ヨハネ福音書

 

 

「イエスは、ナタナエルがご自分の方へ来るのを見て、彼のことをこう言われた。『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』」 ヨハネによる福音書1章47節

 

 新約聖書に四つ含まれている福音書の中で、ヨハネは独特のものです。ほかの三つを共観福音書と呼び、ヨハネをそれから外すのも、そのためです。確かに、他の福音書と読み比べてみれば、違いは明らかです。なぜそのような福音書が編み出されたのかを説明するの容易なことではありませんが、しかし、そのお蔭で豊かなメッセージをそこから汲み取ることが出来ます。

 

 著者は「イエスの愛しておられた弟子」だと、21章⑳,㉔節に記されていますが、2世紀以降、それはゼベダイの子ヤコブの弟ヨハネで、福音書はエフェソで記されたとされて来ました。現代の聖書学者たちは、恐らく無名の異邦人キリスト者によって、紀元90年頃にシリアで著述されたものと想定しています。ということは、四つの福音書の中で一番最後に著されたものということになります。

 

 最初に「ロゴス賛歌」(1~18節)と呼ばれる信仰の宣言が記されています。続く19節以下には、洗礼者ヨハネの証言(19~34節)がかたられます。そして、弟子の召し(35~51節)が語られています。

 

 最初の弟子は、シモン・ペトロの兄弟アンデレともう一人で(40節)、次にシモン・ペトロがアンデレに導かれて弟子となりました(41,42節)。それからフィリポが招かれ(43節)、次いで、フィリポがナタナエルを誘います(45節以下)。

 

 フィリポに誘われたナタナエルは、「ナザレから何か良いものが出るだろうか」(46節)と言いました。ここには、「異邦人のガリラヤ」(イザヤ書8章23節)というようなところから、メシアが出るはずがないという偏見があります。「メシアはガリラヤから出るだろうか」(7章41節)、「ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(同51節)という言葉もあります。

 

 「メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」(同42節)と、ミカ書5章1節の預言に基づく理解も示されています。そのような常識が、ナタナエルの目を閉ざしているわけです。

 

 それに対してフィリポは、「来て、見なさい」(46節)と誘います。伝聞などによる常識的な判断などではなく、直接に見聞きして自ら判断せよというわけです。そしてこれが、ナタナエルの信仰の目を開かせる結果となりました。

 

 フィリポの言葉に従って出かけて来たナタナエルについて、主イエスが冒頭の言葉(47節)のとおり語られました。ナタナエルがまだ何も言わない先に、「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」と告げられたのです。

 

 ヨハネ福音書において、「ユダヤ人」は、主イエスに敵対するユダヤ教指導者を含む勢力として、70回ほど用いられています。「イスラエル人」が用いられるのはここだけ、「イスラエル」も合計4回だけ(1章31,49節、3章10節、12章13節)用いられています。

 

 こうした用例から、「イスラエル人」は「ユダヤ人」とは正反対で、信仰的尊称として用いられていることが分かります。さらに、「まことのイスラエル人」(アレーソース・イスラエーリテース)と強調され、その上、「この人には偽りがない」と言われれば、それは最高の賛辞でしょう。

 

 それを聞いたナタナエルは、「どうしてわたしを知っておられるのですか」(48節)と尋ねます。主イエスが言われたとおりの自己評価をしていて、そんな質問になったということではないでしょう。主イエスの賛辞に戸惑いつつ、何故自分のことを知っているのかと単純に問うているのだと思います。

 

 主イエスは、「あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」(48節)と答えられました。普通の人が知りようのないことを知っているということで、主イエスが神のような洞察力を持っていることが示されます。「いちじくの木の下にいた」というのは、そこで聖書を読んでいた、神の言葉を学んでいたということでしょう。

 

 これらの言葉が、主イエスについてのナタナエルの評価を一変させます。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」と言っていたナタナエルが、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」(49節)と告げます。神の子、イスラエルの王という表現で、イエスを神と崇め、そう告白しているのです。

 

 主イエスは、このナタナエルの信仰の告白を喜ばれました。50節の「もっと偉大なことをあなたは見ることになる」という言葉に、それが表れています。主イエスの神のような洞察力に触れただけでなく、以後、カナの婚礼でのしるしから(2章1節以下、11節)、ラザロを生き返らせるという奇跡まで(11章38節以下)、大いなることを見るのです。

 

 51節は、ナタナエルの召命記事の結びとなるところです。けれども、それまでナタナエルに「あなた」と呼びかけていたのに(48,50節)、ここでは「あなたがた」と複数形になっています。さらに、「はっきり言っておく」は、「アーメン、アーメン」と二度繰り返すヨハネ独特の言い方で、主イエスのメシアであること、霊的権威のしるしを表しています。

 

 そして、創世記28章11節に記されている、イスラエルの父祖ヤコブがベテルで経験したことが、「人の子」と言われる主イエスの上で展開されるのを、あなたがたが目撃するということで、主イエスが神の御子であり、その栄光を表されるときが来るということを予め告げているのです。

 

 こうして、主イエスを信じて従う者となったナタナエルは、主イエスの語られた言葉に従って、見せかけではない、偽善などではない、「まことのイスラエル人」となったのです。私たちも、主の御言葉に従い、信仰の目が開かれて、もっと偉大なことを目撃する恵みに与らせていただきましょう。

 

 主よ、この世の常識などに惑わされて、信仰の目が曇らされませんように。御言葉に対して、耳がふさがれることがありませんように。いつも目覚めて主の御言葉に耳を傾けさせてください。信仰をもって絶えず祈る者としてください。かくて、常に主に聴き従う者となることが出来ますように。 アーメン

 

 

「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。」 ヨハネによる福音書2章6節

 

 ガリラヤのカナで婚礼があり(1節)、主イエスと弟子たちもそこに招かれました(2節)。ところが、その婚礼に欠かすことのできないぶどう酒が、婚礼の途中で足りなくなりました(3節)。

 

 当時の婚礼は、まる一週間かけて行われておりました。そのために、十分な準備をしていたと思いますが、予定が狂ってしまいました。主イエスの弟子たちのことは計算に入っていなかったのかも知れません。

 

 主イエスの母マリアが、主イエスにそれを報告します。なぜ、母マリアが裏方に入っているのかは不明ですが、それは、「あなたたちの所為よ」と、問題の責任を問うようなつもりではないでしょう。そうではなく、問題を主イエスの前に持ち出し、その解決を主イエスに委ねたのです。この母マリアの態度に学びたいと思います。

 

 私たちは問題が起こると、原因は何か、誰の責任かを追及し、大騒ぎして、問題がさらに大きくなったりします。母マリアは、問題をありのまま主イエスに打ち明けました。どのような問題であっても、主イエスの前に持ち出すとき、主イエスが問題を解決してくださること、そして私たちのなすべきことを教えてくださることを、確信していたのです。

 

 主イエスは母の願いに、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしのときはまだ来ていません」(4節)と答えられました。母親に「婦人よ」というのは、他人行儀な、人前で全く礼を失した言葉ですが、これは、主イエスは天の父の御心に従って行動されるのであって、肉親の依頼などで働かれはしないということを示されたものです。

 

 けれども、母マリアは主イエスのそのような返答に動揺する様子も見せず、召し使いたちに、主イエスの言いつけどおりにしてくださいと要請します(5節)。これも、主イエスがこの問題に必ず答えてくださることを信じて疑わない態度です。

 

 主イエスが召し使いたちに、水がめに水を汲むように命じると、彼らはその通りにしました(7節)。その家には、冒頭の言葉(6節)の通り、2ないし3メトレテス入りの水がめが六つおいてありました。1メトレテスは約39リットルですから、およそ100リットル前後ということになります。それに水を汲むのは大変だったと思います。

 

 そもそも、ぶどう酒が足りなくなったというのに、なぜ水を汲めと命じられるのか、合点がいかなかったでしょう。であれば、適当にうっちゃり仕事をしてしまうかも知れません。ところが、召使いたちは一所懸命に水を汲みました。その徹底ぶりが、「かめの縁まで水を満たした」(7節)という言葉で分かります。

 

 主イエスは、その水を世話役のところに持って行かせます(8節)。世話役がそれを飲んでみると、なんと良いぶどう酒になっていました。世話役は花婿を呼んで、「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました」(10節)と賛辞を述べています。

 

 600リットルもの大量の水がぶどう酒に変わったのですから、これで、婚礼の客に振る舞うぶどう酒の問題は一件落着です。しかも、主イエスの用意されたものは、初めに花婿が用意したものより良いものだったので、面目を施しました。

 

 水がぶどう酒に変わるという奇跡の記事の中で、あらためて、冒頭の言葉に目が留まりました。大きな水がめが六つ置いてあり、それは、「ユダヤ人が清めに用いる」ためのものでした。その水がめに水を満たしたというのは、たまたま、適当な器だったからということではないでしょう。むしろ、主イエスはあえてそれを用いられたのではないでしょうか。

 

 清めに用いる水がめに水を満たすようにということは、旧約の教えを蔑ろにしてもよいということではない、むしろ,それを満たすようにと示されます。しかし、人がその教えを実行しようと一所懸命がんばれば、それで旧約の教えが完成するというわけではありません。水がめの縁まで一杯に水を満たしたから、水がぶどう酒に変わったわけではないのです。

 

 古い教えに基づく器に水を満たす、そこに見える形、姿は、古い教えに基づいて働いたのか、主イエスの御言葉に従ったのか、見分けはつきません。けれども、結果が違いました。古い教えに基づいていたとき、その器を満たすことがなかった。しかし、主イエスに従ったとき、器を満たすことができました。

 

 その上、彼らの働きを用いて、主イエスが奇跡を行われたのです。11節にある「最初のしるし」というのは、水がぶどう酒に変わったということではなく、律法を成就し、救いの恵みをお与えくださるのは主イエスである。主イエスの新しい教えが、人々に古い教えに勝る真の喜びを与えるということなのです。

 

 今日も主イエスの御言葉に耳を傾け、その導きに従って歩みましょう。主イエスによってその水がぶどう酒に変わる日を待ち望みたいと思います。

 

 主よ、私たちを新しい契約の恵みに与らせてくださって有難う感謝します。ここで主の御用に用いられた召し使いたちは、主イエスがどこで奇跡を行われたのかを知っていました。彼らが主の御言葉に従ったからです。私たちもその恵みを味わうべく、主の御言葉に従って水を汲ませてください。主の命に忠実な僕とならせてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」 ヨハネによる福音書3章3節

 

 3章には、1~21節に「イエスとニコデモ」の対話、22節以下に「洗礼者ヨハネ」の証言が記されています。ただし、31節以下はヨハネの証言とは考えられないということで新共同訳は段落を区切り、「天から来られる方」と小見出しをつけています。

 

 初めに、ファリサイ派に属する、ニコデモという名前のユダヤ人たちの議員が登場します(1節)。「ファリサイ派」というのは、「分離する」(パールーシュ)という言葉に由来しており、様々な汚れから自らを清く保とうとしていたところから、そのように呼ばれたと考えられます。彼らは律法を厳格に解釈し、できるだけ忠実に実行しようとしました。ニコデモはそのグループに属していたのです。

 

 それから、「ユダヤ人たちの議員」というのは、ユダヤの宗教的最高議会(サンヒドリン)の議員を指します。サンヒドリンには70人の議員がいて、サドカイ派とファリサイ派の代表によって構成されていました。ですから、ニコデモは、ファリサイ派の中でも指導的な立場にいたことが分かります。

 

 さらに、10節には「あなたはイスラエルの教師でありながら」という主イエスの言葉が記されています。この「教師」(ディダスカロス)という言葉には、定冠詞がつけられています。ザ・ティーチャー、教師といえばニコデモのことと誰もが考えるほどの人物ということです。

 

 また、19章39節に「ニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」とあります。「没薬と沈香」は、とても高価な香料です。それを百リトラ(一リトラは326グラム)、32.6キログラムも持参し、主イエスの葬りのために惜しげもなく使用しました。高価な物を大量に持って来ることが出来たということは、ニコデモが資産家でもあったということでしょう。

 

 かくてニコデモは、教養においても、その指導力においても、信仰の世界でも政治の世界でも、また教育の世界でも、右に出る者がないというような優れた存在でしたし、その上、資産家でもあるという、非の打ち所のないような人物だったわけです。

 

 そんなニコデモが、主イエスのもとを訪ねました。それは何のためだったのかということが疑問になります。彼が主イエスに語った言葉が、2節にあります。彼は主イエスに、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています」と言っています。「神のもとから来られた教師」という言葉から、彼は主イエスに教えを請いたいと考えていることが分かります。

 

 残念ながら、ニコデモの質問は記されていません。けれども、それをうかがわせる言葉があります。それは、2節の「ある夜」という言葉です。もしも、主イエスに教えを受けることが重要なのであれば、わざわざ、「夜」という言葉を入れておかなくてもよいでしょう。ヨハネは、「夜」という言葉に意味があると語っているのではないでしょうか。

 

 勿論、ニコデモが尋ねたのが本当に夜だったから、夜と書いたということはあると思います。イスラエルの教師とまで言われるニコデモが、まだ無名の主イエスのもとに、教えを請うために訪れるとなれば、昼間、人目に触れるときに堂々とというわけには行きません。そこで、自分の姿を隠すことの出来る「夜」、人目を避けて教えを請うのにふさわしいときを選んで、と考えても良いでしょう。

 

 主イエスは冒頭の言葉(3節)のとおり、「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました。「はっきり」というのは、原語で「アーメン、アーメン」という言葉です。「アーメン」とは、「本当です、真実です」という意味です。口語訳は「よくよく」、新改訳は「まことに、まことに」と訳していました。

 

 これは、主イエス独特の言葉遣いです。この言葉が語られるところは、特別に注目して、何が語られているのか、どのような真実がそこに示されているのかを悟らせていただきましょう。

 

