ガラテヤ書

 

 

「しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。」 ガラテヤの信徒への手紙1章15~17節

 

 今日から、ガラテヤの信徒への手紙を読み始めます。ガラテヤは、小アジア(今のトルコ)のほぼ中央に位置する一地方の名前です。紀元前3世紀にケルト人がここに移住して住み着きました。彼らをギリシア語で「ガラタイ」と呼んだことから、彼らが住み着いた一帯がガラテヤ地方と呼ばれるようになりました。

 

 使徒言行録を見ると、パウロは第一回伝道旅行の際、リストラとデルベで福音を告げ知らせました(14章6,8節以下)。次いで第二回伝道旅行のときに、フリギア・ガラテヤ地方を通っていますが(16章6節)、使徒言行録の記述によれば、先を急いでただ通過しただけのようです。

 

 そして第三回伝道旅行の折に、「ガラテヤやフリギアの地方を次々に巡回し、すべての弟子たちを力づけた」(18章23節)とありますから、第一回伝道旅行のときにまかれた福音の種が生い育ち、教会の礎がそこに据えられていたようです。

 

 この手紙は、ガラテヤ地方に建てられた「教会」(2節、エクレシア・複数形)に宛てて記されました。それはおそらく第一コリント書と同時期、紀元54年頃第三回目の伝道旅行中エフェソで書かれたものと推定されています。

 

 この手紙が書かれた理由は、パウロによって教会が設立された後に入り込んできた別の指導者によって、パウロの教えが曲げられようとしていたのです。その指導者は、異邦人の多いガラテヤの教会に対し、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守ることによって、真のキリスト者となることが出来ると指導していたのです。

 

 パウロはそれを「ほかの福音」と呼び(6節)、「キリストの福音を覆そうとしている」ものだと言っています(7節)。そして、ガラテヤの人々がほかの福音にそれて行く恐れが大きくなったのを知って(6節、3章1節以下、5章7節以下も参照)、キリストの福音にとどまらせるべく、この手紙を書いたのです。

 

 比較的短い手紙ですが、キリスト教の歴史の中で、人々に大きな影響を与えてきました。特に、この手紙が宗教改革者マルティン・ルターに影響を与えたのです。彼は、ガラテヤ書の注解書を著わすと共に、「キリスト者の自由」という彼の代表作を執筆しました。

 

 新共同訳聖書は、5章2節以下の段落に「キリスト者の自由」という小見出しをつけています。ルターの「キリスト者の自由」を貫いているテーマが、この段落、特に同6節の「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」という言葉に基づいているのです。

 

 ルターが影響を受け、それによって宗教改革が行われたということになれば、今日の私たちプロテスタントの信徒にとっても、信仰の源流が本書にあるということになりますので、しっかり学ばなければならない手紙であると言えます。ということで、毎日一章ずつ、じっくり読み進めてまいりましょう。

 

 冒頭の言葉(15節)によると、彼が選ばれたのは「母の胎内にあるとき」です。ということは、その選びが神の主権によって全く自由になされたことで、パウロの意思や才能などとは無関係であることを示しています。そしてパウロ自身、自分が神に選ばれた者であることを知らなかったのです。

 

 かつてパウロは、ユダヤ教徒として誰よりも徹底して神の教会を迫害し(13節)、先祖伝来の教え、つまり、割礼を受け、(安息日遵守を含む)律法を熱心に守る生活をしていました(14節)。そのパウロが、ダマスコ途上で復活の主キリストと出会って回心しました(16節、使徒言行録9章1節以下)。ユダヤ教徒であり、迫害者であったパウロが、キリストの伝道者となったのです。

 

 10節で「今なお人の気に入ろうとしているなら、わたしはキリストの僕ではありません」というのは、「誰よりも徹底して」といったパウロの振る舞いは、自分自身を含む人の評価を気にしている姿だということです。

 

 11~12節で「わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」と語り、自分が伝道者になったのは、自分自身の回心の体験に基づいていて、キリストの福音を誰かから聞いたとか、教えられたというのではないことを強調しています。

 

 回心した時点で選ばれたというのではなく、「母の胎内にあるとき」にということは、神の選びにも拘らず、キリストの教会を迫害していたという自分の罪を告白することです。迫害者であった自分が赦されたというのは、神の憐れみ以外の何ものでもないということです。

 

 それから、「召し出してくださった」という言葉がありますが、これは、使徒としての召命を受けた、使徒として呼び出されたということです。胎児で何の働きもないときに召し出されたということで、「恵みによって」と語っているのです。

