ゼカリヤ書

 

 

「それゆえ、主はこう言われる。わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り、わが家をそこに建て直させると。」 ゼカリヤ書1章16節

 

 1節に「ダレイオスの第2年8月に」とあり、これは紀元前520年10~11月のことです。それは、ハガイ書2章1節以下の段落(「ダレイオス王の第2年7月21日」)と同10節以下の段落(「ダレイオス王の第2年9月24日」)のちょうど真ん中の時期です。

 

 また、7節の「ダレイオスの第2年11月」は紀元前519年1~2月のことで、ハガイ書2章10,18,20節の「ダレイオスの第2年9月24日」の1ヶ月余り後の時期ということになります。エズラ記5章1節、6章14節に「預言者ハガイとイドの子ゼカリヤ」とあり、ゼカリヤがハガイと同時期に預言活動をしていたことが確認できます。

 

 ゼカリヤについて、「イドの孫でベレクヤの子である預言者ゼカリヤ」(1節)と紹介されています。エズラ記で「イドの子ゼカリヤ」と言われていますが、「子」は「子孫」という意味で用いられることもあります。その意味で、エズラ記はゼカリヤ書の「イドの孫でベレクヤの子」を短縮させたかたちということになります。

 

 ネヘミヤ記12章1節以下のバビロン捕囚から帰還した祭司とレビ人の名簿に「イド」(4節)の名があり、12節以下の「(イエシュアの子)ヨヤキム時代に祭司で家長であった者」のリストの中に「イド家のゼカリヤ」(同12章16節)の名が出て来ます。

 

 これが預言者ゼカリヤと同一人物かどうか確証されはしませんが、もしも同一人物であれば、ゼカリヤは、レビの家系に属する祭司であり、その上で預言者としての使命を委ねられた者ということになります。ゼカリヤとは、「主は覚えてくださる」という意味の名前です。

 

 ゼカリヤは「わたし(万軍の主)に立ち帰れ」(3節)という言葉で預言を始めました。主なる神に背いたイスラエルの民が主のもとに立ち帰るなら、主も民のもとに帰ると言われるのです。イスラエルに下された裁きのときが終わり、新しい時代がやって来たのです。

 

 そして、「あなたたちは先祖のようであってはならない。先の預言者たちは彼らに、『万軍の主はこう言われる。悪の道と悪い行いを離れて、立ち帰れ』と呼びかけた。しかし、彼らはわたしに聞き従わず、耳を傾けなかった、と主は言われる」(4節)と言います。バビロン捕囚の苦しみを味わわなければならなかったのは主に耳を傾けなかったからで、先祖と同じ轍を踏んではならないというのです。

 

 預言者ハガイは、「今、お前たちは、この神殿を廃墟のままにしておきながら、自分たちは板ではった家に住んでいてよいのか」(ハガイ書1章4節)とイスラエルの民に問い、捕囚から帰還して18年、なお苦しく貧しい生活を改善するためには行動の順序を変え、まず主を礼拝する環境を整えよと指摘していました(同8,9節参照)。

 

 それを考えると、ここで預言者ゼカリヤが「(主に)立ち帰れ」と呼びかけているということは、捕囚から解放されて帰国を許されたものの、帰還した民が先祖たちと同様、主を信じ、その御言葉に従って歩むという生活を未だ営んではいないということを表わしているといってよいでしょう。

 

 ゼカリヤは、神殿を建てるという行動の前に、民が主に立ち返ること、主の前に正しく立つことを、まずはっきりと要求しています。ゼカリヤに主の言葉が臨んだとき、既に神殿の再建は始まっていました(ハガイ書2章1,3節)。それでも、民の中にまだ確かな信仰を見ることが出来なかったわけです。

 

 それから3ケ月後、再び主の言葉がゼカリヤに臨みました(7節)。その中でゼカリヤは幻を見ています。6章まで八つの幻が記されていますが、ゼカリヤが見た「第一の幻」を通して示された主の言葉が、ここに告げられます。

 

 ミルトスの林の中に、赤毛の馬に乗った一人の人が立っていて、その後ろに赤毛、栗毛、白い馬がいます(8節)。それは、地上を巡回させるため、主がお遣わしになったものでした(10節)。そして彼らは、「地上の人々はすべて安らかに暮らしています」(11節)と報告しました。

 

 主の御使いが「いつまでエルサレムとユダの町々を憐れんでくださらないのですか。あなたの怒りは70年も続いています」(12節)と尋ねると、「主は優しい言葉、慰めの言葉をもって答えられ」(13節)ました。イザヤ書40章1,2節の「慰めよ、わたしの民を慰めよ」という言葉を思い出します。

 

  ミルトスは、森林で湿った日陰に野生する常緑の潅木で、香りの良い小さい葉が茎に密生しています。白い花が咲き、実は食用になります。ネヘミヤ記8章15節には、ミルトスの枝を仮庵祭のときの仮庵を作る材料として用いるよう指示されています。ここでは、回復と未来の希望を意味しているようです。

 

 主なる神はまことに憐れみ深い方、慰めの源なるお方です(ローマ書15章5節)。その慰めの根拠は、冒頭の言葉(16節)にあるとおり、「わたしは憐れみをもってエルサレムに帰り、わが家をそこに建て直させる」ということです。主がイスラエルの民と共にいて、その内に住み、彼らを憐れまれるのです。だから、「町々は恵みで溢れ」(17節)るようになります。

 

 この背後に、御使いの「いつまでですか」という問いに示された、預言者たちを初めとする主を仰ぎ望む者たちの執り成しの祈りがあったのだと思います。そして、バビロンにおける奴隷生活、帰還が許されてもなお苦しい生活を強いられていた民の呻き、嘆きがあったのだと思います。民の嘆きを聴き、主を仰ぎ望む者たちの祈りに、神が憐れみをもって答えてくださったわけです。

 

 私たちも、絶えず恵みの主を仰ぎ、どんなときにも感謝を持って事毎に祈りを捧げ、求めるところを神に申し上げましょう(フィリピ書4章6節)。神の平和、平安が私たちの心と思いを包み、守ってくださいます。

 

 何よりも先ず、神の国と神の義とを追い求めましょう(マタイ福音書6章33節)。わたしたちに必要なものはすべて、添えて与えられます。 

 

 主よ、今日も御言葉に導かれ、感謝します。私たちと共にいて、その御手であらゆる災いから守り、すべての苦難を遠ざけてください。私たちを祝福し、あらゆる恵みで満たしてください。その祝福が私たちの周りに広く広げられますように。 アーメン

 

 

「わたし自身が町を囲む火の城壁となると主は言われる。わたしはその中にあって栄光となる。」 ゼカリヤ書2章9節(口語訳・新改訳では2章5節)

 

 1~4節(口語訳・新改訳では1章18~21節)の段落に「第二の幻」という小見出しが付けられています。ここには、四本の角と(1節)、その角を切り倒す四人の鉄工のことが(3,4節)、預言者ゼカリヤの見た幻として示されています。

 

 「角」は力や権威を象徴するもので(詩編75編11節、89編18,25節など)、「ユダ、イスラエル、エルサレムをちりぢりにした」(1節)という、四方の敵の力を表わしています。「ユダ、イスラエル」と並べているのは、バビロンに滅ぼされた南ユダだけでなく、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされた北イスラエルにも目を向けているのです。

 

 次に、4人の鉄工が示されます。ゼカリヤが「彼らは何をするために来るのですか」(4節)と尋ねると、「これらの人々は、ユダをちりぢりにするために、ユダの地に角を振り上げ、彼らを震え上がらせた国々の角を切り倒すために来るのだ」(4節)と御使いが応えました。

 

 イスラエルをちりぢりにし、またユダを滅ぼした敵は、強大なものでした。その当時は、彼らを脅かし得るものは何もないように思われました。しかしながら、それが以下に強大なものであっても、それによって周囲を震え上がらせるようなものであったとしても、彼らを打ち砕き、切り倒すために主が鉄工を遣わすというのです。

 

 角を切り倒されるのは主なる神ご自身であって、北イスラエルをちりぢりにしたアッシリアをバビロンが滅ぼし、南ユダを滅ぼしたバビロンをペルシアが切り倒したというように、そのような国々が主の代理人の鉄工として用いられるのです。

 

 そしてこのことは、過去の想起に留まらず、エルサレムに帰った帰還民の神殿再建を妨害する勢力を取り除き、それを完成させてくださるという1章16節の預言を思わせ、更に未来に向かって、どんなときにも主がイスラエルを顧み、恵みで溢れるようにしてくださるということでしょう(1章17節参照)。

 

 次いで5節から、第三の幻が告げられます。その幻の中で、ゼカリヤは測り縄を手にした測量士を見ます。1章16節の「エルサレムには、測り縄が張られる」という言葉に従って登場してきたかのようです。彼は、エルサレムの幅と長さを測るために出て行きます。幅と長さを調べることで、都の面積が計算できます。

 

 すると別の御使いが現れて測量士を迎え、「あの若者のもとに走り寄って告げよ」(8節)と言います。ここで、「若者」と言われたのは、ゼカリヤのことです。測量士に伝言されたのは、「エルサレムは人と家畜に溢れ、城壁のない開かれた所となる」(8節)という言葉でした。即ち、エルサレムが拡大されることになるということです。

 

 その言葉から17節まで続く伝言の中で、「急いで北の国から逃れよ」(10節)、「シオンよ、逃げ去れ。バビロンの娘となって住み着いた者よ」(11節)と語られます。既にバビロンはペルシアによって滅ぼされてしまって、ユダヤの民には帰国が許されています。それなのに、北の国から逃れよ、バビロンから逃げ去れといわれるのは何故でしょうか。

 

 それは、今もなおバビロンに留まり、帰国せずにいる人々が決して少なくないということです。捕囚期間の50年、そして、紀元前538年に帰国が許されて既に20年近くが経ちました。捕囚1世の生存者はわずかで、主力となる世代が2世、3世に移行するころです。

 

 3世にもなると、イスラエルとバビロン、どちらが故郷なのか分からなくなっていることでしょう。また、荒れ放題の地に戻って生活するのは、多くの苦難が伴います。知らないところで苦労するより、バビロンにいる方が良いと考える人々が大勢いたわけです。だから、主がこれらの幻と預言を通して、民の帰国を促しておられるのでしょう。

 

 エルサレムが人と家畜で溢れるというのは(8節)、主の促しに応えて多くの民が帰国するからです。さらに、15節に「多くの国々は主に帰依して、わたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住まう」と言われており、異邦人が主なる神を礼拝するイスラエルの民に加えられて、エルサレムに人が溢れるのです。

 

 多くの民がやって来て人と家畜が溢れることで、エルサレムの町が飛躍的に拡大することになるでしょう。かつてあった城壁が町の膨張を妨げないよう、城壁のない開かれた町になると語られているわけです。

 

