エフェソ書

 

 

「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」 エフェソの信徒への手紙1章3節

 

 今日から、エフェソの信徒への手紙を読み始めます。1節に「エフェソにいる聖なる者たち」という言葉があります。実は、もともと「エフェソ」という地名は入っていなかったようです。主だった古い写本には、地名が記されていないのです。

 

 エフェソ教会はパウロによって建てられた教会です。この手紙がエフェソ宛に書かれた手紙なのであれば、他の手紙によく記されている感謝の言葉や、誰々によろしくという最後の挨拶の言葉が当然記されているはずです。ところが、そのような言葉が記されていません。

 

 むしろ、1章15節の「あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していることを聞き」、3章2節の「あなたがたのために神がわたしに恵みをお与えになった次第について、あなたがたは聞いたにちがいありません」という言葉は、著者が宛先教会の信徒たちを個人的には知らないということを示しています。

 

 そのため、もともとこの手紙は、たとえば小アジア諸教会への回覧状、公同書簡(Catholic Epistles)として書かれたのではないか、そして、この手紙を受け取った教会で朗読されるときに、おのおのの教会が置かれている地名を、空欄になっている宛先のところに入れて読み上げたのではないかと考えられています。

 

 ということであれば、今日この手紙を読む私たちは、1節のこの箇所に「静岡にいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信じる人たちへ」と読み上げることが許されており、私たちはそのように、本書を自分たちに宛てて記された手紙として、ここに記されている御言葉をきちんと受け取るべきだと思います。

 

 冒頭の言葉(3節)では、「ほめたたえられますように」(エウロゲートス)という言葉が一番最初に記されています。語順どおりに直訳すれば、「ほむべきかな、父なる神、わたしたちの主イエス・キリストの」という具合になります。

 

 そう語った後、そのように賛美する理由を、「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました」と記しています。「祝福で満たしてくださいました」は、「祝福する」(エウロゲオー)という言葉です。

 

 文頭の「ほめたたえられますように」(エウロゲートス)と「祝福で満たしてくださいました」(エウロゲオー)は、一種の語呂合わせになっています。神が私たちを祝福してくださったので、神を賛美すべきだ、賛美は神の祝福に対する応答なのだということを、この言葉遣いによって示しています。

 

 神の祝福の内容は、4~6節に示されています。それは、私たちを神の子とするために、愛と恵みによって選んでくださったということです。

 

 この選びは、この世界が創造される前にキリストにおいてなされました。天地が創造される以前から、神の子とされるために私たちを選ばれていたというのは、まさに想像を超えた世界です。けれども、むしろ力点は、天地が造られる前から、キリストが神と共に、神の御子として存在しておられたというところにあります。

 

 そして、この選びの目的は、「輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6節)。「輝かしい恵み」(ドクサ・テース・カリトス)は、原文を直訳すると「恵みの栄光」(新改訳)という言葉になります。私たちが神の子とされたのは、まさしく神の御旨による一方的な恵みなのです。そのような恵みを授けてくださった神の栄光を、心からほめたたえましょう。

 

 また、神の祝福は、「キリストにおいて」(4節:エン・アウトー「彼にあって、彼の中で in him」の意:新改訳参照)与えられました。それで、「主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(3節)と言われているわけです。

 

 キリストにおいて与えられたものが、7~12節に示されます。私たちは、キリストの血によって贖われ、神を知らず神に背いてきた罪が赦されました。過去の重荷が取り除かれ、キリストと共に歩む新しい生活が始まったのです。

 

 9節に「秘められた計画」(ムステーリオン)という言葉があります。口語訳、新改訳、岩波訳は「奥義」と訳しています。奥義とは隠されているものです。神の奥義というのであるならば、それは、人間の誰にも明らかにされるはずのないものでしょう。しかるに神は、それを誰の目にも明らかになるように、あらゆる知恵と理解とをお与えになったのです。

 

 秘められた計画が明らかにされたのは、キリストによる贖いの業が成し遂げられたときです。その計画とは、天地万物がキリストのもとに一つにまとめられるということです。言い換えれば、私たちのために贖いの業を成し遂げられたキリストが、天地万物の主となられるということです。

 

 そして、神の愛によって選ばれ、神の子とされた私たちは、キリストに結ばれて、約束されたものの相続者ともされているのです(11節)。主イエスは神の独り子として、父なる神のもてるすべてのものを相続される権利、資格を持っておられます。私たちには、そのような資格はありません。しかし、子たる身分を授けられて、キリストとの共同相続人なのです。

