今日の御言葉

 

「そこで、ユダは銀貨を神殿に投げ込んで立ち去り、首をつって死んだ。」 マタイによる福音書27章5節

 

 3節に「イエスを裏切ったユダは、イエスに有罪の判決が降ったのを知って後悔し、銀貨三十枚を祭司長たちや長老たちに返そうとして」とあります。これは、イスカリオテのユダの自殺について報告する段落の初めの言葉です。4つの福音書の中で、ユダの自殺を報告しているのは、マタイだけです。使徒言行録は、神の呪いを受けて命を落としたように表現しています(同1章18節参照)。

 

 イスカリオテのユダがなぜイエスを裏切り、祭司長たちに売り渡したのかということについて、銀貨30枚が欲しかったからというのが(26章14節以下参照)、一番分かりやすい理由の説明です。銀貨30枚は、出エジプト記21章32節によれば、奴隷一人の値段でした。 

 

 ヨハネ福音書12章6節に、ユダは金入れを預かっており、そして、その中身をごまかしていたと記されています。金銭に関係する誘惑から完全に自由な人はいません。ですから、誘惑に陥らないように自らを律していかなければなりません。

 

 しかし、主イエスに有罪判決が出たことを知って、ユダは後悔しました。「後悔する」とは「心を変える」(メタメロマイ)という言葉で、ユダはそのとき、主イエスに有罪判決が降るなどとは、考えていなかったのです。ユダは祭司長たちにイエスの身柄を引き渡す協力をしましたが、取り調べを受けて無罪放免になるはずと思っていたのでしょう。

 

 ところが、ユダが考えていたようには、ことは進みませんでした。むしろ、思いもしない方向へ転がり出してしまったのです。それで、自責の念に駆られたのでしょう。受け取った銀貨三十枚を祭司長、律法学者たちに返そうとして(3節)、「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(4節)と言います。

 

 これは、二つの裁判を行ってくれるようにという申し立てです。一つは、主イエスの裁判のやり直しを求めるものです。主イエスは、罪を犯したことのない方なのだから、有罪になるのはおかしい。自分は主イエスを祭司長たちに売り渡したけれども、主イエスが罪のない方であることをよく知っているというわけです。ですから、裁判をやり直して、主イエスを無罪放免して欲しいというわけです。

 

 そしてもう一つは、ユダ自身を裁く裁判です。ユダは、主イエスが無罪であることを知りながら、主イエスを売り渡すようなことをしました。だから、お金に目がくらんで罪のない方を罪に定めるよう手引きしたユダ自身の罪を裁くようにと求めるのです。

 

 しかし、祭司長、律法学者たちは、主イエスの裁判をやり直すことも、そしてユダのための裁判をすることも、「(それは)我々の知ったことではない。お前の問題だ」(4節)といってはねつけます。祭司長たちは、主イエスを亡き者にしようとしか考えていないのです。そのために、ユダが利用されたのです。

 

 取り返しのつかないことをしたと悟ったユダは、祭司長たちによる裁判を待つまでもなく、自らに死罪を課し、首をつって死んでしまいました。これより千年ほど前、ダビデを裏切ってその子アブサロムの軍師となったアヒトフェルが、首をつって死にました(サムエル記下17章23節)。

 

 アヒトフェルは、ダビデの護衛兵エリアムの父であり(同23章34節)、ダビデの妻となったバト・シェバの祖父でもあります(同11章3節)。ところが、アブサロムが父ダビデに反逆した時、ダビデの顧問であったアヒトフェルがアブサロムの側についたのです(同15章12節)。

 

 アヒトフェルがアブサロムに授ける策はとても優れていて、「神託のように受け取られていた」(同16章23節)と言われています。ところが、いよいよダビデを追い詰め、その首を上げるというところで、アヒトフェルの優れた提案が退けられ、密かにダビデと通じているアルキ人フシャイの策が入れられてしまいます。

 

 その背後に主の計らいがあったと、同17章14節に記されています。自分の提案が入れられなかったことを知ったアヒトフェルは、前述のとおり、首をつって死んでしまいました(同17章23節)。ダビデを討つチャンスをみすみす逃し、体制を整えて反撃される暇をダビデに提供するアブサロムに失望したのでしょう。 

 

 主イエスを裏切った弟子の最期を、預言の成就というかたちで描いているのは(9節、エレミヤ書32章9,20,25節、ゼカリヤ書11章12,13節参照)、それゆえにユダには罪がないなどと言いたいのではありません。むしろ、この出来事がいかに歴史的に重大な事件であるのかということを示しているのです。

 

 けれども、この問題の重大さは、自分で自分に判決を下し、処刑したというところにあります。勿論、ユダの心情は察して余りあるものがあります。主イエスを裏切って後悔したということでは、主イエスを三度否んだペトロも同様です(26章69節以下)。けれどもペトロは、自分で自分の罪を償おうとしませんでした。イエスを捨てて逃げ去った他の弟子たちも同様です。

 

 ただ、自分の振る舞いについて完全に責任のとれる者などいません。自分の命を絶つことは、自分の罪の償いにはなりません。命は主なる神のもので、私たちが自分で思うようにしてよい代物ではないからです。罪を償うつもりで命を絶った者は、それが最大の罪であることを思い知ることになるのではないでしょうか。

 

 ペトロら11人の使徒たちはこの後、ユダの代りにマティアを加えて12人となり(使徒言行録1章21節以下、26節)、エルサレムの教会の柱として立てられて行きます(ガラテヤ書2章9節参照)。ここに救いがあります。キリストが私たちの罪を身に負い、贖いの供え物として死んでくださったのです(ローマ書3章24,25節、5章6節以下)。

 

 神の御子キリストの贖いのゆえに、私たちの罪が赦されました。永遠の命が授けられました。神の子となる資格が与えられました。キリストにあって新しく創られた者となりました。すべてが主の深い憐れみのゆえ、豊かな恵みのゆえです。 

 

 神の恵みによって救いに与った者として、委ねられている知恵、力、賜物を主の御業のために用いるべく、主の御教えに耳を傾けましょう。聖霊の導きに従いましょう。

 

 天のお父様、私たちを試みに合わせず、悪しきものから絶えず救い出してください。弱く小さな私たちですが、あなたの御言葉に日々耳を傾けます。聖霊によって御心を弁えさせてください。耳の開かれた者、心の開かれた者としてください。主イエスの導きに対し、常に感謝と喜びをもってお従いすることが出来ますように。 アーメン

 

 

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