 ここに、「神の国」という言葉があります。5節にも出てきますが、ヨハネ福音書にはこの2度しか使われません。ヨハネは、「神の国」という代わりに「永遠の命」という言葉を用いています。ヨハネは、神の国を見る、神の国に入るというのは、永遠の命を受ける、永遠の命をいただくということと同じ意味であると考えているのでしょう。

 

 また、「新しく」(アノーセン)というのは、「上から」とも訳されます(31節参照)。「上から」というのは、「神によって」と解釈されます(19章11節参照)。神によって生まれ変わらせていただかなければ、ということです。ということで、3節の主イエスの言葉は、「神によって新しく生まれ変わらせられなければ、永遠の命をいただくことはできない」ということになります。

 

 この言葉を聞いたニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と言います。「年をとった者が」という言葉から、ニコデモが高齢者であることが分かります。ここに、彼の夜が透けて見えてきます。

 

 彼は、高齢となって自分の行く先に不安を感じているのではないでしょうか。彼の身分、立場、状況というものは、イスラエルの人々にとって、これ以上ないような高みにあると思われているだろうけれども、ニコデモ自身は、自分の行く先に不安を感じている、その不安の先に死の闇が広がっている、死を前に平安がない、これが彼の夜の闇だったのかもしれません。

 

 私たちは、主イエスを信じて永遠の命に与りました(3章15節、第一ヨハネ5章11~13節)。神の子とされました(1章12節)。神によって新しい人生が始りました(第二コリント5章17節)。だれもが、年若い者も高齢者も、主イエスを信じることで、その人生を新しく生かされているのです。御霊の働きによってそうすることが出来るのだと教えられているのです(第二コリント3章18節、4章16節など)。

 

 常に主イエスを信じて歩みましょう。絶えずその御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きを祈り求めましょう。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(第二コリント4章6節)。 

 

 天のお父様、ニコデモがすぐに理解することのできなかった信仰の世界を、私たちのような者に明らかにしてくださって感謝致します。それは、聖霊の導きによることであり、神の恵みです。すべてを感謝しつつ、御言葉に従って新しい人生を歩ませてくだい。 アーメン

 

 

「女は水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。』」 ヨハネによる福音書4章28,29節

 

 4章には、「イエスとサマリアの女」の対話(1~42節)と、「役人の息子を癒す」(43節以下)という二つの記事が記されています。今日は、最初の段落から学びます。

 

 主イエスがユダヤを去り、ガリラヤへ行かれるとき(3節)、サマリアを通られました(4節)。「通らねばならなかった」(エデイ・ディエルケスサイ)のは、不測の事態に陥ったからなどではなく、そこを通る必要があったからです。

 

 サマリアのシカルという町に、ヤコブの井戸がありました(5節)。「シカル」は、旧約時代の「シケム」(創世記12章6節など)がなまったものと考えられています。シケムはパレスティナのほぼ中央、ゲリジム山の東斜面に位置しています。

 

 ヤコブが井戸を掘ったという記録は、聖書にはどこにもありませんが、パダン・アラムからの帰途、シケムに土地を購入していることから(創世記33章18,19節)、その時に井戸を掘ったのではないかと考えることができます。現在それはビル・ヤクーブ(アラビア語で「ヤコブの泉」の意)と呼ばれ、そこに、ギリシア正教の教会堂が建てられています。

 

 旅に疲れた主イエスが、井戸の側に腰を下ろしておられたとき(6節)、そこにサマリアの女性が水を汲みに来ました(7節)。主イエスが女性に「水を飲ませてください」と求めたところから、対話が始ります。その時、弟子たちは食べるものを求めて、町に行っていました(8節)。

 

 水を求めた主イエスに女性は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」(9節)と返します。ユダヤ人とサマリア人は交際しないからと、その返答の理由が説明されていますが、それも含めて、女性は自分に水を求めた男性と関わり合いになりたくはないと考えていたのでしょう。

 

 ところが、主イエスが「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13,14節)と言われると、女性は「主よ」と応じ、そして「渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と求めました。

 

 そこで主イエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16節)と言います。女性は、「わたしには夫はいません」(17節)と答えました。主イエスは、「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(17,18節)と応じます。 

 

 女性は、自分の身の上を言い当てた主イエスを預言者と思い(19節)、神を礼拝できるのは、先祖が定めたゲリジム山か、それともエルサレムかと尋ねます(20節)。この女性は、これまでずっと、神は本当におられるのか、どこにおられるのかと考えていたのではないでしょうか。そして、自分の身の上に降りかかる運命の過酷さを嘆いていたのではないかと想像します。

 

 主イエスは女性に、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝をする者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(23,24節)と教えられます。

 

 ここに、場所や形式が問題ではないと言われています。場所や形式ではなく、「時」と言われるのです。そしてそれは「今」だと言われます。即ち、私たちは瞬間瞬間、「今」置かれている場所で神を礼拝するのだということです。

 

 また、「霊と真理をもって」と言われます。どうでしょう。私たちは、「霊と真理をもって」礼拝しているでしょうか。「はい」と答えられますか。ここで問われているのは、私たちの感覚ではありません。信仰です。ゆえに、「はい」と答えてよいと思います。霊も真理も、私たちのうちにはありません。「霊」(プネウマ)とは、聖霊のことです(3章5節以下参照)。

 

 「真理」(アレーテイア)という言葉は、新約聖書中に109回用いられていますが、そのうち46回がヨハネ文書にあり、ヨハネ特愛の言葉の一つと言えそうです。1章14節に「父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」とあり、また、14章6節で「わたしは道であり、真理であり、命である」と主イエスが宣言しておられるので、真理とは主イエスのことと言ってよいでしょう。

 

 すなわち「霊と真理をもって礼拝する」というのは、聖霊と主イエスにおいて、聖霊と主イエスの働きの中で、父なる神を礼拝するということです。主イエスを信じる者に聖霊の働きがあり、私たちをまことの礼拝をする者としてくださるのです。

 

 女性はメシアと出会いました。主イエスを信じました。彼女はまことの礼拝をする者とされました。そのとき、彼女の内側には大きな変化が起きていました。それまで人目を避けて生活していました。正午ごろ、水汲みをするというのは(6節)、その現れです。普通は日中の暑さを避けて、涼しくなる夕方などに水汲みに出るからです。その女性がどうしたのか。それが冒頭の言葉(28,29節)です。

 

 女性は、水がめを井戸端に置いたまま町に走ります。彼女は、自分が水汲みに来たということを忘れています。いえ、ある意味では、もう必要ないのです。それは、主イエスから、決して渇かない、永遠の命に至る水が湧き出る泉を頂いたのです(14節)。その喜びが彼女から溢れ出て、町に向かって走らせ、そうして、人々に主イエスを証しするのです。

 

 ここに、霊と真理をもって礼拝をしている者の姿があります。主イエスと出会った人、霊の恵みに与った人は、その喜びを伝えずにはおれない。それが真の礼拝であり、伝道であることを知らされます。

 

 主よ、私たちはあなたの深い憐れみによって主イエスの言葉を命の水として戴き、永遠の命に至る信仰を公に言い表す恵みに与りました。そこに聖霊の導きがありました。今、聖霊と主イエスの働きにより、その内にあって、父なる神を礼拝します。サマリアの女性が喜び溢れて行動したように、私たちをも命の喜びに溢れさせ、主を証しする者とならせてください。 アーメン

 

 

「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」 ヨハネによる福音書5章39節

 

 5章から12章まで、ユダヤ人との論争が展開されていきます。他の福音書では、律法学者、ファリサイ派の人々、サドカイ派、祭司長、長老たちといった人々との争いでしたが、ヨハネは、主イエスを信じない者たちを総称して、「ユダヤ人」と言います。

 

 5章では、38年の長きにわたって病気で苦しんでいた男性を主イエスが癒されたということをめぐって(1節以下)、主イエスとユダヤ人との間に摩擦が生じました。それは、主イエスが病人を安息日に癒し、彼が寝床を担いで歩いていたからです(9節以下)。

 

 物語の舞台は「ベトザタ」(2節)と呼ばれる池の回廊です。口語訳、新改訳などは「ベテスダ」と呼んでいます。「ベテスダ」は「憐れみの家」という意味なので、こちらの読みを採用した翻訳も多数存在します。「五つの回廊」とは、池の四方に設けられた柱廊と、池を二つに仕切る仕切りの上の柱廊の五つです。

 

 この池は、神殿に献げる動物を洗うために設けられた人工の貯水池ですが、池の水が動くときに真っ先に池に入った者は、その病が癒やされるという言い伝えがあって、大勢の病人が池の周りに集まっていました。その中に、38年もの間病気で苦しんでいた男がいました。

 

 主イエスがこの男性に目を留めて、「良くなりたいか」(6節)と声をかけられました。長い間病気で苦しんできたし、癒やされるために池の周りにいるのだから、良くなりたいと思っているに違いないという状況です。なぜ、このように声をおかけになったのでしょうか。

 

 しかし、この男性は、「良くなりたいに決まっているじゃないですか」と言ったのではありません。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです」(7節)と答えたのです。つまり、病気以上に、自分を助けてくれる家族、友、仲間がいないというのが、彼にとって最大の問題だったわけです。

 

 主イエスは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)と男性に言われました。すると、男性はすぐに良くなって、床を担いで歩き出しました(9節)。驚くべきことが起きたのです。ところが、その癒しが安息日になされたということで、けちがつきます。

 

 しかしそれは、主イエスが安息日に病人を癒やしたことを咎めたのではなく、「床を担いで歩く」というのが、安息日規定違反になると判断され、ユダヤ人たちが癒された男性に、「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは律法で許されていない」(10節)と告げたのです。

 

 この癒しをきっかけに主イエスを迫害し始めたユダヤ人たちに対して(16節)、「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とお答えになりました(17節)。そのゆえにユダヤ人たちは、安息日の規定違反だけでなく、神を御自分の父と呼んで、ご自身を神と等しい者とした冒涜の罪で、主イエスを殺そうと狙うようになります(18節)。

 

 その後に、主イエスがご自身について、また、その御業について語る言葉が記されています(19節以下)。その話の中で、冒頭の言葉(39節)も語られました。ユダヤ人たちが聖書を研究していること、それも、文字面の研究というのではなくて、永遠の命があると考えて研究していると言われます。それは、肯定的な評価をお与えになられたものだと思います。

 

 しかしながら、そこに留まっているという批判でもあります。確かに真面目に、真剣に、研究されています。しかし、研究に留まっているというのです。命を研究すれば、自分のものになるでしょうか。勿論、研究によって命を我がものにすることができるはずはありません。

 

 主イエスは、冒頭の言葉(38節)のとおり、「聖書はわたしについて証しをするものだ」と言われました。永遠の命を研究しているが、書いてあるのは主イエスのことです。それは、研究の主題が違うということでしょうか。そうであると言えるとも思いますが、しかし実は、主イエスこそ、永遠の命をお与えくださる命の主であられるということ、そのことが聖書の証言なのだということでしょう。

 

 ここで、「聖書」と言われているのは、当然、旧約聖書のことです。主イエスがこの話をしておられるとき、まだ新約聖書は書かれていません。その影も形もありませんでした。旧約聖書に、主イエスのことが記されており、そして主イエスこそ命の主であると証言していると言われるのです。

 

 勿論、主イエスの名が旧約聖書に記されているわけではありません。そういう意味で、文字を追いかけていれば、主イエスの名を見つけることが出来るということではありません。主イエスがどのような生涯を送るか、ということが、すべて明示されているわけでもありません。

 

 けれども、神の御心を求め、祝福を求めて御言葉を読むならば、いたるところに私たちの罪を赦し、救いを与えようとする神の御愛や、主イエスの贖いの御業が証しされているのを見出します。

 

 そして、聖書は主イエスについて証しをするものであると言われているということは、それが事実である、真実であるという表現です。聖書の言葉に基づいて今、主イエスがそこにおられ、語り、働いておられるのです。ということは、私たちも、聖書の言葉に主イエスを見出すことが出来、今ここでお会いできる、主イエスはここにおられ、語り、働いておられるということです。

 

 それが、私たちが今、御言葉を読んでいる本当の意味です。主イエスは、「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(40節)とユダヤ人たちを非難されました。正しく聖書を読んでいない、御言葉に耳を傾けていない、神の言葉に従おうとしていないということです。

 

 私たちは、御言葉を通して主イエスのもとに座り、命の恵みに与らせていただきましょう。「起き上がりなさい」(8節)と言われるなら、立ち上がりましょう。「歩け」と言われるなら、歩き出しましょう。主イエスを信じる信仰によって神の子となる資格を与え(1章12節)、永遠の命を得させてくださるからです(3章16節)。

 

 主よ、恵みによって今日も御前に来ました。御言葉を聴かせてください。あなたの御言葉に命があるからです。そこで主イエスと出会い、交わり、楽しむことが出来ます。主の御顔を拝します。御言葉に従い、御心を行うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」 ヨハネによる福音書6章55節

 

 6章1節以下の段落には、「五千人に食べ物を与える」という小見出しがつけられています。5千人の給食は、共観福音書にも記されています(マルコ6章30節以下、マタイ14章13節以下、ルカ9章10節以下)。

 

 ただ、一致しているところもありますが、違いもあります。たとえば、マタイ14章15節にあるような夕暮れ時ではありませんし、ヨハネは「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」(4節)と、独特の日程を告げています。ヨハネは最後の晩餐を記しませんでした。この給食を、過越の食事に見せようとしているようです。

 

 給食のきっかけは、主イエスがエルサレムからガリラヤへ戻られ(1節)、山に登って弟子たちと座につかれたとき(2節)、大勢の群衆が後を追って近づいて来たことです。それを見られた主イエスはフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」(5節)と尋ねられました。そこには、男だけで五千人の人がいました(10節)。

 