 

 それはまた、そのような神の選びにも拘わらず、神に背き、教会の迫害者としての道を進んでいたパウロを、処罰するのではなく復活の主と出会わせ、異邦人の使徒として立てられたのは(16節)、神の恵みによるものだということも示しているようです。

 

 国語辞典で「召命」を調べてみたら、「(キリスト教で)罪の世界に生きていた者が、神に呼び出されて救われること」と書いてありました。この説明は大事なことを教えています。即ち、召命とは、「神に呼び出されて救われること」と、「救い」を指す言葉として説明されているわけです。

 

 それで何が大事なことなのかというと、パウロは、「恵みによって召し出してくださった」と語っていて、使徒としての召命が恵みの出来事、つまり、救いの体験と密接に関連していることを示しているのです。パウロにとっての回心とは、単に救い主イエスを信じて罪が赦されたということに留まらず、それは、使徒として召し出されたということだったのです。

 

 パウロを回心させたのは、御子イエス・キリストの啓示です(12節)。御子が啓示されたとき、律法に従って生き、律法によって救いを獲得しようとしていたパウロが、キリストを信じる信仰によって救われること、否、キリストを信じるほか、救われる道はないことを知ったのです。そしてパウロは、神の計画に従い、その福音を異邦人に告げ知らせました(16節)。

 

 そのパウロの働きでガラテヤ地方にも教会が建てられました。その教会を形作っているガラテヤの教会の信徒一人一人も、パウロ同様、神の恵みにより、憐れみによって救いに与りました。彼らが恵みを受けたのは、ユダヤ人のように割礼を受け、律法を守っていたからではないのです。

 

 そして、それは私たちも同様です。私たちも恵みによって救いに与りました。決して割礼を受けたのでも、律法を守っていたのでもありません。恵みによって救いに与ったということは、ただそれを喜んでいればよいということではありません。恵みによる救いは、召命と密接な関係があるのです。神の救いの計画が進められるために、神の御業が進められるために、それぞれに使命が与えられるのです。

 

 私たちは、イエス・キリストを信じる信仰を人々の前で公に言い表してバプテスマを受け、キリスト者としての歩みを始めました。人々の前でイエスを主と証しする生活を開始したわけです。これから、主イエス・キリストをどのように証しし、語り伝えていくべきか、「イエス・キリストの啓示によって知らされた」(12節)とあるように、まさに主の言葉を受けて、その導きに従うほかありません。

 

 日毎主の御言葉に耳を傾けましょう。そこから、日々主の御心を聴きましょう。御心を悟るのは、聖霊の助けが必要です。聖霊の助けと導きを祈り求めつつ御言葉に聴くのです。

 

 主よ、私たちをも恵みにより、主イエスを信じる信仰に導いてくださり、感謝します。恵みの福音を委ねられた者として、その福音に生き、信仰の恵みを証しする者となることが出来ますように。聖霊の助けと導きを与えてください。常に聖霊で満たし、御業のために用いてください。御名が崇められますように。 アーメン

 

 

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。」 ガラテヤの信徒への手紙2章20節

 

 15~21節に「義とされる(ディカイオオー)」という言葉が4回(16節に3回、17節に1回)出て来ます。ただし21節で「義とされる」と訳されているのは「義」(ディカイオシュネー)という名詞です。その箇所を直訳すると「もし義が律法によって〔与えられる〕なら、キリストは無駄に死んだことになる」(岩波訳参照)という表現になります。

 

 「義とされる」は法廷用語で、裁判官が被告に「あなたは無罪だ」と宣告することです。それによって、被告は晴れて留置場を出て、家庭に戻ることができます。それが、ここに用いられているのは、神との関係がもとに戻った、正しくなったということを意味します。

 

 しかしそれは、人の振る舞いの正しいことが証明されたということではありません。人間が神の義を作り出すことは出来ません。16節にあるとおり、「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」のです。イエス・キリストへの信仰によってのみ神の義が与えられるということは、神の義は、神の恵みによって与えられる贈り物だということです。

 

 本来は神の御前に有罪で処刑されるはずだった私のために、神の御子キリスト・イエスがその身を十字架にささげられ、私の罰を身代わりに受けてくださいました。その贖い、キリストの命の代価によって、私たちは義とされ、神の子として生かされているのです。私たちが信仰によって義とされるとは、神の恵みによって救われることを意味しているといってもよいでしょう。

 