 

 そうされた目的は、キリストに希望を置く私たちが、神の栄光をたたえるためです(12節)。驚くべき恵みをお与えくださる主を賛美いたしましょう。

 

 さらに、父なる神の祝福は、「天のあらゆる霊的な祝福」(3節)と言われます。「天の」も、「霊的な」も、人が作り出すことの出来ない、神がお与えくださる祝福であることを示しています。そして、「霊的な」(プネウマティコス)は、聖霊の働きを思わせます。天からの、聖霊の働きによってもたらされた祝福ということになります。

 

 その内容が、「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです」(13節)と記されています。神の祝福、キリストによる贖いの業が、「真理の言葉、救いをもたらす福音」として語られたとき、それを私たちが理解し、信じることが出来るように働きかけてくださったのは、「聖霊」なる神です。

 

 第一コリント書12章3節に「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と記されています。それは、「イエスは主である」と言えるかどうかということではなく、イエスを主とする生活が出来るかどうかということです。キリストの贖いによって過去の重荷が取り除かれ、キリストと共に歩む新しい生活が始まるのは、聖霊の働きがあるからなのです。

 

 「約束された聖霊で証印を押された」とは、主イエスを信じてバプテスマを受け、神の子とされたことを証しするのは私たちではなく、聖霊だということです。この聖霊によって私たちは、神に向かって「アッバ、父よ」(ガラテヤ書4章6節)と叫びます。それは、神の助けを呼び求める叫びであり、そしてまた、神の助けに感謝して、喜びに溢れて神をほめたたえる叫びです。

 

 こうして、冒頭の言葉(3節)が、続く4~14節の主題として、最初に提示されていることが分かります。そしてそれは、父なる神が御子キリストにおいて示された祝福を、聖霊の働きを通して私たちに悟らせ、信仰の導きを与えてくださったということです。

 

 聖霊を通して導かれた信仰により、喜びあふれる賛美を神にささげましょう。

 

 天のお父様、私たちを愛をもって選び、御子の命をもって罪の呪いから贖い出し、神の子として受け入れ、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださったことを感謝します。絶えず聖霊に満たされて主の御心を悟り、御名をほめたたえさせてください。その力を受けて主の証人となることが出来ますように。 アーメン

 

 

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。」 エフェソの信徒への手紙2章14,15節

 

 11節に「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていました」とあります。ユダヤ人と異邦人との区別ということですが、私たちは1節の「以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」と言われる者でもあります。

 

 だから、「そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました」(12節)と言われるのです。それは無神論者ということではなく、キリストの福音を知らず、まことの主なる神を信じていなかったということです。

 

 それなのに「以前は遠くに離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです」(13節)と言われます。「遠くに離れていた」は異邦人、「近い者」はユダヤ人と考えられますが、異邦人がユダヤ人になったということは、神の御前にその違いがなくなったということです。それはただ、神の深い恵み、憐れみのゆえです(4,5節)。

 

 17節との関連で、「わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる」(イザヤ書57章19節)という御言葉が、「キリスト・イエスにおいて」(in Christ Jesus)、「キリストの血によって」(in the blood of Christ)成就したことになります。

 

 エルサレムの神殿には、いくつもの隔ての壁があり、異邦人とユダヤ人を隔て、ユダヤの女性と男性、一般人と宗教者を隔てていました。拝殿の中には、祭司だけしか入れませんでした。その上、垂れ幕で二つに仕切られた拝殿の奥の至聖所には一年に一度、大祭司だけが入れました。それは、汚れた者を聖なる場所に近づかせないためのものでした。

 

 律法の中に「わたしの住まいに汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい」という規定があります(レビ記15章31節)。この規定を守り、神殿を清く保つ手立てとして、異邦人の壁、女性の壁、一般男性の壁、そして祭司と大祭司を分ける垂れ幕を設けたわけです。

 

 冒頭の言葉(14節)でこれらの隔ての壁を「敵意」(エクスラ enmity:ガラテヤ書5章20節など)と表現しました。ユダヤ人が律法と割礼のゆえに、異邦人との平和を望まない心は、敵意だというのです。平和の神を礼拝する場所に、敵意という壁があるのは悲しいことです。神の前に、男と女、ユダヤ人と異邦人の差はありません。

 