 フィリポは、200デナリオン分のパンでは足りないと答えます(7節)。1デナリオンが労働者の一日の賃金ということですから、200デナリオンは今の100万円以上という金額になるでしょう。それでも足りないだろうと、ソロバンをはじきました。

 

 ここでは、そんな大金どこにあるのですか、パンを買う持ち合わせなどありませんというのが、フィリポの考えでしょう。その上、それで足りないというのですから、これだけの人々に給食することなど出来ないという判断です。そしてその判断は、間違ってはいないと思われます。

 

 しかしながら、仮に彼らがそのような大金を持っていたとすれば、どういう答えをしたのでしょうか。もしも、1タラントン(6000デナリオン)でも委ねられていて、それで、パンをどこで買えばよいかと尋ねられたとき、周辺一帯の店を駆け巡って、必要なだけパンを買い占めて来ましょうと答えればよかったのでしょうか。それで、主イエスを喜ばせる答えになったでしょうか。

 

 この質問は、フィリポを試みるためであったとヨハネは記します(6節)。フィリポはこの試験に失敗したようです。けれども、誰がこの試験に合格出来るでしょうか。予め答えを知らない限り、無理ではないかと思われます。

 

 主イエスは、どのような答えを聞きたかったのでしょうか。この質問の答えが、冒頭の言葉(55節)です。どういうことでしょうか。ここで主イエスがお考えになっているのは、群集を満腹させるパンのことではないのです。一度や二度おなかを満たすことが出来ても、それでは救いにはなりません。

 

 いえ、群衆が求めるのは、今自分たちの必要を満たしてくれる救い主かも知れません。この方についていけば、この方を自分たちの王にすれば、食いはぐれはなくなる、いつもおなかを満たすことが出来る、そのような救い主が欲しいと考えるのです。だから、主イエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」(14節)というのです。

 

 けれども、主イエスはその願いにはお応えにならず、ひとり山に退かれます(15節)。そこでの主イエスの振る舞いは不明ですが、共観福音書はそれを、「祈るため」(マルコ6章46節)としています。人を離れて、父なる神との交わりに向かわれたということです。

 

 話を戻して、何故、「どこでパンを買えばよいだろうか」という質問をなさったのでしょうか。そのヒントは、「過越祭が近づいていた」(4節)というところにあると思います。つまり、彼らのおなかを満たすためではなく、過越の食事を準備するのに、「どこでパンを買えばよいだろうか」と尋ねられたのではないでしょうか。

 

 その際の過越の食事とは、単に祭りのときの食事ということではありません。彼らが真の救いを味わう食事、その喜びを共にする食事ということでしょう。

 

 27節で「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」と言われたのは、このことです。そして、永遠の命に至る食べ物のために働くとは、「神がお遣わしになった者を信じること」(29節)、即ち主イエスを信じることです。

 

 与えられるパンは、「わたしが命のパンである」(35節)と仰られたとおり、主イエスご自身です。さらに、冒頭の言葉(55節)のとおり、「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである」と主イエスは語られました。かくて、上記の通り

この食事がヨハネ版「最後の晩餐式」であるということが示されます。

 

 これらのことから、「どこでパンを」という問いに対して、「主イエス以外に、私たちを救う命のパンを与えることのおできになる方はおられません。私たちは主イエスから、命のパンをいただきます」と答えることを、主イエスは期待しておられると学ぶことができます。そして、確かに主イエスは、私たちに命のパンを与えるため、十字架で自ら贖いの供え物となってくださったのです。

 

 日ごと、まことの食物、まことの飲み物なる主イエスを信じ、その命によって新しく生きる者とならせていただきましょう。

 

 主よ、私たちを憐れんでください。本当の必要を満たしてください。日ごとにまことの食物、まことの飲み物なる主イエスを信じて歩むことが出来ますように。私たちはパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる者だからです。 アーメン

 

 

「そこで、イエスは言われた。『わたしの時はまだ来ていない。しかし、あなたがたのときはいつも備えられている。』」 ヨハネによる福音書7章6節

 

 7章には、仮庵祭にエルサレムへ向かわれる主イエスを巡る出来事が記されています。ということは、過越祭前の出来事を記す6章と本章の間には、半年という時間が経過したことになります。その中で、14節以下の段落は、5章9節以下で展開された安息日の論争を締め括る内容になっています。

 

 2節に「仮庵祭が近づいていた」と記されています。歴史家ヨセフスの記述によれば、仮庵祭は、イスラエルにおいて最も盛大に祝われる祭りだったようです。元来、ぶどう酒や果物、オリーブの収穫感謝祭として、9月末から10月の初めにかけて7日間祝われました。

 

 人々はこのとき、果実の収穫のために簡単な小屋を作り、そこで寝起きします。それが仮庵祭の名の由来です。それを、エジプトを脱出したイスラエルの民が荒れ野でテント暮らしをしていたことと重ね、主の救いを記念するため、家の屋上や広場に仮小屋を建て、七日間を過ごします(レビ記23章34節以下、42,43節)。

 

 そのとき、主イエスの実の兄弟たちが、「ユダヤに行き、している業を弟子たちに見せてやりなさい」(3節)と勧めます。ユダヤとは、エルサレムのことでしょう。盛大に祭りが祝われているところで、主イエスのしている業、それは奇跡のことを指していると思われますが、それを行いなさい。公に教えを広めようとしながら、隠れて行動する者はいないだろうというのです(4節)。

 

 兄弟たちは、何も、無責任に語ったわけではないでしょう。むしろ、主イエスの応援者であったろうと思います。5章以下、主イエスはユダヤ人から命を狙われるようになって来ました。

 

 その後の主イエスの言動から、主イエスのもとを離れていく弟子たちも少なくなかったものと思われます(6章66節)。だから、仮庵祭のように人がたくさん集まる祭りは、名を上げ、教えを広める絶好の機会だ、今このチャンスを逃してはいけない、というわけです。

 

 それに対して語られたのが、冒頭の言葉(6節)です。「わたしの時はまだ来ていない」。これは、まだ、主イエスの出番ではない、出る幕ではない、タイミングが早すぎるという意味になるでしょう。このとき、主イエスはご自分の出番は、いつ、どのようなときと考えておられたのでしょうか。

 

 主イエスご自身の言葉ではありませんが、この「時」について、気づかされる記述があります。それは30節で、「人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである」と記されています。

 

 これを読むと、主イエスを捕らえようと思ったけれども、まだその「時」が来ていなかったので、それを控えたということのようです。まるで、「時」が来ていないということを、人々が理解しているからであるかのように受け取れますが、勿論そうではありません。

 

 実際に捕らえようと思ったのだけれども、なぜかそのとき、主イエスに手をかけることができなかったということです。それをヨハネが、まだ「イエスの時はまだ来ていなかったからと説明しているのです。

 

 つまり、この「イエスの時」というのは、神がご自分の計画を進めるためにそのタイミングを図っておられるということです。だから、人がそれに介入したり、変更したりすることを許されないものなのだということが示されます。

 

 さらに、主イエスの兄弟たちは、今が売り込みのチャンス、名を上げる時であると考えたわけですが、主イエスの時というのは、自分を売り込んで名を上げるときではなく、ユダヤ人に捕らえられ、十字架に殺される「時」であると知らされます。

 

 33節で、「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る」というのは、その時のことを語っています。そしてそれは、神が私たちの救いの道を開いてくださる時であり、それによって、私たちが永遠の命を得ることができるようになる時です。

 

 さらに、主イエスを信じる者に与えられる霊について、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(37,38節)と言われます。主イエスの時が来れば、聖霊が降るのです。 

 

 私たち罪人を救うために、神が独り子を贖いの供え物とする「時」を定め、ご自分の権威をもってそれを成し遂げてくださいました。それを信仰をもって受け止めた者たちが、神の子とされる「時」がやって来ました。そして、その私たちを通して聖霊が働かれる「時」がやって来るというのです。感謝以外のなにものでもありません。

 

 「今や、恵みのとき、今こそ、救いの日」(第二コリント書6章2節)と、瞬間瞬間主への感謝を込めて、委ねられた使命を全うさせていただきましょう。

 

 主よ、私たちの歴史の中で、「主イエスの時」にご自分の権威と御力をもって贖いの御業を完成し、栄光を現してくださり、感謝致します。「聖霊の時」がやって来て、私たちも主イエスを信じる恵みに与りました。今こそ、主の恵みの時であることを悟りました。主こそ歴史の主であり、また、万事を益に変えてくださるお方であることを信じ、感謝致します。 アーメン

 

 

「だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことのなると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」 ヨハネによる福音書8章24節

 

 8章最初の段落は、本来、ヨハネ福音書にはなかったもので、後の世に付け加えらることになったと考えられています。それは、「オリーブ山」や「律法学者」など、ヨハネ福音書のここ以外には出ない語彙が多く用いられているからであり、多くの写本がこの箇所を欠いているからです。また、ルカ福音書21章38節の後に入れたり、ルカやヨハネの付録としている写本もあります。

 

 その意味では、12節以下、「わたしは世の光である」の自己証言で始まる段落が、7章52節に続いていたものと考えられます。すなわち、エルサレム神殿境内において、ユダヤ人との対論が続いているということです。

 

 一体何故、この段落の物語がここに挿入されることになったのか、はっきりしたことは分かりませんが、主イエスとユダヤ人との論争が記されている中に、この物語を置き、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)といわれて、女性に石を投げる者がなかったこと、つまり女性を罪に定めることの出来る者はなかったことが示されます。

 

 21節以下の段落に、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉が、3度出てきます(21節,24節に2度)。それ以外の道はないと言わんばかりの用いられ方です。

 

 「自分の罪のうちに」(エン・テー・ハマルティア・フモーン:in your sin)というのは、犯罪を犯しながらという意味ではありません。聖書で「罪」(ハマルティア:単数形)というのは、神との関係が切れていることを指します。

 

 電気工事で、電流の通っている電線を「生きている」といい、電流が通っていない電線を「死んでいる」と表現すると聞いたことがあります。神との関係が切れていれば、その状態は死んでいるようなものです。呼んでも答えない、こちらを向かない、背き合っているというのは、その関係が死んでいるということでしょう。

 

 ですから、何ができたか、何をしているかが問題なのではなく、誰とどんな関係を持っているかということ、何よりも神との関係を持っているのか、神との間に交わりがあるのかということが問われているわけです。つまり、「罪のうちに死ぬ」とは、神との関係が切れたまま、生涯を閉じることになるという表現なのです。

 

 23節に「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」という発言があります。最初の文章の「下のもの」が、後の文章では「この世」と言い換えられました。そして、「上のもの」は「この世に属していない」と言われています。つまり、「天に属している」ということです。

 

 この所属の違いによって、私たちは本来、「罪のうちに死ぬことになる」存在なのです。それに対して主イエスは、天に属する者、天から降ってきた者(3章13節、6章38節など)、神によってこの世に遣わされた方(3章17,34節など)だというのです。

 

 これは、私たちの知恵で理解できるものではありません。人間として目の前にいる者が神の子である、天から降ってきた者であると、どうして分かるでしょうか。「そういうなら証拠を見せよ」というのは、私たちの当然の反応だと思います。結局、主イエスの語られる言葉の意味が分からないというのが、私たちと主イエスの所属の違いを明確に表しているわけです。

 

 しかしながら、本来、「罪のうちに死ぬことになる」存在であった私たちの中で、上に属する者と見なされる人々がいます。冒頭の言葉(24節)に、それが示されています。

 

 「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」というのですから、「わたしはある」ということを信じる人は、自分の罪のうちに死なないということになります。即ちそれは、上のものに属すると見なされるようになるということです。

 

 出エジプト記3章14節に「神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。「わたしはある」という方が、わたしをあなたたちの遣わされたのだと。』」という神の自己紹介があります。即ち、「わたしはある」ということを信じるとは、神を信じるということなのです。

 

 ギリシア語原文で「わたしはある」は「エゴー・エイミ」と言います。12節の「わたしは世の光である」(エゴー・エイミ・ト・フォース・トゥー・コスムー)という言葉で用いられています。

 

 ギリシア語で「エイミ」といえば、人称代名詞を使わなくても、「わたしは~である」という意味なのです。「エゴー」(わたし)をつけると、「わたしこそ~である」、「わたし以外に~はいない」という強調した表現になります。

 

 そこで、「『わたしがある』ということを信じる」とは、12節との関連で「主イエスが世の光である」ということを信じる」ことといってよいでしょう。即ち、ここに主イエスは、ご自分が聖書の神と同一の者であるということが、明確に語られているのです。

 

 また28節に「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう」と言われています。「人の子を上げたとき」というのは、主イエスを十字架につけたときという意味です。主イエスが神であるというのは、十字架につけられたときに分かると言われているのです。

 

 即ち、主イエスの死を通して、この世を、そして私たちを愛される神の救いの御業が完成し、神の栄光が現されるからです。私たちは、このことを頭で理解して、主イエスを信じるようになったのではありません。理解したのではなくて、理屈を超えて、信じられるようになったのです。そこに、神の助け、導きがあります。

 

 主は、私たちを信じる者としたいのです。だから、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(20章27節)と言われ、さらに「見ないのに信じる人は、幸いである」(同29節)と仰られたのです。見ていないのに信じることのできる幸いを授けてくださるわけです。

 

 「わたしは世の光である」(12節)と宣言された主イエスを信じ、「わたしの言葉に留まるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31,32節)と約束されている主イエスの言葉を心に留め、真理を知り、真の自由に与らせていただきましょう。 

 

 主よ、「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」と言われた主イエスの言葉のごとく、絶えず「わたしは世の光である」と宣言し、「わたしはある」と自己証言された方を信じ、この世の知者のようにではなく、権威をもって語られる主の御声に聴き従う者とならせてください。そのことで真理を知り、その自由に与らせてください。 アーメン

 

 

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」 ヨハネによる福音書9章3節

 

 1節以下の段落には、「生まれつきの盲人をいやす」という小見出しがつけられています。

 