 かつて、エルサレムの町は堅固な城壁で守られていました。しかし、強大な敵の前に、その城壁は町と住民を守ることが出来ませんでした。主が味方してくださることなしに、町を守るのは困難なことだったと思いますが、味方してくださらなかったというより、むしろ自ら背いて主を怒らせ、敵に回してしまいましたので、どんな城壁でも、主の御手から町を守ることは出来なかったのです。

 

 冒頭の言葉(9節)にあるとおり、主ご自身が火の城壁となり、町の中に栄光を現して、エルサレムをお守りくださると言われます。それは、出エジプトの際、火の柱となって民を導かれたこと(出エジプト記13章21,22節)、また追ってくるエジプト軍から民を守り、エジプト軍をかき乱されたこと(同14章19,20,24節)などを思い出させます。

 

 シナイの荒れ野を旅する際に、神の箱を造らせ、その蓋を贖罪所としてケルビムの上に座し、エジプトを脱出した民の中に住まわれました。剣を取ることの出来る成年男子だけでも60万という多くの民が、城壁もなく満足な武器も持たずに40年もの間、荒れ野を旅することが出来たのは、主が共にいてくださったから、その守りが完璧だったからです。

 

 このことは、仮にどれほど立派に神殿を再建することが出来ても、そこに主が共におられるのでなければ、そしてまた、主が町をお守りくださるのでなければ、その労苦は空しいことになると教えられます(詩編127編1,2節)。

 

 イスラエルは今日、アラブの民との衝突で、双方の平和が脅かされ続けています。これは、およそゼカリヤの語っているエルサレムの都の姿ではありません。

 

 翻って私たち自身はどうでしょうか。火の城壁として私たちを守り、私たちの内にあって栄光となられる主に、いつも依り頼んでいるでしょうか。主を信頼して、平安と喜びが心に湧き上っているでしょうか。

 

 御言葉を信じる信仰にはっきりと立たせて頂きましょう。主の栄光を仰ぎましょう。

 

 主よ、あなたを信頼します。私たちをお守りください。エルサレムに平和を与えてください。武器や壁に頼るのではなく、まことの神を信頼して、四方の民と和合することが出来ますように。我が国も、平和憲法を持つ国として、不当に外国の軍司令官を殺害した米国に追従し、自衛隊を中東に派遣するのではなく、外交努力によって武力なき国際平和に貢献することが出来ますように。キリストの平和が世界に満ち溢れますように。 アーメン

 

 

「御使いは自分に仕えている者たちに向かって言った。『彼の汚れた衣を脱がせてやりなさい。』また、御使いはヨシュアに言った。『わたしはお前の罪を取り去った。晴れ着を着せてもらいなさい。』」 ゼカリヤ書3章4節

 

 ここまで、三つの幻を見せられたゼカリヤは、御使いに説明を求め、回答を得ていましたが、3章には、ゼカリヤの質問も、幻をゼカリヤに説明する御使いも登場しません。ここには、ゼカリヤの見た「第四の幻」として、天の法廷の様子が描き出されています。主なる神が裁判官、御使いは代理人です。被告は大祭司ヨシュア、そして、サタンが検察官です(1節)。

 

 「サタン」はヘブライ語で「敵、反対者」という意味ですが、旧約聖書中、歴代誌上21章1節、ヨブ記1,2章とゼカリヤ書3章1,2節に登場するだけという、極めて稀な描かれ方をしています。そこでのサタンの務めは、ダビデ王や義人ヨブ、そして大祭司ヨシュアを主なる神の御前に告発することです。

 

 勿論、サタンは善意の告発者ではありません。ヨブ記では、主なる神が「無垢な正しい人手、神を畏れ、悪を避けて生きている」(ヨブ記1章8節)と評価した義人ヨブのことを、「利益もないのに神を敬うでしょうか」(同8節)と貶めるように語り、財産と子らを奪い去りました(13節以下)。

 

 一方、新約聖書ではサタンが「悪魔」の固有名詞として用いられ(マタイ福音書4章10節、16章23節など)、神の御言葉を奪って、その計画を破壊する者(マルコ福音書4章15節)、神に敵対し、キリストに従う弟子に悪を唆す者(ルカ福音書22章3節)として登場しています。

 

 サタンが大祭司ヨシュアのことで、主なる神に何をどのように訴えていたのかということは、具体的に何も記されていません。3節の「ヨシュアは汚れた衣を着て」という表現から、ヨシュアの罪か、大祭司として担ったイスラエルのすべての民の罪を主の法廷に告発したのではないかと思われます。

 

 エルサレム神殿での礼拝が形骸化し、さらに異教の神々を祀るという偶像礼拝と不従順の罪が、預言者たちによって何度も取り上げられました(イザヤ書1章11,12節、エレミヤ書7章22節以下、ホセア書5章1節以下、6章6節など)。そのためにイスラエルは亡国の憂き目を見たわけです。

 

 今、御使いの手の中に「火の中から取り出された燃えさし」(2節)があります。火は神の裁きを表しています。取り出された燃えさしは、イスラエルです。もしも火の中から取り出されなければ、それは燃え尽きてしまいます。燃えさしが火の中から取り出されたというのは、燃え尽きてしまわないようにということで、イスラエルが完全に失われることを、主は望まれなかったわけです。

 

 それは、イスラエルがおのが罪を悔い改め、正しい礼拝を捧げるようになったからではないでしょう。ヨシュアの衣は汚れたままでした。主の裁きが完了し、燃えさしが取り出されたのは、イスラエルに対する主の憐れみ、一方的な神の愛による赦しです。

 

 2節に、主の御使いの「サタンよ、主はお前を責められる」という言葉があります。主がサタンを責められるのは、上述のように既に裁きが完了したのに、なおヨシュアを訴えようとしているからでしょう(1,2節)。ただ、ヨシュアの衣は汚れたままです。そのままでは、祭司の務めを果たすことは出来ません(出エジプト記28,29章、39,40章参照)。

 

 だから、冒頭の言葉(4節)のとおり、「汚れた衣を脱がせてやりなさい。わたしはお前の罪を取り去った」と言われ、「晴れ着を着せてもらいなさい」と告げられます。「汚れた衣を脱がせてやりなさい」ということは、自分で脱ぐことが出来ないということです。「お前の罪を取り去った」ということは、衣の汚れが罪のゆえであったことが明示されます。

 

 ダビデが、「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」(詩編51編9節)と求めたのは、自分で自分の罪を払うことが出来ず、自分を自分を清めることは出来ないからです。

 

 さらに、「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」(同12節)と求めました。新しい衣を着せてもらい、清い心、新しく確かな霊を授けてもらうほか、主なる神に従う者として生きることは出来ないということでしょう。主はヨシュアの汚れた衣を脱がせて、晴れ着を着せ、頭に清いかぶり物をかぶせられました(5節)。罪の赦しと救いが与えられたのです。

 

 善悪を知る木の実を食べてエデンの園を追放されるアダムとエバのために、主なる神は皮の衣を作って着せられました(創世記3章21節)。それは、罪の赦しと主の守りが常に彼らと共にあることを示していると考えられます。このために、犠牲を払ったものがいます。それは皮を提供した動物です。その動物の命をもってアダムとエバが贖われたのです。

 

 そしてこれは、主イエスの十字架の贖いを指し示しています。放蕩息子が父親から、いちばん良い服を着せられ、手には指輪、足には履き物を履かせてもらうというのも、そのことを指し示しています(ルカ福音書15章22節)。

 

 ヨハネは主イエスを、「世の罪を取り除く神の小羊」と呼びました(ヨハネ福音書1章29節)。黙示録には、白い衣を身につけた、数え切れないほどの大群衆が登場してきます(黙示録7章9節)。彼らは、「その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(同14節)と言われています。

 

 さらに、大淫婦バビロンを裁かれた後(同18章)、小羊の婚宴が開かれ(同19章5節以下)、「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである」と記されます(同8節)。キリストの花嫁たる教会は、聖なる者たちの正しい行いという清い衣を着せて頂いたというのです。

 

 パウロは、「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ書3章27節)といい、新しく着せられる清い衣とは、キリストご自身であることを示します(ローマ書13章12,14節も参照)。 

 

 私たちは、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(第一ペトロ書2章9節)。「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、広く伝えていく務めが与えられています(同2章10節)。

 

 主イエスの血潮で清められた者として、主の務めを全うしましょう。

 

 主よ、いつも畏れの心をもって主の御言葉に耳を傾け、御旨を深く悟ることが出来ますように。喜びと感謝をもって従順に御教えに従うことが出来ますように。主に選ばれた者として、その使命を全うし、キリストの肢体の一部として、主の栄光を現すことが出来ますように。 アーメン

 

 

「彼は答えて、わたしに言った。『これがゼルバベルに向けられた主の言葉である。武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。』」 ゼカリヤ書4章6節

 

 「第五の幻」で、七つのともし火皿がついた金の燭台と、その両側にオリーブの木が立っているのを、ゼカリヤは見ました(2,3節)。油の容器から直接七本の給油管が出ているという形状は、第一神殿に置かれていた七つ枝の燭台(メノラー)とは異なります。燭台の両側のオリーブの木は、燭台に油を供給するものです(12節)。

 

 オリーブ油は、オリーブの実を搾って採り出したものですが、この幻では、枝先から油が出ていると言われます。「これは何でしょうか」というゼカリヤの問いに対して(4節)、冒頭の言葉(6節)で、「これがゼルバベルに向けられた主の言葉である」と言われます。

 

 また、11節で「燭台の右と左にある、これら二本のオリーブの木は何ですか」という問いに対して、「これは全地の主の御前に立つ、二人の油注がれた人たちである」(14節)と回答がありました。つまり、この幻は、「ユダの総督シェアルティエルの子ゼルバベル」(ハガイ書1章1節など)と大祭司ヨシュア(3章1節、エズラ記2章2節「イエシュア」など)について、示すものなのです。

 

 「ゼルバベル」とは、「バビロンの種」という意味です。彼は、バビロンに捕囚となったヨヤキン王(エコンヤ)の孫としてバビロンに生まれ(マタイ福音書1章12節、歴代誌上3章17~19節、エズラ記3章2節)、捕囚後ユダヤに帰り、指導者として働きました(エズラ記2章2節など)。

 

 9節に「ゼルバベルの手がこの家の基を据えた。彼自身の手がそれを完成するだろう」とあり、総督ゼルバベルが大祭司ヨシュアと共に、エルサレムの第二神殿を完成させると言われているのです(エズラ記3章8節以下、5章1節以下)。

 

 神殿再建の工事は、大変困難なものでした。7節の「大いなる山」は、再建の困難さを示します。山は、人の手で動かせません。にも拘らず、この工事を完遂出来るのは、主なる神が助けてくださるからです。それが冒頭の言葉(6節)の「武力によらず、権力によらず、ただわが霊によって」という言葉で表現されていることです。