 19節に「わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです」と記されています。キリストを信じる者となった今、パウロは律法によってではなく、キリストの恵みにより、キリストへの信仰によって生きる者となりました。そのため、キリストが律法によって呪われ、十字架に殺されたように、パウロ自身も律法によって死んだ者となったというわけです。

 

  さらに「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(同節)と言います。「共に十字架につけられている」(シュネスタウローマイ)というのは完了形で、「一緒に十字架につけられたままである」という意味です。3章1節にも「十字架につけられた(ままの)」(エスタウローメノス)という表現があります。

 

 勿論、キリストは既に死んで葬られ、三日目に甦られ、そして天に上られました。しかしながら、十字架に死なれたキリストとの出会いを経験したパウロは、キリストの死が自分のためであることを知り、迫害者からキリストの伝道者と変えられた今、十字架はキリストと共に神の使命に生きることを現す表現となったのです。それで、「キリストと共に十字架につけられた(まま)」というのです。

 

 冒頭の言葉(20節)で「わたし」と語られているのは、パウロ自身を示しています。そして、この箇所を読むすべての人がこの「わたし」に自分自身を読み込むことが許されています。ここに記されているパウロの言葉は、私たちが共通して味わうことの出来る経験、神様から私たちに与えられた恵みなのです。

 

 神様がキリストの十字架の贖いによって私たちを義としてくださったとき、私たちの命は神のものとなりました。「キリストがわたしのうちに生きておられる」というのは、私たちが何か特別な経験をすることではありません。私たちの命が神のものとなり、人生をキリストのために用いる者とされたことが語られているのです。

 

 あらためて、16節に「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」とありました。私たちが義とされるのは、ただキリストを信じる信仰によってのみだということです。

 

 そして、よく考えてみると、キリストを信じるということも、私たちが一所懸命勉強したり努力したりして分かったということではありません。私たちが信じたというよりも、信じさせていただいた、信じられるようにしていただいたのです。

 

 「わたしを愛し、わたしのために献げられた神の子に対する信仰による」(20節)と記されています。「神の子に対する信仰」という言葉は、原文を直訳すると「神の子の信仰において」となります。これを「神の子を信じる信仰」と解釈しているわけです。

 

 しかし、もう一つの解釈があります。信仰という言葉は、真実とも訳せます。神の子の真実、神の子が持っている真実と解釈できます。永井訳(私訳)はそう解釈して、「我を愛し給ひ、且つ我がために己自らを付し給ひし神の子の信仰に在りて生くるなり」と訳しています。

 

 16節の「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」も同様に解釈されます。岩波訳の注に「直訳は『イエス・キリストの信仰』」といい、参照箇所のローマ書3章20節注で「この『の』を主格的にとって『イエスが持っていた信仰』とするか、対格的にとって『イエス・キリストへの(に対する)信仰』とするかは論争されている。数の上では後者が圧倒的に優勢である」とありました。

 

 確かに私たちは神の御子イエス・キリストを信じさせていただきました。しかし、私たちが信じることができたのは、私たちのために身を献げてくださった主イエスの真実、私たちを愛してやまない主イエスの真実に触れさせていただいたからです。

 

 その方が私たちと一緒にいてくださいます。そして、私たちを御自分のために用いてくださるのです。その恵みを与え続けていてくださいます。私たちの内に生きておられる主キリストによって、喜びと平安に満ちた人生を歩むことが出来ることを感謝しましょう。

 

 主よ、私たちは御子キリスト・イエスの命の代価によって贖われ、神のものとされました。今私たちの体は、聖霊が住まわれる神の宮とされています。感謝をもって御前に唇の実をささげ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌を歌います。絶えず聖霊で満たし、主の御業のために用いてください。 アーメン

 

 

「それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、わたしたちが、約束された霊を信仰によって受けるためでした。」 ガラテヤの信徒への手紙3章14節

 

 新共同訳聖書は最初の段落(1~14節)に「律法によるか、信仰によるか」という小見出しをつけています。パウロはこの段落を「ああ、物分かりの悪いガリラヤの人たち」(1節)という言葉で語り始めます。

 

 その物分かりの悪さは、単なる無理解、無分別というのではありません。「だれがあなたがたを惑わしたのか」(1節)と言われます。正しい判断を失わせるという言葉です。キリストの恵みから「ほかの福音」に乗り換えようとしていること、即ちキリストを信じる信仰による救いを、律法の行いと取り替えようとしていることを、そのように言い表しているのです。

 

 その際、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(同節)と言います。「十字架につけられた」(エスタウローメノス)は現在完了分詞ですから、正確に訳せば「十字架につけられてしまったままの」(岩波訳)ということになります。2章19節の「共に十字架につけられています」(シュネスタウローマイ)も現在完了形でした。