 主イエスが、「生まれつき目の見えない人」(1節)を見かけられたとき、弟子たちが、彼が生まれつき目が見えなくなったのは、本人の罪か、それとも両親の罪かと、主イエスに尋ねました(2節)。当時、病気や障害の原因は、その人が犯した罪の結果と考えられていたのです。

 

 このような因果応報の思想は、洋の東西を問わず、昔だけでなく、今も存在しています。「行儀が悪くてご飯粒をこぼすような子には、ばちが当たって、目が見えなくなる」といった表現で躾をされたことがあるという方も、少なからずおられるのではないでしょうか。

 

 しかしながら、生まれながら障害をもって生まれた子どもは、どんな罪を犯したというのでしょうか。胎児が母親の胎内でどんな罪を犯すのでしょうか。それは、考えられない、あり得ないことでしょう。

 

 「生まれつき」ということは、母親の胎内に身篭ったときからということになります。そこで、生まれつきの障害は、本人ではなく、その両親の問題ではないかという考え方にもなるわけです。そこで、「本人か、それとも両親か」と尋ねるのです。

 

 しかし、もしも両親が犯した罪を、何の罪もない胎児が負わなければならないとしたら、しかもその負い目を一生負い続けなければならないとしたら、それはなんという厳しい罰でしょうか。

 

 ただ、このような考え方になる律法が、十戒に見られます。出エジプト記20章5節に「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが」という言葉があるのです。それをエレミヤ書31章29節で「先祖が酸いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」と言い表しています。

 

 あらためて「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」(2節)という問いに対して主イエスは、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)と答えられました。

 

 ここで主イエスは明確に、障害が罪に対する罰という考え方を否定され、さらに神が目的をもってそのハンディキャップを与えておられると言われたのです。その目的は「神の業がこの人に現れるため」というものです。ここに、ハンディキャップに対する全く新しい視点が示されました。

 

 しかしながら、辛い病や治せない傷を負っている人々にとって、「神の御業が現れるために苦しみが与えられた」という言葉が、そのまま福音になるのでしょうか。あるいは、因果応報の言葉で、諦めを教えられていた人々には、福音かも知れません。病や障害を通して信仰に導かれる人がおられることも事実です。

 

 それでも、神の業が現れるためだから、重い病や障害を負って生まれてもよいだろうなどということにはなりません。信仰があるんだから、眼が見えなくなっても良いと考えることが出来るでしょうか。私には出来ません。ですから、この言葉は理屈で納得出来るというものではないのです。

 

 「神の業がこの人に現れるため」と言われた主イエスと出会い、自分の上に主の業が現れる、自分を通して主の業が現されるという出来事が起きて、神の言葉が真実となることを味わうことができます。それが、福音の出来事であり、神の御業です。

 

 主イエスは、地面に唾をし、それで土をこねて盲人の目に塗り(6節)、「シロアムの池に行って洗いなさい」(7節)と言われました。「シロアム」とは「遣わされた者」という意味だと、そこに解説されています。なぜかこれまで、「遣わされた者」とは、その盲人のことと思い込んでおりましたが、遣わされた者とは、主イエスご自身のことです。

 

 6章29節に「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」と記されていました。主イエスを信じることが神の業であるということは、主イエスを信じる信仰は、神のお働きによって与えられるものと読めます。

 

 シロアムの池の水が、生まれながらの盲人の目を癒すのではありません。「池に行って洗え」と言われた主イエスが、彼の目を癒すのです。盲人が主イエスの言葉に従って行動を起したとき、彼は主イエスを信じる者となっていたのです。

 

 ということは、私たちもそれぞれ、神の業が表れるために生まれた存在であると考えることが出来ます。人それぞれに様々な苦しみ、悲しみを通して、問題を通して、主イエスに近づき、主イエスと出会い、主イエスを信じる信仰に導かれて来たからです。

 

 その恵みを味わいつつ、越し方を振り返って見るとき、私たちが救いに与り、信仰の道を辿るためには、この道しかなかったのではないかと思わされます。そしてそこに、深い主イエスの御愛、そしてまた、主の深いご計画、お導きを知ることができます。

 

 感謝を込めて主の御言葉に耳を傾け、主を信じてその導きに素直に従いましょう。

 

 主よ、人はそれぞれ、どうして私がこのような苦しみを味わうのかと考えることがあります。理由は分かりませんが、あなたが、「神の業が現れるため」と教えてくださったとき、納得したというよりも、そこに喜びや平安を感じました。自分の人生に、神の目的があることを知らされたからです。感謝をもって御言葉に聴き従わせてください。 アーメン

 

 

盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。」 ヨハネによる福音書10章10節

 

 1節以下には、羊飼いが羊をどのように世話しているのかという一端が記されています。これは、パレスティナでは日常よく見られた光景なのだろうと思います。

 

 旧約聖書の中にも、詩編23編やエゼキエル書34章など、羊と羊飼いを題材として記された箇所があります。そこでは、神が羊飼いでイスラエルの民が羊として、また、神によって選ばれた王が羊飼いで民が羊として、描かれています。民は、神の声を聴いてあとに従うように期待されており、王は、神の御心に従って民を養うように期待されているわけです。

 

 主イエスが「羊の囲い」のたとえを話されたのは、羊飼いと羊の関係を予め示し、羊が囲いによって守られることを告げ、羊を正しく導くため、門から入ってくる羊飼いなる指導者と、羊を奪うために囲いを乗り越えてくる盗人、強盗を正しく見分けることを教えるためです。

 

 そうして主イエスはご自分を「羊の門」として示し(7,9節)、さらに「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(11節)と語ります。

 

 「わたしは良い羊飼いである」(エゴー・エイジ・ホ・ポイメーン・ホ・アガソス:I am the good shepherd)は、「わたしは良い羊飼いの一人」という表現ではありません。そうではなく、羊飼いはたくさんいるだろうけれども、「良い羊飼い」と呼ばれるのは主イエス一人だけ、私のほかによい羊飼いはいないという宣言です。それは、主イエスが、羊のために命を捨てるからです。

 

 命を張って羊を守ろうとする羊飼いは、そのために命を落としてしまうかも知れません。しかしながら、ここで言われる「羊のために命を捨てる」というのは、羊を守るためではありません。そうではなく、冒頭の言葉(10節)のとおり、「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるため」なのです。

 

 「豊かに」と訳されている「ペリッソス」という言葉は、「それ以上more」という意味を持つ形容詞です。そこで、10節後半を直訳すれば、「彼らは命を持ち、そして、それ以上(のもの)を持つ」という言葉になります。命以上の命、それを「豊かに受ける」と新共同訳は訳しているわけです。

 

 こうした言葉遣いで見えて来る豊かな命とは、御子キリストから受ける、「永遠の命」のことでしょう(28節ほか)。それは、永遠に生きる命というのが一般的解釈です。

 

 しかし、「命」というのは、呼びかけ、応え、触れ合い、交わりがあってこそです。自分ひとり、永遠に生きることが出来たとしても、心を通い合わせることの出来る友達や家族がそこにいなければ、つまらない寂しい時間が永遠に続くだけです。

 

 ですから、「命を豊かに受ける」とは、私たちに呼びかけられる羊飼いなる主イエスとの交わり、呼びかけに応じた羊たちとの交わりが豊かで、その豊かさには限りがないという言葉であると思います。その関係が、死によっても失われない、永遠に続くとなれば、それは是が非でも手に入れたいものです。

 

 這いつくばってでも天国に行きたいと言われた方がありますが、永遠の命は、自分の努力や執念などで奪い取れるようなものではありません。ただ、主イエスを信じるだけで与えられるのです。でも、そのように言われる背景には、神の救いを疎かにして、信仰によって歩もうとせず、自ら滅びを刈り取ろうとしているように見える人々が少なからずいるということでしょう。

 

 ただ信じるだけで救いの恵みをお与えくださる主イエスは、私たちのためにご自身の命を捨ててくださった救い主です。そのようなお方は、確かに主イエスお一人しかおられません。だからこそ、「良い羊飼い」なのです。命の主を仰ぎ、永遠の命に至る真理の道を真っ直ぐに歩ませて頂きたいと思います。

 

 主よ、今日も私たちの名を呼んで連れ出し、先頭を歩んでくださることを感謝します。あなたの御声を知っていますから、ついて行きます。御心のままに導いてください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

 

「こう言ってから、『ラザロ、出て来なさい』と大声で叫ばれた。」 ヨハネによる福音書11章43節

 

 11章には、驚くべき物語があります。死んで四日もたち、既に腐り始めている死人が生き返ったという話です。その人の名は、ラザロと言います。

 

 ラザロというのは、エレアザルという名前の短縮形だと言われます。英語の名前でウイリアムをビルと呼び、ロバートをボブと呼ぶようなものです。エレアザルというのは、「神が助けたもう」という意味です。ユダヤ人に多くある名前の一つでした。

 

 ラザロには、二人の姉妹がいました。それはマルタとマリアという姉妹です(1節)。この二人は、ルカ福音書10章38節以下の段落とこの箇所の2箇所に登場します。ルカは、二人のいる場所を「ある村」としていましたが、ヨハネは、それが「ベタニア」という名の村であることを明らかにしています(1節)。

 

 二人から兄弟ラザロが病気であるという知らせが主イエスにもたらされますが(3節)、すぐに駆けつけようとはされず、なお二日その場所に滞在されました(6節)。それから出かけて行ってみると、既に葬られて四日もたっていました(17節)。

 

 ということは、すぐに出かけたとしても、死んで二日たっていたという状況であることが分かります。けれども、それだから急いで駆けつけたというのではなく、「この病気は死で終わるものではない」(4節)と仰り、まるでラザロの死を待つかのように、なお二日間同じ所に留まっておられるという行動をとられたのです。

 

 マルタとマリアに出会って言葉を交わし、彼らが泣き、また共にいるユダヤ人たちも泣いているのを見て、主イエスは、「心に憤りを覚え、興奮」(33節)されたと記されています。そして、墓に行くときに、「再び心に憤りを覚え」(38節)られました。愛する者の死が主イエスの心に憤りを呼び起こしたのです。

 

 また、「イエスは涙を流された」(35節)という言葉も記されています。二人の姉妹の心に同調してくださったのです。何があっても動じないというのではなく、どこまでも私たちの心に寄り添ってくださるという、主イエスの愛の心の現われです。

 

 墓の前に立たれた主イエスは、墓穴をふさいでいる石を取り除けさせ(39,41節)、天を仰いで祈られました。祈りの言葉を調べると、そこには、「ラザロを甦らせてください」という願いの言葉ではなく、「願いを聞き入れてくださって感謝します」という言葉があります(41節以下)。

 

 憤りを覚え、興奮した心で(33,38節)、また、涙を流されたときに(35節)、その心のうちに、ラザロを癒してくださいという祈りがあったのかも知れません。そして、主イエスが天を仰がれたとき、神がその祈りを聞いてくださったという感謝が心に満ちて来たのでしょう。それが、言葉となって口をついて出たわけです。

 

 この後、主イエスが「ラザロ、出て来なさい」(43節)と大声で叫ばれると、彼は葬られたままの姿で、墓から出て来ました(44節)。墓に葬られて4日もたっていたというのですから、腐乱した匂いがそこに立ち込めたかもしれません(17,39節)。

 

 それは、昼間の時間帯でなければ、どれほどおどろおどろしい光景でしょうか。しかし、出て来たのは、愛する兄弟です。姉妹たちは、戦きつつも急いで巻かれていた布をほどき、その体を洗ってやったことでしょう。それまでの失意、悲しみ、憤りが、どれほどの喜びとなったことでしょう。

 

 しかし、この後に何が起こったかということは、全く記されていません。それは、ヨハネ福音書において繰り返し語られているように、主イエスはご自分の力や考えで行動されているのではなく、常に父なる神の御心に沿って行動されているから、そしてまた、ご自分に栄誉を求めることを決してなさらないからということを、明確に表していると言えます。

 

 人々は、主イエスの持つ権威がどれほどのものかを、目の当たりにしました。それは、主イエスが死人の名を呼ぶと、死人がそれに答えるということ、つまり主イエスには死人を生き返らせる力、死者に命を与える力があるというものです。

 

 主イエスはマルタに、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(25,26節)と言われましたが、そのとおりのことが起きたのです。

 

 10章4節に、羊は羊飼いの声を知っているので、羊飼いについて行くという言葉がありましたが、まるでラザロは、今まで死んでいなかったかのように、主イエスの言葉に応答しました。それはまさに、ラザロが主イエスの声を知っているからです。

 

 そしてここでも、主イエスとの関係、絆は、死をもってしても切れない、永遠のものであることが示されます。ここに、永遠の命の恵みがあります。そして、主イエスは今日も、親しく私たちの名を呼んでくださっているのです。

 

 主の御声に、「はい、私はここにおります」と答えましょう。主の名を呼び、心から礼拝をささげましょう。 

 

 主よ、あなたの御愛を感謝します。私はここにおります。主よ、語ってください。御言葉を聴かせて下さい。命の恵みの中をあなたに従って歩ませてください。すべてを御手にお委ねします。御名が崇められますように。御国が来ますように。私たちを御霊に満たし、御心を行わせてください。 アーメン

 

 

「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。」 ヨハネによる福音書12章1節

 

 冒頭の言葉(1節)にあるとおり、過越祭の六日前、即ち、「受難週」が始まる直前に、主イエスはベタニア村へ行かれました。そこには、「マリアとその姉妹マルタ」の住む家があり(11章1節)、その兄弟ラザロもいました。

 

 ラザロは、主イエスに死者の中から甦らせていただいたのです(1節、11章43,44節)。主イエスを迎えたマリアの家では、もてなしの用意が整えられ、いつものようのマルタが給仕をしています(ルカ福音書10章38節以下参照)。

 