 キリストこそ、わたしたちの平和であると聖書は語ります。キリストは、嵐の船の中でも眠ることが出来ました(マルコ福音書4章38節)。そして、嵐を鎮め、凪にされました。また、十字架の死を前にして、弟子たちに「心を騒がせるな」と言われ(ヨハネ福音書14章1節)、そして、「わたしの平和を与える」と語っておられます(同27節)。

 

 あとに残される弟子たちの動揺を思い遣り、予め約束の言葉を与えておかれたのです。そして、復活された後、「あなたがたに平和があるように」といって、弟子たちにご自身を現されました(同20章19節他)。主イエスは、揺るがない平和を心にお持ちの方であり、そしてその平和をお与えになられるお方なのです。

 

 そのことを、ローマ書15章33節では「平和の源である神」と言い、そのお方は私たち一同と共におられるお方であることを示す祈りを記しています。同13節には「希望の源である神が、信仰によって得られるあらゆる喜びと平和とであなたがたを満たし、聖霊の力によって希望に満ちあふれさせてくださるように」という祈りもあります。

 

 主イエスが十字架で死なれたとき、神殿の至聖所の垂れ幕が真っ二つに裂けるという出来事がありました(マタイ福音書27章51節)。垂れ幕は上記の通り、聖所と至聖所を隔てていたもので、主イエスがご自分の死によって、その垂れ幕を打ち破り、常に神と出会い、交わりを持つ道を開いてくださったというしるしです。

 

 それが、ヘブライ書10章19,20節に「わたしたちは、イエスの血によって聖所に入れると確信しています。イエスは、垂れ幕、つまり御自分の肉を通って、新しい生きた道をわたしたちのために開いてくださったのです」と語られていることです。だから、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(同22節)というのです。

 

 キリストの豊かな憐れみにより、信仰を通して救われた私たちは、キリストが開かれた新しい生きた道を通って、大胆に神に近づくことが出来ます。神は、私たちの「御父」だからです(18節)。

 

 神が御父ですから、私たちは神の家族です。キリストの平和が支配している家族なのです。それで、私たちはお互いに兄弟姉妹と呼び交わします。そして、私たち神の家族の平和の交わりの中に、主なる神が共にいて下さるのです(マタイ福音書18章20節、詩編133編)。

 

 平和の福音を通して、キリストの命に養われましょう。この福音は、使徒や預言者と呼ばれる伝道者たちによって宣べ伝えられました。彼らの伝道を通して、教会が作られ、キリストを信じる信仰が世界中に広げられて来ました。「神の家族」なる教会が、「使徒や預言者という土台の上に建てられています」(20節)と言われるのは、そのためです。

 

 私たちも、教会の働き、伝道者たちの働きによって、キリストを信じる者、神の家族の一員とされました。ですから、同じようにキリストを必要としている方々に広く福音を宣べ伝え、その恵みを分かち合うキリストの体なる教会、聖なる神殿に、共に建て上げられて参りましょう(21,22節)。

 

 主よ、平和の福音を土台として、キリストの体なる教会を建て上げることが出来ますように。御霊の導きにより、私たちも告げ知らされた福音を聞き、キリストを信じる者となりました。私たちの教会も、伝道する教会となりますように。主の御業を拝し、賛美溢れる教会となりますように。 アーメン

 

 

「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」 エフェソの信徒への手紙3章19節

 

 3章は、使徒パウロの異邦人伝道にかけたその使命を確認し(1~13節)、読者のための執り成しの祈り(14~19節)と頌栄(20~21節)をもって、手紙前半の教理的な部分(1~3章)をまとめ、後半の実践的な部分(4~6章)へとつなぎます。

 

 12節で「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」と言いますが、「神に近づく」というのは、2章18節に既に語られていた、教会の信仰の主要なテーマです。

 

 「近づく」と訳されているのは、「プロサゴーゲー access:接近」という言葉で、エフェソ書に2回、そしてローマ書5章2節に「導き入れられる」(岩波訳「(恵みへと)至る道」)という訳語で用いられています。因みに「神に」という言葉は言語にはなく、文章を分かり易くするために付加されたものです。

 

 「主キリストに結ばれており」というのは「エン・ホー in whom:この方(主キリスト)において、この方の中で」という言葉です。キリストという大きな器の中に入れられているような、主イエスという衣を着せていただいているような状況を思い描きます。

 