 

 十字架につけられてしまったままのキリストは、律法の呪いそのものです。「木にかけられた者は皆呪われている」(13節)と書かれてあるからです。これは、申命記21章23節からの引用です。つまり、キリストは、私たちのために「呪い」そのものとなられたということです。

 

 「呪い」そのものとなられた主イエスは、その命をもって私たちを律法の呪いから贖い出し、解放してくださいました。主イエスを信じる信仰に生きる者は、アブラハムの子として(7節)、義とされる恵みに与ることが出来ます(8節)。

 

 そのことが、冒頭の言葉(14節)で「アブラハムに与えられた祝福が、イエス・キリストにおいて異邦人に及ぶ」と表現されています。神がかつてアブラハムと結ばれた約束が、いまだ反故にされてはいない、いえ、有効に働いているということです。

 

 その約束とは、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」(創世記12章2,3節)というものです。

 

 パウロは最後の「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」という言葉を、「あなたのゆえに異邦人は皆祝福される」(8節)と引用しながら、神が異邦人を信仰によって義となさることを見越して、アブラハムに予告されたのだと語っています。ところが、そのような神の約束にも拘らず、異邦人は割礼がなく、律法を守らない「罪人」として、ユダヤ人によって神の祝福から締め出されて来ました。

 

 しかしながら、割礼を受け、律法を与えられているユダヤ人も、律法の行いによっては義とされませんでした(2章16節)。パウロは、「律法の実行に頼る者は誰でも、呪われています」(10節)と言います。

 

 律法を文字通りに行うという点で、パウロは自分でも「非のうちどころのない者」(フィリピ書3章6節)と語ることができました。しかしながら、その行いによって教会の迫害者となり、神のみ旨に背くものとなったのです。パウロは11節で「正しい者は信仰によって生きる」(ハバクク書2章4節)との預言を引用して、人を義とするのは、神への信仰だけであることを示します。

 

 そのように書いてある預言をパウロが見出したという背景には、律法に込められている神の御旨、神の御心を完全に行うことは出来ないことを、パウロが悟ったということがあるでしょう。つまり、救いを人間が作り出すことは出来ないということです。

 

 そして、律法を守ることが出来ない者は呪われるという掟(申命記27章26節)から、人間は律法を絶えず完全に守ることは出来ないので、すべての人間にとって律法が呪いとなるというわけです。そのことについて、ローマ書3章9節以下でも詩編14編1~3節の言葉を引用しながら、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです」と結論しています。

 

 その律法の呪いをキリストが引き受け、祝福に変えてくださいました。キリストは、律法を完全に行われた唯一人のお方です。そのお方が何故、神の呪いを受けられたのでしょうか。それは、律法を守ることではだれ一人祝福に与ることが出来ない、その律法の呪いを身に引き受け、その贖いによって、すべての人に祝福が及ぶようにするためだったのです。

 

 さらにパウロは、キリストの十字架によって贖われたのは、「わたしたちが約束された霊を信仰によって受けるため」(14節)と語ります。「約束された霊を受ける」というのは、神の子どもとされるということです(4章4,5節参照)。

 

 そして、ガラテヤの信徒たちは、彼らがパウロの十字架の福音を聞いて主イエスを信じたとき、御霊の臨在が現れ、霊の賜物による奇跡的な出来事、たとえば癒しや悪霊追放という出来事がその集会の中で行われたのです(2,4,5節)。その御業が現れたのは、彼らが主イエスを信じたからです。

 

 そして、主イエスを信じるならば、ユダヤ人と異邦人の区別なく、つまり、異邦人がユダヤ人のように割礼を受け、律法を守らなくても、アブラハムの祝福に与れるわけです。ゆえに、神の祝福の道を歩むというのは、律法を守ることではなく、主イエスを信じる信仰の道を歩むことなのです。

 

 十字架の主を信じて仰ぎつつ、絶えず主の御言葉と聖霊の導きに与り、アブラハムの子として信仰の恵みを周囲の人々に証しする者とならせて頂きましょう。

 

 主よ、私たちの歩みはすぐに自己中心的になります。人の目が気になり、もっとよく見られたいという自分の欲望が顔を出します。そうして、十字架の主を仰ぎ、主の御言葉に従うという信仰の道からそれてしまうのです。絶えず聖霊の助けによって御言葉へ、祈りへと導いてください。力を得て主の証人とならせてください。 アーメン

 

 