 

 武力や権力という言葉は、軍隊の強さや政治的宗教的指導者としての力に関連しています。それらによらず、「わが霊によって」ということは、武力も権力も、神がその民に課した務めを達成することが出来ないということ、それを成し遂げることが出来るのは、主の霊の働き、その力を受けることによってというのです。それによって、どんな障害があっても、主の力で山が「平らにされる」(7節)のです。

 

 ゼルバベルが神殿の基礎を据えたとき、喜びの叫びと共に、民の泣き声が聞かれたと、エズラ記3章12,13節に記されています。これは、嬉し泣きというのではありません。昔の神殿を見たことのある多くの年取った祭司、レビ人、家長たちが大声で泣いているというのです。

 

 そのみすぼらしさに、どんな神殿を建てるつもりか、これで本当に神殿が建つのかなどと、かつてソロモンの神殿を見たことのある人々は考えたのかもしれません。そして、このような形で自分たちの貧しさ、無力さを目の当たりにした民が、行く末を案じて泣いたということなのでしょう。

 

 しかし、ゼカリヤがこの幻を見せられたのは、主の霊が総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアを通して、その仕事を完成させてくださるということでした。それが12節で、オリーブの木の枝先に金の管があり、そこから人手によらず燭台の容器に油を注ぎ出していると言われていることであり、ともし火をともして、この世に光を与えるのは、御霊なる神だということです。

 

 また10節で、「その七つのものは、地上をくまなく見回る主の御目である」と言われます。主イエスが、「体のともし火は目である」と言われました(マタイ6章22節)。ともし火である主の御目が全世界を明るく照らすわけです。

 

 だから、「初めのささやかな日をさげすむ」人々、ソロモン時代とのものとはあまりに違う神殿の基礎、神殿を建て上げるために集められている石などを見て、指導者ゼルバベルを軽蔑しているような人々が、主の霊によってゼルバベルが神殿を完成させると、その見事さで喜び祝うようになるというのです(10節)。

 

 主イエスが、「あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう」(ルカ14章28~30節)と言われました。

 

 確かに、何事かをしようとするとき、成し遂げられるかどうか、しっかり検討するものです。計算に合わない無謀なことをすると、完成に至らずに終えざるを得なくなってしまうことでしょうし、あるいは、すべてのものを失うということにもなりかねません。

 

 しかしながら、その建築を主が命じておられるのであれば、そのために必要な一切のものは、主が用意し、その働きのために必要な知恵も力も授けてくださるでしょう。であれば、私たちの力以上の、私たちの計画を遙かに超えた働きがそこになされ、その計画が主からのものであり、主が成し遂げてくださったことを、すべての人が知ることでしょう。

 

 一方、私たちが主の御業に励もうとする時、それを邪魔するものが登場します。山が立ちふさがるのです(7節)。主イエスが人としてこの世に遣わされて以来、救いの御業を完成させないように、サタンはあの手この手で主イエスを妨害し、あるいは亡き者にしようとして来ました。けれども、主なる神は、サタンの妨害をも、ご自身の計画遂行のために利用されるのです。

 

 だから、「わが霊によって」主の業を完成することが出来るということは、始めるときも、主の御霊によって始めることです。何事も主に聴き、その御言葉に従って行うことです。そこに聖霊の働きがあるからです。

 

 主の霊の導きに従って歩みましょう(ガラテヤ書5章16節)。霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従って前進しましょう(同25節)。主の霊のおられるところに自由があり(第二コリント書3章17節)、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り替えられていくのです(同18節)。 

 

 主よ、ゼルバベルが神殿を完成することが出来るのは、主の霊によると学びました。それが神のご計画であり、神がゼルバベル,ヨシュアと共にお働きくださったからです。それで、どのような障害も乗り越えることが出来ました。これから私たちが行うすべてのことを、主の導きによって行わせてください。何をするにも、神の栄光を現すために行うことが出来ますように。 アーメン

 

 

「それは盗人の家に、わが名によって偽りの誓いをする者の家に入り、その家の中に宿り、梁も石もともに滅ぼし尽くす。」 ゼカリヤ書5章4節

 

 ゼカリヤは、一つの巻物が空を飛んでいるという幻を見ました(1節)。「第六の幻」です。それは、長さ20アンマ(約9メートル)、幅10アンマ(約4.5メートル)という非常に大きな巻物でした(2節)。巻物がこんなに大きいのは、誰もがそれを読むことが出来るということなのでしょう。御使いが、「これは全地に向かって出て行く呪いである」(3節)とゼカリヤに教えます。

 

 一面に記されている呪いによってすべての盗人が一掃され、もう一方の面に記されている呪いに従って偽って誓う者が一掃されると言います(3節)。盗みと偽りの誓いは、律法で禁止されています(出エジプト記20章15,16節、レビ記19章11,12節など)。

 

 そこで、冒頭の言葉(4節)にあるように、巻物がこの禁止命令を破っている者の家に飛び込んで行ってそこに宿り、その家を「梁も石ももろともに滅ぼし尽くす」というのですから、まさしく神の呪いを受けて、その悪を行う者たちとその家が全地から取り除かれるのです。

 

 総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアによって、主の神殿が再建され、都が建て直されようとしているとき、盗みや偽りの誓いが横行しているというのは、いったいどうしたことでしょうか。そのような罪が国中に蔓延していくようなら、主の祝福が取り去られ、国を滅ぼす結果を招くのではないでしょうか。

 

 その背景として、バビロンから帰還した人々の暮らしは未だ貧しく厳しいものがあるということ、また、治安を守る社会機構がきちんと構築されていないということが考えられます。しかし、盗みや偽りの誓いは、他者との信頼関係を壊す行為であり、それは、国、社会の再建を妨げるものです。

 

 それゆえ、警察が機能していなくても、主はそれを見過ごしにはされず、盗人の家、偽りの誓いをする者の家を見出し、呪いをもって裁きを下されるのです。この幻がここに語られたのは、神殿が建て直されるということは、社会を、国を建て直すことであり、それゆえ、再建を妨げる罪悪を主なる神が徹底的に取り除かれるということを表明するためでしょう。

 

 主イエスが山上の説教の中で、「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5章9節)と教えられたとおり、神の子とされた人々は、隣人との平和に生きることが求められています。

 

 続く6節に「エファ升」が出て来ました。「第七の幻」です。これは、1エファ(およそ23リットル)を測るための容器です。1斗缶が18リットルですから、エファ升はその一回り大きなものということになります。その中に一人の女が座っていて(7節)、御使いはその女を、「邪悪そのもの」(リシュア=邪悪、不正、悪徳の意)と言いました(8節)。

 

 エファ升の中の邪悪ということで「あなたたちは、不正な物差し、秤、升を用いてはならない。正しい天秤、正しい錘、正しい升、正しい容器を用いなさい」(レビ記19章35,36節)という規定を思い出します。こうした規定があるということは、ユダヤの社会において不正な物差しや秤、そして升が用いられていたわけです。

 

 エファ升のことを「全地を見る彼らの目」(6節)というのは、不正が全地のいたるところで行われているということであり、邪悪なこと、不正なことを行おうとして、いつでも機会を狙っているということを表わしているようです。

 

 御使いは升の中に女を投げ返し、鉛の重しで蓋をしました(8節)。そして、遠く「シンアルの地」(バビロンのこと)に築かれる神殿に運びました。これは、悪が主なる神の御力によって封じ込められること、また不正を家から、町から遠ざけなければならないということを示しています。

 

 これもまた、家庭から、社会から、邪悪なもの、正しくないものを取り除きたいという主のメッセージです。私たちは、いつも主との正しい関係を意識して、私たちの罪、私たちの弱さと戦うべきです。私たちの心という升の中に、「邪悪」を隠しているなら、清い生活、正しい生活を送ることが出来ません。

 

 けれども、自分一人で罪や弱さに勝利出来るとは思いません。だから祈るのです。御言葉を聴くのです。聖霊の助けをいただくのです。腐らず、開き直らず、何度でも主の前に立ち上がるのです。

 

 先に主は、大祭司ヨシュアの汚れた衣を脱がせ、新しい晴れ着を着せられました(3章4節)。そこにキリストの贖いが表わされているということ、それは、キリストを上に着せていただいたということと学びました。

 

 更に、主の霊を求めましょう。主の霊のおられるところに自由があります(第二コリント3章17節)。主の霊が私たちのうちに働いて、主の栄光を鏡のように映し出させ、栄光から栄光へと主と同じ姿に造り替えてくださいます(同18節)。その恵みと導きに共に与りましょう。そうして、神の子として平和の実現に励みましょう。

 

 主よ、あなたの御心は聖書の御言葉にはっきりと記されています。御心に従って歩むことが出来るように、助けてください。聖霊で満たしてください。御霊を通して注がれてくる神の愛を、しっかりと受け止めさせてください。罪と戦い、弱さと戦わせてください。主によって勝利を与えてください。あなたの憐れみの御手に信頼します。主の恵みと平和が私たちのうちに、そして隣人との間に,常に豊かにありますように。 アーメン

 

 

「見よ、これが『若枝』という名の人である。その足もとから若枝が萌えいでる。彼は主の神殿を建て直す。」 ゼカリヤ書6章12節

 

 6章には「第八の幻」として、4両の戦車が登場して来ます(1節)。それは、数頭の馬に引かれた馬車です。最初の戦車には赤毛の馬、二番目は黒い馬、三番目は白い馬、そして四番目はまだらの強い馬がつけられていました(2,3節)。色々な色の馬は「第一の幻」(1章8節)にも出て来ました。それは、地上を巡回するために主が遣わされたものでした(同10節)。

 

 数頭の馬に引かれた4両の戦車を見たゼカリヤが、これは何かと御使いに尋ねると(4節)、「これは天の四方に向かう風で、全地の主の御前に立った後に出て行くものである」(5節)と答えました。天の四方の風は、「第三の幻」(2章5節以下)では、イスラエルの民を吹き散らしたものとして示されていました。ここでは、全地を主のものとするために出て行くのです(5節)。

 

 6節に「黒い馬は北の国に向かって出て行き、白い馬は西の方へ出て行き、まだらの馬は南の国に向かって出て行く」とあって、ここには「赤毛の馬」の記述がありません。また「天の四方」といいながら、東方向に出ていくものがいません。何かの都合で抜け落ちてしまったのでしょうか。

 

 マソラ本文の脚注では「赤い馬は東の地に向かって行く」という文言をつけ加えることが提案されています。また、7節の「強い馬」は3節の「まだらの強い馬」のことでしょうか(岩波訳はそう判断しています)。それとも、まだ言及されていない「赤毛の馬」(2節)のことなのでしょうか。

 