 「キリストに対する信仰により」は「ディア・テース・ピステオース・アウトゥー by the faith of him:彼(主キリスト)の信仰によって」という言葉です。これは「キリストの真実のお蔭で」という意味にも、「キリストを信じる信仰によって」という意味にもとれます。その両方の意味を受け止めて、「キリストの真実のゆえに、キリストを信じる信仰に導かれたお蔭で」と読みたいと思います。

 

 キリストの恵みの真実を味わい、キリストを信じる信仰に導かれ、キリストの内に、キリスト共に住まうならば、私たちははっきりとした「確信をもって」生きることが出来るでしょう。その確信があれば、「大胆に、神に近づくことができます」。

 

 パウロはキリストを信じる信仰に導き入れられて、熱心にキリストの福音を宣べ伝えました。その結果、何の不自由もない生活が出来るようになったというのではなく、むしろ、迫害や伝道旅行中に体験した災難など様々な苦労を味わい(第二コリント書11章23節以下)、最後は殉教の死を遂げることになります。

 

 パウロは牢の中で自由を奪われ、苦しめられていながら、死を目前にしていても、その心はキリストに結ばれて、キリストの真実を感じて、ますますはっきりとした確信に導かれていたのです。鎖に縛られ、番兵に囲まれて身動き出来ないような状態に置かれていても、その心は、大胆に神に近づくことが出来て、平安と喜びに包まれていたのです。

 

 ローマ総督やアグリッパ王の前で自分の回心の経験に基づき、キリストによる復活の希望を大胆に語り(使徒言行録26章参照)、ローマ皇帝の面前での裁判を望んでローマ送りにされたパウロですから(同25章11節)、いつでもどこでも誰に対しても、福音を語り続け、常に信仰によって喜び、祈り、感謝していたことでしょう(第一テサロニケ書5章16~18節、使徒言行録16章25節参照)。

 

 14節以下に、この手紙で二つ目の祈りが記されています。これらの祈りを自分のための祈りとして学びたいと思います。「あなたがた」を「わたし」あるいは「自分の名前」と置き換えて読むのです。そのようにして、信仰による祈りを実践的に学びましょう。

 

 16節で「その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて」と聖霊の力を受けること、17節で「心のうちにキリストを住まわせ、愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」とキリストにあって愛の実践者とされること、19節で「神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たされるように」と神の充満を求めるという内容になっています。

 

 愛を知るということについて、18節に「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し」と記されています。ここで、「広さ、長さ、高さ、深さ」は元来、宇宙空間の広がりを表す言い回しでしたが、ここではキリストの愛の無限の広がりを言い表しています。

 

 どんなものも受け入れるという神の愛の広さ、いつまでも愛し続け、顧み続けているという愛の長さ、そして、私たちを清め、天の御国の栄光を授けるという愛の高さ、黄泉にまでくだり福音を伝えられるという愛の深さ、これらは、神の無限の愛から漏れる者など一人もいないということを、明確に示しています。

 

 そして、愛とはそういうものだと知的に理解するのではなく、まるでその愛の対象が自分一人であるかのように、私に注がれてくるものとして、神の愛を味わうことです。冒頭の言葉(19節)で、「人の知識をはるかに超える愛を知るようになり」と言われるのはそのことです。

 

 「神の満ち溢れる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」の原語を直訳すると「神の充満のすべてへと満たされるために(that you may be filled with all the fullness of God)」(岩波訳参照)となります。これは、キリストの愛を知るとは、認識ではなく、キリストにあって神の豊かさの中に浸され、満たされることであると知らされます。

 

 つまり、キリストは私たちを神の豊かさのすべてをもって満たそうと、私たちに愛を注いでおられるのです。放蕩息子たちの父親が、兄息子に「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(ルカ福音書15章31節)と語ります。この言葉を、神はキリストを通して私たち一人一人に語っておられるのです。

 

 私たちが神の充満のすべてに与り、それに満たされるようにという祈りは、私たちのしたい放題のことが出来るようにというものではありません。神のうちに充満しているのは、すべてを受け入れる広い愛、いつまでも変わらない長い愛、そして御国の栄光を授ける高い愛、黄泉にまでくだって私たち罪人に福音を伝える深い愛です。

 

 そしてその愛が私たちに届くように、独り子を私たちの贖いのためにこの世に遣わすという、考えられないほどの愛です。その愛に満たされることが、霊の力を受けて内なる人が強くされることであり、キリストが心の内に住み、愛に根ざし、愛を基とした生活をすることなのです。ここに、三位一体なる神の本質が示されます。「神は愛だからです」(第一ヨハネ書4章8節)。