 ラザロは、主イエスと共に食事の席に着いていました。そこに、マリアが高価なナルドの香油1リトラ(=326g)を持って来て、イエスの足に塗り、髪でそれをぬぐいました。用いられた香油の多さで、ほのかに薫るどころか、その香りで家中が一杯になったと、3節に記されています。

 

 イスカリオテのユダがそれをたしなめて、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5節)と言いました。それは、高価な香油を主イエスに使うのは勿体ない、などということではなかったろうと思います。ほんの少しを使った後、残りを売ってという話でしょう。

 

 300デナリオンと言えば、労働者のおよそ1年分の賃金に相当するものです。300万円にもなるというところでしょうか。香油のことなどよく分かりませんが、現在の香水は、1/4オンス(=7.5ml)1万3千円ほど、1オンス(=30ml)は割安で3万3千円ほどというネットの記事がありました。

 

 香水1オンス30mlのボトルは、かなり大きなものになるということで、1/4オンス入りの香水が売られているわけです。そして、1オンスは28.35gという重さの単位でもあるので、それで計算すれば、香油1リトラはおよそ38万円ほどということになります。

 

 勿論、香油の原材料、そしてどういうブランドかということによって、値段は全く違ったものになるでしょう。マリアが持って来た「純粋で非常に高価なナルドの香油」(3節)というのは、通常の10倍といった高価なものだったのかも知れません。

 

 一滴の香油で、5時間ほどその香りを楽しむことができるそうで、逆に大量に使ってしまえば、よい香りも悪臭となると言われるそうです。となると、香油1リトラ300g以上のものを一度に使えば、その香りはどれほどのものになったのでしょうか。

 

 ただ、主イエスはこの香油のプレゼントを、「わたしの葬りの日のために取って置いたのだから」(7節)と言われて喜ばれました。勿論、マリアは、主イエスの葬りのためにと考えて、香油を足に塗って差し上げたわけではないでしょう。もともとイスラエルには、尊敬する人に香油を塗るという習慣がありましたし、なにより、兄弟ラザロを甦らせていただいた大恩人です。

 

 自分の持っている最高のもので、主イエスをもてなし、感謝の思いを表わしたいと考えていたに違いありません。その意味では、マルタが調えた料理も、最高級のものだったのではないでしょうか。それが、主イエスの十字架の死と葬りへの何よりの餞となったと言われるのです。

 

 そこには、もう一人、大切な人物がいます。それはラザロです。彼は何もしていません。最初に記したとおり、「イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」だけです。大恩ある主イエスのために、彼こそかいがいしく働かなければならないのではと思いますが、病み上がりと申しますか、死んで甦らされた身の上だから、何もしないで座っていなさいとでも言われていたのかもしれません。

 

 そのうえ、彼は聖書の中では一言も発していないのです。したことといえば、主イエスに「ラザロ、出て来なさい」と言われて、葬られていた墓から、布にまかれたまま出て来たことと、それから今、食事の席についている人々の中にいることだけです。

 

 しかしながら、ラザロがそこに座っていることで、主イエスこそ神の御子、救い主であることが、何よりも雄弁に物語られています。主イエスが墓から呼び出した死者が今生きて、主イエスと一緒に食事の席に着いているのです。大群衆がそれを見ようと集まったと言われます(9節)。

 

 香油の香り溢れる家に主イエスがおられ、精一杯のもてなし料理が調えられ、感謝を込めて給仕する姉妹がおり、そして、主の御力を無言のまま力強く証しする兄弟がいる。どんなに豊かな交わりとなったでしょうか。

 

 私たちも、今その主の御力で生かされています。私たちも主の復活と命の証し人なのです。今、復活の主と共に食卓を囲んでいるのです。最もよきものを主にささげて、主イエスを愛する喜びと感謝が満ち溢れる家にしましょう。

 

 主よ、私のような者も主の証人として選び、招いて下さって感謝します。主に愛され、恵みによって生かされています。主を喜び、感謝して、日を過ごさせてください。よきものを主にささげることが出来ますように。 アーメン

 

 

「イエスは答えて、『わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる』と言われた。」 ヨハネによる福音書13章7節

 

 過越祭の前のことと、1節で言われます。過越祭は、ニサンの月(ユダヤ暦第一月、今日の三月下旬から四月中旬)14日正午にエルサレムで過越の羊が屠られ、その晩、即ち、ニサンの月の15日になって、それを食べました。ですから、過越祭の前のことといえば、ニサンの月13日ということになります。

 

 2節の「夕食のときに」というのは、14日の始りです。イスラエルでは、一日を深夜0時からでなく、日没の夕方から始めるからです。創世記1章5節の「夕べがあり、朝があった。第一の日である」というのは、一日の数え方を示しているわけです。

 

 この夕食が、いわゆる「最後の晩餐」です。共観福音書の記事とは全く違う扱いになっています。というのは、共観福音書では最後の晩餐を「過越の食事」としているのに対し(マルコ14章17節以下など)、ヨハネは過越祭の前の日の夕食としているのです。過越祭の時間設定を考えると、ヨハネの方が歴史的に真実に近いのではないかと思われます。

 

 キリストはこの後、ゲッセマネの園で捕えられ(18章1節以下)、サンヒドリンで裁きを受け(同12節以下)、不当裁判で死刑に定められます(マルコ14章64節と並行箇所参照)。弟子たちは逃げ去り、連行される主イエスについて行ったペトロも、繰り返し主イエスとの関係を否定してしまいます(18章15節以下、25節以下)。

 

 翌朝早く、主イエスはピラトの官邸に連行され、そこで十字架刑が確定します(同28節以下)。朝の9時に十字架につけられ(マルコ15章25節)、正午に全地は暗くなり(同33節)、午後3時過ぎに息を引き取られました(同34,37節)。ヨハネは、十字架で死なれた主イエスが、過越祭に屠られる過越の羊と考えているわけです(1章29節参照)。

 

 話を戻して、夕食のとき、主イエスが席を立って上着を脱ぎ、手ぬぐいを腰にまとわれました(4節)。それから、たらいに水を汲んで、弟子たちの足を洗い、腰の手ぬぐいで拭き始められました(5節)。驚いたペトロが、「あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言います(6節)。

 

 というのは当時、足を洗うのは、奴隷の中でも異邦人の奴隷がする仕事だったからです。先生にそれをさせるなんて、そんな恐れ多いことは受け入れられないというのが、ペトロの考えでしょう。それに対して主イエスは冒頭の言葉(7節)のとおり、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われました。

 

 弟子たちの足を洗い終わった後、そのことについて「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」(14,15節)と言われました。

 

 「主であり、師である」(14節)というのは、単にそのように呼ばれているということではありません。ニコデモが「神から来られた教師」と語り(3章2節)、後にトマスが「わたしの主、わたしの神よ」と呼んだお方です(20章28節)。神から来られた教師であり、主であり神であられる主イエスが、奴隷の姿になって弟子たちに奉仕されたのです。

 

 主なる神の愛の奉仕を受ける者は、清い者です。8節で「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われたのは、主イエスの愛の奉仕を拒むならば、清められないまま留まるということです。

 

 主イエスはこの後、十字架にかかって私たちの罪の身代わりに死なれました。それによって救いの道を完成されました。そして、聖霊が注がれたとき、十字架の意味が本当に分かりました。そして、足を洗ってくださった主イエスの深い愛の御心を悟ったと思います。

 

 そして主は、私たちが主を模範として行うように手本を示されたと言われました(15節)。文字通り、足を洗い合いなさいとも読めますが、そこに示されている主イエスの愛を味わったお互いが、主の愛に基づいて互いに愛し合うこと、助け合うことが命じられていると読むべきだろうと思います。

 

 そのときに、主なる神が奴隷となって足を洗ってくださったような、奉仕に生きる心を教えてくださったわけです。その愛に土台して、私たちの愛の関係を築きなさいと教えられるのです。それが、ヨハネの考えている「永遠の命」の交わり、神の国の交わりでしょう。

 

 歴代誌上3章に、ダビデの子孫の系図が記されています。同17節以下に、バビロン捕囚となったエコンヤ以下13代の名が上げられています。そこにペダヤの子ゼルバベルの名があります(同19節)。ゼルバベルは、バビロンから解放されて、最初にエルサレムに戻って来た帰還民の指導者です(エズラ記2章以下)。

 

 彼の最初の仕事は、神の前に祭壇を築いて礼拝をささげ(エズラ記2章2節)、さらに神殿を再建することでした(3章2節以下)。イスラエルの国を建て直すために、まず礼拝をささげ、神殿の基礎をすえたのです。即ち、主なる神との正しい関係なしに、イスラエルの国を建てることはできないと考えていたわけです。

 

 主イエスを信じて罪から解放された私たちも、霊と真理をもって神を礼拝し、主イエスの御愛を基として信仰生活を築き、互いに愛し、助け合いたいと思います。

 

 天のお父様、あなたの愛と御子キリストの恵みにより、今日救いに与り、光の子、神の子どもとして歩むことが許されています。愛を基とし、愛に根ざして生活することを通して、神の愛の広さ、長さ、深さ、高さを知って、いよいよ豊かに神の愛に満たされて愛の業に歩むことが出来ますように。 アーメン

 

 

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」 ヨハネによる福音書14章1節

 

 「心を騒がせるな」という言葉が、冒頭の言葉(1節)と27節に記されています。言葉が繰り返されるということは、それが重要であるということでしょう。あるいは、主イエスからそのように告げられている弟子たちの心が騒いでいるということを、この言葉遣いで示しているのかも知れません。

 

 「心が騒ぐ」のは、思いが千々に乱れるからです。原語は「かき混ぜる(タラッソー)」という動詞(受身形)が使われています。この部分を直訳すると、「あなたがたの心がかき混ぜられないように」となります。

 

 「心がかき混ぜられないように、心騒がせないように」と言われるということは、自分の思いや知識、経験を超えた出来事で、心がかき回される、かき乱されるということです。嵐の海にもまれる小船の中で、どうすればよいのかと思い煩うような心の状態です。

 

 というのも、主イエスが繰り返し、自分を遣わされた方のところに帰る、地上を去る、わたしを探しても見つけることが出来ないと語っておられ(7章34,36節、8章21節、13章33節)、その時がいよいよやって来たからです(12章23節、13章1節、17章1節参照)。

 

 主イエスが十字架に死なれ、天に帰られた後、この地上に残される弟子たちに、どのような運命が待ち受けているのでしょうか。それを考えると、「心を騒がせるな」というのはなかなか無理な相談ではないか、むしろ、心を騒がせるのが当然ではないかと思われます。

 

 この「心を騒がせるな」という言葉に付随して語られている言葉に注目しましょう。1節では、「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われます。足もとが揺すぶられている中で、視線が定まらなければ、目が回ってしまいます。そんな時、「わたしのほうを見なさい」と仰る方に目を向けることが出来れば、荒れる海を見なくてすみます。心を騒がせる必要がなくなります。

 

 ペトロたちが荒れる海の上で「もうだめだ」と思ったとき、船の艫のほうで眠っておられる主イエスを見出し、文句を言います(マルコ福音書4章35節以下、38節)。しかし、彼らが主イエスに集中したとき、風はすっかり凪いでしまいました。問題の中で主に目を向け、御名を呼び求め、問題を打ち明けると、そこに主が介入してくださるのです。

 

 「あなたがたの心がかき乱されないように」という文章で、「あなたがた」は当然複数形ですが、「心(カルディア)」は単数形、そして、「かき乱されないように(メー・タラッセスソウ)」というのも、三人称単数の動詞の命令形が用いられています。人々の心が嵐にかき回されて千々に乱れ、ばらばらになっているというのではなくて、むしろ、一つの心、一つの思いになるようにという言葉遣いです。 

 

 27節には、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」と言われています。世が与える平和、平安はこの地上のもので、状況が変われば、それはすぐに失われてしまいます。心が騒ぎ、おびえ、不安になるのです。

 

 もしも、その平和、平安が自分の心の状態を指すものであれば、それを脅かすものは、枚挙に暇なく、不安や恐れは海の波のように絶えず押し寄せてきます。しかし、主イエスが語られたのは、私の心が安定しているか、平和に保たれているかということではありません。主イエスと父なる神との間にある平和のことです。

 

 主イエスと父なる神との平和の関係を壊し得るものはありません。私たちの罪を身に受けることによって、神に呪われ、捨てられた主イエスは、甦らされて神の右の座に着かれました。私たちの罪も、死も、主イエスと父なる神との関係を壊すことが出来なかったのです。

 

 私たちは、この平和、主イエスと父なる神との間にある平和の関係を頂いて、私たちの主イエスの間に、私たちと父なる神との間に、平和の関係を持たせて頂くことが出来るのです。そしてその平和は、何ものをもっても、奪われたり、破壊されたりすることが出来ないのです。

 

 その保障として「別の弁護者(アロス・パラクレートス)」、即ち「真理の霊(ト・プネウマ・テース・アレーテイアス)」を与えてくださいます(16,17節)。この方が共にあり、内にいて(17節)、すべてのことを教え、主イエスが話されたことを思い起こさせてくださいます(26節)。そうして、いつも主イエスに心を向けるように、私たちを助けてくださるわけです。

 

 御霊の助けを得て、常に主を仰ぎ、御言葉に耳を傾けましょう。心に、主の平和を満たしていただきましょう。 

 

 主よ、心を騒がせるなとの御言葉を感謝します。私たちが心を騒がせていることを、あなたが知っていてくださるからです。そして、心を騒せないでもよいように、真理の御霊をお遣わしくださり、その御霊を通して神の愛を私の心に注ぎ、平和の関係を確認させてくださいます。絶えず、主の御顔を仰がせてください。その御声を聴かせてください。御心に歩ませてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」 ヨハネによる福音書15章16節

 

 主イエスは、主イエスを信じ、主イエスに従う私たちを「わたしの友 my friends」(14節)とされました。「僕(ドゥーロス:奴隷)」ではなく、「友(フィロス)」と呼ばれます(15節)。冒頭の言葉(16節)のように、私たちが主イエスを友と選んだのではありません。主が私たちを選んでくださったのです。