 8節に「北の国に向かって出て行ったものが、わが霊を北の国にとどまらせた」とあります。イスラエルは、北の強大国アッシリア、バビロンに苦しめられ、そして今はペルシアの支配を受けています。ここで、主なる神の霊がとどまるというのを、新改訳は「わたしの怒りを静める」、口語訳は「わたしの心を静まらせてくれた」と訳しています。

 

 神の民を苦しめているものに対して、黒い馬に乗った主の御使いが勝利を収めたので、主の怒りが静められたという解釈です。新共同訳は、ほぼ直訳調です(岩波訳も)。かくて、北の国に打ち勝つというだけでなく、主の霊が留まるということで、そこに主を信じる信仰が植えつけられること、そして、それによって主の恵みが広げられることをも示しているようです。

 

 次いで、主の言葉がゼカリヤに臨みました(9節)。それは、帰還した捕囚の民から贈り物を受け取り、冠をつくってそれを大祭司ヨシュアの頭に載せることでした(10,11節)。ヨシュアに戴冠するということは、大祭司を王とするという意味になります。

 

 ただ、ペルシア王キュロスによって捕囚の民は帰還を許されましたが、イスラエルは事実上ペルシア帝国の支配下にあります。ですから、自分たちの王を立て、戴冠式を行うということは、当然許されざることです。ペルシア皇帝の許可なくそれをすれば、帝国への反抗と見做されたことでしょう。

 

 冒頭の言葉(12節)にあるように、彼は「若枝」と呼ばれます。これは、「第4の幻」(3章)の中で大祭司ヨシュアとその同僚たちに、「わたしは、今や若枝であるわが僕を来させる」(同8節)と語られていたことと矛盾します。マソラ本文脚注では、11節の「ヨツァダクの子、大祭司ヨシュア」を「シェアルティエルの子ゼルバベル」と読み替えるよう提案しています。

 

 13節を見ると、「若枝」と言われた主の僕は、神殿を建て直して王座に座し、傍らの祭司との間に平和の計画があると言われます。つまり、戴冠されるのはヨシュアとゼルバベルのどちらなのかということではなく、王と祭司、双方の務めを担う者だということです。

 

 イザヤ書4章2節、11章1,2節にも、主の若枝についての預言があります。その若枝とは、ダビデの子孫として生まれてくるメシアを表しています。今、指導者ゼルバベルと大祭司ヨシュアによって神殿建築が進められていますが、真の神殿を建てるのは、若枝なる主メシアであると、ここに宣言されました。

 

 14節に「冠はヘレム、トビヤ、エダヤ、およびツェファンヤの子の好意を記念するものとして、主の神殿に置かれる」とあります。主のメシアによって建て直された主の神殿に、祭司ヨシュアの頭に載せられた冠が安置されることになるということです。

 

 「冠」は複数形です。「ヘルダイ、トビヤ、エダヤ」の家族から受け取った贈り物で冠を作り(9,10節)、「ヘレム、トビヤ、エダヤ、およびツェファンヤの子の好意を記念するもの」としてそれを神殿に安置するというので、王冠が複数形になっているのでしょう。

 

 また「ツェファンヤの子の好意」は「好意」(ヘン)を固有名詞として「ツェファンヤの子ヘン」と読むほうが自然ですが、10節に「ツェファンヤの子ヨシヤ」と記されていることもあり、ここでは「ヘン」を一般名詞の「好意」と読んでいるわけです。

 

 「へレム、トビヤ、エダヤ、およびツェファンヤの子の好意の記念」とは、王であり祭司であるメシアに栄光を帰す振る舞いを主メシアに対する好意として記念することでしょう。冠が好意の記念として神殿に置かれるということは、その冠が主への感謝と献身の証しであり、王なるメシアによって神の国が堅く立てられることの徴ということでしょう。

 

 メシアが神殿を建て直されるということで、ゼルバベルやヨシュアの神殿再建の手が止まることはありません。むしろ反対です。主の若枝なるメシアが真の神殿を完成してくださると信じるからこそ、主の神殿の完成を急ぎ、自分たちに与えられた使命を果たそうとするのです。

 

 ダビデの子孫として生まれてくるメシアとは、イエス・キリストのことです(マタイ1章1節、使徒言行録13章23節、ローマ書1章3,4節、第二テモテ書2章8節など)。確かにイエス・キリストは、神殿を建て直して王座に就かれる方です。

 

 主イエスは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2章19節)と言われました。それは、ご自分の体のことで、死からの甦りを語っておられたのです(同21,22節)。

 

 また、イエスの誕生を予告した天使ガブリエルが、「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる」と告げました。さらに「わたしたちには、もろもろの天を通過された偉大な大祭司、神の子イエスが与えられている」(ヘブライ書4章14節)と記されています。

 

 かくて、神の子イエスは、真の神殿を建て、神の国を立てる真の王であり祭司であるメシア=キリストであり、罪と死の力を打ち破って復活され、天に昇られて神の右の座につかれたということは、 記念として主の神殿に置かれていた冠を戴かれたということです。

 

 私たちの体は聖霊の宿られる神殿であり(第一コリント6章19節)、また、教会はキリストの体と言われます(同12章27節など)。キリストの体として教会を建て上げるために、めいめいが、自分に与えられた才能、能力、賜物を用いて主に仕え、また、愛をもって互いに仕え合って参りましょう。主が、教会という御自分の体を通して、その栄光を現してくださいます。

 

 主よ、私たちは御子イエスの血によって贖われ、キリストの体なる教会を構成する一員とされました。私たちが互いに愛し合い、平和のきずなで結ばれて、互いに仕え合うことを通して、私たちの信仰の証しを御前に捧げることが出来ますように。主の愛を追い求め、教会を造り上げることが出来ますように。 アーメン

 

 

「国の民すべてに言いなさい。また祭司たちにも言いなさい。五月にも、七月にも、あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。こうして七十年にもなるが、果たして、真にわたしのために断食してきたか。」 ゼカリヤ書7章5節

 

 ダレイオス王の第4年9月4日(紀元前518年12月初旬ごろ)、1章1,7節の期日のおよそ2年後、主の言葉がまたゼカリヤに臨みました(1節)。それは、「わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみの時を持つべきでしょうか」(3節)と、ベテルが使者を遣わして尋ねさせた問いに対して、主がそれに答えられたものです(4節以下)。

 

 「五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか」というのは、バビロンによってエルサレムが陥落し、神殿が破壊され、町が焼かれた「第五の月の七日」(列王記下25章8節)を記念して、断食することを指しています。イスラエルの民は、捕囚の間、そして、バビロンから解放されてからも、エルサレムが陥落し、国が滅ぼされたことを悲しんでいたわけです。

 

 ベテルが従者らを遣わしたというところ(2節)、口語訳は「ベテルの人々は」と訳していますが、「遣わす」が3人称単数形なので、ベテルの町がと考えた方がよいのでしょう。ただ、ベテルは北イスラエルにあった町で、信仰の一大中心地でした。国の分裂後、ヤロブアム王が金の子牛像を2体造り、その一つをベテルに置きました(列王記上12章28節以下)。

 

 北イスラエルの王たちは、このヤロブアムの偶像崇拝の罪を離れることがなかったと言われており(同15章26,34節、16章19,26,31節など)、それが紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされてしまう要因となりました(列王記下17章7節以下)。

 

 バビロン捕囚から解放された後、イスラエルに戻って来たユダの人々の中に、ベテルに住むようになった者たちがいて、そこから町を代表して、その従者たちがゼカリヤのもとに遣わされたというのでしょう。

 

 彼らが祭司や預言者らに質問したのは、ダレイオス王の治世第2年に神殿建築が再開され(エズラ記4章24節、ハガイ書1,2章)、完成のときが近づいて来たからでしょう。そこで、なおエルサレム陥落を悼んで断食する必要があるのかと問うているわけです。

 

 この問いに対して、主なる神がお答えになったのが、冒頭の言葉(5節)です。ここで主は、エルサレムが紀元前587年に陥落してから70年にも亘って断食してきたことを認めておられますが、「果たして、真にわたしのために断食してきたか」と問われています。

 

 それに続けて、「あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」(6節)と言われます。つまり、それは自己満足に過ぎないではないかと断じられたのです。

 

 神の都エルサレムがバビロン軍の前に陥落し、神殿が破壊され、国が滅んでしまったことを悲しんで断食するというのは、信仰深さを表しているように見えます。しかし、そもそも神の都がバビロンに滅ぼされたのは、イスラエルの背きの罪と不信仰のためでした。その根本的な罪を悔い改める必要があります。

 

 その意味で、ただ都が落とされ、主の神殿、王宮、エルサレムの家屋がすべて焼き払われ(列王記下15章9節)、城壁も取り壊され(同10節)、民衆が捕囚として連れ去られた(同11節)ことを記念して断食し、悲しむ真似をするをするだけというのは、本末転倒で何の意味もなく、無益なことだというわけです。

 

 主は、「正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、孤児、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない」(9,10節)と言われていました。

 

 しかるにイスラエルの民は、主の言葉に「耳を傾けることを拒み、かたくなに背を向け、耳を鈍くして聞こうとせず、心を石のように硬くして、万軍の主がその霊によって、先の預言者たちを通して与えられた律法と言葉とを聞こうとしなかった」(11,12節)のです。

 

 主の御前に謙ることをよしとせず、御言葉に聴き従おうとしないならば、主の恵みは取り去られ、代わって主の怒りが臨むことになります。「こうして万軍の主の怒りは激しく燃えた」(12節)と言われているとおりです。その結果、国は滅び、民は四散させられたのです(14節)

 

  私たちは、心から主なる神を愛し、その御言葉に聴き従わなければなりません。主なる神が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物などではありません。謙って主の御声に聴き従うことです(サムエル記上15章22節、詩編51編18,19節など)。

 

 つまり、断食すべきかどうかということではなく、「正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、孤児、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを心にたくらんではならない」という9,10節の御言葉に耳を傾けるかどうか、主に聴き従うかどうかということなのです。

 

 これは、最も重要な掟とされている、主なる神を全身全霊をもって愛することと、隣人を自分のように愛することという「二つの掟」(マタイ福音書22章37~39節)に集約される内容でしょう。主イエスは「律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(同40節)と仰っています。「律法全体と預言者」とは、旧約聖書のことです。

 

 この規定は、今も有効です。ルカ福音書10章25節以下で主イエスは、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(同25節)という質問に、この二つの掟を実行すれば、命が得られると教えておられます(同28節)。信仰により、主の恵みを受けて救われたからには、旧約の律法を行う必要などないということにはなりません。

 

 むしろ、恵みを味わったからこそ、喜んで主を礼拝し、隣人を愛しなさいと言われる主の御言葉に聴き従うのです。主の恵みは、それを知れば知るほど、主への賛美と、主に自らを献げる思いを、私たちの心に湧き上がらせます。それが、私たちのなすべき礼拝だと、パウロは教えています(ローマ書12章1節参照)。