 

 この祈りをとおして、神の満ち溢れる豊かさのすべてに与り、それによって満たしていただきましょう。

 

 主よ、あなたは私たちの内に働く御力により、私たちが求めたり思ったりすることすべてをはるかに超えてかなえることがお出来になります。教会により、またキリスト・イエスによって、主なる神に栄光が世々限りなくありますように。 アーメン

 

 

「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ。」 エフェソの信徒への手紙4章5節

 

 主を深く知り、キリストの愛に満たされる祈りに導かれた教会に、4章から具体的な信仰の勧めを与えます。その勧めの基本は、「神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み」(1節)と言われていることです。原文に「神から」はありませんが、文脈から意味を考えて敢えて付加されています。

 

 「招き」(クレーシス)は「召し、召命」と訳される言葉です(口語訳など参照)。これは、特定に任務への招き、召しというのではなく、救いに導かれたことを指します。「招きにふさわしく」とは、主イエスの救いに与った者としてということです。それを「招き」というのは、呼び集められて教会を形作るためです。ここに述べられるのは、教会生活上の勧めと言うことになります。

 

 そこで先ず、「一致を保つように努めなさい」(3節)と言われます。キリストの無限に広く、長く、高く、深い愛に根ざし、その愛に基づいて生活する教会が、分裂するはずはないからです。しかし、小さなすれ違いや誤解が分裂の種になります。どうしても馬が合わないという人もいます。

 

 そこで、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保ちなさい」(2,3節)という言葉になるわけです。勿論それは、一致のための一致ではありません。私たちは主イエス・キリストによって贖われ、罪赦されて神の子となり、神の家族としていただいたのです。

 

 私たちが兄弟姉妹の絆で結ばれたのは、神の愛のゆえです(コロサイ3章12節参照)。私たちの内にキリストが住まわれ、永遠の命を与えていただいているのですから、同じ命に生かされている兄弟姉妹が、互いに愛し合うのは当然です。むしろ、喜びです。

 

 表現が適切でないかもしれませんが、私たちは主の命を移植されて生かされた兄弟姉妹なのです。共に主によって生きる者としていただいていることを喜び合う、そのために、謙遜、柔和や寛容、愛を伴う忍耐をもって「平和」に過ごすのです。それは、キリストこそ、平和だからです(2章14節)。それを「霊による一致」というのは、人間的努力で成し遂げることは出来ないということでしょう。

 

 4~6節は、「霊による一致」(3節)を勧告する根拠を示しています。この箇所は初代教会の讃美歌ではないかという注解者がいます。そこで「体は一つ、霊は一つ」(4節)と言い、冒頭の言葉(5節)で「主は一人、信仰は一つ、洗礼(バプテスマ)は一つ」(5節)、そして「すべてのものの父である神は唯一」(6節)。ここに「一つ」が連呼されます。

 

 「体は一つ、霊は一つ」(4節)は、キリストの体としての教会と聖霊の一致を示します。それは、ユダヤ人と異邦人が十字架を通して一つの体とされ(2章16節)、共に神の国を受け継ぐ者となるという「一つの希望にあずかるよう招かれている」(4節)からです。

 

 また、冒頭の言葉を原文で見ると、「一つ」の男性形「ヘイス」、女性形「ミア」、中性形「ヘン」が、「主」(キュリオス:男性形)、「信仰」(ピスティス:女性形)、「洗礼」(バプティスマ:中性形)にあてられています。この用語法で、男も女もユダヤ人もギリシア人も、すべてのものが一つに結ばれていることを(ガラテヤ書3章28節参照)、象徴的に表現しているようです。

 

 6節の「父である神は唯一」の「唯一」は5節で「一人」と訳されているのと同じ「ヘイス」です。それを「唯一」と強調した訳文になっているのは、イスラエルの基本的信仰告白の「我らの神、主は唯一の主である」(申命記6章4節)に合わせたのでしょう。

 

 かくて、4節に聖霊、5節に主イエス・キリスト、6節で父なる神と、三位一体なる神が教会の一致の根拠であるというのです。私たちを愛し、深く憐れんでくださった唯一の神が、私たちのために独り子イエスを遣わし、贖いの業を成し遂げられました。そして、聖霊によって主イエスを信じる信仰に導かれ、そうして私たちは救われました。

