは、実に驚くべき恵みです。

 

 エリファズらはその通り実行し、そして、主はヨブの祈りを受け入れられました(9節)。そして、主はヨブを元の境遇に戻し、財産を倍にされました(10節)。ヨブが神の言葉を聞いて、自身の「塵と灰」の運命を思い直し、神のかたちとして、友人たちの執り成しをするという使命を果たしたとき、彼に神の恵みが注がれたという状況です。

 

 ただ、「この目であなたを仰ぎ見ます」(5節)と語ったヨブにとって、境遇が元に返り、財産を二倍にされたことよりも、神の前に立ってその言葉を聞き、それに答えることができるということが、何にもまして喜ばしくあったことでしょう。

 

 私たちも、驚くべき恵みによって救いに与り、神の子とされています。御前にあって御言葉を聞き、その使命、責任を全うすることができるよう、御霊の満たしと導きを祈りましょう。

 

 主よ、あなたの恵みを感謝します。無駄にすることなく、使命を全うすることができますように。私たちの耳を開き、御声を聞かせてください。御心を行うことができるよう、聖霊を通して私たちの心に御愛を注ぎ与えてください。いよいよ御名が崇められますように。御国が来ますように。神の恵みと慈しみが、常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

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