「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」 ガラテヤの信徒への手紙4章6節

 

 キリストを信じる信仰により、キリストに結ばれて神の子とされた者は(3章26節)、アブラハムの子孫であり、約束の相続人でもあります(同29節)。即ち、神の子どもとして、神の持てるすべてのものを受け継ぐ資格が与えられているということです。

 

 当然のことながら、私たちは「神の子」ではありません。ですから、相続人になれるはずもありません。神が私たちを養子にしたくなるような才能や特質を備えているわけでもありません。その行いが倫理道徳的に、宗教的に聖く正しいわけでもありません。むしろ、神を知らず、神に背いて歩き続けている存在でした。そんな私たちが神の子とされるのは、神の一方的な恵みです。

 

 ガラテヤの人々は、どのようにして神の子になったのでしょうか。それは、私たちとなんら違いはありません。彼らは、アブラハムの子孫ではありません。旧約聖書の律法とも無縁の生活をしていた人々です。その人々に、パウロがキリストの福音を伝えました。そして、導かれて彼らはキリストを信じる者となったのです。そして、その導きをお与えくださったのが、恵みの神ご自身なのです。

 

 初めてキリストの話を聞いて、すぐに信じることが出来る民族、氏族というものなどありません。なぜキリストを信じることが出来たのか、理路整然と話せる人のほうが少ないと思います。大多数の人が自分でキリストを信じたくて、信じようとして信仰に入ったのではなく、様々な人や出来事との出会いの中で、信仰を持つように導かれたとしか言いようがないという状況だと思います。

 

 イスラエルの人々は、アブラハムの子孫たるしるしに割礼を受け、律法を守ります。しるしが与えられることは、悪いことではありません。けれども、私たち人間には、そのしるしを他の人よりも大きく見せたいという誤った思いが働きます。神の子とされている喜びよりも、だれよりも律法を熱心に守っている自分の行いを誇り、律法を守ろうとしない者を裁こうとします。

 

 ガラテヤの人々を惑わしているのも、そのような思いです。自分の救いをより確かにするために、割礼を受け、律法を厳格に守れと教える人が教会にやって来て、それに従う人々が出て来たわけです。律法が生活の基準になるとき、自分の行いが律法に適っているかどうかが誇りの基準となります。律法の行いによって、むしろ神に目を向けることが妨げられてしまいます。

 

 冒頭の言葉(6節)で「御子の霊を、わたしたちに送ってくださった」(God has sent forth the Spirit of His Son into your hearts)という表現は、4節の「御子を・・お遣わしになりました」(God sent forth His Son)という表現と非常によく似ています。どちらにも、同じ「遣わす」(アポステッロー)の過去形の動詞が、「神」(ホ・セオス)という主語の前にあります。

 

 御子キリストをこの世に遣わされた神が、私たちの心に御子の霊を遣わされたという表現で、あのゴルゴタの丘でキリストが十字架につけられた出来事が、私たちを贖う神の救いの御業であるということを示し、私たちが神の子とされる保証として、「アッバ、父よ」と呼ぶ御子の霊をいただきました。聖霊の働きで、私たちは御子キリストを信じることが出来たのです。

 

 私たちを贖ってくださった神は、私たちを奴隷、下僕とされたのではなく、神の子としてくださいました(7節、ローマ書8章15節)。これは、考えられない恵みです。理解を超えています。どうして、人間が神の子になることが出来るのでしょうか。理屈は分かりませんが、そのように神は私たちに愛を示されました。「神は愛です」と言われる通りです(第一ヨハネ書4章7~10,16節)。

 

 神の愛を受け、キリストの御霊に覆われた私たちの心から、「アッバ、父よ」(6節)という叫びが生じます。「アッバ」とは、「父よ」というアラム語です。これは、父上様というような格式ばった表現ではなく、幼児が父親を「父ちゃん」と呼ぶ言い方です。

 

 「アッバ」は、主イエスが父なる神を呼ばれる際の、親密さを表す表現だったので、当時の信徒たちはそれをそのまま自分たちの祈りのときに用いたようです。そして、それは「父よ」という意味であるということがアラム語を理解していない人々にも分かるように、原典ギリシア語の「ホ・パーテール」と併せて「アッバ、父よ(ホ・パーテール)」という表記になったわけです。

 

 これは、単に神をそう呼ぶということ以上の、重い意味があります。というのは、父親に対して「アッバ」と呼べるのは、実の子どもだけだからです。私たちは、自分で神を「父」とは呼べません。しかし、神が遣わしてくださった御子の霊が、私たちに「アッバ゙、父よ」と神を呼び求める叫びを与えてくださいました。