 

 洗礼=バプテスマは、私たちが古い自分に死に、主イエスの新しい命の中に浸されたことを象徴するものです(ローマ書6章2,3節参照)。まさしく、唯一の神の愛により、神の独り子、主イエス・キリストを信じる信仰によって、私たちは一つの命につながるものとされたのです。

 

 一つの命につながり、一体となったということは、顔かたちがみんな同じになったということではありません。皆が同じことをしなければならないということでもありません。

 

 顔に目があり、鼻があり、耳があり、口があり、体に手があり、足があり、おなかがあり、背中があるというように、各々の形も機能も違います。私たちは互いに、キリストを頭とする体の一部分(第一コリント12章27節)、キリストを幹とする枝なのです(ヨハネ15章5節)。

 

 互いに違うことを認め、場合によっては馬が合わないことを認め合いながら、しかし、キリストを信じる信仰と聖霊の導きによって主の御業ために協力し合います。祈り合います。助け合います。神の愛と平和がダイナミックに働く教会となるように、主の恵みと聖霊の導きを祈りましょう。

 

 「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです」(ローマ書11章36節)。ハレルヤ!

 

 主よ、私たちは違いが気になります。外面の違いによって一致が阻まれます。どうか目を開かせてください。主イエスを信じる信仰により、同じ命に生かされている兄弟姉妹であることを喜び、平和の絆で結ばれ、聖霊による一致に導いてください。それによって私たちが神の招きに相応しい歩みが出来るようになるためです。栄光が永遠に主にありますように。 アーメン

 

 

「あなたがたは以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。」 エフェソの信徒への手紙5章8節

 

 1節の「神に倣う者となりなさい」と記されている言葉に目が留まりました。「神に倣う」という表現は、聖書中ここにしか出てきません。パウロは、「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」(第一コリント書11章1節、4章16節、フィリピ書3章17節)と語っていました。

 

 ただ、神がどのようなお方であるのか、どのように言葉を発し、行動されているのかなどを知って、そのとおりに生きようと考えるならば、それは、当然のことながら、誰にも出来はしません。神に倣えと語るパウロ自身も失格でしょう。

 

 1節の言葉の直前に「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4章32節)と記されています。神が赦されたように赦し合いなさいという言葉から、「神に倣え」という表現が出て来たと考えてもよさそうです。そこで、「神に倣う」とは、互いに赦し合い、神に愛された子どもとして愛し合うということでしょう。

 

 2節に「キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」とあります。「神に倣え」と語った後で、キリストに倣い、「愛によって歩め」というのですから、「神に倣う」とは、キリストに倣うことであり、キリストに倣うとは、神の愛の内を歩くということになります。

 

 「歩む」は、生活すること、生きることを意味します。パウロは、第一コリント書12章31節で、愛のことを「最高の道」と言いました。最高の道を歩くこと、つまり「愛によって」(エン・アガペー in love)生きることが、キリストに倣うことであり、神に倣う生活であるということになるのです。

 

 私たちの心に神の愛を注がれるのは、聖霊の働きです(ローマ書5章5節)。私たちの祈りに応えて、神は聖霊を通して、神の愛をあふれるほどに豊かに注いでくださいます。この聖霊は、私たちに「アッバ、父よ」と呼ばせる霊であり(同8章15節、ガラテヤ書4章6節)、私たちが神の子として御国を受け継ぐための保証なのです(エフェソ書1章13,14節)。

 

 18節には「霊に満たされなさい」と語られています。聖霊を通して主の御心を悟り、神に愛されている子どもとして歩むために、聖霊に満たされる必要があるのです。神に倣うとは、聖霊に満たされ、その導きに従って生きる生活をするということです。

 

 冒頭の言葉(8節)で「光の子として歩みなさい」を、口語訳は「光の子らしく歩きなさい」と訳しています。「光の子らしく」とは、神に倣わない不従順な者の仲間に引き入れられないようにということです。

 

 「光の子」(テクナ・フォートス)とは、私たちキリストを信じる者のことですが、1節では、「神に愛されている子ども」(テクナ・アガペータ)と記されています。原典に「神に」という言葉はありませんが、文脈からそう訳されています。神に愛されている子どもとして、愛によって生きること、神の愛のうちを歩むことが、光の子として歩むことであると示されます。

 

