ハバクク書

 

 

「見よ、わたしはカルデア人を起こす。それは冷酷で剽悍な国民。地上の広い領域に軍を進め、自分のものでない領土を占領する。」 ハバクク書1章6節

 

 今日から、ハバクク書を読みます。ハバクク書の著者ハバククについては、「預言者」(1節)ということ以外は、ほとんど何も分りません。実際、ハバククという名すら、定かではないのです。というのは、セプチュアジンタ(70人訳)と呼ばれるギリシア語訳旧約聖書では、「ハンバクーム」と呼ばれているからです。

 

 「抱き締める」という意味の「ハーバク」に由来する名であるとか、アラビア語の「小人」を意味する名前と主張する学者がいます。また、アッカド語の「ハンバクーク」(ハッカの一種の名前)に由来するあだ名とする註解もありますが、いずれも確証はありません。

 

 ハバククが「預言者」と呼ばれていることは、彼がエルサレムの神殿に仕える職業的な預言者であることを示しているかも知れません。また、彼が語っている内容から、その活動の時期は紀元前620年以降だろうと思われます。であれば、ハバククは預言者エレミヤやナホムとほぼ同時代に、幻によって主の託宣を受け、南ユダ王国の民に預言を伝える務めを果たしたということになります。

 

 預言者ハバククはまず、「わたしが助けを求めて叫んでいるのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」と主に訴えるところから始めます(2節)。それは不法が行われているのに、主がその悪を放置しておられるように見えるからです。ハバククが「不法」と呼んでいるのはどのようなことか、具体的なことは分りません。

 

 恐らく、ハバクク自身が味わった不法があり、主がそれを解決してくださると期待していたのだけれども、声を上げて主に助けを求めても、一向に音沙汰がない。主は祈りを聞いておられのだろうかといぶかり、否むしろ、主は祈りを聞いてくださらない、だから、「神に逆らう者が正しい人を取り囲む。たとえ、正義が示されても曲げられてしまう」(4節)と嘆いているのです。

 

 それに対して主は、冒頭の言葉(6節)のとおり、「見よ、わたしはカルデア人を起こす」と答えられました。カルデア人とは、バビロンのことです。カルデア人は紀元前612年にアッシリアの首都ニネベを陥落させ、前605年にカルケミシュの戦いでエジプト・アッシリア連合軍を撃ち破り、アッシリアを完全に滅亡させました。

 

 その後、ハマトでもエジプト軍を撃破し、やがてパレスティナの覇権を握るようになります。つまり、「カルデア人を起こす」というのは、カルデア人によってイスラエルの悪を打つということです。そのためにカルデア人が起こされたということは、彼らがアッシリアを倒し、エジプトを打ち破ったのは、偶然の出来事なのではなく、主なる神の計らいだったということになります。

 

 この答えはハバククを驚かせました。期待していた答えとは全く違っていたのです。ハバククは、イスラエルの不法が取り除かれることを期待していました。ところが、主が起こされたというバビロンは、主ご自身が「冷酷で剽悍」(5節)、「暴虐を行う」(9節)と言われています。そして、彼らは自分の力を神としたので、罪に定められると、11節で告げられています。

 

 そこでハバククは、「欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか、神に逆らう者が、自分よりも正しい者を飲み込んでいるのに」(13節)といって、イスラエルの不法を裁くのに、さらに悪いバビロンを立てるのは何故かと問うのです。永遠の昔から聖なる方がイスラエルの悪を打つためとはいえ、なおさら悪いカルデア人を用いるというのは、矛盾しているとしか思えないのです。

 

 これは、私たちの理屈では計れません。ただ、はっきりしているのは、イスラエルの不法は裁かれなければならないこと、そのために主はカルデア人を用意したということです。つまり、カルデア人が起こるのは、彼らの凶暴さ、強大さなどのゆえではないのです。確かに彼らは強く、しかも暴虐を行うけれども、それを主なる神がイスラエルの不法を裁くために用いられるということです。

 