 

 パウロはまた、「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(同14章17節)と言っています。これは、神の国では、飲み食いなどはどうでもよいと言っているのではありません。主イエスも、共に飲み食いすることを大事にされました。けれども、神の国、神の支配の中で重要なのは、義と平和と喜びであり、それが聖霊によって与えられると言っているのです。

 

 義とは、神との正しい関係を表しています。平和とは、他者との関係を表しています。神との関係が正しく、平和が支配しているところには、喜びが湧き上がるでしょう。聖霊がそれを与え、導いてくださいます。

 

 聖霊によって与えられる義と平和と喜びに満ちた中で、共に飲み食いすることが出来るのは、実に幸せなことではないでしょうか。神の御前に謙り、飲むにも食べるにも、何をするにも神の栄光を表すように行いたいものです。

 

 日毎に主の御前に進み、その御言葉に耳を傾けましょう。聖霊の導きを祈り、御言葉を瞑想しましょう。主の導きに従い、御心を行う者とならせていただきましょう。 

 

 主よ、私たちを神の国にふさわしく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びに満たし、導いてください。飲み食いに示される私たちの交わりを通して、神の栄光を表すことが出来ますように。御名が崇められますように。御国が来ますように。そして、御心がこの地にも行われますように。 アーメン

 

 

「あなたたちのなすべきことは次のとおりである。互いに真実を語り合え。城門では真実と正義に基づき、平和をもたらす裁きをせよ。」 ゼカリヤ書8章16節

 

 8章は、バビロン捕囚から帰還したユダの民によって神の国イスラエルを再興されることが約束され、イスラエルを祝福する預言の言葉です。その中で、「勇気を出せ」、「恐れてはならない」(9,13,15節)と繰り返し言われます。

 

 これは、同時期に活動した預言者ハガイも語っていたところでした(ハガイ書2章4,5節)。そこには、帰国を果たすことは出来たものの、神殿を建て直し、エルサレムの都を復興するまでには、なお多くの困難があるということが伺えます。

 

 8章の主の言葉が、7章1節と同時期(「ダレイオス王の第4年」)のものであれば、神殿の工事が終わるまでまだ2年もかかります(「この神殿は、ダレイオス王の治世第6年のアダルの月の23日に完成した」エズラ記6章15節)。

 

 主なる神は復興されるエルサレムについて、「エルサレムの広場には、再び、老爺、老婆が座すようになる。それぞれ、長寿のゆえに杖を手にして。都の広場はわらべとおとめに溢れ、彼らは広場で笑いさざめく」(4,5節)と言われます。

 

 ということは、帰国した民の中には、老爺や老婆、わらべやおとめが殆どいない、いても数が極めて少ないということを示しています。それは、バビロンからエルサレムまで長距離を旅し、荒れた町を復興するのは困難だからであり、高齢者や幼子を抱えた世代の人々は、生活が不安定になることを望まないからです。

 

 そう考えると、バビロンから帰国したのは、若者が中心であったと言ってよいでしょう。高齢者が座し、幼子の声が満ちるというビジョンを通して、神は、神殿や城壁などといった建造物だけでなく、あらゆる世代が町に住む社会全体の復興を約束して、苦難の中にいる帰国の民を励ましているのです。

 

 そして、国を建て直すのに必要なのは、「真実」(エメト)と「正義」(ミシュパート:公正)に基づき、「平和」(シャローム)をもたらす「裁きを行え」(シャーファト)と、冒頭の言葉(16節)で語られています。それは特に、7章10節に語られていたとおり、やもめや孤児、寄留者、貧しい者らに対して示されなければならないものです。

 

 昔も今も、国の為政者によって真実が歪められ、不正が行われ、そのために国民、特に弱い立場にいる人々が苦しめられるという構図には、変わりがありません。森かけ問題も桜を見る会の問題も、政府は真相が明らかにしようとはしません。

 

 沖縄に米軍基地の74%が集中しているというのは、数字の読み方に偏りがあります。米軍が占有している基地の面積は、全国で1028㎢、そのうち沖縄は229㎢、全体の22.7%です。しかし、沖縄本島に占める基地面積は、本島面積の18%にもなります。

 

 米軍基地が2番目に多く存在する神奈川県の基地面積は21㎢、県面積の0.8%、米軍基地面積が全国2位の青森県では24㎢、県面積の0.3%です。また、有事に共用にされる土地という点では、北海道が全国1位で345㎢です。しかしこれは、北海道面積の0.5%足らずです。

 

 沖縄では、有事の際に共用となる土地は更に増えるのです。これらは、沖縄にどれだけ大きな負担を強いているか、よく分かる数字だと思います。国は、一刻も早くこの状況を改善すべきです。

 

 真実を行うというのは、国だけの問題ではありません。13年ほど前の飲酒運転による悲惨な死亡事故で、飲酒運転に対する厳罰化がなされ、飲酒運転追放運動が全国的に展開されましたが、飲酒運転は一向に減りません。警察官が飲酒運転で逮捕という嘆かわしいニュースを聞いたのも、一度や二度ではありません。そもそも法令遵守意識(コンプライアンス)がないのでしょう。

 

 最近、服薬コンプライアンスという言葉があることを知りました。医療現場において、患者が処方どおりに服薬している場合、「コンプライアンス良好」といい、そうでない場合を「ノンコンプライアンス」というそうです。もしかすると、こんなところにも、真実に生きるという意識の欠如が表われているのかも知れません。

 

 私たちに求められているのは、思い上がらず虚勢を張らず、主なる神を信頼し、弱さは弱さのまま、足りなさは足りなさのまま、あるがままで主の前に立ち、自分の身の丈にあった真実、誠実な働きをすることです。そのとき、主なる神はご自分の栄光の富に応じて、私たちに必要なものをすべて豊かに満たしてくださいます。

 

 主は、「四月の断食、五月の断食、七月の断食、十月の断食はユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時となる」(19節)と言われます。7章3節にエルサレム陥落を記念して断食する悲しみの時を持つべきかという問いが提出され、それに対して主が「果たして、真にわたしのために断食してきたか」(同5節)と問い返しておられました。形式的な断食に意味はないということです。

 

 また、[あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりして来ただけではないか」(同6節)と追求され、「正義と真理に基づいて裁き、互いにいたわり合い、憐れみ深くあり、やもめ、孤児、寄留者、貧しい者らを虐げず、互いに災いを企んではならない」(同9,10節)と命じられていました。

 

 それをここでは、断食の時をユダの家が喜び祝う楽しい祝祭の時とすべきことを提案なされました。破壊された都に主が来られて真ん中に住まわれ、復興されるので(3節)、悲しみ嘆くときではなく、喜び祝うときとなると言われ、「あなたたちは真実と平和を愛さねばならない」(19節)というのです。

 

 多くの民、強い国々の民が来て、エルサレムにいます万軍の主を尋ね求め、主の恵みを求めて(22節)、「あなたたちと共に行かせてほしい。我々は、神があなたたちと共におられると聞いたからだ」(23節)と言うと告げられます。

 

 未だ、このゼカリヤの告げた預言が実現を見てはいませんが、しかし、エルサレムのみでなく、あらゆる言葉の国々のあらゆる広場に老爺老婆が座し、わらべとおとめに溢れ、彼らが笑いさざめく様をぜひ見せていただきたいと、主に祈り願います。

 

 その実現を思い描きつつ、主にあって真実をもって語り合い、聖霊の導きに従って平和を創り出す者とならせていただきましょう。

 

 主よ、わが国の政治、経済、教育など、あらゆる分野で真実と公正、平和が脅かされているように思われます。そうした中にあって、常に真実であられ,平和の源であられる主を仰ぎ、その御言葉に耳を傾け、正義を行う者となることが出来ますように。私たち自身も真実をもって語り合い、平和を創り出す者となることが出来ますように。 アーメン

 

 

「またあなたについては、あなたと結んだ契約の血のゆえに、わたしはあなたの捕らわれ人を水のない穴から解き放つ。」 ゼカリヤ書9章11節

 

 9章以下は、8章までの預言とは文体も内容も異なっており、別人の筆によるものと考える学者は少なくありません。さらに、9章以下を9~11章と12~14章の二つに分け、8章までを第一ゼカリヤ、9章から第二ゼカリヤ、そして12章以下を第三ゼカリヤと呼んでいます。

 

 ただ、その三つが一つにされて今日に伝わっているという事実は、どうでも良いというものではありません。考古学的な研究から、かなり早い段階から一つの書として読まれるようになっていたようです。最近の研究者の中には、9章以下の部分は、1~8章までの時期から10年ほど後にゼカリヤが記したものとする説を唱える人も出て来ました。

 

 9章には、まず諸国民に対する裁きが記されます。1~4節にはシリア、フェニキアの町に対する託宣で、それらの町が交易などで集めた富や力を、海に投げ込み、町を火で焼くと言われます(4節)。また5~7節はペリシテの町に対する託宣で、ペリシテ人の高ぶりを絶つと語られます(7節)。

 

 人を高ぶらせるものが取り除かれたとき、驚くべきことに、「その残りの者は我らの神に属し、ユダの中の一族のようになり、エクロンはエブス人のようになる」(7節)と言われます。ダビデはエブス人の町エルサレムを陥落させて「ダビデの町」としました(サムエル記下5章6節以下、9節)。ただ、エブス人は滅ぼされたのではなく、ユダの民の中に吸収されたようです(同24章16節参照)。

 

 即ち、主なる神は御自分の支配を、力ではなく平和をもって打ち立てられるということです。それで、地上から戦乱はなくなり、イスラエルに平和が訪れます。だから、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ」(9節)と言われ、「わたしはエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を立つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる」(10節)と記されるのです。

 

 冒頭の言葉(11節)で「捕らわれ人を水のない穴から解き放つ」というのは、イスラエルの父祖ヤコブの11番目の息子ヨセフの身の上に起こった出来事を思い出させます。ヨセフは、父ヤコブの寵愛を一身に受けました。ヨセフはそれを鼻にかけていたので、10人の兄たちの妬みを買い(創世記37章1節以下)、空の井戸に投げ込まれます(同12節以下)。

 

 空井戸ですから、水がありません(同24節)。また、食べ物もありません。そのままなら、飢えと渇きで死んでしまうことでしょう。しかし、長兄ルベンが、弟を殺すのはやめて、イシュマエル人に売ってしまおうと提案します(同27節)。

 

 ところが、兄弟たちがそのように話し合っている間にミディアン人が通りかかり、ヨセフを井戸から引き出し、イシュマエル人のキャラバンに売ってしまいました。ルベンが提案したとおりの成り行きになったわけです(同28節)。

 

 イシュマエル人は、ヨセフをエジプトに連れて行き、ファラオの宮廷役人で侍従長ポティファルに売られ、奴隷として働かされることになります(同28,36節)。それは大変な道ですが、まずは死を免れることが出来ました。