 3節では「聖なる者」と言われ、聖なる者にふさわしく、色々の汚れた言葉やみだらな冗談を避け、むしろ、感謝を表しなさいと勧めます(4節)。つまり、自分の欲に心奪われず、神の恵みに絶えず目を留め、関心を払い、喜び感謝する生活です。

 

 リビングバイブルは冒頭の言葉を「あなた方の心は以前は暗やみにおおわれていましたが、今は主からの光にあふれています。そのことを態度で示しなさい」と訳しています。「光の子として歩みなさい」を、「そのことを態度で示しなさい」としているわけです。

 

 この訳語について、「幸せなら手を叩こう」の作者・木村利人氏(元早稲田大学教授、元恵泉女学園大学学長)は、「幸せなら態度で示そうよ」の歌詞が 、リビングバイブルの翻訳に影響を与えたのではないかと仰っていました。

 

 木村氏は第二次世界大戦終戦後、早稲田大学の学生として参加したフィリピンでのYMCAワークキャンプで経験したことを、詩編47編2節の「すべての民よ、手を打ち鳴らせ。神に向かって喜び歌い、叫びをあげよ」という言葉を読んで、「幸せなら手を叩こう」を作詞されたそうです。

 

 それは、神によって生かされている平和の「幸せ」を「態度に示して」生きていくようにと、私たちは神によって召されていることをフィリピンの友人たちから教えられ、その感謝と感激の体験を帰国途次の船中で作詞したということでした。

 

 「光の子」に対して、6節に「不従順の者たち」という言葉があります。「者たち」の原語は「子どもたち」です。不従順を「暗闇」と言い、それが以前の私たちの状態だったことを冒頭の言葉は示しています。つまり、神を知らない、主に結ばれていない、不従順な状態を暗闇というわけです。それに対して、神に愛され、主に結ばれた私たちは「光」となっていると言います。

 

 私は、自分が「光」であるとは思っていませんでした。あらためて、聖書は私のことを、光に照らされている者と言っているのではなくて、「光となっている」と語っていることを心に留めます。

 

 これは勿論、私たちが自分で光となれるということではありません。私たちが自分で光を放つことが出来るはずもありません。しかし、「光あれ」と言われて光を生じさせることのお出来になる神が、私に「光となれ」と仰せになれば、私は光となるのです。

 

 光は、自分自身が光であることを認識していなくても良いかもしれません。光の役割は、自分で自分の輝きを認識することではなく、周りを照らして明るくすることです。ただ、人の目を幻惑するほどの強い光はかえって迷惑です。

 

 雨の降る闇夜の山道を歩いたことがあります。全く光が見えず、這うようにして通った場所もありました。一人で本当に心細くなりました。そろそろと進んでいくうち、遠くにぽつんと窓の灯りが見えたとき、これでなんとか無事に家に帰れると、嬉しくなったことを思い出します。その家の人は、私がその窓の光で元気づいたことを知りません。しかし、私にとってそれは、確かな道しるべでした。

 

 神は、私たちが神に愛されている者として愛によって生きているとき、あるいはまた、聖なる者として神の恵みに注目し、感謝して歩んでいるとき、私たちを「光」として用いてくださっているのです。

 

 誰が見ているかは分かりません。どのように用いられているかも分かりません。しかし、その光を通して、「あらゆる善意と正義と真実とが生じる」と言われます。主を信じ、主を愛して進んで参りましょう。

 

 主よ、あなたは、以前は暗闇であった私たちを「光の子」と呼び、光としてくださいました。光の子にふさわしく、聖霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、あなたに向かって心からほめ歌うことが出来ますように。そして、いつも、あらゆることについて、あなたに感謝することが出来ますように。 アーメン

 

 

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。」 エフェソの信徒への手紙6章11節

 

 エフェソ書の手紙の最後に、「悪と戦え」という小見出しのつけられた段落(10~20節)があります。その戦いとは、冒頭の言葉(11節)に「悪魔の策略に対抗して立つ」とありますし、12節では「血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」と記されています。

 

 信仰の戦いの相手は、どこの誰とかいう特定の人物などではありません。無論、犬や蛇などといった類の動物でもないのです。「悪魔 the devil」、「暗闇の世界の支配者 the rulers of the darkness of this world」について、2章2節に「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊」と記されていました。

 

 悪魔は、悪魔という顔や姿形をし、あるいは悪魔という名札をつけて、私たちに近づいて来るわけではありません。「悪魔の策略」と言われるように、私たちを主なる神から遠ざけて背かせるため、様々な策を弄して滅びを招くようにするということです。