 そして勿論、カルデア人の罪は不問にされているわけでもありません。上述の通り、11節に「彼らは風のように来て、過ぎ去る。しかし、彼らは罪に定められる。自分の力を神としたからだ」と告げられています。それによって、主なる神が聖なる方であることを示されるのです。

 

 主のご計画は、イスラエルの民を滅ぼし尽くすことではなく、むしろ、イスラエルが主の御前に謙り、礼拝の民として整えられることです。しかしながら、イスラエルの民は、これまで繰り返し預言者が遣わされて来て、滅びを宣告されても主に立ち帰ろうとせず、むしろ、開き直ったかのように偶像礼拝に勤しみ、預言者に対してさえ不法をなしていたのです。

 

 だから、カルデア人が起こされ、恐ろしくすさまじい力で蹂躙されることになるのです(7節)。しかし、エレミヤが「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ書29章11節)と告げたように、この苦難を通して開かれる明日の恵みがある。この災いの向こうに、将来と希望が待っているというのです。

 

 そしてまた、確かにバビロニア帝国の悪はそのまま放置されませんでした。彼らが滅びを刈り取らなければならなかったことは、歴史が証明しているところです。かくて、「万事が益となるように共に働く」(ローマ書8章28節)ということを、私たちも体験的に知り、味わうようにされるのです。

 

 聖なる方がこの地を公正と正義の支配するところ、すなわち御心が行われるところ、キリストの平和が実現するところとしてくださるよう、祈りましょう。

 

 主よ、あなたは永遠の昔から、わが神、わが聖なる方です。この地に公正と正義による政治が行われ、いたるところにキリストによる平和が実現しますように。私たちを平和の道具として用いてください。万事を益とされる主の御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。」 ハバクク書2章4節

 

 預言者ハバククの「あなたの目は悪を見るにはあまりに清い。人の労苦に目を留めながら、捨てて置かれることはない。それなのになぜ、欺く者に目を留めながら、黙っておられるのですか。神に逆らう者が、自分より正しい者を呑み込んでいるのに」(1章13節)という問いに対して、2章にその答えが記されています。

 

 主なる神はまず、「定められた時のために、もう一つの幻があるからだ。それは終わりのときに向かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」(3節)と言われました。つまり、不法をなす者は必ず神に裁かれるというのです。

 

 けれども、それはハバククが考えているようなタイミングでやって来るということではないようです。ハバククは「わたしが助けを求めているのに、いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」(1章2節)と言っていました。

 

 それに対して主は、「幻を書き記せ」と言われました(2節)。これは、主のみ言葉がすぐには実現しないということを意味します。だから、幻が実現したとき、それが予め告げられた預言の成就であるということがすぐに分かるように、書き記されるのです。

 

 しかしながら、「走りながらでも読めるように、板の上にはっきり書き記せ」とも言われます。つまり、その成就は遠くはないこと、実現に向かって走り出していることを示しています。

 

 主は、一つ一つの事柄に「時」を定めておられます(3節)。それは、最も相応しいと主がお考えになる「時」、タイミングということです。「たとえ、遅くなっても待っておれ。それは必ず来る、遅れることはない」と言われる主の「時」です。主が不法が放置されているかのようにハバククが考えたのは、主の「時」について、全く理解出来ていなかったということを示しているわけです。

 

 ハバククは今、主の「時」を待つという忍耐を学ばされています。ヘブライ書10章35,36節に「自分の確信を捨ててはいけません。この確信には大きな報いがあります。神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」と記されているとおりです。主の時、主の約束の成就を待つ忍耐です。

 

 そして、大切な言葉が語られます。それが冒頭の言葉(4節)で、「神に従う人は信仰によって生きる」と言われています。ここで、「神に従う人」というのは「ツァッディーク」という言葉で、「正しい」という意味の形容詞ですが、それがそのまま「正しい人、義人」という名詞として用いられているのです。聖書で「正しい」、「義」というのは、神との関係を意味しています。

 

 前にも記しましたように、「義」という字は、「羊」の下に「我」を置きます。世の罪を取り除く神の小「羊」なる主イエスの下に「我」を置いて謙り、その御言葉に聴き従うとき、「義」となるのです。こうしたことから、「正しい人、義人」を「神に従う人」と意訳しているのでしょう。