 

 ヨセフはエジプトでも困難なところを通りましたが(同39章参照)、主はヨセフを祝福されて(39章2,21節)、ファラオの家来たちの夢解きをしたことから(同40章)、ファラオの見た夢を解くことになり(同41章1節以下)、その知恵が認められてついにエジプトの宰相に任じられるようになります(同41節以下)。

 

 そのことで、エジプトが飢饉から守られただけでなく、ヤコブ一族も救われることになり(同42章以下参照)、その子孫は400年を超える奴隷生活の後、モーセに率いられてエジプトを脱出しました(出エジプト記1章8節以下、12章40節以下)。

 

 ひとりエジプトに売られたヨセフでしたが、やがて家族70名がエジプトで過ごすことになり(創世記46章27節)、モーセに率いられてエジプトを脱出したときには、成人男子だけで60万を超える大民族となっていました(民数記1章45,46節)。

 

 預言者ゼカリヤの時代、捕囚から解放されたものの、いまだイスラエルに戻って来ていない民も少なくありませんでした。むしろ、帰国した方が圧倒的に少ないという状況だったでしょう。それは、帰国しても困難が待っているだけで、バビロンにいる方がよほどましだと考えられたからです。

 

 そこで、主なる神は彼らのために、ロバに乗る平和の王、勝利を与える者を遣わされます(9節)。主によって繁栄が回復されます。失ったものが2倍になって戻って来ると約束されています(12節)。主は恵みを備えて、主を礼拝する民がご自分のもとに帰って来るのを待っておられるのです。「砦に帰れ」(12節)という御言葉に聞き従うように求めておられるのです。

 

 あらためて、「水のない穴」とは、御言葉を聞くことの出来ないところとも考えられます。水は、神の御言葉を指しています(詩編1編2,3節、エフェソ書5章26節、ヨハネ福音書4章参照)。私たちは、いつも水のある広い場所、神と共にいて、その御言葉を聴くことの出来るところにいたいと思います。

 

 私たちには、神の御言葉を聴く資格があるとか、神の共にいるのが当然というのではありません。「あなたと結んだ契約の血のゆえに」と言われるとおり、主イエスが十字架で流された贖いの血によって結ばれた新しい契約によって救いの恵みに与り、神の宝の民としていただいたのです(16節、出エジプト記19章5,6節、第一ペトロ書2章9節)。

 

 主イエスは、まさにロバに乗ってこられた平和の王で(ルカ19章28節以下、38節)、死に打ち勝って甦られ、今も生きて私たちを守り導いてくださいます(同24章、マタイ28章20節、ローマ書14章9,11節、5章21節、使徒言行録5章31節)。

 

 それは、私たちの行いによるのではなく、神の賜物であり、一方的に授けられた神の恵みです(エフェソ書2章8,9節)。神が招いてくださるからこそ、神の御前に立つことが出来、主の御声を聴くことが許されるのです(ヘブライ書4章16節、7章25節)。

 

 日々主の御前に進み、いのちの言葉を戴きましょう。聖霊に満たされ、心から主をほめ歌いましょう。上からの力を受けて、キリストの証人としての使命を全うしましょう。 

 

 主よ、いつも共におらせてください。御言葉を聞かせてください。御言葉に聴き従うことが出来ますように。弱い私たちを常に聖霊で満たし、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことも感謝する信仰によって歩ませてください。主の恵みを信じます。 アーメン

 

 

「彼らは苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ。ナイルの深みはすべて干上がり、アッシリアの高ぶりは引き降ろされ、エジプトの王笏は失われる。」 ゼカリヤ書10章11節

 

 1節に「春の雨の季節には、主に雨を求めよ。主は稲妻を放ち、彼らに豊かな雨を降らせ、すべての人に野の草を与えられる」とあります。この言葉は続く2節で「テラフィムは空虚なことを語り、占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。その慰めは空しい」と語られている言葉との関連で、収穫をもたらす雨をだれに祈り願うのかと、イスラエルの民に訴えているのです。

 

 「テラフィム」は、創世記31章19節で「家の守り神」と訳されています。士師記17章5節の表現では、主なる神のこととして礼拝しています。しかし、サムエル記上15章23節では「偶像」と訳されています。ここに、はっきり主なる神と区別されたわけです。

 

 2節の「テラフィム」は、偶像の代表のようにして語られています。そして、テラフィムを初めとする偶像に依り頼んで雨を祈り求めること、また占い師に将来の夢幻を尋ねるのは、真の神に依り頼まず、人の作った偶像や、占い師など偽りの指導者に道を求める人々は、羊飼いのない羊のように空しくさまようことになるのです。

 

 ソロモン王以後、イスラエルは異教の神々を慕い求めて道を誤り、まことの神を悲しませました(列王記上11章)。その結果、国は分裂し(同12章)、そして、亡国と捕囚という塗炭の苦しみを味わわなければなりませんでした(列王記下17章、25章)。

 

 国を再建するにあたり、あらためてその信仰を問い、主に恵みを祈り求めよというのです。そして6節で「わたしはユダの家に力を与え、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す。彼らはわたしが退けなかった者のようになる。わたしは彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ」と約束されました。

 

 ここで「ヨセフの家」とあるのは、ヨセフの子はマナセとエフライムで、特にエフライムの子らは北イスラエル王国を代表する中心的な部族となりましたので、ここでは北イスラエル王国のことを表しています。つまり、「ヨセフの家を救う」というのは、北イスラエルを救うということです。

 

 北イスラエルは、紀元前721年にアッシリアによって滅ぼされ、民はアッシリアの各地に散らされました(列王記げ17章6節)。主なる神は、バビロンの捕囚となったユダの民だけでなく、アッシリアの捕囚となった北イスラエルの人々をも、「わたしは彼らを憐れむゆえに連れ戻す」と言われるのです。

 

 「彼らはわたしが退けなかった者のようになる。わたしは彼らの神なる主であり、彼らの祈りに答えるからだ」ということは、かつて彼らはその罪のゆえに主を怒らせましたが、亡国と捕囚の苦しみの中で主を求めたゆえに、主が憐れみをもってその祈りに答え、捕囚の地から贖い出してくださるというのです。 

 

 冒頭の言葉(11節)で「苦しみの海を通って進み、波立つ海を打つ」というのは、出エジプトの出来事を思い起こさせるものです。かつて主なる神は、エジプトを脱出したイスラエルの民が、エジプト軍に追撃される絶体絶命の危機にあって悲鳴を上げたとき、葦の海(紅海)を二つに分けて、乾いた地を行くように民を対岸へ逃れさせました(出エジプト記14章)。

 

 それからの40年間の荒れ野の生活でも、民はたびたび苦難や危機を経験しましたが、そのたびに主は民を守り、助けました(申命記29章参照)。そのようにして彼らは信仰の養いを受け、約束の地カナンへ導き入れられて、国を建てることが出来たのです。

 

 ユダとイスラエルの民がエジプトの地から帰り、アッシリアから呼び集められるというのが(10節)、第二の出エジプトとしてここに語られているということは、彼らのために主の守りと助けが用意され、国を再興することが出来ると約束されているのです。

 

 勿論それは平坦な道ではありません。冒頭の言葉のとおり、彼らの前に苦しみの海、波立つ海があって、彼らの行く手を遮っているのです。けれども、民は海を渡ることが出来ます。遮る海を打つことが出来ます(4章6節以下も参照)。

 

 ここでいう海とは、葦の海などではなく、様々な苦しみ、試練を指しているようです。その苦難を通して開かれる恵みの世界があること、その試練を通らなければ味わうことが出来ない信仰の世界があるということを教えられます。

 

 苦しみがあれば神に訴え、悲しみがあれば神に嘆き、呻いて祈りを捧げます。そして、訴え、嘆き、呻いてささげた祈りが神に聞かれ、やがて喜びや感謝の賛美に導かれる恵みを味わうのです。こうして、私たちの主なる神は、慰めと希望の源なるお方であり、どんなマイナスもプラスに変えてくださるお方であるという信仰に導かれてゆきます(ローマ書15章5,13節、8章26,28節)。

 

 主イエスと弟子たちは、ガリラヤ湖を向こう岸に向かっている時、何度か嵐に遭遇しました。しかし、どんな嵐が襲って来ても、向こう岸に渡ることが出来ました。それは、弟子たちの信仰のゆえなどではなく、向こう岸に渡ることが主の御旨だからであり、そして、主イエスが弟子たちと共におられたからです(マルコ福音書4章35節以下など)。

 

 どんなときにも思い煩わないで、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けましょう。あらゆる人知を超える神の平和、平安が、私たちの心と考えをキリスト・イエスによって守ってくださいます(フィリピ書4章6,7節)。主を信じ、御言葉に立って前進させていただきましょう。

 

 主よ、あなたこそ真の羊飼いであられ、深い憐れみをもって私たちを命の道に導いてくださいます。苦しみの海を通ることがあっても、あなたが私たちと共にいて波立つ海を打たれ、私たちは主にあって力を受けます。私たちは主の御名において歩み続けます。その恵みと慈しみのゆえに心から感謝します。いよいよ御名があがめられますように。 アーメン

 

 

「わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。」  ゼカリヤ書11章12節

 

 11章は、10章に続いて羊飼いについての言及があります。新共同訳聖書では、4節以下の段落に「悪い羊飼い」という小見出しをつけています。レバノンの杉、見事な大木、バシャンの樫の木、人を寄せつけなかった森は(2節)、いずれも称賛の言葉ではなく、人の高ぶりを示す預言者的な表現です。ゆえに、焼き尽くされ、荒れ果て、倒されるのです。

 

 3節の「見事な牧場」という言葉について、原語に「牧場」という言葉はなく、「栄光、輝き、威厳」(アッデレト)という言葉が、「羊飼いたちの泣き叫ぶ声」という言葉からの類推で「見事な牧場」という訳語になったわけです(岩波訳脚注参照)。口語訳は「栄え」と訳し、新改訳は「ヨルダンの密林」との関連で「みごとな木々」と訳しています。

 

 いずれにせよ、ユダの指導者たちの高ぶりによって国が破壊されること、住処を荒らされて獅子が吠えるように(3節)、主なる神の裁きが羊飼いたるユダの指導者たちの上にふりかかり、泣き叫ぶことになると告げられているのです。

 

 羊飼いは、牧草のあるところや飲み水のある泉などへ羊を導き、羊を養い育てるという務めをします。羊は弱い動物で、ユダの荒れ野において、羊飼いなしに生きることはなかなか困難です。そして、羊は自分がよい羊飼いになることは出来ません。

 

 また、羊を憐れまない羊飼いが(5節)、良い羊飼いであるはずがありません。ここで預言者ゼカリヤは、王や祭司など政治的、宗教的な指導者たちのことを羊飼いと呼び、イスラエルの民を羊と呼んでいます。

