フィレモン書

 

 

「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役に立つ者となっています。」 フィレモンへの手紙11節 

 

 今日は、フィレモンへの手紙を読みます。この手紙は、エフェソ書、フィリピ書、コロサイ書と共に「獄中書簡」と呼ばれます。10,13節の「監禁」(デスモス)、23節の「共に捕らわれている」(スナイクマロートス)という言葉で、パウロが獄につながれていることが分かります。

 

 手紙の冒頭に「キリスト・イエスの囚人パウロと兄弟テモテから」(1節)と差出人の名が記されています。それから「わたしたちの愛する協力者フィレモン、姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」(1,2節)と受取人が紹介されます。

 

 「フィレモン」は、この手紙以外には登場してきません。「姉妹アフィア」はフィレモンの奥さんでしょう。そして「アルキポ」は、フィレモンの息子だろうと考えられています。

 

 23節以下にエパフラス他の人々に挨拶が書き送られていますが、それがコロサイ書4章10節以下に出て来る人々と符合することから、フィレモンはコロサイ教会の信徒であろうと思われます。また、「あなたの家にある教会へ」(2節)という言葉から、コロサイ教会の集会がフィレモンの家で行われていたようです。

 

 この手紙は、フィレモンの許から逃げ出した「オネシモ」という奴隷を、もう一度受け入れてくれるようにという、私的なものです。パウロはこの手紙を、オネシモ自身に持たせたようです。

 

 パウロがこの手紙をしたためたのは、ローマの獄中だと考える人が少なくありませんが、ローマには逃亡奴隷を専門に取り締まる警察が存在し、発見されると十字架刑に処せられることになっていたので、オネシモがローマの獄にパウロを訪ねたとは考え難いところです。その意味で、コロサイとの距離も近いエフェソの獄中だったのではないかと思われます。

 

 なぜ、オネシモがフィレモンの許から逃げ出したのかは分かりません。そしてまた、どうしてパウロと出会ったのか、その経緯も不明です。ただ、オネシモは、18,19節の言葉から、逃げ出すときに、フィレモンの家から金品を持ち出していたようです。

 

 そのお金を全部使い果たして途方にくれてしまったとき、主人の家で聞いたことのあるパウロの名を思い出して、そこに身を寄せようと考えたのかも知れません。そして、獄に監禁されている囚人パウロの身の回りの世話を積極的に行っていたのでしょう。

 

 10節に「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と記されていますので、オネシモは、パウロを通して主イエスを信じ、クリスチャンになったのです。それで、ますますパウロのためによく働いたことでしょう。そうしたことが、パウロをどれほど慰め、励ましたことでしょうか。

 

 13節に、「本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のために監禁されている間、あなたの代わりにつかえてもらってもよい思った」と記されているところに、その様子が窺えます。

 

 そこで冒頭の言葉(11節)のとおり「(オネシモは、)以前はあなた(フィレモン)にとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたし(パウロ)にも役立つ者となっています」(11節)と言ってオネシモのことをフィレモンに執り成しています。

 

 オネシモがパウロの役に立ってくれたということは、先ほどの13節の言葉に示されるとおり、オネシモの主人であるフィレモンの役に立ったということでもあります。フィレモンに代わって、獄中のパウロの世話をしたことになるからです。

 

 しかし、いかにパウロの執り成しがあるとはいえ、損失を与えて逃げ出した家に手紙を届けに行くということは、決して並大抵のことではありません。通常、逃亡奴隷には、死刑という処罰が待っていたのです。

 

 ですから、パウロから主人フィレモンのもとに帰りなさいと言われたとき、オネシモは「はい」と言うことが出来なかったのではないでしょうか。そんな押し問答が何度もなされたのではないでしょうか。そしてついにオネシモはパウロの言葉を受け入れ、フィレモンのもとに戻ることを受け入れました。

 