 

 神に従う人、正しいとされた人は、高慢になりません。高慢になるのは、その心が正しくあり得ないからです。「高慢」というのは、「膨らむ」(アーファル)という言葉で、「自分の力を神とした」(1章11節)と言われるカルデア人の姿と重なります。それゆえ、「彼らは罪に定められる」(同節)のです。主の御前における正しさとは、謙ることなのです。

 

 次に、「信仰」(イェムーナー=faithfulness)です。これは、アーメンという言葉と同族の「真実、堅固さ、信頼性」という言葉です。主に真実に応答すること、主に忠実に従うことこそ、正しい人、神に従う人のあるべき姿であるということです。

 

 この言葉が語られたのは、ハバククの目に主が働いておられないように見えても、御言葉が彼の理性で理解出来なくても、主なる神に忠実に従うことを要求しており、そして、そのときにのみ、ハバククは正しい人、神に従う人として生きることが出来ると教えているのです。

 

 そして、この言葉は新約聖書において重要な意味を持つものとして、何度も引用されました。パウロは、ローマ書1章17節にこの言葉を引用して、「福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」と言っています。

 

 また、ガラテヤ書3章11節でも、「律法によってはだれも神の御前で義とされないことは、明らかです。なぜなら、『正しい者は信仰によって生きる』からです」と引用しています。人が救われ、生かされているのは神の恵みであって、人間の知恵や力などではないということです。

 

 そして、このみ言葉がマルティン・ルターの著作を通じて、宗教改革の主要なテーマとなりました。人はこの世の人間的な働きという基準で神に受け入れられるのではなく、神を堅く信頼することによって神に義とされるのです。

 

 どんなときにも恵みの神を信じ、神と共に歩ませていただきましょう。

 

 主よ、私たちの目に、問題が大きく写ることがあります。あなたが見えず、あなたの言葉が心に届かないとがあります。絶えず御言葉から、私たちを教えてください。約束の賜物を受け取るために、忍耐を学ばせてください。希望の源である神が、喜びと平和、希望に満ち溢れさせてくださいますように。 アーメン

 

 

「しかし、わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る。」 ハバクク書3章18節

 

 1節に「預言者ハバククの祈り」(テヒッラー・ラハバクーク・ハンナービー)という表題がありますが、2節以下の内容は、祈りというよりも、むしろ賛美です。「シグヨノトの調べに合わせて」という言葉や「セラ」という記号が3回出てくること、最後の「指揮者によって、伴奏付き」と記されている言葉などから、これはまさに、詩編の詩のようなものといってもよさそうです。

 

 「シグヨノト」は、「シガヨン」の複数形ですが、意味は不明です。アッカド語との関連で「悲しみの歌、挽歌」という意味ではないかと聖書辞典に記されていましたが、何故そのような解釈になるのか、よく分かりません。そもそも、この詩の内容が、悲しみというようなものではないからです。

 

 ハバククは、主なる神の助けを求めて叫びました(1章2節)。その叫びに、主がお答えになりました(1章5節以下、2章)。さらに、主がハバククに語りかけ、あるいは幻を見せられたのでしょう。それは、「神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる」(3節)というものでした。

 

 「テマン」はエサウの子エリファズの子で(創世記36章11節)、エサウの子孫である首長たちの筆頭にその名があります(同15節)。つまり、エドム人の一氏族をなしているということです。「テマン」の名でエドム人全体を指すこともあります(アモス書1章12節)。

 

 また「パラン」とは、シナイ半島の中央部に広がる荒れ野のことで、標高600メートルを超す石灰岩の不毛の台地です。アブラハムとハガルの子イシュマエルがここに住み(創世記21章12節)、出エジプトの民が約束の地に向けて旅をしている途中、宿営したことがあります(民数記12章16節)。

 