 

 5節の「買い取る者」は異国の王で、イスラエルの民を奴隷とするということでしょう。「罪を着せられず」というのは、彼らがイスラエルの民を裁く道具として用いられるからです。羊を売るのは、羊を食い物にする悪い羊飼いで、私腹を肥やすためにそうしていると言われます。

 

 良い羊飼いは、絶えず羊のことを心にかけます。羊飼いは、「好意」と「一致」という二本の杖を手に持っています(7節)。好意は、小さい者に関心を払い、契約を結んで神の民とし、彼らに恵みを与えようとすることです。また、一致とは、分かれているものが一つになることです。そして、良い羊飼いは、悪い羊飼いを取り除きます(8節)。この良い羊飼いとは、主なる神のことです。

 

 9章16節で「彼らの神なる主は、その日、彼らを救い、その民を羊のように養われる」と言い、10章3節には「万軍の主は御自分の羊の群れ、ユダの家を顧み、彼らを輝かしい軍馬のようにされる」とあり、同8節にも「わたしは彼らを贖い、口笛を吹いて集める。彼らはかつてのように再び多くなる」と記されています。

 

 ところが、羊たちが良い羊飼いを好むとは限りません。ここではむしろ、悪い羊飼いを退けた良い羊飼いを嫌っています(8節後半)。良い指導者よりも自分たちにとって都合のよい指導者を、まことの神、主よりも、自分たちの欲望を満たす偽りの神々を慕うのです。

 

 そのため、良い羊飼いに見限られ、「わたしはお前たちを飼わない。死ぬべき者は死ね。消え去るべき者は消え去れ」(9節)、「わたしは『好意』というわたしの杖を取って折り、諸国の民すべてと結んだわが契約を無効にした」(10節)と言われます。即ち、神の支配から切り離されて、バビロン捕囚の憂き目を見ることになったわけです。

 

 14節には「わたしは『一致』というわたしのもう一つの杖を折り、ユダとイスラエルの兄弟の契りを無効にした」という言葉があります。これは、ソロモン王の罪により、イスラエルが、北と南に分断されたことを示しています。「国が内輪で争えば、その国は成り立たない」(マルコ3章24節)と主イエスが教えられたとおり、主なる神との契約が無効にされて、滅亡への道を突き進んでしまったわけです。

 

 冒頭の言葉(12節)に「もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を払え」とあります。羊が羊飼いに賃金を払うというのは、前代未聞の出来事ですが、「好意」という杖が折られた後、即ち契約を無効にした後に賃金を支払うというのですから、賃金が支払われて契約解除、謂わば解雇金といったものです。「支払わない」となれば、懲戒解雇を意味するといってよいでしょう。

 

 そして、銀30シェケルが量り与えられました。主がゼカリヤに「それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を」(13節)と言われるので、彼はそれを取って、鋳物師に投げ与えました。

 

 銀30シェケルは、イスカリオテのユダに支払われた、主イエスを売り渡す代価でした(マタイ福音書26章15節)。後にユダは後悔して、銀貨を返そうとし(同27章3節)、神殿に投げ込みます(同5節)。祭司たちはそれで陶器職人の畑を買いました(同6,7節)。ここに、ゼカリヤの預言が成就したのです。

 

 主イエスは、自分を殺そうとする者のために執り成して祈り、神に罪の赦しを請いました(ルカ福音書23章34節)。そして、十字架で贖いの死を遂げられました。主イエスこそ、実に「羊のために命を捨てる」良い羊飼いなのです(ヨハネ福音書10章11節)。

 

 私たちは、良い羊飼いなる主イエスに、「好意」と「一致」の杖で導いていただきましょう。主が共におられれば、災いをおそれることもありません。その杖が私たちに力を与えるからです(詩編23編4節)。

 

 主よ、元来あなたの囲いの中にいなかった私たちをもその群れに加えてくださり、恵みと平安にあずからせて頂くことが出来たことを、心から感謝致します。絶えずあなたの御声を聞かせてください。永遠の命の御言葉に常に耳を傾けます。あらゆる誘惑や罠から私たちを守ってくださり、死に至るまで忠実に歩ませてください。 アーメン

 

 

「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ。」 ゼカリヤ書12章10節

 

 ゼカリヤ書後半部(9章以下)で、第二の託宣が記される12章以下14章までを第三ゼカリヤと呼びます。12章には、「エルサレムの救いと浄化」という小見出しがつけられています。

 

 主は、「わたしはエルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる」(2節)と言われました。エルサレムが全世界の民に包囲されます。周囲のすべての民のエルサレムに対する敵対心は、神に対する反抗であることを示しています。

 

 しかし、主なる神に反抗することは、おのが身に主の裁きを招くことです。「その日、わたしはエルサレムをあらゆる民にとって重い石とする。それを持ち上げようとする者は皆、深い傷を負う」(3節)とは、そのことです。

 

 エルサレムを取り巻く民の中にユダの人々もいます。主は、ユダの人々の目を開かれました(4節)。すると、彼らは「エルサレムの住民はわれらの神、万軍の主のゆえに、わたしの力だ」(5節)と心に言います。エルサレムに反抗する群れの中にいたユダの民が、エルサレム側に寝返ったかたちです。

 

 主はユダの民を薪や松明のようにして、エルサレムを取り巻く周囲の人々に燃え移らせ、すべてのものを焼き尽くさせます。さながら、豊臣方(西軍)であった小早川秀明が徳川方(東軍)に寝返り、大谷吉継隊に攻めかかり、壊滅させたことで戦況は東軍優位に傾き、関ヶ原の戦いは一日で決着してしまったといった状況を思い浮かべます。

 

 これは、主なる神がご自分に敵対するものをすべて打ち滅ぼそうとしておられるのではなく、滅びを刈り取ることのないように、ご自分のもとに立ち返るよう呼び掛けておられるということではないでしょうか。だから、ユダの家の人々の目が開かれるようになさったのです。

 

 10節以下には、エルサレムの住民への言葉が記されています。まず、冒頭の言葉(10節)のとおり、「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」と言われます。そうすると、「彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」というのです。

 

 ダビデの家とエルサレムの住民が主なる神を刺し貫いたとは、主が遣わした預言者を殺したということであり、それによって主を刺し貫こうとしたのだと言われているわけです。そこで、憐れみと祈りの霊が注がれて、彼らはおのが罪に気づかされ、その愚かな業を嘆き悲しむのです。

 

 11節に「その日、エルサレムにはメギド平野におけるハダド・リモンの嘆きのように大きな嘆きが起こる」と記されています。メギド平野とは、メギドから東に広がるイズレエル平野のことでしょう。メギドは交通の要衝で、軍事的にも商業的にも重要な場所でした。ソロモンはこの地の戦略上の重要性を考えて、強力な要塞都市を建設しました(列王記上9章15節)。

 

 メギドにおける嘆きで思い起こすのは、神殿修復の際に発見した律法の書に従い、徹底的な宗教改革を行ったヨシヤ王が、エジプトのファラオ・ネコと戦って殺された場所だということです。

 

 もしも、ヨシヤ王がここで戦うことを回避していれば、そして、長く生きて宗教改革を徹底していれば、国の行く末は違ったものになったかも知れません。そのことを嘆く声が高く上がったように、エルサレムにおいて大きな嘆きが起こるということです。

 

 「ハダド・リモンの嘆き」とありますが、「ハダド」は「雷・嵐」を意味するアラムの神です。「リモン」は「吠え掛かる者」というアッカド語に由来する名で、 エリシャにより重い皮膚病を清めてもらったナアマン将軍が、「わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」(列王記下5章18節)と言います。リモンもアラムの神なのです。

 

 「ハダド・リモン」とは、ハダドとリモンが同一視されていたということでしょう。「メギド平野におけるハダド・リモンの嘆き」ということは、ハダド・リモンを祀る聖所か祠がメギドの傍にあったということでしょう。ヨシヤの宗教改革のさなか、ハダド・リモンを祀る聖所がメギドの傍にあったということは、主に反抗し、主の胸を刺し貫く行為がなされていたわけです。

 

 そのことを嘆く声が、ヨシヤ王を悼んで嘆くよりもさらに高く大きく、エルサレムで上がるということです。その声は、部族ごと、氏族ごと、男女別々に上げられると言われます。それは、その嘆きが公式発言としてなされるというより、一人ひとり個人的な痛み、嘆きとして声が上げられているということなのでしょう。ゆえに大きな嘆きになっているのです。

 

 「ダビデの家の氏族」とは、ダビデ王家のことでしょう。「ナタンの家の氏族」とは、ダビデに仕えた宮廷預言者言ナタンに遡る家系ということです(サムエル記下7章2節以下、12章1節以下参照)。

 

 続く「レビの家の氏族」がどの氏族のことをいっているのかというところですが、その後に「シムイの氏族」とあり、シムイはレビの長男ゲルションの一氏族(民数記3章21節参照)です。

 

 こうしてみると、ダビデ王家とという政治的指導者と、ダビデに仕えた預言者ナタンの子孫とレビ家の子孫という宗教的指導者とが、それぞれに分かれて嘆くと言っています。彼らがエルサレムの民に罪を犯させ、主に背いてその胸を刺し貫くような愚かな振る舞いに及んだので、北はアッシリア、南はバビロンに滅ぼされ、捕囚とされるという結果を招いたわけです。

 

 おのが罪に気づき、嘆き悲しむとは、悔い改めの表現です。悔い改めとは、後悔するというよりも、方向を転換することです。背を向けていた神に顔を向けること、耳を閉ざしていた神の御言葉に耳を傾けること、背いていた神に従うようになることです。 

 

 ここに言われる独り子を失った嘆き、初子の死の悲しみとは、イエス・キリストの死を指しています。ヨハネ福音書19章37節に、「また、聖書の別のところに、『彼らは、自分たちの突き刺した者を見る』とも書いてある」とあります。これは、十字架のイエスがやりでわき腹を刺されたのは、ゼカリヤ書12章10節の預言が実現したことだと言っているのです。

 

 つまり、自分たちの罪のために死なれた神の独り子イエス・キリストの死を見つめて、彼らは嘆き悲しむ、即ち、悔い改めをするということです。民が悔い改めて神の下に帰ってくること、それが神の計画なのです。これこそ、偽りの神々の策略に対するまことの神の勝利なのです。

 

 憐れみと祈りの霊を注がれて、悔い改めに導かれた民は、自分の罪を悔い、悲しむと共に、その罪を自ら背負い、死んでくださった主イエスの贖いに心から感謝することでしょう。さらに憐れみと祈りの霊は、十字架につけられたキリストを宣べ伝える伝道の力、証しの力を与えるでしょう(使徒言行録1章8節、第一コリント書1章23節、2章2,4節)。

 