 

 そして、その叫びが与えられたということは、その叫び声を上げることが許される親密な関係に入れられたということであり、神がその叫びに耳を止めて、「子よ、なにか用か」とその叫びの祈りに答えて、私たちに必要な一切のものを豊かに授けてくださるということです。

 

 このことは、上記ローマ書8章15節に「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と記されています。

 

 そして、同26節で「同様に、霊もわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」という御霊の執り成しの祈りについて言及しています。

 

 さらに同32節には「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」と言われるのです。

 

 私たちが心から、「アッバ、父よ」と叫ぶとき、私たちは神の子であり、だから、神の恵みの資産を受け継ぐ相続人であることになります(7節、ローマ書8章17節)。神の資産は無限大です。無限大は、どれほど多くの人と分け合っても無限大です(∞/n=∞)。その恵みに与らせようと、主なる神はこの世に御子を遣わし、御子の霊を送って私たちを信仰に導いてくださいました。

 

 主の恵みに感謝し、その恵みを無駄にしないように、「アッバ゙、父よ」と神を呼び求めつつ、その御旨を行う者にならせていただきましょう。

 

 天のお父様、資格のない者に対して一方的な恵みをもって「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を授けてくださり、心から感謝します。しかし、そのためにキリストが贖いの供え物となられたことを厳粛に受け止めます。どうか私たちを、神の子どもに相応しく、恵みによって整えてください。信仰によって福音に生きることが出来ますように。 アーメン

 

 

「わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。」 ガラテヤの信徒への手紙5章25節

 

 16節以下に、肉と霊の対立が出てきます。新共同訳はこの段落に「霊の実と肉の業」という小見出しをつけています。パウロはこれまでの「律法か、信仰か」の議論を、「肉か、霊か」に置き換えて展開しています。

 

 パウロにとって、律法の行いというのは、人間の努力によって神の義を獲得しようとする営みであり、それは肉の支配を免れません。「聖書(律法のこと)はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めた」(3章22節)といい、人が律法の行いによっては、神の義を獲得することは出来ず、むしろ罪の支配下にあることが明らかにされたのです。

 

 一方、信仰とは、自分の努力ではなく、神の恵みに信頼し、御子の霊の力に自分を委ねることです。そして恵みの神は、信じる者に神の義=救いを賜るのです。「正しい者は信仰によって生きる」(3章11節)からです。

 

 この段落で「肉」というのは、肉体とか肉欲ということというよりも、神に従わないで生きる生き方を指していると言ってよいと思います。人間は、本来自分ひとりで生きることが出来るように造られてはいません。神に造られた者として、神に仕え、隣人に仕えるように造られたのです。

 

  だから、神に従わないで生きる生き方を選んだとき、その人は、神ならぬ者を主人として、その縄目に縛られてしまうのです。4章8節で「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました」というのはそのことでしょう。

 

 1節で「自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」というのは、発言や行動、選択の自由などではありません。罪の束縛から解放されて、神の主権と支配のもとで生きるようにされたことです。それは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生活から解放されて、まことの神に仕えて生きるように選ばれたというところに示されています。

 

 そして、まことの神に仕えて、その主権と支配の下で生きる生き方について、13節では「この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と言い、さらに14節で「律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と語っています。つまり、この自由は、罪からの自由であり、愛をもって神と人に仕える自由なのです。

 

 パウロは、この「罪から解放され、愛をもって神と人と仕える自由」に生きる生き方を「霊」という言葉で表現しています。それは、「主の霊のおられるところに自由がある」(第二コリント書3章17節)からです。

 

 冒頭の言葉(25節)で「霊の導きに従って生きている」というのは、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって罪の呪いから解放されたこと、神の子どもとされたこと、永遠の命をいただいたことを指します。

 

 そして、イエス・キリストが神の子、救い主であることを私たちに証しし、信じるように導いてくkださったのがキリストの霊です。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」(第一コリント書12章3節)というのは、このことです。

 

 ガラテヤの人々も、キリストの十字架の福音を聞いたとき、聖霊の働きによって主を信じました(3章1,2節)。また、御霊の働きによって奇跡を体験しました(同5節)。彼らは確かに、律法の行いによらず、神の恵み、御霊の導きにより、信仰によって生きる者とされたのです。

 

 霊は、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(22,23節参照)という実を結ばせます。一つ一つを見ると、これはいずれも、交わりを育み、共に生きる集まりを造り上げるために与えられる恵みです。