 このことは、私たちが神の前に悔い改めをするとき、神が私たちの罪を赦してくだされば,もうそれで万事OKということではない。他の人に対して犯した罪をそのままにしておいて、神に喜ばれる平安な生活を送ることは出来ないということではないでしょうか。私たちは、すべての人と平和に過ごすこと、だれとの間にもわだかまりのない生活をすべきなのです。

 

 勿論、人間のすることですから、完璧などというものはありません。しかし、それを願うこと、その道を目指すことが必要だと教えられているのだと思います。パウロはそれをオネシモにも要求したのです。そしてオネシモは、それが神の御旨に従う道だと信じ、受け入れたのでしょう。主イエスの恵みのゆえに、絶対に出来ないと思っていたフィレモンの家に帰るという十字架を負うことに決めたのです。

 

 もし、主人が受け入れてくれず、死ななければならないのなら、それは自分の犯した罪の結果なのだから、それを受け入れようと考えたのでしょう。こうして、オネシモがフィレモンのもとに手紙を携えて戻ったというのは、彼が真に悔い改めてキリストに従う者となったという明白な証しなのです。

 

 だから、パウロはフィレモンに、オネシモのことを「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟として」(15,16節)受け入れることを願っているわけです。

 

 「オネシモ」とは、ギリシア語で「有益、役に立つ」という意味です。この名前は、彼の本名ではなく、奴隷として売られるときに奴隷商人によってつけられたあだ名だと言われます。この男は役に立つといってオネシモという名をつけ、フィレモンに売ったわけです。ところが、有益どころか、損害を与えて逃げ出したわけです。まさしく「役に立たない者」になってしまいました。

 

 ところが、パウロの許に行き、パウロを通して主イエスを信じ、クリスチャンとなったとき、文字通り、「役に立つ者」と変えられたのです。パウロは、「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません」(15節)と言っています。

 

 イスラエルには、同胞を奴隷として使用する場合、7年目に自由の身として解放しなければならないという規則がありました(申命記15章12節以下)。あるいはヨベルの年、即ち50年目には解放しなければならないという決まりがありました(レビ記25章39節以下)。

 

 けれども、その奴隷が主人とその家族を愛して、生涯共にいることを願うときは、「錐を取り、彼の耳たぶを戸につけて刺し通さなければならない。こうして、彼は終生あなたの奴隷となるであろう」と定められています(申命記15章17節)。

 

 オネシモはユダヤ人ではありませんから、この規定が適用されるわけではありませんが、しかし、主イエスを信じるキリスト者となり、真の悔い改めに導かれたオネシモは、再び主人フィレモンの家に戻り、キリストに仕えるように、終生フィレモンに仕えようという思いになったのではないでしょうか。

 

 それを思えば、以前のオネシモはフィレモンにとって役に立たず、価値のない者だったかもしれません。そればかりか、損失を与えるマイナスの存在でした。しかしながら、パウロのもとで主イエスを信じる信仰に導かれ、役に立つ忠実な僕として戻ってきたのです。つまり、マイナスと思われたものは、大きなプラスを生み出すための投資だったというわけです。

 

 また、18~19節に、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」と記しています。これは、パウロがオネシモの身代わりになるということです。

 

 マイナスがプラスになり、損失が支払われる、これが、神の御子キリストがこの世においでになった意味だと思います。私たちも、神の御前に役に立たない存在でした。否、むしろ損失を与える者だったのですが、主イエスの贖いにより、救いの恵みに与りました。

 

 そして、神様は私たちを役に立つ者だと見做して、私たちに使命を与え、主の業のために用いてくださいます。自分で「私は役に立つ」と胸を張ることは出来ませんが、召しに答えて、委ねられた使命を全うする者になりたいと願っています。

 

 主よ、キリストは罪人の私たちを救うために、この世に人間となっておいでくださり、贖いの御業を成し遂げられました。この恵みを心より感謝致します。主を信じる信仰に堅く立ち、委ねられた主の使命を果たすことが出来ますように。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設