 

 私たちには、主イエスの友として選ばれる資格などありません。神の選びの条件に適合したというわけではないのです。神が一方的な憐れみによって声をかけてくださらなければ、友はおろか、僕となることさえ出来ません。どうして人間の私が、神の選びの子、友となることが出来るでしょうか。選んでくださった主イエスの愛と恵みに感謝するだけです。

 

 その友としての選びは、また任命でもありました。「あなたがたを選んだ」と言われた主イエスは続けて、「わたしがあなたがたを任命した」と言われています。私たちは主イエスに選ばれ、任命され、派遣されて、主イエスのために、主イエスに代わって仕事をするのです。

 

 「任命する」の原語「ティセーミ」には、「置く、定める、設ける」という意味があります。この「ティセーミ」が、13節の「(友のために命を)捨てる」というところに用いられていました。文字通り、主イエスが私たちのために「命を捨てられて」、主イエスに友として「任命された」のです。

 

 私たちのために命を捨てて私たちを贖い、神の子としてくださった主イエスが、私たちにご自分の仕事を託されました。そんなことがあり得るのでしょうか。理屈では到底考えられません。神の愛は、私たちの理屈を超えています。

 

 人間が主イエスの仕事をすることが出来るのでしょうか。出来るはずがありません。どうすればよいのでしょうか。だから主イエスは、「わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるように」、私たちを任命したと言われ、祈ることを教えてくださったのです。何を願いますか。主イエスがしようとしておられることが、私たちを通して実現されるようにと願います。

 

 そのために私たちが任命されているのですから、私たちが主の仕事を実行出来るように、と願います。主は特に、「互いに愛し合え」と命令されています(12,17節)。愛し合うことを通して、私たちが主イエスの弟子であることを皆が知るようになるからです(13章34,35節)。

 

 「わたしの名によって願うものは何でも与えられるように」と、弟子たちに祈るように示された主イエスは、14章13節でも、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」と言われていました。16章23節にも、「あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる」と告げられます。

 

 繰返し、わたしの名で願えと言われていて、主イエスの名をもって祈る、主イエスの名代として祈る、さながら、主イエスご自身が祈っておられるように、その名で祈ること、それで、その祈りがかなえられるということを教えられています。

 

 14章では、主の名による祈りについて語られた後、「別の弁護者」として(14章16節)、「真理の霊」(同17節)なる聖霊が与えられる約束が語られます。さながら、聖霊を主イエスの名で求めなさいと教えられているかのようです。

 

 15章では、主の名によって祈るよう指示した後、迫害の予告が語られます(15章18節以下)。迫害の中で、しかし、別の弁護者なる真理の霊の主イエスについての証しを受けて(同26節)、弟子たちも証しをすると言われます(同27節)。聖霊の満たしにより力を受けて、主イエスの証人とされるのです(使徒言行録1章8節)。

 

 かつて、アウシュビッツのユダヤ人強制収容所では、脱走者が出ると見せしめのために数人をガス室送りにしていたそうです。あるとき、脱走者が出て、見せしめのための犠牲者が数名、その名を呼ばれました。そのうちの若い一人が、妻子家族のことを思って泣き始めました。

 

 そのとき、一人の人物が、その若者の身代わりを申し出ました。それはポーランド人の神父、日本でもお働きになったことがある、マキシミリアノ・コルベ先生です。先生は、その若者に代わって処刑棟(餓死塔)に連れられて行きました。先生が入れられた監房からは、ロザリオの祈りや賛美の声が聞かれ、苦しみの中で人々を励まし、仲間の臨終を見送ったそうです。

 

 監房に入れられてから2週間後、死を早めるための注射が打たれ、先生は永遠の眠りにつきました。その顔は、神の栄光に輝いていたそうです。主イエスに代わって十字架の愛を示された、美しい物語です。カトリック教会は、先生を『愛の殉教者』と呼びました。

 

 そして「『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない』とキリストは語った。コルベ神父は文字通りこの言葉を実行した。彼は自分が身代わりとなることで、ひとりの命を救っただけでなく、他の受刑者と苦しみを共にすることを選んだ。彼は最期まで、見捨てられ絶望した人々の友であった。そして、彼の名は永遠に全世界の人々に記憶されることになった」と称えています。

 

 主に愛され、罪赦されて神の子とされ、友と呼んでいただいている者として、主を愛し、隣人を愛する愛に生きることが出来るよう、聖霊の導きを願い、主イエスの名によって祈りましょう。

 

 主よ、私たちには、他者のために命をささげる勇気も力もありません。しかし、主イエスは私たちのために命を捨ててくださいました。私たちにも、主イエスの仕事が出来るように、必要な力と勇気を与えてください。 アーメン

 

 

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 ヨハネによる福音書16章33節

 

 16章は、主イエスの訣別説教(14~16章)の結論になるような部分です。この説教の初めに、「心を騒がせるな」(14章1節)と言われていました。主イエスがこの世を去られるというときに、どれほど弟子たちの心が騒いだことでしょうか。

 

 そこで、主イエスは弟子たちに対して、「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな、おびえるな」(同27節)と再度言われ、そして冒頭の言葉(33節)で「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」と語られているわけです。

 

 このように語られることで、主イエスとの別れが弟子たちにとって、どんなに辛く悲しいことであるかということ、それによって弟子たちがどれほど平安を失い、うろたえることになるかということが示されています。

 

 訣別説教が語られる直前、主イエスが夕食のとき、弟子たちの足を洗われた後に、弟子の一人が主イエスを裏切るという予告をされました(13章21節以下)。それは、イスカリオテのユダの裏切りについて語られたものでした。

 

 さらに、「互いに愛し合いなさい」(同31節以下)という掟を与えられた後に、今度はペトロの裏切りが予告されます(同36節以下)。イスカリオテのユダのようにはなるまいと歌う聖歌もありますが、ユダさえいなければ、主イエスの弟子は皆大丈夫かというと、そうではなかったのです。

 

 そうして、三度主イエスを否んだペトロを除けば、残りの10人は大丈夫か、裏切りはしないのかというと、ゲッセマネの園で主イエスが祭司長の下役どもに捕えられたとき、残りの者は皆、主イエスを捨てて一目散に逃げ出しています。つまり、裏切りというのは、この二人だけの問題なのではなく、12人全員の問題なのです。

 

 そしてそれは、私たち主イエスを信じるクリスチャンすべての者にとっても、決して無縁の話ではありません。世の荒波に苦しめられることになれば、自力でそれに打ち勝つことが出来ず、状況次第で主イエスを裏切る結果となることを示しています。

 

 もう一度申しますが、そのために主イエスはこの説教で、「心を騒がせるな。神を信じなさい」(14章1節)と語り始められ、そして、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)という言葉で結んでおられるのです。

 

 「勇気を出しなさい」と言われているということは、勇気を必要とする状況に直面するということです。それは、この世に苦難があるからであり、特に、信仰を守るのに困難な事態が待ち受けているということです。

 

 主イエスはここで、「わたしは既に世に勝っている」と言われました。それは、大変力強い勝利の宣言です。私は勝利者であるという宣言をなさったわけですが、主イエスはどのように勝利をなさっていらっしゃるというのでしょうか。

 

 それは、どんな敵がやってきても、退け、打ち破ることが出来る。十字架などにはかからない、弟子に裏切らせはしない、皆を守るということでもありません。実際、主イエスはこの後、宗教指導者たちの遣わした者たちに捕えられ、嘲られ、鞭打たれ、十字架につけられ、殺され、葬られます。いったい、どこに主イエスの勝利があるのでしょうか。

 

 考えてみれば、主イエスはお生まれになったときから、勝利者という様子ではありませんでした。貧しい両親のもとで、ベツレヘムの宿屋の家畜小屋で産声を上げられました。彼らが宿泊できる部屋がなかったからです。そこで布にくるまれ、飼い葉桶に寝かされました。

 

 公生涯に入り、神の国の福音を宣べ伝え、病を癒やし、悪霊を追い出す愛の業をなさいましたが、宗教指導者たちによって捕らえられ、不当な裁判で死罪を申し渡され、十字架につけられ、殺されました。どこに主イエスの勝利があるというのでしょうか。そんな様子を見た弟子たちは、およそ主イエスに従って行きたいと思えず、むしろ、主イエスを捨てて逃げ去ったのです。

 

 主イエスが「勇気を出しなさい」と言われたのは、御自分のことでもあったと思います。大胆さが必要でした。たとい御自分の愛された弟子すべてに裏切られようと、宗教指導者たちによって捕えられ、助ける者なく、嘲られ、罵られ、十字架に殺されようとも、怯まず進む。否、勇気を出して大胆に進むのです。

 

 確かに、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」と願われ、祈られましたけれども、それが、神の御旨であるならば、勇気を出し、大胆に進みましょうというわけです。主イエスにとって、勇気を出して進むとは、父なる神から委ねられた贖いの御業を行うことであり、そして、既に世に勝っていると言われるのは、その使命を全うすることが出来、救いの御業が完成したということです。

 

 ここで主イエスは、裏切る弟子たちを、責めたり、裁かれたりしてはいません。むしろ、彼らを愛されました。13章1節には、「この世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記されています。主が愛された弟子とは、主イエスを裏切る弟子たちのことです。主イエスに足を洗っていただいた弟子の中に、イスカリオテのユダも、そしてペトロもいました。

 

 ご自分を裏切る弟子たちに愛を注いで彼らの足を洗い、そして勇気を出せと語られたのは、彼らが、どんな困難に直面しても、それを乗り越えられるからではありません。主イエスの愛の支えなしには、憐れみと助けなしには、到底勝利することが出来ないからです。事実、彼らはこの苦難に直面して、イエスを裏切ることになります。

 

 主イエスは、そのような弟子たちの裏切りや、主イエスを亡き者にしようとする宗教指導者たちの悪の力に打ち負かされないこと、それは、悪をもって悪に報いるのではなく、悪に対して祝福をもって、愛をもって応えることを通して、世に対する勝利を表されたのです。

 

 あらためて、私たちが勝利の主を仰ぎ、勇気を出して主の御足跡に従って行くことが出来るように、主が用意されたものとは何でしょうか。第一に、それは主イエスが私たちを愛していてくださるということです。それは、13章に示された、私たちを清める愛、仕える愛です。

 

 愛によって私たちの罪を赦し、あらゆる不義から私たちを清め、神の子として生きることが出来るよう、支えてくれています。主イエスを信じる者、その名を信じる人々には、神の子となる資格、特権、力を与えると、1章12節に記されています。

 

 私たちが主イエスを信じることが出来たのは、聖霊の導きでした。訣別説教の中で主イエスが繰り返し語られた重要なメッセージは、父なる神が天から聖霊が遣わされるということです(14章16,26節、15章26節、16章7節)。

 

 主イエスは聖霊を「(別の)弁護者」(14章16,26節、15章26節、16章7節)、「真理の霊」(14章17節、15章26節、16章13節)と呼んでおられます。聖霊が父なる神の許から送られて来て、永遠に一緒にいるようにしてくださること(14章16節)、すべてのことを教え、主イエスの話を思い起こさせてくださいます(同26節)。

 

 さらに、聖霊が主イエスについて証しをされること(15章26節)、主イエスが去って聖霊が送られて来る方が弟子の益になること(16章7節)、人々を導いて真理を悟らせ、主イエスに栄光を与えること(同13節以下)など、繰り返し聖霊について語られています。

 

 「弁護者」とは、パラクレートスというギリシャ語で、「パラ」は「傍ら(near by)」、「クレートス」は「呼ぶ(call)」です。傍らに呼ぶという表現で、傍らで助けてくれる援助者ということから、助け主、慰め主、弁護者などと訳されて来ました。

 

 私たちは、主イエスがもう一度おいでになるのを信じ待ち望んでいますが、主イエスは聖霊を通して、救いを完成する働きを始めていてくださるということになります。主イエスに代わり、弁護者としてお働きくださる聖霊が、私たちに勇気を与えてくださるというわけです。これが、第二に主が備えてくださったものです。

 

 第三は、「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆にくれるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない」(20,21節)と記されているところです。

 

 出産時、この世のものとも思えないほどの痛み、苦しみを味わうそうですが、ですから、二度と子どもなんか産むものかと思うそうですね。ところが、生まれ出た愛しい赤子を胸に抱きながら、もう一人産んでもいいかなあと思えると言われます。子どもを産んだ後、その痛み、苦しみを忘れてしまうんですね。

 

 それによって、本当に嬉しいこと、喜ばしいことというのは、苦しみの後、苦難や試練を耐え忍んだ後にやって来るということを、教えてくださっているのかもしれません。私たちの苦しみは、その喜びを受け取るための試練、私たちに忍耐させ、鍛錬するためのものだったのだとと受け止めさせるためではないかとも思います。

 

 この世の試練はどんなに厳しくあっても、それはしばらくのことで、やがて与えられる永遠の栄光の重みに比べれば、それは取るに足りません(ロマ書8章18節、第二コリント書4章17節)。喜びを手にすれば、苦労は全部忘れてしまいます。主は、永遠の喜びを私たちのために用意され、だから、勇気を出せと言われるのです。

 

 主の用意された愛に満たされ、聖霊に満たされ、喜びに満たされて、勇気を出して大胆に、主に従う道を歩み、主の手足となって働かせて頂きましょう。愛の主を信じ、示されているところに従い、主の御業のために全力で励んでいきたいと思います。

 

 主よ、今私たちは、かつて経験したことのない試練の中にいます。先が見通せず、途方に暮れる思いです。主よ、いつも私たちと共におられ、弱く貧しい私たちを守り支えてくださり、心から感謝します。日々主を仰ぎ、み言葉に耳を傾け、御旨を行う者とならせてください。主の手足として働くことができるよう、御霊の力、神の愛、主の喜びと平安に常に豊かに与らせてください。 アーメン