 

 悪魔の策略に陥らず、暗闇の世界の支配者に対抗するため、冒頭の言葉(11節)のとおり「神の武具を身に着け」ましょう。それは、「真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け」(14節)、「平和の福音を告げる準備を履物とし」(15節)、「信仰を盾として取り」(16節)、「救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取」(17節)ることです。

 

 「武具」と言われていますが、真理や正義、平和の福音、信仰、救いは、主イエスを信じる信仰によって与えられるもの、主イエスに結ばれ、主イエスの内に、主イエスと共に生きる私たちに備えられるものであり、それゆえそれは、人を傷つけ、人を害するものなどではありません。

 

 「身に着ける」ということについて、4章23,24節に「心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」とありました。これは同21節の「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスのうちにあるとおりに学んだはずです」を受けて語られています。

 

 同23節の「あなたがたの心の底から」は、「心の霊において」(新改訳)という言葉です。この霊は、私たちのうちに住まわれる「神の霊」と考えられるので、岩波訳のように「あなたがたの思念〔を規定する神〕の霊でもって新しくされ」と訳すほうがよいのではないかと思われます。即ち、私たちを新しくするのは、神の霊の働きだということです。

 

 同24節の「新しい人を身に着け」は、不定過去時制・受身形です。ですから、「新しい人を身に着けさせられた」ということになります。つまり、「これから新しい人を身に着けなさい」と言っているのではないのです。そうではなく、福音を聞いてキリストを信じたとき、新しい人を着せていただいたことを学んだはずだ、それを思い起こしなさいと言われているのです。

 

 これは、同22節の「古い人を脱ぎ捨て」も文法的に同じ形で、古い人を脱ぎ捨てさせられ、新しい人を着せられたということを学んだはずだということになります。バプテスマによって古い自分に死に、キリストに結ばれて新しい命、新しい人生が始まったことを、古い人を脱ぎ捨て、新しい人を着せていただいたと表現しているのです(ローマ書6章3,4,8,11節参照)。

 

 また、この「新しい人」は、「神にかたどって造られた」(4章24節)者です。創世記1章によれば、すべての人が神にかたどって造られました。しかし、人は「情欲に迷わされ、滅びに向かって」(4章23節)しまいます。そこで神は、「真理に基づいた正しく清い生活を送るように」(同24節)キリストに結ばれ、キリストと共に生きるように新しく造ってくださったのです。

 

 武具のリストの最後に、「祈り」を加えます(18節以下)。祈りこそ、私たちに与えられた最強の武器です。祈りを通して主の御心に触れ、主の御腕を動かし、それによって悪魔の策略を打ち砕くことが出来るのです。

 

 以前、こういう話を聞きました。それは、牧師がある方の家を訪ねたところ、お孫さんが誤って階段を転げ落ちたそうです。そのときお嫁さんが「イエス様、イエス様、イエス様、イエス様」と叫びながら降りてこられたというのです。幸い、お孫さんに大事はなかったそうですが、そのときのお嫁さんの「イエス様、イエス様」という叫び声に感心されたという話です。

 

 危急のとき、とっさのときには、常日頃考えていること、習慣化しているものが飛び出してくるでしょう。そんなとき、自分ならどうするでしょうか。「きゃー」とか「お母さん」などと叫ぶのでしょうか。ただおろおろするだけかもしれませんね。

 

 そのお嫁さんは、常日頃から「イエス様、イエス様」と主イエスを呼び求めること、主イエスと交わることを大切にしておられるので、子どもの一大事に「イエス様」と呼ばれたわけです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ書10章13節)というので、その叫び声で坊やが守られたのかもしれません。

 

 これは、出来れば身に着けたい、よい習慣だと思いませんか。今日から実行してみましょう。そのようにして常に主イエスを信じ、主を見上げ、確信をもって大胆に神に近づかせていただきましょう。

 

 主よ、私たちに憐れみと祈りの霊を注いでください。祈りを通して、絶えず私たちを真の悔い改めに導き、御言葉に従う従順な心を与えてください。主の御心を深く知ることが出来ますように。どんなときにも信仰をもって御前に祈り、主に依り頼みます。あなたの偉大な力によって力づけてくださり、信仰にしっかり立つことが出来るように導いてください。 アーメン

 

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2014年8月6日サイト開設