 主の霊は私たちの内に住まい、私たちを神の神殿、聖霊の宮とされます(第一コリント書6章19節)。主の霊の働きによって、自由にされます(第二コリント書3章17節)。顔の覆いが除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます(同18節)。

 

 私たちを神の子とし、神を「アッバ、父よ」と呼ばせてくださいます(ローマ書8章15,16節)。神の子として天の御国を受け継ぐ保証となってくださいます(エフェソ書1勝13,14節)。私たちのために呻きをもって執り成し、万事が益となるようにしてくださいます(ローマ署8章26,28節)。

 

 霊的な賜物をお与えくださいます(第一コリント書12章1,4節)。一人一人に霊の働きが現れるのは、教会全体の益となるためです(同7節)。そして、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という霊の実を結ばせてくださいます(ガラテヤ書5章22,23節)。

 

 絶えず聖霊に満たされて、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌いましょう。

 

 主よ、私たちの霊の目を開き、私たちがどこにいるのか、何をしているのか、気づかせてくださいますように。偽り、背きの罪を離れ、真理の神に立ち返ることが出来ますように。御言葉と御霊によって内なる人を清め、キリストの贖いという尊い代価を払って買い取ってくださった私たちの体で、神の栄光を現すことが出来ますように。 アーメン

 

 

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれる。」 ゼカリヤ書13章1節

 

 冒頭の言葉(1節)のとおり、「ダビデの家とエルサレムの民のために、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれ」ます。「その日」というのは、12章2節の「エルサレムを、周囲のすべての民を酔わせる杯とする」日のことであり、同9節の「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」日のことです。

 

 「泉が開かれる」ということですから、井戸を掘ったというのではありません。また、雨水を貯めておく池を造るということでもありません。罪、汚れを洗い清める水が泉となって湧き上るのです。この水の源は主なる神ご自身です。主が、あらゆる罪と汚れを洗い清める泉を開いてくださるのです。

 

 その清い水の流れは、この地から「数々の偶像」(2節)、即ち異教の神々を取り除き、また、異教の神々に仕える偽の預言者たちを追い払います(同節)。それでもなお預言をする者があれば、両親から「主の御名において偽りを告げたのだから、お前は生きていてはならない」(3節)と言われ、処刑されます。それは、申命記13章2節以下に規定されているとおりです。

 

 ゆえに、彼らは預言者のユニホームである毛皮の外套をまとわなくなり(4節)、「わたしは預言者ではない、土を耕す者だ」(5節)と言って、処刑を免れようとするのです。そうして、偶像と偽りの預言者が排除されることにより、主の支配が確立するその日が到来するのです。

 

 因みに、アモスが「わたしは預言者ではない。預言者の弟子でもない。わたしは家畜を買い、いちじく桑を栽培する者だ」(アモス書7章14節)と言いましたが、それは、職業的預言者ではないという宣言であり、にもかかわらず、「主は家畜の群れを追っているところから、わたしを取り、『行って、わが民イスラエルに預言せよ』と言われた」(同15節)と、預言者としての使命を託されたことを明らかにしていました。

 

 また、「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ、わたしの同僚であった男に立ち向かえと、万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい」(7節)と主が言われます。これは、主の民を養い、正しく導くべき指導者たちが、その使命を果たさないばかりか、異教の神々を礼拝して神を怒らせたゆえ、退けられたということです。

 

 それは、11章15節の「愚かな羊飼い」、同17節の「無用な羊飼い」と呼ばれる人たちのことです。そして8節に「この地の何処でもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る」とあります。民の三分の二は、この悪しき指導者たちと共に裁かれるということです。つまり、指導者たちだけでなく、民も自ら、神に背いていたわけです。

 

 しかし、民の三分の一は残され、神と民との間で、「彼こそわたしの民」、「主こそわたしの神」(9節)と呼び合う新しい契約が結ばれます(エレミヤ書31章31,33節)。「銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す」(同節)と言われていますから、民は火のような試練を通って清められ、神の民とされるわけです。

 

 あらためてゼカリヤに与えられた本章の託宣は、エゼキエル書47章の「命の水」の預言を思い出させます。神殿の敷居の下から湧き上った水が川となり、アラバの海に注いで水を清め、すべての生き物が生き返り、魚も非常に多くなるというものでした。清い水の働きが神殿から始まり、すべてのものを清めると考えてもよいでしょう。

 

 ゼカリヤ書でも、この清める泉が開かれたのは、異教の神々を祀り、偽の礼拝を行わせる預言者や悪の指導者たちのいたエルサレムの都を清めるためで、その神殿から神の清めの働きが始まると示されているわけです。

 

 またこの託宣は、主イエスとサマリアの女性の対話を思い出させます(ヨハネ福音書4章参照)。主イエスは、「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われました(同14節)。

 

 もちろんこれは、飲み水のことではありません。彼女に永遠の命を与える水であり、そしてそれは、まことの礼拝をするために与えられる真理の御霊のことです(同23,24節)。

 

 さらに、ヨハネ福音書7章37,38節にも「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と語られ、そして、「イエスは、ご自分を信じる人が受けようとしている霊について言われたのである」(同39節)と解説されています。

 

 主イエスによってもたらされた永遠の命の水たる真理の御霊は、今や私たちのところにまで流れてきています。誰でも、その水を飲むことが出来ます。そして、イエス・キリストを信じる者は、罪が赦されます。神の子とされます。永遠の命が与えられます。聖霊の賜物を受けます。神の愛と計画を知り、その使命に生きる者となります。神との間に親しい交わりが開かれます。

 

 主は私たちの祈りを聞いてくださり、「彼こそわたしの民」と言われます。すべてが主の恵みです。私たちも喜んで、「主こそわたしたちの神」と主をほめたたえ、「わたしの民」と呼んでくださる主の御声に耳を傾けながら、日々歩ませていただきましょう。

 

 主よ、今日も御言葉をくださってありがとうございます。主イエスを信じる信仰を通して、罪と汚れを洗い清める一つの泉が開かれました。主よ、私たちの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けください。御霊の働きにより、私たちをあなたが望まれるようなものに造り変えてください。 アーメン

 

 

「主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる。」 ゼカリヤ書14章9節

 

 ゼカリヤ書最後の章になりました。預言者ゼカリヤが見ているのは、厳しい状況です。2節に「わたしは諸国の民をことごとく集め、エルサレムに戦いを挑ませる。都は陥落し、家は略奪され、女たちは犯され、都の半ばは捕囚となっていく」とあります。

 

 12章2節にも、「わたしはエルサレムを、周囲のすべてを酔わせる杯とする。エルサレムと同様、ユダにも包囲の陣が敷かれる」とあり、その時、主がエルサレムの住民の盾となり(同8節)、エルサレムに責めてくるあらゆる国を必ず滅ぼすと言われていました(同9節)。同じ事態の違った側面が描かれていると考えたらよいのでしょう。

 

 「民の残りの者が、都から全く断たれることはない」(2節)という言葉は、都にいた多くの者が断たれるということになるわけで、その状況の厳しさをあらためて思わされます。都が敵に囲まれ、その戦いで多くの人々が命を落とし、女性は犯され、戦利品が分配されます(1節)。つまり、この戦いで敵軍が勝利を収めているということです。

 

 しかし、ゼカリヤが見たのはそれだけではありませんでした。12章で語られていたように、主が国々と戦い(3節)、ついには、冒頭の言葉(9節)にあるように、地上をすべて治める王となられるのを見ています。

 

 そして、エルサレム東のオリブ山が二つに裂け、東方への避難路として谷ができます(4節)。その谷を通って逃げよと言われ(5節)、主なる神が難を逃れた民のもとに、御使いたちを伴ってやって来られます(同節)。

 

 その日、太陽の光が失われ、冷えて凍てつくばかりでしたが、昼もなければ夜もない、神の栄光が常に輝き(7節)、エルサレムの都は命の水が湧き出て潤い、その川が東に西に流れ続けて海に至っています(8節)。

 

 これは、ヨハネの黙示録に記されている新しいエルサレムに似ています(黙示録21章23節、22章1,5節、11章15節など)。ということは、ここに預言者ゼカリヤの見ているのは、すぐにも実現するというものなどではなく、世の終りに訪れる主の日のことということになります。

 

 それがここに記されているのは、冒頭の言葉(9節)に記された、「その日には、主は唯一の主となられ、その御名は唯一の御名となる」という主の日の到来を待ち望みつつ、今のこの苦難のときを、信仰に堅く立ち、恐れず勇気を出して歩みなさいと、エルサレムの民に励ましを与えているわけです。

 

 これらのゼカリヤの言葉を、確かに神によって与えられた預言の言葉であると信じることが出来た人には、希望が与えられたことでしょう。けれども、どれほどの人が、信仰によってこの言葉を聴くことが出来たでしょうか。むしろ、殆どの人がまともに聞こうとしなかったのではないかと思われます。

 

 厳しい現実の中で、希望の光を見出すのはなかなか困難です。このトンネルの向こうには必ず光の出口があると言われても、実際には出口などなくて暗闇の袋小路に追い込まれているのではないか、そのまま底なしの淵に沈みこんでしまうのではないかというような不安を拭い去ることが出来ないのです。

 

 恐れや不安を取り除く万能薬を作ることは出来ません。でも、不安や恐れを取り除いてくださる方はおられます。それは、私たちの救い主、主イエス・キリストです。

 

 十字架にかかられる前、主イエスは弟子たちに、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(ヨハネ14章1節)と言われ、「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(同16章33節)と励まされました。

 

 また、主イエスが十字架で死なれ、葬られた後、ユダヤ人を恐れて家の戸に鍵を掛け、閉じこもっていた弟子たちのところに甦られた主イエスが立たれ、「あなたがたに平和があるように」(同20章19節)と仰いました。

 

 「心を騒がせるな、勇気を出せ。平和があるように」と語られる主の御言葉に耳を傾けましょう。主を信じる信仰は、自分で作り出せるものではありません。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ書10章17節)と言われる通りです。聞いた言葉を信仰と結びつけることができるよう(ヘブライ書4章2節参照)、聖霊の導きを求めましょう。

 

 また、心の耳を開いていただきましょう。主こそ良い羊飼いであり、羊は羊飼いの声を聞き分け、従っていくことが出来るからです(ヨハネ福音書10章3,4節)。心の目を開いていただきましょう。神の御旨を深く悟ることが出来るからです(エフェソ書1章17節以下)。

 

 希望の源なる主よ、なかなか明るい希望の光を見出すことが困難な状況の中で、すべてを統べ治める全能の主を仰ぎ見ることが出来、そして勇気をもって神殿再建、エルサレム復興のために民を励ましたゼカリヤのように、私たちにも絶えず主を仰がせ、その御声に耳を傾けさせてください。主を信じる信仰に堅く立ち、主の御言葉に従うことが出来ますように。聖霊の満たしと導きに与らせてください。 アーメン

 

日本バプテスト

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2014年8月6日サイト開設