 

 「霊の結ぶ実」は、上述の通り九つの徳性を持っていますが、「実」(カルポス)は単数形です。霊による一致と読むことも出来るでしょう。そしてそれは、聖霊の働きを通して私たちの教会の交わりのうちに現されるキリストの御心といってよいでしょう。

 

 御霊は、他者との関わりにおいて実を結ぶように、働かれます。それは、自分の欲を満足させるような関わり方を許しません。聖霊は私たちを内側から変革し(第二コリント書3章18節、5章17節)、そして、私たちと他者との関係を新しくするのです。それは、「互いに愛し合う」という関係です(ヨハネ福音書15章12節ほか)。

 

 「前進しましょう」(ストイケオー)と訳された言葉は、もともと、「同じ列に属する」という意味で、そこから「同調する、一致する」という意味になりました。そして「従う」という意味も生じます。だから、「(霊の)導きに従って前進しましょう」という訳語になっているわけです。

 

 私たちを信仰に導き、生かしてくださっている聖霊の働きを喜び、感謝しつつ、傍らに固く立っていてくださる聖霊の導きに従って、信仰の正道を歩ませていただきましょう。

 

 主よ、私たちの内に絶えず神の御霊が働き、私たちを主と同じ姿に造り変えてくださいますように。主を愛し、隣人を愛して仕えることを喜びとする教会としてください。聖霊に満たされて常に神の愛を証しし、その恵みをほめたたえる教会となりますように。御言葉と祈りを通して、日毎に導いてください。 アーメン

 

 

「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」 ガラテヤの信徒への手紙6章2節

 

 11節に「このとおり、わたしは今こんなに大きな字で、自分の手であなたがたに書いています」とあります。これは、恐らくこの直前まで、つまり6章10節まで口述筆記をしていたのですが、ここからパウロ自身が筆を取り、大きな字で書き始めたということを表しています。「結びの言葉」だけは自ら筆をとり、それをガラテヤの人々に分かってもらいたいと考えたのでしょう。

 

 というのは、4章15節の「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです」という言葉から、パウロの目が悪くなっていたと考えられ、そのために、パウロに代わってパウロの語る言葉を手紙に認める人がいたわけです。

 

 けれども、パウロが自ら筆を取り、それを特記するということは、ここに記す内容をきちんと受け止めてもらいたいということでしょう。目が悪くて、大きな字でなければ自ら確認できなかったとも考えられますが、字の大きさは、いちいち断らなくても、見れば分かります。手紙を朗読する者にも、それを聴く聴衆にも、ここに記す重要性を強調するために、大きな字で書いていると解釈すべきです。

 

 パウロはこの手紙で、人が救われるのは、律法の実行ではなく、イエス・キリストを信じる信仰によることを、繰り返し述べて来ました(2章16節、3章2,3,26節、5章5,6節)。敵対者は、割礼を受け、安息日を守り、立法を行うことによって、より成熟した信仰を持てると説いていたのです。

 

 敵対者たちがガリラヤの人々に割礼を受けさせることで自らを誇ろうとしていることを、「あなたがたの肉について誇りたい」(13節)という言葉で示しています。つまり、自分の指導に従って異邦人が割礼を受けたということで、それを自分自身の誇りとするというわけです。

 

 それに対してパウロは、「このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません」(14節)と言います。十字架に架けられた主イエスは、言ってみれば、弱さそのものでした。十字架は、この世が主イエスを否定して殺害したところです。

 

 そこでは、何の奇跡も行われませんでした。水をぶどう酒に変え、嵐の海の上を歩き、荒れる波と風をしかって凪にされたような、また、あらゆる患いを癒し、悪霊を追い出し、就中、死者を甦らせるというような驚くべき御業を、十字架では示されませんでした。

 

 無抵抗で捕えられ、無実の罪で訴えられ、一方的に裁かれ、そして鞭打たれ、嘲られ、侮辱されるままに、十字架を担いでゴルゴタの丘まで引いていかれ、手足を十字架に釘づけられて磔となり、御自分のためには何の御業もなさらないまま、ピラトが不思議に思うほどにあっけなく息を引き取られました(マルコ14章46,55,64,65節、15章22,29~32,44節、ヨハネ19章17節)。

 

 ファリサイ派の一員としてユダヤ教主義に生きていたパウロも、はじめは主イエスを否定し、キリスト教会を迫害していました。「木にかけられた者は皆呪われている」(3章13節)と書いてあるので、主イエスは神に呪われた者であると考えていたのです。