 ただ申命記33章2節との関連で、「パランの山」とはシナイ山のことではないかと考えられます。かつてイスラエルの民は、シナイ山で主なる神の臨在に触れ(出エジプト記19章3節以下)、契約の板を授かりました(同31章18節、34章)。エジプトの奴隷だったイスラエルの民が、神の宝の民となったのです(同19章5節、申命記7章6節)。

 

 テマンやパランの山についてここで言及されるということは、かつて神がイスラエルを憐れみ、救いをお与えになったように、再びイスラエルの民にご自身を現され、救いを示してくださるということでしょう。

 

 13,14節に「あなたは御自分の民を救い、油注がれた者を救うために出て行かれた。あなたは神に逆らう者の屋根を砕き、基から頂に至るまでむき出しにされた。あなたは矢で敵の戦士の頭を貫き、彼らを嵐のように攻められた」と記されていますが、これが、神がハバククの見た「幻」(1章1節)なのでしょう。

 

 2章2節で「幻を書き記せ」と言われたとおり、その言葉に従って、ハバククはここに書き記しています。この幻が、何時どのようにして実現するのか、まだ分かりません。そのような兆しがあるわけでもありません。

 

 むしろ、ハバククの目には厳しい現実が見えています。「いちじくの木に花は咲かず、ぶどうの枝は実をつけず、オリーブは収穫の期待を裏切り、田畑は食物を生ぜず、羊はおりから断たれ、牛舎には牛がいなくなる」(17節)というのです。

 

 これは、天変地異による不作と考えることも出来ますが、あるいは1章6節で語られているカルデア人に蹂躙されて、畑を耕すことも家畜を養うことも出来なくなった結果と考えることも出来るでしょう。その意味では、不法がはびこり、暴虐が地に満ちている上に、バビロンによる破壊、捕囚が襲うということで、まさに「泣き面に蜂」というところです。

 

 けれども、冒頭の言葉(18節)にあるとおり、「しかし」です。現実がどうであれ、予見される状況がどうであれ、「わたしは主によって喜び、わが救いの神のゆえに踊る」ことが出来るのです。

 

 失望するような現実を前に、神の祝福の兆しも見えないようなところで、喜び、踊れるようになったことを、「わたしの主なる神は、わが力。わたしの足を雌鹿のようにし、聖なる高台を歩ませられる」(19節)と言い表しています。即ち、ハバククを喜ばせ、賛美の踊りを可能にしてくださるのは、主ご自身なのです。

 

 エジプトを脱出したイスラエルの民のために、主なる神が葦の海の奇跡によって追いかけてきたエジプト軍を撃滅してくださったとき、モーセと民らが主を賛美して、「主はわたしの力、わたしの歌、主はわたしの救いとなってくださった」(出エジプト記15章2節)と歌いました。 

 

 ハバククは、未だ主の勝利を味わってはいません。先には、「いつまで、あなたは聞いてくださらないのか」と訴えていたハバククです。しかし、ハバククは今、神の幻を見ました。神に逆らう者、暴虐をなす者に災いが下され(2章5節以下)、イスラエルの民に神がご自身を現わされるという幻です。今や、ハバククは勝利の主を信じて喜ぶことが出来ます。

 

 これこそ、「わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます」(第二コリント書4章18節)、「目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです」(同5章7節)とパウロが語っているところであり、ヘブライ書の記者が「信仰とは、望んでいること事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ書11章1節)と記していることでしょう。

 

 箴言29章18節に「幻がなければ民は堕落する。教えを守る人は幸いである」とあります。「幻」(ハーゾーン)は「預言」とも訳されます(口語訳)。主の告げられたみ言葉に耳を傾け、その教えを心に留めましょう。

 

 そして、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことでも感謝しましょう(第一テサロニケ5章16~18節)。万事を益にしてくださる主に信頼しましょう(ローマ書8章28節)。主を喜び祝うことこそ、私たちの力の源なのです(ネヘミヤ記8章10節)。

 

 主よ、御言葉を感謝します。信仰がなければ、あなたに喜ばれることはできません。見えるものによらず、信仰によって歩ませてください。常に信仰に立ち、御言葉に従うことができますように。いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝する信仰で前進させてください。 アーメン

 

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