 

 

「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。」 ヨハネによる福音書17章22節

 

 17章には、「大祭司の祈り」とも呼ばれる「イエスの祈り」が記されています。主イエスはこの祈りにおいて、この後すぐに訣別の時を迎えることになる弟子たちのために、執り成しの祈りをささげておられるのです。

 

 この祈りの中心的主題は、この世に遣わされた子なる神イエス・キリストと天の父なる神との一体性といってよいでしょう。この一体性については、10章30節に既に「わたしと父とは一つである」と主イエスによって語られていました。そしてその一体性が、主イエスを受け入れた弟子たちにまで拡げられているのです(11,21~23節)。

 

  この祈りの中に、「栄光」という二文字が繰り返し出てきます。まず、「子に栄光を与えてください」(1節)という願いが記されます。「栄光」というと、私たちは単純に、多くの人が褒めてくれたり、羨ましく思ってくれること、特にその道の権威者と言われる方に認められること、それによって高い地位や名誉を得ること、またたくさんのお金を手にすることと考えていたりします。

 

 しかし、主イエスが語られた栄光は、そのようなものではありません。神の御子として、父なる神の栄光を現すために、「栄光を与えてください」と求めておられるのです。4節との関連で、父なる神の栄光を現すとは、神の御業を成し遂げることです。それは、十字架に死んで贖いの業を成し遂げられ、高く上げられることを示しています。

 

 その栄光は、主イエスが世界の造られる前にみもとで持っていたものだと語られています(5節)。即ち、主イエスがこの世に遣わされる前に、神の御子としての栄光を持っておられたということです。

 

 その栄光をもう一度受け取るということは、主イエスが天に帰られること、神の右の座に着かれることを意味します。父と子が共に栄光を現すということは、その本質が神であられるという点でまさに一つ、一体なのです。

 

 そして冒頭の言葉(22節)で、「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました」と言われています。主イエスがご自分を信じる者に神の栄光を与えられたというのは、神の御名を知らせたということです(6,26節)。

 

 名はその人格を表し、そして、「知る」とは、人格的な交わりがあることを意味します。ヘブライ語で「知る」とは、肉体の交わりを伴うもので、それによって愛の結晶を身ごもるという記述を、旧約聖書で見出すことが出来ます(創世記4章1節など)。そういう意味では、相手を愛するという表現と考えてもよいでしょう。

 

 また、神の御名を知らせたとは、神がご自身を明らかにされたということで、主イエスの宣教と病の癒し、悪霊追放などの活動において神がお働きになり、そこで私たちと出会ってくださったということでしょう。 言い換えれば、主イエスを通して私たちに神を信じる信仰をお与えになり、それによって私たちは自分が神のものとされていることを知ったのです。

 

 あらためて、冒頭の言葉(22節)で「栄光を、わたしは彼らに与えました」というのは、父なる神の名が知らされることで(6,11,26節)、それは、御子キリストが父なる神と一つであられるように、私たちも御子キリストを信じる信仰によって一つになるためであると説明されています(23節も参照)。

 

 神の御子キリストが父の御心を行って、父なる神の栄光を表されました。それが神の御子の栄光であって、父と御子が一つであることが初めに示されました(4節)。私たちが御子キリストの御言葉に忠実に従って御子の栄光を表すとき、それが私たちの栄光となります(6,10節)。そこに、私たちと御子とが一体であることが示されます。

 

  「永遠の命」とは豊かな交わり、絆のことであると以前学びました(10章10節、第一ヨハネ1章4,7節)。それは3節で「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と語られているとおりです。

 

 主イエスとの深い交わりに与るとき、主イエスを信じる者同士の間にも深い交わりが作られ、それが「永遠の命」と語られているように、その深い絆、関係は、病気や私たちの罪、死などで壊されはしないことが示されます。

 

 先に召された方々は、死んでおしまいになったのではありません。天において新しい命に生かされています。その方々を目に見ることはできませんが、私たちとの絆は切れていないのです。そして、私たちが地上で礼拝をささげているように、彼らは天において主を礼拝しているのです。  

 

 御子キリストは、「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13章34節)と命じられました。「それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(同35節)とも語られています。主イエスと私たちの間の一致は、信じる者同士の間の一致であり、縦横に深い交わりがあるということです。

 

 それは同時に、ヨハネが示している「福音宣教」ということでもあります。互いに愛し合うことが、主イエスの弟子であることの目印だからです。そして、主イエスが天にお帰りになった後、主イエスが神の御子であられ、天の父と一つなるお方であることを告げ知らせ、そのことを通して、すべての者が主なる神との一体性に与るようになるのです。

 

 21節に「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになります」とあるのは、そのことです。

 

 主イエスが祈られたその祈りに支えられ、導かれて、互いに愛し合い、支え合い、祈り合い、喜びと希望と平安をもって日々豊かに歩ませて頂きましょう。 

 

 主よ、御子キリストが私たちに教えてくださったように、絶えず御名を呼び求めます。主の御名を呼ぶ者は救われるからです。父と御子のうちに、わたしたちを一つにしてください。御言葉と祈りによる交わりを通して、主がお与えくださった豊かな命に生きることが出来ますように。互いに愛し合うことを通して主の恵みを証しさせてください。 アーメン

 

 

「ピラトは言った。『真理とは何か。』」 ヨハネによる福音書18章38節

 

 18章には、主イエスがイスカリオテのユダに率いられたイスラエル駐留のローマ兵やユダヤ人の下役らによって捕えられ(1節以下)、大祭司のもとに連行されて(12節以下)、尋問を受ける様子が描かれています(19節以下)。

 

 最後の晩餐(13章)、訣別の説教(14~16章)、そして、「大祭司の祈り」(17章)の後、主イエス一行はキドロンの谷の向こうに出て行かれ、そこにある園に入られました(1節)。そこは、主イエスが弟子たちとたびたび集まっておられた場所で、イスカリオテのユダも、その場所を知っていました(2節)。主イエスはそこで捕らえられるのです。

 

 ヨハネは、その園での主イエスの祈りを記しません。その代わりに、剣を抜いて大祭司の耳を切り落としたペトロに「剣をさやに納めなさい」(11節)と制した後、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」(11節)とお語りになり、マルコ14章36節の祈りの言葉との関連を思わせています。 

 

 大祭司の屋敷でどのような尋問がなされたのか、殆ど何も記されていませんので、何を根拠にそう判断したのかは示されていませんが、その後、総督ピラトの官邸に連れて行った際の(28節以下)「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」(31節)という発言から、主イエスを死罪と断じていたことが分かります。

 

 けれども、死刑の執行権がないので、ピラトにそれを願い出ているというのです。どうも短い期間、死刑を執行する権利をローマによって奪われていたようです。8章で、姦通の現場で捕らえられた女性に石打ちの刑を執行しようとしました。また、10章31節では、神を冒涜しているとして、石で打ち殺そうとしたとあります。これらのときには、彼らが死刑を執行しようと思えば、出来たわけです。

 

 また、使徒言行録7章54節以下では、ステファノが神殿と律法をけなしているという罪で石打ちの刑に処せられています。こうしてみると、死刑執行の権限が奪われていたのは、ごく短い期間だったようです。

 

 そのことについて32節に「それは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった」と記されています。主イエスの予告が実現するために、そのような措置がとられたと説明しているわけです。

 

 3章14節で主イエスは、「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」と言われ、木に架けて殺されることを示しておられました。12章32節にも同様の表現があります。これは、民数記21章4節以下の故事を引き合いに出して、主イエスが十字架にかけられることで、人々に命を与える贖いの業を成し遂げると語られていたわけです。

 

 ところで、ユダヤには人を十字架につけて殺すという処刑法はありません。「木に架けられた死体は、神に呪われたもの」(申命記21章22,23)という言葉はありますが、これは処刑法ではなく、死体を木にかけて人目にさらすというものでした。しかも、どういう罪を犯せば、木に架けられることになるのかという規定はないのです。

 

 上述のように、姦通罪や神を冒涜する罪は、石打ちによって処刑されました。もし、死刑執行の権限が奪われていなければ、主イエスは石で打ち殺されることになり、教会の屋根には十字架ではなく、石が乗っているということになったのかもしれません。

 

 しかし、それでは主イエスの言われていたことが実現しなかったということになります。だから、主イエスの御言葉を実現させるために、死刑執行権が一時的にローマによって取り上げられ、ローマの法律によって「木に架けられる」という刑が執行されることになったのです。

 

 そう考えると、ユダヤがローマに占領されていたというのは、ユダヤ人にとっては辛く悲しいことだったでしょうけれども、それが、主イエスが予告しておられたとおり十字架に架けられ、神の呪いを一身に受けて、私たちの救いの道を開くことになったのです。主の御旨が実現するために、主はどんなことも益となるように用いられるのです。

 

 さて、「お前がユダヤ人の王なのか」(33節)というピラトの問いに主イエスは、「わたしの国はこの世には属していない」(36節)と言われ、「それでは、やはり王なのか」(37節)というピラトに、「そうだ」と答えるかわりに、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言われました。

 

 この世に属さない主イエスの御国は真理によって成り、その国の民は真理に属していて、主イエスの声、真理の御言葉に従うのです。それを聞いたピラトが、冒頭の言葉(38節)のとおり、「真理とは何か」と尋ねました。そう尋ねることで、ピラトが真理に属していないこと、主イエスの国の民でないことが示されています。

 

 ピラトの問いに対する主イエスの答えは、ここに記されていません。ピラトにとって興味のあったのは、主イエスがどんな社会的、政治的な罪を犯したのかということでした(35節)。そして、その点に関しては、ピラトは既に主イエスが潔白であると断言できたのです(39節)。

 

 ヨハネ福音書に、「真理」という言葉が合計24回用いられています。このピラトの問いで用いられたのが24回目、つまり最後の用例です。ここに答えが記されていないのは、主イエスがお答えにならなかったということよりも、読者に対して、あなたはどう答えますかと問いかけているわけです。

 

 主イエスの語られる真理とは、「1+1=2」という定理や科学的な法則などではありません。1章14,17節によれば、真理は、恵みと共に「言」なる主イエスの内に満ちているものです。17章17節に「あなたの御言葉は真理です」と言われています。真理なる神の御言葉が、人の体をとってこの世に来られた、それが、恵みと真理に満ちている主イエスだということです。

 

 8章32節では、主イエスの御言葉に真理があり、その真理で私たちを自由にすると言われます。そして14章6節で、「わたしは真理である」と言われました。それは、主イエスの他に真理なるものはないという宣言でもあります。

 

 かくて、真理とは、主イエスとその御言葉のことであると、ヨハネ福音書は教えているのです。その主イエスに対して、真実をもって応答することが信仰であり、父なる神が望まれるまことの礼拝とは、霊と真理をもってなされる礼拝だということです(4章24節)。

 

 父なる神を「霊と真理をもって礼拝」するということは、霊なる神と真理なる御子イエスとともに父なる神を礼拝するということでしょう。御子は父の御心を行って栄光を現し(17章4節)、霊は、御子について証しをして御子に栄光を与えます(16章14節)。

 

 そして、父なる神は御子だけでなく、霊なる神をも、私たちのために「弁護者」としてお遣わしくださったのです(14章16節)。御子と同じ弁護者としての役割を担い、御子について証しする働きをするために、霊なる神のことを、同17節では「真理の霊」と呼んでいます。

 

 主イエスは「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する者は皆、わたしの声を聞く」(37節)と言われました。真理に属するというのは、真理の内にあり、真理とつながり、真理を基として行動することということでしょう。その人が真理というのではないけれども、真理がその人のうちにあり、またその人が真理とつながっているということです。

 

 ヨハネの言葉遣いで、真理とつながるというのは、真理なる主イエスを信じるということです。主イエスを信じる者は、主イエスの御言葉に耳を傾け、それを守り、そこに留まります。それがまさしく、信仰による主イエスと信仰者との関係です。そこに真実な交わりがあります。その交わりに命があります。だから、生きる力が与えられるのです。

 

 主イエスの国は真理によってなり、その国民は主イエスの御言葉に従います。主イエスは、この真理の国の王なのです。「王」という漢字は、第一画が天、第四画は地を表わし、そして、天と地をつなぐ十字架が置かれて、天と地の架け橋として十字架に架けられたお方こそ、王なのだと教えています。

 

 真理の王なる主イエスの御国に属する民として、主イエスの真理の御言葉に耳を傾け、それを守り行う者とならせて頂きましょう。

 

 主よ、御子イエスが私たちのために十字架に命を捨ててくださいました。それによって私たちは愛ということを知りました。主イエスこそ真の神、真の王です。その深い愛に応え、主イエスの御言葉に聞き従います。真理の例をもって私たちを導き、御業のために用いてください。 アーメン

 

 

「イエスは自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。」 ヨハネによる福音書19章17節

 

 イスラエルの総督としてローマから派遣されてきたピラトは、主イエスに何の罪も見出せないと言いながら(4,6節、18章38節)、鞭で打たせ(1節)、それでなんとか釈放しようと努めるも(12節)、最後にはユダヤ人たちに押されて、主イエスを十字架につけるために彼らに引き渡してしまいました(16節)。

 

 ピラトは主イエスに対して、「お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」(10節)と言っています。ローマ帝国の武力を背景とした圧倒的な権限で、ユダヤ人たちの声を突っぱねてしまうことも出来たでしょう。逆らう者を処刑することも出来たでしょう。なぜ、無実の罪と考えているのに、十字架につけるために引き渡してしまったのでしょう。

 

 ピラトは、ユダヤ人たちに妥協するのは内心穏やかでないかもしれませんが、ユダヤ人の一人が死んで、エルサレムの町が平穏になるなら、またそれによって、ユダヤ人たちに対して借りを作るようなことが出来るなら、それもよいと考えたのではないでしょうか。

 