 

 しかし、主イエスはそのパウロを拒否なさいませんでした。むしろ、深い愛をもってその罪を赦し、使徒として選び立てられました。キリストが呪われた者となったのは、私たちの代わりに呪いを受け、私たちが律法の呪いから解放され、救われるためだったのです(3章13節)。

 

 つまり、神の呪いとしか見えなかったキリストの十字架が、自分をあらゆる呪いから救い、解放する神の力であるというのです。そのことをパウロは、甦られた主イエスとの出会いを通して、聖霊の導きによって示されたのです(1章12節、3章1,2,5,14節、4章6節、使徒言行録9章参照)。

 

 パウロは、「御霊の導きに従って前進せよ」(5章25節)と勧めていたことを、生活に具体的に適用するよう促します。そこで、冒頭の言葉(2節)に「互いに重荷を担いなさい」と語られています。

 

 ここで言われている「重荷」(バロス)は、1節の「罪」(パラプトーマ:「過ち、違反」)を言い換えたものです。つまり、隣人の罪、弱さに同情するというだけではなく、隣人の罪を自分の罪、弱さとして引き受けることです。

 

 それは、罪を贖うということではありません。私たちはキリストではありませんから、隣人の罪を贖うことは出来ません。私たち自身も、罪を贖っていただかなければならない罪人だからです。それが出来るのは、罪のない神の御子キリストだけです。

 

 弱さを引き受けるとは、互いに弱さを認め、隣人と共に罪と戦い、互いに執り成し祈り合うことです。私たちは互いに重荷を担うように召されています。ということは、自分自身も隣人に重荷を担って頂かなければならない、隣人の助けを必要としている存在であるということです。

 

 確かに神は、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」(創世記2章18節)と言われました。助ける者がいない孤独な状態は、神の御心ではないということです。そして、助ける者自身も、助ける者を必要としている人です。

 

 ただ、忘れてならないのは、聖書が語る「助け」は、人からではなく、「天地を造られた主のもとから」(詩編121編2節)来るのです。主が助ける者であられるからこそ、私たちのために必要な「助ける者」をお与えになられるのです。

 

 逆にいうならば、私たちは、信徒同士、家族同士、神がお与えになった「助ける者」であることを知らなければなりません。そこに私たちの使命があります。5節で「めいめいが、自分の重荷を担うべきです」と言います。ここに言われる「重荷」は2節のものとは違い、「フォルティオン」という言葉が用いられています。それは、義務や責任、使命を指す言葉です。

 

 あらためて、「互いに」(アレーロス)は、「他」(アロス)という言葉から出来たと言われます。他人であった者が関わり合うときに、「お互い様」になるわけです。

 

 「互」という漢字は、二本の竹ざおに縄をかけてねじり合わせた形から造られました。離れて相対しているものが組み合わされることを示します。ある方が、これはカスガイを相互に打ち込み合っているかたちであると言われました。

 

 カスガイというのは、鎹という字を書きますが、土台のつなぎ目や梁と柱などをつなぐために打ち込む「コの字型をした金具」のことです。相手にカスガイを打ち込み、自分もまたカスガイが打ち込まれる。その痛みを受け止め合ってはじめて、「お互い」ということが分かるという話です。

 

 それは、実際に傷を受け、双方が血を流す必要があるということではないと思います。他者と重荷を共に担い、それをお互い様、お蔭様と思うことが出来れば、重荷を担う痛み苦しみは、独りで、時には孤独に担うときとはまったく違ったものになるでしょう。

 

 そして、私たちはその痛みを主イエスのところに持って行きます。主イエスが、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさいと招いておられるからです(マタイ福音書11章28節)。そこで、重荷を全部主イエスに背負わせて、一件落着となるのではありません。主イエスと共に、主の軛を負うのです。

 

 その軛は負い易く、その荷は軽いと言われます(同11章30節)。重荷を担うためにふさわしい道具が用意され、そして主と共に担うとき、それは担いやすい、担うのが楽な、あるいはもっと積極的に、担うのが楽しい、嬉しい、そういう真の安息、喜びが与えられるのです。

 

 主のもとで、主の柔和と謙遜を学ばせていただきましょう。

 

 主よ、私たちの罪の一切の重荷を主イエスが担ってくださり、感謝いたします。その恵み、喜びを味わっている私たちが互いに隣人の弱さを担い合い、祈り合い、助け合うことが出来ますように。そのために、御霊の導きに絶えず与らせ、わたしたちの心に神のご愛を注ぎ満たしてください。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設