 18章38節で「真理とは何か」と主イエスに尋ねていましたが、そのことでピラトは、自分の内に真理を持っていないということを表明していました。即ち、彼は真理に基づき、真実が何かを判断して行動するのではなく、別の基準、たとえば損得勘定で、目先の利益を考えて行動しているのです。そしてこのことは、かく言う私自身の問題でもあります。

 

 けれども、実際にこの場面を支配しているのは、ローマ総督でも、ユダヤ人たちでもありません。悪しき力が支配しているようでありながら、どっこい、主なる神が支配しておられるのです。ゆえに、主イエスはピラトに答えて、「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ」(11節)と仰っています。

 

 主イエスを十字架につける権限をピラトに与えたのは、ピラトを総督として派遣しているローマ帝国、その頂点にいる皇帝ではなく、十字架につけるよう要求しているユダヤ教指導者でも、また彼らに扇動された群衆でもなく、天の父なる神であるという宣言です。そして主イエスは、天の父なる神の御心に完全に従って、彼らの手に陥り、十字架にかけられようとしているのです。

 

 そのことは、先に10章18節で「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である」と言われていました。

 

 ですから、冒頭の言葉(17節)のように「イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる『されこうべの場所』、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所に向かわれた」と記されるのです。

 

 ヨハネは他の福音書とは異なり、十字架を無理に背負わされたことや、キレネ人シモンの手を借りて十字架をゴルゴタまで運んだという出来事、宗教指導者たちや群衆、一緒に十字架につけられた強盗らによる主イエスの嘲り、死の直前に襲った暗闇、神殿の垂れ幕が裂けたことなどを、全く記述してはいません(マルコ福音書15章21節以下、その並行箇所を参照)。

 

 しかし、最後の晩餐の後(13~17章)、夜遅くゲッセマネの園で捕えられ(18章1節以下、12節)、大祭司官邸において尋問を受け(18章13節以下)、引き続きピラトの総督官邸に連行されて、そこでも尋問を受けておられます(18章28節以下)。

 

 そして、鞭で打たれました(1節)。その上、全人類の罪を一身に背負って「されこうべの場所」ゴルゴタへ向かわれ(17節)、十字架に磔にされました(18節)。だから、自力で十字架を担ぐのは到底無理だったのではないでしょうか。

 

 それでもヨハネは、実際にはゴルゴタに向かってよろよろと進まれる主イエス、自分の十字架をシモンに担ってもらわざるを得なかった主イエスを見ながら、それは主イエスが自ら選ばれた道、ご自分が担われた十字架の道であり、そしてそれは、誰にも代わってもらうことの出来ない道なのだということを、このように書き表しているのです。

 

 そして最後に「成し遂げられた」(テテレスタイ)と言われます(30節、28節も)。ここには、「終える、完了する、支払う」(テレオー)という動詞の完了形が用いられています。完了してしまった、支払いが終わってしまったということです。

 

 そしてこれは、受け身形です。新共同訳が正当に「成し遂げられた」と訳しています。即ち、すべてのことを成し遂げたのは主イエスではなく、父なる神だということです。すべてが成し遂げられました。これ以上、私たちの救いのために主なる神が何事かをなさることはありません。ここに、聖書に預言されていた救いの道が完成したのです(28節)。

 

 だから、すべての人が、主イエスの十字架において父なる神によって完成された救いの道、真理の道、命の道を歩んで、父なる神のもとに行けばよいのです(14章6節参照)。それはつまり、すべての人が主イエスを信じればよいということです。

 

 天のお父様、「わたしは道であり、真理であり、命である」と言われた主イエスを信じます。主の道を歩んで真理を悟り、永遠の命に与り、御もとに行かせてください。求める者には得させ、探す者には見出させ、門を叩く者には開かれるようにしてくださることを感謝します。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。』」 ヨハネ福音書20章22,23節

 

 20章には、主イエスの復活の日の出来事が記されています。

 

 最初に空の墓を発見したのは、マグダラのマリアです(1節以下)。それを見たマリアは、とって返してペトロたちに「主が墓から取り去られました」(2節)と報告します。それで、ペトロともう一人の弟子が墓に急ぎます。そこで、主イエスの遺体を包んだ亜麻布と頭を包んでいた覆いが別々に置かれているのを見ます(7節)。それは、遺体が盗み出されたものではないというしるしでしょう。

 

 8節は衝撃的な証言で、「先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」と記されています。彼は空の墓を見て、それを主イエスが復活された証拠と信じることが出来たということです。

 

 そのことについて、ペトロはどうであったのか、何も触れられてはいません。けれども、「もう一人の弟子も」というのが、「入って来て、見て、信じた」のすべての動詞にかかるので、これはペトロもそうだったという言葉遣いと考えるべきでしょう。

 

 にも拘わらず、「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」(9節)というのは驚きです。二人は、聖書の言葉を理解しないまま、空の墓という証拠をもって主イエスが復活されているという信仰に到達しているからです。つまり、後になって、聖書の言葉の成就だと確認されたと告げているのです。

 

 ペトロたちが家に帰った後(10節)、一人残されたマリアは復活された主イエスと出会い(14節以下)、「わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る」(17節)というメッセージを託されます。

 

 墓から戻ったペトロたちやマリアの報告を受けた弟子たちは、しかし、ユダヤ人を恐れて家に閉じこもっていました(19節)。するとそこへ、主イエスが姿を現されました。「あなたがたに平和があるように」(19,21節)と二度言われた後、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」(21節)と言われます。

 

 それは、再び彼らを使徒として立てるという辞令です。それは、17章18節の「わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」という祈りの言葉に基づくものであり、であれば、その派遣は、「すべての人を一つに」(同21節)するため、「彼らもわたしたちの内にいるように」(同節)にするためのものです。

 

 主イエスは彼らを派遣するにあたり、彼らに息を吹きかけながら、冒頭の言葉(22節)のように、「聖霊を受けなさい」と言われました。息を吹きかける行為は、創世記2章で主なる神が人を土で形作り、その鼻に命の息を吹き入れられたことを連想させます。

 

 そのようにしながら、「聖霊を受けなさい」と言われたのは、主イエスが神の権威をもって、命を息を弟子たちに吹きかけ、弟子たちを新たに生かされたということであり、聖霊を受けることなしに、主イエスに従って生きる者とはなり得ないということを示しています。

 

 このことは、使徒言行録において、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたし(主イエス)の証人となる」(使徒1章8節)と言われていることでもあります。主イエスの証人となりたければ、聖霊の力を受けなければなりません。

 

 どうすれば、聖霊を受けることが出来るのでしょうか。7章37節に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と語られています。そして同39節に「イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている霊についていわれたのである」と説明されています。

 

 つまり、主イエスの証人となるために、聖霊の力を求める人にはだれにでも与えられるということです。ルカ福音書11章13節にも「天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と記されています。求めれば、与えられるのです(同9節、マタイ福音書7章7節)。

 

 そうして、聖霊を受けた使徒たちに託されたのは、赦しの福音を告げ知らせることです。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その人は赦される」と記されています。罪を赦す権威は、人には与えられていません(マルコ福音書2章7,10節参照)。しかし、聖霊の力を受け、主イエスの証人として福音を宣べ伝えるとき、そこに罪の赦しの恵みがもたらされ、すべての民が一つとされるのです。

 

 ですから、「あなたがたが赦さなければ」というのは、赦す赦さないを判断するというよりも、私たちの怠慢により、あるいは不信仰によって、福音が伝えられなければ、罪が罪として残されたままになる、民を一つにすることが出来ないということでしょう。そのとき、罪人は自らの責任を免れるわけではありませんが、その責任は遣わされた使徒たちにあると言われることでしょう。

 

 このことは、マタイ福音書16章19節で「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と語られていること同じです。ここで「天の国の鍵」と言われているのが、「罪を赦す権威」です。

 

 この「天の国の鍵」を用いてすべての人々の罪が赦されるように、聖霊を受けて福音を宣べ伝える働きに遣わされ、出て行きましょう。共に主の証人として用いられるよう、御霊の満たしを求めて御前に進みましょう。主の御言葉に耳を傾け、行くべきところに行き、語るべき言葉を語り、なすべきことをなし、留まるべきところに留まりましょう。 

 

 主よ、御子キリストが私たちの罪の贖いを成し遂げて三日目に甦られ、今も生きて私たちに「聖霊を受けよ」と語りつつ、息を吹きかけてくださったことを感謝します。聖霊の力に満たされて、福音宣教の業に励みます。拙い者ですが、私たちの働きを祝福してご自身の栄光を現してください。御名が崇められますように。御国が来ますように。この地に御心が行われますように。 アーメン

 

 

「シモン・ペトロが、『わたしは漁に行く』と言うと、彼らは、『わたしたちも一緒に 行こう』と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。」 ヨハネによる福音書21章3節

 

 シモン・ペトロ以下、7名の弟子たちがティベリアス湖畔にいました(1,2節)。ティベリアス湖とはガリラヤ湖のことです。6章1節に「イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた」と記されていました。

 

 湖の西岸にガリラヤとペレアの領主であったヘロデ・アンティパスが、その領地の首都として建設した町があり、それをローマ皇帝ティベリウスの名にちなんで、ティベリアスと命名しました。それに伴って、ガリラヤ湖もティベリアスの名で呼ばれるようになったものです。

 

 7人のうち、名が記されるのは「シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル」(2節)の3人だけで、あとは「ゼベダイの子たち、それに、他の二人の弟子」(2節)と言われます。

 

 「ゼベダイの子たち」とは、ヤコブとヨハネのことです(マルコ1章19節)。他の二人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレ(1章40節)、そしてナタナエルを主イエスに引き合わせたフィリポでしょうか(同43節以下)。

 

 そうだとすると、何故そのように名を示さないで、このような記し方になっているのか、また残りの5人、特に主イエスを大祭司らに売り渡したイスカリオテのユダはどうしたのかなど、詳細は全く不明です。あるいは、7人とされているのは、ヨハネ黙示録1章4,5,11節に記されている教会が7つ、ということと関連しているのかも知れません。

 

 さて、冒頭の言葉(3節)のとおり、ペトロが「わたしは漁に行く」というと、皆が一緒に行くと言います。彼らは皆、甦られた主イエスに出会い(20章19節以下)、そして、福音宣教に遣わすと言われていました(同21節)。そのために、聖霊を受けよと言われていました(同22節)。それなのに、なぜ彼らは湖畔にいるのでしょう。そしてなぜ、漁に行くというのでしょう。

 

 考えられることは、彼らはいまだ聖霊の力に満たされていなかったということでしょう。そして、聖霊の力を受けることなしに、福音宣教に出て行くことは出来なかったということでしょう。

 

 確かに、彼らは甦られた主イエスにお会いしました。そのことが7人を、閉じこもっていたエルサレムの家から、ガリラヤ湖畔まで出向かせる力となっています。あるいは、ガリラヤ湖畔で主イエスとお会いしたように(マルコ1章16節以下)、もう一度ガリラヤに行って聖霊の力に満たされようという思いだったのかも知れません。

 

 ガリラヤ湖での漁は、ペトロにとって、そしてゼベダイの子たちにとって、昔とった杵柄です。颯爽とというほどでなかったかもしれませんが、勇んで舟に乗り込みました。けれども、一匹も取れません(3節)。まるで、聖霊の力を受けなければ何も出来ないと言わんばかりです。

 

 彼らが成果のないまま夜明けを迎えたころ、岸辺に主イエスが立っておられ、声をかけられ(4,5節)、「舟の右側に網を打ちなさい」(6節)と言われます。すると、あまり重くて、彼らだけでは引き上げることも出来ないほど大量の魚が網にかかります。そのとき、彼らは声をかけた方が主イエスであること(7節)、これが主イエスによる奇跡であることに気づいたわけです。

 

 そのとき、シモン・ペトロが、わざわざ上着をまとって飛び込みます。他の6人は網を引き上げられないので、舟で網をひいて戻ってきます。なぜペトロがそのような態度をとったのか、これも記されていませんが、少しでも早く主イエスのもとに行きたかった、しかし、主の前に裸では出られなかったということでしょう。

 

 それは、ペトロが自分の罪を自覚しているということです。アダムとエバが禁断の木の実を食べた後、裸であることに気づいて、いちじくの葉を綴り合わせて腰を覆い、主の御顔を避けて身を隠したことを思い起こします(創世記3章6~8節)。そして、ペトロはその時、主に赦しを請うために、だれよりも先に主のもとに行こうとしたのではないかと想像します。

 

 15節以下にペトロと主イエスの会話が記されています。それは、「わたしを愛するか」と主イエスが尋ねられるのに、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」とペトロが答えるというものです。そのやりとりが、三度繰り返されました。

 

 このことは、ペトロが主イエスを三度否んだことと通じています。ペトロが主イエスを大切に思っていることは、言うまでもないことです。しかし、自分の身に危険が及んだとき、思わず主イエスを否んでしまいました。状況によって思いが変わること、結局一番大切なのは自分だったということを思い知らされました。ペトロは開き直ったのではなく、改めてその事実に直面して、悲しくなったのです(17節)。

 

 けれども、その飾らないありのままのペトロの「愛」告白に、「わたしの羊を飼いなさい」と、あらためて、教会の指導者としての使命が主イエスから与えられます。ペトロは、どのようにして主イエスの群れを導くのでしょうか。それは、主イエスの御言葉に従うことによって、そして、聖霊に力を頂くことによってです。それなしには、成果を上げることは出来ないのです。

 

 私たちも、主の御言葉に耳を傾けて御心を学び、、聖霊の力を受けて福音を宣べ伝え、主の愛を受けて互いに愛し合う交わり豊かな主の教会を建て上げさせて頂きたいと思います。

 

 主よ、どうか私たちを聖霊で満たしてください。主の証人となることが出来るよう、力を与えてください。御言葉に従って福音宣教の働きを推進します。絶えず、御言葉により、その道を示してください。御名が崇められますように。御国が来ますように。 アーメン

 

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